『儒教 怨念と復讐の宗教』 (講談社学術文庫) 浅野 裕一 著

  • 2017.09.17 Sunday
  • 21:42

『儒教 怨念と復讐の宗教』 (講談社学術文庫)

  浅野 裕一 著 

 

   ⭐⭐

   儒家による孔子の神格化を糾弾する

 

 

本書は平凡社刊の『儒教 ルサンチマンの宗教』に加筆したものですが、
書名を『儒教』だけに改題したのは読者に対して不誠実だと思います。
ふつう『儒教』という書名を見たら儒教の概説書のように思ってしまいますが、
内容は孔子の神格化を(半ば感情的に)糾弾するものだからです。

ネットで本を買うことが一般的になるにつれて、
出版社は読者を騙してでも売ろうとして、目につく題名や帯文に確信犯な細工をすることが多くなりましたが、
これからの時代、逆にリアル書店の存在が重要に思えてきます。

浅野は、夏殷周三代の礼制を知るという孔子の学識には根拠がないとし、
孔子が空想の学識に基づく上昇志向で新王朝樹立の野望を抱いたが、
その夢破れて失意の中で死んだとします。
その後、儒家たちは「受命なき聖人」孔子という矛盾を解決するため、
孔子を受け入れなかった世界への復讐と孔子の魂の鎮魂という2つの情念により孔子の聖人化に勤めた、と言うのです。

出発当初に異端とみなされ迫害された宗教が、政治権力と結託して支配的地位を獲得することについては、
キリスト教や仏教やイスラム教も儒教と同じ、と実は浅野自身も本書で述べているので、
それなら宗教全体がルサンチマンを抱えているのであり、
儒教だけを「怨念と復讐の宗教」とあげつらうのか、そのあたりが読者には伝わりません。
また、浅野の語り口が感情的で乱暴なため、「この人が儒教に対してルサンチマンを抱いているだけでないのか」という疑惑がわきます。
記述の内容にも首肯し難い部分も目立ちます。

 孔子の学団は、表向きは礼学を専攻する学校であったが、その裏に
 は、地下で革命をたくらむ秘密結社的教団の性格が潜んでいたので
 ある。礼学は、王朝体制や国家組織を整備する上での枢要な学問で
 あり、そもそも孔子学団が専門とした礼学自体に、そうした芽が宿
 されていたしなければならない。

 国家教学としての権威を確立する以前の儒教は、役立たずの時代錯
 誤であり、孔子や孟子は失敗した革命家にすぎなかった。

なにやら孔子学団がオウム真理教のようなテロ組織であるかのような語り方に、
僕は苦笑するしかありませんでした。
素人的に考えても、どこかの王家に召し抱えられたいと運動していた孔子を「革命家」にするのは無理があると思いますし、
政治システムを学ぶこと自体に「革命をたくらむ秘密結社的教団の性格」があるとするのも同様です。

個人的に苦笑を通り越して感心したのは、
儒教の四書のひとつ『中庸』が暗黙に孔子弁護を語ったという解釈です。
『中庸』には天命にふさわしい栄達を求める上昇志向と、
栄達を求め天命を逸脱する過剰な行為を自制する保守志向の両立が見られるのですが、
浅野はその根底に、天命を自覚し王になる上昇志向とあえて不遇にとどまる現実性とがあるとし、
それが王になる野望を抱きながらそれに失敗した孔子を正当化し弁護する意図があると述べます。
王のもとで出世することと自らが王となることには雲泥の差があると思うのですが、
浅野はそれを簡単に踏み越えてしまいます。

 儒教とは、一介の匹夫にすぎぬ孔子が、実は孔子王朝を創始すべき
 無冠の王者(素王)であったと信じ、『春秋経』をはじめとする孔
 子の教えに従うならば、中国世界に太平の世が到来すると信ずる宗
 教である。したがって、儒教は何よりも孔子素王説なる虚構と欺瞞
 の上に成立する宗教である。

浅野はこのように儒教糾弾を目的として、儒教の歴史を書き換えようとします。
しかし、中国思想史に対する基礎知識がない読者にとっては、
儒教の歴史的展開と浅野の主張の両方を同時に学ぶのは難しいため、
浅野の感情的な儒教批判の印象ばかりが強くなって退屈な本になるのではないか、と感じます。
僕は浅野のメインの主張には共感しませんが、浅野の儒教史に対する学識はさすがに一定水準のものがあり、
宋学や康有為の孔子研究家の側面なども簡単にまとめられていて勉強になる部分もありました。

ただ、浅野に最も欠けていたのは、儒教がなぜここまで大きくなったのかということに対する考察です。
儒教が本当に浅野が言うような内容であるならば、儒教が政治権力や大衆の支持を得られるはずがないからです。
浅野はどうしようもないインチキ思想でも政治権力が支持すれば広まるとでも思っているようですが、
それはあまりにも現実や人間を理解していないとしか言いようがありません。
仮に儒教がルサンチマンの宗教であったとしても、
それを支持する中国人の精神性を解き明かしてこそ研究者といえるのではないでしょうか。

 

 

 

評価:
浅野 裕一
講談社
¥ 1,134
(2017-08-10)
コメント:『儒教 怨念と復讐の宗教』 (講談社学術文庫) 浅野 裕一 著

『入門ユダヤ思想』 (ちくま新書) 合田 正人 著

  • 2017.09.10 Sunday
  • 17:34

『入門ユダヤ思想』 (ちくま新書)

  合田 正人 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   内容は面白いが、「入門」的な要素は皆無

 

 

僕は合田正人自身の著作や彼の翻訳したE・レヴィナスの著書も読んでいますので、
本書を立ち読みした時点で内容が平易でないのは予期していたのですが、
それにしても一般の人向けの新書にしては、専門的すぎる内容だと感じました。
ある程度の思想的教養は前提とされていると考えて本書を読んだ方がいいと思います。
新書として出版したことも大いに疑問ではあるのですが、
それ以上に題名に「入門」と書いたことには出版社の倫理観の乏しさを感じます。
この本は絶対に入門書ではないと断言できます。

序章はボブ・ディランや『二〇〇一年宇宙の旅』の話なので敷居が低く始まるのですが、
そこからあとは哲学研究者の専門的なエッセイとなっています。
スピノザが本書の通奏低音となっているようなのですが、
恐ろしいことに本書にはスピノザ思想の内容を概説した部分は見当たりません。
断片的に触れられては流れていくので、まさしくエッセイというべき書き方だと思います。
僕は〈フランス現代思想〉の根底にはユダヤ思想、とりわけスピノザ思想の影響があると感じていて、
スピノザ思想を独学していたのですが、本書でここまで概説をしないことに驚きました。

 スピノザは『エチカ』のなかで、「個体は極度に複雑な複合体である」
 と言っている。「民族」などの集合観念と同様、「個人」も複雑極まり
 ない仕方で成ったものだ。スピノザは「個体」を「様態(モード)」と
 呼んでいるが、それは幾度も変態を重ね、厳密に言うなら一時たりとも
 同じものではありえない。つねに暫定的で、それゆえつねに断片的なのだ。

このようにまさに「断片的」にスピノザ思想が紹介され、
スピノザ思想の全体像は謎のままにされてしまいます。
(しかし、この引用部分だけでもスピノザ思想がいかに消費資本主義と親しいかがわかります
本書ではモーゼス・メンデルスゾーンがユダヤ人を消費者として位置付けていることもわかります)

無限や境界、微分や集合などユダヤ思想に欠かせないと僕が感じる要素は、
本書でも数多く触れられています。
合田のユダヤ思想に対する目配りと博識はすばらしく、非常に勉強をしている人だということはよくわかるのですが、
以前読んだ合田の本でも感じたのですが、読んでこちらに伝わってくるものが少ない気がします。

たとえば第6章ではユダヤはどこにも存在しない「非−場所」であるとし、
そのユダヤが場所を持つことの問題、つまりはイスラエルという国について考えるのですが、
ここで合田はマルティン・ブーバーの「キブツ」の運動を紹介し、
マルクス主義のユートピア思想との関連を述べたあと、
それと対決したレヴィナス『固有名』の一節を掘り下げます。
なかなか面白い内容なのですが、章の最後まで読んでも合田自身の見解がよくわからないのです。

終章ではそのレヴィナスに対するアラン・バディウ(本書ではバデュと表記)の批判が紹介されています。
レヴィナスが〈他者〉を大文字化し、様々な〈他者〉たちとの諸状況を抹殺して、
かえって〈他者〉からイニシアチブを奪っているというのです。
僕はここで柄谷行人が『探求2』で相対的他者を欠いた西田幾多郎を批判したことを思い出したのですが、
この内容自体も面白いのですが、ユダヤ思想の紹介というより、現代思想の展開を語っている気もします。

読むことに苦戦しなければ、内容は重要な示唆に富んでいるように思えます。
マルクスがユダヤ人を「貨幣人間」と評したことを僕は初めて知りました。
合田はユダヤ人を「微分的差異」とし、「同の中の他」であると指摘するのですが、
それへの差別は現代にも残り続けている問題だと感じます。
また、ユダヤ教の「ノアの裔」という制度によるネットワークについても勉強になりました。
「ノアの裔」の法とは、7つの戒めを遵守する者ならばユダヤ教徒以外もメシアの世界に参画できる、
という「自然権」にも重なるもので、スピノザは『神学・政治論』でこれを自然の法として捉え直そうとした、と合田は述べています。

このように内容は充実しているのですが、門外漢に不親切な上に、
整理がうまくないというか、まとめが欠如している点が惜しまれます。
それにしてもどうしてこの本を「入門」などと名づけてしまったのでしょう?
出版社に題名で商売するという発想が色濃いのはわかりますが、
こんな硬派な学術書でそれをやるのはどうかと思います。

 

 

 

評価:
合田 正人
筑摩書房
¥ 929
(2017-08-03)
コメント:『入門ユダヤ思想』 (ちくま新書) 合田 正人 著

『幻の名著復刊 中国思想史』 (KKベストセラーズ) 小島 祐馬 著

  • 2017.08.31 Thursday
  • 14:00

『幻の名著復刊 中国思想史』 (KKベストセラーズ)

  小島 祐馬 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   名著の看板に偽りなし

 

 

現在のアカデミズムは専門化(オタク化)が進みすぎています。
専門外の教養に乏しいのに教養人ぶっている大学教員もよく見かけます。
丸山眞男に「タコツボ」と指摘された日本の知のありようを考えると、
その地域の思想を俯瞰する優れた概説書を書く力がある人は多くないでしょう。
50年以上前に亡くなった小島祐馬の書が復刊するのも、
本書が優れていることを示すと同時に、これだけの仕事ができる研究者が育っていないことを感じさせます。

本書は二部構成で、前漢の武帝による思想統一までが前期、後漢から宋の朱子学までが後期となっています。
朱子学までで終了しているのは、そこまでで小島が世を去ってしまったからです。
仕方のないことではありますが、陽明学についての記述がないのが惜しまれます。

諸子百家はもちろん易や陰陽五行の詳細にまで通じた内容にも驚かされますが、
小島の洞察の深さにも光るものがあります。

家族制度からはじまる孔子の道徳の根幹に個人主義的要素があり、
国家統制を破り無政府状態を招く面があること、
孟子の性善説は人の性が純粋に善であるというのではなく、
性の中に善をなす素質があるという点で不善と相対的であること、
墨子の兼愛は儒家のような利己心から発するのではなく、
社会全体の利益を考える宗教的なものであること、
荘子の論は貴族的、高踏的で危険のない立場にあるため、
政治的に尊重されなかったこと、
法家の思想には道家の思想が多分に含まれていること、
などなど、すぐれた考察が随所で見られます。

「中国人は古来極めて実際的な実利主義に終始し、宇宙論のごとき高遠な問題には本来興味を示さない」として、
五行思想に外来文化の影響を指摘するあたりもあざやかですが、
「司馬遷の思想」に一章を割いているのも興味深いところでした。
司馬遷は利己心から成る社会を治めるには自由放任主義が良く、
それによって貧富の差が生じる場合、富者が貧者を圧倒するのを当然の理としたことについて、
小島は司馬遷が貧富の生じる原因を個人の能力差だけと捉えた結果だと指摘しています。
司馬遷が新自由主義者だというのは面白い視点だと感じました。

科挙制度についても小島はすぐれた考察をしています。

 このように士人階級が知識を独占することは、庶民階級によって行
 われるべき生産業の不振を惹き起こす。ひとり商工業のみならず、
 農業においても、何ら生産手段の上に進歩を見ることができなかっ
 た。自然、庶民階級の階級としての擡頭を妨げる素因となった。且
 つ試験による官吏の登用は、士人階級の構成分子に流通性を認める
 こととなり、才能ある者は何時でもこの階級に進入できるために、
 この階級に対する不平ないし反抗力を弱め、階級としての存在を強
 固にさせた。

エリート階級が知識を独占することで庶民階級の進歩はなく、
庶民が試験で官吏になれるためにエリートへの反抗が弱くなり、
結果として階級を強固にするというのです。
このような指摘は現在の日本の受験教育を考えるのにも示唆的です。

後期の思想の方が一般になじみが薄いために難しく感じますが、
後漢の鄭玄が六経を修め、数家を総合し、讖緯五行を網羅して学論を統一し、
儒家の経典の解釈学を大成したことから始められています。
解釈学には訓詁的解釈と哲学的解釈の二種類があり、
漢、唐そして清は前者、宋、元、明は後者にあたるのですが、
後期は政治組織の安定を基礎に解釈の方に向かった時期に当たると思われます。

北宋五子(邵康節、周濂溪、程明道、程伊川、張横渠)から朱子に至るまでの宋学となるとさらに難解です。
彼らが追求したのは天地万物の理なので、一種の宇宙論です。
彼らは陰陽や静と動、理と気など対の要素によって宇宙論を展開するのですが、
それを図示したものが太極図説というものです。
円満で虚無な状態を示す太極という原理から万物が生じていくのですが、
周濂溪は太極の上に「無極」を加えて、無極にして太極という解釈をしました。

程明道は無極にして太極の語を用いないで、「理」もしくは「天理」を宇宙の本体としました。
程伊川は宇宙を理と気の二元論で把握しました。
朱子は周濂溪の太極図説を受け継いだのですが、太極を理と解釈している点が周と異なります。
朱子も理と気の二元論をとるので、これは程伊川から受け継がれています。
気は陰陽そのものですが、理は陰陽を生み出す原因と考えられています。
朱子の思想は多くを北宋五子に負っているので、
小島の解説も北宋五子の方が熱がこもっていて、朱子の方が幾分あっさりしています。

本書の内容をざっと見回すだけでもこれだけ濃厚なのですから、
概説書と言いながら、いかにそこらの新書とはレベルが違うものであるかがわかっていただけるのではないでしょうか。
腰を据えて読むのにふさわしい本なので、じっくり読み進めるのがいいと思います。

 

 

 

評価:
小島 祐馬,呉 智英(解説)
ベストセラーズ
¥ 3,132
(2017-04-26)

『荘子 全現代語訳(下)』 (講談社学術文庫) 池田 知久 著

  • 2017.08.07 Monday
  • 13:28

『荘子 全現代語訳(下)』 (講談社学術文庫)

   池田 知久 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   メタ的で相対主義的な思想の歴史的価値

 

 

漢文につきものの「読み下し」文と語義の「注釈」を省いて、
現代語訳だけを読んでいける『荘子』コンパクト版の下巻です。
篇末に池田の解説が加えられていて、
それがいつ頃の成立でどのような位置付けなのかを考えるヒントが得られます。

下巻は外篇の途中から雑篇にあたります。
通説では内篇、外篇、雑篇となるにつれて価値が下がっていくわけですが、
この編集自体が決定的でないことについては池田が上巻で述べていました。
しかし、僕の実感としても後半に行くにつれパワーダウンしている印象はありました。

帯には「儒教を叱る!」という文句が踊っていますが、
儒教的な知と人為に対して自然と同一化した道を解くというパターンが、
気の利いた譬えもなく、孔子を貶める説教で展開されることが増えていきます。

「譲王」の篇では天下や王の位を譲られながらも、それを断ったりわざわざ死を選んだりする人が描かれています。
天下を治めるより自身の安寧を優先する個人主義的、無政府主義的な態度が強調されますが、
小島祐馬が『中国思想史』で「自分だけがそれから抜け出して超然としていようとする」と述べ、
「少しも危険を伴わない」と喝破したようにメタ的な安全地帯に立っています。

相対主義の罠にどっぷりハマっている章も興味深く読みました。
「山木」篇の第八章は、セミがカマキリに、そのカマキリがカササギに、
そのカマキリが荘周に、その荘周が栗林の番人に狙われていることに気づかないため、
それぞれが己の真実を見失っているとする話なのですが、
これを裏返せば、それぞれが自分だけの真実を見ているという相対主義的な世界観であることがわかります。

このようなメタ的な立ち位置や相対主義を武器にして、自分自身の「養生」(享楽)を肯定する考え方は、
昨今の〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想に近接します。
先に触れた小島は「荘子の思想が当時(注:魏晋時代)の有閑不平の徒の好みに投じた」とも書いていますが、
不満を抱えた暇人の思想という点でも両者は共通するところがありそうです。
道家の思想は最終的に儒家の思想に敗北していきました。
古典を学ぶことは歴史を学ぶことですので、
現代から過去を見るのではなく、過去に現代を発見することに役立てたいものです。

 

 

 

評価:
---
講談社
¥ 1,350
(2017-06-10)
コメント:『荘子 全現代語訳(下)』 (講談社学術文庫) 池田 知久 著

『マルクスとエコロジー ――資本主義批判としての物質代謝論』 (堀之内出版) 岩佐 茂 他著

  • 2017.07.06 Thursday
  • 22:02

『マルクスとエコロジー   資本主義批判としての物質代謝論』  (堀之内出版)

  岩佐 茂 /佐々木 隆治/斎藤 幸平 他著 

   ⭐⭐⭐

   エコロジー思想家としてのマルクス?

 

 

80年代の消費資本主義の隆盛や90年代の社会主義体制の崩壊や方向転換によって、
マルクスの革命思想は人々にとって魅力あるものと映らなくなりました。
もうマルクス思想は過去の遺物となってしまうのか、
そんな時に思わぬ方向からマルクスの再評価が始まったのです。

現在刊行中の『マルクス・エンゲルス全集(MEGA)』には、
マルクスが残した「抜粋ノート」が収録されています。
勉強家だったマルクスが、『資本論』のために他の著作から注目した部分を抜粋してノートに書き写し、
それにともなって自らの思考を書きつけたものです。
この「抜粋ノート」によってマルクスの関心や、著作に表すことができなかった晩年の思考に接近することができるわけです。
まだ「抜粋ノート」の刊行は半分程度のようなので、
この先の研究の展開はいろいろありそうですが、
本書はマルクスのエコロジー的な関心である「物質代謝論」について、
日本MEGA編集員の佐々木隆治や斎藤幸平をはじめ10人の研究者の論を集めたものとなっています。

その肝心の物質代謝論とはどのようなものか、ということですが、
本書の中で何人もが説明してくれるわりに、僕には明確に把握できませんでした。
マルクスが分析対象とする資本主義社会をひとつの有機体と考えて、
そこでの生産の循環的活動を代謝になぞらえたものに思えるのですが、
大きく人間と自然のあいだで起こる物質的な循環のことだと解釈していいようです。

斎藤幸平の論考に詳しいのですが、
マルクスの物質代謝論といわれるものは、
抜粋ノート上でリービッヒとフラースの論にマルクスが強い関心を示していることからきています。
リービッヒは農業に必要な土壌の栄養分を、一方的に略奪するだけでは土地が疲弊することを主張しました。
そこでマルクスは、自然から一方的に略奪するだけでは物質代謝が擾乱されるという発想を得ます。

フラースは植物の生育に気候が重要であることを強調しています。
斎藤によれば、過度な森林伐採が自然条件を悪化させるというフラースの結論が、
マルクスに「人間と自然の持続可能な関係性」の構築を促したようなのです。

ただ、抜粋ノートに記述があるとはいえ、
マルクスをエコロジーの面から語るのはピンと来にくいところがあります。
そこでマルクス独自の資本主義批判とどう結びつけていくかが問われるわけですが、
本書の第二部「経済学批判とエコロジー」では佐々木隆治と明石英人がそのような考察を行なっています。
しかし、正直に言って物質代謝(素材代謝)を『経済学批判』や『資本論』に接続する程度の内容にとどまり、
これまでとは違う新たな抵抗の視点が見出されているとまではいえない気がしました。

第四部は「マルクスのエコロジー論の現代的射程」と題され、
隅田聡一郎が原子力技術について『資本論』による考察を展開しています。
隅田も佐々木と同じく、労働者によるアソシエーションの形成を重視し、
それが生産者から自立した科学技術を生産者の手に取り戻しコントロールすることで、
持続可能な社会を実現していくという考えのようでした。

個人的にはマルクスが再評価される流れは歓迎ですし、
あまり水を差したくはないのですが、
物質代謝論に関してだけいえば、これによってマルクスを読み直す行為は少し退屈に思えました。
少し意地悪な見方をすれば、マルクスは古い共同体への憧憬を抱いていたように思えるので、
物質代謝論もそのようなノスタルジーの現れだと受け取ることもできます。

エコロジー的な視点はマルクスを持ち出すまでもなく重要です。
しかしマルクスがマルクスという名前で人々に抱かせた夢はやはりオルタナティブな世界像だと思いますし、
資本主義に内在する問題を取り出すだけのマルクスはもはや撤退戦でしかありません。

冒頭で岩佐茂も少し触れていましたが、
エコロジカルなマルクス像は、過去の社会主義体制や環境破壊を進める中国などの黒歴史から、
マルクスを救い出すための方策という面が大きいのではないかと疑ってしまいます。
マルクス研究者にとってはその目的も意義のあることかもしれませんが、
僕にとっては去勢された「退屈なマルクス」という印象でしかありませんでした。

 

 

 

評価:
岩佐茂,佐々木隆治,明石英人,斎藤幸平,隅田聡一郎,羽島有紀,梁英聖,クォン・オボム,ポール・バーケット,ジョン・ベラミー・フォスター,カール=エーリッヒ・フォルグラーフ
堀之内出版
¥ 3,780
(2016-06-10)
コメント:『マルクスとエコロジー ――資本主義批判としての物質代謝論』 (堀之内出版) 岩佐 茂 他著

『荘子 全現代語訳(上)』 (講談社学術文庫) 池田 知久 著

  • 2017.07.03 Monday
  • 22:06

『荘子 全現代語訳(上)』  (講談社学術文庫)

  池田 知久 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   原文とつき合わないのも悪くない

 

 

本書はすでに出版されている『荘子 全訳注』から【読み下し】【訳注】を割愛したものです。
言うなれば現代語訳と解説だけで構成されているインスタント版になるわけで、
最初は出版社の楽な金儲けに乗ってしまったと思いもしましたが、
実際に読み始めると、これはこれでわざわざ別に出版するのもアリだと思いました。

書き下し文による漢文訓読文化は学校教育でも扱っているので、
その文化的価値を否定する気はありませんが、
僕は以前から西洋と同じく現代語の翻訳文だけ読んでもいいのではないかと思っていました。
特に、一つ一つの文章の内容に深く分け入るには、
注釈を参考にして書き下し文を読むことに意義がありますが、
書物全体の構成や思想内容の変化など、文章間の比較をする場合には、
現代語訳を次々と読み流していく方が向いている気がしました。

『荘子』は内篇、外篇、雑篇と分かれているのですが、
池田の解説によると『荘子』という書物の成立については諸説あるようです。
内篇が荘子自身の手によるものであり、外篇、雑篇となるに従って新しくなるというのが通説なのですが、
前漢の武帝期あたりまでは、3篇の区別はなかったのです。
これらの区別は前漢末の劉向の編纂を待たなくてはならず、
内篇が重要だという発想も劉向の意向の反映でしかない、と池田は考えています。

とはいえ、読んでみると内篇の逍遥遊や斉物論がやはりおもしろいのです。
人為や知性の企みを否定し、万物を「斉同」とする「無」を根源にある「道」として示す
『荘子』の根本思想とも言えるものです。
池田は斉物論篇第一章を『荘子』の中で最古のものだと述べています。

外篇を読むと、儒教への対抗意識が強く出過ぎているきらいがあります。
人為による外的な統制を嫌い、内的に備わった価値の尊さを語ることが多いのですが、
敵である孔子やその弟子が道家の名士に言い負かされて、
反省したり退散したりする展開がマンガっぽくて、なかなか笑えます。
(上巻だけを見る限りでは、荘子よりも孔子の出番の方が多いのではないでしょうか)

天地(第十二)には孔子と老子の問答があるのですが、
そこで老子が批判する「 不可を可とし、不然を然とす」という論は、
斉物論篇第4章に書かれていた内容と同じなので、
初期道家の万物斉同の哲学を後になって道家自らが否定しているかたちになっています。
これについて池田は儒家の攻撃に道家が屈したと見ているのですが、
このあたりの思想の変化を確認するのにも、
現代語訳での通し読みはうってつけだと感じました。

 

 

 

評価:
---
講談社
¥ 1,382
(2017-05-12)
コメント:『荘子 全現代語訳(上)』 (講談社学術文庫) 池田 知久 著

『語る藤田省三――現代の古典をよむということ』 (岩波現代文庫) 竹内 光浩 他編

  • 2017.07.03 Monday
  • 16:58

『語る藤田省三  現代の古典をよむということ』

  (岩波現代文庫)

  竹内 光浩/本堂 明/武藤 武美 他編

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   今も傾聴に値する言葉

 

 

丸山眞男に師事し、法政大学教授だった藤田省三がこの世を去ったのは2003年でした。
処女作『天皇制国家の支配原理』を上梓したすぐれた理論家でありながら、
60年安保反対闘争に参加する活動的な面を持つ、信念ある人物というのが僕の印象です。

本書の中心(兇良分)は大学紛争により71年に教授を辞めて80年に復職するまでの期間に、
かつての教え子を相手に自宅で開いた研究会の記録をもとにしています。
(そのとき建設会社で肉体労働に従事していたことを年表で知って驚きました)
題名に「語る」とあるように、本書には若い人へ向けた藤田省三の熱い語りが収録されていて、
みすず書房から出版されている著作とはまた違った面を知ることができます。

吃瑤覇E弔蓮峺渋紂廚砲弔い胴融,靴討い襪里任垢、
テレビに代表される視聴覚文化が、自己イメージの運動によって一面性を強化し、
歴史的に形成された価値の多様性や物事の多面性を喪失させると語ります。
のちに藤田は「安楽の全体主義」という論考を書くわけですが、
インターネット隆盛の現代、一面的な見方がメディアによってそれぞれの「真実」として発信されることで、
ポスト・トゥルースと言われる非全体的極限状態を生み出しているあたり、
藤田の指摘は現代においてもまだまだ色褪せていません。

読書会(局堯砲任蓮⊃慌外や尾崎翠、ジョイスやベケット、ブレヒトなどの文学が取り上げられています。
教え子の発表に対するリアクションの形で藤田の発言がなされています。
僕は藤田が文学について語った文章はあまり読んだことがなかったので、非常に興味深く読みました。
最後に「藤田の語りを聞き終えて」と題して武藤武美の解説が加えられているのも親切です。
僕が面白いと思った藤田の発言をピックアップしてみます。

 いつも自分が中心だと思っている奴は、システムに頼っ
 て、システムに証明を見つけている無責任さしかない。
 (中略)システムの側にあるのは、権威を笠に着た公平
 さであって、人間として、一列横隊に並んだ時の公平さ
 ではない。

 人間たらしめる権威、「詩的敬虔さという自家用の宗
 教の元」、そこに注目して再出発するのが現代の課題
 だ。僕らはそうした意味では、大きく言えば人類の代
 表者の気概をもってもいい。だからこそ不遜になろう
 ではないか。駄目な人間は全て軽蔑すればよろしい。
 新左翼であろうと、大学教授であろうと、上司であろ
 うと。我々は人類の代表委員だと思えばよろしい。

 「自由」とは「不安」なものだという感覚がこの国に
 はない。自由とはいいものだという程度しかない。

 学界とか政界とかはうんと狭い世界。せいぜいが君た
 ちは総理大臣になりたがっている連中と同じレベルだ。
 仕事とかこの業界はいやだいやだと誰もが言いながら、
 ポストだけは欲しいと思っている。それはなぜか? 
 もう一つ別の世界、反世界を築いていないからだ。

敬瑤料鞍召浪生徂徠の『政談』についての藤田の講演です。
江戸時代初期の制度は諸大名の力を削いで安定した社会を生み出したのですが、
町人が発生し社会がアナーキーになるところで、根本的な制度の立て直しが必要だと徂徠は考えました。
藤田は徂徠の社会学的視点を高く評価しています。
最下層の生活様式に注目する視点に「当時の身分主義を越えたところの見方がある」としています。
また、俳諧的精神と掏摸的精神がともに一瞬の勝負という共通項を持つとするあたりもおもしろいです。

孤瑤痢嵒集修虜にあるもの」では、
全てにリアリティがない時代にリアリティのあるものを書くには、
自分の信じるもの、人間の拠って立つ根源を取り出し形にすることが大切だと述べます。
とりわけ、主体性を薄めたり曖昧化したりすることに思想的意味があると倒錯し、
幼稚な反コミュニケーション精神(ナルシシズム)を垂れ流す人間が増えている現在、
「生きている主観性自体に社会は浸透し、染みとおっている。
主観を突き出る形でしか社会性をもった作品は生まれない」という藤田の指摘は重いと感じます。

 文章の迫力とはその生活自体の迫力、その主観性に含
 まれている社会性との葛藤の迫力だ。その経験を最初
 からスポイルしているから、いつまでたっても頭の中
 で人工の模造真珠しか出来ないのだ。

 

 

 

『カント 美と倫理とのはざまで』 (講談社) 熊野 純彦 著

  • 2017.05.06 Saturday
  • 22:57

『カント 美と倫理とのはざまで』 (講談社)

  熊野 純彦 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   自然の美は倫理的存在としての人間を肯定する

 

 

ドイツ哲学研究者の熊野純彦が「群像」に連載した論考をまとめたのが本書です。
熊野自身が研究者相手と一般読者相手の文章を器用に使い分けられないと言っているように、
内容は専門的でないとは言いにくいのですが、
それでも一般読者を意識して書かれた読みやすい文章だと感じました。

本書はカントの第三批判である『判断力批判』を扱っています。
我々が自然を見て美しいと感じるのは、自然自体に技巧的な価値があるわけではなく、
我々の「判断力」によって美と感受されるというのがカント的な発想ですが、
そのような自然の目的なき合目的性と倫理との関わりに熊野は注目します。

第三批判は「自然概念と自由概念とを架橋し、感性的なものと超感性的なものとのあいだに橋をかけ、
批判哲学の世界像を完結させるというもの」と整理する熊野は、
感性的なものとしての自然概念の領域と超感性的なものとしての自由概念の領域のあいだを超える
無限で理念的なものが、「呈示されないもの」として予感されると述べます。
これが人間が倫理的存在であることと関係することが論が進むにつれ明らかになってきます。

カントは自然の最終的な目的を人間に置きます。
「人間がただひとつ地上において目的の概念をつくり出し、
合目的的に形成された事物の集合から、みずからの理性をつうじて
目的の一箇の体系をつくり上げることのできる存在者である」
そう書くカントは人間を特権化しているのですが、
その人間を含む自然の究極目的を考えると、自然の外部へと至るしかなくなります。
自然を超えた崇高なもの、すなわち倫理がここで要請されるのです。
人間が自然のうちに美を感受し、自然を崇高なものと感じることができるのは、
倫理を実現する主体であるからなのです。

熊野の論に批評的独創性はあまり感じられませんが、
そのぶん原典に根ざしたしっかりした読解をしているという信頼性があります。
非常に勉強になる一冊でした。

 

 

 

『カント入門講義: 超越論的観念論のロジック』 (ちくま学芸文庫) 冨田 恭彦 著

  • 2017.05.03 Wednesday
  • 21:16

『カント入門講義: 超越論的観念論のロジック』

 (ちくま学芸文庫)

  冨田 恭彦 著 

   ⭐⭐⭐

   入門書と言うならカント思想の意義を書いてほしかった

 

著者の冨田はアメリカ哲学が専門です。
カント研究者でないことが気になりましたが、
第5章までのカント思想の解説は非常にわかりやすく、
まさに「入門講義」の名にふさわしいものだと感じました。

しかし、冨田は本書の前に出版した岩波現代全書でカント思想の批判的考察をしているためなのか、
特に第6章から揶揄的ニュアンスが増えていくことが気になりました。
(冨田本人は自覚していないのかもしれませんが)
岩波現代全書の方は批判自体が目的となっている本なので問題はないと思うのですが、
僕のようなカント学習の初心者にとっては、
「入門講義」と言っておきながら、
著者がその思想に対して冷えた感情をあらわにするのは、あまり愉快ではありませんでした。

冨田はロックが仮説的対象として想定した「物そのもの」を、
カントが「物自体」として決定的な存在として前提したことを問題にします。
しかし、僕の乏しい知識では、カントの「物自体」はそもそも彼の思想の中で問題の多い部分であったはずです。
「入門講義」でわざわざそのことを取り上げるくらいなら、
もっとカント思想の伝えるべき部分が他にあったように思います。

たとえばカントはフランス革命に影響を受け、自由や主体性の問題を考えて思想を構成したはずですが、
冨田の解説にはその面が全くといっていいほど出てきません。
そのためカント思想の倫理的な面は置いていかれ、
認識論のロジックばかりが取り上げられることになり、
結果としてカント思想の魅力は語られずに終わっている気がしました。
(このあたりはドイツ思想に詳しい方の意見が知りたいところです)

アングロ・サクソンの思想に慣れた人がカントに批判的なのは意外ではないのですが、
「入門講義」はオーソドックスであることが望まれます。
「入門」を求めている方は最初からバイアスがかかっている本だと用心して読むことをお勧めします。

 

 

 

『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか : 人間の心の芯に巣くう虫』 (インターシフト) シェルドン・ソロモン 著

  • 2017.03.02 Thursday
  • 10:05

『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか : 人間の心の芯に巣くう虫』 (インターシフト)

 シェルドン・ソロモン/ジェフ・グリーンバーグ/トム・ピジンスキー 著/大田 直子 訳

   ⭐⭐⭐

   書名のつけかたに技アリ?

 

 

まずこの本が、人々の政治的な「保守化」について述べていないことを知らせておきます。
「保守化」という語も出てこなかった気がします。

本書の原題は「The worm at the core」なので「人間の心の中に巣くう虫」の方がオリジナルです。
内容はアメリカの心理学教授による「恐怖管理理論」という
死の恐怖が人間の営みに与える影響を心理学的に考察したものでした。
近年、翻訳本に限らず「なぜ〜か」という書名の本がやたら増えた気がします。
(僕の記憶では「さおだけ屋はなぜ〜か」あたりから目立つようになった印象です)
場合によっては、題名で「なぜ〜」と打ち出した疑問の答が迷子になっているような本もあって、
立ち読みできないネット通販時代の題名商法ということなのでしょうが、
本書もそのような疑惑を抱かれかねない本だと言えます。

書名から思い浮かぶトランプ現象はもちろん、
保守化についても直接には語られてはいないのですが、
保守化の心理を考える上で示唆に富む本ではあります。
むしろ僕は「うまい釣り題名をつけたもんだ」と感心してしまうくらいでしたが、
求めている内容以外に興味がない人は中身をパラパラ見ることをおすすめします。

死の恐怖を克服するために人間の文化が生まれた、という考えは、
わりと当たり前の考えだと思っていたのですが、
心理学ではあまり扱われない題材らしいのが意外でした。
そんな僕にとっては驚きの事実のようなものはほとんどありませんでしたが、
楽しめる本ではありました。

「恐怖管理理論」では、死の恐怖を乗り越えるために
母親の代替物である文化的世界観への所属や
自尊心の働きが取り上げられます。
自分が有意義な世界に貢献していると信じることが、
死の恐怖への防衛となるというのです。

この説が正しいとして、強引に保守化に関連させるなら、
若い時に学生運動をしていた人が老人になると愛国主義になったり、
自らの文化的世界の維持に躍起になったりすることの説明がつきます。

「物事の文化的成り立ちに対する信頼が傷ついていなくても、
人は自分がその成り立ちの重要な要素だと感じる必要がある。」(p70)
という記述も強引に保守化と結びつけられなくもありません。
日本人が日本国憲法の成立の重要な要素ではなく、
アメリカに押しつけられたと主張したがる人が増えているのも、
自主憲法の成立によって自尊心を高めて、
死の恐怖に対する防衛をはかっていると説明できるのです。
(死の恐怖が動機ならば、憲法改正がやたら国防の面から語られることも納得できてしまいますね)

ナショナリズムとカリスマ指導者への愛を取り上げた部分(p144〜151)では、
ヒトラーとレーニンが同列で扱われているのですが。
このあたりも政治的保守化の参考になるかもしれません。

それでも大部分は「保守化」や「感情的な選択」とは縁が薄い内容だと繰り返しておきます。

個人的に面白かったのは、
本物の自尊心を持つ人とナルシストとの違いでした。
本物の自尊心を持つ人は自分の誤りを認められるのに対し、
ナルシストは責めを受け流す精神力がないので、
傷つけられたプライドを取り戻すために相手にくってかかるというのです。
(トランプ大統領や我が国の首相が思い浮かんでしまいます)

自分と違う人に恐怖を感じると、相手を小さい枠にあてはめたり、悪者にするという分析も、
僕自身、実感するところがあってひざを打ちました。

著者たちは死を超越したいという人間の切望が、
違う文化への暴力へと結びつくとも指摘しています。
相手の真実を認めることが、自分の真実に疑問を抱くことになるからです。
このような事態への対処法として、彼らは「死すべき運命を受け入れよ」と語ります。

本能に反するような結論に説得力があるかは微妙ですが、
「恐怖管理理論」という考え方からはこれ以外の結論はありませんよね。
あまり期待をしすぎないで軽い気持ちで読むのにふさわしい本だと思います。

 

 

 

評価:
シェルドン・ソロモン,ジェフ・グリーンバーグ,トム・ピジンスキー
インターシフト
¥ 2,376
(2017-02-15)

『丸山眞男の敗北』 (講談社選書メチエ) 伊東 祐吏 著

  • 2016.12.07 Wednesday
  • 09:06

『丸山眞男の敗北』 (講談社選書メチエ)

  伊東 祐吏 著 

 

   ⭐⭐⭐

   問題意識の欠けた丸山眞男論

 

 

著者の伊東は1974年生まれで僕と近い年齢なので、
丸山眞男の活躍を同時代人として体感していない世代です。
だからこそ丸山を背景となる時代の中で理解することが欠かせません。
伊東は丸山の仕事を、戦中期、敗戦〜1950年、1955〜1960年、1955〜1960年、それ以後と時代区分をして、
丸山の思想の全体像を描き出していきます。

冒頭で伊東は丸山の哲学の特色を「相対の哲学」とまとめています。
「相対の哲学」とは社会が現在進もうとする方向を修正するために、
わざとそれと逆方向の議論をぶつけるというやり方のことです。
舟が右に傾いたら、バランスをとるためにわざと左に傾けようとする方法という感じでしょうか。

本来進むべき方向を愚直に説き続けるのではなく、
わざわざ行き過ぎた逆向きの議論をぶつけるというやり方は、
ナルシシズムに惑溺して一定方向に振れてしまいがちな日本社会への対処として考えられたものでしょう。
これは社会の逆風の中で仕事をしたものにしかわからない感覚です。
実際、丸山は投獄された経験もありました。
戦時中の東大法学部への弾圧についても本書に書かれています。

伊東は戦時中の丸山が「近代の超克」から「近代化の不徹底」へと転向したと述べています。
「転向」という語は近代文学においては権力に屈していく場面で使われるので、
体制批判を意図した「近代化の不徹底」を「転向」と表現することに、
僕個人としては違和感がありますが、
初期論文を丁寧に読み込んでいることには好感が持てました。

丸山が兵士にとられて広島で被爆した経験をもち、
それがその後の生涯に影を落としたことについては、
本書を読むまでよく認識していませんでした。

伊東は敗戦から1950年までを丸山の〈第一期〉とし、
「主体性」「ファシズム研究」「政治学」の3つのテーマに整理します。
丸山は福沢諭吉を援用し、国家と国民がバランスの取れた両輪であるためには、
国民の側の主体性の成熟が必要だと説きました。
伊東は丸山の説く「主体性」を理想状態をめざす「やる気」のようなものとし、
個人と国家の関係において語られるものが多いとします。
それが戦時中の国家偏重の価値観への反省であることは明確だと思うのですが、
どうにも伊東は戦時体制の批判に関わる部分には及び腰であるように思えました。
そのため、丸山の「主体性」についても輪郭が曖昧になっています。
「超国家主義の論理と心理」論文の内容に踏み込まない点にも不満が残ります。
(今のご時世で踏み込みたくない気持ちはわかりますが、丸山眞男の「敗北」とまで言うのなら、
後世というメタ視点に安住せずに伊東も同時代と戦うべきではないでしょうか)

このように「主体性」という言葉は国家偏重の価値観を正すために持ち出された面があったわけですが、
国内の戦後史も知らないフランス思想の研究者が、安直に主体性批判を語るのは教養の崩壊(とオタク化)を示しています。
日本の戦後思想も知らずに西洋思想だけを読んで、自分が教養人だと勘違いする輩が増えたことと、
国家偏重の価値観が復活していることは無関係ではないと思います。

1950年以降、丸山は結核に悩まされることになります。
その影響が丸山に政治学との決別を迫ったと伊東は見ます。
丸山は日本思想史の研究へと移行し、思考様式の改革を目指したのです。
有名な「日本の思想」(1957)や「忠誠と反逆」(1960)はこの時期に執筆されたものです。
60年安保闘争が盛り上がると、丸山の名が世間に広く知られるようになるわけですが、
皮肉にもこの時期に丸山は政治学から離れていたと伊東は言います。

その後の丸山は日本思想史研究へと沈潜していきます。
「歴史意識の『古層』」(1972)は60年代の研究のまとめとして発表されました。
「古層」論のキーワードに「執拗低音」というものがありますが、
楽譜まで持ち出してこの語の説明をしてくれたのは伊東が初めてです。

伊東は丸山が「日本には思想がない」と言っていることに対して、
「いささか節度を欠いている」と批判的です。
養老孟司が「無思想の思想」と呼ぶような「ゼロの思想」を日本思想史家が考慮しないことを問題視します。
伊東自身は日本は無思想の状態と思想にナルシスティックに憑かれる状態が、
ハレとケのようにセットとなっていると主張し、
そう捉えない「丸山眞男の日本思想史は失格している」と断じています。

しかし、丸山が言う「思想」とは西洋的な体系思想のことなので、
「無思想」を思想として捉えていないのは当然だと僕は考えます。
(それは「ササラ」と「タコツボ」の比較からも明快です)
丸山の思想の捉え方が西洋的だという批判はありうると思いますが、
無思想と思想憑きがセットになるという発想自体、
日本人のナルシシズムを保存する発想でしかないので、
それを基礎として日本を論じろという要求は酷だと思います。

このような点から、伊東は丸山の論文をよく読み込んでいるとは思いますが、
丸山の精神を十分に理解できているようには感じられませんでした。
丸山が感じた日本人のナルシシズムへの危機意識を伊東は全く共有していないのですから、
どんなに論文を読んでも表層的な理解にとどまるわけです。
(思想というのはお勉強がデキることとは全く違うのです)

そのため、最終結論で丸山眞男の「敗北」をやすやすと語ることになります。
伊東は丸山の思想には戦時中に失った人々という「死者」の存在があるとします。
その点で死者を利用した非常時の思想であって、日常に戻れば忘れられるものでしかなかったと述べます。
伊東は丸山と比較するために詩人の石原吉郎を持ち出しますが、
さて、石原が丸山以上に現在忘れられない存在になっているでしょうか?
日本人のナルシスティックな体質を改善するためには、
死者を利用する形で思想を展開する必要があったことに伊東は気づきません。

丸山が問題視した日本人のナルシシズムに対して批判的な視座を持たずに、
それを当然のものとして受け入れた姿勢で丸山眞男を研究することに、
何の意味があるのか、ということを非常に考えさせられる本でした。

 

 

 

『入門 近代仏教思想』 (ちくま新書) 碧海 寿広 著

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 08:26

『入門 近代仏教思想』 (ちくま新書)

  碧海 寿広 著 

 

   ⭐⭐⭐

   なぜ真宗大谷派ばかりなのか

 

 

仏教の日本文化への影響の大きさは誰でも認めるところですが、
近代にも仏教が重要な役割を果たしたことはあまり重視されていないようです。
本書はその間隙を埋めるべく仏教の「哲学」化という観点で、
日本近代仏教思想を描き出そうとする意欲作です。
著者の碧海もあとがきで「(本書は)類書のない作品であると言えるだろう」と自負をにじませています。

本書の構成は、仏教の学問化・教養化を進めた5人の人物の紹介となっています。
井上円了、清沢満之、近角常観、暁烏敏、倉田百三がその5人です。
人物伝を中心として彼らの思想を扱っているので、非常に読みやすいです。
「入門」を謳うにふさわしく、彼らをよく知らない人でも興味がわくように書かれています。

ただ、この5人が浄土真宗の大谷派ばかりなのは気になりました。
仏教を下地として日本的「哲学」をやろうとすると、なぜ浄土真宗になってしまうのか。
碧海は真宗が近代社会に対応する優位性を備えているとは書いていますが、
真宗が西洋哲学とどのような関係にあるか追求しようとしないのは少し不満でした。

田辺元が『懺悔道の哲学』として親鸞を取り上げたり、
吉本隆明が『最後の親鸞』を書いたり、
親鸞は思想家にも人気があるのですが、
それは浄土真宗がキリスト教に近い部分があることと関係が深いように思います。
真宗は阿弥陀如来にだけ帰依する点で一神教的ですし、景教の影響もささやかれます。

西洋への対抗意識やコンプレックスが強まると、
日本の中に西洋的なものを「再発見」しようという心理が働くのは避けがたいことです。
「日本回帰」という言い方がされることもしばしばですが、
本書では暁烏が戦時体制に前向きに関わったことも終章で書かれています。
阿弥陀如来と天皇を重ね合わせた「戦時教学」の問題も含めて、
日本が擬似近代を形成するときに西洋の代替物として真宗が「再発見」されたことは、
付け足し程度ではなく、もう少し深く語られるべきだと思います。

清沢満之や暁烏敏の思想内容にも問題点はあったはずです。
伝統からの逸脱にどんな問題があったか、そんな記述があると良かったように思います。
問題があって触れずにいたものが、時が経つことにより「再発見」されることは自然の流れですが、
西洋的な要素によって伝統を読み替えることには危険が伴うことを、
過去の失敗から学ぶ態度は忘れたくないものです。

 

 

 

『日本的ナルシシズムの罪』 (新潮新書) 堀 有伸 著

  • 2016.07.06 Wednesday
  • 08:23

『日本的ナルシシズムの罪』 (新潮新書)

  堀 有伸 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   都合の悪いことを黙殺する日本社会をナルシシズムの精神構造から分析する

 

 

本書は堀にとって初の著書ですが、非常に学術的内容の濃い本です。
精神分析はもちろん、過去の社会学的な日本論への目配りなども的確で、実力は確かです。
これからの著作活動も注目していきたい人になりました。

まず、堀は日本社会の分析にはフロイトのエディプス・コンプレックスよりも、
女性分析家クラインの母子関係を重視した理論が参考になると言います。
このようなことは当然すぎるほど当然だと僕は思っているのですが、
いまだ西洋かぶれの日本人が「アンチ・オイディプス」とか口にしているのが実情なので、
このあたりは強く主張してもらいたいものです。

クラインの理論とはこういうものです。
乳児は母親との一体感を求めますが、不在の母を「悪い母」と考え、
一体化できる「良い母」を求め、不快な「悪い母」を排除しようとします。
しかし、実は両者はひとつの存在であると気づく(抑うつポジション)ことで、
良い面も悪い面もある現実を認めることができるようになります。

しかし、母の不在という苦痛から逃れるために、
子供は自分の欲求に応えてくれない母を見下し、
母が自分に従属するのが当然だという内的空想を育てるようになります。
これが「躁的防衛」で、ナルシシズムのひとつの形です。
堀は日本社会にこのようなナルシシズムが見られると言います。

 日本の社会はそのような「個人」を基盤として成り立ってはいま
 せん。個人の確立よりも、想像上の一体感のほうに流されがちで
 す。そのせいか日本の世間は困難に直面すると、えてして論理で
 はなく情緒的に結びつこうとします。そこには「想像上の一体感」
 にこだわり、直面する課題を過小評価する「躁的防衛」、すなわ
 ち現実を見ようとしない「ナルシシズム」への引きこもりが窺わ
 れます。

乳児にとっての母が、集団ひいては社会にまで拡大され、
その社会が自分の思うとおりにならないと、現実を否認して、
集団との「想像上の一体感」という空想へと没入し、ナルシシズムを育てていく。
難しく書いていますが、簡単に言うと、
日本人は都合の悪いことを見て見ぬフリをして、自分を守ることを優先する精神構造を持っているということです。

たとえ真実であっても場の空気を壊す内容は言わないようにする。
そんな体験は誰でも思い当たらないはずがありません。
集団の空想を維持するために、真実であろうと報道しないメディア、マスコミ。
それがナルシシズムを維持するためだ、とハッキリ言う人があまりいなかったので、
堀がこの本を出版したことは非常に勇気ある挑戦だと思います。

また、依存対象である母を内心で見下す「躁的防衛」は、
親に依存しながら親を軽蔑する引きこもり的なナルシシズムといえます。
「躁的防衛」で説明できる例はいくつも思い当たります。

第四章では日本の伝統的心性から「日本的ナルシシズム」を考察しています。
加藤周一、中村元、木村敏、川島武宣、藤田省三などの文献が紹介されていますが、
川島以外は僕も既読の本でしたので、まとめ方のうまさが印象に残りました。
他の章でも土居健郎「甘えの構造」や中根千枝『タテ社会の人間関係』に触れていて、目配りもきいています。

語り口はわかりやすいのですが、そのわりに内容は学問的なので、
全体として中途半端な印象になったことが惜しまれます。
堀は「日本的ナルシシズム」という集団への一体感を、
「自虐的世話役」や「メランコリー親和型」などの精神分析の概念で説明するのですが、
概念自体の理解もひととおりの説明でしかないことに加え、
それと「日本的ナルシシズム」との関係が体系的に示されていないために、
読者が漠然とした理解にとどまってしまう気がします。
(ちなみに僕はもう1回読み直しました)

堀は現代のナルシシズムの形として、
「メランコリー親和型」から「ディスチミア親和型」への変化について語っています。
「メランコリー親和型」による集団への「想像上の同一化」を単純に否定すると、「ディスチミア親和型」が現れるというのです。
「ディスチミア親和型」というのは、自己自身への万能感によって社会へのコミットを否定する精神構造のことです。
僕はこのことを知って、社会からの逃走や切断ばかりを訴える日本の〈フランス現代思想〉研究者を思い浮かべました。

僕はレビュー上で〈フランス現代思想〉の日本的受容をナルシシズムを強化するものとして批判してきましたが、
これまでの「メランコリー親和型」の集団との同一化への裏返しとして、
「ディスチミア親和型」である社会からの逃走、切断という欲望が、
〈フランス現代思想〉というかたちで現れたのだと考えると、
ナルシシズムと結びつくことの説明がつけられます。

僕個人の関心を書いて脱線しましたが、
著者の堀はナルシシズムに関して福島の原発事故の方に強い関心を抱いています。
堀は相馬市でメンタルクリニックの院長をしているのですが、
福島で医療に携わる者として、第七章では原発にまつわる様々な問題についてナルシシズムの面から提言をしています。

このような不都合を否認する「日本的ナルシシズム」にはどう対処すれば良いのでしょうか?
堀はナルシシズムの病理を克服するために、
自らのマイナス面を直視することを求めます。

 どちらも良い面と悪い面があるものだ、と物事を相対化させる
 だけではなく、日本文化のマイナス面を「日本的ナルシシズム」
 として抽出し、それと真剣に向き合って思考することが、時代
 の変革期における精神危機を乗り越えるためには必要です。

僕はこのような正攻法がナルシストに通じるとは思いませんが、
堂々と正攻法を語る人物がいることには勇気づけられました。
日本人の必読書とも言うべきものですが、
一体化を批判した本で国民が一体化したらおそるべき皮肉でしょうね。

 

 

 

『大乗とは何か』 (ちくま学芸文庫) 三枝 充悳 著

  • 2016.06.19 Sunday
  • 08:14

『大乗とは何か』  (ちくま学芸文庫)

  三枝 充悳 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   大乗仏教の泰斗による諸論考

 

 

釈迦が教えを説いて発展をとげた仏教は、大きく小乗と大乗に分かれています。
釈迦直接の教え(金口説)に基づく専門の出家者のための小乗に対し、
大乗(マハーヤーナ)は在家信者をターゲットにした新興運動として起こりました。
「大きな乗り物」を意味する大乗は仏教を専門家の外部へと拡大し、
在家の人々を救済する他者へと道を開く大衆化運動でした。

経典としては一連の般若経をはじめ、華厳経、浄土三部経、維摩経、法華経などが誕生し、
空の思想や唯識思想、密教もここに含まれるので、
大乗と言ってもその範囲はかなり広いということになります。

本書の題名は入門書を想起させますが、
三枝が仏教学の研究者であるだけに、内容は専門的な部分が少なくないように感じました。
たとえば「菩薩」という言葉が歴史的にどう使われていったかという論考は、
仏教の展開と仏教文献の知識がないと読むのに苦労します。
また、「波羅蜜」という言葉は「最上」「完成」などの意味と、
チベット系由来の「彼岸に至る」という意味の両説があるのですが、
後者の意味は間違いだという論が三枝によって紹介されています。
結局三枝自身の判断は保留という感じでしたが、
これもちょっと学術的な興味という感じではありました。

僕が興味深かったのは、三枝が仏教と西洋哲学を比較した論考です。
(ミュンヘン大学に留学した経験を持つ三枝は、西洋哲学にも通じています)
三枝によると、西洋哲学において信と知の関係は近接はしても疎遠でしたが、
仏教は宗教と哲学が一致し相即していて、ブッダになる教えとして発展したことを特筆すべき点としています。
また、知を誇張し依存するとスピノザやライプニッツのように必ず形而上学の確立へと向かいますが、
仏教では知を重視しつつも、いたずらに膨張することを厳しく禁止して、
知が現実の実践から遊離しないように、知が自らの領域を自覚するよう戒めました。
そのため仏教は形而上学を排除しています。
そして仏教がドグマを持たないことも三枝はあげています。

三枝は仏教を「ニヒリズムやスケプティシズム(懐疑論)には陥らない相対主義」として、
仏教内部の教理の多様性もしくは自由放任を反ドグマ主義として捉えています。

「金剛般若経」が一連の般若経の中でいつごろに成立したのか、
という論考も興味深かったのですが、やはり難しい話でした。
もう少し知識が深まってから読み直したい本ですが、
初学者にとっても得るものが多い論考が集まっていると思います。

 

 

 

『唯識の思想』 (講談社学術文庫) 横山 紘一 著

  • 2016.05.04 Wednesday
  • 18:21

『唯識の思想』 (講談社学術文庫)

  横山 紘一 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   奥深い思想の入口に

 

 

仏教は原始仏教→小乗仏教→大乗仏教という発展を遂げました。
他者救済を目的とする大乗仏教に「唯識」という思想があります。
文字のまま捉えると「ただ識(心)だけがある」ということになりますが、
自分の周囲の現象が心の根本にある阿頼耶識から生じている、ということを主張するものです。
(これを〈一切は唯識所変である〉というそうです)

僕は横山の他の唯識思想の本も持っていましたが、
唯識の思想はかなり奥深くて頭になかなか入りませんでした。
本書は初心者向けに書かれている印象で、
「唯識」という言葉を初めて聞く人でも読み進められると思います。

唯識思想はもともとインドで発展した思想です。
実在非実在の両説がある弥勒(マイトレーヤ)と
無著(アサンガ)世親(ヴァスバンドゥ)兄弟によって体系化されました。
彼らの著作を漢語に翻訳したのが三蔵法師として有名なあの玄奘です。

唯識思想では「一人一宇宙」だと考えます。
他の人と言葉を介して認め合う抽象的世界というものは想定されますが、
それは実際には存在しないものとして否定されます。
具体的世界は自分だけのものであり、人は牢獄の中で生きているというのが唯識の発想です。

唯識思想では外の世界に「もの」は存在しないとします(唯識無境)。
我々が「もの」と考えているものは、
言葉を用いて執着することで実体と思い込んでいる「遍計所執性」でしかありません。
こう言うと、一切は自分の心が生み出す幻想だと解釈したくなりますが、
横山はバークリーの唯心論が存在の有無に基づく神の実在証明を目的としていることを説明したあとにこう語ります。

 これに対して唯識思想の唯心論とはどういうものなのでしょうか。
 結論からいえば、それは「他者を救い、自らも救われていくための、
 救済のための唯心論である」といえるでしょう。

横山は心が仮であることを強調し、唯識思想の特徴について
認識対象のみならず認識主体もない有無を超えた「空」へと至るプロセスとして説明しますが、
この引用文は非常に興味深いものでした。
唯識思想は苦からの救済を目的とした思想なのです。
苦の原因である執着を断つために構成された唯識思想は、
ある種のプラグマティズムと考えてもいいのかもしれません。
「瑜伽」つまりヨーガの実践と結びついていることも強調したいところです。

唯識思想では「空」の思想にあった六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)に加えて、
末那識・阿頼耶識を加えて八識を立てています。
末那識は深層ではたらく自我執着心で、「自分」という思いが捨てられない原因となるものですが、
これをなくすのではなく、「智」へと変化させる(転識得智)ことを唯識思想は目指しています。

すべての存在を生じる力を種子と呼びますが、その種子を有しているのが阿頼耶識です。
「一人一宇宙」であるその宇宙を形成するのが阿頼耶識のはたらきです。
だから自然界も阿頼耶識がつくりだしたものと唯識思想では考えます。
表層心に憎悪などの悪いものが生じると、それが深層心の阿頼耶識に貯蔵されます。
そうして、もともとの無色の世界を言葉で醜く色づけしてしまうことになります。
それをもとの世界に戻すために〈念・定・慧〉というヨーガの実践がなされると横山は述べています。

入門書ではありますが、思想の奥深さは実感できます。
この一冊で十分ということはありませんので、さらに他の本へとステップしていくのが良いでしょう。

 

 

 

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