高山れおな朝日俳壇選者就任の不可解への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.09 Monday
  • 12:59

  高山れおな朝日俳壇選者就任の不可解

                     への佐野波布一のコメント

 

 

   適切と思えない人を選者に起用する朝日新聞の不見識

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

朝日新聞に一般公募の俳句から4人の選者が選んだ俳句を掲載する「朝日俳壇」というコーナーがあります。

そこで長らく選者を務めた俳句界の重鎮、金子兜太が亡くなって欠員が出たあとに、

その後釜に高山れおなが選ばれたと知り、

新聞を購読していない僕は7月8日の朝日新聞をコンビニで買ってみました。

 

高山れおなは以前に朝日俳壇のコラムを書いていて、すでに朝日新聞と「つて」があるのは知っていたので、

彼が選ばれたことにはそれほど疑問はなかったのですが、

朝日新聞の俳句に対するナメた認識に関しては正直不愉快さしか感じませんでした。

 

というのも、俳句の選者というのは単なる著名人の「興味」や「好み」で行われるべきものだとは思えないからです。

ある一定の理念のもとに結社の「先生」として後進を指導した経験を持っていたり、

実作や批評において広く尊敬される確固たる美意識を示している、

その実績においてこそ、その人の俳句の「選」というものが一般に通用することの秤となるのです。

しかし、高山は結社の先生として俳句の指導をしたことがないのはもちろん、

何かの賞の審査員などで確かな俳句の選をした実績もほとんどないのです。

その上、彼の実作者としての実力が一流と言えるかどうかという点にも大いに疑問が残ります。

他の選考者(大串章、稲畑汀子、長谷川櫂)と比べると見劣りすることは否めません。

高山は若手傍流集団のボス的地位にはありますが、それだけでは後者の条件にも見合う人物だとは評価できません。

 

金子兜太が前衛枠(そんな枠があるのか?)だと考えて、若手の前衛路線の人を選びたいにしても、

それならよっぽど賞の審査などを経験している関悦史を選んだ方が納得できる気がします。

まあ、マスコミ関係の仕事もしていて、朝日と「つて」があるから仕方ないのかもしれませんが、

高山がズレた俳句を評価して一般的な俳句を侮っている俳人であることは、

彼の同人誌「クプラス」の「いい俳句」特集に自ら寄せた文でもよくわかります。

 

「いい俳句」について、独自の意見という程のものもない。人々が「いい」とする句は、程度の差こそあれ大抵自分も「いい」と思う。この頃関心があるのは、「いいパイク」の方で、これはまず「わるい俳句」であることが前提となる。

 

俳句を「パイク」とズラしているのは、それが一般的には「わるい俳句」に見えるからです。

つまりは俳句らしくないけど面白い、というような価値観なのですが、

じゃあ前衛的な新しいものを好んでいるかといえば、

そんなことを言いながら、高山の実際の句作では過去の作品をプレテクストとしたものが主流なのです。

つまり、高山は「ズレ」を価値として評価する、今更ながらのポストモダン的な発想を評価している人なのです。

 

小さなズレを理解するにはプレテクストの理解が欠かせないのはオタクの世界と同じで、

ある種のオタク的知識が作品鑑賞の前提となるため、一般人や初心者とは縁遠い俳句観の持ち主であるのはハッキリしています。

僕は「週刊俳句」で関悦史に対して批判コメントをしたところ、この高山に俳句をやらない人間は俳句を語るな、とばかりに文句を言われました。

僕はこの発言に対して謝罪して退散したのですが、それでも「俳句は俳人にしかわからない」などという意識を持った人が、

新聞俳壇の選者にふさわしいとは到底思えません。

ですから、高山大先生にとっては、たいして俳句に詳しくもない一般人の俳句の選など、

心底気が進まなかったはずなので、「深く俳句を理解していない奴の句なんか読めるか」と強くつよーく固辞したに違いありませんが、

それにもかかわらず、こういう人を一般公募の新聞俳壇の選者に起用する朝日新聞の俳句文化に対する浅はかな理解はどうかと思います。

 

俳句指導の経験も乏しく、客観的な基準での審査経験もよくわからない人を選者に起用するということは、

その人の個人的もしくは私的な感覚で俳句選をしても良いと認めているに等しいからです。

選者が個人的な感覚で選をすることが当然となると、俳句の良し悪しに関する公的な基準がなくなるわけですから、

俳句観の怪しい選者の共感があるかどうかだけが基準になってくるわけです。

ならば、選者など誰でもいいではないか、ということにならないでしょうか。

 

さて、その高山れおな大先生の第一回の選句を興味深く拝見させていただきましたが、

最初に選んだのは北嶋克司さんの次の句でした。

 

不忘碑に蛍が一つ付いていた

 

「不忘碑」は戦時中に起こった新興俳句弾圧事件の記憶を風化させないために金子兜太らが作った「俳句弾圧不忘の碑」のようです。

「蛍が一つ付いていた」はその金子の句「おおかみに蛍が一つ付いていた」からの流用です。

金子の後釜に座った高山が前任者へのリスペクトを込めて選句したことを思わせるものでした。

 

ただ、プレテクストを参照する句を好むのは高山自身の句作そのものであることも忘れてはいけません。

いきなり1句目から自分の「興味」や「好み」で選句したということもまた事実です。

もちろん、このような選句は前衛性とは何の関わりもありません。

 

そもそも高山が前衛に位置する俳人であると僕は思ったことがありません。

前述したように、ただ伝統俳句や日常詠をズラすことに価値を認めている人という印象です。

金子兜太は安倍政権への反対を強く打ち出していましたし、原爆・原発などに反対する活動もしていました。

しかし、高山は前衛性もないただの「趣味人」でしかなく、政治性など皆無と言えます。

この人が金子の何を引き継ぐというのでしょうか。

高山の句にこのようなものがあります。

 

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も

 

原発と前衛とを「おとなのあそび」で一括りにしています。

このように、ただ一人自分がメタに立って周囲を侮るような視点が、高山や関悦史一派の俳句の特徴です。

こんな俳句を書く人に金子は本当に後を受けてほしいと思っていたのでしょうか。

朝日新聞は政権に批判的な「左翼」系だと一般には思われていますが、

僕はだいぶ昔からこの新聞は魂を売ったファッション左翼のエリート新聞だと思って読むのをやめています。

金子から高山へのバトンパスは、その意味では必然的な流れだとも感じています。

 

それから、僕は高山や関悦史が戦中の「俳句弾圧」を取り上げ、

被害者の系譜に自らが連なっているかのような態度をすることが許せないと思っています。

ユダヤ人がホロコーストの被害者という立場でナチスを批判しながら、

イスラエルとして平気でパレスチナ人を虐殺しているように、

彼らは俳句弾圧の被害者への共感を漂わせながら、

自分たちを批判する者の言説を平気で弾圧してきた人間なのです。

こういう奴に限ってユダヤ的な〈フランス現代思想〉を表層的にしか理解せずに振り回したりしています。

クサレ俳人やその仲間を起用してしまうことで、新聞は自らの批判精神がいかにインチキであるかを立証し続けることになっています。

文化状況の裏面まで理解できないのであれば、

新聞は早く文化に関わるのをやめて、政治や経済のニュースに特化していくべきだと思います。

 

ついでなので書いておきたいのですが、

高山れおなが朝日俳壇の大先生になったことで、その手下の上田信治が四ツ谷龍のツイッターに難癖をつけた場面に出くわしました。

上田が問題にしたのは四ツ谷の次のツイートです。

 

四ッ谷龍@leplusvert

 

選考委員とか選者とか、できるだけやりたくない。他人に対する評価なんて、本質的にむなしいものなんだ。

裕明賞は裕明の賞だから引き受けて、必死にやっている。これは別のもの。

俳句の世界では、選者をやりたい人とか俳句地図を作りたい人がいっぱいいる。好きにやればと思う。

午後8:06 · 2018年6月17日

 

表面的には「俳句地図を作りたい人」が上田のことを暗に指しているということで上田が反発してモメたように見えますが、

僕はその前に四ツ谷が「選者をやりたい人」と書いた相手が暗に高山れおなを指していることに、

手下の上田が反発したのだろうと解釈しています。

ボスが出世するのは手下の喜びでもあるので、それを面白く思わない人には攻撃を浴びせるというのが彼ら一派のやり方です。

僕もよく攻撃対象にされるので、このあたりは非常によくわかります。

(こう書いておけば上田からのくだらないイチャモンを避けられるのではないかと期待しています)

 

しかし上田は、田中裕明賞で四ツ谷が上田のお仲間の句集に攻撃的論陣を張って受賞を阻んだとか何とかツイートしていましたが、

それってそもそも僕のレビューを嚆矢として言われるようになったことですよね。

僕の言説に乗っかってよく言うよ、と思ったことを付け加えておきます。

まあ、乗っかり虫は何にでも乗っかるのかもしれませんが。

 

 

『みずからの火』 (角川書店) 嵯峨 直樹 著

  • 2018.07.08 Sunday
  • 21:08

『みずからの火』 (角川書店)

  嵯峨 直樹 著

 

   ⭐⭐

   主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ

 

 

僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、

嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。

生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、

おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、

作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。

 

もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、

そこを批判するのはお門違いということになるのですが、

僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、

それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。

まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。

 

さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり

花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って

冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす

見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ

 

前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。

しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、

「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、

実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。

嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、

歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。

2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、

「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。

このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。

 

乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき

 

このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。

 

後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、

「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。

ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、

続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。

最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、

歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。

 

これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、

歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。

つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。

 

僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。

作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。

個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。

詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。

 

「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。

 

黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く

平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、

私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。

村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、

抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。

しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。

そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。

 

ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球

地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空

肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている

平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。

このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。

「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。

それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。

性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。

 

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて

寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音

ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を

ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの

 

抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。

結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、

それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、

うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。

 

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと

血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ

 

このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。

抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、

20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。

嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。

同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。

 

秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨

 

この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。

この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。

雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、

自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。

となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような

「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。

 

ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。

たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、

「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。

こういう歌は他にいくつもあります。

 

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう

きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力

長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な

 

一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。

「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。

このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。

他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。

こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。

(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)

散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。

自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、

そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。

説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。

 

現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、

現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。

しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、

そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、

僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。

 

 

 

評価:
嵯峨 直樹
KADOKAWA
¥ 2,808
(2018-06-01)

『【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派』 (新潮選書) 池内 恵 著

  • 2018.07.06 Friday
  • 12:49

『【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派』

  (新潮選書)  池内 恵 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   シーア派については詳しいが、スンニ派については物足りない

 

 

『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』に続く池内恵の【中東大混迷を解く】シリーズの第2弾は、

イスラム教の2大宗派のスンニ派とシーア派の対立を扱います。

イランはシーア派が主導的な国で、サウジアラビアはスンニ派主導で仲が悪いとか、

ISIS(イスラム国)はスンニ派に属するなどの情報は僕も知っているのですが、

実態としてどこまで宗派対立が中東情勢に影響を与えているのか、ということまではよくわかりません。

中東情勢に詳しい池内による本書が宗派対立の実際を学ぶのにうってつけだと思って読んでみました。

 

冒頭で池内は中東問題を宗派対立に還元する視点を否定します。

すべて宗派対立が問題だとするのは現実的な理解を妨げるとしながらも、

政治が宗派を利用することが実際に行われていて、「宗派主義による政治は、動かし難く存在している」と述べています。

宗派対立といっても教義においての対立ではない、としながら、宗派は政治的に構成されたとも言い切れない、とも言います。

結局、池内自身は宗派対立の現実について、まともな回答を避け続けているように感じました。

なかなか難しい問題なのは想像できるのですが、他人の見解を否定しておいて自身の見解が不明瞭なのには不満が残りました。

 

第2章はシーア派とは何かを歴史的に振り返ります。

シーア派が第4代カリフのアリーの血筋を正統だと考えていることは、

受験世界史の知識でも知ることができるのですが、

さすがに池内の説明はさらに詳しくわかりやすいもので勉強になりました。

 

シーア派とスンニ派はムハンマド死後の後継者問題に端を発します。

後継者である初代カリフはムハンマドの妻アーイシャの父アブー・バクルですが、

アブー・バクルからウマル、ウスマーン、アリーへと至る「正統カリフ」の権力継承を認める「主流派」がスンニ派で、

ムハンマドの娘婿のアリーが正統な後継者であるべきだった(イマーム)と考える「反主流派」がシーア派です。

個人的に興味深かったのは、シーア派が「あるべきだった権力継承」という理想に立脚して、この現実を超克する立場にあることです。

スンニ派という主流派によって「虐げられた民」であるシーア派というあり方が、

反体制勢力の原動力となり、権力を掌握して王朝を築き上げるまでに至りました。

その代表がアラブ人によって従属民の位置に置かれたペルシア人を中心とするイランだと池内は言います。

 

第3章は1979年のイラン革命について詳しく語られます。

西洋化を進めたパフラヴィー朝がウラマーというイスラム学者による統治体制に打倒されたのがイラン革命です。

池内はイラン革命の衝撃を物語る4つの要素を挙げています。

 

(1)近代化・西洋化に対する否定

(2)イスラーム統治体制の樹立

(3)スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握

(4)反米路線へ転換

 

このように整理してもらえると、

現在のイランのアメリカやサウジアラビアとの葛藤がどこに根ざすのかがわかりやすくなります。

 

第4章はイラク戦争後の宗派対立について、第5章はレバノンの宗派主義体制について述べていきます。

「レバノン政治は、この本のテーマとなる宗派対立の元祖・家元とも言えるような存在である」と池内が語るように、

本書の目的のひとつにはレバノン情勢を語ることがあるように思います。

 

レバノンが宗派主義体制と言われるのは、国内の宗派の人口比率に応じて政治権限を分けているからです。

レバノンはイスラエルの北に位置し、シリアとも隣接する位置にある国ですが、

これまでキリスト教のマロン派が国内の多数派を占めていたようです。

キリスト教諸宗派の人口が多数派であれば、議会の議席もそれに応じて多数が配分され、

大統領はマロン派、首相はスンニ派、議長はシーア派というように決まっていく、と池内は述べます。

これは各宗派に権限が分散するための工夫ではあるのですが、

出生や移民による人口の変化によりシーア派が実質上の最大派になると、各派が外国勢力を巻き込んで内戦へと発展しました。

その後、1989年にマロン派の権限を弱める「ターイフ合意」で和解がはかられました。

これに反発したのがマロン派の「自由愛国運動」を率いるミシェル・アウン将軍です。

しかし、アウン将軍の部隊がシリア軍に鎮圧されたことで内戦は集結しました。

そのままシリア軍のレバノン進駐も黙認されることになりました。

 

2005年にスンニ派の首相ラフィーク・ハリーリーが爆殺され、シリアの関与が疑われると、

シリア軍撤退を求める大規模なデモが続き、親シリアの内閣が総辞職する

「レバノン杉革命」が起こり、

民主化への期待が高まりましたが、結果はさらなる混乱へと突入しました。

このあたりの経緯は複雑なのでぜひ本書を読んでほしいのですが、

たしかに宗派対立という単純な視点では理解しきれない複雑な出来事に感じました。

 

レバノンにはシーア派のヒズブッラー(ヒズボラ)という反イスラエル勢力が存在します。

ここにはパレスチナとイスラエルの問題も関係しますし、

同じシーア派のイランがヒズブッラーを支援していることもあり、

イスラエルに肩入れしているトランプがイラン核合意から離脱することも、

このあたりの知識がないと理解が難しいと思います。

 

本書ではシーア派についての説明に力点があり、

サウジアラビアなどのスンニ派の実情についてはあまり書かれてはいないようでした。

【中東大混迷を解く】シリーズがこれからどうなるのかわかりませんが、

アメリカやイスラエルがアラブに及ぼしている影響を、池内が客観的に論じた本も読んでみたいと思いました。

 

 

 

『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう──レフト3.0の政治経済学』 (亜紀書房) ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著

  • 2018.07.03 Tuesday
  • 22:03

『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう──レフト3.0の政治経済学』 (亜紀書房)

 ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著

   ⭐⭐⭐

   レフト3.0宣言の内容は反緊縮経済?

 

 

本書は3人の鼎談形式で構成されています。

イギリス在住でアナーキー志向のコラムニストのブレイディみかこ、

立命館大学経済学部教授でケインズやマルクスの経済学に明るい松尾匡、

東京大学大学院情報学環教授で社会学専攻の北田暁大の面々なのですが、

彼らは日本の左派の不甲斐なさに不満をつのらせている点で意見が一致しているらしく、

内容の大部分は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンなどのヨーロッパの左派を手本として、

緊縮財政を訴えている日本の左派はダメだという話になっています。

 

松尾は量的緩和(本書では金融緩和)をするべきだと主張しているために、

アベノミクスを肯定し、左派を叩いていると誤解されると本書のあとがきで嘆いていますが、

正直、虚心に本書を読んでみて、そう受け止める人がいるのは仕方ないように僕には思えました。

実際に3人は日本の左派をダメだダメだと言っていますし、それに比べると安倍政権への批判は抑えめです。

たとえば松尾は安倍政権下での実質賃金の下降について、民主党政権の後半から始まっていたと語り、

量的緩和を擁護するために安倍の経済政策の問題点はあまり強調できていません。

 

アベノミクスは実際には量的緩和以外にほとんど効果を示していないので、

量的緩和を肯定するとアベノミクス支持と受け止められても不思議はありません。

つまり、松尾は安倍の右翼的政策には反対ではあっても、経済政策そのものにはそれほど反対していないわけです。

どんなにケインズやマルクスを持ち出しても、結論が量的緩和であるならアベノミクスでいいではないか、

と経済の素人は思ってしまうのではないでしょうか。

(その意味で、松尾の提言を野党が受け入れないのは当然だとしか僕には思えません)

 

もちろん松尾の語っていることが間違っているとは僕も思わないのですが、

政治的な視点からすれば、松尾の語る経済政策で左派のアップデートができる気はしませんでした。

 

そもそも、日本人が経済政策にそれほど関心もなければ理解も乏しいということはどう考えているのでしょうか。

世界一の豊かさを誇った日本経済が「失われた30年」などと言われるほど停滞したのはなぜなのか、

僕は多くの経済関係の本を読んできましたが、そのあたりの共通認識も立ち上げられてないような気がします。

不良債権処理でつまづいたのか、デフレが問題なのか、借金が問題なのか、

中国の製造業の台頭が問題なのか、金融グローバル化が問題なのか、少子化が問題なのか、

人によって問題にしていることが違うという印象があります。

(そのすべてが問題ということもありそうですけれども)

この本では緊縮財政が諸悪の根源であるような「わかりやすい論点」が示され、

3人が意見を合わせて反緊縮だ反緊縮だと言っているのですが、

前述したように、それならアベノミクスでいいではないか、と思わなくもありません。

 

松尾は量的緩和によって完全雇用が実現する前に福祉や教育の分野へお金が回るようにすべきだと言いますが、

むしろ、そうなるためにはどうすればいいのかを考えていただきたかったです。

現在のグローバル金融資本主義に適応することを優先したら、そんなお金の回り方はありえないと思うだけに、

量的緩和の主張に重点があるような鼎談はあまり意味がなく退屈でした。

 

それから3人は最後の方で左派の根本は階級闘争であるということを語り出します。

これにはまったくその通りだと僕も同意したいところです。

「左派による下部構造の忘却がはじまってしまった」と北田も発言しています。

90年代の左派の主流となったマイノリティの権利などのアイデンティティ・ポリティクスがマルクスを忘却したのはその通りで、

僕も〈フランス現代思想〉からアントニオ・ネグリへと至る左派アカデミズムは時代遅れだとずっと批判しています。

北田は「どれだけ泥臭くなれるか」がレフト3.0の課題だとした上で、これまでの左派が口だけの「草の根」だったことを批判します。

 

北田 レフト1.0のまずさをよくわかっているから、みんな草の根だと自認し、宣伝するんですよね。ポストモダンブームの時のキーワードは「リゾーム(根茎)」でしたし、最近ではネグリたちの「マルチチュード(ラテン語で「多数」「民衆」の意味)」です。こうした概念は、先行世代の左派批判にはその都度使いやすいのだと思いますが、社会学的には根拠が見当たりません。正直わたしは単なる高学歴者の流行思想なんじゃないかと思います。

 

左派の本質にエリート主義があるという北田の指摘は非常に重要ですが、

松尾も北田も自分自身が大学教授であるという事実をどう考えているのかが僕には気になるところです。

ただ、北田のポストモダンに対する分析そのものは正しいと言えます。

日本の左派インテリがフランスの流行思想に飛び乗ることに自己満足してきたことは、もっともっと批判されるべきだと思います。

 

読んでいて最も違和感があったのは、次のことです。

そんなに下部構造が大事だと言うのなら、日本共産党や小沢一郎の「国民の生活が第一」などはどうなのでしょうか。

共産党もエリート主義ではあると思いますが、建前上は下部構造重視を貫いていると思います。

どこまで本気かわかりませんが、小沢の掲げる建前も同様です。

彼らが共産党や小沢をどう考えるのかに興味があったのですが、僕が見たところ、本書でこれらに触れたことは一度もなかったように思います。

自民党と公明党、民主党と社民党は批判されたりするのですが、共産党は存在しないかのようなのです。

もちろん、共産党が量的緩和に賛成するとは思えないわけですが、

下部構造を重視しているはずの党の支持がそれほど上がっていないことを彼らがどう処理するのか、

という僕の興味は巧妙にスルーされてしまった気がしています。

 

それから、僕個人としては日本の経済を語るなら、最優先で地方経済のことを考える必要があると思っています。

本書では松尾単独のあとがきで少し触れているだけで、鼎談の中ではほとんど語られていませんでした。

大上段で「〈経済〉を語ろう」と言ったわりに、正直内容は乏しすぎたような気がします。

これでは、もっとダメな左派を叩くだけの印象しか残らないのも仕方がないのではないでしょうか。

 

 

 

『危機の政治学 カール・シュミット入門』 (講談社メチエ) 牧野 雅彦 著

  • 2018.07.01 Sunday
  • 13:36

『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社メチエ)

  牧野 雅彦 著

 

   ⭐⭐

   やはりシュミットはよくわからない

 

 

ナチスへの協力が取りざたされて批判にさらされたドイツの法学者カール・シュミットを、

再評価する動きが最近目立っていますが、牧野もそのような流れの中で本書を書いています。

シュミットの思想はナチスに協力した危険思想だ、と切り捨ててしまえるものでないことは本書を読んでよくわかりましたが、

では、なぜシュミットがナチスと近い立場に身を置いたり、反ユダヤ主義とも思える言説をしていたのか、という点については、

牧野の記述は非常に後ろ向きでしかなく、これもまたフェアな立場だとは思えませんでした。

批判して終わりも良くありませんが、シュミットをただ擁護するだけの態度も、門外漢としては同様に偏ったものに感じました。

 

副題に「カール・シュミット入門」とあることに読み終わってから気づきましたが、

明らかに入門書のレベルではありませんし、入門書の体裁でもありません。

僕は途中でわからなくなって、もう一回最初から読み直したのですが、かなり難しくて苦労しました。

シュミットの著作自体について以上に彼の周辺人物の著作や当時の政治状況についての方が、

触れている量が多かったようにさえ感じました。

 

第一章は「政治神学とは何か」と題されていますが、シュミットの概念をわかりやすく説明してくれるのかと思いきや、

シュミットが影響を受けたカトリック系の反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルやドノソ・コルテスの思想を長々と説明します。

いきなりシュミットではなく謎の反動思想家の説明が続くのは、マニアックとしか言えません。

そこを乗り越えてシュミットの思想に至ったと思っても、ほとんど記述らしい記述がなく、

気づいたらメーストルとコルテスの思想にだけ詳しくなっていました。

 

第二章ではシュミットの『政治的なものの概念』を取り上げ、シュミットが多元主義のハロルド・ラスキを批判したことが述べられます。

直後、牧野はハロルド・ラスキの著作の内容に踏み込んでカトリック反動について長々と説明したあと、

次にジョン・フィッギスという歴史家の、教会を中心とした団体自治論を説明し始めます。

ここまで30ページを要していますが、その間にシュミットはほとんど登場しません。

これで本当にシュミットの入門書と言えるのでしょうか?

 

そのあとやっと『政治的なものの概念』における「友と敵」の実存的決定の話が出てくるのですが、

これが数行のあっさりとした記述で終わってしまうのです。

続いて『憲法理論』を取り上げ教会の「権威」と国家の「権力」をシュミットがどう考えていたかが語られます。

ですが、この部分は9ページで終わってしまいます。

 

シュミットの著書『独裁』における「委任独裁」と「主権独裁」の区別については、説明にそれほど不満はありません。

秩序を制定する権力である国民を「憲法制定権力」としたとき、憲法制定を委任された代理人が「主権独裁」である、というのは、

安倍晋三の憲法改正に対する黒い情熱を想像する上で興味深いものがありました。

シュミットの国際連盟批判や、統一帝国であるライヒへの執着、内戦を終結させる「アムネスティ」という相互忘却の原則についてや、

パルチザンにおける敵の問題など、がんばって読めばおもしろい部分もあるのですが、

長々しい上に専門的で敷居の高い内容だったというのが正直な印象です。

 

しかし、肝心の友と敵の区別についての説明に分量をかけていないため、

基礎的な部分をぼんやりとしか理解していないまま、先々の理論に付き合わされている感じは否めません。

牧野は「友と敵」の区別が「政治的なもの」の核心だと結論だけは何度も述べるのですが、

それがどういうプロセスで成立しているのかは、なぜか詳しく説明してくれません。

もしかしたら、シュミットとナチスとの関係にとって不利な内容なので、あまり触れないようにしているのでしょうか。

危機状態を前提にした権力論は、議論が本質的になるため魅力があるのは理解できますが、

一方で例外状態はあくまで例外状態であるという認識も大切でしょう。

「敵」を設定し共有することで自己のあり方を決めるというのであれば、

それは反動保守のやり方とそう変わらないように思えるのですが、

本書には僕の疑問を解消するような説明は見つけられませんでした。

 

 

 

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎) ナイジェル・ウォーバートン 著

  • 2018.06.30 Saturday
  • 22:13

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎)

 ナイジェル・ウォーバートン 著/月沢 李歌子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   イギリス視点の哲学史に〈フランス現代思想〉は存在しない

 

 

イェール大学出版局の「リトル・ヒストリー」シリーズの『経済学史』はなかなか良い内容でしたが、

この『哲学史』も著者は違うのですが、40の断章で哲学史上の思想家を紹介していきます。

これだけ多くの思想家をわかりやすく取り扱うウォーバートンの力量には感心させられますが、

彼が大学に籍を置かないフリーの哲学者であることにも驚きました。

大学の出版局からの著書なのに、大学の先生でない人に書かせられるほど、イギリスの人文知の裾野は広いのだと感じます。

 

ソクラテス、プラトンから始まっていき、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経て、

デカルト、パスカル、スピノザと続き、ルソー、カントへと至る流れは王道と言えます。

聞いたことがある哲学者の名前が次々と出てくるのは、ビギナー向けとしては欠かせない要素です。

また、ウォーバートンはビギナーが困らないように、わかりやすい説明を心がけています。

エピクロスは僕にはそれほど馴染みのある思想家ではなかったのですが、

「エピクロスの教えは、ある種のセラピーでもあった」と説明されると、興味が掻き立てられます。

 

ヴォルテールについて書かれている章もためになりました。

彼は言論の自由の擁護者で、「あなたの主張には反対だが、そう発言する権利は命を懸けて守ろう」と発言したそうです。

僕はR大学の准教授に言論弾圧を受けたことがあるのですが、そういうインチキ野郎に比べてヴォルテールは偉い人だと思いました。

ヴォルテール自身は権力者である貴族を侮辱したとして、バスティーユ監獄に入れられてしまったのですが、

それでも周囲の偏見や疑わしい主張に疑問を呈し続けるのをやめない、勇敢な人だったとウォーバートンは述べています。

ヴォルテールの『カンディード』がライプニッツの楽観主義を風刺しているというところも、

非常におもしろく読みました。

 

誤解されやすいルソーの「一般意志」についても鮮やかに説明しています。

共同体全体の利益になるものが一般意志であるため、自己本位であれば誰もが税金を払いたくないと思うものだが、

一般意志に基づくと、共同体が適切なサービスができるのに十分な高さの税金を支払うべきだということになる、

という例を出されると、理解が平易になります。

 

ただ、本書はイギリス人による哲学史のためか、ウォーバートンの個人的趣味のためなのかわかりませんが、

全体にドイツ思想に対して評価が厳しいように思いました。

カントの道徳哲学をアリストテレスと比較して、ウォーバートンは次のように書いています。

 

アリストテレスは、真に徳のある人はつねに適切な感情をもち、その結果として正しい行動をすると考えた。カントにとって、感情とは、見せかけではなく本当に正しいことをしているのかどうかをわからなくして、問題をあいまいにするものである。

 

カントは理性さえあれば道徳的でいられると考えたというのがウォーバートンの説明なのですが、

あまりにカント思想の理解が表層的に思えます。

 

20章に登場したイマヌエル・カントは、「嘘をつくな」というような、どんな場合でも適応される義務があると主張した。だが、ベンサムは、行為の善悪は結果によって判断されるとし、状況次第だと考えた。嘘をつくのはつねに誤りだとは限らない。

 

この「嘘をつくな」の例はカントの定言命法を説明するのにふさわしいとは僕は思いません。

その意味で、ウォーバートンの記述にはカントに対する悪意が感じられなくもありません。

ヘーゲルやニーチェの扱いもあまり良いとは言えませんでした。

バートランド・ラッセルの紹介などは非常に良く書けていたので、やはりイギリス偏重という傾向は否めないと思います。

 

特に日本人にとって違和感があると思われるのは、フッサールとハイデガーの現象学と解釈学に対する記述がほとんどないことでしょう。

ハイデガーの名前を出したかと思うと、すぐにアーレントへと話を進めてしまうあたりは不自然に思えます。

また、サルトルとボーヴォワールには触れるのですが、

日本では現代思想の代名詞であるフランスの構造主義とポスト構造主義の思想家については一言も触れていません。

アーレントからカール・ポパーへと進み、トーマス・クーン、フィリッパ・フット、ジョン・ロールズときて、

オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーで締めくくられます。

 

イェール大学による哲学史ではいわゆるポストモダン思想は哲学ではないというのは非常に興味深く思えました。

その意味では日本的な現代思想バイアスを修正するのに本書は適しているかもしれません。

個人的には、ポパーがフロイトなどの精神医学に反証可能性がないため、非科学だと批判したというところが勉強になりました。

思想家の変わったエピソードなども差し挟まれていたりして、読み物としてもなかなか面白かったです。

 

 

 

サッカー日本代表の愚行を擁護するメディアへの佐野波布一のコメント

  • 2018.06.30 Saturday
  • 14:54

 サッカー日本代表の愚行を擁護するメディアへの

 佐野波布一のコメント

 

 

 

   W杯グループリーグ最終戦での「他力本願」を監督の苦渋の決断と持ち上げる欺瞞

 

 

僕はスポーツを見るのは好きですが、ネットでそれについて書きたいとは思いません。

ただ、今回の日本人の自己欺瞞があまりに耐え難いために発信させていただきます。

 

僕のサッカーとの付き合い方は変わっているので、周囲からは「変人」と思われています。

僕は10代の時にテレビでワールドカップを見ていたとき、日本が出ていなかったため、

応援する母国がほしいと思って、コロンビアを母国にしようと決意しました。

それ以来、サッカー国籍はコロンビアだと公言しています。

(ヨーロッパ偏重の権威主義的なサッカーファンに対する反感もあったかもしれません)

それからずっと僕はコロンビア人として、ワールドカップ予選は南米予選だけをチェックしてきましたし、

チャンピオンズリーグよりもリベルタドーレスを見てきました。

コロンビアを応援するために94年のアメリカ大会にも行きました。

(日本代表の試合は国内すら一度も行ったことがありません)

僕はサッカーマニアではありませんが、日本代表の選手よりコロンビア代表の選手の方が断然詳しいと思います。

 

今大会でコロンビアが日本に負けたのは僕にとって悪夢でした。

日本中が喜んでいるのかと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだものですが、

コロンビア人と受難をともにしたことで、自らのサッカーアイデンティティの強固さを感じたものです。

 

そのため、僕はグループリーグ最終戦ではコロンビア対セネガルの試合をリアルタイムで見ていました。

日本戦には1秒たりともチャンネルを合わせなかったので、日本戦で何が行われていたのかは翌日のニュースで初めて知りました。

終了近い時間帯に日本が負けているのにもかかわらず、パス回しで時間稼ぎをしていたと知って、僕はびっくりしました。

コロンビアがセネガルに1点リードしていることから、西野監督はコロンビアの勝利に期待して、

1点差負けで決勝トーナメント進出を手に入れようと考えたようなのです。

 

僕が驚いたのは、このようなギャンブルに全く合理性がなかったということです。

コロンビアとセネガルの試合をずっと見ていればわかることですが、ハッキリとセネガル優勢の試合でした。

僕はコロンビアの分の悪さを悟って、ハーフタイムで妻にも厳しい状況であることを話しました。

チャンスもセネガルの方が多く、日本がポーランドに先制され、こちらが引き分ければ決勝に行けると知った後も、

引き分けること自体が至難の技だと感じて喜びもしませんでした。

 

しかし、セットプレーというものは一撃があります。

リーベル移籍後にかつての輝きを取り戻しつつあるキンテーロからのコーナーキックに、

バルサでくすぶっているジェリー・ミナが頭で合わせて先制したのです。

僕の実感では運良く先制点をゲットしたというところでした。

その後は当然セネガルが攻勢に出て、コロンビアは何度も窮地に立たされました。

最後の笛が鳴るまで、ものすごく時間が長く感じられましたし、いつ点が入っても不思議でない展開でした。

 

こういうことはリアルタイムの実感でないとわからないので、日本戦を見ていた日本人にはわからないと思います。

そのため、僕のような自称コロンビア人が語ることに意味があると思って書いています。

要するに、コロンビア人から見ると、薄氷を踏むような先のわからない展開の中で、

試合を捨ててまでコロンビアの勝利に賭けるという西野監督の采配は、たまたまうまくいっただけでクレイジーだと思えるのです。

 

たとえばネットにある読売新聞の記事に、浅井武という人が書い文章がありましたが、

彼は「かなり危ない橋を渡った」と「他力本願」に否定的な評価をしているのですが、

「セネガルにスーパーゴールが生まれたり、コロンビアに致命的なミスが出たりして」

などと書いているように、どうも日本人はコロンビアが優勢に試合をしていたと思い込んでいる節があります。

まずはその認識が間違っていることを共有してから、今回の采配について評価をするべきだと思います。

 

それなのに、日本でニュースなどを見ると、セネガルが追いついたら批判されるであろうことを、

「あえて」決断した西野監督を讃えるようなコメントが繰り返されていて、呆れ果てました。

世界から日本の行為は散々に批判されていますが、客観的に見れば当然批判される行為でしかありません。

なにしろ、自力で勝ち進めない自らの力不足を自覚をして、

結果を他のチームの頑張りに丸投げしていながら、

決勝トーナメントにだけは進出したい、という浅ましさだけを表に出してしまったのですから。

 

このような「浅ましい」行為を後ろめたく思う日本人も少なくないことを僕は確認していますが、

サッカー協会への批判がタブーとなっている日本メディアは、あろうことか西野が立派な「決断」をしたかのような欺瞞言説を垂れ流しています。

僕にはそれが正当な評価とは思えません。

 

日本対ポーランド戦に関しては、僕が知った情報はすべて試合後のものでしかないのですが、

日本はスタメンを6人も変えて試合に臨んでいます。

過去2試合で敵ながら怖いと思った乾がスタメンでないということに驚いたのですが、

この采配が、日本が戦力を温存しても連敗中のポーランドとなら引き分けられる、

という甘い見通しによるものであったことは間違いないと思います。

コロンビア戦を一人多い状態で勝ったわりに何を勘違いしたのかわかりませんが、

ずいぶんと余裕をかましたものだな、と思います。

 

このスタメンから感じることは、日本サッカー協会と西野朗が日本の決勝トーナメント進出を楽観視していたということです。

つまり、彼らにとって日本の決勝トーナメント進出は「既定路線」となっていたのです。

(初めからコロンビアがセネガルに勝つにちがいないと思っていたのかもしれませんが)

おそらく、その「既定路線」をもとに裏ではいろいろなお金が動いていたに違いありません。

このようなナルシスティックな楽観主義はいかにも日本的だと思いますし、第二次大戦時の大日本帝国が、ナチスがイギリスを倒してくれることを期待して作戦を立てていたことが思い出されました。

 

しかし、ポーランドに先制されたことで日本に予選落ちの危機があることに今更ながら気づかされたのでしょう。

「既定路線」が「既定路線」でなくなることが最も恐ろしい人たちが取る手段は決まっています。

どんなことをしても「既定路線」を維持することです。

たとえフェアでないと言われようと、たとえ他力本願であろうと、「結果」を合わせていくことが最も大事になるのです。

それが「あられもない時間稼ぎ」という西野の采配を導いただけだと僕は考えます。

 

サッカー協会と一体化した西野にとっては、日本が決勝トーナメントに進めないこと以上に怖いことはなかったように思います。

それなのに、セネガルが同点に追いついたら批判されるとわかっていて、時間稼ぎを決断した西野はすごい、

などとメディアが垂れ流すのは、僕からするとサッカー協会とタッグを組んで情報操作をしているとしか思えません。

何もすごいことなどありはしません。

日本が失点して「自己責任」となるより、他会場の「自然」に結果を任せた方が、

西野自身が責められることは少ないと計算しただけにすぎません。

その証拠に、日本以外の国で西野の戦術を立派な決断だなどと評価しているメディアを見かけませんし、

かつてガンバ大阪で西野の下でプレイしたことがある遠藤保仁などは日刊スポーツの取材に、

「セネガルが得点したのなら、みんなの責任」などと答えて、西野の責任がスッポリ抜け落ちるような発言をしています。

(僕はこの遠藤の発言に、戦争責任は全員にあるという「一億総懺悔」を彷彿とさせられました)

 

ネットには勝てば官軍とばかりに「結果」がすべてで問題ないという「強弁」をしている「わかっていない人」がいますが、

日本のやったことは問題がないという言説は世界では通用しません。

なぜなら、他会場の結果で試合結果をコントロールすることが問題行為だと見なされているからこそ、

グループリーグの最終戦は同時刻に試合を行うようにしているのです。

つまり、FIFAが日本の採用した作戦を良いものだと評価するはずがないのです。

そのような意図もわからず、自己本位な行為をしてしまった田舎者が日本代表だということです。

 

自国内の自己満足的な視点しか持ち得ない日本人は喜んで騙されていくのかもしれませんが、

西野監督の采配を評価することは外から見たら滑稽でしかないわけです。

(残念ながら僕は純粋な外の人間ではないので、滑稽ですませられずにこのような文句を言いたくなるわけですが)

 

11人対11人の試合展開では一度も相手チームをリードしたことがなかった日本が、

他力本願の時間稼ぎをして決勝トーナメントに進出したのは明らかなのですから、

潔く「まともに戦ったら弱い僕らが決勝トーナメントに行くには、みっともなくてもあれしかなかったんだ」と言ってほしいものです。

まあ、日本人はナルシシズムを充溢させることが生き甲斐なので、そんなことが認められるわけがないんですけどね。

どうして日本は実力以上に背伸びをしていないと気がすまないのでしょうか。

バブル経済で夢を見てから、現実のショボい自己像と向き合うことを避けることが、日本人の欲望になってしまいました。

僕は主に思想界や文学界などで、実力が乏しいのに斜陽の出版業界との癒着でスター扱いされている人物を批判していますが、

このような人物が後を絶たないのは、彼らが現在の日本の自画像と一致しているからだと感じています。

その意味で彼らは現代の日本人からの共感は得られるわけですが、

さすがに長い歴史の中では、いずれ彼らの実力の乏しさが暴露され批判されることになると思います。

サッカーで実力が暴露されるのは、それに比べれば時間がかからないのではないでしょうか。

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