『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』 (河出書房新社) スティーヴン・シャヴィロ 著

  • 2016.11.19 Saturday
  • 19:27

『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』 (河出書房新社)

  スティーヴン・シャヴィロ 著

 

   ⭐⭐

   思弁的実在論の批判的考察

 

 

「思弁的実在論とは何か」という副題がついているように、
本書は近年注目を集めている思弁的実在論を取り上げています。
ただし、本書は思弁的実在論の紹介を意図したものではありません。
思弁的実在論に照らしてホワイトヘッドの思想を見直すことが本書のテーマです。
そのため、ある程度ホワイトヘッドや思弁的実在論に対する知識が要求されます。

著者のスティーヴン・シャヴィロが何者なのか、本書の解説などを見てもよくわからないのですが、
映画や文学、資本主義や消費文化を分析した著作があるので、
ゴリゴリの哲学畑というより幅広い関心を持つ人のようです。

思弁的実在論や「新しい唯物論」などの名称で括られる思想家たちは、
人間の思考においてのみ存在に関係しうる相関主義の限界を超えて、
人間が不在でも実在する「モノ」についての思想を試みています。
シャヴィロは彼らの思想を手がかりにホワイトヘッドの思想の有効性を説いていきます。

たとえばシャヴィロはわりとグレアム・ハーマンには好意的に思えるのですが、
ハーマンとホワイトヘッドの思想を比較してこう言います。

 ホワイトヘッドは決定をなす様々な存在者からなる動態的な世界
 を構想する。より精確に言えば、その存在そのものが実行する決
 定によって成り立っているような存在者たちの世界のことである。
 対照的に、ハーマンの存在者たちは自発的に行為したり、決定す
 ることがなく、それらは端的に存在する。

シャヴィロはハーマンが対象を互いに分離し孤立させることに執心したために、
接続やコミュニケーションが脆弱で偶発的なものでしかなくなると指摘します。
対するホワイトヘッドは相互浸透する存在者たちの自発的な選択と決定による、
分離し結合し変化する新たな創造に富む世界を描いているとします。

思弁的実在論も内実を見れば人によって方向性は異なるのですが、
カント的な相関主義(とそれによる人間中心主義)を拒絶する立場であることは共通しています。
相関主義の完全なる拒否は思考の排除へと向かいます。
シャヴィロがカンタン・メイヤスーやレイ・ブラシエの思考を「消去主義」と呼ぶのはそのためです。

シャヴィロは相関主義批判には両極しかないと言います。
「相関主義的循環の外に歩み出すとき、ぼくたちは一方で汎心論、
他方での消去主義という選択に直面するのである」
消去主義と汎心論もしくは両者の結合によって、
世界は「人間の生や思考にとってよそよそしく、明らかに敵対的なもの」となります。
シャヴィロは相関主義批判が人間疎外の必然化へと向かうと言いたげです。
それを逃れるとしたら、ホワイトヘッドの思想だけが例外だと主張します。

メイヤスーの描くモノは決定的に思考を欠いた受動的存在でしかありませんが、
シャヴィロは自らを価値づけるような「思考するモノ」として存在者を捉える汎心論的思考をぶつけます。
ホワイトヘッドがあらゆる存在者を内的かつ外的、私的かつ公共的なものと考えていることが述べられています。

メイヤスーの消去主義は思考や主観性を欠いた存在を描き出すため、
数学や自然科学による非相関的な接近を目指すことになります。
しかし、アレクサンダー・ギャロウェイによると、
数学はそれほど相関主義の論理を免れていないようなのです。
ブラシエも相関主義を免れるために物理学を持ち出すのですが、
シャヴィロによると、ブラシエは思考によって生み出された科学が、
思考自体の抹消を裏付ける思考として活用され、
「思考にひどく反する宇宙を認識することになる」と書いています。

 ブラシエとメイヤスーの二人とも自然の二重分岐を再肯定し、
 物理的宇宙から意味や感覚性を廃している理由は、逆説的にも
 そのあからさまな認識論主義を通して、彼らが十分に反相関主
 義ではないためである。

シャヴィロがそう語るのは、メイヤスーが数学的形式化に至る動機が、
非相関的な対象を得るためでなく、感覚や主観性を排除するためであり、
つまりは現象学をお払い箱にするためだと指摘しているからです。

現象学は思考外部にある自律した存在を想定していません。
その意味で現象学は相関主義にあたるわけですが、
メイヤスーは現象学に対抗する姿勢であるにもかかわらず、
「知覚と感覚あるものは根本的かつ必然的に志向的であるという
現象学による想定を当然と認め、また全く疑問をさしはさまない」
つまり、シャヴィロはメイヤスーはアンチ相関主義でしかなく、
非相関的な思考には至っていないというのです。

メイヤスーが人間存在以前の「祖先以前」を、
ブラシエが人間以後の「絶滅の真理」を持ち出し、
人間の思考や感覚を排除した「モノ」の世界を描き出そうとする動機は、
僕には「モノ」の実在を見つめ直すというよりも、
〈フランス現代思想〉の反人間中心主義や他者への志向を徹底化することにあるように思えます。

行為の反復を否定したクラテュロスが論理の徹底化によって行為そのものを否定することになったように、
他者志向の徹底化はかえって自己の肥大化を招く皮肉な結果になります。
反人間主義による自己への懐疑は、その思想自身を疑わないとデカルト的自己形成を果たし、
反人間主義自体が疑いようのない「自己」と化してしまうからです。
そうなると反人間主義は「大きな物語」という巨悪の批判を錦の御旗にした、
メタに立つ自身のナルシシズムだけを「特権的」に温存する孤絶した「小さな小さな物語」でしかなくなります。
(そのため、それを批判する者を人間中心主義として排撃するようになるのです)
つまりは人間中心主義を単に裏返しても人間中心主義でしかないということです。

シャヴィロはメイヤスーよりハーマンに親近感を抱いているようですが、
最終章ではハーマンを批判し自らの思弁的実在論を展開します。

 ある存在者は他のものに関係することなく、したがって思考す
 ることなしに存続できるとハーマンは主張する。

こう述べてシャヴィロはハーマンの描く対象が他との関係から「ひきこもっている」ことを強調します。
ハーマンは認識や知覚を介さない「距たりをもった接触」しか認めず、
そこでは「全く異なった領域でほのめかしや暗喩を通してのみ、
その効果を感じるにすぎない」ことになるとします。

同情的に見ればハーマンの発想を詩的なもの(ポエジー)の理論化と解釈する道があるでしょうが、
詩的なものの全般化というのは、やはりハイデガー的な錯誤だと言えるでしょう。
(その意味で彼らは修正ハイデガー主義と言えなくもありません)
詩的なものの全般化は文学的なものの凡庸化である村上春樹にも通じ、
非常に卑近な技術によって実現したものに重なることになります。

つまり彼らはインターネット的な孤絶しつつ繋がる存在を描いているということです。
それぞれが引きこもって、「距たりをもった接触」をしている存在。
それは「モノたちの世界」よりも「ネット民たちの世界」に近いように思えるのです。
他のレビューで僕は〈フランス現代思想〉の日本的受容が私生活主義のオタク化を肯定するだけに終わったと書きましたが、
やはり思弁的実在論もその延長にあるものとしか思えませんでした。
彼らは人間不在の世界を思索しているように見えて、
実際は「メタ化(透明化)した自分以外の人間が不在の世界」を描こうとしているだけなのです。
(なにしろ数学や科学は本来的に自走するものではありませんからね)
そのため、相関主義を仮想敵にして自らのナルシシズムを高めるだけに終わるのです。

シャヴィロ自身の思弁的実在論に関しても書いておきます。
彼は知の外にある美的な接触をカント的美学によって語ります。
「美学は内在的で、認知にもとづかない接触の領分だからである」
と語るシャヴィロは無媒介の非認知的接触として美学を重視します。
美的判断は主観的でありつつ個別性を超えた普遍的な声を獲得すべく、
他者に対して同意を要求すると言うのです。

 美的判断の「普遍性」はそれゆえ前もって確立はされず、懇願
 と伝達という進行中の過程を通して産出されなければならない。

シャヴィロはカント主義的な美的判断をホワイトヘッドとドゥルーズへと連結し、
メイヤスーともハーマンとも異なる思弁的美学を予告して本書を閉じます。
(シャヴィロは美学に関する大著を刊行予定だと上野俊哉が解説で述べています)

認知の外にある美的判断というシャヴィロの発想も、
オタク的であるという点で僕はまったく乗れないのですが、
これが〈フランス現代思想〉の流れの限界なのではないかと感じます。
芸術自体が商業主義に飲み込まれ、その力が危ぶまれる昨今、
芸術を基盤にした哲学はオタク的心性にどうしても近接します。
そのような危機感がない人々がドヤ顔で〈フランス現代思想〉を語っても、
「趣味人の自己宣伝」と受け取られて終わるだけではないでしょうか。

 

 

 

評価:
スティーヴン シャヴィロ
河出書房新社
¥ 3,024
(2016-06-28)

『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』 (ちくま学芸文庫) ジョルジョ・アガンベン 著

  • 2016.07.08 Friday
  • 11:49

『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』

  (ちくま学芸文庫)

  ジョルジョ・アガンベン 著 

   ⭐⭐⭐

   アガンベンの処女作はポスト構造主義色が強い

 

 

本書は1977年初版のものが1993年に再版されたものです。
アガンベンが34歳くらいの著作なので若書きと言えると思いますが、
読後の印象は〈フランス現代思想〉(特にポスト構造主義)っぽいという印象でした。
アガンベンは自国イタリアよりフランスで評価された人なので、
本書を読むとその現象が非常に納得できます。

「スタンツァ」とは13世紀の詩人が自らの詩の本質を表現した言葉で、
「住まい、隠れ家」を意味するようです。
アガンベンはそこに「場なき場」というトポスを見出し、
西洋の言葉がつくり出す分離(対象の美的表象=詩と表象しえない真理=哲学)を連結する地点を描き出します。

アガンベンは最初に「怠惰」の両義性について考察します。
怠惰は欲望の対象に到達できないのに、その欲望の対象になろうとするものであり、
その両義性のために、否定と欠如という在り方で対象との交流を成し遂げます。

ついでアガンベンはメランコリーの考察にも同様の弁証法を見出します。
喪失の現実を探索せずに喪失対象に固執するメランコリーは、
所有できない対象を喪失した対象として示そうとする想像的な能力だというのです。
メランコリーの両義性をアガンベンはこう表現します。
「メランコリーにおいても、対象は同化されるのでも、失われるのでもなく、同時にそのどちらでもある」

フロイトのフェティシズムにも同様の両義性を指摘したあと、
アガンベンはボードレールのパリ万博の記事を取り上げ、
彼が商品が商品としての使用を否定することで芸術に近接することを発見し、
経済の専制や進歩的イデオロギーに対抗するために、
価値の無用さによって使途が不可侵性そのものにあるような芸術作品の究極の商品化を提案したと述べます。

伝統による対象理解を可能にする権威と使用価値を否定することで、
とらえどころのないものを生み出し、そこに新たな権威を与えるという
ヘーゲル的な自己否定、自己解体が近代の芸術の宿命となったのです。
否定を通して不在を存在に変えるフェティシズムがその助けとなったとアガンベンは言います。

その後、13世紀の詩の言葉のファンタスマや記号論の考察へと向かいます。
プネウマ(精気)とファンタスマ(表象像)の結合という概念に支えられながら、
閉鎖的な詩法によって不可能な愛の対象を失われた対象として取り返すことが、
認識の対象を完全に所有できないという西洋文化の不可能性を乗り越える試みとなるのは、
最初に書いたとおりです。

もとは77年に書かれた本なので仕方ないのかもしれませんが、
詩的言語によってアポリアを両立させるという発想は、
ポスト構造主義色が強くて、それほど新鮮には感じませんでした。
特に記号論のところではシニフィエとシニフィアンの話やグラマトロジーや「原痕跡」などの話になり、
わりと読み飛ばし気味になってしまいました。

イタリア人なのでイタリア哲学と言えなくもないのですが、
アガンベンが〈フランス現代思想〉の延長にいる思想家だという印象を強く感じる一冊でした。

 

 

 

『現代思想史入門』 (ちくま新書) 船木 亨 著

  • 2016.05.10 Tuesday
  • 22:04

『現代思想史入門』 (ちくま新書)

  船木 亨 著

 

   ⭐⭐⭐

   結局最後はドゥルーズという印籠を出す茶番

 

 

日本では現代思想といえば〈フランス現代思想〉という思考停止状態が長く続いています。
本書も〈フランス現代思想〉研究者が書いたものなので、あまり期待していなかったのですが、
第4章までの内容は案外面白く読みました。

哲学の研究者はたいてい特定の思想家の専門ですので、
「誰々の思想」という思想家の名前で思想を考えるのが普通です。
ところが船木は5つの層(観点)から思想の進展を追いかけます。
船木は現代思想を進化論から語りはじめ、生命、精神、歴史、情報、暴力というテーマごとに思想を整理し、
その流れの中で諸々の思想や思想家を登場させています。

日本はどのジャンルでもスターシステムで客寄せをするしか能がないので、
思想家のスター化(権威化)に頼った商法ばかりが横行しています。
その意味で、本書が「思想史」というまとめ方で、それとは別のアプローチを模索しているのは面白い試みだと思いました。
加えて、船木が学術的(オタク的)な思想専門用語を回避して、
実社会に向けて思想を語ろうとしていることにも好感を持ちました。

船木は研究者が触れたがらない現代思想の惨状についてもよく自覚しています。

 哲学はポストモダンでは文化批評となり、過去の哲学のなかに自
 分の人生の比喩を探すだけか、そこに残存する近代的発想として
 はオタク文化になってしまう──哲学はそうした迷路から抜け出
 す途を発見できるのであろうか。

このように、過去の思想や現状分析についての鋭い記述が本書ではたびたび見られます。
「実存主義は、結局は、科学によって孤立させられた精神のあがきとして、
科学を黙殺しようとする哲学だったともいえる」
という文にもハッとさせられますし、
ドゥルーズとガタリの思想が「機械一元論哲学」だと整理されると、なるほどわかりやすい、と感じます。

しかし、最後の第5章にはガッカリしました。
ここでは主にドゥルーズの思想が紹介されるのですが、これまでの切れ味鋭い批判が全くなくなってしまうのです。

過去の著書を見ると、船木はメルロ=ポンティとドゥルーズの本を出しているのですが、
この二人の思想については批判がほとんどありません。
同一性の批判をするわりに自分の依拠する思想にやたら忠誠を尽くすのがフランス思想研究者の特徴ですが、
本書も結局は典型的な自分の専門思想礼賛本に落ち着きます。
具体的には反人間主義を正当化して、機械と人間が融合するサイボーグに思想の未来を託します。

いまだ〈フランス現代思想〉の権威の影響下にいる方も多いでしょうが、
僕はこの実効性のない思想を何十年も語られることにウンザリしています。
船木がドゥルーズ思想の問題点について語ろうとしないので、
門外漢ながら、僕がここで少し書かせていただきます。

まず、船木は〈フランス現代思想〉が「主体」を破棄する反人間主義に至る原因として、
「主体」がサブジェクトつまり「従属するもの」を意味するというフーコーの分析を持ち出します。
僕は常々疑問に思っているのですが、
主体に従属性があることは否定しませんが、権力へ抵抗するのも主体あってのことではないのでしょうか。
つまり、主体には従属的な性質だけがあるわけではありません。
それなのに、どうして従属的な性質だけを取り上げて、
主体があること自体を悪と決めつけるのでしょうか?

そのため、船木は奇妙なことを書いています。

 フーコーの著作以来、われわれが知っておくべきことは、自由や
 主体という概念には原理的な問題があるということである。自由
 な主体としてすべてのひとを捉えるときは、たとえば共産主義社
 会のような、すべてのひとが自由になる方向が見えてくるのでな
 く、ファシストたちの社会が出現してしまう。

ファシズム社会は人々が「自由な主体」であるために出現したのでしょうか?
フーコーがそんなことを立証したという話は聞いたことがありません。
哲学者は社会オンチが多いために、ファシズムについての考察が欠けている人が少なくないように思います。
そもそも我が国も戦時中はファシズム体制でしたが、
国民全員が「自由な主体」であったでしょうか?
いくら西洋思想が専門でも自分の国の歴史くらい知っておくべきではないでしょうか。

こんな珍説が語られてしまうのは、
フーコーやドゥルーズの思想を権威として無批判に享受しているからです。
船木は従属する主体を問題視しますが、
実は〈フランス現代思想〉研究者こそが権威に隷属している批判能力のない人々なのです。
フーコーが主体は「従属するもの」だと言ったから主体は悪いんだ、と考えて思考停止してしまう、
それが権威への隷属でなくて何でしょうか?
日本の〈フランス現代思想〉はもはや原理主義化しています。

現実的な問題を言えば、日本の哲学研究者はドゥルーズ思想を語ることで、
資本主義社会に保守的に対応することを人々に選択させようとします。
それは船木のこのような記述にハッキリと現れています。

 いまのわれわれがすべきことは、社会の改革を求め、連帯する革
 命的主体になってかえってファシズムを招聘するくらいなら、一
 人ひとりがスキゾ経験を追求して、みずからに器官なき身体を作
 ることなのではないか。そう、一九八〇年の『千のプラトー──
 資本主義と分裂症供戮砲いて、ドゥルーズとガタリは述べている。

連帯による革命はファシズムになるから、資本主義下で欲望の主体もどきとなることを勧めるわけです。
このあたり、いかにドゥルーズの思想が社会主義や革命の幻滅から生まれているかよくわかります。

船木の説明によれば、
ドゥルーズ思想には二項対立を溶解させる「曖昧な一元論」へと移行させる目的があるようです。
しかし、二項対立を問題にするドゥルーズ思想の前提には、東西冷戦があることを忘れてはいけません。
イデオロギー対立の解決が資本主義の一元化を招いたことと、
ドゥルーズの一元論が無関係だと僕には思えないのです。

船木はドゥルーズによって、自然と文化の対立や人間と機械の対立が曖昧に一元化される思想を語っていますが、
これらは資本の視点を肩代わりした思想だと考えるべきなのです。
〈フランス現代思想〉は近代的人間観を解体し、反人間主義による新たな人間像を模索しているようですが、
その正体は資本の視点と同一化し資本の奴隷となる人間でしかありません。
ミネラルウォーターが売り物になるのなら、資本にとっては自然も文化も同一の「商品」です。
人間が機械に一元化されるなら、資本にとってこれほどいいことはありません。
疲労による休憩時間など気にせず人間を働かせることができます。
船木は男女の性の一元化についても語っていますが、
これも「一億総活躍社会」を考えれば資本の欲望だと理解できます。
(そして出産は性的な結合の結果ではなく、労働や消費の主体の数である「人口」として出生率で語られるようになるのです)

このように、ドゥルーズ思想は社会主義への幻滅を背景とした思想であるがために、
グローバル資本主義の猛威に対しては保守的な協力者でしかありません。
社会主義崩壊前後の90年前後に〈フランス現代思想〉がチヤホヤされたのは歴史的出来事として僕にも理解ができますが、
今の時代に同じことを主張するのは権力者に尾を振っているだけだと思います。

つまり〈フランス現代思想〉は思想の有効性から考えると時代遅れなのです。
しかし、日本人はやたらドゥルーズが好きですね。
どうしてなのか、と疑問に感じるのですが、
おそらくドゥルーズの「曖昧な一元論」が、曖昧を好む日本人の価値観と共鳴するからではないか、と僕は考えています。
まあ、どこまでも日本人は日本人だということです。

出版された本の批判をすると「営業妨害」になる世の中ですから、
批判精神が迷惑がられるのは理解できますが、
近代という過去の批判ばかりして安全を貪り、
現代社会を批判する危険を冒そうとしない時代遅れの哲学を「現代思想」と呼ぶことに僕は疑問を感じています。

 

 

 

『神話・狂気・哄笑──ドイツ観念論における主体性』 (堀之内出版) マルクス・ガブリエル 著

  • 2016.04.24 Sunday
  • 07:37

『神話・狂気・哄笑──ドイツ観念論における主体性』

  (堀之内出版)

 マルクス・ガブリエル 著/飯泉 佑介 他訳

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   責任主体を空洞化する思想の見直しこそが急務

 

 

日本では現代思想といえばフランス思想と相場が決まっています。
東京大学がフランス思想研究に偏っていることが原因のひとつですが、
「(近代的な)主体の死」を主体の無責任化に利用する
日本的〈フランス現代思想〉受容の弊害をそろそろ問題視するべきでしょう。

日本の近代以降の文学を丁寧に読んでいけば理解できるのですが、
日本の疑似近代的個人は社会的責任から逃走する私生活主義(オタク化)によって形成されています。
自分だけの個室にいるときだけ共同体から自由な個人が実現します。
(逆に言えば共同体の中では前近代性が露出します)
その意味で「(責任)主体の死」や社会からの逃走を肯定した〈フランス現代思想〉は、
日本においては近代文学の延長に位置づけるべきものです。

個室による私生活主義は核家族化が進んだ80年代バブルの時期にスタンダードになりました。
(今はスマホさえあればどこでも個室=個人です)
社会から隔絶した個室でメタ化した「非在の自己(透明な自己)」は、
おのれと等価な非在の存在である社会(世界)を鏡とすることでしか「非在の自己」を確認できないために、
絶えず社会(世界)の変化(流行)を追いかけて「非在の自己」が脱落しないように努力をする逆説に陥ります。
ヘーゲル的な自律的な主体が他律の脅威を排除するために反省を繰り返すならば、
日本的疑似個人は個室環境によって他律を排除した結果、流行の参照を繰り返すことになるわけです。

近代の個人が自らの内面で主体を確立しようとしたのに対し、
日本的疑似個人はテクノロジーによる環境形成によって、
責任主体ならぬ欲望主体、自己充足的なナルシス主体を生み出しました。

そのような人々に〈フランス現代思想〉が歓迎されたのは偶然ではありません。
欲望充足的な主体は「ポストモダン的」と言われてもてはやされました。
近代的精神を形成し損ねた日本の後進性は、
「主体の死」を価値とする思想によって先端性にすり替わったのです。
それがバブルを背景にした「敗戦の克服感」と結びついて、
日本人のナルシシズム(ナショナリズム)を強化する結果になりました。
(共同体や政治的なものからの逃走が、国の戦争責任からの逃走にも結びつくのは必然です)

本家の〈フランス現代思想〉はヘーゲル的な主体を、差異を同一性へと解消する「自己満足な主体」と捉え、
そのナルシシズムを批判するために差異を称揚したのですが、
驚いたことに、日本では口先では外部への志向を謳いながら、
実際は他者との社会的葛藤から逃走することによって、
ナルシシズムを強化するという真逆の行為に利用されたわけです。

その意味で本家のフランス現代思想と日本のフランス思想受容を、
分けて考える必要があると思います。
そうでないと、なぜ日本では〈フランス現代思想〉がモラトリアムやサブカル的な人に受容されるばかりで、
実社会においてプレゼンスがないのか理解できないのではないでしょうか。

欲望主体を支える私生活主義は消費文化と親和的なので、
〈フランス現代思想〉が「売れる」人気の思想として流通しました。
こうして文学や思想が単なるファッションに成り下がったのです。

さて、日本で今話題のファッションといえば、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』です。
雑誌「現代思想」など「売れる」〈フランス現代思想〉の維持を必要とする保守的な人々が、
思弁的実在論を次のモードとして猛烈プッシュし、
日本的疑似近代の差異なき反復に勤しんでいます。

こういう動きに批判的な視座を与えてくれるのが、
マルクス・ガブリエルとスラヴォイ・ジジェクの共著である本書です。
本書が「ドイツ観念論における主体性」という副題を持っているのは、
「主体の死」を推進する勢力への異議申し立てと考えなければなりません。
実際、本書でマルクス・ガブリエルはメイヤスー批判を展開しています。
彼はメイヤスーの主体不在の実在論を批判しています。
主体不在の世界を考えるだけでは、その世界からどうして主体的言明が生じたのかを説明できないからです。
ガブリエルは人間の主体的な言明を可能にする世界の構造を明らかにする新しい存在論を考えています。

その意味で興味深かったのは、最後に付録として収録された
「世界はなぜ存在しないのか」というガブリエルの講演です。
ここの内容はドイツでベストセラーになったガブリエルの著書
『なぜ世界は存在しないのか』(未邦訳)の予告編として読むことができます。

ガブリエルは世界を対象として同定できないことから、
世界を世界として考察する絶対的な立脚点はありえず、
「世界は存在するのではなく、性起するのです」と述べています。
世界は「世界」という把握対象としては現れず(世界は存在しない)、
「非在」であることでそれ以外のすべてが現れるようにするのです。
ガブリエルが「非在」としての世界を考えていることは非常に興味深く、続刊の翻訳が待たれます。

本書の題名は『神話・狂気・哄笑』となっていますが、
この三つのキーワードはそれぞれの章立てと対応しています。

「神話」はガブリエルが書いた第一章に対応します。
ガブリエルは反省によって普遍概念にすべてを包括するヘーゲルの反省論が、
必然性の高階にある偶然性という前論理的領域を認めていないと批判します。
そのヘーゲル的反省の外にある領域にアクセスするものが後期シェリングの「神話」概念です。
ガブリエルは科学主義に代表されるイデオロギー的な神話を退けるために、
前論理的領域に開かれた新しい神話学を提唱し、
有限性に基づいた世界構成の前論理的な偶然性を取り戻そうとしています。

ガブリエルはメイヤスーの論を「必然性を再設定するイデオロギー的振る舞い」に近いと批判し、
反省という神話的な存在によって有限性をふまえた偶然性を強調しています。

 我々は、「我々自身ここに存在すること」に向き合うために、
 表現の有限性と、あらゆる枠組みが持つ抹消できない偶然性
 を承認する必要がある。我々は、この有限性を率直に認めな
 ければならない。というのも、有限性の外部の立場、あるい
 は、有限性の後の立場をとることはできないからだ。

こうしてガブリエルは「無制限な高階の偶然性」が反省の偶然性であることを強調します。
「世界なるものは存在しない」という彼の言葉は、
世界の必然性は内的な規定性によってもたらされるだけで、
その外部に世界を規定する必然性があるというわけではないことを示して、
ドイツ観念論の一般的な理解を改める試みをしています。

あとの2つのキーワードは後半のジジェクの論考に関わります。
この論考も興味深いのですが、長くなりすぎたのではしょります。
『狂気』の方は第二章にあたり、ヘーゲルの「狂気」と「習慣」をラカン的に読むというものです。

ラカンはフランス構造主義に位置づけられたりしますが、
レヴィ=ストロースが「ラカンは内緒で主体を取り入れようとしている」と批判したように、
他の構造主義者たちのように主体を破棄したりはしませんでした。
そのあたり、主体性を見直す上でラカンが登場するのも不思議ではありません。
また、ラカンの「欲望」概念のベースには、
ヘーゲルの『精神現象学』にある「主人と奴隷の弁証法」の影響が指摘されています。
ジジェクは主体にあいた穴である「狂気」を覆い隠すものとして「習慣」を捉えていますが、
このような論考が書かれる学問的必然性はありそうです。

『哄笑』にあたる第三章は、「絶対的観念論者」と思われているフィヒテを道徳的観念論者として捉えています。

 フィヒテにおいては、有限なものと無限なものの綜合は、
 有限な主体の無限な努力において与えられており、絶対的
 自我それ自身は、「定立的」な実践的で有限な主体の仮‑定
 [hypo-thesis]である。

こうジジェクが述べるように、フィヒテは主体の有限性に焦点を当て、
実践による非我との闘争という道徳的立場によって独我論を批判しています。
「独我論の乗り越えが可能なのは理論的な立場からではなく、実践的な立場からである」
一般にはカントからヘーゲルに至るドイツ思想は、「ドイツ観念論」と称されますが、
単に観念論と捉えるだけの理解がいかに表層的であるか、
雑誌「ニュクス」の第2号と合わせて読むとよくわかります。

多様性という点でフランス思想以外が注目されるのは喜ばしいことですが、
門外漢の読者である我々は、これらドイツ系の思想の「日本的受容」に用心する必要があります。
既得権を持つフランス思想関係者はマルクス・ガブリエルを自らを脅かすことのない思想へと読み替えるにちがいないからです。

そのための指針として、
「主体性」と「有限性」と「反省」について触れているかどうかが重要になります。
なぜなら、「実在論」や「偶然性」だけを取り上げることで、
他者性を排除するのが伝統ある「日本的受容」というものですから。
(毎日新聞の斎藤環の書評はその恰好の例といえるでしょう)

ドイツであろうがフランスであろうが、
西洋思想を学ぶときに「日本という悪い場所」を考えないことは問題です。
たとえば西洋における「外部」には神学的・形而上学的ニュアンスが含まれますが、
日本においては短絡的に「死」へと接続する可能性を無視できません。
(なぜ西洋人がバンザイ岬やカミカゼに驚愕したか考えてみてください)
それが共同体内部における個室空間を「外部」へと読み替える余地を残すことになります。
「外部」や「他者」ひとつとっても土壌の違いは厳然と存在します。
テキスト読解を言い訳に、土壌の差異を真剣に考えずに思想を語ることは、
「日本的受容」という保守的な精神を育むだけに終わることでしょう。

 

 

 

評価:
マルクス・ガブリエル,スラヴォイ・ジジェク
堀之内出版
¥ 3,780
(2015-11-27)

『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』 (人文書院) カンタン・メイヤスー 著

  • 2016.03.03 Thursday
  • 15:07

『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』

  (人文書院) 

  カンタン・メイヤスー 著/千葉 雅也 他訳

   ⭐⭐

   人間から離れた思考の行き先

 

 

雑誌「現代思想」や千葉雅也の尽力によって、
思弁的実在論が流行の思想として注目を集めています。
その中心人物として扱われているのがメイヤスーです。

メイヤスーはカント以後の仮象を介した実在へのアクセスを、
相関主義として批判しています。
カント以後の思想を相関主義の一言で片付けることについては、
そんなにカンタンでいいのかと驚きますが、
僕には体系コンプレックスのフランス人(とアメリカ人)が、
ドイツ思想を批判しつつ依存しているようにも見えて、
またか、とも感じます。

基底に連合国と枢軸国の対立が実際にあるのかわかりませんが、
そういう政治的な見方を超えるほどの価値がメイヤスーの思想から感じられないのが問題です。

相関主義は人間の思考の対象とならない実在物(物自体)を、
結局は思考不可能なものとするので、
それについて何を語っても自由という信仰主義に陥る、
とメイヤスーは批判します。

この批判については肯けないこともないのですが、
その後の展開についてはあまり賛同できませんでした。

メイヤスーは相関主義の必然性による絶対性に対して、
事実性による絶対性を打ち立てようとします。
世界がこのようであるという必然性を「理由律」と呼ぶようですが、
メイヤスーは相関主義が理由律を保持していることを批判し、
そんな理由は存在しない(非理由)と主張します。

世界が別様ではないという必然性に理由がないことから、
世界は別様でもありうる、というのがメイヤスーの結論です。
「偶然性の必然性」というサブタイトルはこのことでしょう。

とはいえ、僕の20年来の持病が明日突然治るということはないわけです。
世界もそれほど変化せずに明日を迎えます。
しかし、これも偶然の結果なんですよね。
こういうほぼ変わらない結果が出るのも、
必然性のためではなく偶然性の中でそうなったとメイヤスーは言いたいようです。

我々にとって必然とも思えるくらい同じように見える結果が、
実際はどのくらいの確率におけるものなのかはわからない、
確率を出すにはその全体を確定しないといけないが、
我々にはそれができないから、確率が低すぎると言うことはできない、
そんなふうにメイヤスーは言っていると思うのですが、
なんかごまかされているようにしか思えませんでした。

僕は〈フランス現代思想〉の反人間主義を問題視しています。
メイヤスーの思想もその流れにまちがいなくおさまるものです。

メイヤスーは人間の思考を通して世界を把握する相関主義ではなく、
数学や科学を通して世界を把握することを支持しています。

 世界の数学化は、そもそもの初めから、人間存在にいっさい
 関わりのない、したがって人間がそれまでもちえたいかなる
 認識にも関わりのないものへと変化した世界についての認識
 を開示する可能性を、みずからのうちに秘めていたのだ。か
 くして、科学は、私たちの経験のあらゆるデータを隔時的対象
 へと、すなわち、私たちに与えられるか否かに無関係に存在
 する世界を構成するものとして私たちに与えられる要素へと
 変えてしまう可能性を、みずからのうちに秘めていたのである。

人間に「関わりのない」「無関係な」世界についての認識が、
なぜ哲学に必要とされるのでしょうか?
「よりよく生きる」というような「善」の視点を削ぎ落とし、
人間不在の世界のあり方を探求するメイヤスーが、
人間的な「倫理」を切り捨てているのは明らかです。

このような反人間的な要請には、
外部というフロンティアを必要とする
資本主義の発想が影響していると僕は想像していますが、
資本主義云々という話をしなくても、
メイヤスーの主張を受け入れるなら、
世界の認識はコンピュータに任せておけば良いのではないでしょうか。
もう思想の主体は人間ではなくコンピュータだということなのでしょうか?
それとも僕がこの本を読み違えているのでしょうか?

マルクス・ガブリエルは完全な自律性を主張する神話ともいうべき
現代思想の科学主義について次のように述べています。

 科学的な実証主義は、あらゆる出来事を、実存的な意味を例
 外なく欠いているいくつかの基礎的な諸原理の結合へと還元
 する。ところが、その実証主義の主張そのものが、それ自体、
 新しい神話を創り出すのである。つまりそれは、人間の存在
 する必要のない世界を創造するという意志を露呈するのであ
 り、徹底的な無意味さを科学的に正当化されたものとして採
 用するという形式を擬装しながら意味を創造することを通じ
 て、意味を求める人間の欲求を抑圧する方法なのだ。
                     『神話・狂気・哄笑』

ハイデガーは科学技術に警鐘を鳴らしていましたが、
メイヤスーは科学の発展を有限にとどめる気はないようです。
(脱原発ドイツと原発大国フランスの差が頭をよぎります)

反人間主義を推し進めすぎると、思想の自殺に陥りかねません。
むしろ、メイヤスーに反発する勢力が思想を立てなおすことに期待します。
そうなればこの本にも意義があることになるかもしれません。

 

 

 

「現代思想 2016年1月号 特集=ポスト現代思想」 (青土社)

  • 2015.12.31 Thursday
  • 08:53

「現代思想 2016年1月号 特集=ポスト現代思想」

  (青土社)

 

   ⭐

   ポスト他者思想=内輪思想、つまりは同人誌?

 

 

今号は千葉雅也が企画に加わったとのことですが、
あまりに千葉にとっての同質性で満たされた内容に呆れました。
他者とか複数性とか口では言っていながら、
〈フランス現代思想〉好きの人たちの行動原理が、
強く同質性(内輪主義)に縛られていることが不思議です。

僕は昨年1月号のレビューで「現代思想=フランス現代思想でいいのか」と疑問を呈しましたが、
今年はさらに劣化して「現代思想=東京大学大学院総合文化研究科でいいのか」という感じです。
日本におけるフランス思想のヘゲモニーはやはり東大のヘゲモニーと無関係ではないと思います。

今年も僕は執筆陣の起用を問題にしています。
まず、東浩紀は東大大学院で千葉にとって先輩です。
佐々木敦は東のゲンロンカフェの仕事仲間であり、千葉とそこで対談をしています。
星野太と荒川徹は東京大学大学院総合文化研究科に属してますし、
三浦哲哉はこれまた東京大学大学院総合文化研究科の出身で、
千葉と年齢がほぼ変わらないため大学院時代からの知り合いかもしれません。
仲山ひふみは東浩紀と親しいはずですし、千葉もよくリツイートしてます。
このあたり、千葉の内輪の世界としか僕には思えないのです。

岸政彦や佐藤啓介とのつながりはわかりませんが、
千葉と岸とはツイッターのやりとりがありましたし、
佐藤は論考でメイヤスーに触れていますから千葉にとっては仲間ですよね。

マルクス・ガブリエルをちょこっと載せる態度もセコい気がしてますが、
翻訳にはもうひとつメイヤスー批判がありましたね。
しかし両論併記にすら遠く及びません。
(批判にしたって「メイヤスーの話」に変わりはありません。
ガブリエルの論考も実在論の話だけで専門のドイツ観念論の話はないですから)

千葉は東の影響を受けて「他者の複数性」とか言ってますが、
己が出自の同質性に強く囚われていることに葛藤はないんでしょうか。
(その意味で東がアカデミズムの外に立とうとしていることは評価します)

日本では〈フランス現代思想〉が非政治的(サブカル的)に受容されているので、
思想の局面と現実の局面での一致が省みられなくなる傾向があります。
つまり「文献上だけの思想」でいいことになっています。
これは文系学問の無用性を強める結果にもなります。
僕は千葉のように〈フランス現代思想〉を振りかざしながら、
批判的な他者に排除で応じるような人間に思想を語る資格があるとは思えないのです。
(千葉はamazonレビューで自著の評価が低いからって、
amazonレビュアーを「変な人」とか言っちゃうワガママ「坊や」ですからね)

栗原一樹が編集長であるうちはこの雑誌は買わないと決めていますが、
昨年「読んでいない」と正直に書いたら、
清水高志(某大学准教授)に書いてもいない内容で「笑止千万」なツイートをされたので、
一応読んだと言っておきます。
(清水のツイートについては昨年1月号の僕のレビューのコメント欄に残してあります)

第1次安倍内閣の時は大臣を仲間で固めて「お友達内閣」と批判されましたが、
安倍の支持が高止まりしている今日では、
そういう内輪主義すらも批判の対象にはならなくなったようです。
(内輪主義を批判したこのレビューに反対投票が多いことでも、
内輪主義に対する問題意識のない人が増えていることがわかります)

ネット文化は同質性を高めて、異分子を排除するメンタリティを強めました。
これは誰も反論しようがない傾向だと思います。
そもそも日本は同質性を強く求める社会です。
〈フランス現代思想〉を振りかざしても、
行動原理が「日本的同質性」つまり内輪主義でしかないとしたら、
何のための西洋思想なのでしょうか?

最後に、編集長の栗原一樹は、なぜに本誌で千葉雅也だけを特別扱いしているのか、
読者に説明する責任があると思います。
編集の仕事を千葉に頼って、それでプロと言えるのでしょうか。
僕は以前の「現代思想」が好きだったので、
栗原みたいな無責任な仕事をする人に編集長でいてほしくありません。

 

 

 

評価:
千葉雅也,東浩紀,岸政彦,佐々木敦,マルクス・ガブリエル,檜垣立哉,北野圭介,アレクサンダー・ギャロウェイ,上野俊哉,三浦哲哉,マーティン・ヘグルンド,フランソワ・ラリュエル,藤原辰史,磯崎新
青土社
¥ 1,404
(2015-12-28)

「現代思想 2015年9月号 特集=絶滅 -人間不在の世界-」(青土社)

  • 2015.10.25 Sunday
  • 08:28

現代思想 2015年9月号 特集=絶滅 -人間不在の世界-」

  (青土社)

 

   ⭐

   千葉雅也のための雑誌?

 

 

「絶滅」という特集タイトルで、執筆者に生物学者の名前も見えますが、
「人間不在の世界」というサブタイトルを見たときに、
どうせメイヤスーの話がしたいんだろう、と感じました。
読んでみると案の定でした。

どうしてこの雑誌はこんなにメイヤスーを取り上げるのでしょう?
著作の邦訳も出ていない思想家の思想を、一般誌がこれでもかと取り上げるのは不自然です。
(ピケティだって邦訳が出る前の特集は限られたものでした)

そもそもメイヤスーの翻訳をするであろう千葉雅也の出番が多すぎます。
1月号にインタビューで登場し、5月号と今回の9月号は対談で出ています。
(論考以外の楽な仕事が多いのも優遇に見えてしまいます)
登場はしていなくても、6月号は思弁的唯物論の特集でメイヤスーが取り上げられています。
同じ人ばかりを起用するのは、一般誌としては望ましいことではないと思います。
実際、同じ人ばかりを起用するなと教育しているマスコミはあります。

たとえ編集部と千葉のあいだに何もなくても、癒着を思わせるような紙面作りは問題があると思うのです。
次号のLGBT特集やその次の大学文系の危機特集も千葉の関心領域であるのはまちがいありません。
これは下種の勘ぐりなのでしょうか?
たとえそうであっても、このような指摘がされないように、
同じ人ばかり起用することは避けるべきなのではないでしょうか。

「現代思想」は誰に向けて編集されているのか、
僕はそのことに疑問があるのです。

今回の「絶滅」特集は、進化論を絶滅の観点から脱構築する吉川浩満『理不尽な進化』を受けたものでしょうが、
思弁的実在論周辺の書き手であるブラシエ、サッカーなどの論考と、
生物学者や人類学者の論考は問題意識に共通性があるように思えませんでした。
そもそも後者は絶滅に触れてはいても、明らかに進化のテーマから論を展開しています。
結局どっちがやりたいのか、とフラストレーションがたまる構成でした。

もはや特集はテーマではなく検索ワードのレベルだということでしょうか。
「絶滅」をキーワードでしかないと考えればバラバラな論考も包括できます。
2月号の「反知性主義」も6月号の「唯物論」もそんな感じでしたね。

それからブラシエの論考は面白いところはありましたが、
著作の中の1章だけを取り出して訳すのは中途半端だと思いました。
全体の議論に関心があれば他の章にあたるように言われても、
そもそも原書が読める人はこの半端な翻訳を読まないと思います。

千葉と吉川と大澤真幸の対談はメイヤスーについての話がほとんどでした。
何のために吉川を呼んだのか大いに疑問が残る内容でしたが、
メイヤスーの原書を読んだことのない多数派の読者にとっては、
面と向かって千葉に反論する人が現れたおかげで、
評価の難しい思弁的実在論の気の早い権威化を避ける意義はあったかもしれません。

「未来の他者」を倫理の源泉と考える大澤にとって、
人類の「絶滅」に近しい視野を持つメイヤスーに反論するのは当然でしょう。
相関主義批判というかたちで人間中心主義を批判するのは簡単ですが、
これまで人間は人間のための社会を構成してきたわけで、
相関主義を投げ捨てることはある種の義務(特に倫理)からの解放を意味します。

僕が危惧するのは、相関主義批判は簡単にメタな位置に立つことができるために、
社会性や倫理を括弧に入れた資本の欲望を代弁をすることになるのではないか、ということです。
〈フランス現代思想〉は新自由主義と親和的だと僕は何度かレビューに書きましたが、
メイヤスーの師匠筋が毛沢東主義者であっても、その疑念は拭い去れません。
大澤は世界に内在する視点と世界の外部の視点の両者(「経験的=超越論的二重体」)の緊張が大事だとしていますが、
このような議論を聞いていると、柄谷行人の村上春樹批判を思い出します。

柄谷は春樹の作品を超越論的自己による経験的自己の軽蔑と整理していました。
このようなメンタリティはインターネットの隆盛によって一般化しました。
現実の人の迷惑になろうが、スマホに没頭して障害物化している人々など、
すでに半分は人間をやめているように感じます。
「絶滅」とは種の絶滅ではなく、「現実」の絶滅として考えた方がリアリティがあるのではないでしょうか。

しかし、メイヤスー(というか千葉?)は屈託なくメタの方に立ついわば「ガキじみた」思考を展開しています。
(これも資本による哲学の「絶滅」の序章なのでしょうか)
ポストモダンがそうであったように、
日本の保守がそうであるように、
衰退局面にあるカント的な相関主義を仮想敵として依存しながら、
自らを「旧レジーム」から脱却する位置に置く欺瞞はもうたくさんです。

だいたい東浩紀にしても千葉雅也にしても、
否定神学に反対するなら靖国神社に反対でもしたらいいと思うのですが、
権力との軋轢から逃げて商業主義に乗るしか能がないということなのでしょう。
商業的な「思想」というニューアカの残滓をむさぼり続ける若手学者を、
スターのようにチヤホヤするのは出版社の戦略です。
僕は多くの出版社が思想を飯のタネとしか考えていないことに問題があると思っています。

後期デリダが政治的になっていったように、
メイヤスーはいずれ相関主義批判から撤退していくと予想しています。
一応は「唯物論」を表明していますし、資本の手助けをする気持ちは本人にはないはずだと想像するからです。
そのとき出版界は千葉から別の乗り馬に鞍替えをしているのでしょう。

挑発的なことを書くとまた文句を言われるので、このあたりでやめましょう(笑)
まあ、最新の思想モードについていけない奴は買わなければ良いということでしょうから、
僕も今後この雑誌を買う気はないのですが、
最後に雑誌「現代思想」は栗原一樹がダメにしたと書いておきたいと思ってペンを取りました。

栗原は編集長になってから、やたらジャーナリスティックな特集ばかりしていました。
看板ばかりの「現代思想」が長く続きました。
この雑誌がやたら「新しい」を価値にしているのも、
栗原がジャーナリスティックな感性で思想を考えているからでしょう。
僕には栗原が思想オンチなのではないかという疑惑がぬぐえないのです。
そうだとすれば思想寄りのスタンスをとったとたん、
特定の研究者に影響されすぎることにも納得できるのです。
実際はそうではなくて、僕が失礼なだけなのかもしれませんが、
読者にそのような疑念を抱かせるような紙面作りをしたと謙虚に感じていただければ幸いです。

追記(11/9)

千葉雅也のツイートです。

『現代思想』新年1月号、お楽しみにね。来年も僕が企画に加わった内容になります。翻訳も刺激的なのが多数。
6:53 - 2015年11月4日

僕の想像はそれほど間違ってなかったようですね。

 

 

 

評価:
吉川浩満,千葉雅也,大澤真幸,池田清彦,長沼毅,三中信宏,マイク・デイヴィス,小泉義之,レイ・ブラシエ,ユージーン・サッカー
青土社
¥ 1,404
(2015-08-27)

「現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論」(青土社)

  • 2015.06.19 Friday
  • 11:48

「現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論」

(青土社)

 

   ⭐⭐⭐

   新しさの一元論

 

 

過去3年の1月号の特集を見てもわかるとおり、
この雑誌はとにかく「新しい」ことを価値として押し出しています。
もはや「新しい」以外に宣伝文句が思いつかないかのようです。

いや、「ニューアカ」と言っていた時代から、思想は「新しい」ことが価値だったのでしょう。
いや、中村光夫が「移動の時代」の中で指摘したように、
明治から日本は西洋の流行を追いかけて、蓄積もなく新しさへと「移動」をしていたのかもしれません。
(こういう「移動」をノマドだと言ってしまうとナルシシズムに陥ります)

さて、今回は「新しい唯物論」という特集ですが、
(ポスト・ポスト構造主義という呼び名はやめたんですね)
大きく思弁的実在論の流れとニューマテリアリズムを視野に入れています。

思弁的実在論にしても思弁的唯物論にしても、
実在論とか唯物論とか名乗ってはいるのですが、
「思弁的」であるという点で、マテリアリズムと同列に扱えるのか疑問が残ります。
(このあたりは本誌所収の江川隆男の論考が参考になりました)

ちなみに、僕は清水高志に「現代思想」の1月号のレビューなどについてツイッターで、
「「佐野波布一」っていう人、「サノバビッチ」のつもりなんだろうけど、本当に適当だよなー。。
思弁的実在論とか「フランス現代思想」でもなんでもない(むしろアメリカ)なのに勝手にフランス!フランスと叫んで罵ったり」
と書いてもいないことで文句を言われたのですが、
(僕は思弁的実在論がフランスだなどと書いていません)
そのわりに清水の言うことも適当なところがあります。

「思弁的実在論(SR)」といえばグレアム・ハーマンが中心なのでアメリカだといえるでしょうが、
たしかハーマンは「唯物論なき実在論」という論文を書いていたはずです。
それに対してメイヤスーは自らの思想を「思弁的唯物論」としています。
そうなると、「新しい唯物論」という特集をする本誌のスタンスは、
ハーマンよりメイヤスーに寄ったものだとハッキリ言えると思います。

フランス人のメイヤスーを中心に置いているかぎり、
〈フランス現代思想〉の延長として捉えるのは不自然ではないと思います。
(ただ、僕はそんなことは書いていないのですが)

僕は日本におけるフランス思想のヘゲモニーを問題視しています。
思弁的実在論と言いながら、メイヤスーを中心に据えるかぎりは、
フランス思想のヘゲモニーを保存するだけに思えます。
ちなみに今月号の論考には僕はほぼ全部目を通しましたが、
「ドゥルーズ」という名前が一番多く登場していましたよ。

千葉雅也も6月12日のツイッターで、
「逆行すること。Amazonがレビュー制度を廃止したら英断だろう。」
とか言論抑圧への欲望を表明していますが、
清水にしても千葉にしても、
自分に批判的な言動を抑圧しようという態度はインテリにあるまじき態度です。
僕には百田尚樹や安倍晋三とたいして変わらない権力側の発想に思えます。
いかに〈フランス現代思想〉研究者が既得権を守る保守的な心性に凝り固まっているか、
自ら証明しているようなものです。
この雑誌は彼らを好んで使いますが、人格的に問題がないか考えて起用してほしいものです。

横道にそれてしまいましたが、
僕の印象では、メイヤスーの思弁的唯物論は唯物論に重点があるように思えません。
〈フランス現代思想〉の反人間主義をさらに推し進めるのが関心に思えます。
(しょせん素人の適当な感想ではありますが)
メイヤスーは相関主義と主観主義に反対しているようなので、
人間と無関係なものへと思想を展開したいように感じます。
そういうものを「唯物論」というので、数学まで唯物論になっていくわけです。

インタビューでも訊かれていましたが、
関係性の外にある事実存在と考えると、やっぱりハイデガーが思い浮かんでしまいます。
メイヤスーはハイデガーは相関主義だと切り捨てていましたが、
徹底した反人間主義は人類の滅亡を夢見るウェルベック的なニヒリズムに通じますし、
そういう文学的反動を思想的に徹底するとハイデガーの轍を踏むことになりかねません。

「新しい」ものが良いか悪いかは後にならないとわからないものです。
そのためのヒントは歴史を学ぶことにあったはずなのですが、
ポストモダンが非歴史性に耽溺したために、今やそれも期待できません。

 

 

 

評価:
磯崎新,藤原辰史,篠原雅武,北野圭介,Q・メイヤスー,M・デランダ,E・サッカー,A・ギャロウェイ,藤本一勇,江川隆男
青土社
¥ 1,404
(2015-05-27)

『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』 (中公新書) 岡本 裕一朗 著

  • 2015.03.10 Tuesday
  • 10:04

『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』

 (中公新書)

 岡本 裕一朗 著

   ⭐⭐⭐⭐

   日本は思想もガラパゴス

 

 

強調すべきは、著者の岡本が〈フランス現代思想〉の専門家ではないという点です。
英米独の思想にも通じているため、〈フランス現代思想〉を相対化しつつ冷静に点検しています。

エピローグが「〈フランス現代思想〉は終わったのか」と題されているのは、
日本ではいまだ〈フランス現代思想〉が思想の中心にあるからでしょう。
今日でも日本ではドゥルーズ研究者が増殖しているようですが、
これがいかにガラパゴス現象であるか、本書を読めばよくわかります。

というのも、岡本はドゥルーズなどの〈フランス現代思想〉は、
本国フランスでは80年代に清算されていると言うのです。

僕は〈フランス現代思想〉の反人間主義が
執拗に「主体」を解体しようとすることを苦々しく思ってきましたが、
アラン・ルノーとリュック・フェリーの『68年の思想』によって、
フランスでは80年代に「人間主義」「主体」が見直されていると知って安心しました。

特に岡本が紹介したメルキオールの説は興味深かったです。
〈フランス現代思想〉の難解なエクリチュールは、
フランス思想の生き残りのために選択された戦略だったという主張です。
英米独のアカデミックな思想に対抗するために、
フランス哲学者が意図的に「前衛的な芸術や文学」のスタイルを導入したといわれると、
なるほど、と腑に落ちるところがあります。

意味不明なレトリックなどが多用された脱アカデミックなスタイルは、
英米独への対抗意識が原因で生まれたのかもしれないのですね。

やたら芸術的な顔をしたがるフランス人らしい発想ではありますが、
「前衛的な文学志向」は、日本の〈フランス現代思想〉研究者にも見受けられます。
東浩紀がアカデミックな世界から逃走し、オタクを持ち上げちゃったり、
千葉雅也が現代詩を書いちゃったりするのもそういうことなのだと納得しました。

とはいえ、東以外はしっかりとアカデミックな地位を確保しながら、
脱アカデミックな思想を展開している「甘え」た人たちなんですけどね。
(そういや、俳句の世界にも前衛ぶって〈フランス現代思想〉を振り回す破廉恥が棲息しています)

〈フランス現代思想〉がすべて意味のない思想だとは思いませんが、
日本の思想界が過剰に礼賛しすぎているのは間違いありません。
僕はそれこそ東京大学哲学人の生き残りのための戦略ではないかと疑っています。

いったん〈フランス現代思想〉の権威化というガラパゴス化から脱して、
新たな視点で思想を考え直していくべき時期であることを、
教えてくれる良書です。

 

 

 

「現代思想 2015年2月号 特集=反知性主義と向き合う」 (青土社)

  • 2015.02.15 Sunday
  • 07:37

「現代思想 2015年2月号 特集=反知性主義と向き合う」

  (青土社)

 

   ⭐⭐

   権威主義の国で知性は育たない

 

 

反知性主義を特集するのもいいと思いますが、
そもそも、反知性主義というものに対して、
執筆者の認識がそれぞれ異なっていることが気になりました。

僕は反知性主義を知的エリートに対する反発(ルサンチマン)のことだと思っていましたが、
そうとばかりは言えないようで、論者によって反知性主義の認識はまちまちです。

酒井隆は知的であることが競われていると現状を「反・反知性主義」だと分析し、
特集そのものに疑義を表明しています。

松本卓也はレイシズムや極右(安倍晋三も含まれる)を反知性主義と考えていますし、
木下ちかや、野口雅弘のような政治学の人は安倍政権についてしか書いていませんし、
上野俊哉にいたっては安いチェーン店で食事する人も反知性主義に分類されています。

森政稔が「本誌の編集者から安倍政権や「ヘイトスピーチ」などとの関連で「反知性主義」の問題を論じるように求められた」
と書いていることから、編集部が安倍政権との関連で反知性主義のことを考えていたことは否定できません。
(ただ、森の論考は反知性主義について広い視野で整理されていて参考になります)

「反知性主義と向き合う」と言うからには、
自分を無条件に知性の側に置いているわけですから、
反知性主義が何かという認識くらいはある程度ハッキリさせる必要があったと思います。

こういう部分を「以心伝心」「阿吽の呼吸」的なものですませては、
自らを無条件に知性に分類することに反発が出るのは仕方がないと思います。

僕はこの特集は踏み込みが甘いと感じています。
反知性主義を考える前に、そもそも日本に知性があるのかという疑問があるからです。

結論を先に言いますと、
日本は歴史的に知性よりも権威主義と形式主義が機能してきた国だと思います。
(権威主義に染まっていて在野の無名人の言うことに反発を感じる人は、
まずは中村元『日本人の思惟方法』を読むことをおすすめします)

戦後しばらくはマシでしたが、バブル以降の論壇は廃墟のようなものです。
敗北後の左翼がポストモダン思想で消費文化に享楽したのが原因ですが、
それでも歴史的に日本では知性が力を持つことはなかったと言えると思います。

日本が知性より権威が勝った国だということを本誌を例に話しましょう。

たとえば、
本誌の信田さよ子が非常に重要なことを言っています。
「日本の家族幻想とは、母という存在の巨大さをバックにしており、
ちっとも父の権威ではないところが、フロイト理論とまったく違うところです」
「巨大な父のエディプス・コンプレックスではなく阿闍世コンプレックスが
日本という国の特徴だ」(これは古澤平作の概念とのこと)

僕は自らのことを自ら考えることが知性だと思っているので、
信田や古澤の発想には知性を感じます。

しかし、ここで終わって思考停止に入るのが日本の知識人なのです。

それならば、『アンチ・オイディプス』の日本における価値は低いのではないか。
ドゥルーズ研究者がそのような疑問を持ったという話は聞いたことがありません。
本誌の松本卓也は日本の反知性主義は「〈父‐の‐名〉に対する母の欲望の優位」にあるとしますが、
それって日本は昔からそうだったということではないのか、という疑問もない。

このような思考停止は西洋思想を権威として疑わない態度から来ています。

日本と西洋との差異にも注意を払えず、
教条主義的に「差異、差異」と連呼してきたポストモダニストが知性的だとは僕には信じられません。

自らの生活する土壌とは関係の薄い思想を権威化し、
自己の基盤については思考停止を続けてナルシシズムを蔓延させる。
丸山眞男や藤田省三などは西洋思想の受け売りを振り回すことはありませんでした。
柄谷行人や中沢新一のような例外を除けば、
ほとんどの自称知識人が西洋の権威を無批判に受け入れています。

僕は日本のポストモダン的なものが資本主義と親しいとレビューで何度も書いてきましたが、
「左翼」に分類される人たちはそれを認めず逃げ続けています。
本誌の酒井隆の論考でも、二度ほど反知性主義の土壌がポストモダンにあると書いていますが、
まあ、遠回しでわからないように逃げた書き方なので、ほとんどの人は気づいていないでしょう。
自分たちの熱狂を反省できない態度は、ネットに書き込む有象無象と変わりがない印象です。

本誌の箱田徹の論考はフーコーが新自由主義を評価したという批判について書いています。
やっぱりそういう批判があったんだと思いましたが、日本では見たことがない批判でした。
日本人にとってフーコーは権威ですので、最終的に擁護されるに決まっていますし、箱田も擁護して終わりました。
(そして権威でなくなるとみんなで批判するようになるのです)

さらに続けます。
私事で申し訳ありませんが、
僕が千葉雅也という男の本をレビューしたところ、
千葉は「読めてないのにキリッとかやめてほしい」というようなツイートをしました。(文面は記憶です)

この発言はテクストの「正しい理解」というものを想定した権威的な物言いです。
ガダマーが『真理と方法』で「そもそも理解する時には別の仕方で理解していると言えばそれで十分である」
と言っているように、理解には常に差異となる別の理解が含まれています。
『別のしかたで』なんて本を出しておいて、反復の中での差異を認めようとしないこの男は、
本当にドゥルーズを学んできたのでしょうか?

まあ、学んではきたのでしょうけどね。
ただ根のない知識として学んだだけで、自分に撥ねかえす覚悟がなかったのです。

僕はこのような発言を見て、吉本隆明の『転向論』を思い出しました。
戦中の左翼がどうして権力に抵抗できず次々と転向していったのか。
吉本は彼らの共産主義が日本人の生活から乖離していたからだと説明します。

自らの生活、もっといえば生存を守ろうとする場面では、
生活から乖離した思想などいくらでも投げ捨てられる。
千葉にとってのドゥルーズ思想も自己の生活から乖離しているため、
自己保身の場面においては簡単に投げ捨てられてしまうのです。

このように自らの土壌と縁の薄い権威を振り回すだけの人たちが、
下からのナショナリズムやポピュリズムに不満を言うだけでなすすべがないのは当然です。

さらに続けます。

そもそも、日本の大学自体が知性と言うより権威の場でしかありません。
大学受験をした方はわかると思いますが、
多くの人が偏差値の高い大学をめざす中、
自分のレベルより高い大学にまぐれで入ったら、
あとでついていけなくて困るのではないか、と心配した人はいないでしょう。

一度入ってしまえばだいたい卒業できますもんね。
これだけでも大学の役割が「国家」をベースとした権威の付与であることは明らかです。
権威や形式でしかないから、
一度入ってしまえば、それ以上知的な適性などほとんど問われないわけです。

本誌の岡山茂の論考では、
日本の大学が世界の大学ランキングで100位以内に入ることを、
文科省が求めていると書いてありましたが、
この、大学ランキングという基準がただの権威でしかないことは明らかです。
自分たちで中身については考えず、世界的な権威に丸投げする、
こういう海外の権威への依存は、世界遺産とかオリンピックとか枚挙に遑がありません。

反知性主義と本当に向き合うのなら、
自らの反知性的な面と向き合うことが大切になります。

その覚悟があるならば、
「権威主義と向き合う」(当然天皇制とも向き合う必要があります)という特集もできるでしょうが、
思想が生活を支えるための「メシのタネ」でしかない人たちには、
絶対できないと僕はあきらめています。

あと、僕は白井聡さんの知性にだけは多少の期待をしているので、
「現代思想」のような左翼敗北主義に染まる前に、
早々とこの雑誌と縁を切ることを切に願っています。

 

 

 

『別のしかたで:ツイッター哲学』 (河出書房新社) 千葉 雅也 著

  • 2014.07.28 Monday
  • 08:28

『別のしかたで:ツイッター哲学』 (河出書房新社)

  千葉 雅也 著

 

   ⭐

   安直

 

 

「ツイッター哲学」と銘打っていますが、
やっぱり単なる雑感という印象は拭えません。

断片による思考スタイルというものは否定しませんが、
元がツイッターであれば、
それは断片以上でも以下でもないと思います。

そもそも時間と共に流れ去る表現形式を採用して書かれたものを、
紙媒体に移し換えれば時間に耐えうる思考になるのでしょうか?
表現形式と表現内容は不可分なものではないのでしょうか?
順序の入れ替え等でそこが解決できるとは思えません。

河出書房新社が話題になった千葉雅也でもう一儲けを考えたにしても、
それに安直につながる千葉の姿勢を見ていると、
「非意味的切断」とか「動きすぎてはいけない」とか、
いったい誰が言ったのか不思議になります。

 

 

 

『ドゥルーズの哲学原理』 (岩波現代全書) 國分 功一郎 著

  • 2014.03.26 Wednesday
  • 12:58

『ドゥルーズの哲学原理』 (岩波現代全書)

  國分 功一郎 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

  ドゥルーズは政治的か?

 

 

哲学関連書に珍しい丁寧な語り口が特徴の國分ですが、
難解と言われるドゥルーズでも見事にそのスタンスを貫いてくれました。

思考の切れ味には不満がないこともないのですが、
丁寧な説明で読者を置いてけぼりにしない努力は、
つまらない発想で偉そうにされるよりは、ずっと大人な態度に思えます。

ざっと諸兄のレビューを見回したところ、
この本のテーマについてあまり語られていないように見受けられたので、
そこに触れておきたいと思います。

序文に書かれているとおり、
この本にはドゥルーズの思想について國分なりの探究があります。
それは「ドゥルーズ思想は政治的なのか否か?」という問題です。

ドゥルーズの思想が政治的に受容されている(ネグリなどが代表)一方で、
その非政治性への批判(ジジェクやバディウなど)が行われているのなぜなのか?

國分はドゥルーズ単独とガタリとの共著に線引きをし、
たしかにドゥルーズ単独では政治性は薄いが、
その欠点を乗り越えようとしてガタリとの共著というスタイルを取ったとするのです。

この説明には納得しました。
まあ、ガタリが政治的なだけなんじゃないの、と言えなくもないのが難点ですが(笑)

第5章がドゥルーズ=ガタリの政治性についての考察に当てられています。
ここではフーコーの権力論を「欲望」によって読み替える試みがなされますが、
あまりにフーコーに依るところが大きく、
ドゥルーズ=ガタリ自身の政治性はイマイチ実感できませんでした。

「欲望」によって人々が権力に自発的に隷属していると言われても、
その認識だけでは政治的にはなりえません。

僕はネグリをアカデミックな毒に当てられた世間知らずだとレビューに書いて、
さんざんな評価を受けていますが、
欲望による権力の解体は、完全に解体すると解体後の無秩序を招くため、
権力を解体しきらずに擾乱する程度の効果しか発揮できない、
つまり、現行の権力に依存しつつふざけてみせる「おちゃらけ革命」にしかならないと思います。

そういう発想が「ネットが世界を変える」という誇大妄想を生み、
そんな誇大妄想が誇大妄想を抱いた依存的な政治家を招き寄せる結果になっていると感じます。

結局、資本主義の勝利を受け入れた時点で左翼は死ぬしかなかったということです。

政治的実践に手を染めるのをいとわない國分のような逸材が、
ドゥルーズとか言うのは僕としてはテンションが下がりますが、この本は良書だと思います。

 

 

 

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 (河出書房新社) 千葉 雅也 著

  • 2014.03.08 Saturday
  • 12:27

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)

  千葉 雅也 著

   ⭐⭐

   既視感の牢獄

 

 

まず、東大の哲学研究はフランス現代思想(の一部)に偏りすぎていると思います。
発想が膠着している印象です。

この本にも同じ印象を感じました。
日本哲学の若手ヒーローの系図はどうしていつもこれなのか。

浅田彰はスキゾを持ち上げましたが、
日本において天才はパラノばかりだ、と柄谷行人が言ったように、
そもそも分裂症的な日本人にそんなこと言って近代の反省(ポストモダン)になるの?
というのが僕の疑問でした。
千葉も相変わらずスキゾを持ち上げればいいと思っている点で進歩がないようです。

東浩紀は切断の必要性を訴えましたが、
結局は「日本のオタクは最先端だ」と言いたかっただけでした。
政治的コミットメントを嫌う日本人に、
切断の必要性を説くことで近代の反省(ポストモダン)になるの?
というのが僕の疑問でした。
千葉の非意味的切断もそれほど変わらない感じです。

千葉は接続的なベルクソン的ドゥルーズに対し、
切断的なヒューム的ドゥルーズも忘れてはならないと言いたいようです。

両方でワンセットという前提はいいと思います。
そこは僕も理解しています。

しかし、非意味的切断の強調は、
こと日本においては弊害の方が大きいと思います。

ベルグソン的ドゥルーズからヒューム的ドゥルーズへの流れは、
丸山眞男的に言えば、
ササラ型からタコツボ型への変化に対応するように思えるのです。

僕は80年代以降の日本のフランス現代思想受容が、
日本人のナルシシズムを強化したと思っています。
西洋人にとっての反省が、日本人にとって反省になるとは限りません。

そもそも、地域共同体の束縛を嫌って、
タコツボ的に引きこもることを目指すのは日本近代文学の伝統です。
その伝統に哲学も影響されているようですが、
既視感がありすぎます。

日本の戦時国体は西洋のファシズムとは構造が違いますよ。
現実的な意味や接合を嫌うがゆえに、
非意味的に全体化される形もあるんです。

ドゥルーズは概念論なので、そういう土着的な問題を回避しやすい点で人気なのでしょうが、
そうであっても思想家は自らの土壌を見据えて思想を展開すべきです。 

千葉の論考はお勉強ができる人が書いたものでしかない印象でした。

 

 

 

『ヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学』 (青土社) 檜垣 立哉著

  • 2013.01.03 Thursday
  • 07:29

『ヴィータ・テクニカ  生命と技術の哲学』  (青土社)

   檜垣 立哉著

 

   ⭐⭐

  題名倒れのノスタルジー

 

 

思想を生命との関係から捉え直すのは、21世紀的な課題だと思います。
本書の題名を見たときに、その課題に応える本かと期待したのですが、中身は全くの期待はずれでした。

ヨーロッパの「言語論的転回」に対して、「生態学的転回」を持ち出すまでは良かったのですが、
主体の分散を、生命を肯定する主体の「無責任」性と言い出したところで、早々にガッカリしました。
よくある日本的ポストモダン受容の延長ですね。(カギ括弧の意味を考えても結果は同じです)

日本のポストモダン受容がなぜナルシシズムを蔓延させたのか。
その反省が全くない本なので、10年前に出すべき本でしょう。

結局はフーコー、ドゥルーズしかわからないんだな、という感じです。
ハイデガーの技術論にも触れますが、ほとんどが他人の研究の上に成立していて、門外漢の論の域を出ません。
ドゥルーズ=ガタリの戦争機械による平滑空間は、国家権力が敵の時代には有効に思えたかもしれませんが、
グローバル資本主義の21世紀においては何の効果があるのかわかりません。
檜垣は言い訳を書いていますが説得力はなく、ドゥルーズが専門だから擁護しているという程度に思えます。

呆れたのは、フーコーの生政治における「人口」という単位が、自然の偶然性や無限性を俯瞰する視点だというくだりです。
最近の論壇は専門バカの牽強付会だらけですが、檜垣自身の学識にもっと俯瞰的な視点が必要だと感じました。

 

 

 

『暇と退屈の倫理学』 (朝日出版社) 國分 功一郎著

  • 2012.03.20 Tuesday
  • 22:58

暇と退屈の倫理学』 (朝日出版社)

 國分 功一郎著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

  おもしろい試み

 

 

参考書のようにわかりやすく丁寧な説明です。これまでにあまり見ないスタイルですね。
ボードリヤールやハイデガーというトレンドを無視したチョイスにもセンスがあります。

個人的に大いに共感するのは、疎外論を再評価しようとしている点です。本来性を切り離すだけで疎外論を救えるかは微妙なところですが、廣松渉以来、柄谷や浅田などにダメ扱いされてきた疎外論を取り上げる人は、僕が見る限り皆無でした。疎外論はバブルの影響下にある時代には適さなくても、今の社会状況では案外支持されると思います。消費社会における疎外の問題については、これからも掘り下げていってほしいテーマです。

ただ、ガルブレイスやコジェーヴに説教するあたりは、「ゴーマンかましてよかですか」っぽいのでやめた方がいいように思います。

 

 

 

評価:
國分 功一郎
朝日出版社
¥ 1,943
(2011-10-18)

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< January 2019 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM