『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書) 白井 聡 著

  • 2018.05.04 Friday
  • 01:01

『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書)

  白井 聡 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   戦後左派の主張の延長だが、今やこういう本も貴重

 

 

『永続敗戦論』でヒットを飛ばした白井聡が、

現代日本の「永続敗戦レジーム」のルーツを近代の天皇制国家体制である「国体」とみて、

日本の近代史を「国体」の護持という視点から描いてみせたのが本書です。

日本が敗戦後も戦時「国体」の存続を望んだことが、戦後のアメリカ従属の原因だと白井は考えています。

 

問われるべきは、戦前から引き継がれたシステムとしての「国体」が、対米関係を媒介としてその存続に成功したこと、そしてそれによって、どのような歪みが日米関係にもたらされたのかという問題である。

 

こう述べる白井の問題意識は、現在の「永続敗戦レジーム」が歴史的に成立した経緯を明らかにすることなので、

近代から戦後までの通史に照らして「国体」護持(果ては天皇制)という不可視化された日本人の核を、

なんとか浮かび上がらせようと努力しています。

ただ、結論そのものは『永続敗戦論』とそう変わらないので、その学問的手続きを退屈に感じる人もいるかもしれません。

 

白井の主張する「永続敗戦レジーム」とは、敗戦後の日本がアメリカに永久服従する体制のことです。

独立国としての尊厳もなく、不公平な日米地位協定を改定もできず、永遠にアメリカの卑屈な子分の道を歩む戦後日本。

白井はこのような体制を「異様なる隷属」として、

「日本は独立国ではなく、そうありたいとという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と糾弾します。

 

このような「奴隷」を思わせるアメリカへの絶対服従がどうして起こったのかを、

白井は「国体」を至高の価値とする近代日本史を振り返ることで説明していきます。

敗戦後、アメリカは共産主義陣営との冷戦をにらんで、

前線基地として日本の安定支配を必要としたわけですが、

そのために天皇制を保存することを選択したため、戦時「国体」が延命することになりました。

D・マッカーサーがアメリカ幕府として天皇に承認されたかのように日本人は受け取ったわけです。

この解釈は特別新しいものではなく、それなりに知られているので、

戦後史を知っている人間なら反論する人はいないのではないでしょうか。

 

僕は前から疑問なのですが、

国体が護持されたということは、真の意味で日本は敗北していないとも言えるのではないでしょうか。

白井は「永続敗戦」と言いますが、天皇制の支配層にとっては国民が何人死のうが、

ラスボスである天皇が生き残れば「敗戦」ではないと言えなくもありません。

白井は日本人が敗戦を「否認」していることを糾弾しているのですが、

もし「敗戦」していないのであるならば、それは「否認」ではなく真実でしかないわけです。

僕にはこのあたりの白井の考察はまだまだ弱いと感じます。

 

本書でも触れていますが、

天皇とその周囲は、ロシアが共産主義革命による皇帝の殺害を行なったことで、

日本でも同じことが起こることを恐れていました。

つまり、昭和天皇は自分の命を何より惜しんでいたわけです。

(このことはハーバート・ビックス『昭和天皇』を読んで僕が受けた印象でしかありませんが)

アメリカも天皇制支配層も戦後の共産主義革命を恐れていたため、

両者の利害が一致して戦後体制が始まったことを白井は指摘しています。

それならばやはり、天皇制支配層にとっては軍部を切り離すことで、

真の「敗戦」を免れたと言えるのではないでしょうか。

 

このことから、僕は白井の論に根本的な矛盾があると考えざるをえません。

戦後に国体の護持が行われたのなら、日本は「永続敗戦」どころか天皇制の勝利が続いているとするべきですし、

それが不満であるならば、天皇の「お言葉」などを自らの論拠に持ち出すのはおかしいのです。

白井は天皇制と戦う気があるのかないのか、僕はそのあたりを怪しんでいます。

 

もし天皇制と本気で戦う気があるのであれば、

近代天皇制の考察をするだけでは問題の本質にはたどり着けないと言っておきます。

僕自身の考えを簡単に記しておくと、天皇という存在は共同体にとっての外部のシンボルという役割を負っています。

引きこもり体質の日本人は外圧をひどく恐れているため、自己享楽をする以外の行動原理は外圧にしかありません。

そのため、普段は外圧を無化して鬱に陥ることを避けなくてはいけません。

そこで外部を天皇という存在に肩代わりさせ、彼を崇拝することで内輪のシェルターを築いたのです。

(そのため、天皇は死者という外部にも通じる回路なのです)

 

白井は日本人がアメリカ依存をしていることを糾弾しますが、

そもそも日本は中国文化に依存していた国です。

外圧の中にいて外圧を無化(否認)して自己享楽する以上の価値がない国なのは、

長い歴史の中で維持されてきたアイデンティティであり、戦後に始まったものではありません。

それを支えているのが古代からの天皇制なのです。

日本史を見れば、外圧に屈するか、引きこもるか、侵略戦争に打って出るか、そのどれかしかありません。

(アメリカ=世界として、それだけを外部の窓とするのは、鎖国と大差ないと思いませんか?)

 

白井は天皇制が「第二の自然」として不可視化されていたため、共産主義者の天皇制との戦いが困難だったと述べています。

外部を放逐して内輪で楽しくやりたい日本人にとって、外部の象徴である天皇を不可視化するのはシステム上不可欠なのです。

白井は不可視化された天皇制+アメリカ支配を認知するように日本人に要求しますが、

そのためには日本人の欲望が変わるか、否応なく巨大な外圧によって開国を迫られるかしかないと僕は思っています。

 

なにか批判しているような書き方になってしまいましたが、

僕としては白井に本気で天皇制に戦いを挑む気があるのならば、

中途半端な思索で満足せず、歴史に挑戦する気持ちで市民革命を呼びかけてほしいのです。

しかし、天皇制を批判するわりに、天皇の「お言葉」に依存するような内容でしかありませんでした。

僕が残念だったのは、

白井の論には丸山眞男や竹内好などの受け売りそのままと感じられるところがあって、

戦後左派の考えをそのまま受け継いだだけに終わっているように感じられたところです。

 

もちろん、ポストモダンなどのインチキ思想に享楽して、

丸山眞男や竹内好などの戦後思想も知らないのに思想人ぶっている似非知識人が増えている中、

白井のように戦後左派の思想を受け継ぐ意志を持つ人は貴重だと思います。

その意味で僕は本書の社会的意義を評価しますが、個人的な感想だけを言えばかなり物足りないというのが正直なところです。

 

細かいことですが、

白井は「天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成して」いると述べています。

その指摘はしごくもっともだと感じますが、

それなら憲法9条の維持に賛成しながら沖縄の基地に反対する態度は矛盾していることになるのではないでしょうか。

安保体制を批判するのは構いませんが、同時に左派政党の欺瞞も批判するのが筋だと感じます。

 

戦前戦後の時代区分に社会学者の大澤真幸のアイデアを用いるのも少し安易に感じました。

もともと大澤が師の見田宗介の区分に倣ったものであり、歴史を都合よくメタ化する方法として用いられている印象です。

明治憲法における天皇の二重性については、とりたてて問題とすることなのか僕にはよく理解できませんでした。

立憲主義からすれば君主の立場に二重性があるのは当たり前のことにも感じました。

北一輝を取り上げ、「国民の天皇」が挫折したら「天皇の国民」イデオロギーが回帰するとするところも、

僕には腑に落ちる感じがあまりありませんでした。

北一輝の発想が時代を代表していたとも思えませんし、だからこそ二・二六事件は挫折したのではないでしょうか。

 

僕は白井の「永続敗戦レジーム」への批判には共感するのですが、

以上のように本書の論理に関しては同意できない部分が多々ありました。

結局、白井は日本近代史における「国体」の問題に興味があるのではなく、

「冷戦終焉後の世界で、アメリカに追従しておればまずは間違いない

という姿勢が日本の国家指針であることの合理性が失われた」

ということを主張したいのだと思います。

南北朝鮮の融和ムードによって、白井の指摘はだんだんと信憑性を増していることは間違いありません。

アメリカに隷属しているだけではジリ貧である、ということを正面から語れば良かったと思います。

 

 

 

「現代思想 特集=保守とリベラル」2018年2月号 (青土社)

  • 2018.05.03 Thursday
  • 13:08

「現代思想  特集=保守とリベラル」2018年2月号  (青土社)

 

 

   ⭐⭐

   日本にイデオロギー対立はあるのか?

 

 

最近、政治の場面では右翼vs左翼という対立軸に変わって、

保守vsリベラルという立場が持ち出されたりしています。

 

そのわりに、「保守」や「リベラル」の定義すらハッキリしていません。

リベラルは理性を盲信するが、保守は理性を疑うのだ、などという

保守マンセーのための大嘘を著書やテレビで平気で振り回せる世の中になっています。

(じゃあフランス革命に共感したカントは保守思想家かよ)

このような不確かな言葉を「シニフィエなきシニフィアン」として「言霊化」してしまうのが日本人なのですが、

「ねじれる対立軸」という副題をつけても、結局は対立軸として採用してしまう本誌の知性も怪しまれます。

 

本誌の執筆者の多くも保守とリベラルという対立軸への疑念をあらわにしています。

北田暁大は「保守/革新」と欧州型「リベラル/ソーシャル」の対立がごちゃまぜになって成立した「日本型リベラル」を分析しています。

北田は「リベラル」とは「革新」から社会主義色を薄くしたものではないか、と書いていますが、

社会主義体制の崩壊によって、左派のモデルがアメリカ型になったという見方には首肯できます。

 

「日本型保守」の効果的な分析が見当たらなかったのが残念ですが、

右派の国家主義的な面をマイルドにするための表現だと僕は考えています。

つまり、右派も左派も共にイデオロギーを脱色していった結果、保守とリベラルという語に落ち着いたのでしょう。

その意味では便宜的に成立した語でしかないので、

大澤真幸が宇野重規との対談で引き出そうとしている日本の保守の逆説的なねじれ、

つまり、本来の保守とは似ても似つかないことを示すことにはあまり意義は感じません。

 

僕は日本の右派と左派の対立というのは、

保守やリベラルという身にまとうイデオロギー自体はただのファッションでしかなく、

思想的な内容を欠いた対立だと感じています。

だから、保守やリベラルという思想(イデオロギー)を考察することにほとんど意味はありません。

本誌の特集がレビューがひとつもつかないほどコケているのは、そのためです。

保守の嘘、リベラルの嘘、とどっちも嘘だらけなのも当然です。

だって中身なんてないのですから。

 

森政稔がリベラル左派は安倍政権を批判しても北朝鮮の人権問題をスルーしてきたことを批判していますが、

これもイデオロギーを基盤として行動しているわけではないからだと考えれば何も不思議ではありません。

右派も全く同じで、彼らは愛国とか言いながらアメリカ従属の売国奴であっても平気なのです。

日本の右左の対立が思想やイデオロギーとは無関係に成立していることを、そろそろ知識人も気づいたらいいと思うのですが、

思想の雑誌だから思想の問題という前提を崩すわけにはいかないのでしょうか。

 

どこかでまとめて文章にしようと思ってはいますが、ざっと語ると、

自己充足的な日本人の行動原理は本質的に外圧しかありません。

そのくせ物事の基準が自己本位の「甘え」でしかないため、

その外圧が自分にとって同情的か敵対的か、自分を好きか嫌いかという判断へと収斂します。

日本の対立軸など本質を言えば「甘え」を許容するかしないか、これしかありません。

右派は「甘え」を許容してほしい人々、左派は「甘え」に批判的な人々ということです。

そのため右派は権力にすりよる人々、左派は権力に対して闘争的な人々になります。

(その左派が権力側になると、今度は自分たちの「甘え」を許容する右派へとひっくり返るのです)

 

要するに自分の「甘え」を許容する味方か批判する敵かという対立であって、イデオロギーは方便でしかないのです。

批判する側も身内の問題には味方だからと目をつむり、「甘え」を許してしまうので、

現在の利害による対立でしかなく本質的に中身はどちらも一緒なのです。

僕に言わせれば、どっちも日本人でしかないということです。

 

本気でこの問題を考察したければ、このような日本人の本質を考察しなければいけないのですが、

そのあたりにわずかにでも届いている論考は、岡野八代「フェミニズムとリベラリズムの不幸な再婚?」くらいでした。

岡野は日本軍性奴隷の問題を中心において、保守とリベラルという虚構の対立図式を批判しています。

 

あたかも日本に「リベラルと保守」といった政治的な対抗図式があるかのように装われることで、国家主義的な反動にすぎない勢力が、なんらかの政治的理念をもって活動しているかのように喧伝されてしまう状況について、批判的に描き出してみたい。

 

岡野は自分の論考の意図をこう説明していますが、

「なんらかの政治的理念をもって活動しているかのよう」な勢力は、保守陣営だけでなくリベラル陣営も同様なのです。

外圧の源泉である外的権力をどこに置くかというスタンスが違うだけで、

両者はともに外圧を参照するだけの、内発的思想のない連中であることに変わりはありません。

 

僕は前々から左派スタンスの〈フランス現代思想〉などのポストモダン的価値観の隆盛によって、

日本が右派スタンスの保守化を進めてきたという逆説を唱えていますが、

そのようなことが起こるのも、両者が根本で同じ行動原理を有しているからにほかなりません。

 

僕は日本人が歴史的に維持してきた行動原理を変えられるとは思っていませんので、

このようなことを指摘することにシラけた思いを抱いています。

ただ真実は真実として存在しているものなので、僕が言わなければいいというものではないことをご理解ください。

 

それから、荻上チキと立岩真也と岸政彦の討議は、

自分たちの仕事上の悩みを語り合う内輪的な内容すぎて、

自分たちの仕事の宣伝でなければ、まったく掲載する意味がわかりませんでした。

 

 

 

評価:
大澤真幸,宇野重規,岸政彦,立岩真也,荻上チキ,北原みのり,武田砂鉄,北田暁大,杉田敦,中北浩爾,樫村愛子,岡野八代,森政稔,明戸隆浩
青土社
¥ 1,512
(2018-01-27)

『俳句の誕生』(筑摩書房) 長谷川 櫂 著

  • 2018.04.29 Sunday
  • 21:14

『俳句の誕生』(筑摩書房)

  長谷川 櫂 著

 

   ⭐

   俳句の衰退は本当に批評の衰退が原因なのか?

 

 

若き長谷川櫂の著書『俳句の宇宙』は流行のポストモダン的発想に依拠していたとはいえ、

俳句における「場」の重要性を丁寧に説明しきったという点においては、

なかなかにすぐれた本であったと思います。

しかし、本書『俳句の誕生』では「場」という言葉がどこかへと消えてしまって、

「主体の転換」などというような批評的な用語を無理して用いているため、かえって内容が不確かで乏しいものとなっています。

 

本書の第一章はまさに「主体の転換」と名付けられています。

岡野弘彦、三浦雅士と長谷川による連句が紹介されていて、

「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」ことを説明していきます。

 

ここで「主体の転換」という言葉について考えておきたいのですが、

長谷川は「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」こととします。

わかりにくいので、長谷川の説明を引用しましょう。

 

では主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるということだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平たくいえば、ぼーっとする。いわば「魂抜け」である。

 

お友達の三浦雅士の影響を受けているのかわかりませんが、

長谷川は連句の「主体の転換」を「幽体離脱」、つまり一種のトランス状態として理解しています。

これは三浦の大好きな大野一雄の舞踊などを持ち出して説明するのにふさわしい要素です。

これ以後、本書で長谷川は繰り返し「ぼーっとする」ことを俳句の中心要素として語るのですが、

このような極端なまでの単純化が長谷川の論に批評性が欠けているという印象を与えてしまう原因のひとつと言えるでしょう。

 

長谷川は俳句の「切れ」が散文的論理を断絶することで、「ぼーっとする」空白を生み出し「主体の転換」を果たすと主張します。

俳句が「切れ」などによって散文的論理を超えるという見方については、僕も特に異論はありません。

そのような俳句の非論理性が初期の長谷川の主張では「場」に依存していることになっていたのですが、

本書ではトランス的な「主体の転換」によるのだという説明に変更されています。

これは議論として後退していると思います。

なぜなら、トランス状態に基づいた芸術ならば、俳句以上にもっとふさわしいものが多くあるからです。

僕がこの長谷川の主張に三浦の影響を感じてしまうのは、長谷川の主張に大きな齟齬があるからです。

 

「主体の転換」とは、「転換」であるかぎりにおいて、Aという状態からBという状態への移行を意味します。

連句でいえば連衆が自分自身という主体から、句の主体へと移行することを意味するはずです。

しかし、ただこれだけであれば、小説家や漫画家や演劇の脚本家であっても構わないはずです。

自分を離れて登場人物Aの気持ちを代弁し、今度は人物Bの気持ちを代弁するわけですから。

これだって作者が「幽体離脱」をしていると言えなくもないわけです。

だとしたら、散文的思考であっても「主体の転換」は十分可能ということになるのではないでしょうか。

 

それなのに、長谷川は別の状態への移行の間に「ぼーっとする」という空白の状態、

つまりはイタコ的なトランス状態を差し挟もうとするのです。

前述しましたが、このようなトランス状態は舞踊であったり、もっといえば能の方が明確に確認できるものです。

言ってしまえば舞台芸術において成立する要素であるということです。

これを俳句を語るのに用いるのは、だいぶ力技が過ぎるという印象を受けます。

そのため、「現代思想」の編集長を経て「ダンスマガジン」を創刊した三浦の影響ではないのかと勘ぐってしまうのです。

(三浦が青森の出身であるのも興味深いところではありますが)

 

念のため、「ぼーっとする」ことがトランス状態を示していることを確認しておきましょう。

 

詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきることである。詩歌の代作をすることである。役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でなければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるということは言葉をかえれば、我を忘れてぼーっとすること、ほうとすることだ。

 

この文章は柿本人麻呂の歌を論じたところにあるのですが、

このような「空の器」になることは、詩人の能力に負うところが大きいはずです。

俳人であろうが、役者であろうが、ミュージシャンであろうが、この能力を発揮できる場面は数多くあるのですから、

俳句がトランス文芸であるという主張よりは、俳人はトランス状態に入って俳句を作らなければいけない、

という論の運びにならなければおかしいのです。

それなのに、長谷川はあくまで俳句がトランス文芸であるという主張を崩しません。

 

長谷川自身は論理を超えた俳句の魅力を訴えようとしているのかもしれませんが、

肝心の著書が論理に依存したパッチワークで形成されているのでは格好がつきません。

というのは、ただ「主体の転換」だけを根拠にするならば、

そんなものは頭で考えて行っているだけだと反論されたら終わってしまうからです。

むしろ長谷川は「ぼーっとする」トランス状態が起こっている俳句が「すぐれている」ことを論証する必要があったのではないでしょうか。

しかし長谷川は「切れ」があるから間が生まれ、間があるから「ぼーっとしている」のだ、という論理にしてしまうのです。

こうなると、俳句の形式から必然的にトランス状態が生まれることになってしまい、

作り手の状態や能力など考える必要もないことになってしまいます。

 

僕は俳人ではないため、俳人たちが俳句の「形式」に過剰なまでの役割を負わせることはある種の依存心だと感じています。

彼らはまるで「形式」が芸術を生み出すかのように語るのですが、

たしかに俳句が大衆に開かれた文芸であるにしても、

「形式」自体に価値があると考えるのは一種の倒錯です。

このあたりは俳人たちに真摯に反省してもらいたいところだと僕は思っています。

 

俳句にもいい俳句や悪い俳句がありますし、いい俳人もダメな俳人もいます。

俳句「形式」に則っていれば必ずいい俳句になるというなら、こんな簡単な創作はありません。

そうでないから俳人は苦労をするのですし、努力もするのです。

それなのに、俳人は自らの依り代の価値を高めたいという邪心が強いのか、

やたら俳句の「形式」自体に価値を負わせようとがんばります。

小説家や漫画家や劇作家など他の多くのジャンルでは絶対にそんなことは考えません。

こういう発想は「伝統」に守られたマイナージャンルの「甘え」であると、

長谷川をはじめとする俳人たちには理解してほしいものです。

 

長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退していることを嘆くのですが、

その原因を批評と選句という「俳句大衆の道標」の衰退に見ています。

長谷川は『俳句の宇宙』ではそれを共有できる「場」の衰退に見ていたはずです。

それがどうして批評と選句になってしまうのか、僕には理解に苦しむのですが、

僕のような俳句を作らない純粋読者から言わせていただけば、

俳人がこのように「作り手」ばかりに目を向けていることが衰退の原因ではないかと思っています。

 

僕は連句については前の文脈を意図的に脱臼させるため、

トランス状態によるのではなく、知的な作業によって成立していると考えます。

ただし、もし俳句に長谷川が言うようなトランス状態があるとするとするなら、

それは「読み手」の持つ能力を前提としないと成立しない気がします。

作り手が提出した句を、読み手の側が自分を離れて「ぼーっとする」ことにより、

作り手の生み出した句の「場」へとトランスして近づいていくからです。

読み手のトランス作業によって質の高い「主体の転換」が行われ、

短い断片の言葉からイマジネーションを感じ取ることが可能になるのではないでしょうか。

つまり、良い俳人とは例外なく良い読み手であり、だからこそ選句も批評もうまかったのではないでしょうか。

 

しかし読者のほとんどが俳人であることにあぐらをかいた俳句界は、

俳句を作る作業ばかりを重んじて、読者を育てることをサボってきました。

あげく僕のような純粋読者が俳句批評をすると、「俳句をやらないなら謙虚でいろ」とか言う偽俳人が出てくる始末です。

外山滋比古が和歌と俳句には「声」を基礎とした「二人称読者」が欠かせなかったと述べていますが、

現代俳句はマスコミや出版(もしくはネット)によって俳句を流通させることを当然と考えるあまり、

句が顔のある誰かに向けられたものとしてあることを忘れているのではないでしょうか。

俳人はつまらぬ自意識を反映した下手な句を作ってアーティストぶるより前に、

俳句の良い読み手であるように努めるべきだと思います。

(もちろん、俳句を読むより観念的な言葉を振り回すことに熱心な「批評もどき」は良い読みとは言えません)

 

結論を語ってしまったのですが、本書にはどうしても指摘しておきたい部分があります。

長谷川は「新古今和歌集」が禅の思想を享受したことによって誕生したと書いているのですが、

このような説を僕は初めて目にしました。

これは本当に信用に足る説なのでしょうか?

平安時代の仏教の影響は『源氏物語』を読んでもわかる通り、浄土思想に現れていたはずですし、

一般的には「新古今和歌集」は古典教養に根ざした技巧的な作り方や本歌取りが歌風とされていたはずです。

ちなみに沖本克己の『禅』にはこのような文があります。

 

禅文化とはそもそも背理を含んだ言葉である。禅は文化や芸術には本来無頓着である。(中略)もし禅が文化を領導したり時代社会の指導原理になるとしたら、それはどうも碌でもない事にちがいない。

 

禅の研究者がこのように書いている以上、僕は長谷川の説を信じることはできません。

長谷川は「俳句は禅にはじまる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最終の一単位なのだ」などと書いていますが、

あまりに不確かな説だけに、主張するならそれだけの根拠を示してほしいと感じました。

このあたりにも、俳人が自分の依拠する俳句をやたら高尚なものに「捏造」しようとする、さもしい欲望を感じてしまいます。

 

 

 

評価:
長谷川 櫂
筑摩書房
¥ 3,597
(2018-03-02)

千葉雅也の陰口ツイートへの佐野波布一反論コメント

  • 2018.04.25 Wednesday
  • 09:43

 千葉雅也の陰口ツイートへの

 佐野波布一反論コメント

 

 

   批判言論に対してパワハラで応じる人間をチヤホヤする堕落した日本言論界

 

 

本の評価を決めるのは、ページを開いた読者なのでしょうか?

それとも著者本人なのでしょうか?

みなさんの常識では当然読者が評価を決めるという答になるでしょうが、

立命館大学准教授の千葉雅也はそうは考えていません。

自分の書いた本の評価はあくまで自分自身で決めるべきものだと思っているのです。

 

千葉雅也というフランス現代思想の学者は、

自分の著作に対する僕の批判的なレビューが「参考になった」投票を集めると、

それに我慢ができなくなってツイッターで僕を含んだ批判的なAmazonレビュアーを「基本アホ」とツイッターで侮辱しました。

今回の『メイキング・オブ・勉強の哲学』のAmazonレビューに関しては、

自分が大勢のフォロワーを抱える著名人であるのを良いことに、

ツイッターに僕のレビューの悪口を連投し、フォロワーに僕のレビューの違反報告やアンチ投票をするように仕向けました。

僕のレビューはAmazonのガイドラインでは誹謗・中傷に当たるとは判断されていなかったにもかかわらず、

千葉自身とその先兵となった読解力のないファンの違反通告によって何度か消去されました。

 

いくら辛辣な揶揄であろうと、言論は言論なのですから、

反論などの対抗的な言論行為で応じるのが知識人の在り方だと思います。

しかし、千葉は言論による論争に勝つ自信がないためか、

書かれている内容が真実でしかないためか、

ファンを頼みにした数の暴力や、弁護士を持ち出した強迫によって、

僕の表現の自由を弾圧することを選びました。

 

著作の評価を読者が決めることを受け入れることができない人が大学准教授であることも問題ですが、

それが主体批判を信条とし、「作者の死」を当然のごとく主張してきた(フランス現代思想〉の研究者であるのですから、

自分の研究対象である学問に対する背信行為でもあるわけです。

 

日本の〈フランス現代思想〉研究者は、メタな位置に逃げ込んで無責任な立場から世の中を侮って見ることが哲学的だと勘違いをしています。

その集大成が千葉雅也という人物です。

著作上の記述を取り上げた批評的言論に対して論理的な反論をひとつもしないで、

書いた人間に対する感情的な文句だけをツイートすることが、大学に籍をおく者として正しい行為なのでしょうか?

そもそも言論に価値を認めずに、権威の力を行使したがる人間がどうして大学准教授をしているのでしょうか?

(まあ、千葉本人はアーチストのつもりらしいですけどね)

 

この程度の人物にツイッターで好き勝手言われるのは不愉快なので、不本意ながら反論をさせていただきます。

Amazonは誹謗中傷と判断されればレビューが非掲載になるので、いつも批判が不自由で苦労していますが、

ツイッターは自分本位で好き勝手言えていいですよね。

(僕は文章が自己基準にならないようにAmazonのガイドラインという枷を自らはめています)

今回は自分のブログなので少々乱暴な言葉遣いになるかもしれませんが、見苦しいところがないように気をつけます。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

それにしても、Amazonレビューで手前勝手な毒舌を振るっている佐野波布一という人は、いつまで僕の本や関係する本を、出るたびに粘着的に攻撃し続けるのだろうか。レビューなど放っておけばいいとよく言われるわけだが、個人へのヘイトですらあるあの書きぶりに対し、悪質である、と言っておく。

午後7:23 · 2018年4月16日

 

批判的な内容だからといって「攻撃」と言うのはおかしいです。

どうして無名な一レビュアーでしかない僕の文章が、「攻撃」なんて上等な効果を及ぼせるものでしょうか。

僕と千葉の言論界における立場は圧倒的に非対称的であるはずです。

なぜ立場が圧倒的に優位な千葉が被害者のような顔をするのでしょうか?

僕がたった一人で、それも言論を用いて挑んでいるのにもかかわらず、

千葉は論理不在のツイートでフォロワーを動員して僕へのアンチ投票を激増させました。

こういう数の暴力こそ「攻撃」(もしくは「イジメ」)と言うべきではないでしょうか。

 

そもそも、千葉はデビュー作『動きすぎてはいけない』に僕がちょっと批判的なレビューを載せたくらいで、

何万人のフォロワーに僕の悪口をツイートしたのです。

その後も僕が彼の著作をレビューするたびに同様のツイートを粘着質に繰り返しておきながら、

どうして自分ばかりが被害者のような面をするのでしょうか。

僕の方から見れば千葉の行為こそが「悪質」です。

こうやって自分の行為を免罪して、同様の他人の行為だけを責めるのがナルシストのやり方です。

 

「いつまで」と問うなら答えは簡単です。

千葉が自分のツイートについて謝罪し、批判されるような内容の本を書かなくなるまでです。

僕は著書の内容に基づいて虚心で読むように努めています。

僕のレビューをよく読めば、『勉強の哲学』は文章において評価をしているため星を一つ増やしていますし、

「現代思想」の記事に対しても「能力を感じる」と書いた部分はあったはずです。

それをただ「ヘイト」だとしか思えないのは、むしろ千葉が僕のことをただただ嫌っているからです。

こちらは論理で挑んでいるのですから、好き嫌いの感情的問題に還元する幼稚な態度はやめていただきたいものです。

 

また、「手前勝手な毒舌」であるならば本文引用など必要ありません。

こちらが本を一通り読んでいるのが明らかにもかかわらず、

まるで読んでないかのように書くのは、千葉が「他者」を不当に低く扱う非フランス思想的人間であることの証明でしかありません。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の長々しいレビューは、またいつものことかと思ったが、それにしても、侮辱したくてしょうがないという感じで、本当にひどい。

午後7:29 · 2018年4月16日

 

「侮辱したくて」の意味がわかりません。

誤解を恐れずに言えば、僕は千葉の教養やオタク的知性などたいしたことがないと思っています。

つまり、事実を書けば事足りるので、わざわざ「侮辱」をする必要のある相手とは見なしていません。

こちらの感覚ではせいぜい「揶揄」という認識です。

「侮辱」と言うなら、具体的な文章を示すようにコメント欄で千葉に問いかけたところ、

そのような文章を示してこなかったので、これが「言いがかり」であることはハッキリしています。

 

具体的な「侮辱」にあたる箇所がないにもかかわらず、

僕の批判を「侮辱」だと騒ぎ立てるのは、千葉が僕より上の地位にいると思っているからでしかありません。

「ボクのような上位の人間を、下位のネット民が批判するなんて侮辱だ!」という感情で、

文章の内容が問題ではないのです。

僕は地位ではなく知性のレベルで人間をはかっているので、

より論理を用いる僕が論理不在のお猿さんを批判したところで「侮辱」になるという感覚がまったく理解できません。

 

何度も言いますが、千葉は僕に文句があるなら反論すればいいのです。

論理に対して論理で応じることなく、地位や人気をかさに着て「見えない権力」で圧力をかける、

これはパワハラの図式と何も変わりません。

(実は千葉に限らず、アカデミックな地位にある人間にはこのタイプが少なくありません)

こういう封建的発想に基づいた非言論的態度をとる人間を、僕はポストモダンどころか前近代的ムラビトだとしか思いません。

 

こういう言論の内容より社会的地位を頼みにする人間が思想を語っているかのように誤解しているから、

日本の言論界はいつまでもほんとうの言論界として成熟できないのです。

僕のレビューに自分では反論ひとつしないくせに、

意趣返しとばかりに千葉のリツイートを垂れ流す関悦史や田島健一などの陰口俳人も、

このような千葉のパワハラ的言論弾圧を支持した人間として、

己に表現者の資格がないことを自ら証明したことをよく自覚しておいて下さい。

関も田島も千葉と一蓮托生の道を選ぶなんて、ずいぶんと勇気ある決断をしたものだと感心します。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。

午後7:36 · 2018年4月16日

 

僕は200以上もレビューを書いているのに、

自分以外のレビューを一つ挙げただけで「なんでもナルシシズムだと断罪」と書くのは図々しいにもほどがあります。

千葉のような「他者」不在の世界に生きているナルシストの好きな作品が、

同様にナルシシズムを発露した作品でしかないだけのことで、

僕は他の著者のレビューでは(福田の類友を除いて)ほとんどそんなことは言っていません。

こういう根拠のない悪口のことを「中傷」とか「言いがかり」とか言うのです。

 

それから福田の『自生地』の散文がラノベと類似しているいう指摘は、

福田を褒めた青木亮人という学者もしています。

他の人も指摘していることを僕が「決めつけている」と表現するのは不適切と言えるでしょう。

たいして俳句を勉強したとも思えないのに、恥をかきによく出てくるな、とあきれます。

僕から見て千葉の知性がオタクレベルとしか思えないのも仕方ないのではないでしょうか。

 

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@masayachiba

 

Amazonレビューって、やろうと思えば、話題の本をレビューしてつなぐことで「俺の批評空間」を構築し、他者の話題性に乗っかって自分の書き物を多くの人の目に触れさせることができる。それは、出版機会の不平等に対するゲリラ的な抵抗運動でもあるから、複雑な気持ちになる。

午後7:40 · 2018年4月16日

 

僕は多くの人に自分の書いたものを読んでもらおうなどと思っていませんので、

これは千葉が一般論として書いているのかもしれませんが、

千葉の「出版している人間はエライ」的発想が田舎者丸出しすぎて赤面してしまいます。

父も祖父も曾祖父も本を出版していますので、僕は出版がそれほど特別な行為だと思ったことがありません。

そのため、たかが出版行為くらいで選民意識を持つ人というのはどこの野蛮人かと思います。

本だろうがAmazonレビューだろうが、良いものは良いし、悪いものは悪いのです。

 

「他者の話題性に乗っかって」というのはドゥルーズやメイヤスーに乗っかってるだけの千葉自身のことでもあります。

この人はすぐに自分をメタに置いて免罪してしまうのですが、オマエは「僕の批評空間」すら構築できてないじゃん、と言いたいところです。

先輩の引いたレールの上を走っているだけの自動運転列車のわりに、警笛だけは大きいので困ります。

 

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@masayachiba

 

「ポストモダン嫌い」という姿勢をベースにしてネット上で罵詈雑言を言う人って、「ネトウヨ」みたいに何か名前をつけたほうがいいんじゃないかな。

午後7:56 · 2018年4月16日

 

人が何を嫌おうが好き嫌いなら自由なはずです。

ネトウヨはイデオロギーですが、人の好き嫌いを抑圧するなんてコイツは独裁者か何かなのでしょうか。

おまけに「罵詈雑言」とは何のことでしょうか。

僕が書いたのは著作に基づくレビューなのに、どこに罵詈雑言などあったと言うのでしょうか。

これはツイートの流れ上、まちがいなく僕のことでしかないので、この発言に関しては千葉に謝罪と訂正を要求します。

学者のはずなのに根拠のない中傷をよくもしてくれるものです。

 

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@masayachiba

 

佐野波布一氏のレビューって、あれこれ読むと、基本線があるみたいね。ポストモダン嫌い。軽薄そうに見える作品が嫌いで、価値観が古典的なものに寄っている。売れてる感が嫌い。まあ、いますよねこういう人。ある種の典型性を表していると思う。

午後8:08 · 2018年4月16日

 

こういう何でも「好き嫌い」に還元する論理不在の幼稚な態度が、言論界の空洞化を象徴しています。

僕が「ある種の典型」なら、どうして僕個人の名前を挙げて執拗に悪口を言うのでしょうか。

すでに千葉のやっていることが矛盾しています。

 

僕のレビューのコメント欄で、僕に批判的に絡んできた人たちは、

論理で僕に勝てないために、ほぼ全員メタに立つことで優位な位置を確保しようとします。

「いますよねこういう人」とメタな視点から僕を相対化したような顔をする千葉のやり方こそが、

典型的な論理弱者のネット民のやり方でしかありません。

論理で批判ができず、猿用のボタンを押して相手を否定した気分になっている連中もそうですが、

メタに立つことで優越感を募らせ、相手を侮りバカにする態度こそが典型的なネット民もしくはネトウヨの在り方であり、

千葉はそういう連中の生き仏、等身大の存在として支持されているのでしょう。

ザコなメンタリティであることを売りにしているくせに、

自分が何様かであるかのような「臆病な自尊心」を振り回すところが、千葉の醜さであると指摘しておきます。

 

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@masayachiba

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏のAmazonレビューがいったん削除された後、すぐに再掲載されました。本レビューには著者への中傷が含まれるという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

世間知らずの千葉は知らないのかもしれませんが、弁護士は裁判官ではありません。

依頼者に同調した判断をするのは特に不思議なことではありません。

それをさも正義の判断のように権威だと盲信し、僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、

僕が違法行為でもしているかのように印象操作をするやり方は、もはやクズとしか言いようがありません。

勝手に弁護士に相談すればいいですし、訴えたければ裁判でもなんでもすればいいのです。

それなのに、ただ弁護士に相談したことをレビューのコメント欄に繰り返し貼り付けるとは、

権威的パラノイアのやり口そのものではないでしょうか。

 

自分が権威的パラノイアでしかないくせに、何がフランス現代思想で、何がドゥルーズで、何がスキゾなのでしょう?

こんな人物のインチキもわからない人は、自分自身で思考する力がないのですから、

知性に欠けたただの思想的人間ぶりたい権威主義者でしかありません。

千葉は自身でわからないならば、浅田彰や國分功一郎に自分の行為がパラノイアのそれでないのか尋ねてみたらいいと思います。

(その答をぜひツイートしてくださいね)

 

また『勉強の哲学』ではユーモアとか言っていたはずですが、

弁護士を持ち出すようなやり口のどこにユーモアがあるのでしょう?

千葉の著書がいかに口だけの嘘で構成されたものか証明されたと言えるのではないでしょうか。

 

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@masayachiba

 

俳句の人たちも佐野波布一氏のレビューには抗議した方がいいと思う。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

愚かな俳人はすでに文句を言ったりしていますよ。

僕が撃退しているだけです。

 

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@masayachiba

 

自分の本はもちろんのこと、Amazonで本を調べていて中傷するレビューを見かけたら、積極的に違反報告しています。

午後10:50 · 2018年4月18日

 

僕は積極的に「批判言論狩り」をしていますという内容を、誇らしげにツイートする人にあなたは知性を感じますか?

僕は千葉のツイッターにこうして反論をしますが、違反報告や裁判など考えたこともありません。

言論を操れない知的弱者が弁護士や管理者に頼るものだと思っているからです。

弁護士に相談したり、Amazonにチクったり、コイツは自分では何もできないのでしょうか。

この特高やゲシュタポを連想する行為がアーレントの言う「凡庸な悪」にほかなりません。

大学准教授であるはずなのに、言論に言論で応じるでもなく、「違反だ!」とか言って通報する、

こんな幼稚な人間が思想など語る文系アカデミズムはもう終わりです。

 

何度も言いますが、Amazonレビューでは中傷はガイドラインに抵触するので掲載されないのです。

つまり千葉は自分の気に入らないレビューを「中傷」と言って通報しているわけです。

普段はフランス思想に依拠して理性や主体性を疑問視するようなツイートをしておきながら、

結局千葉は自分自身の理性や主体性に関しては無自覚に正義だと信じ込んでいます。

こういう奴の言うことがインチキでなかったら何なのでしょう?

周囲が甘やかしていても、僕は絶対にこのようなインチキを看過しません。

 

自分はツイッターで「基本アホ」などと人を侮辱する発言を平気で垂れ流している人に、

正義面してAmazonレビューを取り締まる資格などあるはずがありません。

自分の行為を免罪するにもほどがあります。

このように千葉という人間は自己の不適切な行為には知らん顔をして、

他人だけを責めてもかまわないと思っています。

どれだけ自分のことを「特別な人間」だと思っているのでしょうか?

 

いや、千葉は自分を「特別な人間」と思っているのではないのでしょう。

おそらく「自分しかいないデジタル・ナルシス(西垣通)の世界」を生きているのです。

消費資本主義的動物、つまり消費に飼いならされた「家畜」には、

人間が不在ですし、社会的な言論も必要ありません。

ネットなどの「オススメ」を享受し、自分の「好み」ばかりを断片・選択的に享受するのが当たり前になると、

自分の好みだけの世界(フィルターバブル)を形成するようになります。

こういう人間は「好み」以外のものを無意識に(非主体的に)排除しているので、

「好き嫌い」を理由に「他者」を排除することが当然としか感じなくなります。

このような心性の延長にマイノリティや移民の排除があることは容易に想像ができることです。

思想をやるなら本来はこのような現象を考察するべきですが、

千葉は無批判に自己のフィルターバブルの価値観を振り回し、

ポストモダンの批判者はポストモダンが嫌いなんだろ、とばかりに、

「他者」の批判を内容のない「好き嫌い」へと還元するのです。

(内容を考慮する気がないから何でも「中傷」と感じるのです)

こんな低レベルな人に言論など本質的に必要あるはずがありません。

(コイツの書くものは本質的にすべて自己弁護です。

「ギャル男論」とか笑わせないでほしいものです)

 

こんな無教養な人を教育者として雇用している立命館大学はもちろん、

さも知識人であるかのように扱っている河出書房新社や文藝春秋、青土社、朝日新聞などのマスコミ各社には、

千葉の傲慢な行為を後押しした間接的な責任があると僕は思っています。

著作の帯を書いた浅田彰やゲンロンでつるんでいる東浩紀、師にあたる小泉義之、親しくしている國分功一郎なども、

千葉という人物を知りながら、社会の先輩として何も教えてこなかった責任があると思っています。

(千葉は目上の人にはヘコヘコしているんですけどね)

 

権力者が好き勝手やっている政治状況と歩調を合わせるかのように、

地位や人気を利用して勝手放題やる人など、

僕のように表立って批判をしなくても、言論人として失格だと思っている人はかなりの数にのぼることでしょう。

いずれは歴史の審判が下ります。

 

 

 

『エッセー 正・徳・善― 経済を「投企」する』 (ミネルヴァ書房) 塩野谷 祐一 著

  • 2018.04.22 Sunday
  • 21:23

『エッセー 正・徳・善― 経済を「投企」する』

  (ミネルヴァ書房)

  塩野谷 祐一 著

   ⭐⭐⭐

   モラル・サイエンスとしての経済学を哲学的に考える

 

 

一橋大名誉教授で経済学者の塩野谷が、経済哲学の基本的な問題を、

短い「エッセー」という読みやすいかたちでまとめたのが本書です。

 

「正・徳・善」という書名でも想像できる通り、

塩野谷の考える経済哲学は、倫理的価値が関心の中心になっています。

経済学といえば数学的モデルの構築に熱意を燃やしているイメージが強かったので、

塩野谷の視点が少し「意外」で興味を持ちました。

 

塩野谷は3つの倫理的価値に「正」>「徳」>「善」の順位をつけていますが、

重要だと強調するのは個々の人間存在の「徳」だとします。

「正・徳・善」はそれぞれ「正義・卓越・効率」の3つの要素から成立します。

このようなあるべき理念を制度の中に定着させようとすることを、塩野谷は「経済を投企する」と表現しています。

 

塩野谷は「正」の倫理をJ・ロールズの「無知のヴェール」によって説明します。

「無知のヴェール」とは、現実社会での社会的地位や能力、知性、年齢など人々の個体差を示す情報を覆い隠し、

自分の立場を離れた公正な視点を仮定することで、

自分が社会で最も不遇な立場に置かれたとしても同意できる「正義」の原理の成立を目指す考えです。

ロールズの正義原理は社会環境による不平等のない公正な機会均等を求めるだけでなく、

社会で最も不遇な人々の便益を高める社会保障制度の構築をも要求することができるのです。

 

塩野谷の語る「徳」の倫理は、M・ハイデガーの哲学に依拠しています。

ハイデガーの死の本来性とは、死については誰にも代わってもらえない「人格の置換不可能性」を意味し、

置換できない「かけがえのない人格」を実現する生き方を「卓越」と捉えています。

これはアリストテレス以来の伝統に立ち戻る視点であって、

人間が本性を発揮して良く生きるための共同体を考えていくために必要になるものです。

 

「善」は「正」と「徳」の倫理的制約のもとで人間が追求する行為のことです。

「善」を最大にする制度が「正」であって、「善」を最大にする性格が「徳」となります。

「善」は利己心と効率性において経済活動をするわけですが、

塩野谷が主張したいのは、その経済活動が正義や卓越のもとで行われなければならないということです。

倫理観の導入により、人間的な経済というものを成立させるため、あるべき未来像を描くべきなのです。

 

アリストテレスは「家政術(オイコノミケー)」と「貨殖術(クレマティスケー)」を区別し、

共同体倫理のもとで必要な財の獲得を意味する「家政術」を重視しました。

一方で貨幣利得の獲得を自己目的化する「貨殖術」を非難しました。

このオイコノミケーはエコノミクスの語源と言われています。

倫理に規制された経済という観念はアリストテレスからスコラ哲学のトマス・アクィナスに引き継がれ、

中世の利子を禁止する教義として維持されました。

これが破壊されたのが近代ですが、18世紀には社会に関する学問はモラル・サイエンスと呼ばれて、

有徳かつ幸福な正のあり方を最高の規範としていました。

経済学を広義のモラル・サイエンスとして捉え直すために、塩野谷はJ・シュンペーターとJ・M・ケインズを取り上げます。

本書の後半ではとりわけシュンペーターのイノベーション理論が取り上げられています。

 

そのほか功利主義という訳語についての話や、セイ法則と失業問題についての話、

ソーシャル・キャピタル論についての話も興味深く読みました。

 

経済に倫理的視点を導入するという課題は、もはや果てしなき夢にも思えますが、

このような本が出版されたのは2009年という出版時期と大きく関係していると思います。

2008年のリーマンショック直後にあたるからです。

インチキな格付けを受けたCDOなどの無軌道な金融商品が暴落したことを受けて、

経済に倫理の見直しが迫られた時期であったわけですが、

あれから10年経って少しはあの時の反省が活かされているのでしょうか。

学生ローンの返済ができずに破産する人が続出していたりすることを考えると、

大枠では経済のあり方が変わったとはあまり思えません。

その意味では塩野谷のような倫理的視点は、経済学においてはいつまでも「意外」であり続けてしまうのかもしれません。

 

 

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)レビューのコメント欄

  • 2018.04.20 Friday
  • 11:51

『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)

  レビューのコメント欄 

 

 

 

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』の僕のAmazonレビューのコメント欄は、

現在このようになっています。

 


 

千葉雅也1日前 (編集済み)

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 10時間前

 

どうも、佐野波布一と申します。

千葉雅也氏のコメントに感謝します。

 

当方に中傷の意図はありませんし、Amazonが審査を経て掲載したレビューなので、

Amazonのガイドライン上では誹謗中傷に当たるとは判断されていません。

(だから抗議を受けて消去されても再掲載が可能なのです)

あなたの個人的な感覚だけで、さもこちらが「侮辱」「中傷」をしたように大勢のフォロワーに喧伝する行為は、

著名人が数の暴力に訴えた行為として厳しく批判されるべきだと僕は考えています。

「揶揄」と言うならまだしも、「侮辱」に当たるというなら、

それがどの文章なのか具体的に示してください。

 

また、あなたの弁護士にあなた自身の「基本アホ」ツイートがAmazonレビュアーへの中傷や侮辱に当たらないのかどうかも相談したら良いと思いますよ。

 

 

千葉雅也10時間前返信先:以前の投稿

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 8時間前 (編集済み)

 

ちゅうしょう【中傷】

(名)スル

根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。「━によって失脚する」

 

根拠を示して書いているものは中傷とは言いません。

もっと言葉の勉強をしましょう。

あなたのやっていることが中傷です。

 

 

Philosophia7時間前 (編集済み)

 

千葉氏の肩を持つわけではありませんが、彼は本当に訴える気だと思います。彼はtwitter上で佐野波氏についてしつこく言及されているようですし…。

 

 

佐野波布一 1秒前

 

どうも、佐野波布一と申します。

Philosophiaさんのコメントに感謝します。

 

千葉雅也は世間知らずなので本気で訴えるかもしれないと僕も思っていますよ。

真実しか書いていないので、こちらは迎え撃つだけのことです。

たとえ破産しようと言論弾圧に対しては知識人として戦う義務があります。

 


 

こちらのコメントには応じず、ツイッターの内容を繰り返し貼り付ける千葉の態度は、

傲慢きわまりないものです。

僕は千葉がどのような考えでこのような態度を取っているか理解できています。

千葉はかつてこのようなツイートをしたことがあります。

 

Masaya CHIBA 千葉雅也

 ‏@masayachiba

 

他人の言葉で無駄に傷つかないためには、他人を人間扱いしないことがときに重要である。他人を理解しよう、他人に理解してもらおうという「殊勝にコミュニカティブな前提」のせいで無駄に傷つくのである。

0:04 - 2016年1月1日

 

自分が傷つかないためには、「他人を人間扱いしない」というのが彼の流儀なのです。

千葉の考えるコミュニケーションの「切断」が、

いかに自己愛の保存のためであるかを窺い知ることができるツイートです。

自己愛のために他人を人間扱いしないことを肯定する人間が「人間不在」の哲学を語ることの恐ろしさについて、

千葉の読者たちは思い至る必要があると思います。

 

しかしコメント欄に同じ文面を貼り付けていくのは控えめに言っても「荒し」行為だと思うんですけどね。

今朝、僕もある機関に千葉の行状について問い合わせるメールを送りました。

返事があり次第、ブログに掲載することを考えています。

 

 

 

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版) A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 23:22

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版)

  A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   大人が自然に読める訳文

 

 

A・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は多くの人の手で訳されていて、

現在Amazonで調べても10冊以上の版が並んでいます。

さらなる新訳が必要なのか疑問になるところですが、

有名な内藤濯訳を持っていたのですが、気になって購入してみました。

 

内藤訳の『星の王子さま』はこんな感じで訳しています。

 

王子さま,あなたは,はればれしない日々を送ってこられたようだが,ぼくには,そのわけが,だんだんとわかってきました。ながいこと,あなたの気が晴れるのは,しずかな入り日のころだけだったのですね。

 

同じ箇所の芹生訳はこんなふうになっています。

 

小さな王子よ。

わたしはこんなふうにして、きみの幼い人生の悲しみを、少しずつ知るようになった。きみの心が本当に休まるのは、もうずっと前から、日が沈むのを眺めているときだけだったのだね。

 

並べてみるとかなり違うものですね。

僕は原書を持っていないので、どちらが原文に近いのかはわかりませんが、

おそらく訳の正確さの問題ではなく、描きたい世界の違いが反映しているのだと思います。

 

目につく違いを挙げると、語り手の一人称を内藤訳では「ぼく」、芹生訳では「わたし」と訳しています。

芹生は「訳者あとがき」で、これまでの訳が語り手と王子を対等の関係として描いてこなかったのが不満だった、と打ち明けています。

たしかに内藤訳では「送ってこられた」という王子に対する尊敬語が用いられています。

王子とはいえ相手は子供です。

語り手が子供を対等に扱うのは、相手が「王子」という地位にあるからではなく、

語り手が子供を侮らずに大人と対等な存在として考えているためであるからです。

それを表現するために敬語を使わずに対等の友情関係として描こうという姿勢は理解できます。

同様の理由で、芹生は内藤訳にあるような「王子さま」の「さま」という敬称を省いています。

 

芹生訳は内藤訳のように子供向け童話というスタンスをあまり意識していないため、

ひらがなの多用や子供向けの表現のわずらわしさがありません。

そのため、大人が自分の感覚で読むのに適しているという印象です。

内藤訳のような横書きではなく、縦書きになっているのも読みやすさにつながっているかもしれません。

 

作品内容に関しては、説明すると味気ない感じになってしまいます。

大人はいろいろな夾雑物に邪魔されて、物事の真実がわかっていません。

真実は純粋な心が感じ取るところにあるのです。

「目で見たって、なんにも見えないんだ。心で探さなくちゃ」と小さな王子は言います。

 

最近、東大卒のエリートによる不祥事が後を絶ちません。

経歴が立派でも中身が立派な人とは限らないのですが、

われわれはつい見えている部分に依存して判断しがちです。

『星の王子さま』に照らして言えば、ボアが飲み込んだゾウを見ることができずにいるのです。

話題性などの他人の評価に左右されているだけでは大事なものを見失うばかりです。

 

今や『星の王子さま』は大人こそが読んだ方がいい本となっているのかもしれません。

 

 

 

評価:
サン=テグジュペリ
阿部出版
¥ 1,512
(2018-04-02)

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