『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう──レフト3.0の政治経済学』 (亜紀書房) ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著

  • 2018.07.03 Tuesday
  • 22:03

『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう──レフト3.0の政治経済学』 (亜紀書房)

 ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著

   ⭐⭐⭐

   レフト3.0宣言の内容は反緊縮経済?

 

 

本書は3人の鼎談形式で構成されています。

イギリス在住でアナーキー志向のコラムニストのブレイディみかこ、

立命館大学経済学部教授でケインズやマルクスの経済学に明るい松尾匡、

東京大学大学院情報学環教授で社会学専攻の北田暁大の面々なのですが、

彼らは日本の左派の不甲斐なさに不満をつのらせている点で意見が一致しているらしく、

内容の大部分は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンなどのヨーロッパの左派を手本として、

緊縮財政を訴えている日本の左派はダメだという話になっています。

 

松尾は量的緩和(本書では金融緩和)をするべきだと主張しているために、

アベノミクスを肯定し、左派を叩いていると誤解されると本書のあとがきで嘆いていますが、

正直、虚心に本書を読んでみて、そう受け止める人がいるのは仕方ないように僕には思えました。

実際に3人は日本の左派をダメだダメだと言っていますし、それに比べると安倍政権への批判は抑えめです。

たとえば松尾は安倍政権下での実質賃金の下降について、民主党政権の後半から始まっていたと語り、

量的緩和を擁護するために安倍の経済政策の問題点はあまり強調できていません。

 

アベノミクスは実際には量的緩和以外にほとんど効果を示していないので、

量的緩和を肯定するとアベノミクス支持と受け止められても不思議はありません。

つまり、松尾は安倍の右翼的政策には反対ではあっても、経済政策そのものにはそれほど反対していないわけです。

どんなにケインズやマルクスを持ち出しても、結論が量的緩和であるならアベノミクスでいいではないか、

と経済の素人は思ってしまうのではないでしょうか。

(その意味で、松尾の提言を野党が受け入れないのは当然だとしか僕には思えません)

 

もちろん松尾の語っていることが間違っているとは僕も思わないのですが、

政治的な視点からすれば、松尾の語る経済政策で左派のアップデートができる気はしませんでした。

 

そもそも、日本人が経済政策にそれほど関心もなければ理解も乏しいということはどう考えているのでしょうか。

世界一の豊かさを誇った日本経済が「失われた30年」などと言われるほど停滞したのはなぜなのか、

僕は多くの経済関係の本を読んできましたが、そのあたりの共通認識も立ち上げられてないような気がします。

不良債権処理でつまづいたのか、デフレが問題なのか、借金が問題なのか、

中国の製造業の台頭が問題なのか、金融グローバル化が問題なのか、少子化が問題なのか、

人によって問題にしていることが違うという印象があります。

(そのすべてが問題ということもありそうですけれども)

この本では緊縮財政が諸悪の根源であるような「わかりやすい論点」が示され、

3人が意見を合わせて反緊縮だ反緊縮だと言っているのですが、

前述したように、それならアベノミクスでいいではないか、と思わなくもありません。

 

松尾は量的緩和によって完全雇用が実現する前に福祉や教育の分野へお金が回るようにすべきだと言いますが、

むしろ、そうなるためにはどうすればいいのかを考えていただきたかったです。

現在のグローバル金融資本主義に適応することを優先したら、そんなお金の回り方はありえないと思うだけに、

量的緩和の主張に重点があるような鼎談はあまり意味がなく退屈でした。

 

それから3人は最後の方で左派の根本は階級闘争であるということを語り出します。

これにはまったくその通りだと僕も同意したいところです。

「左派による下部構造の忘却がはじまってしまった」と北田も発言しています。

90年代の左派の主流となったマイノリティの権利などのアイデンティティ・ポリティクスがマルクスを忘却したのはその通りで、

僕も〈フランス現代思想〉からアントニオ・ネグリへと至る左派アカデミズムは時代遅れだとずっと批判しています。

北田は「どれだけ泥臭くなれるか」がレフト3.0の課題だとした上で、これまでの左派が口だけの「草の根」だったことを批判します。

 

北田 レフト1.0のまずさをよくわかっているから、みんな草の根だと自認し、宣伝するんですよね。ポストモダンブームの時のキーワードは「リゾーム(根茎)」でしたし、最近ではネグリたちの「マルチチュード(ラテン語で「多数」「民衆」の意味)」です。こうした概念は、先行世代の左派批判にはその都度使いやすいのだと思いますが、社会学的には根拠が見当たりません。正直わたしは単なる高学歴者の流行思想なんじゃないかと思います。

 

左派の本質にエリート主義があるという北田の指摘は非常に重要ですが、

松尾も北田も自分自身が大学教授であるという事実をどう考えているのかが僕には気になるところです。

ただ、北田のポストモダンに対する分析そのものは正しいと言えます。

日本の左派インテリがフランスの流行思想に飛び乗ることに自己満足してきたことは、もっともっと批判されるべきだと思います。

 

読んでいて最も違和感があったのは、次のことです。

そんなに下部構造が大事だと言うのなら、日本共産党や小沢一郎の「国民の生活が第一」などはどうなのでしょうか。

共産党もエリート主義ではあると思いますが、建前上は下部構造重視を貫いていると思います。

どこまで本気かわかりませんが、小沢の掲げる建前も同様です。

彼らが共産党や小沢をどう考えるのかに興味があったのですが、僕が見たところ、本書でこれらに触れたことは一度もなかったように思います。

自民党と公明党、民主党と社民党は批判されたりするのですが、共産党は存在しないかのようなのです。

もちろん、共産党が量的緩和に賛成するとは思えないわけですが、

下部構造を重視しているはずの党の支持がそれほど上がっていないことを彼らがどう処理するのか、

という僕の興味は巧妙にスルーされてしまった気がしています。

 

それから、僕個人としては日本の経済を語るなら、最優先で地方経済のことを考える必要があると思っています。

本書では松尾単独のあとがきで少し触れているだけで、鼎談の中ではほとんど語られていませんでした。

大上段で「〈経済〉を語ろう」と言ったわりに、正直内容は乏しすぎたような気がします。

これでは、もっとダメな左派を叩くだけの印象しか残らないのも仕方がないのではないでしょうか。

 

 

 

『危機の政治学 カール・シュミット入門』 (講談社メチエ) 牧野 雅彦 著

  • 2018.07.01 Sunday
  • 13:36

『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社メチエ)

  牧野 雅彦 著

 

   ⭐⭐

   やはりシュミットはよくわからない

 

 

ナチスへの協力が取りざたされて批判にさらされたドイツの法学者カール・シュミットを、

再評価する動きが最近目立っていますが、牧野もそのような流れの中で本書を書いています。

シュミットの思想はナチスに協力した危険思想だ、と切り捨ててしまえるものでないことは本書を読んでよくわかりましたが、

では、なぜシュミットがナチスと近い立場に身を置いたり、反ユダヤ主義とも思える言説をしていたのか、という点については、

牧野の記述は非常に後ろ向きでしかなく、これもまたフェアな立場だとは思えませんでした。

批判して終わりも良くありませんが、シュミットをただ擁護するだけの態度も、門外漢としては同様に偏ったものに感じました。

 

副題に「カール・シュミット入門」とあることに読み終わってから気づきましたが、

明らかに入門書のレベルではありませんし、入門書の体裁でもありません。

僕は途中でわからなくなって、もう一回最初から読み直したのですが、かなり難しくて苦労しました。

シュミットの著作自体について以上に彼の周辺人物の著作や当時の政治状況についての方が、

触れている量が多かったようにさえ感じました。

 

第一章は「政治神学とは何か」と題されていますが、シュミットの概念をわかりやすく説明してくれるのかと思いきや、

シュミットが影響を受けたカトリック系の反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルやドノソ・コルテスの思想を長々と説明します。

いきなりシュミットではなく謎の反動思想家の説明が続くのは、マニアックとしか言えません。

そこを乗り越えてシュミットの思想に至ったと思っても、ほとんど記述らしい記述がなく、

気づいたらメーストルとコルテスの思想にだけ詳しくなっていました。

 

第二章ではシュミットの『政治的なものの概念』を取り上げ、シュミットが多元主義のハロルド・ラスキを批判したことが述べられます。

直後、牧野はハロルド・ラスキの著作の内容に踏み込んでカトリック反動について長々と説明したあと、

次にジョン・フィッギスという歴史家の、教会を中心とした団体自治論を説明し始めます。

ここまで30ページを要していますが、その間にシュミットはほとんど登場しません。

これで本当にシュミットの入門書と言えるのでしょうか?

 

そのあとやっと『政治的なものの概念』における「友と敵」の実存的決定の話が出てくるのですが、

これが数行のあっさりとした記述で終わってしまうのです。

続いて『憲法理論』を取り上げ教会の「権威」と国家の「権力」をシュミットがどう考えていたかが語られます。

ですが、この部分は9ページで終わってしまいます。

 

シュミットの著書『独裁』における「委任独裁」と「主権独裁」の区別については、説明にそれほど不満はありません。

秩序を制定する権力である国民を「憲法制定権力」としたとき、憲法制定を委任された代理人が「主権独裁」である、というのは、

安倍晋三の憲法改正に対する黒い情熱を想像する上で興味深いものがありました。

シュミットの国際連盟批判や、統一帝国であるライヒへの執着、内戦を終結させる「アムネスティ」という相互忘却の原則についてや、

パルチザンにおける敵の問題など、がんばって読めばおもしろい部分もあるのですが、

長々しい上に専門的で敷居の高い内容だったというのが正直な印象です。

 

しかし、肝心の友と敵の区別についての説明に分量をかけていないため、

基礎的な部分をぼんやりとしか理解していないまま、先々の理論に付き合わされている感じは否めません。

牧野は「友と敵」の区別が「政治的なもの」の核心だと結論だけは何度も述べるのですが、

それがどういうプロセスで成立しているのかは、なぜか詳しく説明してくれません。

もしかしたら、シュミットとナチスとの関係にとって不利な内容なので、あまり触れないようにしているのでしょうか。

危機状態を前提にした権力論は、議論が本質的になるため魅力があるのは理解できますが、

一方で例外状態はあくまで例外状態であるという認識も大切でしょう。

「敵」を設定し共有することで自己のあり方を決めるというのであれば、

それは反動保守のやり方とそう変わらないように思えるのですが、

本書には僕の疑問を解消するような説明は見つけられませんでした。

 

 

 

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎) ナイジェル・ウォーバートン 著

  • 2018.06.30 Saturday
  • 22:13

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎)

 ナイジェル・ウォーバートン 著/月沢 李歌子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   イギリス視点の哲学史に〈フランス現代思想〉は存在しない

 

 

イェール大学出版局の「リトル・ヒストリー」シリーズの『経済学史』はなかなか良い内容でしたが、

この『哲学史』も著者は違うのですが、40の断章で哲学史上の思想家を紹介していきます。

これだけ多くの思想家をわかりやすく取り扱うウォーバートンの力量には感心させられますが、

彼が大学に籍を置かないフリーの哲学者であることにも驚きました。

大学の出版局からの著書なのに、大学の先生でない人に書かせられるほど、イギリスの人文知の裾野は広いのだと感じます。

 

ソクラテス、プラトンから始まっていき、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経て、

デカルト、パスカル、スピノザと続き、ルソー、カントへと至る流れは王道と言えます。

聞いたことがある哲学者の名前が次々と出てくるのは、ビギナー向けとしては欠かせない要素です。

また、ウォーバートンはビギナーが困らないように、わかりやすい説明を心がけています。

エピクロスは僕にはそれほど馴染みのある思想家ではなかったのですが、

「エピクロスの教えは、ある種のセラピーでもあった」と説明されると、興味が掻き立てられます。

 

ヴォルテールについて書かれている章もためになりました。

彼は言論の自由の擁護者で、「あなたの主張には反対だが、そう発言する権利は命を懸けて守ろう」と発言したそうです。

僕はR大学の准教授に言論弾圧を受けたことがあるのですが、そういうインチキ野郎に比べてヴォルテールは偉い人だと思いました。

ヴォルテール自身は権力者である貴族を侮辱したとして、バスティーユ監獄に入れられてしまったのですが、

それでも周囲の偏見や疑わしい主張に疑問を呈し続けるのをやめない、勇敢な人だったとウォーバートンは述べています。

ヴォルテールの『カンディード』がライプニッツの楽観主義を風刺しているというところも、

非常におもしろく読みました。

 

誤解されやすいルソーの「一般意志」についても鮮やかに説明しています。

共同体全体の利益になるものが一般意志であるため、自己本位であれば誰もが税金を払いたくないと思うものだが、

一般意志に基づくと、共同体が適切なサービスができるのに十分な高さの税金を支払うべきだということになる、

という例を出されると、理解が平易になります。

 

ただ、本書はイギリス人による哲学史のためか、ウォーバートンの個人的趣味のためなのかわかりませんが、

全体にドイツ思想に対して評価が厳しいように思いました。

カントの道徳哲学をアリストテレスと比較して、ウォーバートンは次のように書いています。

 

アリストテレスは、真に徳のある人はつねに適切な感情をもち、その結果として正しい行動をすると考えた。カントにとって、感情とは、見せかけではなく本当に正しいことをしているのかどうかをわからなくして、問題をあいまいにするものである。

 

カントは理性さえあれば道徳的でいられると考えたというのがウォーバートンの説明なのですが、

あまりにカント思想の理解が表層的に思えます。

 

20章に登場したイマヌエル・カントは、「嘘をつくな」というような、どんな場合でも適応される義務があると主張した。だが、ベンサムは、行為の善悪は結果によって判断されるとし、状況次第だと考えた。嘘をつくのはつねに誤りだとは限らない。

 

この「嘘をつくな」の例はカントの定言命法を説明するのにふさわしいとは僕は思いません。

その意味で、ウォーバートンの記述にはカントに対する悪意が感じられなくもありません。

ヘーゲルやニーチェの扱いもあまり良いとは言えませんでした。

バートランド・ラッセルの紹介などは非常に良く書けていたので、やはりイギリス偏重という傾向は否めないと思います。

 

特に日本人にとって違和感があると思われるのは、フッサールとハイデガーの現象学と解釈学に対する記述がほとんどないことでしょう。

ハイデガーの名前を出したかと思うと、すぐにアーレントへと話を進めてしまうあたりは不自然に思えます。

また、サルトルとボーヴォワールには触れるのですが、

日本では現代思想の代名詞であるフランスの構造主義とポスト構造主義の思想家については一言も触れていません。

アーレントからカール・ポパーへと進み、トーマス・クーン、フィリッパ・フット、ジョン・ロールズときて、

オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーで締めくくられます。

 

イェール大学による哲学史ではいわゆるポストモダン思想は哲学ではないというのは非常に興味深く思えました。

その意味では日本的な現代思想バイアスを修正するのに本書は適しているかもしれません。

個人的には、ポパーがフロイトなどの精神医学に反証可能性がないため、非科学だと批判したというところが勉強になりました。

思想家の変わったエピソードなども差し挟まれていたりして、読み物としてもなかなか面白かったです。

 

 

 

サッカー日本代表の愚行を擁護するメディアへの佐野波布一のコメント

  • 2018.06.30 Saturday
  • 14:54

 サッカー日本代表の愚行を擁護するメディアへの

 佐野波布一のコメント

 

 

 

   W杯グループリーグ最終戦での「他力本願」を監督の苦渋の決断と持ち上げる欺瞞

 

 

僕はスポーツを見るのは好きですが、ネットでそれについて書きたいとは思いません。

ただ、今回の日本人の自己欺瞞があまりに耐え難いために発信させていただきます。

 

僕のサッカーとの付き合い方は変わっているので、周囲からは「変人」と思われています。

僕は10代の時にテレビでワールドカップを見ていたとき、日本が出ていなかったため、

応援する母国がほしいと思って、コロンビアを母国にしようと決意しました。

それ以来、サッカー国籍はコロンビアだと公言しています。

(ヨーロッパ偏重の権威主義的なサッカーファンに対する反感もあったかもしれません)

それからずっと僕はコロンビア人として、ワールドカップ予選は南米予選だけをチェックしてきましたし、

チャンピオンズリーグよりもリベルタドーレスを見てきました。

コロンビアを応援するために94年のアメリカ大会にも行きました。

(日本代表の試合は国内すら一度も行ったことがありません)

僕はサッカーマニアではありませんが、日本代表の選手よりコロンビア代表の選手の方が断然詳しいと思います。

 

今大会でコロンビアが日本に負けたのは僕にとって悪夢でした。

日本中が喜んでいるのかと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだものですが、

コロンビア人と受難をともにしたことで、自らのサッカーアイデンティティの強固さを感じたものです。

 

そのため、僕はグループリーグ最終戦ではコロンビア対セネガルの試合をリアルタイムで見ていました。

日本戦には1秒たりともチャンネルを合わせなかったので、日本戦で何が行われていたのかは翌日のニュースで初めて知りました。

終了近い時間帯に日本が負けているのにもかかわらず、パス回しで時間稼ぎをしていたと知って、僕はびっくりしました。

コロンビアがセネガルに1点リードしていることから、西野監督はコロンビアの勝利に期待して、

1点差負けで決勝トーナメント進出を手に入れようと考えたようなのです。

 

僕が驚いたのは、このようなギャンブルに全く合理性がなかったということです。

コロンビアとセネガルの試合をずっと見ていればわかることですが、ハッキリとセネガル優勢の試合でした。

僕はコロンビアの分の悪さを悟って、ハーフタイムで妻にも厳しい状況であることを話しました。

チャンスもセネガルの方が多く、日本がポーランドに先制され、こちらが引き分ければ決勝に行けると知った後も、

引き分けること自体が至難の技だと感じて喜びもしませんでした。

 

しかし、セットプレーというものは一撃があります。

リーベル移籍後にかつての輝きを取り戻しつつあるキンテーロからのコーナーキックに、

バルサでくすぶっているジェリー・ミナが頭で合わせて先制したのです。

僕の実感では運良く先制点をゲットしたというところでした。

その後は当然セネガルが攻勢に出て、コロンビアは何度も窮地に立たされました。

最後の笛が鳴るまで、ものすごく時間が長く感じられましたし、いつ点が入っても不思議でない展開でした。

 

こういうことはリアルタイムの実感でないとわからないので、日本戦を見ていた日本人にはわからないと思います。

そのため、僕のような自称コロンビア人が語ることに意味があると思って書いています。

要するに、コロンビア人から見ると、薄氷を踏むような先のわからない展開の中で、

試合を捨ててまでコロンビアの勝利に賭けるという西野監督の采配は、たまたまうまくいっただけでクレイジーだと思えるのです。

 

たとえばネットにある読売新聞の記事に、浅井武という人が書い文章がありましたが、

彼は「かなり危ない橋を渡った」と「他力本願」に否定的な評価をしているのですが、

「セネガルにスーパーゴールが生まれたり、コロンビアに致命的なミスが出たりして」

などと書いているように、どうも日本人はコロンビアが優勢に試合をしていたと思い込んでいる節があります。

まずはその認識が間違っていることを共有してから、今回の采配について評価をするべきだと思います。

 

それなのに、日本でニュースなどを見ると、セネガルが追いついたら批判されるであろうことを、

「あえて」決断した西野監督を讃えるようなコメントが繰り返されていて、呆れ果てました。

世界から日本の行為は散々に批判されていますが、客観的に見れば当然批判される行為でしかありません。

なにしろ、自力で勝ち進めない自らの力不足を自覚をして、

結果を他のチームの頑張りに丸投げしていながら、

決勝トーナメントにだけは進出したい、という浅ましさだけを表に出してしまったのですから。

 

このような「浅ましい」行為を後ろめたく思う日本人も少なくないことを僕は確認していますが、

サッカー協会への批判がタブーとなっている日本メディアは、あろうことか西野が立派な「決断」をしたかのような欺瞞言説を垂れ流しています。

僕にはそれが正当な評価とは思えません。

 

日本対ポーランド戦に関しては、僕が知った情報はすべて試合後のものでしかないのですが、

日本はスタメンを6人も変えて試合に臨んでいます。

過去2試合で敵ながら怖いと思った乾がスタメンでないということに驚いたのですが、

この采配が、日本が戦力を温存しても連敗中のポーランドとなら引き分けられる、

という甘い見通しによるものであったことは間違いないと思います。

コロンビア戦を一人多い状態で勝ったわりに何を勘違いしたのかわかりませんが、

ずいぶんと余裕をかましたものだな、と思います。

 

このスタメンから感じることは、日本サッカー協会と西野朗が日本の決勝トーナメント進出を楽観視していたということです。

つまり、彼らにとって日本の決勝トーナメント進出は「既定路線」となっていたのです。

(初めからコロンビアがセネガルに勝つにちがいないと思っていたのかもしれませんが)

おそらく、その「既定路線」をもとに裏ではいろいろなお金が動いていたに違いありません。

このようなナルシスティックな楽観主義はいかにも日本的だと思いますし、第二次大戦時の大日本帝国が、ナチスがイギリスを倒してくれることを期待して作戦を立てていたことが思い出されました。

 

しかし、ポーランドに先制されたことで日本に予選落ちの危機があることに今更ながら気づかされたのでしょう。

「既定路線」が「既定路線」でなくなることが最も恐ろしい人たちが取る手段は決まっています。

どんなことをしても「既定路線」を維持することです。

たとえフェアでないと言われようと、たとえ他力本願であろうと、「結果」を合わせていくことが最も大事になるのです。

それが「あられもない時間稼ぎ」という西野の采配を導いただけだと僕は考えます。

 

サッカー協会と一体化した西野にとっては、日本が決勝トーナメントに進めないこと以上に怖いことはなかったように思います。

それなのに、セネガルが同点に追いついたら批判されるとわかっていて、時間稼ぎを決断した西野はすごい、

などとメディアが垂れ流すのは、僕からするとサッカー協会とタッグを組んで情報操作をしているとしか思えません。

何もすごいことなどありはしません。

日本が失点して「自己責任」となるより、他会場の「自然」に結果を任せた方が、

西野自身が責められることは少ないと計算しただけにすぎません。

その証拠に、日本以外の国で西野の戦術を立派な決断だなどと評価しているメディアを見かけませんし、

かつてガンバ大阪で西野の下でプレイしたことがある遠藤保仁などは日刊スポーツの取材に、

「セネガルが得点したのなら、みんなの責任」などと答えて、西野の責任がスッポリ抜け落ちるような発言をしています。

(僕はこの遠藤の発言に、戦争責任は全員にあるという「一億総懺悔」を彷彿とさせられました)

 

ネットには勝てば官軍とばかりに「結果」がすべてで問題ないという「強弁」をしている「わかっていない人」がいますが、

日本のやったことは問題がないという言説は世界では通用しません。

なぜなら、他会場の結果で試合結果をコントロールすることが問題行為だと見なされているからこそ、

グループリーグの最終戦は同時刻に試合を行うようにしているのです。

つまり、FIFAが日本の採用した作戦を良いものだと評価するはずがないのです。

そのような意図もわからず、自己本位な行為をしてしまった田舎者が日本代表だということです。

 

自国内の自己満足的な視点しか持ち得ない日本人は喜んで騙されていくのかもしれませんが、

西野監督の采配を評価することは外から見たら滑稽でしかないわけです。

(残念ながら僕は純粋な外の人間ではないので、滑稽ですませられずにこのような文句を言いたくなるわけですが)

 

11人対11人の試合展開では一度も相手チームをリードしたことがなかった日本が、

他力本願の時間稼ぎをして決勝トーナメントに進出したのは明らかなのですから、

潔く「まともに戦ったら弱い僕らが決勝トーナメントに行くには、みっともなくてもあれしかなかったんだ」と言ってほしいものです。

まあ、日本人はナルシシズムを充溢させることが生き甲斐なので、そんなことが認められるわけがないんですけどね。

どうして日本は実力以上に背伸びをしていないと気がすまないのでしょうか。

バブル経済で夢を見てから、現実のショボい自己像と向き合うことを避けることが、日本人の欲望になってしまいました。

僕は主に思想界や文学界などで、実力が乏しいのに斜陽の出版業界との癒着でスター扱いされている人物を批判していますが、

このような人物が後を絶たないのは、彼らが現在の日本の自画像と一致しているからだと感じています。

その意味で彼らは現代の日本人からの共感は得られるわけですが、

さすがに長い歴史の中では、いずれ彼らの実力の乏しさが暴露され批判されることになると思います。

サッカーで実力が暴露されるのは、それに比べれば時間がかからないのではないでしょうか。

『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』 (ちくま新書) 船木 亨 著

  • 2018.06.25 Monday
  • 00:37

『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』 (ちくま新書)

  船木 亨 著

   ⭐

   権威主義的なドゥルーズ学者を調子に乗せる出版界の腐敗

 

 

日本の出版界には「現代思想=フランス構造主義の系譜」という硬直した発想が根強くあります。

そのため、ドイツ人でF・シェリングを専門とする思想家マルクス・ガブリエルが来日すると、

ドイツ思想の研究者でもない國分功一郎や千葉雅也というG・ドゥルーズ研究者を対談相手にしてしまったりします。

ドイツとフランスの区別もできない西洋思想後進国にはガブリエルも苦笑するしかないところですが、

このようなドゥルーズを持ち上げていれば安全というような、一元的な価値を日本の現代思想は30年以上も守ってきています。

 

本書の著者の船木もドゥルーズ学者ですが、あまりに短絡的で教条主義的な〈フランス現代思想〉の「受け売り」にウンザリしました。

何の思想を研究するにしても、対象を無条件で信奉してしまったら、それは思想とは言えないでしょう。

 

簡単に〈フランス現代思想〉の特徴を整理すれば、ポストモダン的な近代批判であり、

反人間主義に基づいた理性批判、主体批判になります。

本書を読みはじめると、船木は理性や主体を近代的な悪と決めつけて自説を展開するばかりで、

読む前からゴールのわかっている本でしかないという印象でした。

 

僕は完読主義でどんな本も最後まで読むのがマナーだと思っているのですが、

本書は130ページまで読んだところで断念しました。

思想好きの人でないとなかなか読んでいないであろう思想家の著作を、たいした説明もなく持ち出すわりに、

説明が親切ではないので、それだけで挫折する人もいると思います。

しかし、それらを読んでいて内容もある程度知っている僕が読んでも、

それほど思想的に感心することが書いてあるわけではありません。

わかりやすくズバリ言ってしまえば、本書は500ページ以上にわたって船木の自己満足が綴られているため、

読み手にまで届くものがほとんどない恐怖の本だと感じました。

そういえば、誰一人として生徒が耳を傾けていない授業を平気でしている大学教授っていますよね。

 

僕は前々から、〈フランス現代思想〉学者が、その特色である相対主義を偉そうに主張しながら、

自分の依存対象である〈フランス現代思想〉をまったく相対化できないことにガッカリさせられています。

本書を断念するキッカケとなった僕が最も許せなかった記述は、

ヒトラーを支持した「権威主義者」を批判したエーリッヒ・フロムが間違っているというところです。

船木はフロムが「権威主義者」である大衆を非理性的な存在として批判したと述べたあと、

理性は悪だと思い込んでいるためか、

「権威主義者が普通の人間であり、理性的主体の方が変人なのである」などと主張しているのです。

 

船木はそのあと、権威主義者が「一定の比率で出現するのが社会なのだと考えるべきではないだろうか」などと述べるのですが、

本当に「一定の比率」でしかなかったら社会全体の体制に影響するはずがありませんので、

説得力のない論理で権威主義者を擁護しているようにしか受け取れません。

このように単純に理性を否定する人物が、どうして理性的エリートがなる大学教授などというポストにいるのでしょうか。

まさか彼はドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲望によって論文を書いたとでも言うのでしょうか。

僕には船木自身がフロムの言う「権威主義的パーソナリティ」を体現した人物であるため、

「わたしこそが普通の人間なのだ」と主張したいがためにフロムを批判しているようにしか感じられませんでした。

 

今、ペラペラと先の方をめくってみたら、163ページにこんな文もありました。

 

昇華された暴力が理性なのである。生活条件の満たされたメジャーなひとびとにとって抑圧されるべきものがあり、これを抑圧する暴力が理性と呼ばれているものなのだ。

 

パラ見なので文脈はよくわかりませんが、やっぱり教条的に理性を悪だと考えているとしか思えません。

そして最後の方を開いて確認してみましたが、僕の予想通りの結論が展開されていました。

「近代の一時期は、理性主義的な少数エリートが強力だったという点で、ちょっと特別だった」

などと述べて、やっぱり船木は理性と近代をひっつけて「近代主義」などと批判するのです。

 

ちょっとでも歴史の知識があれば、中国の科挙制度などの官僚制度に基づく社会はいつの時代であろうと理性的エリートが主導した社会です。

まさか船木は律令国家も近代主義だとでも言うのでしょうか。

正直に言えば、僕は〈フランス現代思想〉を単純に権威化して、このような暴論を書く人間に怒りを感じています。

そもそも大学教授こそが理性的エリートであり、それが官僚的エリートになっていく人材を選別し教育しているのです。

自分のことは棚にあげ、何か批判をしているつもりで、無意味に長大な本を書く、

こんなことを許す筑摩書房という出版社はどうかしていると思います。

 

そして理性を批判した船木が最後にたどりついた結論は、「情動」が大事だということでした。

 

情動は、複数の身体のあいだで起こる感情のことです。性衝動などがいい例なのですが、それ以外にも、悪くいえば、まさに群衆心理的なもの、横並び的な集団主義的なものを惹き起こすさざ波のようなもののことです。

 

幼稚園児の一人が泣くとみんなに伝播して集団で泣き出すような情動が大事だという結論です。

この幼児性(性衝動というなら「萌え」のようなもの?)が現代思想の結論だとしたら、どれだけ虚しいことでしょう。

船木の言う「横並びの集団主義」が日本的な価値観であることは強調しておく必要があります。

日本流の〈俗流フランス現代思想〉が西洋思想の顔をしながら、実は日本人のナルシシズムを高めるだけでしかないことは、

僕が繰り返し指摘していることですが、船木の結論はまさにそれをなぞるものでしかありませんでした。

(だいたいドゥルーズは群集心理が大事だなんて言ってませんよね)

思った通り、ゴールの決まった本であったことがパラ見でも確認できるわけです。

 

盲目的に〈フランス現代思想〉の権威をありがたがれる人にだけ本書をオススメします。

そうでない方は本の上にレモンを置いて立ち去るのが良いでしょう。

 

 

 

『アブサロム、アブサロム!』 (岩波文庫) ウィリアム・フォークナー 著

  • 2018.06.23 Saturday
  • 01:20

『アブサロム、アブサロム!』 (岩波文庫)

  ウィリアム・フォークナー 著/藤平 育子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   死者たちが奏でる滅びゆく家族の歴史

 

 

本作は南北戦争後のアメリカ南部を描き続けたW・フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」のひとつです。

フォークナーはアメリカ南部にヨクナパトーファ郡という架空の地を生み出して、

自分の小説の神話的な舞台としました。

彼の作品群が「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれるのはそのためです。

 

19世紀にヨクナパトーファ群で農場主にのし上がったトマス・サトペン一家の悲劇を描く本作は、

ストーリーを展開させる「語り」の構造が複雑化しています。

 

フォークナーは『八月の光』では複数の登場人物に次々と視点を移し替え、

その人物の語りによって事件の外観に迫りますが、

肝心の中心人物の来歴については、よくある文学的な手法でしか描けませんでした。

その意味で『八月の光』は文学と映画の折衷のようなスタイルで、ある程度の読みやすさを保っているように思います。

 

しかし、『アブサロム、アブサロム!』は事件がすべてが登場人物の語りによって描かれています。

メインの語り手として登場するのは『響きと怒り』にも登場するクエンティン・コンプソンです。

クエンティンがサトペン夫人の妹のローザ・コールフィールドに呼ばれてサトペンの話を聞くところから物語は始まります。

その後、クエンティンは父親との会話、ハーバード大学の学友シュリーヴとの会話の中で、

トマス・サトペンとその子供たちの悲劇的物語を生み出していくのです。

 

つまり、本作はサトペン一家の物語でありながら、物語にサトペン一家が直接登場しない構成になっています。

物語の当事者は一人を除いてすべて死者となっていて、それを語るローザもすでに死者である上に、

クエンティン自身も先行作品である『響きと怒り』で自殺を果たしているため死者同然といえます。

(シュリーヴはもう一人のクエンティンと受け取れるように注意深く描写されています)

このように、本作は死者が死者を語った小説だと言えるのです。

おそらくフォークナーは神話的想像力に必要なのは、20世紀的な映画のカメラではなく、死者による「語り」であると考えたのだと思います。

 

こうして語られる物語はダビデ王の息子アブサロムを題名に用いていることでもわかるように、

神話的モチーフを匂わせた父と息子たちの悲劇となっています。

サトペンにはヘンリーという息子とジュディスという娘がいました。

ヘンリーが尊敬の念を抱く学友チャールズ・ボンとジュディスが恋仲になったところで、南北戦争が起こります。

南北戦争に参加した二人はなんとか死地をくぐり抜け、花嫁ジュディスのもとに戻るところで、

ヘンリーがボンを射殺してしまうのです。

そこにはサトペンの血にまつわる「呪い」とも言うべき因縁があったのですが、

それはクエンティン(とシュリーヴ)に語り出されることで、死者が生き直すかのごとく、次第にあらわになっていきます。

 

物語の内容だけをストーリーとして語れば、これほどの巨大な作品になる必要はないようにも思えます。

しかし、他でもありうる可能性をひとつひとつ潰すようにして長々と続けられていく、

卓越した比喩を駆使したフォークナーのトランス感にあふれた語りが、

この物語に訪れる運命的な破滅へと向かって、読者を誘い込むために費やされているのは間違いありません。

読者もクエンティンやシュリーヴと一体になって、そしてサトペン一家の人々と一体になって、

アメリカ南部の呪いの中にからめとられていく息苦しさと重々しさを感じていくのが本作の醍醐味です。

紛れもなく天才の仕事だと言えるでしょう。

 

 

 

『AI言論 神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ) 西垣 通 著

  • 2018.06.19 Tuesday
  • 07:56

AI言論  神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ)

 西垣 通 著

 

   ⭐⭐

   屈折した自己都合の論理が読者にはチンプンカンプン

 

 

現在、AI(人工知能)の発達と実用化のビジネスが投資対象になるなど、AIが経済発展の鍵として注目を集めています。

情報学の専門家である西垣は、AIの基本思想がユダヤ教、キリスト教と深い関係にあるとして、

AIが人間の知性を超越すると主張するシンギュラリティ仮説を支持する人々を批判します。

人間を超えたAIによる支配が一神教的な神による支配と共通する、という西垣の言い分は僕にも納得できました。

 

しかし、本書の構成と主張には大いなる「屈折」が見られます。

シンギュラリティ支持者にユダヤ・キリスト的一神教の欲望を感じ取り、それを批判したいわりに、

なぜか西垣はカンタン・メイヤスーの思弁的実在論(というより思弁的唯物論?)を執拗に持ち出すのです。

思弁的実在論にアニミズム的な反一神教要素を見出す人もいるとは思いますが、それならメイヤスーよりグレアム・ハーマンを持ち出すべきでしょう。

どうして数学や科学へと接合するメイヤスーだけを取り上げるのか、まったくわからないのです。

 

細かいことを言えば、僕としてはメイヤスーの思想だけを取り上げて思弁的実在論と言い続けることにも違和感を感じました。

メイヤスー自身は自分の思想を「思弁的唯物論」と呼んで思弁的実在論と距離を置いたりもしています。

西垣にとってはメイヤスーの思想=思弁的実在論となっているようですが、本来なら正しい認識ではないと思います。

そのため、西垣は本当の思弁的実在論に興味があるのではなく、

日本の商業学者御用達の〈フランス現代思想〉の系譜に乗りたかっただけではないかという疑いを抱いてしまいました。

日本人にとっての〈俗流フランス現代思想〉でしかないからメイヤスーだけしか扱わないのでしょうし、

それなら本書の刊行時にその翻訳者である千葉雅也とイベントをしたのも理解できます。

 

疑念を深めるのは、西垣がメイヤスーを持ち出したことの意義がよくわからないことです。

西垣は第三章をまるまる「思弁的実在論」と名づけて、メイヤスーの概説書でもあるかのように説明するのですが、

たとえそれを読んでメイヤスーの思想を理解できたとしても、

それが西垣の主張であるシンギュラリティ批判とどう関わるのかがハッキリしないのです。

なにしろ、一章を割いてメイヤスーの思想をなぞるように説明したのに、その後の章でこんなことを述べてしまうのです。

 

現代科学技術の哲学的基礎を明確にしようという思弁的実在論の意図は十分理解できる。また、相関主義哲学の開祖であるカントの超越論的議論にたいし、祖先以前的言明を持ち出して有効性の限界を明らかにするというメイヤスーの論法は、専門的哲学者からは異論が出るかもしれないが、論理的には分からないわけでもない。しかし、基礎情報学的には、率直にいって首をかしげたくなる点も多いのである。とりわけ、数学的に表される自然科学的な仮説の形成が、即時的存在を直接指示対象としてあたかも人間の介在なしのごとくにおこなわれ、それを「事実」と見なすというのなら、その議論は、実際に科学技術研究の現場にいた人間からすると、承服しがたいものだ。

 

したがって、AIだけでなく現代の科学技術の哲学的根拠を明確にするためには、思弁的実在論よりむしろ、相関主義思想と類縁関係にあるネオ・サイバネティクスに依拠するべきだという気がしてこないだろうか。

 

こんなふうに結局否定的に評価するなら、なぜわざわざメイヤスーの思想をまるまる一章使って説明をする必要があったのでしょうか。

そのうえ西垣は直後で、「前節で、思弁的実在論の企図に関して疑義を呈したが、

本書は決してその価値を全面的に否定するものではない」などと再び態度を翻すのです。

(キミの批判はしたけど、決してダメだと言ったわけじゃないんだ、というセコいやり口!)

こんな態度では読者は「結局どっちなんだよ」としか思いません。

本書がわかりにくいのは、内容が難解であるためではなく、本書の論の構成に難がありすぎるからなのです。

 

本書の冒頭で西垣は、知とは生存する実践目的なのか真理を探求する形而上学的な目的のどちらなのか、

という問いを立てるのですが、この共感しがたい二者択一がどこから出てきたのかと訝しく思っていると、

後々西垣がこの曖昧さはキリスト教の三位一体の教義が原因なのだ、と主張するに至って、

自説の都合による問題設定であったことが判明します。

自ら形而上学的な問いかけをしたり、西洋哲学を持ち出したりして、西垣自身が西洋的な価値の中で思考していることを示しておきながら、

AI関係者の西洋的・一神教的な視点を、それも西洋思想を用いて批判するのは、僕には茶番としか思えませんでした。

そもそも本書の題名にある「原論」という言い方こそが、神の支配に通じる、すべてを基礎づける絶対知への欲望を示しているのではないでしょうか。

 

最も致命的な勘違いを挙げるならば、西垣が一神教的な西洋思考を批判するものとして〈フランス現代思想〉を持ち出していることです。

 

二〇世紀後半以降の現代思想は、そういう西洋思想のもつ唯我独尊的で侵略的でもある側面を克服しようとしてきたのである。構造主義/ポスト構造主義に代表される文化的多元(相対)主義は、この危険を西洋世界がみずから反省し自覚することから生まれてきた。

 

いまだポスト構造主義の影響にあるバブル脳の西垣は、ポスト構造主義の見かけの相対主義に騙されて問題の本質がわかっていません。

ポストモダン的な文化多元主義は新興国への投資を背景にした、資本の世界的還流運動への転換を学問的に裏付けたものでしかありません。

そんなものを「反省」などと解釈しているお人好しが西洋主義者でなくて何なのでしょう。

 

いまだポスト構造主義などを正しい考えだと思い込んでいる視野の狭さでは、物事の本質がわかるはずもありません。

西垣はポスト構造主義の本質についてまったく理解が足りていません。

〈フランス現代思想〉に代表されるポスト構造主義思想の根源にはユダヤ的な思想があります。

これについてはG・ドゥルーズ学者の檜垣立哉もヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』の解説で同様のことを言っています。

 

近年のフランス思想の軸は、ギリシア思想対ユダヤ思想にあり、異質なものとしてのユダヤをギリシアに対抗させることでとりだされる「他」にあったようにおもわれる。

 

シンギュラリティ仮説の背後にあるユダヤ一神教を批判するのに、ユダヤ色の強い〈フランス現代思想〉を持ち出すのは、

専門が哲学でないにしても、思想の表層しか理解できていない人間の致命的な間違いだと言えるでしょう。

それがわかっている者からすると、この人は何がしたくてこんな本を書いたのか、首をひねるしかありません。

 

つまり、シンギュラリティ批判に〈フランス現代思想〉の系譜にあるメイヤスーの思想を持ってくるという、

西垣の論の立て方自体に大いなる矛盾があるわけです。

むしろ、ユダヤ一神教の思想を批判するのにユダヤ一神教の思想を持ってきてしまうことの愚かさに気づかない、

日本の知識人のポストモダン一元主義こそが問題にされるべきだと僕は思います。

真に相対的な文化多元主義を信奉するなら、〈フランス現代思想〉以外の現代思想も対等に扱ったらどうなのでしょうか。

分析哲学を排除し、J・ハーバーマスなどの後期近代主義を無視して、ポスト構造主義ばかりが現代思想だと思っている人たちに、

本当の文化多元主義も相対主義もあったものではないと思います。

 

 

 

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