『近現代詩歌 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集29)』 (河出書房新社) 池澤 夏樹/穂村 弘/小澤 實 著

  • 2016.10.09 Sunday
  • 08:32

『近現代詩歌 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集29)』 (河出書房新社)

  池澤 夏樹/穂村 弘/小澤 實  著

   ⭐⭐

   個人編集とは個人的編集という意味?

 

 

近現代日本の代表的な詩と短歌と俳句をまとめた一冊です。
それぞれ詩は池澤夏樹、短歌は穂村弘、俳句は小澤實が選んでいます。

一冊で重要な詩人、歌人、俳人をおさえることができるのは魅力的ですが、
この一冊にある程度の網羅性が要求されるため、
誰のどの作品を選ぶかということについては、苦労があったと思います。

人によっては「なぜ宮沢賢治や吉増剛造の詩が入ってないのか」とか、
「鶴見俊輔って詩人なの?」とか、
「加藤郁乎を入れてほしかった」(これは僕個人の要望ですが)とか、
本書のラインナップに対していろいろな意見があるのは避けられないでしょうが、
それを含めてこのような本の楽しみだと僕は思っています。

しかし、僕が本書を買う気が起こらなかったのは、
選ばれた詩の中に池澤夏樹自身の詩と父の福永武彦の詩がしれっと入っていたためです。
本書は池澤夏樹の「個人編集」となっていますが、
それって個人の責任で編集しているという意味ですよね?
個人的な事情での編集という意味ではありませんよね?

僕個人は福永武彦の小説は好きですし(レビューも書いてます)、
学生時代に読みあさって全集所収の詩も読みました。
しかし、ここに選ぶような詩人であるかどうかについては疑問が残ります。
まして、池澤夏樹本人に関しては選ばれるに「ふさわしくない」と感じます。
(池澤夏樹の代表作など思いつきませんし、詩を書いていたことも知りませんでした)

穂村弘や小澤實が自身を選ぶのなら納得できるところがありますが、
その二人が自分を選んでいないにもかかわらず、
池澤夏樹が自分の詩を選ぶのはどうにも納得できません。
僕には池澤が編集者という権限を私物化したようにしか思えませんでした。

穂村や小澤がそのようなことをしないのに、池澤だけがそういうことをするのは、
詩が「他人の畑」だから踏み荒らしても構わないとでも思っているからでしょうか。
河出書房もこのようなことを容認すべきではなかったと思います。

 

 

 

『江戸俳句百の笑い』 (コールサック) 復本 一郎 著

  • 2016.08.20 Saturday
  • 20:17

『江戸俳句百の笑い』 (コールサック)

  復本 一郎 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   圧倒的にお買い得

 

 

近世・近代俳句の研究者として著名な復本一郎の10年にわたる雑誌の連載をまとめた本です。
初期俳諧から芭蕉・蕪村・一茶・井月に至る江戸俳句を、
「笑い」という視点からどう読むべきかを丁寧に解説してくれます。

全部で100話あるのですが、1話が3ページ程度なので、
僕は数話ずつトイレで日数をかけて読み終えました。
(復本さん、こんな読み方ですみません)
とはいえ、一気に読むにはページ数以上に内容が濃厚でもあるのです。

本書によって江戸俳句の滑稽性について堪能できるのはもちろん、
俳句史における俳句表現の発展をたどる楽しみも享受することができます。

和歌連歌のみやびな風流さに対して、
性的な下卑た感覚や庶民的なパロディで笑いを誘うことにはじまり、
芭蕉が漢詩に依拠しつつ和歌に依存した表現を脱する試みをし、
蕪村や一茶が自らの心境を先人俳句に照らして表現していくことで、
他を参照して成立した座の文芸が個人の心境を表現する形式へと成熟する過程を、
本書を通して読むことによってつぶさに知ることができます。

これだけの内容なのに良心価格なのでお買い得です。
製本もしっかりしていて、コールサック社のがんばりにも敬服しました。

 

 

 

評価:
復本 一郎
コールサック社
¥ 1,620
(2014-06-20)

「第六回 田中裕明賞」 (ふらんす堂)

  • 2016.05.15 Sunday
  • 07:55

「第六回 田中裕明賞」 (ふらんす堂)

 

 

   ⭐⭐⭐

   次回からは「四ッ谷龍賞」を一人でやった方がいい

 

 

田中裕明賞は俳句界に新風を送り込む新人賞というイメージですが、
その審査の透明性には特筆すべきものがあると思っています。
石田郷子、小川軽舟、岸本尚毅、四ッ谷龍の各氏が候補作の中から、
1〜3位を決めてそれぞれに3〜1点を割り振って点数をつけていきます。
その結果をもとに論議して受賞者を決めるのですが、
その選考会の様子が対談のかたちで冊子として読めるのです。
なかなかそのような賞はないので、非常に良いことだと思います。

しかし、審査の過程が透明であることと審査そのものが透明に行われていることは別だと思います。
本書に対応する第六回とこの前発表された第七回の選考結果を見ると、
ある選考委員が「ゴリ推し」とも取れる力の入れようで結果を思い通りにしようとしているのではないか、
という疑問が拭い去れません。

第六回田中裕明賞の受賞作は鴇田智哉『凧と円柱』でした。
僕もこの作品が受賞すると思っていたので結果に疑問はないのですが、選考委員の得点の内訳を見てみると、
石田2位(2点)、小川2位(2点)、岸本2位(2点)、四ッ谷1位(3点)
となっていて、1位に推したのは四ッ谷だけという結果でした。

ちなみに次は佐藤文香『君に目があり見開かれ』と鶴岡香苗『青鳥』でしたが、佐藤の句集の得点は、
石田3位(1点)、小川1位(3点)、岸本1位(3点)、四ッ谷圏外(0点)
となっているので、実は1位に挙げた選考委員が二人もいます。
つまり、四ッ谷がいなければ鴇田6点、佐藤7点と違う結果も考えられたのです。

そうなると、四ッ谷が佐藤の句集に点を入れなかったことが気になります。
そこで四ッ谷の佐藤句集の評価を読んでみたところ、「ここまでけなすか?」という内容に驚きました。

四ッ谷が佐藤の句集を批判した内容をまとめると、
一句が俳句として完結せず読者に投げている、
書き手の主観が出過ぎて短歌的である、
という感じなのですが、「これは俳句ではないと思いますね」という強い否定が新人に向けて選考委員が言うべき台詞なのか疑問でした。
おまけに二人の選考委員が1位にしているのですから、「俳句ではない」という排他的な物言いは彼らにも失礼でしょう。

また、四ッ谷の批判が他の選考委員を全く納得させていないことも問題です。
四ッ谷が佐藤の句を作者本人しかわからないと批判したところ、
石田は「私もわかった」とその意見を否定していますし、
小川は四ッ谷の短歌的で七七をつけたくなるという批判に、
「決して七七を求めて間延びしたんではなくて、
五七五の意味をもう一度考えるための破調かなあというふうに
私は好意的に読みました」と同意していません。

四ッ谷の佐藤の句に対しての分析については理解できなくはないのですが、
そのような俳句観とはじめから違うところで勝負しようとしている佐藤に対して、
端っから理解しようという気のない読み方だと感じました。
選考委員なのですから、自分の俳句観に合うか合わないかで審査するのは狭量すぎる気がします。

このように四ッ谷は気に入らない句集に対して厳しいのですが、
自分が推している句集に関しては意外と甘かったりします。
主観というなら鴇田智哉の句にも言えるところはあります。
僕は『凧と円柱』のレビューで鴇田は助詞の操作によって、原風景を主観的に描き直していると批判しましたが、
四ッ谷は「確かに「の」を良く使うんですよ。「の」とか「に」とか。
この問題については議論の余地があるでしょうね」
と発言するだけで、実際に議論もなされず、鴇田の助詞の操作が主観の拡大作用であることに関しては指摘することができていません。
俳句をやらない僕でも指摘できることを批判的に考察しようとしないのは、
結局は好き嫌いで判断しているだけではないかと疑います。

僕は『凧と円柱』のレビューで、鴇田の俳句を言語操作でパターン化した「金太郎飴」と評しましたが、
小川も「何か意味を抜いたりずらしたりっている手の内が見えてくると、
あっこれはパターンだなと思ってしまう部分もあるんですけれど」と指摘しています。
もちろん四ッ谷は鴇田のこのような面には触れようとしません。
自分が推す句集には批判的視座がまったく欠けてしまうのです。

とはいえ、鴇田智哉の『凧と円柱』が最高点をつけた句集なので、
これが受賞するのは正当だと思います。
しかし、第七回の結果は看過できない問題があるように感じました。

当欄は第六回田中裕明賞のレビュー欄なので、第七回の結果について書くのは逸脱行為かもしれませんが、
第七回の冊子が出てから問題にするのでは遅すぎると感じたので、
抗議の意味を込めてあえてここに書かせていただきます。

第七回田中裕明賞は北大路翼『天使の涎』に決まりました。
しかし、ふらんす堂のホームページを見ていると、過去に例のない事態が起こっています。
北大路の句集は最高点を獲得してはいないのです。

最高点を獲得したのは村上鞆彦の『遅日の岸』で、
石田1位(3点)、小川1位(3点)、岸本2位(2点)、四ッ谷圏外(0点)
ですが、対する受賞作の北大路翼『天使の涎』の得点は、
石田3位(1点)、小川2位(2点)、岸本圏外(0点)、四ッ谷1位(3点)
なので、村上8点と北大路6点とその差は2点であるように見えますが、
四ッ谷以外の三人だけを考えると、村上8点、北大路3点と大差がつきますし、
四ッ谷以外の三人全員が北大路より村上の評価を上にしています。

もちろん必ずしも点数で受賞作を決める必要はないと僕も思いますが、
この点数の内訳を見れば、四ッ谷一人しか村上の受賞に反対する人間はいないことがわかります。
つまり、四ッ谷一人が他の選考委員の意見を考慮せずに北大路の作品を受賞作に「ゴリ押し」したと考えられるわけです。
これは僕の勝手な推測ではありません。
小川軽舟の「選考委員の言葉」を読むとそのことが確認できます。

  『天使の涎』が受賞することには異存なかったが、『遅日の岸』
 は問題が多く受賞に値しないとの四ッ谷氏の意見には賛成できず、
 田中裕明賞の選考会では初めて最終的に多数決で受賞作を決めるこ
 とになった。

たしかに、『遅日の岸』はすでに俳人協会新人賞を受賞していますし、
伝統的な作風が田中裕明賞には物足りないという意見はわかりますが、
津川絵理子のときにそんな話は出ませんでしたし、
何よりも、自分が評価する作品に受賞させたいからといって、
最高点をつけた句集を「問題が多く受賞に値しない」などと貶める方向で引きずり落とすというのは、
いくら選考委員であってもやりすぎではないでしょうか?

四ッ谷は「選考委員の言葉」で村上の句の「情景描写に主観が入り込むところなど共感できぬ部分があり」と書いていますが、
作品なのですから主観が入り込むのはある程度避けられないので、そのことだけで問題になるはずはありません。
そこにネガティブな評価を下すのは、自分が「共感」できないことが大きいのでしょう。
つまり、本質的な問題は四ッ谷が村上の句に「共感できぬ」ということなのです。
作品に対して「共感」できるかできないかは大事なことではありますが、
「共感できぬ」という理由で作品に受賞の価値がないとまで主張するのは、
もはや選考者の態度を逸脱していると言わざるをえないと思います。

総じて選考会での四ッ谷の態度には専制的な面が見られるのですが、
生前の田中裕明とのつきあいによって特別な後押しでもあるのでしょうか?
他の選考委員の評価に耳を傾けないのは、何か自分が特別だ(自分こそが田中裕明を理解している!)という意識があるのでしょう。
四ッ谷は俳句に主観が入ることにやたら批判的ですが、
自分の選考基準が度を超えて主観的であることにも批判的視座を持っていただきたいものです。
(主観的でなければ、他の選考委員を納得させられるはずですしね)

俳句界の内輪主義にはずっとウンザリさせられているのですが、
生前のつきあいがある種の「権力」のように作用するのであれば問題です。
俳句の評価について独断を押し通したければ、田中裕明の名に頼らず、
自ら「四ッ谷龍賞」を開設するのが筋だと思います。
僕のように言葉ひとつでものを申している人間からすると、
知人の権威を利用して持論を声高に語る人間は甘えているようにしか見えません。

 

 

 

『句集 遅日の岸』 (ふらんす堂) 村上 鞆彦 著

  • 2015.12.06 Sunday
  • 08:46

『句集 遅日の岸』 (ふらんす堂)

  村上 鞆彦 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   伝統への執着が新たな可能性を生む

 

 

有季定型に頑固なこだわりを持つ村上鞆彦の待望の初句集である。
1997年から2014年までの作品が年代順に並べられており、
俳句を始めた十代らしい爽やかな青春期の句から、
人間的な成熟度を増した三十代の句までが一冊で堪能できる。

風景の観察に基づいて自意識を抑えた村上の俳句を
単に「伝統派」と言ってすませるのでは簡単すぎるだろう。
たとえ村上自身が伝統的であることを熱望していたとしても、
彼の俳句にも時代の刻印を見出さずにはいられない。

どこから分析を始めたら良いか難しいところなのだが、
まず、村上が伝統的と言われるところから確認しよう。
多くの句が花鳥諷詠、客観写生を旨としているのは事実だ。

 水の面に蜂の垂り足触れにけり
 日盛りのぴしと地を打つ鳥の糞

このような精密な観察によって得られた句や、

 石ころは常の貌して花明り
 切株の根の生きてゐる霙かな

対象の表現によって自分の感受性を控えめに示す句など、
オーソドックスで見慣れた俳句という印象はある。
しかし、どこか村上の句には凜としたさわやかさがある。
言うならば確固とした主体の意志が感じられるのだ。

俳句には「諧謔」とか「軽み」とか、気取らない面があるはずだが、
村上の句は「見る」ことへの強い意志に貫かれている。
「揺らぎ」を情景として描いた句を見てみよう。

 夜桜と同じ揺らぎに佇ちにけり
 万緑やどの木ともなく揺れはじむ
 鴨撃つて揺るる日輪水にあり
 さざなみに森のいろ揺れ未草
 人ごゑに揺れ梅雨明けの水たまり

「揺らぎ」もしくは曖昧化というモチーフは珍しいとはいえないが、
わりと多い気がするので、眩暈の感覚には興味があるのだろう。
このように曖昧なものを表現するときにも、
村上は対象にこそ「揺らぎ」を見出しはするが、
「見る」主体はそこから距離を取って確固として存在している。
曖昧さに関しては鴇田智也と比較してみると面白い。
鴇田が対象を内面化して言語的な「揺らぎ」を生み出して主体を透明化するのに対し、
村上は対象そのものに「揺らぎ」を見出して主体が確固としている点で異なるのである。

対照的な鴇田と村上に共通する要素もある。
それは、どちらも身体性が乏しいということである。
鴇田は身体の透明化によって自意識に適った世界を制作するが、
村上は身体の後退によって対象を浮かび上がらせようとする。

どちらも俳句から自己の身体を遠ざける強い動機を持っているが、
鴇田は自意識で世界を覆うためであり、
村上は対象を活かそうとするためであるが、
結果としてどちらも主体に身体の不在を刻印してしまっている。
鴇田は主体を意識へと引きつけるが、
村上は対象の実在性のために主体を引きはがす。
一見正反対だが、主体のあり方としては共通する現代的な課題がある。

村上は句に対象だけが立ち上がることを意図している。
対象へ没入しようとする努力も見られる。
彼の対象への愛(ひいては俳句への愛)は疑うべくもない。
しかし、彼の句には見る主体と見られる対象との「距離」が、
現代の病として確固として存在し続けている。

このような主体と対象の分裂を一致させようとすると、
西田幾多郎や大森莊藏などのポストモダン的な発想に至るわけだが、
私は対象(物自体)を保存する近代的なあり方を非俳句的として、
退けたいとは思わない。
むしろ鴇田のように俳句的な曖昧な主体を「偽装」するために、
言語操作によって主体と対象を心象的に一元化する方が罪が深い。

対象への距離が明確なだけに、
村上の句には前景と後景を描き分けた句が目立つ。
先行するものと後からくるものを描き分けたものもある。

 枯山のうしろの空の雪の山
 麦青し海もろともに波立ちて
 落ち葉飛ぶなかを遅れて新聞紙
 蝉の木のうしろ一切夕茜

確固とした主体の位置が対象との距離感を明確にしてしまう。
そこには「芋の露連山影を正しうす」(飯田蛇笏)のような、
距離感のめまいを起こさせるような人間への無関心がない。
村上はたぶん読者に優しい俳人なのだろう。
主体が確固としているほど読者と情景を共有することが容易になる。

村上の句の現代的な達成として特筆すべきは、
相対的な「距離」を描くことで時間の流れを描いていることである。

 遠見の木別の時間の雪降れり

ここでは距離の隔たりがそのまま時間として把握されている。
私が鴇田よりも村上を評価するのは、この点においてである。
鴇田のような対象を心象へと交換する均質化は、
距離とともに時差が消失したネット時代におもねることになる。
(その意味で鴇田と村上の両方を評価する態度に批評性はない)

しかし、村上は「見る」主体から対象を敢然と切り離し、
その距離を視覚化することで時間を取り戻す。
対象と主体との確固とした距離が、時間を描くことを可能にするのである。
そこで注目したいのは、村上の描く情景の持続性である。

 振り消してマッチの匂ふ秋の雨
 鯉病めり雪はひたすら水に消え
 流れつつ群れを解く雲日短か
 水尾消えてまたさざなみの小春かな

一瞬の光景を切り取る「写生」を写真にたとえるなら、
村上の描く光景には時間の流れがあり、動画的といえる。
写真と動画の境界が揺らぐような描き方というべきか。
iPhone6sで撮影した写真(Live Photos)は動画にもなるらしいが、
動画的な「写生」はまさに現代的といえよう。

時代の変化によって作品にも不可逆な変化があるとしたら、
失ったものより新たに獲得したものを考えるべきかもしれない。
伝統派と言ってすませてしまう態度からは何も得るものはないのである。

 

 

 

評価:
村上 鞆彦
ふらんす堂
¥ 2,700
(2015-05-01)

『その眼、俳人につき―正岡子規、高浜虚子から平成まで』 (邑書林) 青木 亮人 著

  • 2015.07.23 Thursday
  • 15:53

『その眼、俳人につき―正岡子規、高浜虚子から平成まで』

  (邑書林)

  青木 亮人 著 

   ⭐⭐

   その眼鏡、倒錯につき

 

 

明治の正岡子規や俳諧宗匠からはじまり、
平成の井上弘美や関悦史まで、数々の俳人を取り上げた小論の集成です。
たいていの論は核心に迫ることもなく、エッセイのレベルで終わりますが、
それは紙幅が少ないからというより、青木の視野の狭さに問題があると感じます。

冒頭では「総論」と銘打って、
小説の描写と俳句のそれとを比較して俳句の独自性をあぶりだそうとしています。
俳句は小説に比べて情報量が少ないとか余白が大きいとか
非常に月並な指摘で終わっているため、
余白が小説より相対的に大きいという話で終わります。

これでは「なんだ、程度の問題なのか」ということになってしまいます。
青木はなぜか小説の描写の例を村上春樹の「アフターダーク」に限っているのですが、
例えばベケットのような余白の大きい小説は俳句に近いことになりかねません。
情報量を問題にするのは、青木が小説を矮小化して把握しているからだといえます。
(そもそも小説=村上春樹では大衆的すぎますよ)

もし俳句と小説の描写を比較するならば、
コンテクストの有無を取り上げないわけにはいかないと思います。

小説の描写には情報量の多いものも少ないものもありますが、
総じて言えることは、コンテクストを構成しないものはないということです。
描写の連続がコンテクストを生成していくのが小説の特徴ですが、
俳句の描写は字数に制限があるため、コンテクストの生成は簡単に頓挫します。
コンテクストに頼れない分、季感がそれを補う役割をするわけです。

平安文学を読んでみればわかることですが、
ほぼ顔見知りの間でしか文章のやりとりをしない前提で書かれたものは、
文章上でのコンテクストの生成に対して消極的です。
簡単に言えば、「説明しなくてもわかるでしょ」という文化がどうしても残ります。
私信でもある和歌はその延長にありましたし、俳句にもその要素が残っています。
山本健吉が「挨拶」とか「座」とか言うのは、俳句のそのような面のことでしょう。

そういえば、僕が週刊俳句で関悦史の文章を「気持ち悪い」と批判したところ、
高山れおな(男性)に彼のことを直接知らないのに文句を言うな、と排撃されました。
このように俳人が「顔見知り」であることに特別な価値を認めるのは、
俳句の解釈に「顔見知り性」が重要だと俳人自体が無意識に認めている証拠ではないでしょうか。

これはなにも否定的な面ばかりではありません。
俳句が結社のような「顔見知り性」によって維持されてきたのは周知の事実ですし、
その意味は反近代的であっても、高く評価すべきものではあると思うのです。
(ただ、関や高山のようなテクスト主義を標榜している奴が、
都合が悪くなると「顔見知り性」を振り回す二枚舌にはあきれますが)

書かれたものがコンテクストの生成を目的としているか否かが、
小説と俳句の違いを考える時には重要だと思います。
俳句は季感というコンテクストが安全弁として前提とされているため、
「描写(とあえて言うが)」がコンテクストの生成から自由であることができるのです。
だから、俳句の「描写」は描写であって描写ではないのです。

しかし、若手の論客などは子規の「写生」という概念を普遍化して受け取りすぎて、
俳句の描写を近代的(横光利一的)なカメラ・アイのように処理するケースが目立ちます。
「写生」を近代的な「描写」と考えることは、
反近代的な要素を持つ「ホトトギス」的な文化の本質を見誤ることにつながります。
(もちろん「顔見知り性」はそのような反近代性のひとつです)
青木もそのような倒錯者の一人と言えると思うので、ここに書かせてもらいました。

また、本書の帯に「明治月並宗匠の再評価を目論む」とあるように、
青木は正岡子規の俳句革新運動の背後で評価を落とした、
基角堂永機や春秋庵幹雄の俳句をそう悪くないと擁護します。

青木は「明治俳句の「旧派・月並」具合を公平に分析した論考はほぼ存在しなかった」と書いています。
僕が知る限りでは、『新俳句講座【3】』(明治書院)所収の、
加藤楸邨が書いた「明治俳句史(上)」に月並俳句の分析があります。
(これを青木が「公平」と感じるかは僕にはわかりませんが)

それから、子規の月並宗匠批判は単に俳句作品の鑑賞だけでは説明できないと思います。
宗匠というのは、俳句の採点料である「点科」によって収入を得ていた存在です。
そのような点取文化が俳句の大衆迎合を加速させ、堕落させていることに、
子規が反発したという面は無視できません。

しかし、青木は明治の宗匠たちが点科を生活の糧としていたことを書いていません。
こういう事実に触れないで、「公平」な再評価などできるのでしょうか。

現代の我々からすると子規の業績は自明なものです。
それを前提として認識を構成すると、
むしろ月並宗匠がマイナーな存在として立ち現れます。
研究者は今まで誰も触れなかったものを取り上げることにインセンティブが働くので、
影の存在である月並宗匠を取り上げて研究成果としたくなるわけです。
言ってしまえば隙間産業というやつです。

しかし、文学研究はベンチャー企業ではないのです。
マイナーなものを掘り起こせば研究職ポストは守れるかもしれませんが、
その文学的意義に関しては「公平」に見て限りなく低いと言わざるをえません。

総じて、青木の文章は趣味人のそれでしかなく、
批評的とも専門的とも感じられませんでした。
ただ、関悦史の俳句がラノベなどの「セカイ系」と本質的に類似している、
という分析だけは非常に納得できるものでした。

 

 

 

『亀裂のオントロギー』 (思潮社) 岸田 将幸 著

  • 2015.05.26 Tuesday
  • 22:08

『亀裂のオントロギー』 (思潮社)

  岸田 将幸 著

 

   ⭐

   中途半端な否定感情はモノローグに帰結する

 

 

第6回鮎川信夫賞に選ばれた詩集だが、
私はその選考に疑問を感じないではいられなかった。

現代詩手帖の4月号に鮎川信夫賞の選考対談が掲載されている。
選考委員の北川透と吉増剛造は岸田の境遇を慮り、
妻を亡くした男の痛切な詩集として読んでいるが、
本当にこの詩集は吉増が言うような「恋」の詩集なのだろうか?

私にはそうは思えない。
たしかに最初の2作は「君」「きみ」への呼びかけが頻出する。
しかし、その呼びかけられた「きみ」に人としての実在性は感じられない。
もし、この詩に亡き妻への恋の思いが綴られているなら、
「きみ」に実在性を感じない時点で、貧しい詩でしかないことになる。

そのため、岸田が呼びかける「君」「きみ」が、
本当に亡き妻であるのか、ということを私は疑う。
少なくとも「戦後詩の小さな夜」に関しては、
呼びかけられている「きみ」は戦後詩のことだと感じた。

もちろん、これは解釈の問題だから意見が違う人もいよう。
ただ、こういう読みの多様性を捨てて、亡き妻への哀悼とだけ解釈し、
その結果が鮎川信夫賞というのはどうなのだろう。
本当に北川と吉増が詩の言葉に文学的な態度で向き合った評価なのか、
単に仲間への同情が優先したのではないのか、と疑いたくなる。

だいたい、戦後詩に対する岸田の否定的な感情を、
戦後詩を代表する人々が評価するのもどこか信用ならない。
否定的になりきれない岸田の弱さが彼らを安心させているともいえる。
岸田の思いが切実なものであることは疑わないが、
自らの弱さを隠すための岸田の決断主義的態度は、
つまらない芸を見せられているような弛緩と退屈しか生んでいない。

岸田の詩を読んでいると、
「〜だから」とか「〜だけだ」とかいう言葉が頻発する。
「〜なのか、それとも〜なのか」というような選択を提示する書き方も目立つ。

  きみが生きているから、僕も生きていられるというのは事実だ。
 とすれば、僕らと同じように、互いを必要とした人が瞬く星のよ9
 うにいたということだ。その跡はどこにあるのだろうと、僕らは
 ずっと探してきたが、そのようなものが見つかったことはなかっ
 た。なぜなら、すべては消えてしまったから。けれど、僕らはそ
 のようなことがあったということは知っている。なぜなら、僕らが
 その跡そのものだから。未来に何も残さない。過去の未来だから。
                      「戦後詩の小さな夜」

 決して恨んではいない ただ悲しかっただけだ。太陽の目が地上
 の一点に吸い込まれる 肯定の身振りを立像に焼く人が立つ 俺
 たちはいくら愛情を喰らっても満たされぬ怪物だ 重い目が開か
 れぬ怪物だ
                                                                    「人の朝」

 死ぬことによって世界に印象づけることは文学以外の選択肢であ
 り得ようか。それとも死なないことによって世界に印象づけるこ
 とは文学以外の選択肢でありえようか。明確な分割線が引かれて
 いるはずだが、この線上を歩くとしたら、どのような選択として
 文学に位置するだろうか。
                                       「東京、詩語の羽が飛んで行った」

むやみに使命感を昂揚させる決断主義的な書き方だと感じた。
そうまでして、なぜに戦後詩を葬らなければならないのか、
その肝心なところは残念ながら私には伝わってこなかった。

吉増も触れているが、この詩集は字が小さすぎる。
散文詩と行分け詩の両方から逃走する苦し紛れの手段だと感じる。
その中途半端さと弱さが、
戦後詩を否定する身振りで戦後詩人に評価される所以であり、
自己破滅の道筋を描いて、詩人として延命を続ける苦しみの原因である。

 僕は独り言ちているだけなのかもしれない。僕はきみを思って、
 ついに信じないことの暴力を自覚しながらこれを書いているのだ。
                 「東京、詩語の羽が飛んで行った」

こう岸田自身が疑っているように、彼の言葉はモノローグでしかない。
それは最愛の妻に死なれたからではなく、
彼が否定したい対象に強く依存しているからである。
それが暴力を暴力と感じさせない作用を生むからといって、
彼の言葉を誠実なものと受け取る理由にはならない。

 

 

 

「俳句」 2015年 05月号 (角川書店)

  • 2015.05.15 Friday
  • 07:18

「俳句」 2015年 05月号 (角川書店)

 

 

   ⭐⭐

   緊張感の欠如は俳句を害する「何かである気がする」

 

 

俳句が「馴れ合い」の文化になっているから仕方ないのかもしれませんが、
緊張感のない雑誌だという印象ばかりが残ります。

深見けん二や矢島渚男の俳句は、
自らの安穏とした老境にすべてをとりこんで安心している点で、
自然に対する緊張感がまったく感じられません。
まあ、彼らが悪いというよりは、
功労者だから巻頭に掲載するという芸のない編集方針に問題があるのかもしれません。

また、本業のお笑いで三流の芸人を三流の小説家と対談させて、
売り上げ増を期待して持ち上げてあげる相互扶助の精神も、
文学の苦境に対する緊張感に欠けた態度に思えます。
(彼らを一流だと思っている方々、僕にそう思えなくて申し訳ありません)

それから、緊張感に欠けた関悦史の現代俳句時評には目を覆いました。
高柳克弘が書いたという季語の「異化」についての論考でしたが、
その「異化」についての高柳や関の理解がどうにも怪しげなのです。

関は「異化」を「見慣れてしまい、ことさら意識することもなくなったものを
見慣れないものとして提示する方法」と説明しています。
この説明自体は僕もまったく問題ないと思うのですが、
その例として

 本あけしほどのまぶしさ花八つ手    爽波
 かもめ来よ天金の書をひらくたび    敏雄

の句が挙げられていて、「本という当たり前のものを、見慣れない物体にし」
と説明されているあたりから怪しくなります。
最初の句は本という物体について詠んだものには思えませんし、
次の句は本を開いたかたちをかもめに見る「見立て」にすぎないのではないでしょうか。

また、関は高柳の小説にも異化の方法が拡大適用されているとします。
「でっぱりが、蓮田のなかにあった」という出だしを取り出して、
「ただの蓮根であるべき「でっぱり」が人の首であったという異化から全篇が成り立っている」
と説明しているのですが、
これは蓮根であるだろうという思い込みをズラしてみせているだけだと思います。

こういうケチをつけると、理解力に乏しい権威主義者から批判されるのが常なので、
少し丁寧に説明しますが、
「異化」とは、本という物体に見慣れすぎて、固定的な概念をまとわせて理解してしまうときに、
その物質性や特質の一部を強調することで、見慣れない「モノ」として提示する方法論です。
(関悦史の説明もそのようになっていますよね)

そうであれば、見慣れてしまった本を見慣れない「モノ」として提示するのが「異化」であるはずです。
本をかもめに見立てたり、蓮根が人の首であるのは、
対象を別のものとして飛翔させているのであって、
「モノ」自体の物質性を改めて認識させているわけではありません。

つまり、見慣れない「モノ」といっても、
実際の対象は本は本であって、蓮根は蓮根でなければ「異化」にならないのです。

もともと曖昧な概念とはいえ、著しく怪しげな理解しかしていないのに、
どうして「ロシア・フォルマリズム由来の詩学理論」を後ろ盾にしないといけないのか、
そこが大いに疑問ですし、編集者の緊張感のないチェックにもあきれます。
普通に作品鑑賞をしていれば、このような問題は生じなかったものと思います。

また、関は「使い古されクタビレている」季語を新鮮な表現にするという高柳の態度を、
ゼロ年代以後に来た表現者のわかりやすい筋道だ、と述べていますが、
山本健吉「挨拶と滑稽」を読めば、すでに宗祇の時代に季題趣味が固定化されていたことがわかります。
「ことに連歌に至って季節の吟味が厳しくなって来たため、
いっそう季節・季語の本意を踏まえることが約束化した」と
山本は季語の情趣の固定化が古来の和歌に基づいてなされたことを語っています。

それを打ち破ったのが芭蕉です。
基角の「山吹や」に対して芭蕉が「古池や」を初句に選んだのは、
固定的な季語の連関を打ち破るためであったことは有名な話であると思っていましたが、
時評を書く人間がこの程度のことに思い当たらないというのも不思議です。

高柳の言っていることは芭蕉の時代からの問題であるというのが、
俳句の歴史をふまえた見方だと思います。
それなのに関はそれをゼロ年代以降の問題だという偽の歴史にしてしまった上に、
高柳の問題意識と直接関わりのない安井浩司の論を引用し、
その「すれ違いぶり」が「俳句を活気づける何かである気がする」と結びます。

離れたものを引用しておいて、その両者をすれ違っていると認めながら、
そのすれ違いが「何かである」? それも「気がする」?
必然性のない安井浩司の引用は、彼を権威としたい関の個人的事情としか思えませんでした。
こんな文章で原稿料をもらえるとしたらずいぶんと楽な仕事だと思いました。

関悦史やそのエピゴーネンたちは、俳句批評をしているつもりで、
やたら〈フランス現代思想〉などの西洋思想を援用したがるのですが、
〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダンの特徴は、
消費資本主義と歩調を合わせた、その反人間主義や非歴史性にあります。

彼らは一方で俳句という伝統詩型の歴史性に依存しながら、
他方で非歴史性を強調する概念論に依存するという二枚舌で批評もどきを展開しています。
これは教養の不足というより、
親父の世話にはなるが親父の影響は受けたくないという、
子供じみたご都合主義と言うべきでしょう。

関一派がポストモダンやサブカル(BL!)を援用したがるのは、
自らの歴史性の欠如をごまかし続けるための戦略だと僕は思っています。
もし、非歴史的でありたいのならば、伝統詩型をやるのは端的に「ずるい」ことです。
そのため、関は伝統とも前衛ともどっちつかずの態度をとり続ける日和見な態度になるのです。

どうやら俳句の世界は緊張感に欠ける甘い世界らしいので、
これでも関悦史が俳句批評家としてありがたがられてしまうのでしょうね。

 

 

 

評価:
---
KADOKAWA/角川学芸出版
---
(2015-04-25)

『新撰21』 (邑書林) 筑紫 磐井 (編集)/高山 れおな (編集)/対馬 康子 (編集)

  • 2015.05.09 Saturday
  • 06:53

『新撰21』 (邑書林)

  筑紫 磐井 (編集)/高山 れおな (編集)/対馬 康子 (編集)

 

   ⭐⭐⭐⭐

   SNS21という甘えの温床

 

 

若手のアンソロジー集である本書は、たしかにひとつのブームを生み出しましたが、
ブームも落ち着いてきたところで、
負の側面も考えるべき時期にさしかかったように思います。

まず、いろいろな若手に脚光を当てたのは良い面でもありますが、
作品の発表レベルを下げたというマイナス面は否定できません。
たしか筑紫磐井はこの企画をAKB48になぞらえていたはずですが、
AKBのような「人海戦術」は、単体としての強さを求めないため、
どうしても個のレベルを向上させません。

そもそも、この本はスポンサーの女性が出資して実現した企画のはずです。
その女性はメンバー選考について冨田拓也と関悦史だけを名指しして、
あとは編集に任せたと聞いています。

つまり、他のメンバーは好機に乗ったということになりますし、
名指しされた二人を含めて、
自らの実力や犠牲によって出版機会を得る苦労が免除されたわけです。

このような「甘い環境」から出てきた人たちは、
それを自覚し精進する必要があるはずですが、
ブームで持ち上げられたために、
それを自らの実力と勘違いしている人も少なくないように見受けます。

特に、「甘え」を引きずった人たちは、
いまだ本書の影響下にあるために、
本書の関係者や二番煎じの「俳コレ」関係者などと
内輪で寄り集まりたがるように見えます。
(むしろ、名指しされた冨田拓也がストイックに個を貫こうとしているのが皮肉です)

今あらためて考えてみると、
インターネットで俳句が簡単に発表できる時代に、
作品発表の敷居を下げてアンソロジーを出すことで、
純粋ネット俳人の台頭を出版界が先回りして抑え込むことに成功した、
というのが本書の最大の意義にも思えます。

ただ、当然のことながら、
その代償として俳人のレベルを下げてしまったことは否定できません。
ネット俳人もどきにならないために、本書の出身者には二つのことが重要になるでしょう。

ひとつは、若手ブームの文脈を離れて立てる個の力を身につけること。
もうひとつは、ネット文化(ネットの評判)に頼らないこと。

SNS21という「甘えた環境」を乗り越えた俳人がどれだけ出てくるかは、
周囲の甘言に惑わされない当人の強い問題意識と向上心にかかっていると思います。

 

 

 

『君に目があり見開かれ』 (港の人) 佐藤 文香 著

  • 2014.12.30 Tuesday
  • 18:09

『君に目があり見開かれ』 (港の人)

  佐藤 文香 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   蜜月なきレンアイ句集

 

 

佐藤はマンガの監修や女性誌などでの活躍が目立つ俳人だ。
ポップな俳句にはあまりいい印象がなかったので、
この句集にも期待していなかったが、価格が安いので購入してみた。

思いのほか内容は充実していた。
しっかり句が厳選されているのか、ポップで軽薄な印象はなく、
よく目配りの利いたバランスの良い句集だった。
旧仮名、現代仮名遣いといろいろやるわりに、
無理なくうまく処理できてしまうのが優等生的で心憎い。

俳句を現代的にしようとするあまり、
前衛を気取って自意識系の句を作る人も少なくないが、
佐藤は「レンアイ句集」と銘打ちながら、
つまらない自意識が表面化することに禁欲的である。

俳句とは形式だと思いすぎると、
主体を遠ざけるわりに自意識を表面化させる貧しい句を書きがちだ。
佐藤の句はしっかりした実体験を背後に感じさせながら、
もとの体験そのものに着地させずに、
俳句としての体験を味わわせることに成功している。

 電球や柿むくときに声が出て
 今日の手をあつめてすすぐ月の庭
 ゆふぐれの蜂蜜ごしに濃き夕日

俳句をやらない私には、
難しい季語が少ないこともありがたい。
あえて距離感を出すために季語を用いたりせず、
句の中に違和感なく収まる季語を選択しているからかもしれない。

 手紙即愛の時代の燕かな
 末黒野へ罫線入りの紙飛行機
 たんぽぽを活けて一部屋だけの家
 夏蜜柑のぼりきれば坂ぜんぶ見える

「レンアイ句集」と言うからには多くは恋愛の句であるのだろうが、
あまり恋愛を意識せずに読めるのが不思議だ。
(もちろん、いかにも恋愛の句というものもあるが、
そういうものはほとんど良い句ではなかった)
そもそも俳句と恋愛はそれほど親しいものではない気がするので、
意識せずに読める句でなくてはいけないのかもしれない。

だから、とりたてて「レンアイ句集」などと名乗らなくてもよかったはずだが、
そう名付けたいくらい恋に身を焦がしたということなのか。
ただ「レンアイ」とカタカナで書くところに、
恋の甘さにベッタリできない何かが感じられないこともない。

佐藤の俳句に対するスタンスにも、
それと同じようにベッタリできない何かがあるように思える。
俳句に付きすぎず、離れすぎない。

付きすぎず、離れすぎない。
それは俳句を支える要素のひとつでもある。

伝統的形式というのはとかく甘えを誘発しがちだが、
そんな母性的な魅力に抵抗できない若手の男たちに比べて、
佐藤は俳句を信じすぎてはいないのだろう。
それが彼女を俳句の外の世界へと接合させているのかわからないが、
それが作句において良い方向に働いているのは、なによりだと思った。

 

 

 

『凧と円柱』 (ふらんす堂) 鴇田 智哉 著

  • 2014.12.30 Tuesday
  • 17:51

『凧と円柱』 (ふらんす堂)

  鴇田 智哉 著

 

   ⭐⭐

   金太郎飴

 

 

『新撰21』で鴇田の句を初めて知ったとき、
その意味を宙吊りにした朧とも言うべき世界観が魅力的に思えた。

新句集も期待を持って購入したが、
読み始めてしばらくすると、
どうしようもなく退屈な気持ちが押し寄せて、
困惑することになった。

退屈に感じた一番の原因は、落としどころが決まっているということだ。
もちろん、それが作家性ならば問題はない。
しかし、それが技巧によって導かれたものでしかないのが問題なのだ。
彼の句はすべて「鴇田工場」で作られた製品のように均質だ。

たとえば和歌には「幽玄」という境地があるが、
これは優美な言葉を尽くしても表現しきれない余情を言う。
一見、鴇田の句も「幽玄」に通じるようにも思えるが、
言語操作によって意味の脱線を狙っている点で大きく異なる。

具体例を挙げよう。

 いきものは凧からのびてくる糸か
 うすぐらいバスは鯨を食べにゆく
 薇は昨日を夜と思ふなり
 桃の実に鏡の立ってゐる机
 うぐひすの畳に胴の沈みゆく
 凩のふざけるこゑのして終る

ここで注目すべきなのは格助詞の「は」「に」「の」の用法だ。
俳句をやらない私に厳密なことはわからないが、
この部分は俳句の「切れ」にあたるはずである。

鴇田は「切れ」を明確にすることを意図的に避け、
わざわざ前後を関係づける助詞を置こうとする。
それにならって読者が読んでいくと、意味の眩暈が起こるという仕組みだ。

つまり、わざと混乱を生む助詞を置くことによって、
本来は離れている両者に「偽りの関連」を生み出す技巧なのだ。
これは二物衝撃がスベる危険を減じる安全策にも思える。

誤解しないでほしいのだが、
私は技巧を用いて俳句を作ることを批判しているのではない。
このような技巧は俳句の「切れ」を熟知していないと難しい。
鴇田の「切れ」に対する感覚の鋭さは、評価できないわけではない。

しかし、こればっかりなのはどうなのか。
鴇田は外の世界の「おどろき」を直接的に表現するより、
自らの「心=技巧」をメディアとして、
言語操作で翻案した世界を提示することの方に興味があるように見える。

 かなかなをひらけばひらくほど窓が

たとえばこの句などは、助詞と語順の言語操作で意図的に眩暈を生み出している。
それは助詞や語順を正しく使えばよくわかる。

 窓をひらけばひらくほどかなかなが(鳴くのがよく聞こえる)

「を」は本来「窓」につく助詞であり、「が」は「かなかな」につくべき助詞なのだ。
付属語である助詞を自立語から無機的に切り離し、
それぞれを等価なパズルのピースとして並べ替える。
そのような句に有機的な魂が宿るとは私には思えない。

さらに問題なのは、原型の文ではたいした詩的感動が起こらないということだ。
つまり、鴇田本人の実際の感動は小さなものでしかない。
そのまま表現したら中身の薄いものを、
なにか謎めいた深い世界であるかのように錯覚させる。
そのために助詞の操作と俳句の技巧を利用している。

「ありのまま」のショボい自分を、大きく美しく見せたいという自意識。
鴇田の技巧は、そんな消費社会のありふれた願望と手を握っている。
実際の自己と比べて大きすぎる自意識が、
小さな現実を背伸びさせ到達すべき大きな世界像へと拡張を求める。
これをドーピング(量的緩和バブル=アベノミクス)と言わずに何というのか。

現実を厭う心性は、現実の自己の抹消に結びつく。
鴇田は主体を曖昧化する俳句の文体に満足せず、
曖昧化を越えて透明化に至ろうとしている。
すでに透明化が主題となっている句もある。

 あふむけに泳げばうすれはじめたる
 山は枯れひとりの部屋のすきとほる
 マフラーのとけて水かげろふの街

主体の透明化は自身をメディアと一体化させるのに欠かせないものだ。
俳句の技巧を「前に‐立てる(Ge-stell)」ことで本来のあり方を後景に隠す透明化は、まさに技術のなせる技である。

 野薊に顔のわからぬ人がゐる
 ハンカチが顔を包んでゐる正午

その意味では、「顔」を隠すこれらの句は象徴的だ。
顔を隠す態度が倫理に与える影響は言うまでもない。

こうして、鴇田は自らをメディア化し「技巧の編年体」で俳句を作り出していく。
その先にあるのは前述したドーピング効果だ。
小さく貧しい実感でも、
技巧によるドーピングがそれをどこまでも大きく豊かに錯覚させる。
そのような眩暈状態に居続けることは、薬物中毒のようなものではないのか。

我々は実感の乏しさを技巧というドラッグでごまかすべきではない。
拡張演出された美は、クリスマスのイルミネーションだけでたくさんだ。

さて、最後に鴇田の技巧の背景について語っておきたい。
言葉をパズルのように「等価交換」する言語観は、いわゆるポストモダンの思想と密接な関係を持つ。
日本人は西洋の権威に弱いので、
俳句を語るのに西洋思想を持ち出す破廉恥な人間をありがたがっているが、
むしろ安易な西洋思想の流用には厳しい目を持たねばならない。

俳句にポストモダンはいらない。
これは言葉は違えど外山滋比古も言っていることである。
特に80年代ならまだしも、今となっては害悪でしかない。
「お利口」な若手がポストモダン的な句を作っているが、
先達は媚びることなく毅然として「ダメよ〜、ダメダメ」と言うべきだろう。

ここで私がポストモダンというのは、メディアを絶対視する「伝達的言語観の軽視」である。
ポストモダンの価値観では、言語の伝達的側面をやたら嫌う。
筆者の意図を正確に読みとることを重視することは、
正しい「国語」という国家権力の装置を強化することになる。
だから、作者の意図を無視した受け手の自由な解釈こそが重要だとする。

私はそれが間違いだとは思わないが、
テクストを原エクリチュールとして、筆者の意図の伝達を軽視しすぎるのは、
やはり片足で立つような言語観だと言わざるをえない。
西洋コンプレックスの強い日本人学者は、
漢字圏に流用しにくいソシュール言語学をありがたがっているが、
時枝誠記が『国語学原論』でソシュール言語学を言語の貨幣的把握と批判していたように、
ポストモダンは言語を貨幣的に把握する資本主義的イデオロギー(等価交換!)を背景にしている。
それが「売れること、人気があること」を正義と考えるようにはたらいていく。

ポストモダンはメディアを絶対化するので、
不況になると貨幣に替わって国家という媒介(メディア)に依存する精神に陥る。
戦中の日本で「近代の超克」が取りざたされていたことを今は指摘する人さえいなくなってしまった。
この国ではポストモダンは「いつか来た道」でしかない。

言っておかなければならないのだが、
安倍晋三の憲法解釈などは、まさにポストモダンの言語観に依拠している。
憲法がどのような意図によって制定されたものか、という先人の意図の伝達を軽視し、
ただ文言を自分の都合によって自由に解釈してしまう。
私はポストモダン言語観を推進する人間に彼を批判する資格はないと思っている。
(芸術と政治は別だという二枚舌がどれだけ有害かは言うまでもない)

自己を安全地帯に退去させ、伝達の責任から逃走し、
メディアを好きなようにいじくりまわして、言語操作に戯れてみせる。
そのようなポストモダンに偏った価値を是正し、
伝達と解釈の二重性に耐えていくことがバランスのとれた姿である。
伝達の確かさと解釈の豊かさを両立させてこそ良い作品といえる。
詩は間違っても操作を競うゲームではないのだ。

 

 

 

評価:
鴇田智哉
ふらんす堂
---
(2014-09)

『a note of faith―ア・ノート・オブ・フェイス』 (思潮社) 中尾 太一 著

  • 2014.10.19 Sunday
  • 08:54

『a note of faith―ア・ノート・オブ・フェイス』

  (思潮社)

  中尾 太一 著

   ⭐⭐⭐⭐

   現代に寄り添う現代詩

 

 

この詩集を買うとは思っていなかった。
これまで中尾の詩を読んでも特に何も感じなかったからだ。
おそらく、この新たな詩集には、
これまでと違った読者にも訴える魅力がある。

ただ、私が本気でいいと思っているのは、
1 Daizy
2 ストロボライト
の前半部である。
注目すべきは、中尾のルビの使い方である。

たとえば、「karman」には、
「八月のヒュッテをマッチで擦って」というフレーズがあるが、
「ヒュッテ」には「砦」と漢字でルビが付され、
「擦って」には「シュッて」のルビがふられている。

「ヒュッテ」と「シュッて」が韻を踏んでいるのは明白だが、
「砦」に「ヒュッテ」の音をふるのではなく、
「砦」という意味を示す漢字の方がルビになっている。
つまり、ルビは単に韻を踏みたいという意図ではない。

われわれ日本人は仮名に漢字を振っている、
と、どこかで古井由吉が書いていたが、
文字入力の辞書変換によって、
その感覚はさらに先鋭化したように思う。
変換候補の数だけ掛詞と出会っているようなものだ。

ひとつの音に対する意味の過剰。
中尾の詩はそもそも饒舌で音楽的だが、
その音楽を突き崩す意味の過剰さがルビをふらせている。

 青いインクを染み渡らせる頁(age)に死んだ鳥(ジーニアス)を歩かせて
 真に明日(シンニアス)の匍匐をここに記そうとする、だけど
 罪(sin)のkidsに櫂の沙汰が待っているなんて知らず
 水面(surface)から水中(oasis)へ

これは「leaving T-area」の一部だが(半端な切り出し方で申し訳ない)、
韻を踏みたいならルビの「ジーニアス」だけを書けばいい気がする。
そこに「死んだ鳥」(おそらく自らの詩句を表す)が必要なのは、
イマジネーションによる伝達を手放したくないのだろう。
では、そのあとの「シンニアス」のルビは必要なのか?
「真に明日」と書けば他の読み方はできないはずではないか。

中尾は「ジーニアス」から「真に明日(シンニアス)」そして「sin」をつなぎたいのだ。
このようなルビサーフィンともいえる飛び飛びの意味の接続が、
縦に展開する詩のメロディーを横から擾乱していく。

おそらくこの手法は詩の音楽性を邪魔している。
しかし、それが中尾が感じているであろう、
端末文化の語法による詩的言語への侵略を示しえているように、
私には感じられるのだ。

ポストモダン以来、
言語が伝達を目的とするという発想は嫌われている。
だが、中尾は伝達を考えずに詩を書く気はないらしい。
去勢され不能となった伝達に、意味の過剰で挑み壊れていく。
その姿は尊いのか青臭いのか。

ただ、他の現代詩が回避しているものを、
中尾が引き受けようとしていることは評価されるべきだと思う。

 

 

 

『句集 しやりり』(ふらんす堂) 野口 る理 著

  • 2014.07.05 Saturday
  • 08:00

『句集 しやりり』(ふらんす堂)

  野口 る理 著 

 

   ⭐

   出版は時期尚早

 

 

句集の出版に踏み切ったということは、
自分の句に満足しているということなのか。

批判的なことを言うと嫌がる甘ったれが多いが、
出版して売るなら責任は当然生じる。
それに値する作品なのか、
出版前に自らに問う必要がある。
(結社に属していないなら、さらに厳しい問いが必要だろう)

野口の俳句は未熟さが目立つ。
全体的に散文的であり、瀬戸内寂聴に「小説を書きなさい」と言われたのも頷ける。
(私は2006年までの若書きの句は、なるべく読まない気遣いをした)
たとえば、

 籠に赤求めて林檎買ひ足しぬ
 栗茹でて遠くの島の話など
 通行の妨げとして桜かな
 河豚洗ふために水また水また水

助詞「て」「して」や「ために」が、句を単純な因果にからめとる。
野口の句作が散文的であることのわかりやすい例である。

そこで野口は俳句であろうとして切れ字「や」を多用する。

 霧雨やたとへ話に天使の胃
 金秋や雨おほげさに降る神話
 夕立やとほくのビルはこはれさう

季語に切れ字「や」をつけるのは王道だが、
季語が季語というより舞台背景でしかないのが物足りない。
その季語であることの魅力は伝わってこない。

このようなことは、
俳句をやらない私より、やっている人の方がよくわかるだろう。
結社の外でやっている人が未熟だと、
やはり結社はひとつの良心ではないかと感じてしまう。
そう思わせないために、出版には句作の充実が必要だったのではないか。

厳しく聞こえるかもしれないが、
揉まれて苦労することを厭うくせに、
安易に自己承認を求める姿勢と言われても仕方ないところがある。

もちろん、野口にも工夫らしきものはあるが、
私は高橋睦郎のようにそれを評価する気になれない。

 飲む水は泳ぐ水でもある鮭
 蚯蚓より蚯蚓生まるる夜の星
 虫の音や私も入れて私たち
 寒雷や鍋置けば鍋ある景色
 白梅や百年経てば百年後

これらの句の方法論がみな同じであることは一見して明らかだ。
ポイントは、当たり前の認識を同語反復により快楽化するところにある。

このような同語反復は俳句の手法のひとつなのかもしれないが、
野口の場合、発見のような異質性が現れず、
同一性に回収して安心している点で、抽象の領域にとどまる。
そのため、具体物の写生から乖離した言語的認識の操作になっている

原因は認識が言語的であることにつきる。
詩が必要としている前言語的な実感が見えないのだ。

実感領域では、飲む水は泳ぐ水でなくてもよい。
たとえば私たちはトイレの水は飲み水と扱わない。
言語的認識はもちろん、科学的にも上水はみな同じであるが、
それでもトイレの水を飲みたくないのが人間の実感であろう。

ミミズから生まれるのはミミズといえども子供である。
鍋があれば鍋ある景色では何を語ったことにもならない。
百年後は始発点が曖昧では何の実感もなくて当然である。

私はこれらの句を読んで、
鳥肌実の「表現したいことがないんです」という演説芸を思い出した。

いろいろな表現がすでにやり尽くされ、
コピーとシミュラークルに溢れた消費文化の中で、
表現者になりたい欲望だけは強まっている。
(とりわけ、ワナビー前衛俳人の自意識の醜悪さは際立っている)

しかし、自らの身体感覚で世界の前に立つことを忘れて
人の心を打つものが書けるはずがない。
せいぜい「シャレたこと言ったね」レベルでしかないだろう。

 友の子に友の匂ひや梨しやりり

匂いを誰かの匂いと感じることにリアリティがあるとしたら、
私は性的な要素抜きには考えられない。
まして、年齢相応の匂いを持つ子供に親の匂いを感じるなど信じられない。
「子」が「なし」だからそう意識したというなら、
やはりそれは実感でなく認識の言語的操作である。
(これが元カレの子であるなら面白いが、そう意図するなら別の書き方になるはずだ)

メディア環境の中で乏しくなった実感を投げ捨て、
擬音などのマンガ的感性で実感を補填するようでは、
俳句自体の衰退は避けられないだろう。

俳句をやらない私でもそう思うのに、
長年俳句をやっている方々が言語遊戯的な俳句を甘やかしているのは、
時代に媚びているか自分に自信がないかのどちらかとしか思えない。
もっとしっかりしてほしいと切に願う。

 

 

 

評価:
野口 る理
ふらんす堂
---
(2014-01)

「現代詩手帖」2013年09月号 (思潮社)

  • 2014.07.04 Friday
  • 07:54

「現代詩手帖」2013年09月号 (思潮社)

 

 

   ⭐⭐

   安易な連立はやめましょう

 

 

発売してだいぶ経っていますが、
再度このような企画があると困るのでレビューします。

本誌の特集は「詩型の越境」というものでした。

そもそも短歌や俳句は詩型(定型という意味ではない)にこそ文体があり文法があるので、
詩型を越境するなど死刑に等しく、
まるでリアリティがないわけですから、
現代詩の視点に寄った発想といえるでしょう。

実際、冒頭のシンポジウムでも、
短詩系のゲストは越境に懐疑的です。

また、簡単に越境できてしまうのも問題で、
短歌の方法論そのままで現代詩でも評価された岡井隆について、
穂村弘が「ショックでした」と語っていることを、
現代詩の人々はしっかり受け止める必要があるのではないでしょうか。

また、作品を載せている俳人に偏りが感じられることに違和感がありました。
現代詩に親近感(もしくはコンプレックス)を持った俳人を呼んでおいて、
越境とは悪い冗談に思えます。

僕には落ち目になった現代詩が、
「俳句維新の会」的なものと連立して与党の立場を維持しようとしているようにも見えました。

とりわけ、彼らの作品をお仲間と言ってもいい関悦史に解説させたのは醜悪でした。
(高山れおなを三島由紀夫になぞらえるのは、内輪評価でなくて何でしょう?
自分たちを「正統」と表現する欲望は問題視されてしかるべきです)

今月号(2014年7月号)では、現代アートとの連立を模索していますが、
そういうものを越境とか横断と捉えるには、
現代詩の側にもっと「開かれたもの」がないと、
ただのポーズ程度にしか感じられません。

自身は惰性的な現状維持を続けながら、
なにか外のものとつながりたがるのは現代のトレンドですが、
せめて現代詩くらいは屈してほしくはないものです。

再度言いますが、
何かとつながるのではなく、
自らが開かれる姿勢を追い求めるような特集をしてください。
それは、もう一度現代詩の存在意義を広い視点から考え直すことではないでしょうか。

 

 

 

『荒東雑詩―高山れおな句集』(沖積社) 高山 れおな 著

  • 2014.06.08 Sunday
  • 07:11

『荒東雑詩―高山れおな句集』(沖積社)

  高山 れおな 著 

 

   ⭐

   前衛俳句は現代詩の夢を見るか?

 

 

『ウルトラ』に続く高山れおなの第二句集である。

書名の荒東は荒川の東の地を意味する造語で、
高山自身の生活空間と重なるようだ。

この句集の大きな特徴に、
すべての句に前書が付されていることがある。
前書はその句がどんな状況で詠まれたかを記録するもので、
通例はきわめて簡素な文であるが、
高山が記す前書はそれにとどまらない。

  切支丹の跡を訪ねて生月、平戸、外海、長崎、五島を廻つた。
  車を降りるたびに草の匂ひ、うぐひすの声、虻の唸り。
  僕たちは煙草を吸った。それから仕事をはじめた。

 老鶯やしろがね炎ゆる昼の海

これは句を詠んだ状況を書いた前書なので、
通例の前書の延長にあると言える。
それにしても長すぎる。
参考までに加藤楸邨から前書つきの一句を取り出そう。

  秋櫻子先生と亡師太古先生の墓に詣づ、追憶胸に満つ、その夜

 太古忌の蕎麦綴る夜ぞ霜いたる

これでも楸邨の前書としては長い方である。
高山の前書はこのような前書とは異質である。

通例の前書は句の抒情を引き立てるための役割を果たす。
読者に抒情を起こさせるのは、あくまで句単体である。
そのため、前書は意図して簡素でなければならない。

しかし、高山はすでに前書の中で抒情をはたらかせている。
その上で付録のように句をつけていく。
これが句の抒情を間延びしたものに貶め、
印象を拡散する結果を引き起こしている。

前書が短歌になっているものも多い。

  〈短小へ詩を駆りたてし力ありてなほ蜜雲の如くおほへる〉

 春蝉や剣舞のましらも深きより

当然高山は前書の短歌とあとの俳句を関連させて読むことを意図している。
それでも私には、短歌はともかく俳句がどう関連するのかわからない。
ましらは猿であろうが、剣舞は猿が踊ったという念仏踊りなのか不明である。
このように、単体で出されるよりも読む苦労が多く、
たとえ前書の抒情に心動かされても、俳句によって煙に巻かれてしまう。

  〈庭燎の庭をめぐれる妻はそのむかし夢に犯せし女ならずや〉

 一卓の雲丹づくしなる攘夷論

かがり火に見る妻の姿が夢で関係した女に重なる。
ウニ一色の贅沢づくしも、それが輸入物であれば攘夷論が必要だ。
別々ではそう味わうことができるが、両者を関連させるのは大変だ。
前書にある同一性への強迫観念を、俳句では笑い飛ばしたということだろうか。

高山本人はどこかで自分の句集の特徴を、
現実状況に即して作られる「機会詩」的なものと説明していたが、
そもそも俳句とは機会詩的なものである。
その実現が目的なら、わざわざ長い前書をつける必要があろうはずがない。

だから山口優夢は前書の必要性に疑義を呈していた。
しかし、私には高山が前書を必要とした理由が想像できる。
彼は参照すべきプレテクスト(元ネタ)がないと句が作れないのである。

第三句集の『俳諧曾我』においても顕著だが、
高山は元ネタに依存する形で句作をすることを好む。
たしかに俳句は間テクスト的な性質を強く持ち、
歴史的にも和歌や漢詩をプレテクストとしていたのは事実だ。

しかし、高山のプレテクストへの執着には、
芭蕉が杜甫を、蕪村が王朝典雅をプレテクストとするのとは、
まったく別の動機が感じられる。

それは、読者に対して優位な立ち位置を確保しようという欲望である。
参照先があることをにおわせながら、
それは明示されず、接近することに困難が伴う。
読者は句を前にして、すでにハンデを背負っている。

高山は句を無防備に提出して、
読者と同等の位置に立つのが嫌なのだ。
それで、プレテクストを参照しないといけない句を作りたがる。

作句の状況が詳しく書かれれば書かれるほど、
そのあとの俳句はその状況をふまえずに読めなくなる。
しかし、その状況に一番通じているのは居合わせた高山本人であろう。
われわれ読者が句をどう解釈しようとも、
高山はその名の通り高い山から見物ができるのである。

この句集の感想を探すと、
高山の教養や博学を讃える評が多いが、
おそらく彼らも本気で高山の知性に感心はしていない。
それどころか、彼の句に素直に感動した者はいないのではないか。

『荒東雑詩』の句は読者に奉仕するものではない。
ただ作者に奉仕するだけだ。
作者に知的風貌や詩的風貌をまとわせるための私語である(もちろん詩語ではない)。
その自意識と自己愛が生み出した模造物には唖然とするほかない。

私はウェブで福田若之が高山の句を批評した文を見たことがあるが、
そのコメント欄で高山は福田の批評を正し、自ら講釈をたれていた。
自分が自分の句の最大の理解者であると思っている人が書くものなど、
読む気がそがれるのは言うまでもない。

本書には筆者の住む地域に焦点を当てた「西葛西地誌」のシリーズがある。
これも筆者のホームグラウンドであることを忘れてはならない。

高山は自身を「麿」という一人称で表現するが、
この時代錯誤な人称も、自己と読者の立ち位置を等しくしない工夫である。
これはアイロニーですらない。
単にナルシシズムを表明する人称である。

  西葛西地誌 その二十五 主婦たち
  筑波嶺の峰から落ちるみなの川のやうに流れ流れて(日常の細部を
  失なつて)、珈琲がぶ飲みしながら対象を欠いた言葉の戯れに耽つた
  ために暗黒の淵(直径五m)みたく沈んでしまつたことであるよ。

 麿、変?

日常性を欠いて宙に浮いた言葉をつむぐ私は変でしょうか?
と、一見謙虚にも見える書き方だが、
「筑波嶺の〜」の元ネタは陽成院の歌である。
陽成院は奇行によって天皇を退位させられた人物であり、
それになぞらえられる麿は変でなくては高貴ではありえない。
(ストレートに書いたら中二病と言われそう!)

ここで「麿」と対照される「主婦たち」は、
明確な対象を持った言葉で日常の細部を描く、
日々雑感的な俳句を作る人々を暗示している。
それに対する「麿、変?」は、高山の前衛宣言であるのだろう。

しかし、人より上の立ち位置を確保しながら、
私が変かと尋ねるのはおそるべき傲慢である。
俳句の韻律を極小にしておいて、
そこで語られるのがやはり自己像でしかないことが、
いかにも高山れおなであると言うしかない。

水仙や鏡に見えぬ腹ぼくろ
(私は俳句をやらないので、これは俳句ではない)

 

 

 

『ルウ、ルウ』 (思潮社) 杉本 徹 著

  • 2014.05.15 Thursday
  • 06:56

『ルウ、ルウ』 (思潮社)

  杉本 徹 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   大気の中で光を感じる詩

 

 

2009年に歴程新鋭賞を受賞した前作『ステーション・エデン』から5年、
待望の杉本徹の新詩集が刊行された。

5年という創作期間は現代としては決して短くはない。
(間に東日本大震災もはさんでいる)
その足取りが杉本の詩想の移ろいに重なるのは必然だろう。

大きく分けて、詩集の前半と後半にはある変化がある。
(本書の詩が発表順に並んでいるとは限らないが、
確認できる範囲では、ほとんどそう配置されている)

前半は前作の延長上にありながら、
前作のようなフランス詩や映画由来のイメージによる饒舌さを抑制し、
より広い読者に訴える平明な語彙によって、
密度の高い言葉がつむがれている。

詩とは無縁である堕落した現代の街をさまよいながら、
無限の過去と無限の未来を凝縮する無時間とも言える一瞬を、
ビルの反射光のきらめきをとらえるカメラのように、
詩的世界へといざなう特権的なものとして飛翔させる。

それは死地に救済が到来するかのような永遠であり、
酩酊の一瞬でしかないはかなさでもある。

野村喜和夫は杉本にとって場所はどこでもいいのだと書いていたが、
私はそうは思わない。
詩が忘れ去られた都会の喧噪でこそ、杉本の詩は救済たりえる。
私は杉本が「詩の死」から蘇生した詩人であることを疑わない。
それが杉本の詩を誰よりも現代的にしている。

街をさまよう詩人の身体性が感じられることも強調しておきたい。
「神楽坂の記憶を」などは、身体性が感じられなければ、
読んで胸が詰まる思いに駆られることはないはずだ。

ただ、後半は私には失速気味に感じられた。
さまよう詩人の身体性よりも、哀惜のような感傷が表面に出過ぎている。
(それに伴い、「わたし」という一人称の登場が増えている)

また、「路上の薄陽という秋」に顕著であるが、

 路上の薄陽という秋を踏むと
 ここにない季節が、ここではないどこかで結晶する──  
 それは永遠に気づかれない時間、の別名であり
 わたしはいまこのときの街景に宛てる陰画の言葉しか、持ち合わさないから

と、自らの詩を自己言及するかのような詩句が登場してしまう。
街をさまよう描写にしても、
このころから名詞句の羅列が目立っていく。

前半では詩的世界が「明け開け」る一瞬を身体で受け止めていたはずが、
後半では想念の中に詩的世界を閉じ込めてしまっている。
そう読みたくはないのだが、そう感じられてしまうのが残念でならない。

もちろん杉本の詩はさらなる変化を見せることだろう。
杉本が敬愛する西脇順三郎や吉増剛造のように、
何度も自らの詩をピークへと持っていくことを期待している。
「死地」から蘇生した詩人である杉本にはそれが可能であるはずだ。

 

 

 

評価:
杉本 徹
思潮社
¥ 2,376
(2014-03)

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