どうも、以前は佐野波布一だった者です。
長らくご無沙汰してます。
見切り発車ですが、新しいブログを始めました。
どうせなら、と違うサービスを使ってみたのですが、
なかなか思うようなサイトが作れず、苦戦しています。
読者の方にはご不満もあるやもしれませんが、我慢してお付き合いください。
僕がパソコンでサイトを開いてみたところ、安全性に問題があるサイト扱いされていました。
ドメインの関係でそうなっていると思われるのですが、もちろん危険性はありませんのでご心配なく。
あ、僕の新たな筆名は南井三鷹としました。
手で書くのは嫌な名前ですが、変換ならラクラクです。
不本意ながら使い方もよくわからないツイッターも始めてみました。
同時的なメディアをどう使えるのか、それともやめてしまうのか、とりあえず試してみようと思っています。
ブログ : http://blog.minaimitaka.site
ツイッター : http://twitter.com/minaimitaka
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すみません、書いてた人は生きてます
どうも、The formerly known as 佐野波布一、通称「バズシンボル」(元ネタが古くて不安)です。
昨日は父の法事を家族でやってました。
今日は無理がたたって発熱して寝込んでいます。
明日からは仕事が忙しいので、今のうち皆様に感謝を述べさせてください。
何か言いたい人もいるかもしれない、と軽い気持ちでコメント欄を開けたら、
思った以上にコメントがあってビビりました。
冷やかしで僕のブログを見に来た多くの方々も含めて、お騒がせしてすみませんでした。
僕はもともとインターネットがそんなに好きではありませんでした。
しかし、パワハラが横行しているアカデミズムの世界に嫌悪感を抱き、
出版界が商業主義に大きく傾いていくにつれ、出版界の連中と仕事をしたいとも思わなくなり、
消去法でしぶしぶとインターネットの世界に至りました。
Amazonレビューもそう褒められた動機で始めたものではなかった気がします。
僕の攻撃的性格というのは、もはや本人も手を焼いているレベルなので、読んだ皆様がどう感じていたかも想像は難しくありません。
Amazonがいつか僕を追放することは、正直想定はしていました。
(ただ、僕がレビューとして書いたことと無関係な揉め事でこんな事態になることは想像していませんでしたが)
Amazonは過去レビューの一覧を参照しにくいようにしたり、得票数が多くてもレビュー上位に止まりにくくしたり、
「売名行為」を目的とした名物レビュアーが出てこないように気を遣っていた気がします。
(そういえば自己宣伝が大好きな千葉雅也は僕をそのような「売名」人間だと思っていたようでした。
世の中みんな自分と同種の人間しかいないと考えている単細胞な人間は本当に幸せですよね。
しかし、そういう奴こそが自分と異なる価値観を弾圧するのです)
僕が今回皆様からコメントを頂いて感じたことは、
ストイックに応援してくれる方の声と連携することなく、孤独に言論活動を続けていたことには問題もあったということです。
応援する声に耳を閉ざしたため、僕に届くのは感情的反発や嫌がらせ行為ばかりになりました。
そのことが、反対勢力に自らが多数派であると確信する材料を与えて、僕への攻撃を楽にしていたように思います。
だからこそ、「オルガン」や「週刊俳句」と親しい俳人から倫理無用のメチャクチャな嫌がらせを受けることになったのだとわかりました。
結論を言いますと、Amazonレビュアーとしての僕「佐野波布一」はこれにて終了です。
僕の興味に任せてレビューを書こうとすると、時間がいくらあっても足りないことがわかりました。
また、攻撃すべき不愉快な本もますます増えていくだけに感じます。
これからは、レビュー活動だけでなく、文学や思想などのジャンルに興味を絞って、時事的なことから離れた論考も書いていきたいと考えています。
ただ、皆様が僕の「敵」と認知している方々に対しては、僕がこのまま引き下がることはないと考えていただいて結構です。
この先の僕の活動に関しても、おそらく皆様に相談を仰ぐことがあると思います。
個人的な事情ですが、仕事も忙しく、体調もすぐれないので、ちょっと休暇をいただきたいと思います。
皆様のコメントで僕の名前が書きにくいこともわかったので、
新たな変換しやすい名前を考えて、他の手段もないためネット上で文章を発表しようと思います。
(たぶん、別のブログを立ち上げると思います)
死んだフリして別の場所でひっそりとやろうかと思っていたのですが、本気で僕の文章を読んでもいいと思っている方がいるように感じたので、
再始動が決定したら、このブログかどこかでお知らせするつもりです。
ここからは追悼コメントを下さった方一人一人に返答します。
高田獄舎さん
書き続けるのが僕の使命とまで言われるのは、なかなかに重いですね。
あなたの「言うべきことは言う」という態度は、見所があると思いますし、信頼できると思っています。
今回のことの原因があなたにもないわけではないので、責任を感じて僕の反撃に協力していただけるとありがたいですね。
まあ、すでにそんなことを言う必要もないのかもしれませんが。
ジョニーさん
「反体制」を体現したら、普通は死んじゃうじゃないですか。
あ、だから佐野波布一は死んだのですね。
あなたの応援は僕の活動に欠かせないものでした。
本当にありがとうございます。
佐々木貴子さん
俳人の方に詳しくなくて申し訳ないのですが、あなたの句集は田中裕明賞で四ツ谷龍に評価されていましたよね。
その四ツ谷を批判している僕に対して、このようなお言葉をいただけたことに感謝する以上に、
内輪意識で自分を甘やかさない高潔な精神に心が洗われました。
僕のためにAmazonに意見までしてくださるとは、労をおかけして申し訳なく思います。
元気なお子さんが生まれることを願っています。
菅原慎矢さん
クリックすると「poecri」というサイトが現れました。
芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞をお取りになっているのですね。
存じ上げていなくて申し訳ありませんが、僕が数少なく所有している句集に齋藤愼爾のものがあります。
ちょっと縁を感じてしまいました。
たこぽんさん
Amazonレビューが消去されたことで、たこぽんさんのコメントが消えてしまったことが口惜しく、申し訳ないと感じています。
千葉雅也の脅しにさらされていた僕に対してのあのコメントは僕のネット活動で得た宝の一つです。
〈フランス現代思想〉の商業的勢いもだいぶ落ちてきたところなので、
では現代思想は何を考えればいいのか、生産的な方面でも思索を展開したいと思っています。
引き続き僕の文章とおつきあいいただければ幸いです。
ルンバさん
「同意できるものもできないものもあったが、少なくとも根拠をあげた批判であることは間違いなく」と書いていただき、
しっかりと読んでいただいていたんだな、と有難く感じました。
「学者の地位にある者がこれほど議論ができないというのは驚きだった」とも書いてありますが、
本物の学者は当然ですが議論など問題なくできると思います。
僕が糾弾していた人間がインチキ学者だからそうなのであって、
学者の方一般があのようではないと思いますので、ご安心ください。
牟礼鯨さん
「夕立鯨油」という俳句のブログを書いておられる方なのですね。
僕のような俳句素人の文を読んでいただいて恐縮ですが、
「内輪」そのものは僕も否定しなくていいと思います。
(今回、僕も孤立して行動することの問題を実感しました)
問題は内輪の感覚に自足して、外部の批判を排斥する態度ですので、
「波風が常態であるべき」という牟礼鯨さんの考えが俳句界の常識になることを願っています。
ファンさん
僕にファンとは驚きましたが、Amazonの判定は無謬であり絶対であるようなので、復活は難しいです。
応援していただき、本当にありがとうございました。
藤本智子さん
俳人の方に応援していただけるだけでも有難いので、藤本さんが申し訳なく思う必要はないんですよ。
僕自身が応援してくださる方の声を聞こうとしなかったのが悪かったのです。
今回このように声を寄せていただけたことに感謝しています。
花田心作さん
花田さんも俳人の方のようですね。
Amazonレビューに評論を載せるのは法的問題になりかねないとのご指摘、ありがとうございます。
幸いにも問題になる前にAmazonから追放されたのかもしれないわけですね。
再出発へと強く背中を押してくださる花田さんの気持ちが強く響きました。
Amazonと関係なく活動をしようと思いますが、職業契約上の問題で本名は出せないんです。
またくだらなぬ名前で活動することになると思いますが、もうちょっとマシな名前をつける努力をします。
泥炭さん
俳人の方からこんなにコメントをいただき感謝しています。
そうですね、誰にも削除できない、というより、削除が妥当と思われない書き方で書いた方が良さそうですね。
泥炭さんのお考えが深められるようなものが今後も書けたらと思います。
Tukinamiさん
佐野波布一は論理の場にしかいないから、そこでしか佐野波布一は殺せない、とのお言葉は正論です。
論理とともにある人はそのように考えられるのですが、
学者だったり論客だったりするくせに、論理より自己顕示や自己宣伝によって自己承認をただ得たい人がいかに多いかということです。
ポストモダンは悪い面ばかりではないのはもちろんですが、あまりに「そう言っていればいいんだ」という
アホのための便利ツールになってしまって、もはや単なるファッションでしかないことが問題です。
思想内容と関わりなく、日本における「現象」としてのポストモダンがナルシシズムにしか行きつかないことを僕は批判したいのです。
けんじゅさん
個人の中傷でレビューの全削除は考えにくいとのこと、仰ることはよくわかります。
ただ、大学などの組織が関与するほど僕は大物ではありません。
これまでの蓄積があった上で、今回の事態になったことは僕も認めざるをえません。
ですが、中傷者が引き金をひいたことも間違いのないことです。
わざわざ僕のトラブルについて考えてくださり感謝しています。
アマゾンレビューアーさん
僕がブログにレビューを掲載したことが削除の原因なんでしょうか。
ならば、Amazonはそう回答すると思うのですが、そうすると僕がブログをやめたら復活させなくてはいけなくなります。
前述したように、Amazonは前々からクレーム対応をさせられる批判的なレビュアーを追放したかったと思います。
謝罪して復活するならいくらでもしますが、絶対に無理でしょう。
わざわざ対処を考えてくださり、ありがとうございます。
Shoさん
Shoさんの書かれたことは全くその通りだと感じます。
仰るとおり、場所や形態を変えて続けようと思いますので、
その時は内容に関してなどご意見もお聞かせください。
現時点でコメントをくださった方は以上です。
本当にありがとうございました。
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殺された佐野波布一に代わって
去る7月18日の佐野波布一の死は私たちに多大な悲しみと憤りをもたらしました。
Amazonレビュアーとして生きた彼にとって、Amazonレビューが投稿できないことは水を失った魚に等しく、
死すべき運命をただ享受するよりほかに選ぶべき手段は残されていませんでした。
Amazonに問い合わせたところ、ある暴漢の中傷によることを否定しなかったので、
私たちは佐野波布一の死が、その暴漢によってもたらされたことを疑いません。
その暴漢自身がAmazonレビューに何かを書かれたわけでもないだけに、
どうしてAmazonレビューを消去させなくてはならなかったのでしょう。
この国には論理で返答できなくなると、
権力や多数派であることを背景にした「暴力」で応じて良いという「文化」があります。
普段は政権批判や弾圧批判めいたことをしている人も、身内のこういう「暴力」には知らん顔です。
私たち遺族は俳人のみなさんが佐野波布一の死について知らん顔をして過ごすような気がしています。
このような出来事に目を閉ざしておけば、佐野波布一が指摘した内輪主義の持つ排他性と向き合わなくてすむのですから。
他者に暴力で応じる人が研究者や詩人の顔をしている国を、私たちは軽蔑します。
俳句に関心のない 読者の方々も少なくないでしょう。
どなたであっても構いません、佐野波布一を悼む方がもしおられるなら、
焼香の代わりにコメント欄を開きますので、供養のコメントでもお寄せください。
(コメントには認可がありますので、不掲載希望の方はそうご記入ください)
また、犯人である暴漢とその一味についてご存知のことがある方から情報をいただければ幸いです。
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全削除への
佐野波布一のコメント
突然の一律削除は「暴力」でしかない
どうも、佐野波布一と申します。
今朝、僕のAmazonレビューが全削除されていることに気づきました。
アクセスしてなかったので、もしかしたら昨日から消えてたのかもしれませんが、
これがAmazonの自発的行為ではないことは、新たなレビューをアップしていなかった時期なので、誰が考えてもすぐにわかります。
おそらく、一人や二人の抗議ではこのようなことにはならないと思いますので、
一定の人数が同時に徒党を組んで、「赤信号みんなで渡ればこわくない」とばかりに僕の言論を弾圧する運動をしたのでしょう。
タイミングからして、自分たちが犯人だと類推されても構わないということでしょうが、
Amazonレビュー上で生じた問題でもないことを理由に、なぜAmazonレビューが消去されなければならないのか、
僕にはこの不条理が納得できないのですが、
おそらく、こういうことを「ざまあみろ」としか思わない奴が一定数いるのだとわかりました。
(もちろん久留島元が無関係ということはありえないと言い切れますが、
これ以上返答しないとか言っておいてやることが中傷を弄した弾圧行為とは、どこまでクズなんだコイツは)
千葉雅也のレビューの時でもわかる通り、Amazonは自らのガイドラインに違反していないと審査して判断したにもかかわらず、
著者クレームがあったりすると、レビューを消去します。
それでも再度の掲載が可能であるわけですので、
つまりは自分たちが責任を負いたくないがための「その場対応」であるのですが、
今回も同様のクレームを受けた「その場対応」のつもりでAmazonは軽々しく僕のレビューを全削除したのでしょう。
Amazonには現在問い合わせ中ですが、
ヤツらは情報公開を絶対にしない暴力的な集団なので、
適当なことを返答してごまかすのは目に見えてます。
僕は週6日10時間以上働いています。
休日は日曜だけで、その時間の多くをレビュー活動に捧げてきました。
家族にも多大な迷惑をかけて成立していたのが僕のAmazonレビューです。
こんな結果になって妻にも応援してくれた親友にも申し訳ないと感じています。
正面から反論をせずに、裏から弾圧運動をする連中に対しては、
その程度のヤツラだとわかっているため、驚くほど何も感じませんが、
僕に知らせることもなく、一方の意見だけでレビューの全削除を行うAmazonのアンフェアで暴力的なやり方には、
呆れ果てるほかありません。
というか、Amazon側にどのような正当性があるのか本気で理解できません。
こんなことをする企業とは、正直つきあいたくもないのですが、
それはAmazonにとって願ったり叶ったりなのでしょう。
再掲載ができるか試してみたところ、
ガイドラインに抵触したので再掲載ができないという結果でした。
これまで掲載してきたくせに、1日にしてすべてのレビューが一律でガイドラインに抵触したとか、
本当にガイドラインがあればありえないことだとすぐにわかります。
それどころか、新たな商品にもレビューを書こうとすると、
申し訳ありませんが、お客様からのこの製品レビューを受け付けることができません。
本商品に投稿されたカスタマーレビュー ガイドラインに抵触した可能性があります。 カスタマーレビューは商品の批評が自由に投稿、閲覧できる仕組みであり、お客様に公平なご意見をご提供することを意図しているため、広告、プロモーションであるという誤解を招く可能性が高いとみなされるものは掲載を中止する場合があります。
という表示が出ます。
過去に投稿したこともない商品なのに「投稿された」ことになっていて、ガイドラインに抵触したとか言われます。
もうウンザリです。
僕が何の「広告、プロモーション」をしたというのでしょうか。
ちょうどレビュー活動にも飽きてきたので、今後のことを考える機会にしようと思います。
【2020年7月 南井三鷹による追記】
最近読み返して気づいたので追記します。
佐野波布一のAmazonレビュー全削除については、上で述べているように、
タイミング的に久留島氏の関与を疑いましたが、
あまりに事が早く動きすぎるのと、久留島氏本人の無関係だという言葉から、
千葉雅也の通報が最大の原因であることをAmazonに問い詰め、確信を得ました。
久留島氏の態度にも問題はありましたが、今は彼の関与があったとは思っていません。
久留島氏にはご迷惑をおかけしました。
佐野波布一のコメント
久留島元という人物に対する証明4つ
どうも、佐野波布一と申します。
先日、久留島元という京都精華大学に籍を置く研究者から悪口を言われ、
それに対する説明を要求したところ、久留島は説明になっていない身勝手な暴論を展開したあと、
自分から悪口を言ってきたくせに、これ以上は不毛だから返答しないと「ブロック」同然の扱いをかましてきました。
僕と妻は久留島のルール無用のふるまいに「なんて最低な態度なんだ」と憤り、朝まで寝つくことができませんでした。
(残念ながら僕には日曜しか休日がありません)
この文章は主に久留島元に宛てたもので、他の方々には退屈だと思われますので、
興味のない方は読み飛ばしていただきたいと思っています。
それでも一応は第三者にもわかるように手続きは取っておこうと思います。
まず、久留島の悪口をもう一度掲載しておきます。
佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。
これに対し、僕はいくつかの点について説明を要求しました。
久留島は自ら論点を4つに整理して、それぞれに応答するフリをしながら、支離滅裂なことを書き綴りました。
久留島が自身のブログ「曾呂利亭雑記」(http://sorori-tei-zakki.blogspot.com)の7月15日付で、僕の文章を以下のようにまとめています。
?
アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。
僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。
?
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
?
意味がわからないのは、
「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。
「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、
?
そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。
僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。
まず言っておく必要があるのは、上記は僕の文章からのコピーで構成されているにもかかわらず、
久留島が整理した論点じたいにすでに捏造が行われていたり、
論点のすり替えが行われていたりすることです。
それが彼の読解力の不足によるのか、意図的な汚いミスリードによるのか、僕には判断がつきませんが、
こちらが説明を要求したことに答えるのではなく、話をズラしていては回答にならないことは言うまでもありません。
まず?について久留島はこんなふうに回答しました。
?
これについては私の認識がゆるかったので、やや訂正すべきかと思います。
佐野波さんの膨大な書評すべてを閲する労を怠ったため認識が雑だったことは申し訳ないのですが、「サブカル的発想に富んだ舞城王太郎やたら持ち上げられた。」「サブカル的なファッション俳句」「「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界」といった評言から、サブカル的感性・ライトノベルに対する評価の低さを読み取ったうえで、「本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。」とあり、
「アート」>「サブカル」
といった図式を持っていると判断したものです。
もちろん「サブカル的であっても、それだけでは否定しません。」という発言もあるので、
サブカルに対する低評価からサブカル的感性の俳句に手厳しい
とでもすべきだったでしょうか。
自分の認識が間違っていたのに、「私の認識がゆるかった」と自らを甘やかし、
間違いを認めるのではなく、「やや訂正すべきかと思います」などと基本の主張は間違っていないかのように書いています。
あのね、間違いは間違いなんですよ。
だいたい「アート」>「サブカル」とか言いますけど、アートをサブカルより上に評価する価値観って、一般的じゃないですか?
それだけで「「サブカルは文学ではない」という強固な価値観」などと言われなければならないのでしょうか。
まあ、ひとつハッキリしたことは、久留島自身は「サブカル」>「アート」という価値観を持っていて、
サブカル的感性による俳句はアート以上にすばらしいと考えているということです。
おっと、ちょっと調べたら、京都精華大学ってマンガ学部があるんですね。
なるほど、自分の大学での世渡りの都合が影響しているわけですか。
久留島ってヤツの抜け目がないことがよーくわかりましたが、そんな己の立身出世事情で僕のすることに文句を言うのはお門違いです。
証明終わり。
証明? 久留島元はサブカルをアートより上位に置く価値観の持ち主であり、サブカル的感性の俳句を高評価するため、「オルガン」連中の俳句に肩入れしている。
では、次に?へと移りましょう。
ここで久留島の説明を見る前に、僕自身が書いた文章を引用させてください。
いかに久留島が編集作業によって僕の文章を捏造したかがよくわかります。
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、
これに悪意を感じないわけにはいきません。
そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、
僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。
(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。
「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。
たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、
その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。
その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。
普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。
上記の文章を見ればわかる通り、青木亮人に「寄生虫」と書いたことがやりすぎであることは僕も認めています。
その部分と「人格に否定」と言うが僕が誰にそんなことを行なったのか、という文章は段落を分けていますし、
「また」と別の話とわかる接続詞を入れています。
それなのに久留島はその二つの話を意図的に接合して、「人格否定」から話をそらして「寄生虫」の話へと持っていくのです。
もう一度、久留島の整理した文を見てください。
?
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
このように、最後の文が前の段落の続きであるかのようにくっつけています。別々の内容をくっつけて、「人格否定」の話を強引に「寄生虫」のことにつなげる手口です。
では、久留島のインチキ回答を見てください。
?
については、何をかいわんや、Amazonでは消したけどブログには載せているのですから、評言として看過しがたいのは言うまでもありません。
青木さんの研究上の業績については、国文学論文目録データベースでも検索していただければ多数ヒットします。
青木さんは私が知っている限りでもトップクラスに筆の速い研究者であり、論文数だけでも抜きんでた存在です。佐野波という人物がどんなに知識人ぶってもまったく研究の実態がわかっていないことは明らかです。
また、40歳未満の新進俳文学研究者に贈られる「柿衞賞」の第17回受賞者であることからも、(佐野波さん個人の素人的判断は措いて)すぐれた研究者であると認められた存在であることは自明です。
ところが当該の文中では「微妙な記述」どころか「寄生虫」という罵倒は5回も登場しており、およそ簡単に人を「寄生虫」呼ばわりする人物が、「否定」と「批判」の区別を人に説いて聞かせるという凄惨な喜劇に頭を抱えたくなります。
結局、僕が落ち度を認めている「寄生虫」のことを蒸し返しているだけで、僕が説明を要求した「人格否定」についてはごまかして終わっています。
最初に言っておくべきでしたが、僕が自分の文章を見直してみたところ、
僕は青木について「研究業績のない」などと書いていないのです。
僕の文章では「研究での目立った活躍はなく」と書いているだけです。
専門的な国文学データベースで検索しないとヒットしない論文をいくつ書いていようが、
「目立った活躍」ではないわけですから、僕の書いたことが間違いだとは言えないわけです。
僕の書いていないことを捏造しておいて、その捏造した文章に立脚して僕の悪口を言うような人物が、
研究者の資質があろうはずがありません。
久留島こそが大学の寄生虫であることは間違いないので、さっさと辞めて社会人としての常識を学ぶべきだと思います。
こういう他人の文章を捏造したり、勝手に削ったりくっつけたりして内容をズラして平気でいる態度だから、
鴇田智哉の助詞の勝手な入れ替えを「最強の文体」などと言えるのだとよくわかりました。
だいたい、人を「寄生虫」呼ばわりする人物が相手だからといって、
自分の書いたことへの説明をしなくていいなどということはありません。
それこそ僕の人格を否定した態度であることは明らかです。
僕は「寄生虫」という言葉は「口汚い」とは思いますが、真実であると今でも思っていますので訂正する気はありません。
相手が平気で悪口を書く人間だから、自分の吐いた悪口に対して説明を要求されようが応答は必要ない、などと考える人間こそが、
自分の書いたことに責任も負わず、相手の人格を否定する最低野郎であることは誰が見ても明らかなのではないでしょうか。
証明終わり。
証明? 久留島元は相手の論を平気で捏造し、悪口に対する説明要求にも回答を拒む、相手の人格をないがしろにする人物である。
次に?ですが、これに対しては久留島が本気で頭が悪いのかもしれませんが、
「分断主義」「排他主義」という言葉が辞書にあるかどうかという話にすり替えられています。
彼が引用した僕の文章にも「僕は存じ上げない」とあるように、自分の辞書に出てなかったので僕が知らないと言っているだけの文章ですよ。
誰が「そんな言葉は辞書に載っていない」などと書いたのでしょうか?
コイツは本気で日本語が読めないのでしょうか。
?
え、辞書にないのか、と思ってとりいそぎ『日本国語大辞典』を調べたところ、たしかに分断、排他はあっても排他主義はありませんでした。ただネット上では「実用日本語表現辞典」に掲載がありましたので引いておきます。
排他主義 読み方:はいたしゅぎ
自分と自分の仲間以外のものを容易に受け入れず、むしろ排斥するあり方や態度。他を排斥する主義。
これについては、「四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物」のように、一部の交友関係をとりあげて云々するやり口を上げれば充分でしょう。
恣意的に交流関係をあげ自分の気に入らないたちを特定団体のごとくあげつらう評は、これが俳壇内情にくわしい人物なら楽屋落ちというべきでしょうが「結社の人間」ことを重ねて強調するからにはネットで類推されたのでしょうか。
私は佐野波さんに友だちがいるかどうかは知りえませんが、「僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いる」ことを盾に、事実かどうかわからない(何があったかは、推して知るべし/つまり彼自身は関知していない)「大学から戒められるような千葉の行為」に「寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担する」俳人たちを、「クサレ言論弾圧俳人」と呼ぶような行為は、目に余ります。
インターネット上での言論行為において問題視されるのは「悪質性の高い」「中傷」を書き込んだ場合であり、政治的権力も持たない一般人がSNSにおいて拡散した程度で誹謗中傷される謂われはないと思います。
もう久留島の暴論に付き合うのもウンザリしますが、
「恣意的に交流関係をあげ云々するやり口」とか僕の批判をしていますけど、
四ツ谷は「オルフェウス」という匿名のAmazonレビュアーとして、関悦史と鴇田智哉の句集にレビューを書いています。
それが事実であることを四ツ谷は態度で認めているわけですから、「恣意的に」というのは事実に反しています。
だいたいネットだから立証が難しいだけで、ステマ行為はAmazonに禁止されている行為です。
僕が気に入らない人を特定団体としている、とか言いますが、
僕が捏造しているかのような書き方は図々しいのではないですか?
僕はたしかに俳句外部の人間ですから、ある程度の類推はあるかもしれません。
しかし僕の書いたレビューに対して、内輪事情を知る人から「その人間関係は事実でない」などという反論を見かけたこともありませんし、
久留島も「類推」とケチをつけるだけで事実でないとは言いません。
オマエだって実情を知っているだろうに、僕が勝手に嘘を書いているかのような論法でよく来るな、と思います。
外部にいる人間が内輪事情を書くには類推が入るのは仕方ないだけに、
こちらが外部にいることを盾にした汚い汚い汚いきたなーいやり口であると憤りを感じます。
決定的なのは、久留島の書いたことが何一つ僕が「排他主義」と言われることの妥当性を証明していないということです。
俳人の交友関係を書いたからって、どこが排他主義なんですか?
何も説明になっていないのに態度だけは偉そうなのはどういうこっちゃ。
マジでコイツのルールのないやり口をどうにかしてほしいです。
僕は今まで色々な人に文句を言われたり、攻撃されたりしましたが、久留島はその中で間違いなくルール無用の最低なヤツだと感じています。
(千葉雅也や高山れおなや「てーこく」の鴉越え、おめでとうございます)
「クサレ言論弾圧俳人」という言葉については、僕は彼らが謝罪をしなければこの言葉を使うと宣言してあったはずです。
被害者であるこちらのことは無視して、被害を糾弾する側の取るに足らない言葉遣いを「目に余る」とか、
オマエは本当に何様なんだ。
「政治的権力のない一般人がSNSで拡散した程度で誹謗中傷される謂われはない」という感覚も異常だと思います。
だいたいスクショまでアップして事実に立脚しているのが明らかな行為に対しての非難を「誹謗中傷」とは言いません。
それより四ツ谷の「頭がおかしい」というツイートは誰が見ても「誹謗中傷」です。
どうしてそこは触れずにスルーするのでしょうか?
また、その界隈でファンを動員できる有名人を、「政治権力のない」という理由で「一般人」とするのも身勝手な強弁だとしか思えませんし、
「SNSで拡散した程度」だと悪く言われるに値しないという感覚も理解できません。
以上でわかる通り、久留島の立場はまったくフェアなものではなく、どっぷり「週刊俳句」や「オルガン」の連中と同一化しています。
俳句界において「週刊俳句」や「オルガン」の俳人と僕とでは、どちらが「政治権力のない一般人」なのでしょう。
本当に世の中をナメた物言いだと思いました。
俳人が一般読者をよってたかってイジメておいて、それに文句を言うと、「誹謗中傷される謂われはない」ですか?
オマエ本当に一度生まれ直してこいよ。
千葉のツイートの内容が正しいとするなら、ちゃんとそれを証明してから使うべきです。
問題となるのは「悪質」な「中傷」とか書いていますが、それはいったい誰が判断するものなのですか?
僕にとっては千葉のツイートこそが「悪質」であり、「中傷」であったわけですし、
僕と同様に感じた人が一定数いたことも、僕に対するリアクションから証明されているはずだと思うのですが。
本当に久留島は自己中心的で非倫理的な言い分を平気で垂れ流す最低な奴です。
LINEいじめでクラスメイトを不登校に追い込んでも、久留島にとっては「政治的権力がない一般人」のすることだから問題ないわけです。
(もちろん、それが「悪質」だと判断されるのは、自殺のような取り返しのつかない事態が起きた後のことです。
つまり、僕が彼らのリツイートによって遺書を残して自殺していれば、千葉や彼らの行為は「悪質」と認定されるはずです)
結局久留島にとっては僕のやることはすべて悪いし、その僕に対してであれば何をしても悪くないというだけでしかありません。
「誰が」という視点だけで考えて、「行為」に対する客観的な視点をまったく持つこともありません。
内輪のすることは正しく、外部は悪だと考えているからこんな暴論が書けてしまうのです。
本当に大学は一部で社会不適合なクズを養っていると感じます。
そもそも僕が要求した説明は、僕に味方がいるのかというものでした。
個人の価値観をイデオロギーというのか、という問いもありました。
味方を作らない僕に「二分法で敵味方にわける低劣な分断主義、排他主義」という言葉は合わないという主張です。
なぜに「佐野波さんに友だちがいるかどうか」という話になっているのでしょう?
明らかに俳句界においての敵味方の話をしているわけですから、友達の有無など無関係だと思うのですが。
久留島にはこういう姑息な論点のズラしが多すぎます。
しかし、これで敵と味方に分けた二分法で物事を判断しているのが久留島自身だということは証明されたと思います。
証明終わり。
証明? 久留島元は他人に排他主義と濡れ衣を着せて、内輪の行為は正義、外部の行為は悪という自分自身の排他主義的な価値観をごまかす人間である。
あ、ちなみに「分断主義」という言葉の説明が書いてないということは、辞書になかったんですね。
半分しか見つからないのに、よく反論として書くよな、ホント。
?について書くのも寝不足なので疲れてきましたが、
とりあえず頭の悪い人間を相手にするにはきちんとした手続きをとることが重要です。
?
これは?、?で充分例証できると思いますが、小津夜景さんを「おフランスかぶれのセレブおばさん」などと揶揄する言動が、「作品に現れる知性や能力の評価」を越えた人格誹謗に近いと私は思います。
もとより私は自分自身が中立だと思ったことなどありませんが、私こそ佐野波さんとは一面識もなく、佐野波さんの文章からその立ち位置を類推するだけに過ぎません。
しかし「AというならBはどうなんだ!」というのは、論理のすりかえを感じます。
これは私見ですが、レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます。たとえば高浜虚子『五百句』のレビューに、虚子は秋桜子を排除した人物で云々と作家の行動に関わることばかり書かれていたら、私はうんざりします。
また、小津さんの知識において佐野波さんが垂れ流している「「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうか」「「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。」などという印象操作は、前者は「グーグルで検索」すると英文法に関するページが多くヒットしますし、後者は日中辞典や芥川龍之介の文章がヒットすることを申し添えておきます。
大前提の話をしておきますが、「人格否定」というのは人間としての人格を認めていないということです。
つまり、「朝鮮人はゴキ◯◯だ」のようなものです。
「おフランスかぶれのセレブおばさん」は小津夜景のフランス「趣味」を揶揄はしていますが、
それが明らかに「人格」を問題にしているわけではないので、
「人格誹謗に近い」というのは行きすぎた久留島の主観的判断でしかありません。
(コソコソと人格「否定」でなく「誹謗」に言い換えるあたりも卑怯なやり口ですよね)
だいたい久留島自身が自分で「揶揄」と書いているではないですか。
なんで「揶揄」だと自分で認識しているのに「人格誹謗に近い」などと書いてしまうのでしょうか。
こういう支離滅裂な文章が、相手憎しで理性を失った物言いであることを証明していると思います。
久留島が「レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます」と
書いているのは僕のどの記述に対してなのかよくわからないのですが、
クサレ俳人の言論弾圧行為については僕のブログに「コメント」として出しているものなので、
「レビューという場」ではありませんけどね。
仮にそこでもダメだとなると、じゃあどこで糾弾すればいいのかを久留島には答えてほしいですね。
ネット上での「レビューという場」しかフィールドを持たない僕に、
「レビューという場」で俳人を糾弾するな、と書くことは、僕の言論行為そのものを禁じたのと同じことです。
つまり、久留島は僕に対する言論弾圧の欲望をしれっと語ったわけです。
いやあ、本当に最低このうえないですね。
自分がアカデミズムの寄生虫だからって、一般人の言論を禁じる権利がオマエにあるのかと言いたいです。
ちなみに「倒装法」の検索の件など、相変わらず論理の核心ではなく瑣末なことにばかり文句を言うのが好きなようですが、
久留島が引用している僕の文に「他の論文は出てきません」とあるように、
僕が「論文」を対象として書いているのは明らかです。
「日中辞典や芥川龍之介の文章」は当然僕も検索したので見ていますが、いやはや、これが「論文」だとは知りませんでした。
(そもそも芥川の文章は小津が参考文献に挙げているので読んでますよ)
「類像性」が英文法の本でヒットしたらしいですが、じゃあ、詩を語るのにはあまり使わない語なんですよね。
英文法の本を読まない僕が「聞き覚え」がないのも、別に問題はないと思うのですが。
こういうのを「印象操作」とか言って僕の批判に使うのは、もう言い飽きましたが最低のやり口だと思います。
論の骨子が理解できないからって、わかりそうなところに適当に文句をつけるようなやり方は、
終始悪意しか感じませんので、非常に不愉快です。
これほど支離滅裂な説明とも言えない暴論を書いておいて、
久留島はこんな一方的な物言いで締めくくっていきます。
俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。
追記.なお、対談記事を読んでいただければわかるとおり、佐野波さんへの言及は対談の本筋とは関わらない部分で、獄舎さんのたってのご希望で掲載したものです
自分から悪口を言っておいて、僕が説明を要求したら、一方的に言いたいことを言って「これきりにしたいと思います」ですって!
「ご寛恕」などできるはずがありませんので、僕はオマエが謝罪するまで許すことはないと言っておきます。
(いずれ機会があれば、面と向かってお話ししましょう)
あげく「本筋とは関わらない部分」だとか高田獄舎の希望で掲載したとか言い訳をしていますが、
それがオマエの発言を免罪する理由になると思っているのか、と言いたいです。
だいたい久留島は高田が二人の対談記事を、「週刊俳句」の掲載前に自分のブログに掲載したことに対し、
「仁義を踏み破り、企画の横取り」だなどと文句をツイートしていたはずです。
「私自身の評言が、勝手に、意図しない形で公開されるのは不愉快である」と高田を糾弾していたりもしますが、
僕の文章を捏造して文句を言うようなヤツがよくも言ったものだと呆れ果てます。
手柄になるところは俺の権利に属する、と主張しながら、危ういところになると高田が希望したのだと逃げを打つ。
こういう人間をどう信用したら良いのでしょうか。
ひとつハッキリしたことは「子宮回帰」のようなサブカル的感性を俳句に持ち込みたがる人間には、
まともな論理は書けないということです。
自己中心の子宮世界を生きている「つながりたがりの幼稚園児」なので、
いつでも自分から見た視点を絶対化し、内輪の世界を絶対視してしまいます。
そういう人にとって外部からの批判はすべて悪でしかありませんので、
イベントをやったり、ディナーショーをやったりして、内輪意識でファンを選別し、
猿山の大将の気分に浸りつつ外部の視点を拒否する「引きこもりメンタリティ」となるのは火を見るより明らかです。
証明終わり。
証明? 久留島元は批判言論の弾圧を欲望しているため、言論弾圧を肯定する人間であり、「子宮」大好きの幼稚園児であるため、論理はもちろん、おそらく日本語もイマイチ使いこなせていない。
シンプルな話ですが、他人から文句を言われたくなければ、自己反省をすればいいと思うのです。
久留島の駄文は、僕の指摘を受けた後に自分自身で読み直しても反省できる明白な問題点に富んでいます。
少しでも自分の知性にプライドがあるならば、自分の書いた文章に責任ある態度を取るべきだと思います。
あなたの書いたものを読むのは内輪の人物に限らない、ということを強く意識することをお勧めします。
(7月17日追記)
久留島の書いたことで引っかかることがあります。
久留島は「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。」
などと書いているのですが、
僕の文章を見ていただければわかることですが、
僕は悪口を書いた久留島に説明を求めはしましたが、よく知らない彼のことを誹謗中傷などしていないのです。
久留島はなぜ「このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあい」などと書くのでしょうか。
彼は過去に匿名や別の名前で僕と何かやりとりをしたことでもあるのでしょうか。
そうでなければ、これは捏造でしかありません。
要するに、久留島にとっては説明を求められることさえ「誹謗中傷」となるということです。
こんな連中が「批判」と「否定」もしくは「誹謗」の区別がつかないのも当然です。
おまけに自分が「誹謗中傷」をしていることに関して自覚的なのはタチが悪すぎるのではないでしょうか。
僕は久留島から一方的に根拠なき悪口を言われたと思っていますが、
(もちろん、今回の文章を含めたとしても、僕の方は彼の文章を根拠に「証明」をしているので、誹謗中傷ではありません)
ハッキリ言って、一部の俳人のマナーの悪さはどこの界隈でもありえないレベルです。
僕は久留島がこんなクソな態度を平気でとれるのは、
僕に対してなら、どんな酷いことをしても喝采してくれる腐った仲間がいる、
内輪という「子宮」に守られていると確信しているからだと思います。
こういうマナーのない奴を受け入れている人間が、
いかにイジメじみた行為を助長しているかを、それ以外のマトモな俳人の方々には真剣に考えていただきたいと切に願います。
そうでないと、俳人すべてがこういう人間と同類だと考えざるをえなくなります。
こちらがAmazonガイドラインなどの一定のルールにおいて著作を批判をしているにもかかわらず、
批判者にはルール無用、マナー無用で排撃していいなどと考えている人間については、
「人格」について批判をする以外ないと考えます。
僕が「子宮」大好きのサブカル的「引きこもり」感性を批判するのは、
それこそが内輪を全体化する日本型ファシズムの温床であるからです。
(研究者が「現在」にコミットすることを高らかに宣言する末期症状!)
戦中に詩が果たした役割を反省してきた戦後詩人たちが世を去っていき、
バブルに踊った無知な世代が過去の汚点に学ぶこともなく、
批判を排除した日本的な内輪陶酔によって、「いつか来た道」へと帰っていくのは、
もはやどうしようもないのかと半ば諦めています。
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久留島元の根拠なき中傷に対して説明を要求します
どうも、佐野波布一と申します。
俳句についてのコメントが最近多くて自分でも辟易としていますが、
久留島元とかいうよく知らない人から、事実でないレッテル貼りをされていることが看過できませんでした。
調べてみたら久留島は京都精華大学に属する研究者のようなのですが、
そういう人が文章に基づかない「決めつけ」で文句を書くのは問題だと思います。
問題の文章は「週刊俳句」や高田獄舎のブログ「愚人正機」(http://guzinsyouki.blog.fc2.com/blog-entry-37.html)にあります。
佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。
久留島は僕が「サブカルは文学ではない」という「強固な価値観」でサブカル的感性の俳句を「一律否定」したと言っていますが、
いつ僕がそんなことをしたのでしょうか。
たとえば僕は富野由悠季監督のアニメ映画「伝説巨神イデオン」についてのレビューで、この作品を「文学」だと語っています。
アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。
僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。
僕の批判をただの「サブカル排除」へと読み換えて批判するのは、あまりに不正確で安直なのではないでしょうか。
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、
これに悪意を感じないわけにはいきません。
そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、
僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。
(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。
「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。
たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、
その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。
その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。
普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。
いいかげん話のすり替えをやめていただきたいものです。
僕が丁寧に本文引用をしているのは見ればわかるはずなのに、
そういう「事実」を無視したかのように文句だけ書く人を、どうしたらいいのでしょうか。
意味がわからないのは、
「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。
「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、
お笑い種なのは、「敵味方にわける」とか言っている部分です。
僕には味方と言えるような人はいません。
どうやって二分法で分けるというのでしょうか。
いや、僕に味方がいるなら、どこにいるのか教えていただきたいものです。
誰が僕の味方にあたるのですか?
『自生地』を批判した人間は僕の味方だ、などと僕がどこに書いたのでしょうか。
「排他」という言葉を辞書で引くと、「仲間でない者を排斥すること」とありますので、
仲間を作らない孤独な人に使うのは不適切です。
『自生地』を評価した人の俳句観は信用できない、というのは僕の意見ですし、個人的な思いです。
それに立脚して評価した人間は「信用できない」としても、僕個人の意見であることはハッキリしています。
そこのどこに「主義」などが介在しているというのでしょう。
自分の意見を言うだけでイデオロギーを振り回しているとでも言うのでしょうか。
久留島のツイッターなど見たくはないのですが、その辺りの説明をきちんとしていただきたいので、
sorori名義のツイッターでもいいので、研究者ならしっかりと論理的に説明して後始末をしてください。
そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。
僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。
作品批判から作者の資質に筆が及ぶことよりも、批判言説そのものを「集団で」弾圧する方が罪が軽いと言うのでしょうか。
それだけでなく、彼らは僕の謝罪要求に関しても無視し続けています。
僕に対して根拠もなく「頭がおかしい」とツイートした四ツ谷龍は、まさに人格否定を行なったわけですが、
久留島はそういう「俳句界の内輪」の人間に対しては同様の文句を言うことは絶対にありません。
おまえこそが敵と味方の二分法で低劣な二枚舌を弄している排他的な人間ではないか、と思われても仕方ないと思います。
最近、僕は嵯峨直樹という歌人の『みずからの火』という歌集にレビューを書きました。
それに対して嵯峨本人がブログで、素人である僕の厳しい批判にいろいろ文句を言いたいのを我慢して、生産的な応答をしていました。
しかし俳人は本人が直接応じることを避けて、仲間が出てきて文句を言うことが常態化しています。
関悦史の批判をすれば高山れおなが文句を言う。
鴇田智哉の批判をすれば四ツ谷龍が「オルフェウス」という匿名レビュアーとして文句を言う。
福田若之を批判すれば、関やオルガンの連中が言論弾圧リツイートを拡散する。
青木亮人の真実を暴露すれば久留島元が文句を言う。
こんなことばかりです。
嵯峨は「短歌界は健全です」と書いていたと思うのですが、この発言には「俳句界と違って」という意味が含まれていたように感じました。
こういう批判封じに仲間が出てくることこそが、内輪集団の「排外的行為」と批判されるにふさわしいのではないでしょうか。
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佐野波布一のコメント
エセレブ俳人のインテリ風嘘だらけ論は読むに耐えない
僕は「オルガン」という俳句同人誌を手に取ったこともないのですが、
その中心人物と目される鴇田智哉、田島健一、福田若之の句集のレビューを書いたことがあるので、
彼らの作品の特徴はなんとなく想像がつきますが、
鴇田のように意味を不明瞭にして雰囲気だけを共有する作風が「オルガン調」などと呼ばれているようなのです。
僕は彼らの作品がいかに時代遅れのポストモダン的な言語遊戯に根ざしているかを解き明かしています。
「オルガン調」を問題とするのなら、内実のない言語遊戯について議論をしなければ意味がないわけですが、
実際には不毛な議論しか行われていないことが、7月8日に「週刊俳句」のウェブ上に掲載された
小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/07/blog-post_8.html)という文章でわかりました。
(初出は『豆の木』第19号(2018年5月20日)だそうです)
僕はこの小津夜景という人の本にレビューを書いています。
そこにも書いたように、小津の作風は鴇田智哉の模倣に見えますし、
彼女の『フラワーズ・カンフー』の帯文は鴇田が書いているので、
小津が鴇田(やオルガン)と非常に近いところにいる、ほぼ内輪の人物であることは念頭に置いておく必要があります。
作風が近いということは、鴇田に影響された宮本の弁護は、小津にとって迂遠な「自己弁護」でもあるということです。
「週刊俳句」あたりに書いている人たちは、この手の「内輪弁護」を慎む意識が全くないのですが、
僕のように、擁護してくれる内輪の存在しない孤独な言論人からすると、
「仲間」だからと見苦しいまでの内輪擁護を慎まない態度には、
自分たちが甘ーいあまーい、お母ちゃんのおっぱいから離れられない幼稚園児同然のメンタリティであることを、
世の中に露出して平気でいるようにしか感じません。
まあ、小津の場合は身内擁護というより、迂遠な「自己弁護」が目的であるため、
幼稚園児のようなピュアさもなく、より不愉快ではあるのですが。
僕が小津の論に言っておかなくてはならない、と感じたのは、
小津が「〜における」などと題をつけ、参考文献も提示するような学術論文であるかのような体裁で、
まったく論理的でもない欠陥だらけの論を書いていることに対して、どうせ俳人たちには批判する能力がないと思ったからです。
こういうアカデミックな手続きをした「こけおどし」が通用するとなると、俳句界にとっても利益はないと思います。
まず、小津の「オルガン調」弁護の主旨をまとめておきます。
小津は「オルガン調」を「鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ」として、
宮本佳世乃の句を具体例として提示します。
(ちなみに「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうかね)
くちなはに枝の綻びつつまはる
ふくろふのまんなかに木の虚のある
小津はこれらの句が「くちなはの枝に綻びつつまはる」「木の虚のまんなかにふくろふのある」とあるところを、
「語順を入れ替えることによって詩趣を生み出」したものだとしています。
そもそも、語順の入れ替えにこそ「詩趣」の源泉があるという主張が、決定的な錯誤であると思えるのですが、
こういう言語遊戯即詩的であるという発想こそが、オルガンと同種の感覚の持ち主であることを雄弁に物語っています。
まず小津のインチキ議論の第1のポイントは、「オルガン調」とは語順の入れ替えのことを言うのか、ということです。
僕であれば、オルガン調とは「語順の入れ替えが実感に乏しい言語遊戯として行われている」と定義します。
実は小津はこの文章の中で「オルガン調」の内容定義をしっかりとやっていません。
レトリックでごまかしながら、「オルガン調」=「語順の入れ替え」として議論を進めていきます。
このような問題の矮小化が詐術であることに、俳人であればすぐに気がつかなくてはいけません。
最初にインチキな定義を通してしまえば、あとの議論は簡単です。
なにしろ、どんな形式であれ、詩において語順の入れ替えなどは珍しくもないからです。
そして小津はくだらない茶番を進めていきます。
ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している。
小津はこんなことを述べるのですが、「語順の入れ替えで詩趣を生み出す」のは鴇田が元祖ではなく、
芭蕉が杜甫の「倒装法」を真似したことが最初だとするのです。
「倒装法」などと名前をつけて提示すると、専門技法であるかのように見えるわけですが、
このような「こけおどし」に騙されてはいけません。
前述したように、語順の入れ替えで詩的効果を高めることなど、古今東西の詩を探せばいくらでも出てくるはずだからです。
小津は「倒装法」を紹介した久保忠夫の文章を参考文献として挙げていますが、
そもそも久保忠夫を調べると、漢詩の研究者ではなく近代詩の研究者のようです。
また、「倒装法」とは杜甫の漢詩の注釈書で使われている言葉であるようですが、
「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。
つまり、このような言葉を使っている人は一般にはほとんどいないと考えられます。
こういうマニアックな文献だけで「オルガン調」とは「倒装法」であり、そのルーツは芭蕉にあるから伝統的だ、
などという論理が成立するはずもありません。
少し考えればわかることですが、芭蕉が俳人として現在の地位にあるのは、杜甫からパクった「倒装法」のためではありません。
芭蕉の詩趣が語順の入れ替えから生まれたと考えているとしたら、小津の俳句観がどれだけ信用のできないものかわかるのではないでしょうか。
それなのに、芭蕉が語順の入れ替えをしている、鴇田も語順の入れ替えをしている、
だから鴇田は芭蕉に連なる伝統を受け継いでいるのだ、などという三段論法は稚拙極まりないとしか言いようがありません。
このような三段論法が成立するなら、インド音楽はシタールを使っている、ビートルズの「ノルウェイの森」ではシタールを使っている、
だからビートルズはインド音楽の伝統を受け継いでいるのだ、と言うのと同じことです。
小津が引用した文章で久保が芭蕉の「倒装法」について「どれほど成功をおさめてゐるかといふことになると、甚だ疑問である」と書いているように、
それ自体、成功していると評価しているわけでもないのです。
芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が「倒装法」であるかどうかも、久保がそう言っているだけで甚だ怪しいと思います。
自己弁護をするのに芭蕉というビッグネームを持ち出せば箔がつくと思ったのは容易に想像がつきますが、
こういう大学生のヘボ論文レベルのやり方には問題しか感じません。
誇大妄想家が集まっている「週刊俳句」に掲載される文章のレベルを云々するのも馬鹿馬鹿しいのですが、
このような猿知恵を慎むくらいの知性は持っていただきたいものです。
一応、専門的な議論もしておきましょうか。
「オルガン調」というものが本当に「倒装法」であると言えるのでしょうか?
僕はそれは間違っていると思います。
問題になっている杜甫の「秋興八首」の語順の入れ替えについて確認しましょう。
「倒装法」として例に挙げられているのは次の詩句です。
香稻啄殘鸚鵡粒(香稲啄余鸚鵡粒)
碧梧棲老鳳凰枝
この箇所について講談社学術文庫版の『杜甫全詩訳注(三)』では、次のような注釈で説明されています。
それぞれ「鸚鵡啄残香稲粒」「鳳凰棲老碧梧枝」の語順を入れ替え、「香稲」「碧梧」に焦点を合わせた表現。
岩波文庫の黒川洋一編の『杜甫詩選』では次のような説明があります。
普通にいえば「鸚鵡啄余香稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」とあるべきところを、「鸚鵡」と「香稲」、「鳳凰」と「碧梧」とをひっくり返して、奇抜な効果をねらったものである。
どちらにも「倒装法」などという言葉は使われていないので、やはり一般的に用いられる名称ではないわけですが、
僕が問題にしたいのは、このような語順の入れ替えの持つ意味が、日本語と中国語では全然違うということです。
中国文学者の吉川幸次郎が「膠着語の文学」で書いていることですが、
中国語は孤立語といって単語がモノシラブルで構成されていて、
「つまり意味の最小の単位である単語は、音声の最小の単位である一シラブル、ただそれだけであらわされる」ため、
中国語の一つ一つの語には断絶があるというのです。
孤立語が語の交換に対して柔軟であることは言うまでもありません。
中国は句の断絶性が強いため、次の語との関連は弱いので、それが転倒されてもそこまでの違和感は生まれないのです。
漢詩には音声上の法則、つまり平仄の決まりがあります。
それは決まった伴奏に乗せて歌うことを目的としていたからです。
「香稻」と「鸚鵡」、「碧梧」と「鳳凰」という入れ替えた名詞は、律詩の平仄二六同の法則に対応しています。
法則上、対応することが要求されている第2語と第6語の単語が入れ替わったとしても、
聞く側に対応関係は理解しやすく、読者の理解を困らせることは少ないと言えます。
しかし、膠着語である日本語ではそうはいきません。
吉川は膠着語について次のように説明します。
膠着語とは何であるか。私の考えによれば、言葉の流れが常に次に来たるべきものを予想し、予想された次のものにくっつき、流れ込もうとする態勢を、強度にとることである。いいかえれば、連続を以って言語の意欲とすることである。
そうした意欲は、まず、「てにをは」の存在となって現れる。
吉川は膠着語を「前なる語が、常に後なる語を予想する」連続性として整理しています。
そのため、日本語はダラダラと文が続く長文になりやすいのです。
「てにをは」などの助詞は続く語を予想させるため、助詞がくっついてしまえば日本語は語順を変えても意味が通ります。
つまり、助詞があるかぎり語順の入れ替えは日本語では意味がないことになります。
となると、意味を転倒させるには語順ではなく、くっついている助詞を入れ替えるほかなくなります。
さて、僕が鴇田などの俳句が「倒装法」などというものとは全く違うと思うのは、
それが孤立した名詞の交換ではなく、助詞の使い方に特徴があるからです。
僕は鴇田の『凧と円柱』のレビューで、すでに鴇田が語にくっつけるべき助詞を入れ替えていることを指摘しています。
本来あるべき助詞を入れ替えるということは、故意に読者の予想を裏切るわけですから、
読者を騙すトリックとしてやっていることになるわけです。
これが中国語と日本語の言語的な違いに由来することを無視した小津の論はまったくインチキでしかないわけです。
漢詩の「倒装法」なるものは、語順を入れ替えても元のかたちがすぐにわかりますが、
「オルガン調」では元のかたちはそれほど自明ではありません。
それは、「オルガン調」が作り手の自己満足を優先し、読者を欺くことを目的にしているからです。
この事実ひとつをとっても、「オルガン調」が「倒装法」にルーツを持つ伝統技法だという主張が、
いかに欺瞞であるかがよくわかるのではないでしょうか。
「膠着語の文学」が俳人にとっては興味深い読み物であることを僕は疑いません。
なぜなら吉川は日本語の性質に反発した文学として俳句を挙げているからです。
吉川は俳句を日本語の性質に逆らう文学形式だと把握し、その特徴を断絶に見ています。
断絶とはすなわち「切れ」であるわけです。
俳句における「切れ」つまり断絶がいかに日本的なものに対して否定的にはたらく生命線なのか、
志の高い俳人なら誰でも意識しなければいけないところでしょう。
俳人が内輪の仲間とつながることばかり考えていることを僕が軽蔑するのは、
このような俳句の「原理」を実行する資質に欠けていることを自ら証明しているからでもあるわけです。
(身内で寄り集まる連中が、自分たちで俳句地図を作って「俳句原理主義」を名乗っていたのはお笑い種だとわかりませんか?)
こういう「つながりたがりの幼稚園児」が本来あるべき俳句原理を否定していくのは必然です。
ここで小津夜景のインチキ論の第2のポイントを言っておくと、
「オルガン調」とは語順の入れ替えが問題ではなく、「切れ」の隠蔽にあるということです。
強い切れ字で切るべきところに「てにをは」などの助詞を入れて、「弱い切れ」へと入れ替えることで、
読者の後の予想をズラして意味を曖昧化するのが、鴇田もしくは「オルガン調」というものの欲望です。
もう一度、冒頭で小津が取り上げた宮本佳世乃の句を見直してみましょう。
「オルガン調」が読者を騙すことに重点を置いていることが、よくわかると思います。
くちなはに枝の綻びつつまはる
この句が、小津が指摘する通り「くちなはの枝に綻びつつまはる」を変形したものであるならば、
入れ替わっているのはやはり助詞の「の」と「に」であるのは明白です。
これが「倒装法」でもなければ、語順の入れ替えでもないことがおわかりいただけると思います。
助詞を入れ替えることで、助詞によって予想される後続の語をあるべき語でないところに接続しています。
海に続くドアを開けたら山に出たように読者には感じられるわけです。
文学をCGアートか何かと勘違いしているのでしょうか。
では、次の句はどうでしょう。
ふくろふのまんなかに木の虚のある
これを小津は「木の虚のまんなかにふくろふのある」として「話は簡単だ」と述べるのですが、
さて、こう名詞を入れ換えたところで意味がわかりやすくなっているでしょうか。
「ふくろふ」であるならば、どうして「いる」でなく「ある」となるのでしょうか。
ここには語順を入れ換えただけでは解決できない意味の脱臼があるはずですが、
結論ありきの小津のインチキ論ではそこが見過ごされています。
この句に関しては、語順の問題ではなく、「切れ」の問題として考えないと解決できないと思います。
つまり、読者へのわかりやすさを求めるのならば、「ふくろふやまんなかに木の虚のある」となるのではないでしょうか。
そして、このままの句であると、「まんなか」が何の「まんなか」なのかわからないため、さらに語順を変えて、
「ふくろふや木のまんなかに虚のある」としないと情景が描けません。
この手の込んだ細工が、いかに当たり前の情景を描くことからの「逃走」であるかがよく理解できると思います。
この技法の目的が「詩趣を生み出す」ことにあるとは僕には思えません。
CG的なメクラマシを「詩趣」などと感じる人の詩的感性がいかにインチキであるか、
俳句の文化伝統にプライドがあるなら絶対に騙されてはいけません。
このようにいかがわしい手法を使って俳句的な断絶を弱めてまで、
意味の脱臼を求める姿勢の先には何があるのでしょうか。
僕の予想では、彼らが模範としたいものは俳句ではなく現代詩となるはずです。
前々から現代詩コンプレックスを持った俳人がいることは知っていましたが、そういう人が「オルガン調」とやらに共感するのでしょう。
西洋の現代詩に憧れているから西洋の〈フランス現代思想〉もしくはポストモダン的な意味からの「逃走」という
時代遅れの産物に心惹かれてしまうのです。
こんなことに明け暮れた現代詩がどのような末路を辿ったかを知っている者からすれば、
今更俳句でそんなことを「新しい」と考えることの愚かさを指摘するほかありません。
だいたい、現代詩をやりたいなら現代詩を書けばいいのです。
俳句をある程度極めたわけでもないのに、現代詩っぽいことをやりたがるのは、
現代詩をやりたいのにその能力が足りないから、形式と技法に頼れる俳句を選んでいるだけに感じます。
小津夜景は漢詩の何たるかもわからずに、門外漢の俳人相手にファッション漢詩本などを出しています。
この手の人々は責任の生じる場所からズレて、好き勝手に趣味に浸ることを自由と考えているようですが、
この人がポストモダンに依拠した「おフランスかぶれのセレブおばさん」であることを忘れてはいけません。
小津の文章の最後に参考文献として挙げられている佐藤信夫『レトリックの意味論』という本は、
ソシュールやチョムスキーなどの西洋言語学に基づいた本で、漢字はもちろん、膠着語を視野に入れてはいません。
ポストモダンの「言語論的転回」にとっては重要でしょうが、そのまま俳句に役立つものではありませんし、
小津が持ち出した代換法は、「京都の夜」と「夜の京都」のように意味内容に変化がないものなので、
「オルガン調」の説明には不適切な例だと言えるでしょう。
出版が1996年であることを考えても、いかに小津が「死に体」のポストモダン思想に依拠した人間かが理解できるのではないでしょうか。
俳人の頭が悪いから侮られるのでしょうが、ポストモダンおばさんの漢詩を隠れ蓑にした牽強付会の論など、
インチキだと一蹴できないようでは俳句界の未来が思いやられます。
への佐野波布一のコメント
適切と思えない人を選者に起用する朝日新聞の不見識
どうも、佐野波布一と申します。
朝日新聞に一般公募の俳句から4人の選者が選んだ俳句を掲載する「朝日俳壇」というコーナーがあります。
そこで長らく選者を務めた俳句界の重鎮、金子兜太が亡くなって欠員が出たあとに、
その後釜に高山れおなが選ばれたと知り、
新聞を購読していない僕は7月8日の朝日新聞をコンビニで買ってみました。
高山れおなは以前に朝日俳壇のコラムを書いていて、すでに朝日新聞と「つて」があるのは知っていたので、
彼が選ばれたことにはそれほど疑問はなかったのですが、
朝日新聞の俳句に対するナメた認識に関しては正直不愉快さしか感じませんでした。
というのも、俳句の選者というのは単なる著名人の「興味」や「好み」で行われるべきものだとは思えないからです。
ある一定の理念のもとに結社の「先生」として後進を指導した経験を持っていたり、
実作や批評において広く尊敬される確固たる美意識を示している、
その実績においてこそ、その人の俳句の「選」というものが一般に通用することの秤となるのです。
しかし、高山は結社の先生として俳句の指導をしたことがないのはもちろん、
何かの賞の審査員などで確かな俳句の選をした実績もほとんどないのです。
その上、彼の実作者としての実力が一流と言えるかどうかという点にも大いに疑問が残ります。
他の選考者(大串章、稲畑汀子、長谷川櫂)と比べると見劣りすることは否めません。
高山は若手傍流集団のボス的地位にはありますが、それだけでは後者の条件にも見合う人物だとは評価できません。
金子兜太が前衛枠(そんな枠があるのか?)だと考えて、若手の前衛路線の人を選びたいにしても、
それならよっぽど賞の審査などを経験している関悦史を選んだ方が納得できる気がします。
まあ、マスコミ関係の仕事もしていて、朝日と「つて」があるから仕方ないのかもしれませんが、
高山がズレた俳句を評価して一般的な俳句を侮っている俳人であることは、
彼の同人誌「クプラス」の「いい俳句」特集に自ら寄せた文でもよくわかります。
「いい俳句」について、独自の意見という程のものもない。人々が「いい」とする句は、程度の差こそあれ大抵自分も「いい」と思う。この頃関心があるのは、「いいパイク」の方で、これはまず「わるい俳句」であることが前提となる。
俳句を「パイク」とズラしているのは、それが一般的には「わるい俳句」に見えるからです。
つまりは俳句らしくないけど面白い、というような価値観なのですが、
じゃあ前衛的な新しいものを好んでいるかといえば、
そんなことを言いながら、高山の実際の句作では過去の作品をプレテクストとしたものが主流なのです。
つまり、高山は「ズレ」を価値として評価する、今更ながらのポストモダン的な発想を評価している人なのです。
小さなズレを理解するにはプレテクストの理解が欠かせないのはオタクの世界と同じで、
ある種のオタク的知識が作品鑑賞の前提となるため、一般人や初心者とは縁遠い俳句観の持ち主であるのはハッキリしています。
僕は「週刊俳句」で関悦史に対して批判コメントをしたところ、この高山に俳句をやらない人間は俳句を語るな、とばかりに文句を言われました。
僕はこの発言に対して謝罪して退散したのですが、それでも「俳句は俳人にしかわからない」などという意識を持った人が、
新聞俳壇の選者にふさわしいとは到底思えません。
ですから、高山大先生にとっては、たいして俳句に詳しくもない一般人の俳句の選など、
心底気が進まなかったはずなので、「深く俳句を理解していない奴の句なんか読めるか」と強くつよーく固辞したに違いありませんが、
それにもかかわらず、こういう人を一般公募の新聞俳壇の選者に起用する朝日新聞の俳句文化に対する浅はかな理解はどうかと思います。
俳句指導の経験も乏しく、客観的な基準での審査経験もよくわからない人を選者に起用するということは、
その人の個人的もしくは私的な感覚で俳句選をしても良いと認めているに等しいからです。
選者が個人的な感覚で選をすることが当然となると、俳句の良し悪しに関する公的な基準がなくなるわけですから、
俳句観の怪しい選者の共感があるかどうかだけが基準になってくるわけです。
ならば、選者など誰でもいいではないか、ということにならないでしょうか。
さて、その高山れおな大先生の第一回の選句を興味深く拝見させていただきましたが、
最初に選んだのは北嶋克司さんの次の句でした。
不忘碑に蛍が一つ付いていた
「不忘碑」は戦時中に起こった新興俳句弾圧事件の記憶を風化させないために金子兜太らが作った「俳句弾圧不忘の碑」のようです。
「蛍が一つ付いていた」はその金子の句「おおかみに蛍が一つ付いていた」からの流用です。
金子の後釜に座った高山が前任者へのリスペクトを込めて選句したことを思わせるものでした。
ただ、プレテクストを参照する句を好むのは高山自身の句作そのものであることも忘れてはいけません。
いきなり1句目から自分の「興味」や「好み」で選句したということもまた事実です。
もちろん、このような選句は前衛性とは何の関わりもありません。
そもそも高山が前衛に位置する俳人であると僕は思ったことがありません。
前述したように、ただ伝統俳句や日常詠をズラすことに価値を認めている人という印象です。
金子兜太は安倍政権への反対を強く打ち出していましたし、原爆・原発などに反対する活動もしていました。
しかし、高山は前衛性もないただの「趣味人」でしかなく、政治性など皆無と言えます。
この人が金子の何を引き継ぐというのでしょうか。
高山の句にこのようなものがあります。
げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
原発と前衛とを「おとなのあそび」で一括りにしています。
このように、ただ一人自分がメタに立って周囲を侮るような視点が、高山や関悦史一派の俳句の特徴です。
こんな俳句を書く人に金子は本当に後を受けてほしいと思っていたのでしょうか。
朝日新聞は政権に批判的な「左翼」系だと一般には思われていますが、
僕はだいぶ昔からこの新聞は魂を売ったファッション左翼のエリート新聞だと思って読むのをやめています。
金子から高山へのバトンパスは、その意味では必然的な流れだとも感じています。
それから、僕は高山や関悦史が戦中の「俳句弾圧」を取り上げ、
被害者の系譜に自らが連なっているかのような態度をすることが許せないと思っています。
ユダヤ人がホロコーストの被害者という立場でナチスを批判しながら、
イスラエルとして平気でパレスチナ人を虐殺しているように、
彼らは俳句弾圧の被害者への共感を漂わせながら、
自分たちを批判する者の言説を平気で弾圧してきた人間なのです。
こういう奴に限ってユダヤ的な〈フランス現代思想〉を表層的にしか理解せずに振り回したりしています。
クサレ俳人やその仲間を起用してしまうことで、新聞は自らの批判精神がいかにインチキであるかを立証し続けることになっています。
文化状況の裏面まで理解できないのであれば、
新聞は早く文化に関わるのをやめて、政治や経済のニュースに特化していくべきだと思います。
ついでなので書いておきたいのですが、
高山れおなが朝日俳壇の大先生になったことで、その手下の上田信治が四ツ谷龍のツイッターに難癖をつけた場面に出くわしました。
上田が問題にしたのは四ツ谷の次のツイートです。
四ッ谷龍@leplusvert
選考委員とか選者とか、できるだけやりたくない。他人に対する評価なんて、本質的にむなしいものなんだ。
裕明賞は裕明の賞だから引き受けて、必死にやっている。これは別のもの。
俳句の世界では、選者をやりたい人とか俳句地図を作りたい人がいっぱいいる。好きにやればと思う。
表面的には「俳句地図を作りたい人」が上田のことを暗に指しているということで上田が反発してモメたように見えますが、
僕はその前に四ツ谷が「選者をやりたい人」と書いた相手が暗に高山れおなを指していることに、
手下の上田が反発したのだろうと解釈しています。
ボスが出世するのは手下の喜びでもあるので、それを面白く思わない人には攻撃を浴びせるというのが彼ら一派のやり方です。
僕もよく攻撃対象にされるので、このあたりは非常によくわかります。
(こう書いておけば上田からのくだらないイチャモンを避けられるのではないかと期待しています)
しかし上田は、田中裕明賞で四ツ谷が上田のお仲間の句集に攻撃的論陣を張って受賞を阻んだとか何とかツイートしていましたが、
それってそもそも僕のレビューを嚆矢として言われるようになったことですよね。
僕の言説に乗っかってよく言うよ、と思ったことを付け加えておきます。
まあ、乗っかり虫は何にでも乗っかるのかもしれませんが。
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嵯峨 直樹 著
⭐⭐
主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ
僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、
嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。
生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、
おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、
作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。
もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、
そこを批判するのはお門違いということになるのですが、
僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、
それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。
まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。
さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり
花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って
冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす
見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ
前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。
しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、
「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、
実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。
嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、
歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。
2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、
「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。
このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。
乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき
このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。
後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、
「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。
ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、
続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。
最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、
歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。
これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、
歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。
つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。
僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。
作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。
個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。
詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。
「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。
黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ
艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり
炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く
平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き
このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、
私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。
村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、
抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。
しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。
そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。
ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球
地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空
肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている
平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き
闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。
このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。
「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。
それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。
性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。
水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている
あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて
寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音
ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を
ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの
抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。
結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、
それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、
うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。
内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火
ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を
忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと
血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ
このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。
抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、
20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。
嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。
同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。
秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨
この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。
この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。
雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、
自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。
となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような
「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。
ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。
たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、
「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。
こういう歌は他にいくつもあります。
暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある
水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう
きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力
長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な
一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。
「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。
このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。
他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。
こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。
(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)
散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。
自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、
そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。
説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。
現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、
現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。
しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、
そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、
僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。
(新潮選書) 池内 恵 著
⭐⭐⭐⭐
シーア派については詳しいが、スンニ派については物足りない
『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』に続く池内恵の【中東大混迷を解く】シリーズの第2弾は、
イスラム教の2大宗派のスンニ派とシーア派の対立を扱います。
イランはシーア派が主導的な国で、サウジアラビアはスンニ派主導で仲が悪いとか、
ISIS(イスラム国)はスンニ派に属するなどの情報は僕も知っているのですが、
実態としてどこまで宗派対立が中東情勢に影響を与えているのか、ということまではよくわかりません。
中東情勢に詳しい池内による本書が宗派対立の実際を学ぶのにうってつけだと思って読んでみました。
冒頭で池内は中東問題を宗派対立に還元する視点を否定します。
すべて宗派対立が問題だとするのは現実的な理解を妨げるとしながらも、
政治が宗派を利用することが実際に行われていて、「宗派主義による政治は、動かし難く存在している」と述べています。
宗派対立といっても教義においての対立ではない、としながら、宗派は政治的に構成されたとも言い切れない、とも言います。
結局、池内自身は宗派対立の現実について、まともな回答を避け続けているように感じました。
なかなか難しい問題なのは想像できるのですが、他人の見解を否定しておいて自身の見解が不明瞭なのには不満が残りました。
第2章はシーア派とは何かを歴史的に振り返ります。
シーア派が第4代カリフのアリーの血筋を正統だと考えていることは、
受験世界史の知識でも知ることができるのですが、
さすがに池内の説明はさらに詳しくわかりやすいもので勉強になりました。
シーア派とスンニ派はムハンマド死後の後継者問題に端を発します。
後継者である初代カリフはムハンマドの妻アーイシャの父アブー・バクルですが、
アブー・バクルからウマル、ウスマーン、アリーへと至る「正統カリフ」の権力継承を認める「主流派」がスンニ派で、
ムハンマドの娘婿のアリーが正統な後継者であるべきだった(イマーム)と考える「反主流派」がシーア派です。
個人的に興味深かったのは、シーア派が「あるべきだった権力継承」という理想に立脚して、この現実を超克する立場にあることです。
スンニ派という主流派によって「虐げられた民」であるシーア派というあり方が、
反体制勢力の原動力となり、権力を掌握して王朝を築き上げるまでに至りました。
その代表がアラブ人によって従属民の位置に置かれたペルシア人を中心とするイランだと池内は言います。
第3章は1979年のイラン革命について詳しく語られます。
西洋化を進めたパフラヴィー朝がウラマーというイスラム学者による統治体制に打倒されたのがイラン革命です。
池内はイラン革命の衝撃を物語る4つの要素を挙げています。
(1)近代化・西洋化に対する否定
(2)イスラーム統治体制の樹立
(3)スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握
(4)反米路線へ転換
このように整理してもらえると、
現在のイランのアメリカやサウジアラビアとの葛藤がどこに根ざすのかがわかりやすくなります。
第4章はイラク戦争後の宗派対立について、第5章はレバノンの宗派主義体制について述べていきます。
「レバノン政治は、この本のテーマとなる宗派対立の元祖・家元とも言えるような存在である」と池内が語るように、
本書の目的のひとつにはレバノン情勢を語ることがあるように思います。
レバノンが宗派主義体制と言われるのは、国内の宗派の人口比率に応じて政治権限を分けているからです。
レバノンはイスラエルの北に位置し、シリアとも隣接する位置にある国ですが、
これまでキリスト教のマロン派が国内の多数派を占めていたようです。
キリスト教諸宗派の人口が多数派であれば、議会の議席もそれに応じて多数が配分され、
大統領はマロン派、首相はスンニ派、議長はシーア派というように決まっていく、と池内は述べます。
これは各宗派に権限が分散するための工夫ではあるのですが、
出生や移民による人口の変化によりシーア派が実質上の最大派になると、各派が外国勢力を巻き込んで内戦へと発展しました。
その後、1989年にマロン派の権限を弱める「ターイフ合意」で和解がはかられました。
これに反発したのがマロン派の「自由愛国運動」を率いるミシェル・アウン将軍です。
しかし、アウン将軍の部隊がシリア軍に鎮圧されたことで内戦は集結しました。
そのままシリア軍のレバノン進駐も黙認されることになりました。
2005年にスンニ派の首相ラフィーク・ハリーリーが爆殺され、シリアの関与が疑われると、
シリア軍撤退を求める大規模なデモが続き、親シリアの内閣が総辞職する
「レバノン杉革命」が起こり、
民主化への期待が高まりましたが、結果はさらなる混乱へと突入しました。
このあたりの経緯は複雑なのでぜひ本書を読んでほしいのですが、
たしかに宗派対立という単純な視点では理解しきれない複雑な出来事に感じました。
レバノンにはシーア派のヒズブッラー(ヒズボラ)という反イスラエル勢力が存在します。
ここにはパレスチナとイスラエルの問題も関係しますし、
同じシーア派のイランがヒズブッラーを支援していることもあり、
イスラエルに肩入れしているトランプがイラン核合意から離脱することも、
このあたりの知識がないと理解が難しいと思います。
本書ではシーア派についての説明に力点があり、
サウジアラビアなどのスンニ派の実情についてはあまり書かれてはいないようでした。
【中東大混迷を解く】シリーズがこれからどうなるのかわかりませんが、
アメリカやイスラエルがアラブに及ぼしている影響を、池内が客観的に論じた本も読んでみたいと思いました。
ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著
⭐⭐⭐
レフト3.0宣言の内容は反緊縮経済?
本書は3人の鼎談形式で構成されています。
イギリス在住でアナーキー志向のコラムニストのブレイディみかこ、
立命館大学経済学部教授でケインズやマルクスの経済学に明るい松尾匡、
東京大学大学院情報学環教授で社会学専攻の北田暁大の面々なのですが、
彼らは日本の左派の不甲斐なさに不満をつのらせている点で意見が一致しているらしく、
内容の大部分は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンなどのヨーロッパの左派を手本として、
緊縮財政を訴えている日本の左派はダメだという話になっています。
松尾は量的緩和(本書では金融緩和)をするべきだと主張しているために、
アベノミクスを肯定し、左派を叩いていると誤解されると本書のあとがきで嘆いていますが、
正直、虚心に本書を読んでみて、そう受け止める人がいるのは仕方ないように僕には思えました。
実際に3人は日本の左派をダメだダメだと言っていますし、それに比べると安倍政権への批判は抑えめです。
たとえば松尾は安倍政権下での実質賃金の下降について、民主党政権の後半から始まっていたと語り、
量的緩和を擁護するために安倍の経済政策の問題点はあまり強調できていません。
アベノミクスは実際には量的緩和以外にほとんど効果を示していないので、
量的緩和を肯定するとアベノミクス支持と受け止められても不思議はありません。
つまり、松尾は安倍の右翼的政策には反対ではあっても、経済政策そのものにはそれほど反対していないわけです。
どんなにケインズやマルクスを持ち出しても、結論が量的緩和であるならアベノミクスでいいではないか、
と経済の素人は思ってしまうのではないでしょうか。
(その意味で、松尾の提言を野党が受け入れないのは当然だとしか僕には思えません)
もちろん松尾の語っていることが間違っているとは僕も思わないのですが、
政治的な視点からすれば、松尾の語る経済政策で左派のアップデートができる気はしませんでした。
そもそも、日本人が経済政策にそれほど関心もなければ理解も乏しいということはどう考えているのでしょうか。
世界一の豊かさを誇った日本経済が「失われた30年」などと言われるほど停滞したのはなぜなのか、
僕は多くの経済関係の本を読んできましたが、そのあたりの共通認識も立ち上げられてないような気がします。
不良債権処理でつまづいたのか、デフレが問題なのか、借金が問題なのか、
中国の製造業の台頭が問題なのか、金融グローバル化が問題なのか、少子化が問題なのか、
人によって問題にしていることが違うという印象があります。
(そのすべてが問題ということもありそうですけれども)
この本では緊縮財政が諸悪の根源であるような「わかりやすい論点」が示され、
3人が意見を合わせて反緊縮だ反緊縮だと言っているのですが、
前述したように、それならアベノミクスでいいではないか、と思わなくもありません。
松尾は量的緩和によって完全雇用が実現する前に福祉や教育の分野へお金が回るようにすべきだと言いますが、
むしろ、そうなるためにはどうすればいいのかを考えていただきたかったです。
現在のグローバル金融資本主義に適応することを優先したら、そんなお金の回り方はありえないと思うだけに、
量的緩和の主張に重点があるような鼎談はあまり意味がなく退屈でした。
それから3人は最後の方で左派の根本は階級闘争であるということを語り出します。
これにはまったくその通りだと僕も同意したいところです。
「左派による下部構造の忘却がはじまってしまった」と北田も発言しています。
90年代の左派の主流となったマイノリティの権利などのアイデンティティ・ポリティクスがマルクスを忘却したのはその通りで、
僕も〈フランス現代思想〉からアントニオ・ネグリへと至る左派アカデミズムは時代遅れだとずっと批判しています。
北田は「どれだけ泥臭くなれるか」がレフト3.0の課題だとした上で、これまでの左派が口だけの「草の根」だったことを批判します。
北田 レフト1.0のまずさをよくわかっているから、みんな草の根だと自認し、宣伝するんですよね。ポストモダンブームの時のキーワードは「リゾーム(根茎)」でしたし、最近ではネグリたちの「マルチチュード(ラテン語で「多数」「民衆」の意味)」です。こうした概念は、先行世代の左派批判にはその都度使いやすいのだと思いますが、社会学的には根拠が見当たりません。正直わたしは単なる高学歴者の流行思想なんじゃないかと思います。
左派の本質にエリート主義があるという北田の指摘は非常に重要ですが、
松尾も北田も自分自身が大学教授であるという事実をどう考えているのかが僕には気になるところです。
ただ、北田のポストモダンに対する分析そのものは正しいと言えます。
日本の左派インテリがフランスの流行思想に飛び乗ることに自己満足してきたことは、もっともっと批判されるべきだと思います。
読んでいて最も違和感があったのは、次のことです。
そんなに下部構造が大事だと言うのなら、日本共産党や小沢一郎の「国民の生活が第一」などはどうなのでしょうか。
共産党もエリート主義ではあると思いますが、建前上は下部構造重視を貫いていると思います。
どこまで本気かわかりませんが、小沢の掲げる建前も同様です。
彼らが共産党や小沢をどう考えるのかに興味があったのですが、僕が見たところ、本書でこれらに触れたことは一度もなかったように思います。
自民党と公明党、民主党と社民党は批判されたりするのですが、共産党は存在しないかのようなのです。
もちろん、共産党が量的緩和に賛成するとは思えないわけですが、
下部構造を重視しているはずの党の支持がそれほど上がっていないことを彼らがどう処理するのか、
という僕の興味は巧妙にスルーされてしまった気がしています。
それから、僕個人としては日本の経済を語るなら、最優先で地方経済のことを考える必要があると思っています。
本書では松尾単独のあとがきで少し触れているだけで、鼎談の中ではほとんど語られていませんでした。
大上段で「〈経済〉を語ろう」と言ったわりに、正直内容は乏しすぎたような気がします。
これでは、もっとダメな左派を叩くだけの印象しか残らないのも仕方がないのではないでしょうか。
評価:
ブレイディ みかこ,松尾 匡,北田 暁大 亜紀書房 ¥ 1,836 (2018-04-25) |
牧野 雅彦 著
⭐⭐
やはりシュミットはよくわからない
ナチスへの協力が取りざたされて批判にさらされたドイツの法学者カール・シュミットを、
再評価する動きが最近目立っていますが、牧野もそのような流れの中で本書を書いています。
シュミットの思想はナチスに協力した危険思想だ、と切り捨ててしまえるものでないことは本書を読んでよくわかりましたが、
では、なぜシュミットがナチスと近い立場に身を置いたり、反ユダヤ主義とも思える言説をしていたのか、という点については、
牧野の記述は非常に後ろ向きでしかなく、これもまたフェアな立場だとは思えませんでした。
批判して終わりも良くありませんが、シュミットをただ擁護するだけの態度も、門外漢としては同様に偏ったものに感じました。
副題に「カール・シュミット入門」とあることに読み終わってから気づきましたが、
明らかに入門書のレベルではありませんし、入門書の体裁でもありません。
僕は途中でわからなくなって、もう一回最初から読み直したのですが、かなり難しくて苦労しました。
シュミットの著作自体について以上に彼の周辺人物の著作や当時の政治状況についての方が、
触れている量が多かったようにさえ感じました。
第一章は「政治神学とは何か」と題されていますが、シュミットの概念をわかりやすく説明してくれるのかと思いきや、
シュミットが影響を受けたカトリック系の反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルやドノソ・コルテスの思想を長々と説明します。
いきなりシュミットではなく謎の反動思想家の説明が続くのは、マニアックとしか言えません。
そこを乗り越えてシュミットの思想に至ったと思っても、ほとんど記述らしい記述がなく、
気づいたらメーストルとコルテスの思想にだけ詳しくなっていました。
第二章ではシュミットの『政治的なものの概念』を取り上げ、シュミットが多元主義のハロルド・ラスキを批判したことが述べられます。
直後、牧野はハロルド・ラスキの著作の内容に踏み込んでカトリック反動について長々と説明したあと、
次にジョン・フィッギスという歴史家の、教会を中心とした団体自治論を説明し始めます。
ここまで30ページを要していますが、その間にシュミットはほとんど登場しません。
これで本当にシュミットの入門書と言えるのでしょうか?
そのあとやっと『政治的なものの概念』における「友と敵」の実存的決定の話が出てくるのですが、
これが数行のあっさりとした記述で終わってしまうのです。
続いて『憲法理論』を取り上げ教会の「権威」と国家の「権力」をシュミットがどう考えていたかが語られます。
ですが、この部分は9ページで終わってしまいます。
シュミットの著書『独裁』における「委任独裁」と「主権独裁」の区別については、説明にそれほど不満はありません。
秩序を制定する権力である国民を「憲法制定権力」としたとき、憲法制定を委任された代理人が「主権独裁」である、というのは、
安倍晋三の憲法改正に対する黒い情熱を想像する上で興味深いものがありました。
シュミットの国際連盟批判や、統一帝国であるライヒへの執着、内戦を終結させる「アムネスティ」という相互忘却の原則についてや、
パルチザンにおける敵の問題など、がんばって読めばおもしろい部分もあるのですが、
長々しい上に専門的で敷居の高い内容だったというのが正直な印象です。
しかし、肝心の友と敵の区別についての説明に分量をかけていないため、
基礎的な部分をぼんやりとしか理解していないまま、先々の理論に付き合わされている感じは否めません。
牧野は「友と敵」の区別が「政治的なもの」の核心だと結論だけは何度も述べるのですが、
それがどういうプロセスで成立しているのかは、なぜか詳しく説明してくれません。
もしかしたら、シュミットとナチスとの関係にとって不利な内容なので、あまり触れないようにしているのでしょうか。
危機状態を前提にした権力論は、議論が本質的になるため魅力があるのは理解できますが、
一方で例外状態はあくまで例外状態であるという認識も大切でしょう。
「敵」を設定し共有することで自己のあり方を決めるというのであれば、
それは反動保守のやり方とそう変わらないように思えるのですが、
本書には僕の疑問を解消するような説明は見つけられませんでした。
ナイジェル・ウォーバートン 著/月沢 李歌子 訳
⭐⭐⭐⭐
イギリス視点の哲学史に〈フランス現代思想〉は存在しない
イェール大学出版局の「リトル・ヒストリー」シリーズの『経済学史』はなかなか良い内容でしたが、
この『哲学史』も著者は違うのですが、40の断章で哲学史上の思想家を紹介していきます。
これだけ多くの思想家をわかりやすく取り扱うウォーバートンの力量には感心させられますが、
彼が大学に籍を置かないフリーの哲学者であることにも驚きました。
大学の出版局からの著書なのに、大学の先生でない人に書かせられるほど、イギリスの人文知の裾野は広いのだと感じます。
ソクラテス、プラトンから始まっていき、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経て、
デカルト、パスカル、スピノザと続き、ルソー、カントへと至る流れは王道と言えます。
聞いたことがある哲学者の名前が次々と出てくるのは、ビギナー向けとしては欠かせない要素です。
また、ウォーバートンはビギナーが困らないように、わかりやすい説明を心がけています。
エピクロスは僕にはそれほど馴染みのある思想家ではなかったのですが、
「エピクロスの教えは、ある種のセラピーでもあった」と説明されると、興味が掻き立てられます。
ヴォルテールについて書かれている章もためになりました。
彼は言論の自由の擁護者で、「あなたの主張には反対だが、そう発言する権利は命を懸けて守ろう」と発言したそうです。
僕はR大学の准教授に言論弾圧を受けたことがあるのですが、そういうインチキ野郎に比べてヴォルテールは偉い人だと思いました。
ヴォルテール自身は権力者である貴族を侮辱したとして、バスティーユ監獄に入れられてしまったのですが、
それでも周囲の偏見や疑わしい主張に疑問を呈し続けるのをやめない、勇敢な人だったとウォーバートンは述べています。
ヴォルテールの『カンディード』がライプニッツの楽観主義を風刺しているというところも、
非常におもしろく読みました。
誤解されやすいルソーの「一般意志」についても鮮やかに説明しています。
共同体全体の利益になるものが一般意志であるため、自己本位であれば誰もが税金を払いたくないと思うものだが、
一般意志に基づくと、共同体が適切なサービスができるのに十分な高さの税金を支払うべきだということになる、
という例を出されると、理解が平易になります。
ただ、本書はイギリス人による哲学史のためか、ウォーバートンの個人的趣味のためなのかわかりませんが、
全体にドイツ思想に対して評価が厳しいように思いました。
カントの道徳哲学をアリストテレスと比較して、ウォーバートンは次のように書いています。
アリストテレスは、真に徳のある人はつねに適切な感情をもち、その結果として正しい行動をすると考えた。カントにとって、感情とは、見せかけではなく本当に正しいことをしているのかどうかをわからなくして、問題をあいまいにするものである。
カントは理性さえあれば道徳的でいられると考えたというのがウォーバートンの説明なのですが、
あまりにカント思想の理解が表層的に思えます。
20章に登場したイマヌエル・カントは、「嘘をつくな」というような、どんな場合でも適応される義務があると主張した。だが、ベンサムは、行為の善悪は結果によって判断されるとし、状況次第だと考えた。嘘をつくのはつねに誤りだとは限らない。
この「嘘をつくな」の例はカントの定言命法を説明するのにふさわしいとは僕は思いません。
その意味で、ウォーバートンの記述にはカントに対する悪意が感じられなくもありません。
ヘーゲルやニーチェの扱いもあまり良いとは言えませんでした。
バートランド・ラッセルの紹介などは非常に良く書けていたので、やはりイギリス偏重という傾向は否めないと思います。
特に日本人にとって違和感があると思われるのは、フッサールとハイデガーの現象学と解釈学に対する記述がほとんどないことでしょう。
ハイデガーの名前を出したかと思うと、すぐにアーレントへと話を進めてしまうあたりは不自然に思えます。
また、サルトルとボーヴォワールには触れるのですが、
日本では現代思想の代名詞であるフランスの構造主義とポスト構造主義の思想家については一言も触れていません。
アーレントからカール・ポパーへと進み、トーマス・クーン、フィリッパ・フット、ジョン・ロールズときて、
オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーで締めくくられます。
イェール大学による哲学史ではいわゆるポストモダン思想は哲学ではないというのは非常に興味深く思えました。
その意味では日本的な現代思想バイアスを修正するのに本書は適しているかもしれません。
個人的には、ポパーがフロイトなどの精神医学に反証可能性がないため、非科学だと批判したというところが勉強になりました。
思想家の変わったエピソードなども差し挟まれていたりして、読み物としてもなかなか面白かったです。
評価:
ナイジェル・ウォーバートン すばる舎 ¥ 3,456 (2018-04-25) |
佐野波布一のコメント
W杯グループリーグ最終戦での「他力本願」を監督の苦渋の決断と持ち上げる欺瞞
僕はスポーツを見るのは好きですが、ネットでそれについて書きたいとは思いません。
ただ、今回の日本人の自己欺瞞があまりに耐え難いために発信させていただきます。
僕のサッカーとの付き合い方は変わっているので、周囲からは「変人」と思われています。
僕は10代の時にテレビでワールドカップを見ていたとき、日本が出ていなかったため、
応援する母国がほしいと思って、コロンビアを母国にしようと決意しました。
それ以来、サッカー国籍はコロンビアだと公言しています。
(ヨーロッパ偏重の権威主義的なサッカーファンに対する反感もあったかもしれません)
それからずっと僕はコロンビア人として、ワールドカップ予選は南米予選だけをチェックしてきましたし、
チャンピオンズリーグよりもリベルタドーレスを見てきました。
コロンビアを応援するために94年のアメリカ大会にも行きました。
(日本代表の試合は国内すら一度も行ったことがありません)
僕はサッカーマニアではありませんが、日本代表の選手よりコロンビア代表の選手の方が断然詳しいと思います。
今大会でコロンビアが日本に負けたのは僕にとって悪夢でした。
日本中が喜んでいるのかと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだものですが、
コロンビア人と受難をともにしたことで、自らのサッカーアイデンティティの強固さを感じたものです。
そのため、僕はグループリーグ最終戦ではコロンビア対セネガルの試合をリアルタイムで見ていました。
日本戦には1秒たりともチャンネルを合わせなかったので、日本戦で何が行われていたのかは翌日のニュースで初めて知りました。
終了近い時間帯に日本が負けているのにもかかわらず、パス回しで時間稼ぎをしていたと知って、僕はびっくりしました。
コロンビアがセネガルに1点リードしていることから、西野監督はコロンビアの勝利に期待して、
1点差負けで決勝トーナメント進出を手に入れようと考えたようなのです。
僕が驚いたのは、このようなギャンブルに全く合理性がなかったということです。
コロンビアとセネガルの試合をずっと見ていればわかることですが、ハッキリとセネガル優勢の試合でした。
僕はコロンビアの分の悪さを悟って、ハーフタイムで妻にも厳しい状況であることを話しました。
チャンスもセネガルの方が多く、日本がポーランドに先制され、こちらが引き分ければ決勝に行けると知った後も、
引き分けること自体が至難の技だと感じて喜びもしませんでした。
しかし、セットプレーというものは一撃があります。
リーベル移籍後にかつての輝きを取り戻しつつあるキンテーロからのコーナーキックに、
バルサでくすぶっているジェリー・ミナが頭で合わせて先制したのです。
僕の実感では運良く先制点をゲットしたというところでした。
その後は当然セネガルが攻勢に出て、コロンビアは何度も窮地に立たされました。
最後の笛が鳴るまで、ものすごく時間が長く感じられましたし、いつ点が入っても不思議でない展開でした。
こういうことはリアルタイムの実感でないとわからないので、日本戦を見ていた日本人にはわからないと思います。
そのため、僕のような自称コロンビア人が語ることに意味があると思って書いています。
要するに、コロンビア人から見ると、薄氷を踏むような先のわからない展開の中で、
試合を捨ててまでコロンビアの勝利に賭けるという西野監督の采配は、たまたまうまくいっただけでクレイジーだと思えるのです。
たとえばネットにある読売新聞の記事に、浅井武という人が書い文章がありましたが、
彼は「かなり危ない橋を渡った」と「他力本願」に否定的な評価をしているのですが、
「セネガルにスーパーゴールが生まれたり、コロンビアに致命的なミスが出たりして」
などと書いているように、どうも日本人はコロンビアが優勢に試合をしていたと思い込んでいる節があります。
まずはその認識が間違っていることを共有してから、今回の采配について評価をするべきだと思います。
それなのに、日本でニュースなどを見ると、セネガルが追いついたら批判されるであろうことを、
「あえて」決断した西野監督を讃えるようなコメントが繰り返されていて、呆れ果てました。
世界から日本の行為は散々に批判されていますが、客観的に見れば当然批判される行為でしかありません。
なにしろ、自力で勝ち進めない自らの力不足を自覚をして、
結果を他のチームの頑張りに丸投げしていながら、
決勝トーナメントにだけは進出したい、という浅ましさだけを表に出してしまったのですから。
このような「浅ましい」行為を後ろめたく思う日本人も少なくないことを僕は確認していますが、
サッカー協会への批判がタブーとなっている日本メディアは、あろうことか西野が立派な「決断」をしたかのような欺瞞言説を垂れ流しています。
僕にはそれが正当な評価とは思えません。
日本対ポーランド戦に関しては、僕が知った情報はすべて試合後のものでしかないのですが、
日本はスタメンを6人も変えて試合に臨んでいます。
過去2試合で敵ながら怖いと思った乾がスタメンでないということに驚いたのですが、
この采配が、日本が戦力を温存しても連敗中のポーランドとなら引き分けられる、
という甘い見通しによるものであったことは間違いないと思います。
コロンビア戦を一人多い状態で勝ったわりに何を勘違いしたのかわかりませんが、
ずいぶんと余裕をかましたものだな、と思います。
このスタメンから感じることは、日本サッカー協会と西野朗が日本の決勝トーナメント進出を楽観視していたということです。
つまり、彼らにとって日本の決勝トーナメント進出は「既定路線」となっていたのです。
(初めからコロンビアがセネガルに勝つにちがいないと思っていたのかもしれませんが)
おそらく、その「既定路線」をもとに裏ではいろいろなお金が動いていたに違いありません。
このようなナルシスティックな楽観主義はいかにも日本的だと思いますし、第二次大戦時の大日本帝国が、ナチスがイギリスを倒してくれることを期待して作戦を立てていたことが思い出されました。
しかし、ポーランドに先制されたことで日本に予選落ちの危機があることに今更ながら気づかされたのでしょう。
「既定路線」が「既定路線」でなくなることが最も恐ろしい人たちが取る手段は決まっています。
どんなことをしても「既定路線」を維持することです。
たとえフェアでないと言われようと、たとえ他力本願であろうと、「結果」を合わせていくことが最も大事になるのです。
それが「あられもない時間稼ぎ」という西野の采配を導いただけだと僕は考えます。
サッカー協会と一体化した西野にとっては、日本が決勝トーナメントに進めないこと以上に怖いことはなかったように思います。
それなのに、セネガルが同点に追いついたら批判されるとわかっていて、時間稼ぎを決断した西野はすごい、
などとメディアが垂れ流すのは、僕からするとサッカー協会とタッグを組んで情報操作をしているとしか思えません。
何もすごいことなどありはしません。
日本が失点して「自己責任」となるより、他会場の「自然」に結果を任せた方が、
西野自身が責められることは少ないと計算しただけにすぎません。
その証拠に、日本以外の国で西野の戦術を立派な決断だなどと評価しているメディアを見かけませんし、
かつてガンバ大阪で西野の下でプレイしたことがある遠藤保仁などは日刊スポーツの取材に、
「セネガルが得点したのなら、みんなの責任」などと答えて、西野の責任がスッポリ抜け落ちるような発言をしています。
(僕はこの遠藤の発言に、戦争責任は全員にあるという「一億総懺悔」を彷彿とさせられました)
ネットには勝てば官軍とばかりに「結果」がすべてで問題ないという「強弁」をしている「わかっていない人」がいますが、
日本のやったことは問題がないという言説は世界では通用しません。
なぜなら、他会場の結果で試合結果をコントロールすることが問題行為だと見なされているからこそ、
グループリーグの最終戦は同時刻に試合を行うようにしているのです。
つまり、FIFAが日本の採用した作戦を良いものだと評価するはずがないのです。
そのような意図もわからず、自己本位な行為をしてしまった田舎者が日本代表だということです。
自国内の自己満足的な視点しか持ち得ない日本人は喜んで騙されていくのかもしれませんが、
西野監督の采配を評価することは外から見たら滑稽でしかないわけです。
(残念ながら僕は純粋な外の人間ではないので、滑稽ですませられずにこのような文句を言いたくなるわけですが)
11人対11人の試合展開では一度も相手チームをリードしたことがなかった日本が、
他力本願の時間稼ぎをして決勝トーナメントに進出したのは明らかなのですから、
潔く「まともに戦ったら弱い僕らが決勝トーナメントに行くには、みっともなくてもあれしかなかったんだ」と言ってほしいものです。
まあ、日本人はナルシシズムを充溢させることが生き甲斐なので、そんなことが認められるわけがないんですけどね。
どうして日本は実力以上に背伸びをしていないと気がすまないのでしょうか。
バブル経済で夢を見てから、現実のショボい自己像と向き合うことを避けることが、日本人の欲望になってしまいました。
僕は主に思想界や文学界などで、実力が乏しいのに斜陽の出版業界との癒着でスター扱いされている人物を批判していますが、
このような人物が後を絶たないのは、彼らが現在の日本の自画像と一致しているからだと感じています。
その意味で彼らは現代の日本人からの共感は得られるわけですが、
さすがに長い歴史の中では、いずれ彼らの実力の乏しさが暴露され批判されることになると思います。
サッカーで実力が暴露されるのは、それに比べれば時間がかからないのではないでしょうか。
]]>船木 亨 著
⭐
権威主義的なドゥルーズ学者を調子に乗せる出版界の腐敗
日本の出版界には「現代思想=フランス構造主義の系譜」という硬直した発想が根強くあります。
そのため、ドイツ人でF・シェリングを専門とする思想家マルクス・ガブリエルが来日すると、
ドイツ思想の研究者でもない國分功一郎や千葉雅也というG・ドゥルーズ研究者を対談相手にしてしまったりします。
ドイツとフランスの区別もできない西洋思想後進国にはガブリエルも苦笑するしかないところですが、
このようなドゥルーズを持ち上げていれば安全というような、一元的な価値を日本の現代思想は30年以上も守ってきています。
本書の著者の船木もドゥルーズ学者ですが、あまりに短絡的で教条主義的な〈フランス現代思想〉の「受け売り」にウンザリしました。
何の思想を研究するにしても、対象を無条件で信奉してしまったら、それは思想とは言えないでしょう。
簡単に〈フランス現代思想〉の特徴を整理すれば、ポストモダン的な近代批判であり、
反人間主義に基づいた理性批判、主体批判になります。
本書を読みはじめると、船木は理性や主体を近代的な悪と決めつけて自説を展開するばかりで、
読む前からゴールのわかっている本でしかないという印象でした。
僕は完読主義でどんな本も最後まで読むのがマナーだと思っているのですが、
本書は130ページまで読んだところで断念しました。
思想好きの人でないとなかなか読んでいないであろう思想家の著作を、たいした説明もなく持ち出すわりに、
説明が親切ではないので、それだけで挫折する人もいると思います。
しかし、それらを読んでいて内容もある程度知っている僕が読んでも、
それほど思想的に感心することが書いてあるわけではありません。
わかりやすくズバリ言ってしまえば、本書は500ページ以上にわたって船木の自己満足が綴られているため、
読み手にまで届くものがほとんどない恐怖の本だと感じました。
そういえば、誰一人として生徒が耳を傾けていない授業を平気でしている大学教授っていますよね。
僕は前々から、〈フランス現代思想〉学者が、その特色である相対主義を偉そうに主張しながら、
自分の依存対象である〈フランス現代思想〉をまったく相対化できないことにガッカリさせられています。
本書を断念するキッカケとなった僕が最も許せなかった記述は、
ヒトラーを支持した「権威主義者」を批判したエーリッヒ・フロムが間違っているというところです。
船木はフロムが「権威主義者」である大衆を非理性的な存在として批判したと述べたあと、
理性は悪だと思い込んでいるためか、
「権威主義者が普通の人間であり、理性的主体の方が変人なのである」などと主張しているのです。
船木はそのあと、権威主義者が「一定の比率で出現するのが社会なのだと考えるべきではないだろうか」などと述べるのですが、
本当に「一定の比率」でしかなかったら社会全体の体制に影響するはずがありませんので、
説得力のない論理で権威主義者を擁護しているようにしか受け取れません。
このように単純に理性を否定する人物が、どうして理性的エリートがなる大学教授などというポストにいるのでしょうか。
まさか彼はドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲望によって論文を書いたとでも言うのでしょうか。
僕には船木自身がフロムの言う「権威主義的パーソナリティ」を体現した人物であるため、
「わたしこそが普通の人間なのだ」と主張したいがためにフロムを批判しているようにしか感じられませんでした。
今、ペラペラと先の方をめくってみたら、163ページにこんな文もありました。
昇華された暴力が理性なのである。生活条件の満たされたメジャーなひとびとにとって抑圧されるべきものがあり、これを抑圧する暴力が理性と呼ばれているものなのだ。
パラ見なので文脈はよくわかりませんが、やっぱり教条的に理性を悪だと考えているとしか思えません。
そして最後の方を開いて確認してみましたが、僕の予想通りの結論が展開されていました。
「近代の一時期は、理性主義的な少数エリートが強力だったという点で、ちょっと特別だった」
などと述べて、やっぱり船木は理性と近代をひっつけて「近代主義」などと批判するのです。
ちょっとでも歴史の知識があれば、中国の科挙制度などの官僚制度に基づく社会はいつの時代であろうと理性的エリートが主導した社会です。
まさか船木は律令国家も近代主義だとでも言うのでしょうか。
正直に言えば、僕は〈フランス現代思想〉を単純に権威化して、このような暴論を書く人間に怒りを感じています。
そもそも大学教授こそが理性的エリートであり、それが官僚的エリートになっていく人材を選別し教育しているのです。
自分のことは棚にあげ、何か批判をしているつもりで、無意味に長大な本を書く、
こんなことを許す筑摩書房という出版社はどうかしていると思います。
そして理性を批判した船木が最後にたどりついた結論は、「情動」が大事だということでした。
情動は、複数の身体のあいだで起こる感情のことです。性衝動などがいい例なのですが、それ以外にも、悪くいえば、まさに群衆心理的なもの、横並び的な集団主義的なものを惹き起こすさざ波のようなもののことです。
幼稚園児の一人が泣くとみんなに伝播して集団で泣き出すような情動が大事だという結論です。
この幼児性(性衝動というなら「萌え」のようなもの?)が現代思想の結論だとしたら、どれだけ虚しいことでしょう。
船木の言う「横並びの集団主義」が日本的な価値観であることは強調しておく必要があります。
日本流の〈俗流フランス現代思想〉が西洋思想の顔をしながら、実は日本人のナルシシズムを高めるだけでしかないことは、
僕が繰り返し指摘していることですが、船木の結論はまさにそれをなぞるものでしかありませんでした。
(だいたいドゥルーズは群集心理が大事だなんて言ってませんよね)
思った通り、ゴールの決まった本であったことがパラ見でも確認できるわけです。
盲目的に〈フランス現代思想〉の権威をありがたがれる人にだけ本書をオススメします。
そうでない方は本の上にレモンを置いて立ち去るのが良いでしょう。
ウィリアム・フォークナー 著/藤平 育子 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
死者たちが奏でる滅びゆく家族の歴史
本作は南北戦争後のアメリカ南部を描き続けたW・フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」のひとつです。
フォークナーはアメリカ南部にヨクナパトーファ郡という架空の地を生み出して、
自分の小説の神話的な舞台としました。
彼の作品群が「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれるのはそのためです。
19世紀にヨクナパトーファ群で農場主にのし上がったトマス・サトペン一家の悲劇を描く本作は、
ストーリーを展開させる「語り」の構造が複雑化しています。
フォークナーは『八月の光』では複数の登場人物に次々と視点を移し替え、
その人物の語りによって事件の外観に迫りますが、
肝心の中心人物の来歴については、よくある文学的な手法でしか描けませんでした。
その意味で『八月の光』は文学と映画の折衷のようなスタイルで、ある程度の読みやすさを保っているように思います。
しかし、『アブサロム、アブサロム!』は事件がすべてが登場人物の語りによって描かれています。
メインの語り手として登場するのは『響きと怒り』にも登場するクエンティン・コンプソンです。
クエンティンがサトペン夫人の妹のローザ・コールフィールドに呼ばれてサトペンの話を聞くところから物語は始まります。
その後、クエンティンは父親との会話、ハーバード大学の学友シュリーヴとの会話の中で、
トマス・サトペンとその子供たちの悲劇的物語を生み出していくのです。
つまり、本作はサトペン一家の物語でありながら、物語にサトペン一家が直接登場しない構成になっています。
物語の当事者は一人を除いてすべて死者となっていて、それを語るローザもすでに死者である上に、
クエンティン自身も先行作品である『響きと怒り』で自殺を果たしているため死者同然といえます。
(シュリーヴはもう一人のクエンティンと受け取れるように注意深く描写されています)
このように、本作は死者が死者を語った小説だと言えるのです。
おそらくフォークナーは神話的想像力に必要なのは、20世紀的な映画のカメラではなく、死者による「語り」であると考えたのだと思います。
こうして語られる物語はダビデ王の息子アブサロムを題名に用いていることでもわかるように、
神話的モチーフを匂わせた父と息子たちの悲劇となっています。
サトペンにはヘンリーという息子とジュディスという娘がいました。
ヘンリーが尊敬の念を抱く学友チャールズ・ボンとジュディスが恋仲になったところで、南北戦争が起こります。
南北戦争に参加した二人はなんとか死地をくぐり抜け、花嫁ジュディスのもとに戻るところで、
ヘンリーがボンを射殺してしまうのです。
そこにはサトペンの血にまつわる「呪い」とも言うべき因縁があったのですが、
それはクエンティン(とシュリーヴ)に語り出されることで、死者が生き直すかのごとく、次第にあらわになっていきます。
物語の内容だけをストーリーとして語れば、これほどの巨大な作品になる必要はないようにも思えます。
しかし、他でもありうる可能性をひとつひとつ潰すようにして長々と続けられていく、
卓越した比喩を駆使したフォークナーのトランス感にあふれた語りが、
この物語に訪れる運命的な破滅へと向かって、読者を誘い込むために費やされているのは間違いありません。
読者もクエンティンやシュリーヴと一体になって、そしてサトペン一家の人々と一体になって、
アメリカ南部の呪いの中にからめとられていく息苦しさと重々しさを感じていくのが本作の醍醐味です。
紛れもなく天才の仕事だと言えるでしょう。
西垣 通 著
⭐⭐
屈折した自己都合の論理が読者にはチンプンカンプン
現在、AI(人工知能)の発達と実用化のビジネスが投資対象になるなど、AIが経済発展の鍵として注目を集めています。
情報学の専門家である西垣は、AIの基本思想がユダヤ教、キリスト教と深い関係にあるとして、
AIが人間の知性を超越すると主張するシンギュラリティ仮説を支持する人々を批判します。
人間を超えたAIによる支配が一神教的な神による支配と共通する、という西垣の言い分は僕にも納得できました。
しかし、本書の構成と主張には大いなる「屈折」が見られます。
シンギュラリティ支持者にユダヤ・キリスト的一神教の欲望を感じ取り、それを批判したいわりに、
なぜか西垣はカンタン・メイヤスーの思弁的実在論(というより思弁的唯物論?)を執拗に持ち出すのです。
思弁的実在論にアニミズム的な反一神教要素を見出す人もいるとは思いますが、それならメイヤスーよりグレアム・ハーマンを持ち出すべきでしょう。
どうして数学や科学へと接合するメイヤスーだけを取り上げるのか、まったくわからないのです。
細かいことを言えば、僕としてはメイヤスーの思想だけを取り上げて思弁的実在論と言い続けることにも違和感を感じました。
メイヤスー自身は自分の思想を「思弁的唯物論」と呼んで思弁的実在論と距離を置いたりもしています。
西垣にとってはメイヤスーの思想=思弁的実在論となっているようですが、本来なら正しい認識ではないと思います。
そのため、西垣は本当の思弁的実在論に興味があるのではなく、
日本の商業学者御用達の〈フランス現代思想〉の系譜に乗りたかっただけではないかという疑いを抱いてしまいました。
日本人にとっての〈俗流フランス現代思想〉でしかないからメイヤスーだけしか扱わないのでしょうし、
それなら本書の刊行時にその翻訳者である千葉雅也とイベントをしたのも理解できます。
疑念を深めるのは、西垣がメイヤスーを持ち出したことの意義がよくわからないことです。
西垣は第三章をまるまる「思弁的実在論」と名づけて、メイヤスーの概説書でもあるかのように説明するのですが、
たとえそれを読んでメイヤスーの思想を理解できたとしても、
それが西垣の主張であるシンギュラリティ批判とどう関わるのかがハッキリしないのです。
なにしろ、一章を割いてメイヤスーの思想をなぞるように説明したのに、その後の章でこんなことを述べてしまうのです。
現代科学技術の哲学的基礎を明確にしようという思弁的実在論の意図は十分理解できる。また、相関主義哲学の開祖であるカントの超越論的議論にたいし、祖先以前的言明を持ち出して有効性の限界を明らかにするというメイヤスーの論法は、専門的哲学者からは異論が出るかもしれないが、論理的には分からないわけでもない。しかし、基礎情報学的には、率直にいって首をかしげたくなる点も多いのである。とりわけ、数学的に表される自然科学的な仮説の形成が、即時的存在を直接指示対象としてあたかも人間の介在なしのごとくにおこなわれ、それを「事実」と見なすというのなら、その議論は、実際に科学技術研究の現場にいた人間からすると、承服しがたいものだ。
したがって、AIだけでなく現代の科学技術の哲学的根拠を明確にするためには、思弁的実在論よりむしろ、相関主義思想と類縁関係にあるネオ・サイバネティクスに依拠するべきだという気がしてこないだろうか。
こんなふうに結局否定的に評価するなら、なぜわざわざメイヤスーの思想をまるまる一章使って説明をする必要があったのでしょうか。
そのうえ西垣は直後で、「前節で、思弁的実在論の企図に関して疑義を呈したが、
本書は決してその価値を全面的に否定するものではない」などと再び態度を翻すのです。
(キミの批判はしたけど、決してダメだと言ったわけじゃないんだ、というセコいやり口!)
こんな態度では読者は「結局どっちなんだよ」としか思いません。
本書がわかりにくいのは、内容が難解であるためではなく、本書の論の構成に難がありすぎるからなのです。
本書の冒頭で西垣は、知とは生存する実践目的なのか真理を探求する形而上学的な目的のどちらなのか、
という問いを立てるのですが、この共感しがたい二者択一がどこから出てきたのかと訝しく思っていると、
後々西垣がこの曖昧さはキリスト教の三位一体の教義が原因なのだ、と主張するに至って、
自説の都合による問題設定であったことが判明します。
自ら形而上学的な問いかけをしたり、西洋哲学を持ち出したりして、西垣自身が西洋的な価値の中で思考していることを示しておきながら、
AI関係者の西洋的・一神教的な視点を、それも西洋思想を用いて批判するのは、僕には茶番としか思えませんでした。
そもそも本書の題名にある「原論」という言い方こそが、神の支配に通じる、すべてを基礎づける絶対知への欲望を示しているのではないでしょうか。
最も致命的な勘違いを挙げるならば、西垣が一神教的な西洋思考を批判するものとして〈フランス現代思想〉を持ち出していることです。
二〇世紀後半以降の現代思想は、そういう西洋思想のもつ唯我独尊的で侵略的でもある側面を克服しようとしてきたのである。構造主義/ポスト構造主義に代表される文化的多元(相対)主義は、この危険を西洋世界がみずから反省し自覚することから生まれてきた。
いまだポスト構造主義の影響にあるバブル脳の西垣は、ポスト構造主義の見かけの相対主義に騙されて問題の本質がわかっていません。
ポストモダン的な文化多元主義は新興国への投資を背景にした、資本の世界的還流運動への転換を学問的に裏付けたものでしかありません。
そんなものを「反省」などと解釈しているお人好しが西洋主義者でなくて何なのでしょう。
いまだポスト構造主義などを正しい考えだと思い込んでいる視野の狭さでは、物事の本質がわかるはずもありません。
西垣はポスト構造主義の本質についてまったく理解が足りていません。
〈フランス現代思想〉に代表されるポスト構造主義思想の根源にはユダヤ的な思想があります。
これについてはG・ドゥルーズ学者の檜垣立哉もヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』の解説で同様のことを言っています。
近年のフランス思想の軸は、ギリシア思想対ユダヤ思想にあり、異質なものとしてのユダヤをギリシアに対抗させることでとりだされる「他」にあったようにおもわれる。
シンギュラリティ仮説の背後にあるユダヤ一神教を批判するのに、ユダヤ色の強い〈フランス現代思想〉を持ち出すのは、
専門が哲学でないにしても、思想の表層しか理解できていない人間の致命的な間違いだと言えるでしょう。
それがわかっている者からすると、この人は何がしたくてこんな本を書いたのか、首をひねるしかありません。
つまり、シンギュラリティ批判に〈フランス現代思想〉の系譜にあるメイヤスーの思想を持ってくるという、
西垣の論の立て方自体に大いなる矛盾があるわけです。
むしろ、ユダヤ一神教の思想を批判するのにユダヤ一神教の思想を持ってきてしまうことの愚かさに気づかない、
日本の知識人のポストモダン一元主義こそが問題にされるべきだと僕は思います。
真に相対的な文化多元主義を信奉するなら、〈フランス現代思想〉以外の現代思想も対等に扱ったらどうなのでしょうか。
分析哲学を排除し、J・ハーバーマスなどの後期近代主義を無視して、ポスト構造主義ばかりが現代思想だと思っている人たちに、
本当の文化多元主義も相対主義もあったものではないと思います。
⭐⭐⭐⭐⭐
中世スコラ哲学を広い視座から捉え直す試み
日本人の西洋哲学史の一般的イメージだと、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシア哲学からR・デカルトへと飛んでしまいがちです。
その間に位置するスコラ哲学に陽が当たらないのは、日本人のキリスト教受容への抵抗心が関係していると思いますが、
陰になりがちなスコラ哲学を開かれたものにしようというのが今号の特集です。
スコラ哲学には僕もまったく明るくないのですが、
「スコラschola」は「学校」を意味する言葉で、多様なテキストを引用し組み合わせて自説を展開する総合的な哲学のことを意味しています。
当然のことながらキリスト教と密接な関係を持つ神学色の濃い思想で、
ドミニコ会のトマス・アクィナスやフランシスコ会のドゥンス・スコトゥスが思想家として有名です。
冒頭はトマス・アクィナス『神学大全』の翻訳をした稲垣良典と本特集の主幹である山本芳久の対談です。
山本はスコラ哲学がキリスト教思想とギリシャ哲学の統合を目指したことを述べ、
その魅力について、自然界、人間、神を全体的に考える視点と、概念や言葉を精緻に区分する視点が統合されていることを挙げています。
細分化しすぎている現代の学問を考える上で、スコラ哲学の体系的な発想が意味を持つとも考えています。
稲垣は学問や思想が我々の生と遊離していることを指摘し、
スコラ哲学が「人間として生きているというリアリティ」に結びついていることを強調します。
文化や学問が細分化によって生や生活に空虚なものでしかなくなっている現状を問題視して、
稲垣と山本がスコラ哲学の持つ全体的な視点を見直すことを提案していることに僕も共感しました。
デカルトにしてもマキァヴェッリにしても中世の思想家は多様な分野の知に通じていました。
最近は専門バカによるオタク的な発想を正当化したいがために、
それが選ばれし者の「芸術的」発想であるかのように仮構したがる輩も目立ちます。
狭い分野の生半可な発想をいたずらにメタ化することは、知性でもなんでもないという認識が、もっと共有されてほしいと思います。
松村良祐は擬ディオニュシオスがトマス・アクィナスの思想に与えた影響について書いています。
このディオニュシオス・アレオパギタについて僕はまったく無知だったのですが、
5、6世紀のシリアの神学者で当時はかなり影響力のあった思想家だったようです。
トマスも、アウグスティヌスと同様の扱いで擬ディオニュシオスを多く引用しています。
パウロの直弟子で『使徒行伝』を書いたディオニュシオスと混同されていたために、
実は別人ということを示すため「擬」とか「偽」とかつけられているようなのですが、
ちょっと気の毒な命名ですよね。
松村は『神名論』にある擬ディオニュシオスの「神の愛は脱我を作り出す」という言葉をトマスがどう理解したかを明らかにして、
トマス自身の「脱我」の思想を深く理解しようと試みています。
脱我は自己を離れて他者へと至る他者志向的な在り方です。
しかし、脱我は自己愛の優位性のもとにあるため、自己愛をモデルとして他者愛が派生するというかたちで把握されています。
では、トマスは愛の対象である他者を「もう一人の自分」として自己投影することで、
自己と他者の境界を取り去るような「合一」を考えているかというと、
そうではないというのが松村の主張です。
脱我は神の愛を通じて、自分ではなく愛の対象へと向かっていくために、
他者というものが自分と異なった存在であることを強調することになる、と述べるのです。
土橋茂樹の論考は東方神秘主義的な「神との合一」概念がトマスによって再生されるまでの流れを追っています。
プロティノスの「一者との合一」には「自己投企と受容」という対概念が欠かせないことを示し、
偽ディオニュシオス『神名論』において「自己投企と受容」がどのように語られているかを見ていきます。
ディオニュシオスは神との合一にあらゆる知性の働きを停止することを求めたのですが、
その後の彼の注釈者(スキュトポリスのヨハンネス?)によって、細分化された部分を総合する知性主義的解釈へと発展しました。
しかし、サン・ヴィクトル修道院のフーゴーからトマス・ガルスに至る学派では、
ディオニュシオスの論にラテン・キリスト教による「愛による合一」の要素が入り込み、
知性を超越した神秘主義的な解釈がなされていて、知性主義的解釈と対照を見せていました。
その後、トマス・アクィナスの『神名論註解』でディオニュシオス注解の集大成が成し遂げられるわけですが、
トマスは神から分有された完全性をもとに、その原因へと遡るかたちで否定的に神へと超越していく途を描きます。
除去による途、卓越による途、因果性による途の三段階を経て、第一の根源である神へと上昇する道を、
トマスはあくまで知性によって遂行されるものとして考えています。
そのため、トマスも知性主義的解釈の延長にあるといえるわけですが、
土橋は「自己投企と受容」の力動性を強調する神秘主義的解釈がトマスにも見られるとしています。
著書『トマス・アクィナス』で理性と神秘の関係について考察した主幹の山本芳久の論考「三大一神教と中世哲学」は、
前教皇ベネディクト16世の2006年の講演を取り上げ、中世哲学を媒介にイスラム教とキリスト教の現代的問題を考えるというものです。
ここで山本は理性と神秘の統合について考察しています。
山本は教皇の講演から中世哲学の理性観である「理性の自己超越性」を読み取ります。
神は人間の理性による把握を超えているのではなく、人間の理性で汲み尽くせない豊かさを備えるため、
理性によって「無限に認識されうるもの」だとして、超越が理性に開かれたものであることを示します。
その後、超越と理性の統合について、イブン・ルシュド、マイモニデスからトマス・アクィナスに至る変遷を追いかけています。
他にも勉強になる論考がたくさんあるのですが、書ききれないので割愛します。
個人的に感心したのは、三重野清顕の「トマスとヘーゲル」というヘーゲル論です。
F・ヘーゲルは『哲学史講義』の中でスコラ哲学を「煩瑣哲学」としてあまり評価していないので、
両者の関係を考える論は意外に思えたりもしますが、
三重野はトマスとヘーゲルを同一性と差異の問題において比較していきます。
超越と内在、同一性と差異とが最終的に同一に帰するという点で、ヘーゲルはトマスと異なるとしつつも、
ヘーゲルが対立者を統一的に把握する同一性の思想家という評価は一面的すぎると三重野は言います。
ヘーゲル思想には有限者と無限者を「切り離しつつ結びつける」否定性の概念があるからです。
三重野は『大論理学』「本質論」にある本質の自己同一性を取り上げ、
ヘーゲルによれば本質と存在は互いに排斥し合う関係であり、本質と存在は否定的関係にあります。
そのような否定的な在り方は共に存在の領域に属しているため、
本質はそれ自身が自己否定的に存在へとなることで、相互排斥関係を解消していきます。
つまり、本質の自己同一性は自己を無化する自己差異化を経由した上での同一性となるのです。
「本質は、自分でないことによって自分自身である、という否定性である」と三重野は述べています。
ここから絶対者を構成する「反省」論へとつながるようなのですが、紙幅の都合で詳細には触れていません。
統一と差異を統合するような反省の自己否定的な活動が、主観と客観を統一する絶対的同一性を導くことが軽く示されています。
対立者を統合するヘーゲル思想の同一性が自己の否定性(他者)を原動力としているという指摘は、非常に重要だと思いました。
アラスデア・マッキンタイアのトマス的実在論にも良いことが書いてありました。
マッキンタイアは哲学的な探求が、職業的な哲学者が一般の人々の問いを受けて進めているとしています。
つまり哲学は専門家の知的パズルなどではなく、人生の根本問題に関わるものだと言うのです。
哲学が学問としての自己保存のために、学問領域の興味にしか応えない「批判のための批判」になってしまえば、
それだけ一般の人々には関係のないものとなっていきます。
人間不在の思想などがまさにそれで、こういう思想は学問を言い訳にした「責任逃れ」だと僕も感じています。
本誌の第二特集は分析系政治哲学と大陸系政治哲学についてのものです。
政治哲学において大陸系も重要であるというような話でしたが、
正直僕にはそれほど興味深い論考はありませんでした。
内容についていくのが大変な特集ではありましたが、新しい思想の世界に触れることができて有意義でした。
評価:
山本 芳久,松村 良祐,土橋 茂樹,坂本 邦暢,松森 奈津子,飯田 賢穂,三重野 清顕,村井 則夫,山内 志朗,アラスデア マッキンタイア,松元 雅和,井上 彰,山岡 龍一,山本 圭,森川 輝一 堀之内出版 ¥ 2,160 (2017-08-20) |
岡田 尊司 著
⭐
この本との距離がわからない
人間関係において、人との適切な距離感がイマイチつかめないという悩みは多くの人にあるものだと思います。
その結果、距離感に悩まない内輪の相手とばかり付き合うことも起こるわけですが、
「ほどよい対人距離」を保つだけではリスクは避けられるが何も生まれない、と岡田は言います。
本書では対人距離を縮めて相手を味方にするタイプがどのようなパーソナリティなのかを、
岡田の臨床データをもとにして示していきます。
岡田はアメリカの精神医学会の診断基準DSM–?に基づいてパーソナリティ・タイプを分類しています。
つまり、もともと精神障害の分類でしかないものを、個人のパーソナリティとして当てはめています。
回避性パーソナリティ、妄想性パーソナリティ、シゾイドパーソナリティは社会適応度が低く、
演技性パーソナリティ、自己愛性パーソナリティ、強迫性パーソナリティは適応度が高い、などと統計データを出して、
このタイプがどうだ、あのタイプがどうだ、という話を延々と続けます。
それぞれのパーソナリティについては岡田の別の著書に詳しいらしいのですが、
所詮は精神障害の分類ですので、人間のパーソナリティを表すには一面的で薄っぺらく、
自分自身でどのタイプかと判断するには、当てはまらない部分が多く出てきます。
したがって、医者が患者の病状をどこかに当てはめていくように、
他人のことを表面的にどこかのタイプに分類して済ますことにしか役立ちません。
岡田も石川啄木やハイジ、赤毛のアンや野口英世、ルソーやオノ・ヨーコたちの都合のいい部分を取り上げて分類に役立てます。
正直に言って、自分自身のことを知りたければ、占いの方がまだ役に立つような気がします。
取り立てて社会適応が高い演技性パーソナリティの幸福度が高いというデータがあるため、
第6章の「対人距離を操る技術」で演技性パーソナリティの人のあり方を「技術」として紹介するのですが、
そもそもパーソナリティとして成立しているものを「技術」として扱うのは無理があります。
当然ながらその特性を「技術」として身につける方法については岡田は全く語っていません。
もともとが精神障害をパーソナリティ化したものなので、それを模倣することが本当に良いことなのかも疑わしいと思います。
たとえば岡田は演技性を正当化するために、社会的知性の本質は演技であるとか言い出して、
ふりをして、相手にそう信じ込ませること、つまり演技することが、社会的知性の本質であり、本当の頭の良さということになるのである。それは、あまり暴かれたくないことかもしれないが、現実を動かしている真実なのである。
とか書いているのですが、社会をナメているとしか僕には思えませんでした。
なるほど、「本当の頭の良さ」を持つ岡田は、こんな役に立たないパーソナリティをいかにも役に立つように演技して書いているのでしょう。
優れた社会的知性は、人間関係において大事なのは、正しいかどうかではなく、相手も喜び、こちらも得することだと考える。つまり、相手の自己愛をくすぐることが、自分も愛されるだけでなく、恩恵を手に入れる方法だということを体得しているのである。
こういう調子のいいことを言ってお互いいい気持ちになるのが円滑な社会関係だという低レベルの話を、
「優れた社会的知性」などという言葉で語ることには不愉快さしか感じませんでした。
僕は精神科医をあまり信用していないのですが、こういう本を読むとなおさらそういう気持ちが強くなります。
岡田自身の自己満足データの与太話に付き合いたい人だけに本書はオススメです。
高橋 昌明 著
⭐⭐⭐⭐⭐
武士という存在を広い歴史的視野で考える
「〈常識〉vs〈史実〉」という帯を見ると、本書が「一般常識と違って史実はこうだった」ということを書いた本だと思えますが、
実際に読んでみると、もっと内容の深い手強い本だとわかります。
わかりやすい軽い本という印象がセールスに結びつくという発想は理解できますが、
デキの悪い本ならまだしも優れた本であっただけに、
こんな宣伝しか思いつかないのか、と岩波書店には少し失望しました。
著者の高橋は中世史が専門で、平清盛の政権を「六波羅幕府」とすることを提唱している挑戦的な学者のようですが、
本書は武士の全体像を描き出そうという試みであるため、
その視野は広範に及び、三島由紀夫の切腹事件までもが扱われるのですが、
専門性に依存しない教養ある冷静な筆致には矜持が感じられて好感を持ちました。
第1章は「武士とは何か」をその発生に立ち戻って考えます。
高橋は武士が武芸の技に秀でた芸能人として誕生したと考えています。
それが家業として受け継がれたので、武士は特定の家柄の出身者に限られるというのです。
つまりは歌舞伎の家みたいなものとして成立したということです。
高橋は武士と侍は違うと言うのですが、このあたりも説明が専門的でとっつきにくさがあります。
侍というのは家の格を表すらしく、六位クラスの下級貴族にあたります。
侍の中で武芸で身を立てれば武士、文芸であれば文士となるのです。
遅くても平安前期には武士は存在したようですが、発生場所については諸説あるようです。
武士が地方で発生したという説に対して、高橋は都で発生したと考えています。
門外漢の僕にはどちらが主流なのかわかりませんが、武具のデザインを根拠にした高橋の説にもそれなりに説得力はあります。
細々した情報が難しいのも本書に読み応えがある理由だと思います。
武士の登場と関係が深い「エミシ」征伐について書かれるときに、
高橋は「エミシ」とカタカナで記述しているのですが、
ときに俘囚という字を当てていて、蝦夷じゃないの?と不思議に思っていると、
俘囚には朝廷の支配下に入って一般農民に同化したエミシという説明が加えられています。
しかし、別のところでは俘囚(エミシ)とは律令国家によって東国に強制移住させられた人たちだと書かれていて、
僕にはエミシや俘囚をどう考えていいのか理解が及びませんでした。
自力で武力を行使できる武士という存在が社会に許容されたのは、それを認知する権力があってのことです。
そのことを考えなくては武士論としての条件を満たしていない、と高橋は述べています。
そして、今より圧倒的に中央集権が行き届かなかった時代に、
地方で武士がどのように王権(その代理である地方長官)から承認されたかを考えます。
このような王権からの承認を武士の発生の条件とすることで、高橋は武士が王権の近くで発生したことを裏付けたいようです。
62ページまでの第1章だけでも、これだけ多様で濃密な内容です。
第2章は源平の争乱から南北朝や戦国時代、江戸時代までの武士の変遷を追いかけます。
この章も盛りだくさんという内容で、高橋の持論である平家政権を「六波羅幕府」と考えるべきだという主張がコンパクトに組み込まれています。
源頼朝や木曽義仲の挙兵など反平家の反乱が拡大したのは、中央に対する地方の不満の爆発であって、
源平の覇権争いに矮小化するべきものではない、というあっさりとした記述にも深い学識を感じました。
豊臣政権によって行われた太閤検地が統一権力による現地の正確な把握を進め、その延長に石高制が成立したこと、
秀吉の「身分統制令」や刀狩りによって、武士と百姓が区別されていったこと、
高橋の説明だと江戸幕府の全国支配の基礎をいかに秀吉が作ったかがよくわかります。
第3章は武士の武器と戦闘の実情について書かれています。
馬に乗ってどのように弓を射たのかについてや、刀を片手で扱ったりしたこと、
馬を降りたら馬は後方に下げて戦ったなど、ドラマで描かれるのとは違った戦場の実際が述べられます。
僕が印象に残ったのは「旗指」という人々です。
旗は敵味方の区別や自己顕示のシンボルとなるものですが、主人に付き従って旗を持つのが旗指の役目です。
重い旗を持ち弓を持てない上に目立つため、かなりの確率で生きて帰れなかったようです。
第4章は「武士道」についてのわれわれのイメージを覆していきます。
戦国時代までの武士は降伏した敵には寛大であったことや、
主人を何度も変えることも珍しくなかったことが示されます。
死の覚悟を武士道とする『葉隠』は江戸時代においてはマイナーな思想でしかなく、
むしろ近代以後に影響を与えたものだと高橋は述べて射ます。
面白いのは、東アジアという視点から見ると武士の思想というものが不思議で理解に苦しむものだろうという指摘です。
儒教は本来、武力などの強制による支配ではなく、文の力によって道徳心を高めて社会の秩序を実現することを目的としています。
その背景には暴力的な力への忌避という性質があるため、武人は高く評価されません。
このような文人支配が未確立だったこともあり、日本では武人の支配体制が確立したのですが、
統治者となった武士の役割が官僚的になったところで儒教が取り入れられることになったために、
日本の儒教理解には独特なものがあるというのです。
今も自衛隊のシビリアンコントロールが時々問題になりますが、日本の文人支配の弱さという歴史背景を考慮すると有益である気がします。
第5章では明治以後にまで視野を広げていきます。
ここで高橋はわれわれの戦国合戦のイメージが、帝国陸軍の横井忠直の関わった『日本戦史』シリーズによって生み出されたと主張します。
織田信長の桶狭間の奇襲や長篠の合戦の武田騎馬隊の三段撃ちでの撃破の様子は、
この『日本戦史』に描かれたものが通説化したものらしく、実際は事実に反するようなのです。
新渡戸稲造の『武士道』は、高橋によると「近世に存在した士道・武士道とはまったく別物である」とのことです。
新渡戸の描く武士道は西洋の騎士道からの類推であって、日本に西洋に匹敵する伝統があるとしたい、
今でも存在する、さもしき日本人の捏造精神の現れであったようなのです。
他にも「そうだったのか!」と思わせる内容が次々に書かれていて、
しっかりと説得力もあって読み応えは十分です。
終章では武士に対するさらに面白い見方が述べられています。
武士はモノノケや邪気を祓う「武」という呪力を司る、陰陽師などと似た存在であったというのです。
「従来歴史研究者は、武士のこうした機能にはまったくといってよいほど関心を持たず」と高橋は述べるのですが、
いやあ、それはそうでしょう、あなたの説は刺激的すぎますから、と思いました。
高橋が魔除けとしての武士について、源頼政の鵺(ぬえ)退治のエピソードを取り上げているのですが、
僕はこの話を読んだことがあるので、実は高橋説に少し信憑性を感じています。
なかなか支持されにくそうですが、個人的にはこの人はすごいのではないか、と感じてしまいました。
本書は単なる武士論にとどまらず、視野の広さから日本論とでも言うべき内容に達していると思います。
広い興味を持ったマニアックな人にこそオススメします。
楠木 ひかる 著
⭐⭐⭐⭐
松尾芭蕉のソフトBLは変身モノ
破廉恥イケメンの松尾芭蕉と素朴な美少年の河合曾良の同居生活をやんわりBL風に描いたマンガです。
歴史人物がイケメン化するのはスマホゲームなどでもお馴染みというところですが、
色気ある侍系男子に比べて芭蕉と曾良という「爺むさい文化人」セレクションに無理がないか心配になるところです。
そこは文化人ならでは、の設定のおかしさで乗り切ります。
「実は芭蕉には口外無用の秘密がある」と曾良はいうのですが、
その秘密とは、芭蕉は俳句を作るときだけ破廉恥イケメンに変身し、
それ以外の時はエネルギーを使い果たして5歳児同然になるというものです。
普段の芭蕉は美少年曾良に世話を焼かれる天真爛漫なガキンチョでしかないのに、
俳句モードに入るとエロ俳諧イケメンへと「変身」して、純朴な曾良を恥じらわせるのです。
押し倒したり、壁ドンだったりとハードな描写はありませんが、
キメ画に俳句が挿入されるのが妙に不条理で笑ってしまいます。
「蕉門十哲」と呼ばれる芭蕉の高名な弟子たちもイケメンぞろい。
(杉風のグローブとか其角のジャケットとか、江戸時代を逸脱していくファッションも見どころです)
日常系ソフトBLというテイストですが、イケメンが織りなす不条理ギャグとしても楽しめます。
俳句に対する興味が必要ということはありませんが、
作中の俳句についての解説コーナーがあったり、
芭蕉のこの句をこんなシチュエーションに使うのか、など俳句に興味がある人はより楽しめると思います。
BLの様式は「攻め」と「受け」がわりあい固定化しているので、シチュエーションへの興味が自然と強まります。
形式的でシチュエーション重視という性質が俳句と案外似ているんですよね。
イケメンと同じくらい自然風物の見せ方も美しくなっていけば、さらに味わいが出るような気がします。
(付記)
このマンガのBL的な要素はあくまでソフトなものなので、ここでBLの考察をする必要もないのかもしれませんが、
いい機会なのでちょっと整理しておきたいと思います。
BLはボーイズラブの略ですが、多くは男性同士の性描写が描かれます。
そこには「萌え」と同じく性的な欲望が介在します。
特筆すべきはその構図の様式化で、
「攻め」の側は長身で大人びた美形風男子、「受け」の側は短身の少年風男子というパターンが王道です。
能動と受動が様式として固定化されることには、男性と女性の歴史的な位置付けの影響が感じられます。
男性と女性の関係を男性と男性の関係に置き換えているわけです。
ポイントは「女性の身体が不可視化されている」という点にあります。
BLの受容者は女性が前提とされているため、女性の視点で見ると、
BLは自分自身の身体的な女性性に反省的に向き合うことなく感情移入できるようになっていることに気づきます。
その意味では女性読者は「受け」の男性に対してより感情移入することになると予測します。
「受け」の方も男性として描かれることで、
女性は性的に受動の立場にあったときも自らが女性として振舞うことの重圧から解放されます。
重要なのは、自らが女性であるという事実をカッコに入れることで、性欲を軽やかに消費することが可能になるということです。
男性の「萌え」もそうなのですが、
性欲を自分から切り離して軽やかに消費することは、
自らの性欲を社会的に交換可能なものとする「物象化」の現象だと言えるのかもしれません。
BLを読んで感じるのは、愛し合う二人の男性がソウルメイトというか、魂の同質性において結びついているように思えることです。
構図は対照的でも内面的には同質的であって、その内輪的世界観がオタク気質と相性が良いのだと思います。
そのような同質性の内輪空間は、自らの身体を不可視化することで成立する、「私」の不在によって支えられています。
このような他者不在のオタク的世界のあり方と最近の俳句のあり方に共通性があることを、
はからずも本書が示していたのは興味深いところでした。
最近の「若手」俳人の中には、「私」の不在を何か高尚なものであるかのように語る人がいて、
それをアートであるかのように「勘違い」したがっているのですが、
そのようなメタ化による「私」の不在は、前述したようなBL的なオタク文化の発想と共通しています。
本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。
どこぞの俳人が男のくせにBL俳句などというものを作っていることについては、もはや語るのも忌まわしいのですが、
男性がBL作品と銘打って作品を作るということは、
自身の延長である身体を描きながらも「私」の不在が実感できるということでしょうから、
自らに実感できる身体性そのものが不在であることを明らかにした作品でしかないという結論になります。
この人は自分の身体的基盤をとっくに失っていて、ただメディア空間を漂う「流通する自意識」としての自己を生きているのでしょう。
僕にも長年の持病が刻まれた自分の身体を憎む気持ちはありますが、身体不在の生が成り立つというのは妄想です。
自己や現実からの逃避はサブカル作品にはなりえても、文学や芸術には絶対になりえないことを強調しておきたいと思います。
中原 圭介 著
⭐⭐⭐⭐⭐
東京一極集中が少子化の元凶
本書で中原は日本の経済の先行きを懸念しているのですが、東京一極集中の問題を別にして、
内容を拡大すれば「世界経済の危機」と考えてもいいような内容です。
日本経済の問題にとどまらないだけに、その深刻さは読んでいて憂鬱になってしまうくらいです。
経済政策は「普通の暮らしをしている人々のために存在している」と考える中原は、
現在の経済政策や金融政策が富裕層や大企業にだけ恩恵があり、
大多数の普通の人のことを考えていないことを問題視しています。
これは経済的弱者の立場に立つ左派的な意見というわけではありません。
消費活動によって実体経済を下支えしているのは、大多数の普通の人々だという現実があるからです。
一部の人だけを裕福にしているだけでは、総体としての経済は低迷するしかありません。
最近の株価などから判断すると、先進諸国は好景気だと言えるでしょう。
しかし、中原は現在の景気が異常な量の国の借金(公的債務)で成り立っているため、
非常にリスキーな状況にあると述べます。
今の世界の経済状況は、経済に過熱感はまったくないものの、後に「借金バブル」だったといわれるかもしれません。なぜなら、リーマン・ショック後の世界経済は借金バブルによって支えられてきたからです。今の長期にわたる世界経済の緩やかな景気拡大期は、借金バブルの賜物であったといえるのです。
アメリカでは低金利を背景に借金による消費が進み、中国では企業などの民間債務のペースが増したことで、
世界の公的債務は異常なペースで膨らんでいます。
僕は欧州の債務超過を問題視する別の本も読んだことがありますので、
今のような経済状況がいつまでも続かないことはよくわかります。
それ以上に興味深かったのは、
中原がAI利用の拡大が、人件費の削減以外の恩恵を大してもたらさないと考えていることです。
AIによって多くの雇用が奪われる、という指摘は特に珍しくもないのかもしれませんが、
中原の記述には悲観的なトーンも反発心も感じられることはなく、ひたすら分析的なので、
淡々と末期ガンの説明を受けているような気分になります。
イノベーションによって新たな雇用が生まれる、という発想は通用しないと中原は述べます。
いま実現を目指しているイノベーションは、これまでとはまったく様相が異なります。21世紀以降のIT、AI、ロボットによるイノベーション(第4次産業革命)は、コストを抑えるための自動化を最大限にまで推し進め、これまでの産業集積や雇用を破壊していくという特性を持っています。
この結果、AIやロボットによる効率化は、世界的に失業者を増加させると中原は指摘します。
「資本」の原理による効率化を極端に推し進めることが、本当に「社会」にとって効率的なのか、
「資本」と対決できる民主的な「社会」の論理が必要になると僕は感じました。
中原が日本経済の最大の問題点とするのは少子化です。
これから少子化が進むために社会保険料の負担がますます増加していき、
賃金や給与から税金や社会保険料を差し引いた手取り分である「可処分所得」は、
2020年あたりでは実質10パーセント以上の減少もありえるというのです。
最後の章で中原は東京圏への一極集中が少子化の元凶だと指摘します。
地方の人口が東京に流出しているだけでなく、最近では名古屋や大阪など他の大都市圏の人口を東京が吸い上げるまでになっています。
東京は生活コストも高く、長時間労働が常態化しているため、晩婚化による少子化が地方より進んでいます。
東京一極集中が進むと、それだけ少子化のペースが早まるのです。
前々からわかっていた問題なのに、政府は有効な対策を講じることができていないわけですが、
中原はコマツという企業が本社機能を東京から石川県へと地方移転したことを紹介して、
このような取り組みが対策のひとつとして期待できることを訴えています。
ただ、コマツのようなケースが多くの企業に当てはまるかどうかは、不透明だと思いました。
東京一極集中はずいぶん前から問題として存在していましたが、
ほとんど実質的な意味がない憲法改正と比べても、明らかに一般レベルでの議論の対象となっていません。
石原慎太郎東京都知事の時に、首都機能移転が持ち上がったこともありましたが、
候補地の話が出たあたりで「やっぱり」立ち消えになってしまいました。
省庁の地方移転も進める話もありますが、まだ消費者庁くらいしか実際には動いていないはずです。
民主党政権が倒れて以後は、地方分権の構想も表に出なくなりましたし、
現政権は束の間の「今」の繁栄だけを追い求める無責任な政治を行なっていて、それを多くの国民も支持しています。
本書では東京一極集中の問題にそれほどページが割かれていませんが、
僕は日本人の天皇制を精神的基礎とした中央との同一化という「歴史的精神」が影響していると思っています。
都の真似をする「みやび」が日本人のオシャレ精神として歴史的に受け継がれてきただけに、
日本人自身の手では永遠に解決は不可能だと僕は予想しています。
国家財政が破綻してIMFでも入ってこないことには、日本は変わらないのではないでしょうか。
伊藤 公雄 著
⭐⭐⭐⭐⭐
全体主義の危機を見据えて「戦後」を見つめ直す
著者の伊藤は京大、阪大の名誉教授という肩書きを持つ社会学者で、
これまでの著作を見る限り、男性性に関するジェンダー論で知られているようですが、
伊藤自身は「政治と文化」のかかわりを社会学的視座で幅広く研究していると述べています。
本書の第1部は戦中派世代について調査した80年代の論考が収録されています。
戦時中の軍関係者によって構成された戦友会を、
兵学校の同期生などの「学校戦友会」と所属部隊による「部隊戦友会」を大小に分けて、
それぞれの特色を描き出しています。
たとえば靖国神社国家護持についての態度を見ると、
学校戦友会と小部隊戦友会に比べて、大部隊戦友会が積極的であることがわかります。
伊藤は大部隊の「所属縁」が小部隊より弱いために、集団維持のために制度を必要としているからではないかと考察しています。
次の論考では戦中派が「戦争」や「天皇」に対する思いを、60年安保を境にどう変化させていったかを考えます。
大きく見れば、日本社会の成熟を背景に、批判的な態度から肯定的な態度へのスライドが起こったと伊藤は捉えています。
戦中派世代は経済成長によって「戦中・戦後を貫通したアイデンティティの探求を開始した」のですが、
過去の敗戦経験から「ナショナルなもの」への全面回帰には至らず、「相対化」による現状肯定へと至ったとします。
伊藤のこの分析を逆転させれば、敗戦経験のない戦後世代は「ナショナルなもの」へと無邪気に一体化できることにもなります。
第2部は昭和天皇の逝去と憲法体制を扱った90年代の論考です。
「憲法と世論」は96年の論考なのですが、現在にも通用する内容には正直驚きました。
考えてみれば不思議なことだ。日米安保条約を「錦の御旗」とする「対米従属派」以外の何者でもないような戦後の保守派、あるいは「右翼」勢力は、なぜ「アメリカの押し付け憲法廃止」などと矛盾したことを語るようになったのだろうか(先日、散歩をしていたら右翼の宣伝車が駐車していた。中を覗いたら、星条旗グッズであふれていたのでちょっとビックリしたものだ)。
右翼の街宣車に星条旗という話は、最近出版された白井聡『国体論』でも取り上げられていましたが、
伊藤は白井より明確に「右翼」の姿勢を「矛盾」と表現しています。
対米従属派でしかないのに、アメリカの「押し付け」に反対するようなことを口にする矛盾、
伊藤は自衛隊の誕生もアメリカの「押し付け」で為されたことを指摘し、
そのご都合主義的な主張のおかしさを冷ややかに語っています。
一方、左翼が憲法改正に触れなくなったことにも疑問を呈します。
この論考では憲法記念日の読売新聞と朝日新聞の社説の比較など、面白い試みをしているのですが、
伊藤のすぐれた見識だと僕が感じた文を引用します。
ぼくたちは、日本国憲法を語るとき、ややもすれば、その背景にある歴史的な文脈を見失いがちだ。しかし、日本国憲法は、よくもあしくも、アジア太平洋一五年戦争の生み出した歴史的産物なのだ。憲法を語ることは、その点で、あの戦争の総括を迫ることと密接に重なりあっているはずだ。しかし、戦後の憲法論議は、多くの場合、こうした歴史への視線を見失ってきた。
伊藤は日本の憲法論議は改憲派も護憲派も日本の内側だけの事情で考えられていて、
アジアを視野に含めていないことを問題視しています。
なかなか重要な指摘だと感じました。
第3部にはポピュラー・カルチャーから「戦後」を考える論考がまとめられています。
91年から2015年までの比較的最近のものになりますが、
いきなりサブカルを含めた文化論になるあたり、伊藤の関心の広さが窺えます。
「戦後・社会意識の変容」という論考では、60年代から70年代への変化を文化を題材にして描き出そうとしています。
70年代に社会がとりあえずの「成熟」を果たすと、「批判性」よりも「保身性」に傾いていったことを指摘した伊藤は、
若者の「社会」志向から「私」志向への変化を文学作品を取り上げて対照してみせます。
石原慎太郎の『太陽の季節』は「社会」志向、
村上龍『限りなく透明に近いブルー』や村上春樹『風の歌を聴け』は「私」志向とされるのですが、
その中間が庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』だとするのは多少違和感がありますが、
大まかな捉え方としてはそれほど異論はありません。
この論考で非常に共感できる部分は、伊藤が70年代以降の消費資本主義社会を、
イデオロギーの終焉と捉えるのではなく、非人間的で抽象的な「資本」の支配が強まった社会として考えていることです。
この「イデオロギー終焉」の時代、一見、バラバラな小さな「物語」が無政府的に氾濫している時代こそ、イデオロギー的支配の深化の時代と考えた方がいいのではないか。ある社会学者の言葉を借りれば「ポストモダン的な断片性や脱中心性こそ、イデオロギーが、葛藤し競合しあう自己正当化するさまざまなディスコースの多元性の上に存在していることを明らかにしている」そして「さまざまなディスコースは、権力と支配の問題に密接に結び付いている」のである。
伊藤はポストモダン社会をイデオロギーの終焉と把握するのではなく、
イデオロギー的な文化支配を、表面的な断片性、脱中心性を超えて分析するべきだと述べます。
これは非常に重要な指摘だと思います。
消費資本主義イデオロギーが、断片性、脱中心性を特徴として文化支配を強めているのに、
日本のインチキポストモダン学者たちは、表面上の意匠でしかない断片性と脱中心性を深遠な思想の現れであるかのように語り、
資本のイデオロギーと戦うどころか、資本の犬となって中身のない著書を売ることに奔走しています。
僕がレビューで同様の内容の批判をすると、「ポストモダン嫌い」とレッテルを貼って文句を言う学者もいたのですが、
社会学の分野では僕の書くような批判はすでに語られていることだとわかりました。
内輪の意見しか知らない無教養な学者ほど、他人の批判を聞くことができないのです。
「戦後男の子文化のなかの「戦争」」も興味深い論考でした。
70年代以降のマンガでは「兵器」を持たない肉弾戦による暴力シーンが増えるのですが、
伊藤は逆に「身体性の喪失を強く感じさせられる」と述べています。
主人公の強さは努力で身に付けるものから天性のものとして描かれるようになり、
読者はヒーローに憧れるのではなく、ただ「傍観」するだけとなる、という見方はすぐれています。
また伊藤は、70年代を境にして、男の子のヒーローが一匹狼から友情に支えられた集団戦へと変わっていくとして、
社会や経済の「個人化」が進行したために、幻想において「共同性」が求められると述べています。
そのため、この「共同性」に中身はなく、個人のアイデンティティ保証のための幻想が求められているだけで、
内的な凝集性は不在だと喝破します。
(ここを読んで、僕はやたらと集団化したがる一部の傍流若手俳人たちを思い浮かべてしまいました)
ポップカルチャーの分析として、本書はもっと注目されてもいい内容だと思います。
本書の視座が多岐にわたるために、なかなか適当な読者のもとに届かないのではないかと危惧します。
(書名からポップカルチャーを扱う本だとは想像がつかないのではないでしょうか)
内容はすぐれていると思いますので、多くの人に読んでもらえることを願っています。
南木 佳士 著
⭐⭐⭐
とりとめのないゆったりとした老境
芥川賞作家で医師でもある南木佳士の連作短編集です。
帯には「南木物語の終章」と書かれているのですが、
南木自身と重ねられる語り手の老境がこれということもない日常から浮かび上がります。
本書には4編の短編が収録されていますが、
前半の「畔を歩く」「小屋を造る」は書き下ろしで、残りは「文学界」に掲載された作品です。
南木の小説を読んだのが初めてなので、単に読みが浅かったのかもしれませんが、
全編を通して、味わいの「淡さ」が逆に印象的でした。
随筆と小説の区別が曖昧なスタイルは、古井由吉などを代表として、日本では珍しくもないものですが、
物語性を捨てて作者の感慨を前面に出すスタイルのはずが、南木自身の感慨が非常に「淡い」のです。
「畔を歩く」は語り手である医師が、長野の総合病院を退職するにあたり、去来する思いを綴ったものです。
語り手の記憶がとりとめもなく展開していくため、この話はいつのことなのか把握が難しく、
そのうえ、語り手自身の私生活は影をひそめるわりに、患者の人生が唐突に入り込んでくるので、
これが誰の話であったかも見失いそうになる瞬間があります。
小説があまりうまくないといえば、そうなのかもしれませんが、
他人など存在しないかのように「自分語り」に勤しむ若い世代の文章にウンザリさせられているだけに、
僕としてはこういう老境の「淡さ」が興味深く、そして貴重に思えました。
適当に目についた文を引用します。
丁さんは小屋の構造のあまりの脆弱さに、腰に手をあてて甲高く笑った。
だれだよなあ、こんなちゅっくれえなもん建てた連中は。
笑いの果ての腹の底に力のこもらぬ発語は、これも廃材で制作されたすのこを何枚か敷き詰めて床とし、丙さんの手によって解体現場から直接持ち込まれた粗末な椅子とテーブルと食器棚を備えたこの小屋の常連だった丁さんの、なんだ、おれはこんなところに何年も通って焼酎を呑んでいたのかよお、との自嘲を含むらしい。
カギカッコを使わないで行空けをしてセリフを書いたり、
むやみに文節をつなげて長々しく文章を書いて茫漠としていたり、
あまりうまい文という印象は持てないのですが、
それでも印象を刻むような流行りの短文とは正反対の、屈折のこもった「淡さ」に、南木の年輪を感じないわけにはいきませんでした。
登場する患者には人名で呼ばれる人も登場するのですが、
語り手の仲間の人物たちは、甲さん乙さん丙さん丁さんとだけ記述され、
読者が彼らをキャラクターとして把握することを拒むように描かれています。
キャラの薄い人々が小屋を造り、小屋を壊すだけの話など、
あまりにとりとめがなさすぎて多くの人にウケるとは考えにくいのですが、
ときにこのような日本らしい小説が読みたくなるので、
できれば芥川賞経由の純文学というジャンルは生き残ってほしいものです。
新谷 尚紀 著
⭐⭐⭐⭐⭐
「神道とは何か」を通史で解き明かす試み
本書は「神道とは何か」を柳田国男の系列にある民族伝承学の立場から探求したものです。
最初こそ折口信夫の「かむながら」という語についての考察が取り上げられていますが、
本書全体の内容は通史的なアプローチが中心なだけに、
歴史的な手続きや文献の紹介は相当にしっかりしているという印象がありました。
読者は著者の専門を特に意識しなくても読んでいけると思います。
「神道は、その本質は、素材materialsにではなく、形式formeにある」
新谷はそう述べて、神道は「容器」であるという結論を冒頭で示しています。
一般的に宗教には教祖・教義・教団の3つの要素があると言われますが、
神道はそれらが曖昧であるため、一般的な定義としては宗教と呼びにくいことは確かです。
乱暴に言ってしまえば、これという内容がないために、「容器」だと言うしかないということでもあります。
新谷は指摘していないことですが、一般的な宗教は特定の国家と密着していないものです。
しかし、神道は日本という「場」にひどく密着しています。
「容器」にしても、その容れ物が日本という「国」とあまりに密着しているのはなぜなのでしょう?
(ユダヤ教はユダヤ人と密着しても、「国」とはさほど密着していません)
新谷の考察がこのことに及ばなかったことが僕には不満ですし、
そのために本書の結論が不明瞭で曖昧なまま終わってしまったように思います。
記録の中で「神道」という語が初めて登場したのは『日本書紀』ですが、
神祇信仰と神祇祭祀を意味で宗教的な体系性はなかったと新谷は述べています。
桓武王権の時に使われた「神道」の語には、古来の神器祭祀という意味に加えて、
世に益を与える目的を備えた儒教的な徳治思想の考え方が混じります。
任命天皇の勅では、神道は仏法に従属するものとされていたりします。
このように、神道は儒教や仏教の混合物のようになっていて、
実際は儒教や仏教に対して独立した同一性を持つものと考えるのは難しいことがわかります。
これを新谷は「神道」という語の「包括力の強さ」としています。
中世の神道、近世の神道、近代の神道、それらに一貫して見出すことのできる特徴とは、まさにこの、どんな意味でも吸い込んでしまう「神道」という語の包括力の強さなのである。
こうして新谷はそれぞれの時代の「神道」の意味するところを描き出していくわけですが、
「どんな意味でも吸い込んでしまう」ということを裏から考えれば、
これといった歴史的同一性を持っていないということになるわけです。
そのつどそのつど自分を満足させる「言い訳」さえあればいい、
そのような場当たり的な肯定感(スキゾフレニー!)こそが日本という「容器」の正体ではないかと僕は疑っています。
それが最もよく現れたのが、室町時代後期に創唱された新しい神道である吉田兼倶の吉田神道・唯一神道ではないでしょうか。
吉田神道は密教や道教や陰陽道を模倣しつつ、神道が仏教伝来以前から日本に存在した正統な教えであることを主張しました。
外来文化を取り入れて成立したものが日本文化であるのに、それに先立って日本独自の本質があったと主張したがる、
このような心理は明治以後の国家神道にもつながっています。
兼倶の独自性は、積極的にみずから経典を偽作し(「神明三元五大伝神妙経」等々)、神話を捏造して(国常立尊を大元尊神として主神として、天照大神が天児屋根命に授けてその子孫である卜部氏が代々相承してきた神道だと主張するなど)、仏教中心ではなく神祇信仰を中心とする新たな神道説を強引なまでに主張しそれを実際に広めていった点にあった。
吉田兼倶は偽造と捏造によって、神道が万法の根本であって、仏教や儒教はその枝葉にすぎないと主張したのですが、
その考えも兼倶のオリジナルではなく、『鼻帰書』をもととした両部神道の流用だと新谷は述べています。
新谷は中世神道の姿として語っていますが、僕は典型的な後進国のやり方だと感じます。
近世神道になると、江戸幕府の支配イデオロギーである儒教を背景にした神道論が見られるようになります。
林羅山の理当心地神道では、儒学は神道を含むものとされ、神道の実践が儒教的な人徳の政治の実践だとされました。
山崎闇斎が唱えた垂加神道は、朱子学の理と神道の神を結びつけ、
人の心には天の理である神が内在し、神が心の本質をなしているとして、
それを「天人唯一之道」と表現しました。
これを唯一具現したのが天照大神であるとしたことで、
「君(天皇)の地位は絶対不変であり、君が不徳の場合でも君臣合体の境地に至るまで相互に努力すべきである」としたと新谷は述べます。
天皇への絶対的な信仰を説いたこの垂加神道は、のちに尊王論へとつながっていきます。
平田篤胤の復古神道は戦前の国家神道との関係でイメージが良くないのですが、
新谷はその後のことはともかく、当時の平田篤胤の実像を描くことに精を尽くしています。
しかし、僕にはやはり平田の思想自体に戦時国体の精神につながるものを感じないわけにはいきませんでした。
平田篤胤は、あらゆる事物の背後、究極に神が実在する、という考えをもとにして、人間の本性を、産霊神の御霊によって授けられた情・性・真の心であり、それに対して偽らずに生きる道を、真の道だ、と解説したのである。
このような思想は戦時の浄土真宗から登場した暁烏敏の思想と酷似しています。
つまり、現世の欲望を偽らずに解放する享楽的生活こそが神の道であるという考えです。
儒教も仏教も人の真の情に逆らった実行不可能な掟を立てている、として、
平田はそれらを退けて皇神の道を語るのですが、
新谷は平田の教説にも儒教や仏教の類似が見られると指摘しています。
本書はこのあと明治政府による神道政策や国家神道について見ていくのですが、
新谷は明治政府の神道政策は長州派の維新官僚が作り上げたもので、平田などの近世神道とは直接の関係を持たないと考えています。
しかし、僕はこのような神道の歴史を見てみると、現在まで続いている日本人の「らしさ」というものを感じないではいられません。
外来文化を勤勉に摂取し、それを自己流に工夫し利用して、最終的に集団的ナルシシズムの充溢をめざすというルートです。
これを段階的なものとしてまとめましょう。
佐野波布一の日本精神の歴史的段階論とでも言っておきましょうか。
? 外来文化の勤勉な摂取
? 外来文化を自己流に工夫して利用
? それを自らのアイデンティティとして捏造
? 引きこもり的内輪享楽にふけって自滅、混沌、衰退
日本人のメンタリティはだいたいこれの繰り返しではないでしょうか。
戦後日本の歩みもこの流れに合致すると思います。
もちろん現在は第?の段階にあたります。
共同体のあり方を個人がどうにかできるはずもなく、僕はこの流れを冷静に見つめていくだけですが、
歴史の必然には逆らえないのではないかと思っています。
寄川 条路 編著
⭐⭐⭐⭐
現代に生き続けるヘーゲル思想
日本では20年以上の間、出版業界やマスコミでは現代思想というと〈フランス現代思想〉一色で、
〈フランス現代思想〉ファシズムと言ってもいい状態を続けてきました。
そのため、マルクス・ガブリエルのようなドイツ思想家の紹介文や対談相手まで、
〈フランス現代思想〉研究者が指名される滑稽な国になってしまいました。
このような状況下で、
ドイツの現代思想研究者は日本に存在しているのか、と疑問に感じるのは僕だけではないと思います。
それで大きな書店で探してみたところ、本書と出会いました。
晃洋書房──やっぱり商売気の強い出版社ではないんですよね。
日本でほとんど過去の人扱いされているF・ヘーゲルの思想は、
海外ではヘーゲル・ルネサンスと言われるくらい取り扱われています。
(それを考えるだけでも、日本の〈フランス現代思想〉偏重が非学問的動機を背景にしていることがわかります)
その見取り図を示したのが、本書の姉妹編といえる『ヘーゲルと現代思想』ですが、
マルクス・ガブリエルについて書かれた論考が入っていたので、こちらを先に読ませてもらいました。
小井沼広嗣が執筆した第1章は、ヘーゲルを再評価したチャールズ・テイラーを取り上げます。
テイラーはヘーゲルを共同体主義者として評価しています。
近代になって登場した自由な個人は、
自分自身で自分の生き方を規定する「自己規定する主体」となりましたが、
そのかわり、自己を束縛するいかなる具体的な状況をも拒否するために、
現実に着地できない存在となってしまいました。
そこでテイラーは状況によって自由を規定する「状況づけられた主体」が重要だと考え、
ヘーゲルの「客観的精神」などを援用しつつ、それを探求したのです。
総括的にいえば、テイラーは、ヘーゲルが啓蒙主義に由来する「自己規定する主体」を批判し、代替として「状況づけられた主体」を探求した点において、ヘーゲルを評価する。しかし、そこで提示された自己、ならびにそれを可能とする文化的共同体が、最終的には宇宙的精神が自らを表現するさいの媒介物として解釈される点については、ヘーゲルに対し否を突きつける。
小井沼がこう述べるように、テイラーは言語などの文化的な共有財産によって成立したヘーゲルの「客観的精神」を評価するのですが、
ヘーゲルがその先に見た形而上学的な「宇宙的精神」については受け入れていません。
ここでは「状況づけられた主体」に基づいて多文化主義的なアイデンティティの相互承認の重要性に至る、
テイラーの共同体を重視した思想のあり方がまとめられています。
岡崎龍による第2章は、G・ルカーチの「物象化」論を再構成したアクセル・ホネットの思想と、
それに対する批判を紹介しています。
ホネットは「承認」を人間にとって本来的なものと捉え、物象化が承認を忘却すると批判しました。
岡崎はこのホネットの論に対するD・クヴァドフリークとJ・バトラーの批判を確認したあと、
再びルカーチの物象化の考察へと戻ります。
自分に属する契機がすべて商品化されたプロレタリアートは、客観的存在としての主体でしかないとルカーチは言います。
主体を否定して客体化したプロレタリアートは、その物象化した状態を逆説的に主体性としているのです。
岡崎はルカーチに関連するヘーゲルの『精神現象学』を読み直し、
客体としての「事そのもの」が、主体へと移行することを考察することで、
ルカーチの物象化論の構想を捉え直そうとしています。
鈴木亮三の第3章では、J・ハーバーマスの『自然主義と宗教の間』を取り上げて、
哲学の脱宗教化についてヘーゲルの祭祀=供犠の考察を参照しつつ考えていきます。
岡崎佑香の第4章は、J・バトラーが『アンティゴネーの主張』で展開したヘーゲル批判を扱っています。
岡崎はバトラーとヘーゲルそれぞれの解釈を比較して、ヘーゲルが女性の欲望と共同体をどう関連づけていたかを明らかにします。
飯泉佑介が書いた第5章はマルクス・ガブリエルの新実在論を扱っています。
ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は体系的な思想書として完成しているとは言い難いため、
その後のガブリエルの学術論文を読んだであろう飯泉の論考が楽しみでしたが、
読んでみて、彼の主張には大いに不満が残りました。
飯泉は重層的な対象領域や意義領野(Field of Sence、「意味の場」)に基礎付けられたガブリエルの存在論を、
「階層理論的な無世界論」と捉えて、ヘーゲルの思想と照らし合わせていくのですが、
僕がガブリエルのレビューで書いたように、彼の「意味」(意義)の再評価に着目せずに世界の不在だけを語る理解は、
ガブリエルの思想を去勢するような読み方でしかありません。
伝統的に形而上学が「実在の全体」(omnitude realitatis)を対象としてきたことを踏まえるならば、無世界論的な新実在論はまさしく「メタ形而上学的ニヒリズム」と呼ばれるにふさわしい。「世界は存在しない」という主張は、形而上学の対象そのものが存在しないことを意味するからである。しかし、そこから新実在論の意義が何よりも反形而上学的な考え方にあると推測するのは誤りである。なぜなら、この考え方だけを取り出すならば、それは、ハイデガーやルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの形而上学批判にも見て取れるからである。
このように飯泉はガブリエルの新実在論が「反形而上学」であるという理解を「誤り」とまで強調するのですが、
その根拠がハイデガーやヴィトゲンシュタインの形而上学批判が結果的に形而上学だったから、という意味不明なものなのです。
ハイデガーが存在の全体を「無」と捉えたことと、ガブリエルの世界の不在という主張を結びつけ、
世界の不在=無世界と解釈してしまうわけですが、これは飯泉の手前勝手で短絡的な解釈でしかありません。
それは世界の全体を語ることを禁じるガブリエルの主張に逆らう行為でしかありませんし、
普通に考えても、「世界は存在しない」という言明と「世界の全体は無である」という言明が、
同じ意味を表していると解釈することは論理的に誤っていると言えます。
もし、ガブリエルが世界の全体を無世界と考えているとするなら、ガブリエルの文章を引用してそれを立証するべきでしょう。
「ハイデガーもそうだったから」では理由になりません。
ドイツ観念論の研究者であるガブリエルに形而上学的な志向がないとは僕も思いませんが、
それを「世界」という全体性の観念で捉える形而上学に関しては、ガブリエルは明確に反対していると思います。
その意味では反形而上学的な解釈を「誤り」とまで断言することが妥当だとは思えません。
このように飯泉はガブリエルの主張に反して世界の全体を語る形而上学視点を守り続けるため、
最終的に矛盾を自ら露呈するような文章を書いてしまいます。
ところでガブリエルの領域存在論も、無限の諸領域の動的な階層構成によって「世界」を考察する方法論だった。それゆえ、ガブリエルはヘーゲル哲学の方法論的特徴を摂取し「再構成」して、自分の領域存在論を練り上げたと推測できるのである。
飯泉の中では「世界は存在しない」ことを主張したガブリエルの論が、
「階層構成によって「世界」を考察する」領域存在論になってしまっています。
世界を考察する方法だったら、世界は存在しているじゃん!
もうガブリエルの主張が台無しです。
あげくヘーゲルの「再構成」とまで言うのですが、F・シェリング研究者であるガブリエルにシェリング思想の影響はないのでしょうか。
(まあ、「推測できる」らしいので勝手に書いても良いのでしょうが)
僕はガブリエルの思想には、人間主体を基盤とした意味の再評価によって、非人間的領域のメタ化を禁じる狙いがあると思います。
自然科学の一元的専横などの、人間不在のメタ化を戒めたいという思いは、
ガブリエルが意味を重視していることでも明らかではないでしょうか。
もし、飯泉の解釈が正しいのなら、なぜ彼の解釈からはガブリエルが意味を重視したことが抜け落ちてしまうのでしょう。
自分にとって都合の悪いところは無視し、都合のいいところを「再構成」してわかった気分になる、
日本の西洋思想研究にありがちな態度だと感じました。
(ガブリエルが2015年以降に『意義領野』とか『意義と存在』という題名の論を出していることはどうなるのでしょう)
〈フランス現代思想〉は日本では本国の思想とかけ離れたインチキ思想になりましたが、
こういう論を平気で書くようだと、ドイツ思想の研究者も同じ穴のムジナだということになってしまいます。
帯には「社会問題に切り込む実践の書」とありますし、「まえがき」にも「ヘーゲル哲学の実践編となる」とありますが、
本書には具体的な社会問題が言及されているわけでもなく、実践的な要素は皆無でした。
本書はどう見ても思想を紹介したり考察したりする普通の思想書です。
題名や本全体の方向性のアピールについては、もっとふさわしい書き方があるように思います。
他人の問題行為に乗っかって言論弾圧に加担する
クサレ俳人への佐野波布一コメント
集団で悪口をリツイートするのは「イジメ」の構造そのもの
去る4月16日に立命館大学の准教授でフランス現代思想の研究者である千葉雅也が、
彼の著書『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する僕が書いたAmazonレビューに対して、
ツイッターで「侮辱」だ「中傷」だと騒ぎ立て、自分のフォロワーを僕への批判投票に駆り立てただけでなく、
自らAmazonに毎日毎日違反通告をして、僕のレビューを6回も消去させました。
そのツイッターの文面とそれに対する僕の反論は4月25日のブログに載せてあります。
そこでも書いていますが、Amazonレビューにはガイドラインがあり、誹謗中傷や扇動と見られるレビューは非掲載となります。
繰り返し掲載できるということは、アマゾンの判断ではガイドラインには抵触していない、誹謗中傷ではないということです。
つまり、千葉は自分にとって不都合なレビューを、「侮辱」「中傷」と難癖をつけて消去しようとしたのです。
こういう態度は不都合な内容を書き換えてしまう財務官僚と同様のものと言えると思います。
さらに問題をはっきりさせておきたいのですが、
僕のような自分の文章から1円たりとて収入を得ていないアマチュアの書くものを、
プロであるはずの人物がAmazon上から排除しようと必死になるのはなぜなのか、ということです。
所詮はアマチュアの言っていることなのですから、放っておけばいいはずなのです。
それなのになぜ千葉はファンを動員するパワハラを行ってまで、執拗に僕を攻撃するのでしょうか?
それはおそらく、僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いるからです。
変な人が勝手なことを言っているだけなら、自然淘汰されるのがAmazonレビューです。
僕の書いた千葉の著書のレビューはいつも上位に位置していました。
このように批判者が可視化されることに、千葉は我慢がならないのだと思います。
賛同者が一定数いるのに、千葉は僕のことを「悪質」だのなんだのと文句を言い、
果ては「弁護士が中傷と判断している」などと僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、
まるで僕が違法行為でもしているかのように印象操作を行いました。
千葉が有名であることを利用して言論弾圧をしていると僕は感じました。
あまりに不愉快だったので、
僕は千葉雅也を雇っている立命館大学に、このような千葉の行為が教育者としてふさわしいと考えているのか、
メールで問い合わせました。
無責任な教育機関である立命館大学は返答をよこしませんが、
それ以後、千葉が僕を名指しで悪く言うツイートはなくなりました。
何があったかは、推して知るべし、というところです。
つまり、千葉の僕に対するツイートはあらゆる角度から考えても不適切なものだったわけです。
千葉自身が悪口ツイートと違反通報を控えたことに、彼のツイートの不適切さがハッキリと現れています。
さて、ここからが本論です。
このような千葉雅也の恥知らずな言論弾圧ツイートの尻馬に乗って、
それをリツイートして世間にばらまいた卑怯な俳人たちがいるのです。
これらの俳人は宣伝塔として積極的に僕の言論を弾圧する行為の片棒を担いだわけですが、
集団で同時多発的に事実に基づかない不適切ツイートを拡散させることが、
僕に対する「イジメ」(もしくはネットリンチ)に当たるのは明らかです。
この俳人たちが自分の著書への批判レビューを「根に持っていた」ことは想像できますが、
自分自身では僕に反論もしなかったのに、
あろうことか大学から戒められるような千葉の行為を利用して、
寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担するという汚いやり方で、自分の復讐心を満足させたのです。
なんて程度の低い人間たちなのでしょうか。
リツイート程度の行為に罪がないということはありません。
たとえばマット上の人間に上から大勢が覆いかぶさって圧死させたとして、
1人目には罪があり、7人目には罪がないなんてことがあるでしょうか。
「中傷」に乗っかって裏から言論を弾圧する人間が、いっぱしの表現者の顔をしていることが僕には許せません。
コイツらが僕に伝わるように謝罪しないならば、
(どうせそんな勇気があるわけはないでしょうが)
僕がコイツらを「クサレ言論弾圧俳人」と呼んでも誹謗にも中傷にも当たらないことを先にことわっておきます。
では、僕がつきとめた性根の腐った弾圧俳人どもを発表しましょう。
関悦史、鴇田智哉、田島健一、宮崎莉々香、大塚凱の面々です。
本当にクズですね。
あとで証拠のスクリーンショットを貼っておきますが、
コイツらは俳句素人の千葉による的外れの文句を、
お仲間の福田若之『自生地』を擁護したいから(もしくは僕への意趣返し)という理由でリツイートしています。
そのツイートの一つがこれです。
検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。
福田の『自生地』の散文が雑誌「ファウスト」経由のラノベと類似していることについては、
福田を褒めた青木亮人という学者も同様のことを書いています。
(青木は舞城王太郎を想起すると書いたのですが、舞城は「ファウスト」で執筆していた元ラノベ作家です)
それから「ナルシシズムの発露」であることは、福田の文章を丁寧に読解したプロセスがあるのですから、
同意できないからって「決めつけている」と言われる理由はありません。
またナルシシズムが「ラノベ的感性による」なんて、僕はどこにも書いていません。
福田の散文にラノベの影響があると書いただけです。
千葉という男は根拠を示しているのに「中傷」と言ったり、
著書を引用して書いているのに「罵詈雑言」と言ったり、
人の書いたものをまともに読む気がない不遜きわまりない虚言モンスターなのです。
こういう病人一歩手前の人間の書いたものを、内容を確かめもせずに垂れ流す行為がいかにクズであるか、
クサレ言論弾圧俳人どもは「相手憎し」となると考えもしないわけです。
(そもそも自分で考える力自体がないのかもしれませんが)
俳人ともあろう者がこんな的外れな内容のツイートを拡散することには「悪意」しか感じません。
彼らが僕をイジメたがっているのは、僕に批判的なレビューを書かれただけでなく、
千葉の時と同じように、そのレビューに賛同の投票が相当数集まっているからです。
つまり、一定数の人が同様に感じているのが明らかにもかかわらず、
自分の作品を反省するのではなく、発信した僕を貶めればいいと考えたわけです。
こういう人間は端的に「文学自体をナメている」と断言できます。
作品が良ければ僕が悪く書こうと多くの人が賛同するはずありません。
作品の良し悪しは作品と向き合った読者が決めるものなのに、
コイツらは作品そのものよりツイッターのようなメディアに依存して生きているため、
メディアで悪い評価を発信した奴がいなければ、作品への悪い評価自体がなくなると考えているのです。
こんな勘違いは俳句自体の力を信じていないことを表明しているだけですし、単なる責任転嫁でしかありません。
他人の行為に乗っかって気に入らない奴に仕返ししてやろう、という態度がいかにくだらないか、
そんなことも自覚できなくなるからツイッターというメディアはクソなのです。
手っ取り早い自己宣伝メディアであることはわかりますが、
自分で責任を負うことなく、怪しげな内容で風評被害を巻き起こす、悪性のプロパガンダ・メディアという危険な面も持っています。
千葉のような素人の誤った意見に乗っかって悪意を垂れ流し、
自分の名前では僕の批判をしようとしないこの日和見俳人たちが、
いかに三流の表現者でしかないか、自ら思い至る必要があると思います。
彼らが少しでも自分自身に責任を持てる人間であるならば、自分の行為を反省するはずです。
それもできないで、したり顔で麻生太郎や社会問題の批判をする資格などあるはずもありません。
そもそも、自分自身で責任を負わないリツイートによる批判は、
言葉を持たない弱者のとる手段であって、表現者ヅラした人がやるべきことではありません。
個人の自由なのでダメとは言いませんが、ザコな人間であることを自ら示していることくらい自覚しておいてください。
つまり、間違ってもコイツらには表現者やアーティストの資質もなければ、覚悟すらないということです。
結果として僕の批判はやっぱり正しかったわけです。
まあ、今の腐った日本ならザコの悪事ぐらいでは目立たないで終わるのかもしれませんが。
さらに言えば、集団で風評を垂れ流すのもみっともないし、感心しません。
自分の名前で意見も言えず、人を貶める行為すら一人でやれない人たちだから、
いつまでもみんなで寄り集まって低レベルの合同句集を出すしか脳がないのです。
まずはお友達から離れて一人で言論活動をしてみてくださいな。
いつまで幼稚園のお遊戯気分なのでしょうか。
いや、ホントに、キミたちいくつでちゅか〜。
本当にクソすぎてコイツらの卑怯さに僕は自然と腹が立ってしまうのですが、
おそらく俳句界では内輪主義が普通になっているため、
彼らの言論弾圧の後押しがいかに問題行動であるかが、外部の人より見えにくくなっていると想像します。
ですが相撲界と同じく、外の社会常識を尊重することは大切です。
俳句界の外の人間だから無責任な方法で「イジメ」てもいいだろう、などと考える連中を、
俳句界が自浄できないのであれば問題です。
こういう人間を内側からちゃんと批判しないから、外部を遮断すればすむという甘い考えを持たれるのですよ。
僕は四ツ谷龍という俳人にも、彼のステマ行為を批判したことで「頭がおかしい」などとツイートされたのですが、
俳句界には倫理というものがないらしく、いつまでも謝罪をしません。
自分を批判する人間は人間扱いしなくていいとでも思っているのでしょうか。
そういう専制的な態度が、いかに外部の人間を見下す姿勢からきているかがよくわかります。
関悦史も鴇田智哉も四ツ谷龍に最高得点を入れてもらって田中裕明賞を受賞した人物ですし、
プライベートでも親しくしている関係ですので、
年配の四ツ谷がこんな態度であれば「若手」もそれに倣うのは当然なのかもしれません。
外部の人間に対する態度こそが、その人の「真の」人間性を表しているのだということを、
(本気でフランス思想に興味があるのなら)彼らは肝に銘ずるべきだと思います。
クサレ俳人たちのリツイート集
関悦史
鴇田智哉
田島健一
宮崎莉々香
大塚凱
(小学館新書)
片田 珠美 著
⭐⭐⭐⭐⭐
自己愛過剰社会が高学歴モンスターを生む
学歴偏重社会である日本では、高学歴というだけで価値がある人間だという評価が得られたりします。
本来立派であるはずの一流大卒の高学歴な人が周囲に迷惑を巻き起こす事例が最近目立っています。
そんな「高学歴モンスター」の精神構造を、精神科医である片田が豊富な実例とともに分析し、対処法をレクチャーするのが本書です。
冒頭は「この、ハゲーッ!」発言で知られる豊田真由子元衆議院議員の事例で始まります。
高学歴エリートがモンスター化する例としてはこれ以上のものはないため、つかみは完璧です。
他にも務台俊介、今村雅弘、山尾志桜里、大王製紙の井川意高などを取り上げて、
片田はこれらの人物の特徴を以下のようにまとめています。
? 強い特権意識
? 想像力と共感の欠如
? 現実否認
? 状況判断の甘さ
? 自覚の欠如
学歴によって「自分は特別だ」という特権意識を持つため、
他人への想像力のない自己中心的な振る舞いを平気でしてしまう、
その自己中心的発想を正当化するために現実を認めないので、
状況判断もできなければ、自分を客観視もできないのです。
精神医学の学問的背景があるだけに、この分析に関しては非常に妥当だと感じました。
おそらく、誰もが周囲にいる肩書きだけで中身のない人物について思い当たるのではないでしょうか。
片田は高学歴の人がこのような「モンスター」となる要因に、自己愛の強さがあることを指摘します。
アメリカの精神科医のグレン・ギャバードがナルシストを「無自覚型」「過剰警戒型」の2種類に分けたことを紹介し、
本書に取り上げた人物には「無自覚型」のナルシストの特徴が当てはまるとしています。
片田はその無自覚の奥には「鈍感さ」があるとして、その原因を以下の3つに整理します。
? もともと感受性が低い
? 他人の反応を遮断
? 周囲の容認
片田は「無自覚型」になりやすい人物として、「先生」と呼ばれる人や、
「高学歴のうえ、社長の御曹司」という条件を挙げています。
この辺りの指摘も「身につまされる」ほどに納得しました。
僕が「身につまされる」というのは、実は僕自身が「高学歴モンスター」に嫌な目にあわされているからなのです。
僕が立命館大学の准教授である千葉雅也の著書に、Amazonで批判的なレビューを書いたところ、
千葉が自身のツイッターで「侮辱」だ「中傷」だなどと騒ぎ立て、
果ては僕のレビューのコメント欄に「弁護士に相談している」などと貼り付け、
なにか僕が違法行為でもしているかのような印象操作を行いました。
僕のレビューは千葉自身の文章への応答となっているので、よく読めば批判される原因はすべて千葉自身の文章にあるのですが、
千葉は自身の発言についてを省みることなく、一方的に僕の悪口をツイートしたのです。
本書を読んで、僕は千葉雅也が「無自覚型」ナルシストに加えて「過剰警戒型」の特徴もかなり持っているように感じました。
「無自覚型」が「他人の反応を遮断する」ことの理由は、
ナルシストが自己愛が傷つくことを恐れて、自己評価を守ろうとするからだと片田は述べています。
その傾向がさらに強まったのが、「過剰警戒型」ナルシストなのだそうです。
このタイプは、他人の反応に過敏で、他人の言葉に少しでも批判や侮辱が含まれていると感じると過剰に気にする。これは、羞恥や屈辱に人一倍敏感で、ちょっとしたことで傷つけられたと思いやすいためである。要するに、自己愛が傷つきやすいからこそ、過剰に警戒して守ろうとするわけだが、こうした傾向は「無自覚型」にも認められる。
この片田の記述を読んで、僕はまさにその通り、と思いました。
片田は本書の最後でエーリッヒ・フロム『悪について』に書かれた「悪性のナルシシズム」に触れています。
ナルシシズムにも良性と悪性があり、その分かれ目は努力の結果で得られたものか否かにあります。
努力や経験に裏打ちされたナルシシズムは良性ですし、基盤があるものなので他人の批判など恐れる必要はありません。
しかし、与えられたものによって成立した悪性のナルシシズムの場合、自分自身に基盤がないため、
高い自己評価は表面上のメッキでしかなく、小さな傷でペロッと剥がれてしまうということです。
これを反転させて考えると、
揶揄程度の批判でしかないものを「侮辱」だ「中傷」だと騒ぐ人は、
自分の評価がメッキで成立していると「無自覚」に認めていることになるのではないでしょうか。
千葉はたいした研究実績もなく、マスコミの引いたレールの上でチヤホヤされているだけの人なので、
与えられたメッキでしかない自己評価を守ることに必死になっているわけです。
准教授でもあるような人が、無名のネットレビュアーなどに執拗に文句を言っても得られるものはないはずなのですが、
高学歴エリートの中には幼児期のナルシシズムを引きずっている人がいて、
そういう人に「拒絶過敏性」が現れるそうです。
自尊心の傷つきを恐れるあまり、他人のささいな言動を批判や非難、ときには無視や拒否のように受け止めて否定的に解釈することもある。これは、精神医学では「拒絶過敏性」と呼ばれている。
「過剰警戒型」ナルシストと類似していますが、
うすっぺらい自尊心を持つ人間ほど、ほんの少しの批判にも過剰に反応するということでしょう。
俗に言う「弱い犬ほどよく吠える」ということですね。
千葉のような勉強が自慢の人が専門領域で反論をすることもできないなんて、自分の中身がないことを自ら証明しているだけなのですが、
それが「無自覚型」ナルシストというやつなのでしょう。
話を本書に戻します。
本書に感心したのは、単に困った人の症例を紹介するだけにとどまらず、
その原因が社会にあることにまで踏み込んだ点です。
片田によると「アメリカは世界一の自己愛過剰社会なのだ」そうですが、
その原因として心理学者たちの自尊心ブームがあると見ています。
アブラハム・H・マズローが自尊心の欲求を上位の階層に位置づけて、
ナサニエル・ブランデンが自負心を「人生の鍵」とまで評価したため、
自尊心とナルシシズムが混同されて、自己愛過剰の状態に陥ってしまいました。
その影響が遅れて外来思想をありがたがる日本にも到来し、子供を褒めて育てればいいという、
いたずらにナルシシズムを高めるやり方が広まりました。
フロイトは「経験によって強化された全能感」こそが健全な自己愛としているのですが、
「叱らず、ほめる子育て」が横行し、「経験にもとづかない全能感を抱く子供が増えた」と片田は述べます。
問題はそんな幼児的全能感を大人になっても抱え続けている大人が多いことです。
片田はハッキリとは書いていませんが、まともに叱れない親に問題があると言えます。
片田は高学歴モンスターを変えるのは無理だと言います。
その前提で対処法を述べているのですが、なるべく関わらないほうがいいという方向性でした。
関わったあとの有効な対策が書かれていないことが少し不満でしたが、
片田が「無自覚型」ナルシストの「鈍感さ」の原因として、「周囲の容認」を挙げていることを思い出す必要があります。
もともと高学歴を誇る人は、権力の源泉である世俗のヒエラルキーに従順です。
周囲が何も言わないから彼らはつけあがるのであって、
世俗権力から問題を指摘されれば態度を改めざるをえないわけです。
僕は千葉の所属する立命館大学に彼の行状を問い合わせるメールを送ったのですが、
それ以後、僕を名指しした悪意のツイートはパッタリなくなりました。
敗北した千葉の自分を納得させる勘違いツイートが傑作なのでちょっと載せます。
自分で自分を肯定するというのは簡単ではない。一時的ではあれ、それに成功した状態は、気持ち悪がられる。それが成功していない方が普通だからだろう。
千葉の自己肯定はナルシシズムの強化でしかないため、
ナルシストであることは簡単ではない、と言っているのと同じです。
なかなか成功しないことを成し遂げている僕はすごいから、キモがられるのだ、という難易度の高い(?)自己肯定発言です。
一生やってろ、と言いたいですね。
御神体が鏡であることでもわかるように、日本はもともと自己認識のメカニズムにナルシシズムを置いている国です。
それを暴走させないために「世間の目」を意識させる村社会構造が必要とされていました。
近代的個人の自覚を育てずに「世間の目」だけを解体したために、こういう勘違いした人間を多く生み出しているのです。
ある意味、「高学歴モンスター」はそれを容認する周囲の人間が生み出しているということ、
もっといえば学歴だけで人間を評価しすぎる「肩書き社会」に問題があることを、
片田にはもう少し強調してほしかったところです。
ナイアル・キシテイニー 著/月沢 李歌子 訳
⭐⭐⭐⭐
若くなくても十分面白い
イエール大学出版局のLittle Historiesシリーズの経済学にあたるのですが、
著者のナイアル・キシテイニーは学者ではなくて経済ジャーナリストなんですね。
イギリスの有名大の学者は手っ取り早い見取り図など示さないし、
イギリスのジャーナリストは広範な知識を持っていて、大学から認められるような体系的な本を書けるのだと思いました。
本書はトピックごとに40の短章で構成され、1章の中で経済学に関わる人物が何人か取り上げられています。
大きく見て時系列に進んでいくため、
原題はECONOMICS(経済学)でしかありませんが、「経済学史」と名付けても違和感がない内容です。
一冊で手っ取り早く経済学の流れを追いかけたり確認したりするには、
読者の年齢にかかわらず有用な本だと思います。
たとえば2章ではプラトンやアリストテレスが取り上げられます。
そこではアリストテレスが貨幣を交換のためではなく、
貨幣自体を増やすため、つまり利子を取って利益を得ることを批判していたことが述べられています。
6章ではアダム・スミスが登場します。
ここではスミスの主著『国富論』の内容をサッカーの喩えで説明しています。
サッカーでは個人の利益を追求すると全体の利益を害するので、全体の利益に貢献する選手が求められます。
しかしスミスの発想は全く逆で、人々が自分の利益を追求することで多くの人の利益になるとするのです。
サッカーには全体を統括する監督がいるが、経済にはそういう存在が見当たらないことを、
スミスが「見えざる手」と呼んだのだという説明はなかなか秀逸です。
10章ではK・マルクスの思想をコンパクトにまとめています。
商品を生み出す資本とは「権力」であり、財産を持つ者と持たない者との分断に依存しているなど、
教科書的な一通りの記述ではない、より身近に感じられる説明の仕方をうまく選んでいると思います。
16章では社会主義の中央計画経済の欠陥を、L・ミーゼスの論によってわかりやすく説明します。
資本主義では市場の価格変動によって自然と需要のある商品の生産が増えていくのですが、
社会主義ではこれをすべて政府が決めるため、非合理的だとミーゼスは考えました。
18章ではJ・ケインズのセイの法則批判を、浴槽とホースの喩えで説明しています。
僕は過去にセイの法則の説明をいくつか読みましたが、こういうアプローチは初めてでした。
19章ではJ・シュンペーターのイノベーションによる「創造的破壊」を取り上げて、
シュンペーターがどのように資本主義が終焉すると考えたのかが書かれています。
21章ではミーゼスの弟子F・ハイエクが登場します。
ハイエクは戦後の経済が資本主義と社会主義の「混合経済」と考え、
政府の経済統制が個人の自由を奪うとして『隷属への道』を書きました。
ハイエクからしたらアベノミクスなど問題外もいいところですが、
今の経済学者の多くはハイエクの考えには懐疑的であるようです。
アベノミクスのことを考えるなら、29章のM・フリードマンの「マネタリズム」が役立ちます。
フリードマンがノーベル経済学賞を授与されるとき、抗議者が現れて会場から閉め出されたという話は初めて知りました。
貨幣供給を増やすことでインフレ率を上げるというやり方が、短期的な効果として考えられていたこと、
M・サッチャーとR・レーガンが実行してうまくいかなかったことなどがよくわかります。
このような有名人以外にも、いろいろな経済学者の理論が紹介されています。
23章に登場するシカゴ大学のゲーリー・ベッカーは、経済原則を社会や人間の行動を分析するのに用いました。
たとえば、多くの時間を要する行為を「時間集約型」と呼んで、その間に働いて得られる費用によって表す方法などです。
ベッカーによって経済学は汎用性を増したのですが、一方で経済学の範囲が広がりすぎたとも言われます。
「人的資本」という考えを提唱したのはベッカーです。
「情報経済学」という新分野を切り開いたジョージ・アカロフが、
売り手と買い手の間に情報の不均衡があることを指摘したことを説明する33章も興味深く読みました。
読む人によって興味深い章はそれぞれ異なるかもしれませんが、
全部で40章もあるのでおもしろく感じるところに当たる確率は低くない気がします。
僕は順番に読みましたが、読みたいところを拾いながら読んでも問題ないと思います。
ただ、一つだけ不満を言えば、「若い読者のため」とするならば、
ソフトカバーで手軽に持ち歩ける大きさにして、価格を抑えてほしかったです。
何年後かにどこかで文庫版として出るならば、その時にはもっとオススメできる気がします。
評価:
ナイアル・キシテイニー すばる舎 ¥ 3,456 (2018-02-24) |
兵頭 裕己 著
⭐⭐⭐⭐⭐
建武の中興から「国体」の問題まで浮かび上がらせる知的興奮に満ちた一冊
本書を読み始めてすぐに、わずかな違和感を感じました。
歴史学者らしくない書き方だな、と思って著者略歴を確認すると、
兵頭は『太平記』の校注を担当した文学畑の学者でした。
ちょっとだけ心配しましたが、厄介な歴史的事実が過剰に記されることもなく、読みやすいと感じました。
その上、先行研究もしっかりと紹介してくれるので、おそらく歴史マニアから見ても不満のない内容だと思います。
兵頭も何度か触れていますが、
『太平記』は法勝寺の円観恵鎮が足利直義のところに持ち込み、そこで修正が加えられて成立しているため、
室町幕府寄りの記述になっていて、後醍醐天皇側には批判的です。
(たしか『梅松論』も幕府寄りの内容だったはずです)
さすがに専門家だけあって、兵頭が『太平記』と史実との違いを明らかにしていくところは読み応えがあります。
たとえば、後醍醐天皇が中宮禧子のお産の祈禱を行なったことについて、
『太平記』ではお産は隠れ蓑で、実は幕府の調伏を狙っていたことにされています。
その影響で幕府執権の金沢貞顕の書状の解釈が正反対になってしまう論があったりするのですが、
その代表が網野善彦『異形の王権』です。
兵頭は後醍醐天皇が重用した真言僧の文観弘真を、網野が邪教の祖としていることにも反論します。
『太平記』で文観が悪く描かれているのは、その後任で足利尊氏に仕えた三宝院賢俊を持ち上げたい事情があったからだと述べています。
『太平記』の成立事情を考慮しないと誤った解釈が生まれることを指摘した部分は、
まさに兵頭の本領発揮という感じがしました。
本書を読むと、後醍醐天皇がいかに宋学に通じたインテリであったかがよくわかります。
『太平記』にも宋学で根本経典とされた『孟子』の語句が多用されているのですが、
この時代に宋学など儒教の影響力があったという兵頭の指摘は、
文学畑の発想ということでは片付けられない真実味があります。
この後醍醐天皇の宋学教養が「新政」に失敗をもたらしたと兵頭は見ているのですが、
日本人が海外の権威を単純反映して失敗することは、確かによくあることに思えます。
ちなみに後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を考えたのは、持明院統と大覚寺統との天皇交代制という「慣習」から、
中継ぎ天皇として一代での退位を余儀なくされていたため、
その世話役をしている鎌倉幕府を倒して自分の天皇の地位を盤石にしたいと考えたからのようです。
また『太平記』本文で「楠」正成と表記されているものが、現在「楠木」正成となっているのは、
明治に官選国史の編纂をした川田剛がそれまでの記述をひっくり返したことによるそうです。
兵頭は川田説を支持していないため、記述を「楠」で統一しています。
このように、本書の読みどころはいろいろあるのですが、
僕が最も感心したのは、建武の新政の考察から天皇の直接統治である「国体」の持つ意味を掘り下げたことです。
兵頭は後醍醐天皇が「無礼講」という官位や家柄の上下関係を無視した場を設けたことを重視しています。
後醍醐天皇は天皇に権力を集中させる「新政」(天皇親政)を行うために、
既存の序列(ヒエラルキー)を無視した抜擢人事を行いました。
宋学に通じた日野資朝や日野俊基がその代表ですが、
楠正成はもちろん足利尊氏よりだいぶ格下の新田義貞もそれに含まれています。
兵頭は後醍醐天皇の「新政」が失敗に終わった原因が、
宋学イデオロギーによる既存のヒエラルキーの破壊にあるとしています。
現代までさほど変わらないことですが、多くの日本人は閉鎖的な世界をこよなく愛しているため、
中国的な実力主義にはなじめず、門閥、家柄などの縁故主義を強く維持しようとするのです。
興味深いのは、後醍醐天皇の天皇親政のあり方が後世の「国体」に影響したという兵頭の考察です。
建武の中興において、天皇親政は「無礼講」に見られるような既存の権力序列を無化することを意味しました。
そのため、後世に天皇親政による身分社会の解体という「幻想」が育まれるようになったと言うのです。
政治思想史のうえでは、後醍醐天皇の「新政」の企ては、出自や家柄、門閥に根ざした身分制社会にたいするアンチテーゼとして、この列島の社会における「王政」への幻想を醸成することになる。
既存の身分社会や世俗の序列を解体し、神の前で万人が等しく平等であるように、
天皇がすべての民に等しく君臨する統治形態が「革命のメタファー」となったという兵頭の考察は、
すべて納得できるわけではありませんが、非常に面白い説ではあると思います。
天皇の絶対的権威に基づく国家を表す「国体」という言葉は水戸学のキーワードなのですが、
兵頭は「足利時代以降に失われた「国体」を回復する思想運動が、水戸学の尊王攘夷論である」として、
「国体」という観念が武家社会の序列を無化する力を持ちえたことに、
後醍醐天皇の建武の中興が影響しているとするのです。
縁遠いことを持ち出すようですが、
最近出版された白井聡『国体論』で、白井は国体の批判を展開しています。
天皇の権威に依存した体制を批判するのに、なぜか白井は冒頭とラストで今上天皇の「お言葉」を持ち出します。
僕にはこのような矛盾が不思議でしたが、
今でも既存体制の変革を訴える時に天皇が必要になってしまうのは、
兵頭が指摘する天皇についての日本人の根深い「幻想」が、今でも生き続けている証拠と言えるでしょう。
白井聡にも本書を読むことをお勧めしたいものです。
白井 聡 著
⭐⭐⭐⭐
戦後左派の主張の延長だが、今やこういう本も貴重
『永続敗戦論』でヒットを飛ばした白井聡が、
現代日本の「永続敗戦レジーム」のルーツを近代の天皇制国家体制である「国体」とみて、
日本の近代史を「国体」の護持という視点から描いてみせたのが本書です。
日本が敗戦後も戦時「国体」の存続を望んだことが、戦後のアメリカ従属の原因だと白井は考えています。
問われるべきは、戦前から引き継がれたシステムとしての「国体」が、対米関係を媒介としてその存続に成功したこと、そしてそれによって、どのような歪みが日米関係にもたらされたのかという問題である。
こう述べる白井の問題意識は、現在の「永続敗戦レジーム」が歴史的に成立した経緯を明らかにすることなので、
近代から戦後までの通史に照らして「国体」護持(果ては天皇制)という不可視化された日本人の核を、
なんとか浮かび上がらせようと努力しています。
ただ、結論そのものは『永続敗戦論』とそう変わらないので、その学問的手続きを退屈に感じる人もいるかもしれません。
白井の主張する「永続敗戦レジーム」とは、敗戦後の日本がアメリカに永久服従する体制のことです。
独立国としての尊厳もなく、不公平な日米地位協定を改定もできず、永遠にアメリカの卑屈な子分の道を歩む戦後日本。
白井はこのような体制を「異様なる隷属」として、
「日本は独立国ではなく、そうありたいとという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と糾弾します。
このような「奴隷」を思わせるアメリカへの絶対服従がどうして起こったのかを、
白井は「国体」を至高の価値とする近代日本史を振り返ることで説明していきます。
敗戦後、アメリカは共産主義陣営との冷戦をにらんで、
前線基地として日本の安定支配を必要としたわけですが、
そのために天皇制を保存することを選択したため、戦時「国体」が延命することになりました。
D・マッカーサーがアメリカ幕府として天皇に承認されたかのように日本人は受け取ったわけです。
この解釈は特別新しいものではなく、それなりに知られているので、
戦後史を知っている人間なら反論する人はいないのではないでしょうか。
僕は前から疑問なのですが、
国体が護持されたということは、真の意味で日本は敗北していないとも言えるのではないでしょうか。
白井は「永続敗戦」と言いますが、天皇制の支配層にとっては国民が何人死のうが、
ラスボスである天皇が生き残れば「敗戦」ではないと言えなくもありません。
白井は日本人が敗戦を「否認」していることを糾弾しているのですが、
もし「敗戦」していないのであるならば、それは「否認」ではなく真実でしかないわけです。
僕にはこのあたりの白井の考察はまだまだ弱いと感じます。
本書でも触れていますが、
天皇とその周囲は、ロシアが共産主義革命による皇帝の殺害を行なったことで、
日本でも同じことが起こることを恐れていました。
つまり、昭和天皇は自分の命を何より惜しんでいたわけです。
(このことはハーバート・ビックス『昭和天皇』を読んで僕が受けた印象でしかありませんが)
アメリカも天皇制支配層も戦後の共産主義革命を恐れていたため、
両者の利害が一致して戦後体制が始まったことを白井は指摘しています。
それならばやはり、天皇制支配層にとっては軍部を切り離すことで、
真の「敗戦」を免れたと言えるのではないでしょうか。
このことから、僕は白井の論に根本的な矛盾があると考えざるをえません。
戦後に国体の護持が行われたのなら、日本は「永続敗戦」どころか天皇制の勝利が続いているとするべきですし、
それが不満であるならば、天皇の「お言葉」などを自らの論拠に持ち出すのはおかしいのです。
白井は天皇制と戦う気があるのかないのか、僕はそのあたりを怪しんでいます。
もし天皇制と本気で戦う気があるのであれば、
近代天皇制の考察をするだけでは問題の本質にはたどり着けないと言っておきます。
僕自身の考えを簡単に記しておくと、天皇という存在は共同体にとっての外部のシンボルという役割を負っています。
引きこもり体質の日本人は外圧をひどく恐れているため、自己享楽をする以外の行動原理は外圧にしかありません。
そのため、普段は外圧を無化して鬱に陥ることを避けなくてはいけません。
そこで外部を天皇という存在に肩代わりさせ、彼を崇拝することで内輪のシェルターを築いたのです。
(そのため、天皇は死者という外部にも通じる回路なのです)
白井は日本人がアメリカ依存をしていることを糾弾しますが、
そもそも日本は中国文化に依存していた国です。
外圧の中にいて外圧を無化(否認)して自己享楽する以上の価値がない国なのは、
長い歴史の中で維持されてきたアイデンティティであり、戦後に始まったものではありません。
それを支えているのが古代からの天皇制なのです。
日本史を見れば、外圧に屈するか、引きこもるか、侵略戦争に打って出るか、そのどれかしかありません。
(アメリカ=世界として、それだけを外部の窓とするのは、鎖国と大差ないと思いませんか?)
白井は天皇制が「第二の自然」として不可視化されていたため、共産主義者の天皇制との戦いが困難だったと述べています。
外部を放逐して内輪で楽しくやりたい日本人にとって、外部の象徴である天皇を不可視化するのはシステム上不可欠なのです。
白井は不可視化された天皇制+アメリカ支配を認知するように日本人に要求しますが、
そのためには日本人の欲望が変わるか、否応なく巨大な外圧によって開国を迫られるかしかないと僕は思っています。
なにか批判しているような書き方になってしまいましたが、
僕としては白井に本気で天皇制に戦いを挑む気があるのならば、
中途半端な思索で満足せず、歴史に挑戦する気持ちで市民革命を呼びかけてほしいのです。
しかし、天皇制を批判するわりに、天皇の「お言葉」に依存するような内容でしかありませんでした。
僕が残念だったのは、
白井の論には丸山眞男や竹内好などの受け売りそのままと感じられるところがあって、
戦後左派の考えをそのまま受け継いだだけに終わっているように感じられたところです。
もちろん、ポストモダンなどのインチキ思想に享楽して、
丸山眞男や竹内好などの戦後思想も知らないのに思想人ぶっている似非知識人が増えている中、
白井のように戦後左派の思想を受け継ぐ意志を持つ人は貴重だと思います。
その意味で僕は本書の社会的意義を評価しますが、個人的な感想だけを言えばかなり物足りないというのが正直なところです。
細かいことですが、
白井は「天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成して」いると述べています。
その指摘はしごくもっともだと感じますが、
それなら憲法9条の維持に賛成しながら沖縄の基地に反対する態度は矛盾していることになるのではないでしょうか。
安保体制を批判するのは構いませんが、同時に左派政党の欺瞞も批判するのが筋だと感じます。
戦前戦後の時代区分に社会学者の大澤真幸のアイデアを用いるのも少し安易に感じました。
もともと大澤が師の見田宗介の区分に倣ったものであり、歴史を都合よくメタ化する方法として用いられている印象です。
明治憲法における天皇の二重性については、とりたてて問題とすることなのか僕にはよく理解できませんでした。
立憲主義からすれば君主の立場に二重性があるのは当たり前のことにも感じました。
北一輝を取り上げ、「国民の天皇」が挫折したら「天皇の国民」イデオロギーが回帰するとするところも、
僕には腑に落ちる感じがあまりありませんでした。
北一輝の発想が時代を代表していたとも思えませんし、だからこそ二・二六事件は挫折したのではないでしょうか。
僕は白井の「永続敗戦レジーム」への批判には共感するのですが、
以上のように本書の論理に関しては同意できない部分が多々ありました。
結局、白井は日本近代史における「国体」の問題に興味があるのではなく、
「冷戦終焉後の世界で、アメリカに追従しておればまずは間違いない
という姿勢が日本の国家指針であることの合理性が失われた」
ということを主張したいのだと思います。
南北朝鮮の融和ムードによって、白井の指摘はだんだんと信憑性を増していることは間違いありません。
アメリカに隷属しているだけではジリ貧である、ということを正面から語れば良かったと思います。
⭐⭐
日本にイデオロギー対立はあるのか?
最近、政治の場面では右翼vs左翼という対立軸に変わって、
保守vsリベラルという立場が持ち出されたりしています。
そのわりに、「保守」や「リベラル」の定義すらハッキリしていません。
リベラルは理性を盲信するが、保守は理性を疑うのだ、などという
保守マンセーのための大嘘を著書やテレビで平気で振り回せる世の中になっています。
(じゃあフランス革命に共感したカントは保守思想家かよ)
このような不確かな言葉を「シニフィエなきシニフィアン」として「言霊化」してしまうのが日本人なのですが、
「ねじれる対立軸」という副題をつけても、結局は対立軸として採用してしまう本誌の知性も怪しまれます。
本誌の執筆者の多くも保守とリベラルという対立軸への疑念をあらわにしています。
北田暁大は「保守/革新」と欧州型「リベラル/ソーシャル」の対立がごちゃまぜになって成立した「日本型リベラル」を分析しています。
北田は「リベラル」とは「革新」から社会主義色を薄くしたものではないか、と書いていますが、
社会主義体制の崩壊によって、左派のモデルがアメリカ型になったという見方には首肯できます。
「日本型保守」の効果的な分析が見当たらなかったのが残念ですが、
右派の国家主義的な面をマイルドにするための表現だと僕は考えています。
つまり、右派も左派も共にイデオロギーを脱色していった結果、保守とリベラルという語に落ち着いたのでしょう。
その意味では便宜的に成立した語でしかないので、
大澤真幸が宇野重規との対談で引き出そうとしている日本の保守の逆説的なねじれ、
つまり、本来の保守とは似ても似つかないことを示すことにはあまり意義は感じません。
僕は日本の右派と左派の対立というのは、
保守やリベラルという身にまとうイデオロギー自体はただのファッションでしかなく、
思想的な内容を欠いた対立だと感じています。
だから、保守やリベラルという思想(イデオロギー)を考察することにほとんど意味はありません。
本誌の特集がレビューがひとつもつかないほどコケているのは、そのためです。
保守の嘘、リベラルの嘘、とどっちも嘘だらけなのも当然です。
だって中身なんてないのですから。
森政稔がリベラル左派は安倍政権を批判しても北朝鮮の人権問題をスルーしてきたことを批判していますが、
これもイデオロギーを基盤として行動しているわけではないからだと考えれば何も不思議ではありません。
右派も全く同じで、彼らは愛国とか言いながらアメリカ従属の売国奴であっても平気なのです。
日本の右左の対立が思想やイデオロギーとは無関係に成立していることを、そろそろ知識人も気づいたらいいと思うのですが、
思想の雑誌だから思想の問題という前提を崩すわけにはいかないのでしょうか。
どこかでまとめて文章にしようと思ってはいますが、ざっと語ると、
自己充足的な日本人の行動原理は本質的に外圧しかありません。
そのくせ物事の基準が自己本位の「甘え」でしかないため、
その外圧が自分にとって同情的か敵対的か、自分を好きか嫌いかという判断へと収斂します。
日本の対立軸など本質を言えば「甘え」を許容するかしないか、これしかありません。
右派は「甘え」を許容してほしい人々、左派は「甘え」に批判的な人々ということです。
そのため右派は権力にすりよる人々、左派は権力に対して闘争的な人々になります。
(その左派が権力側になると、今度は自分たちの「甘え」を許容する右派へとひっくり返るのです)
要するに自分の「甘え」を許容する味方か批判する敵かという対立であって、イデオロギーは方便でしかないのです。
批判する側も身内の問題には味方だからと目をつむり、「甘え」を許してしまうので、
現在の利害による対立でしかなく本質的に中身はどちらも一緒なのです。
僕に言わせれば、どっちも日本人でしかないということです。
本気でこの問題を考察したければ、このような日本人の本質を考察しなければいけないのですが、
そのあたりにわずかにでも届いている論考は、岡野八代「フェミニズムとリベラリズムの不幸な再婚?」くらいでした。
岡野は日本軍性奴隷の問題を中心において、保守とリベラルという虚構の対立図式を批判しています。
あたかも日本に「リベラルと保守」といった政治的な対抗図式があるかのように装われることで、国家主義的な反動にすぎない勢力が、なんらかの政治的理念をもって活動しているかのように喧伝されてしまう状況について、批判的に描き出してみたい。
岡野は自分の論考の意図をこう説明していますが、
「なんらかの政治的理念をもって活動しているかのよう」な勢力は、保守陣営だけでなくリベラル陣営も同様なのです。
外圧の源泉である外的権力をどこに置くかというスタンスが違うだけで、
両者はともに外圧を参照するだけの、内発的思想のない連中であることに変わりはありません。
僕は前々から左派スタンスの〈フランス現代思想〉などのポストモダン的価値観の隆盛によって、
日本が右派スタンスの保守化を進めてきたという逆説を唱えていますが、
そのようなことが起こるのも、両者が根本で同じ行動原理を有しているからにほかなりません。
僕は日本人が歴史的に維持してきた行動原理を変えられるとは思っていませんので、
このようなことを指摘することにシラけた思いを抱いています。
ただ真実は真実として存在しているものなので、僕が言わなければいいというものではないことをご理解ください。
それから、荻上チキと立岩真也と岸政彦の討議は、
自分たちの仕事上の悩みを語り合う内輪的な内容すぎて、
自分たちの仕事の宣伝でなければ、まったく掲載する意味がわかりませんでした。
評価:
大澤真幸,宇野重規,岸政彦,立岩真也,荻上チキ,北原みのり,武田砂鉄,北田暁大,杉田敦,中北浩爾,樫村愛子,岡野八代,森政稔,明戸隆浩 青土社 ¥ 1,512 (2018-01-27) |
長谷川 櫂 著
⭐
俳句の衰退は本当に批評の衰退が原因なのか?
若き長谷川櫂の著書『俳句の宇宙』は流行のポストモダン的発想に依拠していたとはいえ、
俳句における「場」の重要性を丁寧に説明しきったという点においては、
なかなかにすぐれた本であったと思います。
しかし、本書『俳句の誕生』では「場」という言葉がどこかへと消えてしまって、
「主体の転換」などというような批評的な用語を無理して用いているため、かえって内容が不確かで乏しいものとなっています。
本書の第一章はまさに「主体の転換」と名付けられています。
岡野弘彦、三浦雅士と長谷川による連句が紹介されていて、
「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」ことを説明していきます。
ここで「主体の転換」という言葉について考えておきたいのですが、
長谷川は「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」こととします。
わかりにくいので、長谷川の説明を引用しましょう。
では主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるということだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平たくいえば、ぼーっとする。いわば「魂抜け」である。
お友達の三浦雅士の影響を受けているのかわかりませんが、
長谷川は連句の「主体の転換」を「幽体離脱」、つまり一種のトランス状態として理解しています。
これは三浦の大好きな大野一雄の舞踊などを持ち出して説明するのにふさわしい要素です。
これ以後、本書で長谷川は繰り返し「ぼーっとする」ことを俳句の中心要素として語るのですが、
このような極端なまでの単純化が長谷川の論に批評性が欠けているという印象を与えてしまう原因のひとつと言えるでしょう。
長谷川は俳句の「切れ」が散文的論理を断絶することで、「ぼーっとする」空白を生み出し「主体の転換」を果たすと主張します。
俳句が「切れ」などによって散文的論理を超えるという見方については、僕も特に異論はありません。
そのような俳句の非論理性が初期の長谷川の主張では「場」に依存していることになっていたのですが、
本書ではトランス的な「主体の転換」によるのだという説明に変更されています。
これは議論として後退していると思います。
なぜなら、トランス状態に基づいた芸術ならば、俳句以上にもっとふさわしいものが多くあるからです。
僕がこの長谷川の主張に三浦の影響を感じてしまうのは、長谷川の主張に大きな齟齬があるからです。
「主体の転換」とは、「転換」であるかぎりにおいて、Aという状態からBという状態への移行を意味します。
連句でいえば連衆が自分自身という主体から、句の主体へと移行することを意味するはずです。
しかし、ただこれだけであれば、小説家や漫画家や演劇の脚本家であっても構わないはずです。
自分を離れて登場人物Aの気持ちを代弁し、今度は人物Bの気持ちを代弁するわけですから。
これだって作者が「幽体離脱」をしていると言えなくもないわけです。
だとしたら、散文的思考であっても「主体の転換」は十分可能ということになるのではないでしょうか。
それなのに、長谷川は別の状態への移行の間に「ぼーっとする」という空白の状態、
つまりはイタコ的なトランス状態を差し挟もうとするのです。
前述しましたが、このようなトランス状態は舞踊であったり、もっといえば能の方が明確に確認できるものです。
言ってしまえば舞台芸術において成立する要素であるということです。
これを俳句を語るのに用いるのは、だいぶ力技が過ぎるという印象を受けます。
そのため、「現代思想」の編集長を経て「ダンスマガジン」を創刊した三浦の影響ではないのかと勘ぐってしまうのです。
(三浦が青森の出身であるのも興味深いところではありますが)
念のため、「ぼーっとする」ことがトランス状態を示していることを確認しておきましょう。
詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきることである。詩歌の代作をすることである。役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でなければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるということは言葉をかえれば、我を忘れてぼーっとすること、ほうとすることだ。
この文章は柿本人麻呂の歌を論じたところにあるのですが、
このような「空の器」になることは、詩人の能力に負うところが大きいはずです。
俳人であろうが、役者であろうが、ミュージシャンであろうが、この能力を発揮できる場面は数多くあるのですから、
俳句がトランス文芸であるという主張よりは、俳人はトランス状態に入って俳句を作らなければいけない、
という論の運びにならなければおかしいのです。
それなのに、長谷川はあくまで俳句がトランス文芸であるという主張を崩しません。
長谷川自身は論理を超えた俳句の魅力を訴えようとしているのかもしれませんが、
肝心の著書が論理に依存したパッチワークで形成されているのでは格好がつきません。
というのは、ただ「主体の転換」だけを根拠にするならば、
そんなものは頭で考えて行っているだけだと反論されたら終わってしまうからです。
むしろ長谷川は「ぼーっとする」トランス状態が起こっている俳句が「すぐれている」ことを論証する必要があったのではないでしょうか。
しかし長谷川は「切れ」があるから間が生まれ、間があるから「ぼーっとしている」のだ、という論理にしてしまうのです。
こうなると、俳句の形式から必然的にトランス状態が生まれることになってしまい、
作り手の状態や能力など考える必要もないことになってしまいます。
僕は俳人ではないため、俳人たちが俳句の「形式」に過剰なまでの役割を負わせることはある種の依存心だと感じています。
彼らはまるで「形式」が芸術を生み出すかのように語るのですが、
たしかに俳句が大衆に開かれた文芸であるにしても、
「形式」自体に価値があると考えるのは一種の倒錯です。
このあたりは俳人たちに真摯に反省してもらいたいところだと僕は思っています。
俳句にもいい俳句や悪い俳句がありますし、いい俳人もダメな俳人もいます。
俳句「形式」に則っていれば必ずいい俳句になるというなら、こんな簡単な創作はありません。
そうでないから俳人は苦労をするのですし、努力もするのです。
それなのに、俳人は自らの依り代の価値を高めたいという邪心が強いのか、
やたら俳句の「形式」自体に価値を負わせようとがんばります。
小説家や漫画家や劇作家など他の多くのジャンルでは絶対にそんなことは考えません。
こういう発想は「伝統」に守られたマイナージャンルの「甘え」であると、
長谷川をはじめとする俳人たちには理解してほしいものです。
長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退していることを嘆くのですが、
その原因を批評と選句という「俳句大衆の道標」の衰退に見ています。
長谷川は『俳句の宇宙』ではそれを共有できる「場」の衰退に見ていたはずです。
それがどうして批評と選句になってしまうのか、僕には理解に苦しむのですが、
僕のような俳句を作らない純粋読者から言わせていただけば、
俳人がこのように「作り手」ばかりに目を向けていることが衰退の原因ではないかと思っています。
僕は連句については前の文脈を意図的に脱臼させるため、
トランス状態によるのではなく、知的な作業によって成立していると考えます。
ただし、もし俳句に長谷川が言うようなトランス状態があるとするとするなら、
それは「読み手」の持つ能力を前提としないと成立しない気がします。
作り手が提出した句を、読み手の側が自分を離れて「ぼーっとする」ことにより、
作り手の生み出した句の「場」へとトランスして近づいていくからです。
読み手のトランス作業によって質の高い「主体の転換」が行われ、
短い断片の言葉からイマジネーションを感じ取ることが可能になるのではないでしょうか。
つまり、良い俳人とは例外なく良い読み手であり、だからこそ選句も批評もうまかったのではないでしょうか。
しかし読者のほとんどが俳人であることにあぐらをかいた俳句界は、
俳句を作る作業ばかりを重んじて、読者を育てることをサボってきました。
あげく僕のような純粋読者が俳句批評をすると、「俳句をやらないなら謙虚でいろ」とか言う偽俳人が出てくる始末です。
外山滋比古が和歌と俳句には「声」を基礎とした「二人称読者」が欠かせなかったと述べていますが、
現代俳句はマスコミや出版(もしくはネット)によって俳句を流通させることを当然と考えるあまり、
句が顔のある誰かに向けられたものとしてあることを忘れているのではないでしょうか。
俳人はつまらぬ自意識を反映した下手な句を作ってアーティストぶるより前に、
俳句の良い読み手であるように努めるべきだと思います。
(もちろん、俳句を読むより観念的な言葉を振り回すことに熱心な「批評もどき」は良い読みとは言えません)
結論を語ってしまったのですが、本書にはどうしても指摘しておきたい部分があります。
長谷川は「新古今和歌集」が禅の思想を享受したことによって誕生したと書いているのですが、
このような説を僕は初めて目にしました。
これは本当に信用に足る説なのでしょうか?
平安時代の仏教の影響は『源氏物語』を読んでもわかる通り、浄土思想に現れていたはずですし、
一般的には「新古今和歌集」は古典教養に根ざした技巧的な作り方や本歌取りが歌風とされていたはずです。
ちなみに沖本克己の『禅』にはこのような文があります。
禅文化とはそもそも背理を含んだ言葉である。禅は文化や芸術には本来無頓着である。(中略)もし禅が文化を領導したり時代社会の指導原理になるとしたら、それはどうも碌でもない事にちがいない。
禅の研究者がこのように書いている以上、僕は長谷川の説を信じることはできません。
長谷川は「俳句は禅にはじまる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最終の一単位なのだ」などと書いていますが、
あまりに不確かな説だけに、主張するならそれだけの根拠を示してほしいと感じました。
このあたりにも、俳人が自分の依拠する俳句をやたら高尚なものに「捏造」しようとする、さもしい欲望を感じてしまいます。
佐野波布一反論コメント
批判言論に対してパワハラで応じる人間をチヤホヤする堕落した日本言論界
本の評価を決めるのは、ページを開いた読者なのでしょうか?
それとも著者本人なのでしょうか?
みなさんの常識では当然読者が評価を決めるという答になるでしょうが、
立命館大学准教授の千葉雅也はそうは考えていません。
自分の書いた本の評価はあくまで自分自身で決めるべきものだと思っているのです。
千葉雅也というフランス現代思想の学者は、
自分の著作に対する僕の批判的なレビューが「参考になった」投票を集めると、
それに我慢ができなくなってツイッターで僕を含んだ批判的なAmazonレビュアーを「基本アホ」とツイッターで侮辱しました。
今回の『メイキング・オブ・勉強の哲学』のAmazonレビューに関しては、
自分が大勢のフォロワーを抱える著名人であるのを良いことに、
ツイッターに僕のレビューの悪口を連投し、フォロワーに僕のレビューの違反報告やアンチ投票をするように仕向けました。
僕のレビューはAmazonのガイドラインでは誹謗・中傷に当たるとは判断されていなかったにもかかわらず、
千葉自身とその先兵となった読解力のないファンの違反通告によって何度か消去されました。
いくら辛辣な揶揄であろうと、言論は言論なのですから、
反論などの対抗的な言論行為で応じるのが知識人の在り方だと思います。
しかし、千葉は言論による論争に勝つ自信がないためか、
書かれている内容が真実でしかないためか、
ファンを頼みにした数の暴力や、弁護士を持ち出した強迫によって、
僕の表現の自由を弾圧することを選びました。
著作の評価を読者が決めることを受け入れることができない人が大学准教授であることも問題ですが、
それが主体批判を信条とし、「作者の死」を当然のごとく主張してきた(フランス現代思想〉の研究者であるのですから、
自分の研究対象である学問に対する背信行為でもあるわけです。
日本の〈フランス現代思想〉研究者は、メタな位置に逃げ込んで無責任な立場から世の中を侮って見ることが哲学的だと勘違いをしています。
その集大成が千葉雅也という人物です。
著作上の記述を取り上げた批評的言論に対して論理的な反論をひとつもしないで、
書いた人間に対する感情的な文句だけをツイートすることが、大学に籍をおく者として正しい行為なのでしょうか?
そもそも言論に価値を認めずに、権威の力を行使したがる人間がどうして大学准教授をしているのでしょうか?
(まあ、千葉本人はアーチストのつもりらしいですけどね)
この程度の人物にツイッターで好き勝手言われるのは不愉快なので、不本意ながら反論をさせていただきます。
Amazonは誹謗中傷と判断されればレビューが非掲載になるので、いつも批判が不自由で苦労していますが、
ツイッターは自分本位で好き勝手言えていいですよね。
(僕は文章が自己基準にならないようにAmazonのガイドラインという枷を自らはめています)
今回は自分のブログなので少々乱暴な言葉遣いになるかもしれませんが、見苦しいところがないように気をつけます。
それにしても、Amazonレビューで手前勝手な毒舌を振るっている佐野波布一という人は、いつまで僕の本や関係する本を、出るたびに粘着的に攻撃し続けるのだろうか。レビューなど放っておけばいいとよく言われるわけだが、個人へのヘイトですらあるあの書きぶりに対し、悪質である、と言っておく。
批判的な内容だからといって「攻撃」と言うのはおかしいです。
どうして無名な一レビュアーでしかない僕の文章が、「攻撃」なんて上等な効果を及ぼせるものでしょうか。
僕と千葉の言論界における立場は圧倒的に非対称的であるはずです。
なぜ立場が圧倒的に優位な千葉が被害者のような顔をするのでしょうか?
僕がたった一人で、それも言論を用いて挑んでいるのにもかかわらず、
千葉は論理不在のツイートでフォロワーを動員して僕へのアンチ投票を激増させました。
こういう数の暴力こそ「攻撃」(もしくは「イジメ」)と言うべきではないでしょうか。
そもそも、千葉はデビュー作『動きすぎてはいけない』に僕がちょっと批判的なレビューを載せたくらいで、
何万人のフォロワーに僕の悪口をツイートしたのです。
その後も僕が彼の著作をレビューするたびに同様のツイートを粘着質に繰り返しておきながら、
どうして自分ばかりが被害者のような面をするのでしょうか。
僕の方から見れば千葉の行為こそが「悪質」です。
こうやって自分の行為を免罪して、同様の他人の行為だけを責めるのがナルシストのやり方です。
「いつまで」と問うなら答えは簡単です。
千葉が自分のツイートについて謝罪し、批判されるような内容の本を書かなくなるまでです。
僕は著書の内容に基づいて虚心で読むように努めています。
僕のレビューをよく読めば、『勉強の哲学』は文章において評価をしているため星を一つ増やしていますし、
「現代思想」の記事に対しても「能力を感じる」と書いた部分はあったはずです。
それをただ「ヘイト」だとしか思えないのは、むしろ千葉が僕のことをただただ嫌っているからです。
こちらは論理で挑んでいるのですから、好き嫌いの感情的問題に還元する幼稚な態度はやめていただきたいものです。
また、「手前勝手な毒舌」であるならば本文引用など必要ありません。
こちらが本を一通り読んでいるのが明らかにもかかわらず、
まるで読んでないかのように書くのは、千葉が「他者」を不当に低く扱う非フランス思想的人間であることの証明でしかありません。
『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の長々しいレビューは、またいつものことかと思ったが、それにしても、侮辱したくてしょうがないという感じで、本当にひどい。
「侮辱したくて」の意味がわかりません。
誤解を恐れずに言えば、僕は千葉の教養やオタク的知性などたいしたことがないと思っています。
つまり、事実を書けば事足りるので、わざわざ「侮辱」をする必要のある相手とは見なしていません。
こちらの感覚ではせいぜい「揶揄」という認識です。
「侮辱」と言うなら、具体的な文章を示すようにコメント欄で千葉に問いかけたところ、
そのような文章を示してこなかったので、これが「言いがかり」であることはハッキリしています。
具体的な「侮辱」にあたる箇所がないにもかかわらず、
僕の批判を「侮辱」だと騒ぎ立てるのは、千葉が僕より上の地位にいると思っているからでしかありません。
「ボクのような上位の人間を、下位のネット民が批判するなんて侮辱だ!」という感情で、
文章の内容が問題ではないのです。
僕は地位ではなく知性のレベルで人間をはかっているので、
より論理を用いる僕が論理不在のお猿さんを批判したところで「侮辱」になるという感覚がまったく理解できません。
何度も言いますが、千葉は僕に文句があるなら反論すればいいのです。
論理に対して論理で応じることなく、地位や人気をかさに着て「見えない権力」で圧力をかける、
これはパワハラの図式と何も変わりません。
(実は千葉に限らず、アカデミックな地位にある人間にはこのタイプが少なくありません)
こういう封建的発想に基づいた非言論的態度をとる人間を、僕はポストモダンどころか前近代的ムラビトだとしか思いません。
こういう言論の内容より社会的地位を頼みにする人間が思想を語っているかのように誤解しているから、
日本の言論界はいつまでもほんとうの言論界として成熟できないのです。
僕のレビューに自分では反論ひとつしないくせに、
意趣返しとばかりに千葉のリツイートを垂れ流す関悦史や田島健一などの陰口俳人も、
このような千葉のパワハラ的言論弾圧を支持した人間として、
己に表現者の資格がないことを自ら証明したことをよく自覚しておいて下さい。
関も田島も千葉と一蓮托生の道を選ぶなんて、ずいぶんと勇気ある決断をしたものだと感心します。
検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。
僕は200以上もレビューを書いているのに、
自分以外のレビューを一つ挙げただけで「なんでもナルシシズムだと断罪」と書くのは図々しいにもほどがあります。
千葉のような「他者」不在の世界に生きているナルシストの好きな作品が、
同様にナルシシズムを発露した作品でしかないだけのことで、
僕は他の著者のレビューでは(福田の類友を除いて)ほとんどそんなことは言っていません。
こういう根拠のない悪口のことを「中傷」とか「言いがかり」とか言うのです。
それから福田の『自生地』の散文がラノベと類似しているいう指摘は、
福田を褒めた青木亮人という学者もしています。
他の人も指摘していることを僕が「決めつけている」と表現するのは不適切と言えるでしょう。
たいして俳句を勉強したとも思えないのに、恥をかきによく出てくるな、とあきれます。
僕から見て千葉の知性がオタクレベルとしか思えないのも仕方ないのではないでしょうか。
Amazonレビューって、やろうと思えば、話題の本をレビューしてつなぐことで「俺の批評空間」を構築し、他者の話題性に乗っかって自分の書き物を多くの人の目に触れさせることができる。それは、出版機会の不平等に対するゲリラ的な抵抗運動でもあるから、複雑な気持ちになる。
僕は多くの人に自分の書いたものを読んでもらおうなどと思っていませんので、
これは千葉が一般論として書いているのかもしれませんが、
千葉の「出版している人間はエライ」的発想が田舎者丸出しすぎて赤面してしまいます。
父も祖父も曾祖父も本を出版していますので、僕は出版がそれほど特別な行為だと思ったことがありません。
そのため、たかが出版行為くらいで選民意識を持つ人というのはどこの野蛮人かと思います。
本だろうがAmazonレビューだろうが、良いものは良いし、悪いものは悪いのです。
「他者の話題性に乗っかって」というのはドゥルーズやメイヤスーに乗っかってるだけの千葉自身のことでもあります。
この人はすぐに自分をメタに置いて免罪してしまうのですが、オマエは「僕の批評空間」すら構築できてないじゃん、と言いたいところです。
先輩の引いたレールの上を走っているだけの自動運転列車のわりに、警笛だけは大きいので困ります。
「ポストモダン嫌い」という姿勢をベースにしてネット上で罵詈雑言を言う人って、「ネトウヨ」みたいに何か名前をつけたほうがいいんじゃないかな。
人が何を嫌おうが好き嫌いなら自由なはずです。
ネトウヨはイデオロギーですが、人の好き嫌いを抑圧するなんてコイツは独裁者か何かなのでしょうか。
おまけに「罵詈雑言」とは何のことでしょうか。
僕が書いたのは著作に基づくレビューなのに、どこに罵詈雑言などあったと言うのでしょうか。
これはツイートの流れ上、まちがいなく僕のことでしかないので、この発言に関しては千葉に謝罪と訂正を要求します。
学者のはずなのに根拠のない中傷をよくもしてくれるものです。
佐野波布一氏のレビューって、あれこれ読むと、基本線があるみたいね。ポストモダン嫌い。軽薄そうに見える作品が嫌いで、価値観が古典的なものに寄っている。売れてる感が嫌い。まあ、いますよねこういう人。ある種の典型性を表していると思う。
こういう何でも「好き嫌い」に還元する論理不在の幼稚な態度が、言論界の空洞化を象徴しています。
僕が「ある種の典型」なら、どうして僕個人の名前を挙げて執拗に悪口を言うのでしょうか。
すでに千葉のやっていることが矛盾しています。
僕のレビューのコメント欄で、僕に批判的に絡んできた人たちは、
論理で僕に勝てないために、ほぼ全員メタに立つことで優位な位置を確保しようとします。
「いますよねこういう人」とメタな視点から僕を相対化したような顔をする千葉のやり方こそが、
典型的な論理弱者のネット民のやり方でしかありません。
論理で批判ができず、猿用のボタンを押して相手を否定した気分になっている連中もそうですが、
メタに立つことで優越感を募らせ、相手を侮りバカにする態度こそが典型的なネット民もしくはネトウヨの在り方であり、
千葉はそういう連中の生き仏、等身大の存在として支持されているのでしょう。
ザコなメンタリティであることを売りにしているくせに、
自分が何様かであるかのような「臆病な自尊心」を振り回すところが、千葉の醜さであると指摘しておきます。
『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏のAmazonレビューがいったん削除された後、すぐに再掲載されました。本レビューには著者への中傷が含まれるという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。
世間知らずの千葉は知らないのかもしれませんが、弁護士は裁判官ではありません。
依頼者に同調した判断をするのは特に不思議なことではありません。
それをさも正義の判断のように権威だと盲信し、僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、
僕が違法行為でもしているかのように印象操作をするやり方は、もはやクズとしか言いようがありません。
勝手に弁護士に相談すればいいですし、訴えたければ裁判でもなんでもすればいいのです。
それなのに、ただ弁護士に相談したことをレビューのコメント欄に繰り返し貼り付けるとは、
権威的パラノイアのやり口そのものではないでしょうか。
自分が権威的パラノイアでしかないくせに、何がフランス現代思想で、何がドゥルーズで、何がスキゾなのでしょう?
こんな人物のインチキもわからない人は、自分自身で思考する力がないのですから、
知性に欠けたただの思想的人間ぶりたい権威主義者でしかありません。
千葉は自身でわからないならば、浅田彰や國分功一郎に自分の行為がパラノイアのそれでないのか尋ねてみたらいいと思います。
(その答をぜひツイートしてくださいね)
また『勉強の哲学』ではユーモアとか言っていたはずですが、
弁護士を持ち出すようなやり口のどこにユーモアがあるのでしょう?
千葉の著書がいかに口だけの嘘で構成されたものか証明されたと言えるのではないでしょうか。
俳句の人たちも佐野波布一氏のレビューには抗議した方がいいと思う。
愚かな俳人はすでに文句を言ったりしていますよ。
僕が撃退しているだけです。
自分の本はもちろんのこと、Amazonで本を調べていて中傷するレビューを見かけたら、積極的に違反報告しています。
僕は積極的に「批判言論狩り」をしていますという内容を、誇らしげにツイートする人にあなたは知性を感じますか?
僕は千葉のツイッターにこうして反論をしますが、違反報告や裁判など考えたこともありません。
言論を操れない知的弱者が弁護士や管理者に頼るものだと思っているからです。
弁護士に相談したり、Amazonにチクったり、コイツは自分では何もできないのでしょうか。
この特高やゲシュタポを連想する行為がアーレントの言う「凡庸な悪」にほかなりません。
大学准教授であるはずなのに、言論に言論で応じるでもなく、「違反だ!」とか言って通報する、
こんな幼稚な人間が思想など語る文系アカデミズムはもう終わりです。
何度も言いますが、Amazonレビューでは中傷はガイドラインに抵触するので掲載されないのです。
つまり千葉は自分の気に入らないレビューを「中傷」と言って通報しているわけです。
普段はフランス思想に依拠して理性や主体性を疑問視するようなツイートをしておきながら、
結局千葉は自分自身の理性や主体性に関しては無自覚に正義だと信じ込んでいます。
こういう奴の言うことがインチキでなかったら何なのでしょう?
周囲が甘やかしていても、僕は絶対にこのようなインチキを看過しません。
自分はツイッターで「基本アホ」などと人を侮辱する発言を平気で垂れ流している人に、
正義面してAmazonレビューを取り締まる資格などあるはずがありません。
自分の行為を免罪するにもほどがあります。
このように千葉という人間は自己の不適切な行為には知らん顔をして、
他人だけを責めてもかまわないと思っています。
どれだけ自分のことを「特別な人間」だと思っているのでしょうか?
いや、千葉は自分を「特別な人間」と思っているのではないのでしょう。
おそらく「自分しかいないデジタル・ナルシス(西垣通)の世界」を生きているのです。
消費資本主義的動物、つまり消費に飼いならされた「家畜」には、
人間が不在ですし、社会的な言論も必要ありません。
ネットなどの「オススメ」を享受し、自分の「好み」ばかりを断片・選択的に享受するのが当たり前になると、
自分の好みだけの世界(フィルターバブル)を形成するようになります。
こういう人間は「好み」以外のものを無意識に(非主体的に)排除しているので、
「好き嫌い」を理由に「他者」を排除することが当然としか感じなくなります。
このような心性の延長にマイノリティや移民の排除があることは容易に想像ができることです。
思想をやるなら本来はこのような現象を考察するべきですが、
千葉は無批判に自己のフィルターバブルの価値観を振り回し、
ポストモダンの批判者はポストモダンが嫌いなんだろ、とばかりに、
「他者」の批判を内容のない「好き嫌い」へと還元するのです。
(内容を考慮する気がないから何でも「中傷」と感じるのです)
こんな低レベルな人に言論など本質的に必要あるはずがありません。
(コイツの書くものは本質的にすべて自己弁護です。
「ギャル男論」とか笑わせないでほしいものです)
こんな無教養な人を教育者として雇用している立命館大学はもちろん、
さも知識人であるかのように扱っている河出書房新社や文藝春秋、青土社、朝日新聞などのマスコミ各社には、
千葉の傲慢な行為を後押しした間接的な責任があると僕は思っています。
著作の帯を書いた浅田彰やゲンロンでつるんでいる東浩紀、師にあたる小泉義之、親しくしている國分功一郎なども、
千葉という人物を知りながら、社会の先輩として何も教えてこなかった責任があると思っています。
(千葉は目上の人にはヘコヘコしているんですけどね)
権力者が好き勝手やっている政治状況と歩調を合わせるかのように、
地位や人気を利用して勝手放題やる人など、
僕のように表立って批判をしなくても、言論人として失格だと思っている人はかなりの数にのぼることでしょう。
いずれは歴史の審判が下ります。
(ミネルヴァ書房)
塩野谷 祐一 著
⭐⭐⭐
モラル・サイエンスとしての経済学を哲学的に考える
一橋大名誉教授で経済学者の塩野谷が、経済哲学の基本的な問題を、
短い「エッセー」という読みやすいかたちでまとめたのが本書です。
「正・徳・善」という書名でも想像できる通り、
塩野谷の考える経済哲学は、倫理的価値が関心の中心になっています。
経済学といえば数学的モデルの構築に熱意を燃やしているイメージが強かったので、
塩野谷の視点が少し「意外」で興味を持ちました。
塩野谷は3つの倫理的価値に「正」>「徳」>「善」の順位をつけていますが、
重要だと強調するのは個々の人間存在の「徳」だとします。
「正・徳・善」はそれぞれ「正義・卓越・効率」の3つの要素から成立します。
このようなあるべき理念を制度の中に定着させようとすることを、塩野谷は「経済を投企する」と表現しています。
塩野谷は「正」の倫理をJ・ロールズの「無知のヴェール」によって説明します。
「無知のヴェール」とは、現実社会での社会的地位や能力、知性、年齢など人々の個体差を示す情報を覆い隠し、
自分の立場を離れた公正な視点を仮定することで、
自分が社会で最も不遇な立場に置かれたとしても同意できる「正義」の原理の成立を目指す考えです。
ロールズの正義原理は社会環境による不平等のない公正な機会均等を求めるだけでなく、
社会で最も不遇な人々の便益を高める社会保障制度の構築をも要求することができるのです。
塩野谷の語る「徳」の倫理は、M・ハイデガーの哲学に依拠しています。
ハイデガーの死の本来性とは、死については誰にも代わってもらえない「人格の置換不可能性」を意味し、
置換できない「かけがえのない人格」を実現する生き方を「卓越」と捉えています。
これはアリストテレス以来の伝統に立ち戻る視点であって、
人間が本性を発揮して良く生きるための共同体を考えていくために必要になるものです。
「善」は「正」と「徳」の倫理的制約のもとで人間が追求する行為のことです。
「善」を最大にする制度が「正」であって、「善」を最大にする性格が「徳」となります。
「善」は利己心と効率性において経済活動をするわけですが、
塩野谷が主張したいのは、その経済活動が正義や卓越のもとで行われなければならないということです。
倫理観の導入により、人間的な経済というものを成立させるため、あるべき未来像を描くべきなのです。
アリストテレスは「家政術(オイコノミケー)」と「貨殖術(クレマティスケー)」を区別し、
共同体倫理のもとで必要な財の獲得を意味する「家政術」を重視しました。
一方で貨幣利得の獲得を自己目的化する「貨殖術」を非難しました。
このオイコノミケーはエコノミクスの語源と言われています。
倫理に規制された経済という観念はアリストテレスからスコラ哲学のトマス・アクィナスに引き継がれ、
中世の利子を禁止する教義として維持されました。
これが破壊されたのが近代ですが、18世紀には社会に関する学問はモラル・サイエンスと呼ばれて、
有徳かつ幸福な正のあり方を最高の規範としていました。
経済学を広義のモラル・サイエンスとして捉え直すために、塩野谷はJ・シュンペーターとJ・M・ケインズを取り上げます。
本書の後半ではとりわけシュンペーターのイノベーション理論が取り上げられています。
そのほか功利主義という訳語についての話や、セイ法則と失業問題についての話、
ソーシャル・キャピタル論についての話も興味深く読みました。
経済に倫理的視点を導入するという課題は、もはや果てしなき夢にも思えますが、
このような本が出版されたのは2009年という出版時期と大きく関係していると思います。
2008年のリーマンショック直後にあたるからです。
インチキな格付けを受けたCDOなどの無軌道な金融商品が暴落したことを受けて、
経済に倫理の見直しが迫られた時期であったわけですが、
あれから10年経って少しはあの時の反省が活かされているのでしょうか。
学生ローンの返済ができずに破産する人が続出していたりすることを考えると、
大枠では経済のあり方が変わったとはあまり思えません。
その意味では塩野谷のような倫理的視点は、経済学においてはいつまでも「意外」であり続けてしまうのかもしれません。
レビューのコメント欄
千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』の僕のAmazonレビューのコメント欄は、
現在このようになっています。
千葉雅也1日前 (編集済み)
『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。
佐野波布一 10時間前
どうも、佐野波布一と申します。
千葉雅也氏のコメントに感謝します。
当方に中傷の意図はありませんし、Amazonが審査を経て掲載したレビューなので、
Amazonのガイドライン上では誹謗中傷に当たるとは判断されていません。
(だから抗議を受けて消去されても再掲載が可能なのです)
あなたの個人的な感覚だけで、さもこちらが「侮辱」「中傷」をしたように大勢のフォロワーに喧伝する行為は、
著名人が数の暴力に訴えた行為として厳しく批判されるべきだと僕は考えています。
「揶揄」と言うならまだしも、「侮辱」に当たるというなら、
それがどの文章なのか具体的に示してください。
また、あなたの弁護士にあなた自身の「基本アホ」ツイートがAmazonレビュアーへの中傷や侮辱に当たらないのかどうかも相談したら良いと思いますよ。
千葉雅也10時間前返信先:以前の投稿
『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。
佐野波布一 8時間前 (編集済み)
ちゅうしょう【中傷】
(名)スル
根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。「━によって失脚する」
根拠を示して書いているものは中傷とは言いません。
もっと言葉の勉強をしましょう。
あなたのやっていることが中傷です。
Philosophia7時間前 (編集済み)
千葉氏の肩を持つわけではありませんが、彼は本当に訴える気だと思います。彼はtwitter上で佐野波氏についてしつこく言及されているようですし…。
佐野波布一 1秒前
どうも、佐野波布一と申します。
Philosophiaさんのコメントに感謝します。
千葉雅也は世間知らずなので本気で訴えるかもしれないと僕も思っていますよ。
真実しか書いていないので、こちらは迎え撃つだけのことです。
たとえ破産しようと言論弾圧に対しては知識人として戦う義務があります。
こちらのコメントには応じず、ツイッターの内容を繰り返し貼り付ける千葉の態度は、
傲慢きわまりないものです。
僕は千葉がどのような考えでこのような態度を取っているか理解できています。
千葉はかつてこのようなツイートをしたことがあります。
他人の言葉で無駄に傷つかないためには、他人を人間扱いしないことがときに重要である。他人を理解しよう、他人に理解してもらおうという「殊勝にコミュニカティブな前提」のせいで無駄に傷つくのである。
0:04 - 2016年1月1日
自分が傷つかないためには、「他人を人間扱いしない」というのが彼の流儀なのです。
千葉の考えるコミュニケーションの「切断」が、
いかに自己愛の保存のためであるかを窺い知ることができるツイートです。
自己愛のために他人を人間扱いしないことを肯定する人間が「人間不在」の哲学を語ることの恐ろしさについて、
千葉の読者たちは思い至る必要があると思います。
しかしコメント欄に同じ文面を貼り付けていくのは控えめに言っても「荒し」行為だと思うんですけどね。
今朝、僕もある機関に千葉の行状について問い合わせるメールを送りました。
返事があり次第、ブログに掲載することを考えています。
A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
大人が自然に読める訳文
A・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は多くの人の手で訳されていて、
現在Amazonで調べても10冊以上の版が並んでいます。
さらなる新訳が必要なのか疑問になるところですが、
有名な内藤濯訳を持っていたのですが、気になって購入してみました。
内藤訳の『星の王子さま』はこんな感じで訳しています。
王子さま,あなたは,はればれしない日々を送ってこられたようだが,ぼくには,そのわけが,だんだんとわかってきました。ながいこと,あなたの気が晴れるのは,しずかな入り日のころだけだったのですね。
同じ箇所の芹生訳はこんなふうになっています。
小さな王子よ。
わたしはこんなふうにして、きみの幼い人生の悲しみを、少しずつ知るようになった。きみの心が本当に休まるのは、もうずっと前から、日が沈むのを眺めているときだけだったのだね。
並べてみるとかなり違うものですね。
僕は原書を持っていないので、どちらが原文に近いのかはわかりませんが、
おそらく訳の正確さの問題ではなく、描きたい世界の違いが反映しているのだと思います。
目につく違いを挙げると、語り手の一人称を内藤訳では「ぼく」、芹生訳では「わたし」と訳しています。
芹生は「訳者あとがき」で、これまでの訳が語り手と王子を対等の関係として描いてこなかったのが不満だった、と打ち明けています。
たしかに内藤訳では「送ってこられた」という王子に対する尊敬語が用いられています。
王子とはいえ相手は子供です。
語り手が子供を対等に扱うのは、相手が「王子」という地位にあるからではなく、
語り手が子供を侮らずに大人と対等な存在として考えているためであるからです。
それを表現するために敬語を使わずに対等の友情関係として描こうという姿勢は理解できます。
同様の理由で、芹生は内藤訳にあるような「王子さま」の「さま」という敬称を省いています。
芹生訳は内藤訳のように子供向け童話というスタンスをあまり意識していないため、
ひらがなの多用や子供向けの表現のわずらわしさがありません。
そのため、大人が自分の感覚で読むのに適しているという印象です。
内藤訳のような横書きではなく、縦書きになっているのも読みやすさにつながっているかもしれません。
作品内容に関しては、説明すると味気ない感じになってしまいます。
大人はいろいろな夾雑物に邪魔されて、物事の真実がわかっていません。
真実は純粋な心が感じ取るところにあるのです。
「目で見たって、なんにも見えないんだ。心で探さなくちゃ」と小さな王子は言います。
最近、東大卒のエリートによる不祥事が後を絶ちません。
経歴が立派でも中身が立派な人とは限らないのですが、
われわれはつい見えている部分に依存して判断しがちです。
『星の王子さま』に照らして言えば、ボアが飲み込んだゾウを見ることができずにいるのです。
話題性などの他人の評価に左右されているだけでは大事なものを見失うばかりです。
今や『星の王子さま』は大人こそが読んだ方がいい本となっているのかもしれません。
佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著
⭐
ドゥルーズ=ガタリの左旋回は不都合な過去の隠蔽でしかない
G・ドゥルーズとF・ガタリの著作『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が日本で哲学的インパクトを持って迎えられたのは、
バブル期からネットが一般化するまでの期間でした。
20年以上前、現代思想といえばドゥルーズ=ガタリ、J・デリダ、M・フーコーのことでした。
ドゥルーズ=ガタリ自身はF・ヘーゲルやJ・ラカンの思想を批判した「アンチ」だったのですが、
当時の日本では彼らの支持者が圧倒的なマジョリティだったことは確認されなければなりません。
僕にとって学生時代からドゥルーズはメジャー中のメジャーでしたし、ヘーゲルなど超弩級のマイナーな存在でした。
西洋哲学の伝統がない日本では、ドゥルーズ=ガタリは批判哲学としての意味を持っていませんでした。
ドゥルーズ=ガタリが評価されたのは、それが西洋の新時代を示しているように見えたからです。
そうなれば「新しい」ものに弱い日本人が殺到するのは必然です。
実際、彼らの思想には商業的な「新しさ」がありました。
存在の一義性はグローバリズムの浸透によるマーケット一元主義と歩調を合わせたものでしたし、
「スキゾ」という言葉は、消費資本主義と呼応して因習を打ち破るファッションになりましたし、
「リゾーム」という概念はインターネットを先取りしたものでした。
何より大衆動員力のある映画を礼賛していたことで、
ドゥルーズ=ガタリは商業的な「新しさ」と共犯関係を持っていたのです。
このように日本ではドゥルーズ=ガタリの思想が商業的な先端性として受容されたために、
実際は反資本主義を意図していたということが、ブラックジョークにしかなっていません。
同じく反資本主義を意図したJ・ボードリヤールの著書が、日本では電通の社員の愛読書になったように、
〈フランス現代思想〉は日本で受容されると反資本主義的な内容が体良く去勢されてしまうのです。
以前から僕は〈フランス現代思想〉の研究者が、本国と日本の受容のギャップを指摘しないことに不信感を抱いてきました。
そのため、本書が今さらドゥルーズ=ガタリが資本主義打倒の革命思想家だったというスタンスを前面に出すのには違和感があります。
日本の商業的な受容のあり方についての反省もなく、
原発や沖縄の抵抗運動にドゥルーズ=ガタリ思想が関連しているようなことを書く佐藤と廣瀬には、
その運動に共感するにしても、にわかに賛同する気にはなれません。
参考までに手元にあった雑誌「現代思想」2008年12月号のドゥルーズ特集を開いてみます。
特集内容の内訳(中見出し)を見ると、
最初に「『シネマ』を読む」、次に「映画=思考」と映画論がメインです。
次は「科学・情動」「情報・生命」「言語・芸術・文学」と続きます。
そして、やっと最後が「権力・社会」です。
日本でのドゥルーズ思想がいかに政治的な文脈でないかがよくわかる構成です。
気の毒なことに、その雑誌で「動的発生から生成変化へ」という権力論を担当しているのが、
本書の著者である佐藤嘉幸なのです。
この事実ひとつを取り上げても、佐藤のような政治的アプローチが日本のドゥルーズ受容の傍流であったことがよくわかります。
(ちなみにこの佐藤の論考に、一度として「資本主義」「革命」という言葉を見つけることはできませんでした)
要するに、〈フランス現代思想〉研究者の中で脱原発などの政治的実践を厭わない佐藤や廣瀬は、
メジャー思想の研究者の中でのマイノリティであるのでしょう。
その意味では商業主義的で欺瞞を垂れ流すドゥルーズ学者よりは何十倍もマシだと思いますが、
僕が彼らに賛同できないのは、彼らがドゥルーズの非政治的受容に対して反省も批判もしないことです。
日本の受容を見れば、ドゥルーズ=ガタリの思想に消費資本主義と共鳴するところがあったことは明らかです。
ドゥルーズ=ガタリの思想の商業面を批判しないで資本主義打倒を語るのは図々しいと思うのです。
〈フランス現代思想〉は概してユダヤ的な要素が強く、
ナチスドイツの被害者だったフランス人とユダヤ人の共感で成立している印象があります。
日本は大戦中はナチスの仲間だったわけですから、そもそも〈フランス現代思想〉に共感する立場にはありません。
もしドゥルーズ思想を批判理論として引き受ける気があるなら、日本のドゥルーズ学者は日本の戦時体制を批判しなくてはいけません。
デリダ学者の高橋哲哉はそういう視点を持っている印象がありますが、他の学者はちっともそんな気がないようです。
日本でドゥルーズ=ガタリの思想が非政治的にしか受容されなかった理由のひとつには、
自分自身の過去の傷に触れたくなかったことがあるのではないでしょうか。
そうして日本の〈フランス現代思想〉は批判理論としては機能することなく、
自身のあやまちまで遠い西洋近代のせいにして、ひたすらナルシシズムを高めていったわけです。
さて、本書の内容について触れていきますが、
少し読んだだけで、ドゥルーズ=ガタリの思想に触れたことのない人には難しすぎる不親切な本だとわかります。
ほとんどがドゥルーズ=ガタリの著作からの引用とそれを信奉した概説で構成されているからです。
佐藤と廣瀬はドゥルーズ=ガタリと適切な距離が取れていないため、
現代思想の権威の雄弁かつ過剰な代弁者となってしまい、読者が自分自身で考える機会を奪っています。
このような本はエディプス図式そのままの従順な教条主義者を生み出すだけではないでしょうか。
自分自身が服従化の欲望を生きている権威的マジョリティの代行者でしかないのに、
よくも批判している気分になれるものだと呆れます。
僕は前々から疑問なのですが、
どうしてドゥルーズ=ガタリのことを書く人は、
ドゥルーズ=ガタリと適切な距離を取って、その思想を検証しつつ解説することをしないで、
自らがドゥルーズ=ガタリの代弁者のようになってしまうのでしょうか。
彼らの思想は批判理論であるはずなのに、それを研究する日本人は一様に無批判にその思想を受け入れています。
他の思想家ではそこまで極端な同一化は起こりません。
僕が見た限りでは、ドゥルーズ=ガタリを理論的に批判した人は外国人ばかりです。
長らく日本の現代思想においてドゥルーズ=ガタリは批判の許されないファッショ的存在だったと言えるのではないかと思います。
本書が示す三つの革命は、
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』という三つの著作に対応しています。
つまりはこの三作がすべて革命的な著作だと言いたいようなのですが、
そのあまりに反省や検証のない評価のあり方はどうかしています。
ドゥルーズ=ガタリの言っていることは、今となってみれば、ひどくロマン主義的で、ひどく都合のいい論だと気づけるはずだからです。
そもそも佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』を読解する第三部の冒頭でこう述べています。
レーニン的切断がその社会的、政治的効力の一切を失いつつあったこの歴史的局面において、ドゥルーズ=ガタリは、プロレタリアによる階級闘争も、マイノリティによる公理闘争も、実現不可能なものになった、と判断している。
佐藤と廣瀬は『アンチ・オイディプス』を「プロレタリアによる階級闘争」とし、
『千のプラトー』を「マイノリティによる公理闘争」として章題にもしているのですから、
これらがダメになったということは、少なくともその二作には今や思想的実効性がないと言っているわけです。
彼らは社会主義体制の崩壊を理由にしていますが、僕はドゥルーズ=ガタリの理論自体に欠陥があったと思っています。
さんざんその二作の内容を大上段から説明してきたくせに、
それが失敗だったことをこの一文だけで済ませてしまう態度は納得がいきません。
思想というものは、本当に価値があれば社会体制の変化ぐらいで断念されるものではありません。
つまり、ドゥルーズ=ガタリ自身は過去の思想に問題があったと認めているわけです。
それなのに、日本のドゥルーズ学者たちは彼らの思想の欠陥を検証することもせず、
相変わらず有効性のない思想の権威だけを維持しています。
彼らが考察をしないので、代わりに僕がドゥルーズ=ガタリ思想の欠陥をざっと書いておきましょう。
フーコーもそうなのですが、理性的主体というものが権力への服従を促すという認識に問題があります。
一部は正しいとしても一部では間違っています。
それなのに〈フランス現代思想〉は主体批判をすれば、権力の批判をしているという気分から抜けられません。
〈フランス現代思想〉以外ではこんな大前提は共有されていませんので、内輪的発想と考えてもいいと思います。
この間違った「大前提」はいいかげん反省されるべきものです。
『アンチ・オイディプス』はこの間違った「大前提」に依存しているため、
無意識の欲望に権力からの自由を見出すことになっています。
ドゥルーズ=ガタリにおいて主体は、欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによって、その機械の傍らに、残余として生産される(残余–切断)。その意味において、主体は意識によって中心化された人称的主体ではなく、非人称的特異性から構成された「脱中心化された」主体、すなわち無意識の主体である。また、この主体は、多様なフローを採取、消費することによって刻々と変容を繰り返す非人称的主体である。
ドゥルーズ学者はこのような「お題目」に則って、「生成変化」とか言いながら変容を肯定してきました。
引用した佐藤と廣瀬の文章にある「フロー」とか「消費」とかいうワードでわかる通り、
ドゥルーズ=ガタリの「無意識の主体」とは、消費資本主義的な主体に回収されるものです。
ドゥルーズ=ガタリはこの「無意識な主体」によって、権力に服属するエディプス的主体を打ち破れると考えたのですが、
その「無意識の主体」は彼らが思い描いたような無秩序で多方向に分裂する主体にはならず、
知らず知らずのうちにマーケティングに乗せられている消費的な欲望主体として資本主義に服属するだけに終わったのです。
もう結果が出ているので検証もできるはずなのに、ドゥルーズ研究者たちはこのことに知らん顔をし続けています。
多方向な欲望は、40人を超えるアイドルグループや4人以上のヒロインがいるアニメなどに飼いならされ、
見かけは選択肢が増えて多様でも、大枠では同一のものに服属していることを欲望することに終わり、
アナーキーな欲望にまでは至らず、結局はナショナリズムを超えることはできませんでした。
この失敗はドゥルーズ=ガタリが「無意識」というものにロマン的な価値を見出しすぎていたことにあります。
シュールレアリスムも同様なのですが、フランス人は無意識を都合よく美化しすぎていると思います。
その結果「欲望機械」とか言って、理性的主体としての「人間」を解体すれば体制の打破ができるような幼稚な幻想を語るのです。
リゾーム的横断性による権力的ツリー構造の破壊をめざす『千のプラトー』に至っては、
インターネットを持ち出せばすむような内容です。
わざわざドゥルーズ=ガタリの引用に基づいて小難しい読解をする意味がわかりません。
その態度こそが権威を保存するやり方でしかないと感じます。
ちなみにスター扱いされているあるドゥルーズ研究者は、
ドゥルーズ=ガタリ的な非人称的主体であるAmazonレビュアーを「基本アホ」と罵倒し、
人称的でツリー構造に依拠するマスコミに掲載されたプロの書評を読めとツイートしたのですが、
このようにマリノリティへと生成変化するどころか、権威の場に平然と依存し続けて、
ドゥルーズ=ガタリの思想を全く尊重することもない人がドゥルーズ思想を語ってしまう国で、
西洋思想の何が学べるというのでしょうか。
佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』では、「マジョリティであることの恥辱」を感じることの重要性を語っています。
ここを読んで僕が疑問に思ったのは、
恥辱を感じるのは、はたして無意識の主体なのか理性的な主体なのかということです。
僕の常識的実感では、それは理性的主体でなければならないはずなのですが、そのあたりを佐藤と廣瀬は触れずにすませてしまいます。
恥辱を感じることが重要ならば、人間不在の思想に入れあげたドゥルーズ研究者は何もわかっていないということになります。
ドゥルーズ=ガタリの思想が多方向に変容しているのか知りませんが、
こういう一貫性を考えない態度が、官僚が文書を平気で書き換える時代と親和的であることは間違いありません。
本書の最後にある日本の反体制運動についての記述は欺瞞まみれで憤りを感じました。
そうやって現実を自己都合で解釈するロマン主義的な態度は、彼らが反発している安倍政権と何ら変わりがありません。
たとえば、佐藤と廣瀬は「安倍やめろ」の政権反対運動について、
「賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ」
と解釈して、ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』へと話を接続し、
「その運動の直中で、資本主義的主体性から自らを脱領土化し、
純粋内在性の集団的行為主体の構築過程の上へと自らを再領土化するのだ」
とか述べるのですが、どう考えても強引な牽強付会でしかありません。
「安倍やめろ」がどうして賃労働反対の表明になるのでしょう?
佐藤と廣瀬は大多数の日本人が天皇制を保存したい権威依存的な性格であるという事実から目を背けて、
身勝手な「解釈」によって現実を自分のロマン主義的な夢へと塗り替えてしまうのです。
本書で沖縄県民を執拗に「琉球民族」と書き記すことも違和感を感じずにはいられません。
そのうえ、沖縄の基地反対運動もなぜか賃労働反対へと変換されてしまいます。
基地廃絶を求める琉球労働者たちは、彼ら自身の階級利害に反する熱狂を生きているのであり(分裂者的リビドー備給)、この熱狂の絶対性に押されて彼らは、賃労働にはもはや立脚しない新たな生を創造する過程(生成変化)の上へと自らを再領土化するのである。
基地廃絶という具体的イシューを、賃労働に立脚しない生の創造へと身勝手な抽象化をしてしまう、
このような抽象化を逃げ道として〈フランス現代思想〉研究者たちは自己都合のポストトゥルースを垂れ流してきました。
他のジャンルの研究をしている方なら、日本の〈フランス現代思想〉研究者のレベルの低さが実感できるのではないでしょうか。
研究者はドゥルーズの権威を利用した「商売」を謹んで、学問的に思想内容を検証したり批判したりしてほしいものです。
評価:
佐藤 嘉幸,廣瀬 純 講談社 ¥ 2,160 (2017-12-13) |
千葉 雅也 著 【Amazon用ショートヴァージョン】
ナルシストの自己欺瞞を知るための教科書
勉強ばかりしてきた東大院卒で立命館大学准教授の千葉雅也が、
前著『勉強の哲学』の「セールス」が好評だったことに応えて、
「メイキング」と称してひたすら「自分語り」をしたのが本書です。
セールスが好調ならば、それに乗っかってもう一儲けしようというフットワークの軽さは、
さすがはファッションリーダー千葉キュンという姿勢で感心します。
本書の第一章は東大の駒場キャンパス(凱旋!)で行われた講演会です。
第二章は2017年7月の佐々木敦(お仲間)とのトークイベントです。
第三章は同8月の文春オンラインのインタビューの再構成です。
第四章が本書語り下ろしで、ぶっちゃけ15ページしかありません。
最後に資料編とか言って手書きノートが並んでいます。
この本のための仕事はほとんどありませんので、著者が勉強しないで作った本となっています。
SNSに依存した人々のナルシシズムは日に日に肥大化しています。
相手のナルシシズムを高める「いいね!」を連発することが正義となっていて、
ツイッターなどでは大したことないものを褒め合う「挨拶」が横行しています。
このようなナルシス的な欲望のニーズに合うナルシストが、「セールス」を期待されて出版社に担ぎ出されるのは必然です。
「セールス」が正義になるとハイカルチャーのサブカル化が進み、
世のニーズを反映したセールス主義という一元評価社会を無批判に肯定することになります。
その結果、金銭のやりとりだけが注目される「人間不在」の評価が横行します。
そんな「人間不在」の空虚さを、内輪の「肉声」によって埋めようとする行為がSNSなのです。
アニメファンが声優を偏愛する理由も「肉声」への欲望にあります。
(東浩紀は人間不在の人文学を提唱したため、オタクの萌え要素から声優を排除しました)
SNSによる「挨拶」を「母なる肉声」と取り違えることで、彼らは今日も自分の空虚さを埋めているのです。
(このようなSNS漬けの連中が、挨拶性を基盤とする俳句をツイッター的な創作として身近に感じるのは必然です。
それについてはまた別の場所で論じることにします)
ニューアカに始まる現代思想のファッション化は、
本来の〈フランス現代思想〉がアンチ資本主義であるため、反現代思想的な現象として真に理解する人から批判されるべきなのですが、
日本で「思想」を商売にしている人は、セールス主義に屈しているくせに思想家であるような顔をしています。
思想家が「商売人」になってしまうことには大きな欺瞞があるわけです。
つまり、ニューアカに始まる日本の〈フランス現代思想〉受容とは欺瞞の歴史にほかなりません。
僕がこれらを〈俗流フランス現代思想〉と揶揄するのはそのためです。
おぼっちゃま育ちの千葉キュンはそんな欺瞞をナルシシズムの充溢でごまかしています。
なんとなく読むと気づきませんが、本書をよく読めばそのことが確認できます。
本書の「はじめに」では、「『勉強の哲学』は大学一・二年生を主な読者として想定しています」と書いてあります。
出版当時にそんなことを言ったら読者を狭めてセールスが落ちるので、
後出しジャンケンのようなかたちですが、
この発言には、人生経験に乏しい若者以外には読むに耐えない内容であることをごまかす自己弁護の意図も感じられます。
こういう自己愛保存のための「言い訳」を自己の内面ですませることができず、
ツイッターや著書に書くことで既成事実にしようとするところにメンタルの「弱さ」を感じます。
自己の内面の保存に他者の承認を必要とする「弱さ」や「甘え」が、千葉キュンが若者世代に支持されている理由の一つだと僕は推測します。
こういう「弱さ」を持つ人は孤独と向き合う文学には適していません。
駒場での講演では気分が良さそうにしゃべってます。
千葉は大学の実学志向を「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろうという動きの一環に他なりません」と批判して、
僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こうした中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。いまの社会の価値観のなかで成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには何よりも勉強することなのです。
と結んでいます。
「大学教員らしからぬ振る舞い」に勉強が必要だとは驚きです。
「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」とはセールス主義に乗りまくっている千葉キュン自身のことに感じるのですが、
このように批判から自然と自分自身を免除してしまう(自分をメタ化して免罪する)やり方が、
まさにナルシシズムによる欺瞞と似ているのです。
千葉キュンがツイッター名に自己の著作の宣伝をつけて、AKBよろしくヘビーローテーションさせていたことは多くの人が知っていることと思います。
それは自分の本意ではないという千葉キュンの言い訳を信じるにしても、
出版社が求めたら不本意な行為でも従う人が「従順な主体」でしかないことは明らかです。
千葉が「僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞い」を「従順化を強いる世の中への抵抗」としていることにも欺瞞があります。
実は千葉のツイッターを大学教員としてふさわしくないとして、表立って批判したのは僕です。
僕が『勉強の哲学』レビューにコメントした文章を転載します。
佐野波布一である。
千葉の欺瞞について明確に示しておきたいので、追記を許していただきたい。
再度私が問題にするのは以下の千葉のツイートである。
千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba
Amazonレビューって、まるで勉強していないのに、フランス思想や「ポストモダンっぽさ」が嫌いな人が発言権を得られるはけ口コーナーになっている。レビューを書けば、まるで著者に伍する気分になれるかのようだ。実に安易な承認欲求調達装置。人を甘やかす装置。
午後6:59 · 2017年5月26日
千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba
だいたいこの本はフランスの文脈だけが背景ではない。補論で分析哲学系の話も書いている。要は読んでないんじゃないのか。
午後7:09 · 2017年5月26日
大学という温室にいて外のワイルドな世界を知らないナルシストおぼっちゃまは、
Amazonレビューに対し「まるで勉強していない」と言うが、その根拠はまったく示されていない。
そんなに自分が勉強していると思うなら、私の論旨に堂々と反論したらいかがだろうか。
〈フランス現代思想〉が資本主義と共謀し、コード化して流通している現代において、
脱コード化の対象となるべきなのは〈フランス現代思想〉自身ではないのか。
この問いに対する千葉からの有効な回答はない。
(分析哲学を一部加えたくらいで脱コード化できないことは言うまでもない)
レビューの内容に反論をする態度もなく、感情的な「つぶやき」を弄するだけの人間に、
他人を「まるで勉強していない」などと侮辱する資格はない。
論理的反駁もできずに感情的に相手を貶めるのはプロの研究者のすることではない。
(中略)
ハッキリ言っておきたいのだが、
千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。
この本への最大の批判はここにある。
もう一度言う。
千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。
「まるで勉強していない」と書いてはいるが、本当はAmazonレビュアーなどには「権威がない」と言いたいだけなのだ。
社会的権威のない人間ごときが、「出版」をしている権威ある人物に肩を並べた気になって批判するな、
というのが千葉のツイートの真の意図なのである。い
(中略)
さらにおぼっちゃまの侮辱ツイートが増えたので一応載せておく。
千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba
読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視する。プロの書評を読むこと。
千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba
僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むしかない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知識の基本スキルだと思う。
千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba
今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されている常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもしれない。
千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba
本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない。
羞恥心のない人間は哀れだ。
プロの間でAmazonレビューの全無視が常識なら、千葉も無視すればいいのである。
ひたすら固執してレビュアーへの侮辱を繰り返しておきながら、何が常識なのだろう?
低評価レビューはダメで参考になるのは高評価レビューというのが「プロの常識」とは、
低評価レビューはやめてくれ、というおぼっちゃまの本音が丸出しである。
自己弁護と受け取られることを恐れて、自己弁護ではないと否定するのがさらに恥ずかしい。
「プロ」「常識」を持ち出し、論理でなく権威で批判者に応じるあたり、
私が指摘した通りの権威に従順なおぼっちゃまであることを物語っている。
「本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない」というのも自己弁護でしかない。
そう言えば自分が反論できないことをごまかすことができる。
プロの書評がアテになるというのも資本主義を権威と盲信した結果である。
(ちなみに私はプロの書評の裏側を知ることができる環境で育った者である)
プロの書評は出版社から悪く書かないように要求されることが少なくない。
つまり、プロの「商業的」レビューしか読むな、という主張は、
絶対に批判されない安全な書評しか認めないという、自己を甘やかすナルシシズム精神の現れでしかない。
千葉は自著の評価が低いのは、「アホ」が低評価をつけているだけと強弁する。
私はこんなことを言う著者を見たことがない。
(中略)
千葉は「勉強」という言葉で読者を同質性を持つ相手だけに限定し、それ以外を排除している。
こんな排他的な人物を准教授にしている立命館大学が教育機関として心配になる。
いずれこの大学にも教育者にふさわしい人物について問い質す機会があるだろう。
今気づきましたが、上記の千葉の侮辱ツイッターは駒場キャンパスでの講演の翌日だったのですね。
いかに自分ワッショイのイベントの直後で千葉のナルシス指数が上昇していたかが想像できます。
千葉の「大学教員らしからぬ振る舞い」が上記の千葉のツイッターであることは、
この講演会を文春オンラインで再構成したのが7月なので間違いないと思うのですが、
問題は、こんなAmazonレビュアーを貶す態度が「従順化を強いる世の中への抵抗」であるのかどうかということです。
実は自分の著書に対する批判を許さない姿勢こそが「従順化を強いる」態度なのではないでしょうか。
セールスを邪魔する存在である低評価レビューは「基本アホ」が書いている、という千葉の主張は、
セールス一元評価社会に逆らうな、という「従順化を強いる」内容だと僕は受け止めました。
(なにしろ内容にかかわらず「低評価」であることが問題とされているのですから)
千葉は自分が社会の価値観にひどく従順であり、大学教員の中では明らかに商業主義に前のめりになって、
「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」が丸見えであるにもかかわらず、
自分では「従順化を強いる世の中への抵抗」をしていると思い込んでいるわけです。
こんな心理が成立するのは、前述したメタ化による自分自身を免罪するメカニズムがあってのことです。
より問題なのは、こういうおぼっちゃまの自己欺瞞を承認していく「世の中」の方です。
それこそ僕はそんな世の中に抵抗していきたいのですが、自分で語ったことがそのまま承認されるのであれば、
くだらない「自分語り」が世の中にあふれかえるのは必然ではないでしょうか。
ここにブログやツイッター文化の成れの果てがあると思います。
「自分語り」に禁欲的になれない人間には、アイロニーもユーモアもないということを早く勉強していただきたいものです。
17ページも傑作です。
今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは一種の擬態です。実は、自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。(中略)今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに「メタ自己啓発的」な書き方を実験しています。
『勉強の哲学』は自己啓発本に見えるかもしれないけど、実は「わざと」であって千葉キュンはメタに立っているのだそうです。
一見そう見えるけど、実は「わざと」だというメタな立場にあるという表明は、
要するに「遊びでやっています」ということと同義です。
パロディというのはそういうことです。
みんな千葉キュンが自己啓発本を全力で書くようなレベルの人間ではないということはわかっていますから、
そんな言い訳じみたことは言わずに、どうか安心してほしいものです。
(なんか大学一、二年生向けに書いたという発言と矛盾している気もしますけどね)
ただ、自己啓発本の体裁(ハッキングでしたっけ?)をしたことでセールスを伸ばしたことは間違いありません。
セールスに関しては自己啓発の恩恵にあずかりながら、僕は自己啓発本をメタ的に研究したのだ、などとわざわざ言われると、
むしろ自分がセールス目的で自己啓発本のスタイルで書いたことを見破られることを恐れているのではないか、と疑ってしまいます。
千葉キュンがドゥルーズに興味を持ったのはインターネットのせいだとも述べているのですが、
この薄っぺらさがたまらないですね。
「リゾーム」が深夜のチャット体験にほかならないと感じた、と書いていますが、
ネットが広まった時点でドゥルーズのリゾーム思想は死んでいます。
ネットが一般化する前に言っていたらから価値があったのであって、ネットが一般化してからのリゾーム概念に思想的価値はありません。
これは正直、千葉キュンの思想的素養の低さを感じてしまうので、言わないでほしかった一言でした。
また「僕を変身させた東大の授業」のところも最高でした。
まあ、駒場キャンパスでの講演なので、東大ワッショイは理解できるのですが、
駒場での領域横断的な授業で僕は変わった、というその内容があいかわらず浅いのです。
高校の時点ですでにいろいろなことに興味を持っていたとはいえ、基本的にはガリ勉で、恋愛経験もなかった。ハイカルチャー主義で、オタクだった僕を、駒場の勉強は柔らかい人間に変身させてくれました。
サブカルチャーとハイカルチャーを自由につなげて、「これが当たり前」という態度で話す。いまではその行き来は当たり前かもしれませんが、九〇年代後半に学生だった僕にとって、それはまさに自己破壊的な経験でした。(中略)デリダやレヴィナスを学びながら同時にポピュラー文化を受け入れられるようになった。ガリ勉を脱して、ストリートの身体を経由し、深い勉強に入っていったのです。
さて、クイズです。
上の文章は千葉キュンの自己欺瞞だらけなのですが、どこが自己欺瞞なのでしょうか?
「自己ツッコミ」を奨励しているわりに、千葉キュン自身はちっとも自分にツッコミを入れられないので困りますが、
実際はツッコミどころが満載です。
まず、「自己破壊的な経験」の内容が浅すぎます。
ハイカルチャーが好きだった僕が、サブカルチャーを受け入れたら破壊的な経験ですか?
サブカルチャーを受け入れたら、「ストリートの身体を経由し」たことになるんですか?
だって大学で学んだだけでしょう?
結局ガリ勉体質はそのままで、何も変わっていないと思うのですが。
この程度の経験を「自己破壊」とか言われると、
「勉強とは自己破壊である」という彼の主張がただのカッコつけで、中身がないことがわかってしまいます。
そもそも千葉はこう述べています。
「ハイカルチャー主義で、オタクだった僕」
そう、「オタクだった」のです。
もともとオタクだった人が対象をハイカルチャーからサブカルチャーに広げただけで、自己破壊的になるはずがありません。
このような自己欺瞞を平気で講演会で話す人間を、僕は残念ながら信用する気にはなりません。
ハイカルチャーをオタク的に享受しているだけでは、ハイカルチャーをハイカルチャーとして理解したことになりません。
ちなみに僕も90年代後半に駒場でない大学にいましたが、そこでもサブカルを授業で扱っていました。
あと、千葉が自身を「文学的」だとアピールしていることに関しては、
勘違いもはなはだしいという印象です。
千葉は「自分自身も文学作品的なものを作ろうと思っているわけなので」などと述べていますが、
博論と『勉強の哲学』などの著書があるくらいで、安直にクリエイターぶる自己認識はどこからくるのでしょう?
まずは千葉の文学観を確認しましょう。
文学というのは、言葉を自由に使うことで、常識の枠内で考えているような意味的つながりとか、物語的つながりを壊していくことだと僕は思います。
千葉は「文学というのは」とか語っていますが、千葉の語る定義だとノーベル文学賞作家の作品の多くも文学でなくなってしまいます。
彼の定義は「異化作用」という現代詩の一部の効果に文学を矮小化するもので、
彼の知識がいかにオタク的であるかを示しています。
それ以上に、自分の常識のなさを「文学」と言えばごまかせると考えているようにも思えます。
常識がないのは僕が大学教員ではなくアーチストだからだ! という自己欺瞞で、
社会の拘束から逃れようとするスキゾ的逃走の手段なのでしょう。
千葉を分析すると、いかに日本のドゥルーズ思想が社会的葛藤から逃れてナルシシズムを保存するだけの思想として終わったかがよく理解できると思います。
参考までに引用しますが、2017年8月の幻冬社plusで千葉は國分功一郎との対談で小説についてこんなことを語っています。
千葉 小説、苦手なんです。というか、人間と人間の間にトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人の間にトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるんであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いてるから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。
國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。
千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。
もちろん文学的な小説は「バカだから」起きるトラブルなど書くわけがありませんし、
そんなものに人々が感動するのは「バカだから」ではありません。
思弁的実在論の影響を受けているため、千葉はオブジェクトとか物質とか言って得意気なのですが、
人間存在を侮っている人が「文学というものは」などと大文字で語ってしまう、
それをおこがましいとも恥ずかしいとも思わないのは、東大で受けた教育にも問題があるように感じます。
(詩には人間がいない、という発言から千葉に詩の素養がないこともハッキリします)
千葉雅也の登場以来、僕は東大の教育レベルにも正直疑問を抱いています。
現在、文系学部の大学に残る人間はあまり優秀でない人が多いというのが僕の実感ですが、
東大の大学院は入りやすいこともあり、やはり社会に出たがらない人材を抱えすぎていると感じます。
自分自身の魂のステージがどの程度かもわからない人に、物語は魂のステージが低いなどと言わせてはいけないと思います。
もう一つ傑作なところを引用しましょう。
僕が研究者を目指したのには、家庭環境も影響しています。父親は、印刷会社から独立して広告代理店をやっている自営業者だったので、そもそもサラリーマンになるという人生のビジョンがほとんどなかった。アーティストになるか社長になるかしかないと思っていました。どちらかと言えば、アーティストからの置き換えとして哲学の研究者になった、そんな感じだと思います。
もうおわかりでしょうが、千葉は東大の先輩や先生の後押しでスター扱いされているにもかかわらず、
驚くなかれ、アーティストであるかのような気分でいるのです。
(准教授ってサラリーを受け取っているはずですよね?)
自己欺瞞もここまでくるとつける薬は存在しません。
周囲も千葉の鉄壁のナルシシズムに気を遣って、誰も彼に本当のことを言うという徒労を避けているのだと想像がつきます。
誰にも本当のことを言ってもらえない、ということは、真の友達がいないということでもあります。
まあ、彼と同等の魂のステージにある人は少ないでしょうけどね。
最後に、書き下ろしの第四章に決定的な欺瞞があるので指摘します。
千葉は現代において接続過剰なツールとそこから逃れるツールを区別して使いこなすのがいい、と述べます。
接続過剰なデジタルツールを使うのをやめて孤独になれ、というのは無理です。接続過剰状態がもたらすメリットはあまりに大きい。
ツイッター中毒状態の千葉からすれば、接続過剰を弁護するのもある意味当然ではあるのですが、
千葉の博士論文『動きすぎてはいけない』は接続過剰を批判して話題になったはずです。
その一貫性のなさは学者としては致命的と言えますし、
接続過剰批判をしないのなら、二度と「切断」などと語らないでほしいものです。
おまけにそこから逃れる「別のツール」として千葉が挙げているのはEvernoteだったりするので、
こっちもデジタルツールじゃん! というツッコミが抑えられません。
接続過剰批判をした人間が接続過剰人間だったというオチはまったく笑えません。
さて、このように千葉の呆れるような欺瞞の実態を書き連ねても、
僕のような権威のない無名人が書いたのでは、彼のナルシシズムには決定的な傷にはならないでしょう。
千葉は勉強という「自己破壊」をするどころか、
自分のうすっぺらい実像と向き合うことを避けるために「アーティスティックな研究活動」をしています。
そんな動機の人間が書くものに共感するのは、同種の人間だけではないでしょうか。
千葉が自分自身と向き合うことを避け続けるかぎり、内輪の世界に居続けるしかありません。
ちなみに僕は千葉が俳句をやるより前から俳句のレビューを書いていますし、
鏡リュウジのレビューにも書いた通り、タロット占いもしています。
僕の関心領域の外に全然出ていけない(というより後追いという結果になっている)のに、
「基本アホ」などと僕を侮辱できる身なのか少しは考えてほしいものです。
勉強が自己破壊だと本気で思うなら、Amazonに抗議したりツイッターで感情的な態度をとるのではなく、
大学の外にも自分より賢い人間が大勢いることをまずは「勉強」するべきではないでしょうか。
ローラン・ビネ 著/高橋 啓 訳
⭐⭐
完読まで4年かかってしまった
僕が本書を読み始めたのは2014年なので、今日読み終えるまで4年の時間がかかっています。
大作でもない作品にこれだけ時間を要したのは、シンプルにつまらなかったからとも言えますが、
2014年当時はけっこう評判の作品で、帯にも賛辞が並んでいます。
本書は変な書名をしています。
「HHhH」とは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味するドイツ語の頭文字です。
ラインハルト・ハイドリヒはナチスの高官で、チェコの総督代理を務めた人物です。
ユダヤ人問題の最終解決を発案したのも彼だと言われています。
ハイドリヒはロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだ暗殺部隊によって殺されました。
本書はこの暗殺事件をクライマックスとした歴史小説なのですが、
著者自身が本書を書くプロセスをまじえて小説化しているところが、評価を受けた要因なのはまちがいありません。
M・バルガス・リョサが「傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と賞賛しようが、
僕はこの作品が偉大だとも傑作とも思いませんでした。
その理由は、フランス人らしいポストモダン的手法で知的な演出をしているため、
知的な興味以外を引き起こさない傍観的小説でしかないからです。
結果、反ナチズムという「正義」によって助けられた小説というのが僕の印象で、
別の題材で同じことをやっても、これほどの評価は得られなかったのではないかと感じています。
(フランス人はもちろん、ユダヤ人やチェコ人の喝采を得られるよう計算されていた気がします)
まず、大きな問題はこの小説が断片の集まりで構成されていることです。
通し番号で257の章段で構成されているのですが、そこに作者の創作談話と歴史記述がごちゃまぜになっています。
いわゆる歴史小説は時系列に物語が進んでいくため、読者が自身を歴史世界へと「投企」することになるのですが、
それが断片化して書き手の自意識に吸収されるため、歴史のスリリングさは体験できません。
この自意識を書き手が歴史と誠実に向き合う葛藤だと感じられれば、賛辞も寄せられるでしょうが、
残念ながら僕にはそのような「誠実さ」はそれほど感じませんでした。
むしろ、前述したようにポストモダン的な手法を用いたために、非歴史性が表面化した内容になっています。
具体的に言えば、ハイドリヒという人物は「金髪の野獣」と恐れられた人物のはずなのですが、
書き手の興味は、生きた人間ハイドリヒではなく、断片化したハイドリヒというキャラへのオタク的関心であるため、
読者はハイドリヒや彼の引き起こした歴史的事実の恐ろしさをあまり感じることがありません。
つまり、著者であるビネは恐ろしい歴史と安全な距離を確保したまま、
傍観者の立場を明確にした人間不在の小説を書いているようにも見えてくるのです。
この小説に登場する歴史人物はみんな自分とは無関係な遠い人に思えます。
だから、彼らが死んでも特に胸が疼いたりはしませんでした。
本書のような傍観的な立ち位置だと、クライマックスの暗殺場面は臨場感を失ってしまいます。
どうするのかと思ったら、その場面になったら断片化を捨てて普通に歴史小説的な記述を始めるのです。
そんな「おいしいとこだけ歴史小説」みたいなつまみ食いで騙されるかよ、と思いました。
暗殺者たちの最期も語り手が読者を置いてきぼりにして自ら感傷的な語りを始めるので、
こちらはシラけてしまいます。
利口ぶった「歴史小説を書くとはどういうことか」などという自己言及的な問題は、
本来、歴史小説そのものの中に居場所を持つべきではありません。
すぐれた歴史小説は作者はもちろん読者をも当事者にしてしまうものです。
自己言及がメインになって歴史のただ中に踏み込めない小説など、力量のない筆者の陳腐な小手先の芸でしかないと思うのですが、
この程度のものが評価されてしまうのは、逆説的ですがナチスの悪の力あってのことだと感じます。
断片的であるために、細切れに読み進めて4年かけて読むことができたわけですが、
他人の知的な興味にいたずらに付き合わされたような読後感でした。
歴史を題材とした知的な小説であることは認めても構いませんが、
歴史小説としては駄作と言えると思います。
評価:
ローラン・ビネ 東京創元社 ¥ 2,808 (2013-06-29) |
沖本 克己 著
⭐⭐⭐⭐⭐
言語で語ることのできない禅というものを語る
禅には「不立文字」という言葉がありますが、それは禅には文字が必要ないということを意味します。
学問的な知識、理論ばかりに傾くことを戒めた言葉で、実践の重要性を訴えたものです。
禅宗の開祖と言われる中国の馬祖道一も、言葉は真理への「道しるべ」だと語っています。
言葉が「道しるべ」とされるのは、それはただの標識であって、大事なのは悟りへと実際に到達する実践だという意味です。
このように、自分自身の内的な体得を到達点とし、言語化や理論化を避けるのが禅のあり方です。
そういう非言語的な世界を、言語によって語るという矛盾を無視できない沖本は、
禅とはこういうものである、というようなわかりやすい定義をしてくれません。
葛藤したり、逸れていったり、個人のつぶやきになったり、と非常に収まりの悪い本になっています。
ただ最後まで読むと、この収まりの悪い書き方こそが沖本の誠実さの現れであることがわかってきます。
本書は禅の本であるはずなのに半分以上は仏教史を追っています。
ブッダの教えから教団の成立、仏教の学問化(アビダルマ)、大乗仏教の登場という仏教変遷の歴史を解説した上で、
大乗の名だたる学者として、龍樹、弥勒、無著、世親、鳩摩羅什、玄奘などを取り上げています。
あまりに禅が出てこないため、途中でこれは何の本だっけ? という気持ちになってしまうかもしれません。
「シナ禅宗とはブッダ仏教の時空を隔てた再現であり、原点回帰運動の一つ」だと沖本は言います。
つまり禅は、ブッダの教えを学問化したことで失われた原点を取り戻すことを目的としているのです。
そこで禅が否定している仏教の学問化の歴史を理解する必要が出てくるのです。
沖本は仏教史をフィクショナルなものとして相対化するのですが、それがしっかりした仏教史の理解に裏打ちされていることが重要です。
本書の半分以上を占める仏教史の解説は、簡明でおもしろいのです。
たとえば沖本はブッダの教えを「縁起」に還元し、それまでのインド哲学であるウパニシャッドの実在論を否定したとします。
「縁起」の意味については次のように説明しています。
この「縁起」とは、すべては相対的な関係によって、今現成しており、そして絶えず変化し続ける。それ故、どこにも、如何なる固有の実体も存しない、ということである。
沖本はブッダの教えの根幹を縁起説に見ています。
すべて存在するものは一時的な現象であって、相対的な関係によって成り立っているため、
永続する絶対的な存在はなく、すべては変化していくという考えです。
ブッダ本人は何も書き遺さなかったので、教えは教団の弟子たちが口伝し、それがのちに経典となったのですが、
やがて仏法を自らのものとしないで研究の対象とする立場が生まれます。
それが学問としての仏教、アビダルマ仏教です。
自らと法が一体となるように努力せよ、というのがブッダの遺言であった。仏教はあくまで自らの主体に関わる問題であり、それを解決するための具体的方法であった。ところがアビダルマとは教法を客体化して自らの外に置いて学習と考察の対象とすることである。つまりアビダルマとは主体と客体を分離することに他ならない。
こうして仏教は精密な学問体系となりましたが、その弊害として次々に異説を生むことになったと沖本は述べます。
『臨済録』にその言葉が残る臨済義玄は、「青二才の愚かな坊主たち」が「まやかしの邪説」を信じているとオカンムリです。
修行や実践を忘れて、もっともらしい真理を語るだけになった仏教への批判が禅の根底にあるのです。
学問エリートによるアビダルマに反発した一派が大乗仏教を生み出していくのですが、
本書は大乗の思想についても三章に渡ってかなり念入りに扱っています。
ここにも興味深い沖本の指摘がいくつも見つけられます。
大乗が架空仏と同等となるほどに菩薩の地位を高めたわりに、
菩薩が「悟っていない存在」であることに変わりがないことに注目し、
大乗では信者に悟りはありえず、ただ架空のブッダを信奉するだけに終わる、と辛辣です。
仏教の「空」とはゼロであり、実体が無いことを表すという説明もかなり簡明です。
否定する対象を持たない「空」は「有無」とは別の次元にあるのです。
『華厳経』に関してもおもしろいことを言っています。
「『華厳経』とは多弁を弄しつつ多弁を否定するという奇妙な言語空間なのだ、というより他は無い」というまとめには思わずニヤリとします。
そして沖本は『華厳経』はどこまでも理論の世界で、具体的な実践を全く語らないと批判します。
「空」と「唯識」の思想、密教などをたどると、ようやく禅の登場です。
禅は言葉による伝達を遮断して直接的な心の了解をめざすため、
経典の言葉ではなく、師と弟子が心と心で伝達することを重視します。
心の伝達が仏教の原点回帰へと至るメカニズムを沖本はこう説明します。
この仏心の伝達の強調は、単にブッダから現在に至るだけではなく、却って自らの立脚点を確認する証拠として、過去にさかのぼってブッダに及ぶという意味をもつのである。
このようにブッダの教えから禅宗に至るまでの仏教の歴史的外観が、丁寧にまとめられています。
体系的でないはずの仏教を体系的に理解する試みは矛盾にも思えますが、
その葛藤を引き受けつつ理解するほかありません。
後半は禅の実践者たちの紹介になっています。
禅が言葉に頼らないことを考えれば当然ですが、
沖本は「禅宗には歴史に名をとどめぬままその波の中に消え去っていった有為の人物のはるかに多いこと」を指摘しています。
禅僧は悟りを得ても多くを語らないため、無名の人物が多いのです。
このような語らぬ禅僧を沖本は「沈黙の人」としています。
禅宗は沈黙の重みの上に成立しているのです。
それに対し、当人が語ったり当人の語録を弟子が残したりして「饒舌の人」となった禅僧もいます。
その功罪併せ持つ存在のなかで沖本が取り上げるのは、道元、白隠慧鶴、鈴木大拙の3人です。
本書の副題が「沈黙と饒舌の仏教史」となっているのは、
言語を用いなければ後世に残らないが、言語を用いると本質から外れるという禅の抱える難点のためだと思います。
道元は『正法眼蔵』という難解な書で知られています。
沖本は「通常の概念や論理構造を超脱し破壊して直接感性に訴える」ところが、
『正法眼蔵』を読む鍵ではないか、と実感を語っています。
道元は臨済宗や臨済義玄を強く批判しました。
それは臨済宗という小さな立場に仏教を限定することを危惧したからなのですが、
結局は道元も曹洞宗という立場で同じことをしてしまった、と沖本は述べています。
白隠慧鶴は江戸時代に日本独自の臨済禅という全く新しい禅宗を創始した人物です。
白隠には膨大な著述がありますが、晩年には大衆向けの平易な読み物や絵本まで書いています。
また、白隠は公案を分類、段階化して禅僧の教育をシステム化したと言われています。
(沖本は弟子の東嶺の仕業ではないかと考えています)
沖本からみると白隠という人物は、
「私の結論を言えば、白隠は禅傑であり同時に俗物である」と述べているように、
禅の修行を厳しく進める面と、俗な手段で大衆を導く面との二面性を備えた稀有な存在であるようです。
沖本が「胡散臭い」と最も反発しているのが鈴木大拙とその影響下にあった西田幾多郎です。
禅は個人的体験に根ざすのに、初学者に教えの道を示せるかのように振る舞うところや、
師と弟子のその場において成立する状況的な言葉を、禅とは不合理で非論理的なのだ、と一般化して平気でいるところや、
そもそも読解力が足りていないというところが大拙の問題点として糾弾されています。
禅匠は理屈づけのためなら儒教や道教、神道や西洋哲学の信徒となってもいい、という大拙の言葉を、
沖本は「何でもござれ」の野合の勧めとして解釈し、
大拙の論が暗黙理に禅と国家主義を結びつけて、普遍妥当性を捨ててしまうことを解き明かします。
こうして大拙は「宗教は普遍性を振り捨てて国家に奉仕することを第一義とする、と断言する」のです。
これを沖本は絶対矛盾的自己同一だと憤慨して述べています。
この延長に西田幾多郎『日本文化の問題』が置かれます。
西田論は数多くあるのですが、その中に『日本文化の問題』を取り上げたものはなかなか見当たらないのですが、
その中で「矛盾的自己同一としての皇室中心」と書いたことで、西田の時流への迎合が明らかになる著作です。
僕が気になるのは『日本文化の問題』のこの一文です。
私は日本文化の特色と言ふのは、主体から環境へと言ふ方向に於て、何処までも自分自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと言ふにあるのではないかと思ふ。
この一文には主体を否定する態度と人間である自己の否定によって「物」となる態度が現れているのですが、
主体を否定する反人間主義や人間不在の「物」へと至ろうとするあり方が、
〈フランス現代思想〉や思弁的実在論と重なるのは、何も僕の牽強付会ではありません。
檜垣達也や清水高志はすでに〈フランス現代思想〉と西田を結びつけています。
歴史と向き合わない彼らは、西田思想に含まれる戦時体制への迎合については取り上げもしません。
沖本がこの問題を正面から扱ったことは、西田と同じように時代に迎合するだけの〈フランス現代思想〉学者たちと比べて、
彼の学問的誠実さと知性を示すものだと僕は受け取りました。
真の「近代」が実現しなかったため、「近代」を西洋的な他人事ととらえた日本人が、
それを超えるものとしての東洋に突然居直りをしたのがポストモダンだったのではないか、
と沖本は述べたあとで、
「西田と大拙の時流迎合的な取り組み方も、この合理主義を唾棄する「ポストモダン」論議と状況を一にするものであった」
と「近代の超克」とポストモダン状況との類似へと思い至ったのはさすがと言えるでしょう。
大拙の禅文化論の問題点は、禅体験に寄りかかって禅の本質を見誤ったことに加え、
迎合的ファシズムとでもいうべき戦時体制へのへつらいにある、と沖本は結論づけます。
このあたりは歴史に詳しくないと沖本が何を言っているのか、理解するのが難しいところかもしれません。
それでも禅の汚点とも言うべき、扱いにくく難しい問題を避けずに向き合う態度は立派だと思いました。
仏教学者は今でもわりと戦時体制への迎合の歴史を語ることが多いように思います。
文化の中に過去のあやまちを刻み込んでいることが感じられますが、
それと同時に、西洋哲学の学者が西田などを扱う態度の方には蹉跌の影が感じられません。
つまり、西洋哲学の学者は自国の過去のあやまちを「他人事」と考えがちであるため、
かえって過去の愚を繰り返す危険があるということです。
西田幾多郎はポストモダンだと安易に持ち上げている人にこそ読んでもらいたい本だと思いました。
ジェニファー・アッカーマン 著/鍛原 多惠子 訳
⭐⭐⭐
鳥はどのくらい賢いのか
その小さな脳のせいで愚かな生き物と考えられていた鳥が、実は人と似通った知性を持つ存在であることを、
サイエンスライターであるアッカーマンが様々な研究をふまえて迫っていきます。
アッカーマンはさまざまな場所へ旅をして、いろいろな鳥を紹介してくれます。
道具を用いたり、難解なパズルを解いたりすることができるカレドニアガラスは世界一賢い鳥と言われています。
その生息地であるニューカレドニアに渡ったと思うと、カリブ海のバルバドス島へと行き、
鳥のIQスケールを作ったルイ・ルフェーブルを取材しています。
鳥の知能を数値化していくことや、人間と共通するところを鳥に見出すことに懐疑的な人もいるでしょう。
アッカーマンは人間と鳥を重ねる動物学者が、擬人化と批判されることに対して、
たとえ鳥と人間の脳が根本的に異なっていても、心に共通性がないと考えて障壁を築くことはよくないと考えています。
ルフェーブルのIQスケールはイノベーションをすることが賢さの基準になっています。
鳥の認知を測定する研究はまだ日が浅く、いろいろな実験がなされていますが、
ルフェーブルは実験室ではなく野生環境で「観察」することが、認知能力の測定に役立つと考えるようになりました。
こうして得られたIQスケールで最も賢いのはやはりカラス科で、ついでオウム、インコ類、
それからムクドリモドキ、タカなどの猛禽類、キツツキ、カワセミ、カモメなどなど。
素朴な実感でも想像できるような意外性のない結果のような気もしますが。
鳥は祖先である恐竜から、大きな脳を維持しつつ体を小型化するように進化しました。
ヒナの状態のまま成体となる「幼形進化」によるものと考えられています。
それでも鳥の脳はそれほど大きいとは言えません。
大きくない脳でも霊長類に比肩しうる秘密は、大脳皮質のニューロンの数にあるようなのです。
鳥の脳は人間の脳を基準とした考えでは理解できない、別の進化をたどってきたのです。
アイリーン・ペパーバーグが哺乳類の脳をウインドウズに、鳥類の脳をアップルにたとえたという話は、
同じ結果を出すのに処理方法は一つでなくてもいい、ということがわかりやすく示されています。
アッカーマンは鳥の道具使用について述べた後、
鳥の社会性について考察を進めます。
鳥類の約80%が単婚カップルなので、同じパートナーと長く暮らすことになります。
当然のことながら、パートナーの心をつかむ協調性が重要になってきます。
セキセイインコは相手の鳴き声をどれだけ正確にマネするかで、求愛の本気度をはかっています。
興味深かったのは、鳥も浮気をするという事実です。
それもオスもメスも婚外交渉を持つことがあるようなのです。
鳥のさえずりについても書かれています。
鳥の鳴き声にも地域差、つまり方言があるというのは驚きでした。
ドイツ南部とアフガニスタンのシジュウカラでは、あまりに鳴き声が違うので、互いに内容の理解ができないようです。
また、さえずりは繁殖期はパートナーへのアプローチを目的としていますが、
それ以外の時期は鳴くことで快楽物質を得るという自分自身の利益のためだと述べられています。
ハトの帰巣本能に代表される鳥のナビゲーションについても取り上げています。
ハトは数を理解するだけでなく、統計問題を人間より正しく解答できる賢い鳥なのですが、
たとえ見知らぬ土地からでも自分の鳩舎に戻ってこられるのは、
その知能のためではなく、おそらく地球の磁場を利用しているからです。
鳥類は地磁気の傾き(伏角)のわずかな変化を感じ取って、現在の緯度を知るようなのですが、
それを感じ取るセンサーが体内のどこにあるかという話もおもしろかったです。
読むのに専門知識のたぐいが必要なほど深い内容ではありませんので、
気楽に読み進められる本ですが、やたらとボリュームがあります。
自分が気になるトピックから読み始めるのも悪くないと思います。
評価:
ジェニファー・アッカーマン 講談社 ¥ 1,404 (2018-03-15) |
長谷川 櫂 著
⭐⭐⭐⭐
「場」の文学としての俳句に迫る
本書は1989年に刊行された単行本の文庫化ですから、長谷川が35歳の時に書かれたものとなるはずです。
最近、「若手」と騒がれている連中より年少にもかかわらず、これだけのものを書いていたことを思うと驚きます。
読みやすく書かれてはいますが、その射程は深く、現在でも色褪せず通用するものです。
サントリー学芸賞を受賞したのも頷けます。
序章では松尾芭蕉の「古池や蛙飛こむ水のおと」を取り上げ、
弟子の宝井其角が「山吹や」を提案したのに対し、芭蕉が「古池や」を選んだことについて、
なかなか面白い解釈をしています。
山吹には蛙の声を取合せるのが定番なので、声ではなく飛び込む音を取合わせたら因習の批判になる、
というのが其角の発想だったのですが、芭蕉がそれを拒絶したことを長谷川は、
「因習へのあらわな批判もひとつの因習と映っていた」と考えます。
単に発想をズラすことを拒否したところから、芭蕉の全く新しい俳諧が始まったという考えは興味深く感じました。
長谷川は俳句が成立する基盤となるものを「場」と呼んでいます。
俳句は「場」の文芸である。
そして、俳句の言葉は「共通の場」がある限り、いきいきと動くが、それがなくなると通じなくなる。
句が背景としていた「場」がなくなると、その句は誰にも理解できなくなる、と長谷川は言います。
そして近代俳句はどこにでもある自然だけを「場」にしてきました。
俳句が自然という「場」に依存しているため、読み手の方から「場」に参加していく必要があるのです。
長谷川は反ホトトギスへと舵を切った水原秋桜子の文を引用し、俳句を西洋的な芸術として理解することの害を考察します。
俳句を芸術とみる考え方を推し進めていくと、
「場」を無視して、言葉だけで完結する一行詩としての俳句を目指すことになります。
その形には2つのタイプしかないと長谷川は言います。
「場」によって言葉なくして伝わったものが、「場」を認めないことによって、
叙述し説明する文脈に依存した俳句を作るしかなくなるのが第一のタイプです。
これによって「切れ」という「間」を生み出せなくなるというのです。
この指摘はある種の若手俳人にとって、非常に耳が痛いのではないでしょうか。
「場」を認めない上に、文脈にも依存しないとなると俳句の言葉は曖昧なままとなって、
意味ありげな言葉の羅列と化してしまうのが第二のタイプです。
長谷川はどちらのタイプもすでに昭和の俳句の歴史で起こったことだと述べて、
言語以前のものである「場」を嫌った近代的な価値観が俳句を矮小化することを問題視しています。
しかし作者と読者に共通の「場」が必要だと、その「場」をどう共有するかが問題になります。
「場」を広くしようとすると俳句が浅くなるし、内容を濃くしようとすると「場」が狭くなってしまいます。
正岡子規が近代的普遍性を求めて自然という広い「場」を確立したものの、
自然が失われていったことで、「場」が特殊化していきました。
長谷川はこの問題を指摘したあと、
俳句には「広く浅い「場」よりも、濃く深い場を求める傾向がもともとあるのではないか」と、
「場」が特殊化して俳句がわかりにくくなることは必然だと言います。
俳句はわかりにくいのだ、という開き直りはなかなかうまいやり方だと感心しました。
長谷川が指摘する「場」の特殊化と細分化は、今でも非常に重要な問題として残っています。
自然を身近に感じられない「若手」とされる人には、
2ちゃんねるのスレッドのような趣味領域を「場」としたサブカル俳句を作ったり、
消費文化を「場」とした意味から逃走するオシャレ俳句を作ったりして、
それが外部読者を獲得する道だと考えているのですが、
それが細分化された特殊な「場」でしかないため、寄り集まってパック売りをすることで広さを偽装しています。
自然を「場」とすることを乗り越えようとしても、その結果はさらなる細分化となって、
個人で勝負できないグループ俳人を生み出しているのが実態です。
しかし、僕には俳人たちが「場」の細分化の問題を真剣に考えているようには思えません。
重要な問題提起ではありますが、本書の議論はおかしな方向へと進んでいきます。
長谷川は俳句を西洋的な近代詩と同じように考えることを批判し、
むしろ西洋的な近代詩との差異である「季語」と「切れ」こそが俳句のオリジナリティだと主張します。
こういう長谷川の近代普遍性への批判には、当時全盛だったポストモダン思想の影響を感じます。
そのことは本書の解説を典型的なポストモダンかぶれで、彼の友人である三浦雅士が書いていることからも窺えます。
長谷川は俳句のオリジナリティを「季語」と「切れ」に見出して、
「俳句が日本という「場」と一体になった特殊な詩である」と言い出すのです。
俳句の「場」は細分化されていたはずなのに、いつのまにか日本という「場」と一体になってしまうのです。
僕は長谷川の『震災俳句』のレビューでも指摘しましたが、
彼の俳句観の最大の問題は、俳句と国家を簡単に同一化させてしまうことにあります。
このような欲望が前景化すると、これまで俳句の「場」はもともと狭いものとか言っていたのは誰だったのか、と腹が立ちます。
書き方が巧妙なので一見わかりにくいのですが、はっきり言って詐術です。
このような長谷川のあり方はポストモダン思想がナショナリズムへと変換されるモデルケースと言えるでしょう。
こうして長谷川は共有される「場」が狭いはずの俳句を異常なほど巨大化していき、
最終的に宇宙を語るようになってしまいます。
「俳句は、時代の制約を超えて宇宙の鼓動に触れることのできる十七字の火掻き棒である」とか、
「五・七・五は大昔から日本人が宇宙と呼吸を合わせるときに使ってきた原初のリズム」とか、
まともに聞く気にならない大げさなことを言い出すのです。
結局、長谷川は近代の普遍性をあれだけ批判していたくせに、
さらなる普遍的な宇宙という「場」へと俳句を飛翔させてしまうのです。
僕はなんだか騙されたような気分になってしまいました。
他人から見たら長谷川自身と彼が批判しているものは大差ないのではないでしょうか。
長谷川には、狭い井戸にいるくせにデカいものに接続したがる心性こそが、
まさに日本という「場」が生み出す害悪だと自覚してほしいものです。
「福田若之『自生地』を読む」への
佐野波布一の幻のコメント
恥じらい無き内輪褒めはなぜ行われるのか?
夏石番矢のブログで「猿集団のマスターベーション」と揶揄された「週刊俳句」の3月25日版「句集を読む」に、
高山れおなが「福田若之『自生地』を読む」(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2018/03/blog-post_22.html)を書いています。
かつてクプラスという集団のボスだった高山が、手下だった福田の擁護に乗り出したわけですが、
このような内輪褒めの醜さを僕は何度も指摘してきたので、その進歩のない猿芸にあきれているのですが、
高山の文章というのがあまりにウッキー感丸出しの赤尻ものだったので、
アホくさいと思いながらコメントを寄せることにしました。
冒頭で高山は『自生地』に「別格の感じを持った」として、安井浩司と並べて評価します。
なるほど「別格」という言葉は便利なものです。
実力が別格であるという受け取り方が普通だと思いますが、
このあとで高山が福田と安井を比肩させる理由が、千句以上を収録しているという数字でしかないのです。
つまり、規模が別格だと言っているだけ、と言い訳ができるように書かれているのです。
続いて福田の読者を無視した自分勝手な創作のエネルギーが安井を思わせると言いながら、
福田の今後のことはわからない、と先々の責任からは逃避する予防線を張るのです。
無駄に長文を書いたわりに、冒頭で自己弁護の予防線を張りめぐらせる腰抜け感はさすが高山れおなです。
僕は彼の句集『荒東雑詩』のレビューでこう書いています。
高山は句を無防備に提出して、
読者と同等の位置に立つのが嫌なのだ。
それで、プレテクストを参照しないといけない句を作りたがる。
僕が指摘したのは高山の自己保存体質だったのですが、
ここでもそれが発揮されているわけです。
佐藤文香はこの高山の文章を受けて、勘違いツイートをしています。
ちょっとそのジャンルかじってれば批判はいくらでもできるけど、絶賛はふつうの人にはできない。絶賛には、その作家と同等以上のセンスが要るし、そのジャンルふくめ広範な知識量が必要で、何より愛。最高の絶賛は官能的ですらある。
彼女の発言内容はまともに聞くに値するものではありません。
絶賛であろうと批判であろうと最低のもあれば最高のもあります。
絶賛だけに知識が必要で、批判には知識がいらないという発言は笑うしかありませんが、
(『自生地』を批判した杉本徹や齋藤愼爾に失礼ですよ)
こういう批判のない世界を必要とするメンタルの人間が、福田の周辺に集まっていることには注意をするべきでしょう。
しかし、自分が騙されていることにも気づかない佐藤については気の毒にすらなります。
本当に高山の文章が愛から発した言葉であるならば、自己弁護の予防線など張る必要があるのでしょうか?
本当に福田に対して愛があるなら、「先のことは知らない」などと無責任なことを書かず、
「先の責任はオレが負う!」くらいの気持ちで書くのではないでしょうか。
自分をメタ的に守りながら、読む人が都合良く誤読することを期待するようなレトリックは、
言葉の既成事実化に依存し平気で嘘を書く、高山の得意とするモンキーマジックでしかありません。
(簡単に言えば、たとえ嘘でも書いたものが共有されれば真実になる、という外部読者をナメた態度です)
こういうレトリックの裏まで読解する力がない人は騙されて終わりです。
高山は仲間内では「いい人」なのだろうと僕も思いますが、
普段の人間性と文章に現れる人格は分けて考える必要があります。
高山が他人について責任を負うことに逃げ腰な人間だという「本性」は文章に現れています。
書くという行為はかくも自己を露出させる恐ろしいものなのです。
(そしてそれを指摘すると「被害に遭った」などと言うガキがいるのです。
自分で書いたものの責任を自分で負えないなら文筆などやめてしまえ、甘ったれどもが)
佐藤にも一度自分の書いたものが檻の外の観衆にどう見えているのか、
冷静に考えてみることをオススメします。
高山は福田の「句集の主体を提示することへのひるみのなさ」が読者に切実という印象を与えたと書いていますが、
主体の提示を避けたいキャラの高山からそう見えるのはわかりますが、
僕の『自生地』レビューを読めば、福田の言葉を真に受けずにもっと深い読みをするべきであることがわかるはずです。
福田は自分の本を「句集」「句集」と自ら連呼し、自分の句が俳句とは言えないのではないかという疑問を封じるのに必死です。
自らの作を「句集」としたがっている人が、「句集の主体」を提示することに「ひるみ」などあるはずがありません。
むしろ、それこそが福田の欲望であることがわかります。
福田が「俳人」になりたがっていることを僕はレビューで指摘しています。
絶賛をするなら批判を打ち消せるレベルの内容でないと空疎でしかありません。
そもそも僕が問題としているのは、
俳人たちが福田の句?をどうして俳句として受容できるのか議論しないことにあります。
本人が俳句(句集)と言い張れば俳句となるのか、ということが、俳句をやらない人間にとっては疑問なのです。
しかし、高山は無駄に長文を書いていながら、このことについては少しも触れていません。
単に「別格」とか言うだけです。
まあ、俳句でなければ俳句とは「別格」なわけですから、むしろ俳句ではないと言っているのかもしれませんが、
そこを曖昧にするのも「汚い」と僕は感じるわけです。
高山は「別格」と感じさせる理由を、
「自己の人生の感情の劇を総体として書ききっていること」と表現しています。
この文章が『自生地』が句集ではないことを完全に裏付けているのですが、
浅はかな高山はどうやらそれに気づいていないようです。
まず、「総体として」とか曖昧なレトリックでごまかしていますが、
これは「一冊の本として」という意味しか考えられません。
つまり、僕がレビューですでに指摘したように、『自生地』は「句」が単位となっているのではなく、
「本」が単位となっているのです。
句集とは文字通り句が集まったものなので、句が単位でない限り「句集」という名称は不適当です。
「人生の感情の劇」も同様です。
俳句で「劇」など展開するはずがありません。
それが「劇」として受け取れるのは、それが散文的な文脈を形成しているからでしかありません。
散文的な文脈が必要になるものを、他から一句で「切れ」た俳句とは呼ぶに値しないことを、
高山のような偽物ではなく、本物の俳人なら誰でもわかることではないでしょうか。
それなのに愚かな高山は福田の作が文脈に依存していることをご丁寧に説明していきます。
たとえば高山は『自生地』を不遜にも松尾芭蕉の『おくの細道』の「文脈」と比較しています。
『おくの細道』を持ち出す時点で句集とは呼べない気もしますが、文脈の話をすることが必要になる時点で、
それは散文脈を必要とするものであり、いわゆる句集とは異質なものであるわけです。
福田の句?を連作として解釈を展開しなくてはいけないことに疑問がないことも問題です。
連作であるとことわっていないのに、連作としての解釈を要求するのは、それが散文的な文脈を要求しているからです。
高山は「かまきり」や「小岱シオン」の語の「省察」というものもしているのですが、
多くの詞書(というか散文注釈)を総合した「省察」が必要になるということは、
これらの語が一句の中で判断が不能な非俳句的な言葉であることを示しています。
決定的なのは、高山が後半の作品解釈で福田の立ち上げた主体を「詩作家」と呼びならわしていることです。
「俳人」ではないのです。
つまりは福田の作は俳句でもないし、『自生地』も句集ではないと高山自身もこっそりと認めているわけです。
この曖昧化による自己弁護的なやり方こそが、自らの実作にもつながる高山れおなの手口なのです。
僕が批判した内容をそのまま受け入れている内容なのに、あきれるくらいの礼賛を並べ立てる態度は、
居直り強盗のようなやり方で正直軽蔑します。
礼賛するならまずは読者の疑問に答えたらどうなのでしょうか?
疑問点に答えずに幕引きする態度は、内輪の人間を守りたいどこぞの政権党のようなやり方で不信感を高めるだけだと思います。
(そういう政治には批判的な顔をして、自分の内輪の同様の行為を黙認する関悦史の政治的態度など絶対に信用してはいけません)
福田に「メタ的な水位が一貫して意識されている」という表現も同様です。
僕は福田や関、鴇田智哉、田島健一、小津夜景などのポストモダン俳句が安直に主体をメタ化することを批判してきました。
ここでもやはり高山は僕の考察をそのままなぞっているわけです。
つまり、僕の解釈そのものは受け入れているのに、なぜかそれを礼賛に用いるのです。
この違いはポストモダンを「時代遅れ」と考えている僕と、そのノスタルジーから抜けられないおっさんおばさん「若手」俳人との違いです。
(ちなみに福田若之ってサブカルの趣味が年齢よりおっさん寄りですよね。ジミヘンとか、おまえ何歳だよ、と思いました)
現代がたとえどうであれ、時間は前に進むので、いずれは時代遅れになるわけですから、
そのうち僕の方が正しいと判明するのは必定です。
(だから高山は「先のことは知らない」とか言って逃げるわけです。ホント汚いヤツですよね)
まあ、よく勝算のない戦いをするものだとあきれますが、
俳句界(ひいては極東日本)というニッチ(田舎)がそういう夢を見せてしまうのもまた事実です。
彼らが正面から僕に反論をしてこないのは、真実が僕の側にあるため論争に勝てないからです。
ただ、僕が俳句の外の人間であるのをいいことに、現在を逃げ切ろうと考えているアベノミクスみたいな奴らなのです。
予言をしておきますが、安倍政権が倒れてしばらくする頃になって彼らは顧みられなくなるでしょう。
外の現実から逃避して、批判のない内輪のシェルターを作ったくせに、
それを外の人間にも認めてほしい、などと己の身の程もわからなくなった井の中の蛙が「猿集団」の正体です。
口にするのが僕一人だったときは、「被害に遭った」とか言って僕を敵視していればすむとでも思っていたのでしょうが、
外の人が目に入らない人間というものは気の毒なものです。
本来なら、一派の中で数少ないカタギの社会人のはずの高山れおながブレーキをかけるべき役割のはずですが、
彼が「ウチの若い者をかわいがってくれたな」という態度でしゃしゃり出てくるのでは、
どうやらそれも期待できないようです。
言い忘れましたが、高山は福田に一句を作る力量があると擁護したくてこう書いています。
全体の規模の大きさや過剰なまでの仕掛け、しばしば強く出る連作性のために見えにくくなっているかもしれないが、この作者の一句一句を作る地力の高さは改めて強調しておきたい。しかもそれを、従来的な上手さとは一線を画す形でやり遂げているのである。
ただ、途方もない句数のことを思えば、全くつまらない句がごく少ない理由を、地力の高さ(それは結局、技術の高さの謂いだろう)だけに帰するわけにはゆくまい。むしろ、作者の感情の豊富さの方が決定的なはずである。これは逆に、我々がそれなりの手練れの句集を読むに際して、しばしば退屈を嚙み殺しながら、僅かな佳句・秀句との出会いを待ち続けなくてはならない理由と、裏腹の関係にある事実であろう。感情が豊富な詩人は感情が希薄な詩人より偉いというのは、富士山は高尾山より標高が高いというのと同じくらい簡明な真理である。
このように高山は「つまらない句がごく少ない」ことを福田の力量に還元するのですが、
僕はレビューでも書いた通り、福田の句?はほとんど読み飛ばしました。
何度も書いているように、『自生地』は句集ではありませんし、高山自身も一句一句という単位で読んでいません。
俳人にとって『自生地』に「つまらない句がごく少ない」と思えるのは、
それが散文的な文脈を構成しているからです。
それが文脈の一部であれば、何かしらの流れを感じるようになるので、つまらない句はなくなるのです。
つまり、高山の書いていることが『自生地』が句集でないことを立証しているのです。
句集というものは、たとえ安井浩司のものでも、つまらなくて読み飛ばしたくなる句はある程度あるものです。
逆に言えば、僕のように散文を読む方が得意な人間からすると、
散文パートを読むだけで十分なので、まどろっこしい連作文脈など構成する必要を感じないわけです。
外の読者を意識するならば、俳人以外がどう読むかということにも注意を払う必要があると思います。
これでコメントしたいことはだいたい終わりなのですが、
高山の文章の後半は、福田の句?の鑑賞になっています。
長い上につまらなすぎて途中で読むのをやめてしまったのですが、
目についてしまった高山の解釈について正しておかなければならないところがあるので書いておきます。
産業革命以来の冬の青空だ
この句?の評で高山は「わざわざ平泉まで旅をしなくても、「詩作家」の窓からは歴史が見えるんだぜ」などと書いていますが、
こういう文字上の言葉を真に受ける態度は批評的とは言えませんし、
作品鑑賞の態度としても甘すぎると思います。
自然のままでなく工業的に汚染された空を「産業革命以来」と表現したという解釈には異論はありません。
しかし、これを安易に「歴史」と言ってしまうのは問題です。
ここに見るべき「詩作家(笑)」の態度は歴史的な視線ではなく、単に「メタ化」した実感なき主体の姿であるべきです。
わかりやすく説明しましょう。
この「詩作家(笑)」が見上げた空がイギリスの空であると僕には思えません。
おそらくは日本の空でしょう。
ならば、「歴史」からすれば日本の空の汚染の原因は遠いイギリスの産業革命にあるわけではありません。
本当に「歴史」を考えるならば、「高度(経済)成長以来の」と言わなくてはいけません。
たとえば北京のスモッグの中でこんな作を書いたとします。
さて、北京の大気汚染の原因が歴史的に見て産業革命だと実感するものでしょうか?
こんなことが書けるのは、福田が大きく工業化とくくってメタ化した、非歴史的な視線で考えているからにほかなりません。
こういう読み替えを僕が問題だと考えるのは、
大気汚染の原因から自分自身を免罪し、遠い西洋のせいにしてしまうインチキポストモダンの近代批判をなぞった発想だからです。
これは「詩作家」の発想ではありません。
単に時代遅れのポストモダンをなぞっただけの、詩人としての実感のかけらもないリクツで作った句?だということです。
(こういう頭でっかちなところが関悦史と似ているんですよ)
高山に批評能力がないことは関を評価していることでもわかりますが、
能力がないことは仕方がないにしても、内輪褒めをしたいという欲望を丸出しにすることは問題です。
高山は「俳句をやらない人間は謙虚でいろ」などと「第二芸術論」のレベルから一歩も出られない発言をするくらいなら、
身内の評価に対して謙虚であってほしいものです。
福田を芭蕉や蕪村や一茶、もしくは安井浩司ひいてはプルーストにたとえていく大仰さは、
誰が見たってバカバカしいの一言です。
実を言うと、僕はこの文章を読んで何回か大笑いしてしまったのですが、
こういうことを恥ずかしげもなく書ける人というのも、いくら内輪評価にしても理解できないところがあります。
高山は予防線を張ったつもりかもしれませんが、こういうものを書いた過去は消し去れません。
ネットだから消えていくと思っているのかもしれませんが、僕は保存しておきましたよ、と伝えておきます。
10年後くらいに思い出させてあげますので、楽しみにしておいてください。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著/鈴木 雅生 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
不毛な任務に死を賭して挑んだ作家が信じたもの
『星の王子さま』で多くの人に夢を与え続ける作家A・サン=テグジュペリのもう一つの顔は現役飛行士でした。
はじめは民間の郵便飛行士でしたが、ナチスドイツとの開戦後、自ら戦闘部隊への転属を志願し、偵察機のパイロットになりました。
その偵察部隊での体験をもとに書いた小説が本書です。
冒頭は聖ヨハネ学院時代ののどかな回想から始まるのですが、
サン=テグジュペリは圧倒的なドイツ軍の前に敗色濃厚のフランスの悲愴な現実へとすぐに引き戻されます。
ドイツ軍の占領地を越えてアラスへと飛行する決死の偵察任務が言い渡されるのです。
この小説はサン=テグジュペリが実際に敢行して戦功十字勲章を受けたアラスへの偵察飛行の一部始終を描いています。
臨場感のある戦場を描いた小説であることに違いないのですが、
注意深く読めば、戦記物のスリルとは縁遠い思索的な内容であることが理解できると思います。
僕が本作を読んで気になったところは、
サン=テグジュペリの戦場経験による思索が、いわゆる〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想と地続きにあることです。
たとえば全体性を奪われた細部や断片性こそが真実であるという認識。
ただ、いまの私には、きちんと考えるために必要な概念も、明晰な言語も欠けている。矛盾を通してしか考えられない。真実は千々に砕けてしまい、私にはそのばらばらになった破片をひとつ、またひとつと考察することしかできない。
もちろん、この断片性は肯定的に捉えられているわけではありません。
「断片はひとの心を動かしはしない」とサン=テグジュペリは書いています。
静けさの中で死者が全体を取り戻し、そこでようやく真の悲しみが訪れる、とも言っています。
だから出撃をひかえた私にしても、西欧とナチズムの闘争、などといった大それたことに思いを馳せているわけではない。すぐ目の前にあるもろもろの細部について考えているだけだ。アラス上空を七〇〇メートルという低空で偵察飛行する愚劣さ。われわれに期待されている情報の無意味さ。身支度の面倒さ。まるで死刑執行人を迎えるために身づくろいをしている気持ちだ。
こう書かれているように、断片性や細部だけの無意味さを生きることは、死を待つ深い絶望と深く結びついています。
日本の無知なポストモダン学者は、その思想のルーツがこのような戦争経験によってもたらされていることを全く理解せず、
それが近代批判の賜物であるかのように誤解しています。
ツイッターごときを断片性として語ったり、無意味であることがオシャレであるかのような発想は、
本書を読めばどれだけ能天気なお子ちゃまの勘違いなのかが実感できるのではないでしょうか。
つまり、ポストモダンとは近代の末路である戦時中と地続きにある思想だと考えるべきなのです。
本作ではポストモダン的な「スーパーフラット」について語る場面も見られます。
それに一〇〇〇万の人間が訴えても、結局はただの一文に要約されてしまう。どんなことも一文ですむのだ。
「誰それのところに四時に行くように」であっても、
「一〇〇〇万人が死んだとのことだ」であっても、
「ブロワが炎上中だ」であっても、
「運転手が見つかりました」であっても。
どれもこれも、みな同一平面上に置かれているのだ。それも最初から。
すべてが同一平面に並べられてしまうスーパーフラットな価値観も、
ポストモダン以前の戦時中にそのルーツが確認できるわけです。
世界大戦の負の記憶を忘却したポストモダン思想にいかに価値がないか、よくわかると思います。
ポストモダンをバブル経済の只中で「新しい」現象として肯定的に受け入れた80年代の日本人と違って、
サン=テグジュペリは戦争というポストモダン的な現実を否定すべきものとして捉えています。
当然ながら、日本のポストモダン精神とサン=テグジュペリの精神とは立ち位置が全く逆になります。
だからサン=テグジュペリは日本のポストモダンが陥った偏狭なナショナリズムとも無縁です。
私は信じる、個別的なものへの崇敬は死しかもたらさないことを。──それが築くのは類似に基づいた秩序でしかないからだ。《存在》の統一性を、部分の同一性と混同しているのだ。大聖堂をばらばらに壊して、石材を一列に並べてしまう。したがって私が戦うのは、それが誰であれ、他の習慣に対してある個別の習慣だけを押しつける者、他の国民に対してある個別の国民だけを押しつける者、他の民族に対してある個別の民族だけを押しつける者、他の思想に対してある個別の思想だけを押しつける者だ。
戦闘のただ中で彼は普遍的な存在である《人間》の尊厳について力説していきます。
「私の文明が立脚しているのは、個人を通じての《人間》の崇敬だ」と述べて、
石材の総和では説明がつかない大聖堂の存在が、個々の石材に豊かな意味を与えるように、
個人を超越した《人間》こそが文化の本質であり、その再興が必要だとするのです。
サン=テグジュペリはアメリカの参戦を促すために本書を携えて渡米しました。
そのため、普遍的な人間の連帯を訴える必要があったと考えることもできますが、
そのような功利的な計算がサン=テグジュペリに似合わないことは、彼の熱心な読者には理解できるところだと思います。
彼は飛行機に「子供が母親に対して抱くような愛情を感じる」と書いていますが、
コクピットという子宮において、神秘体験に近似した恍惚状態となり、
ある種の啓示を得るというのがサン=テグジュペリの文学の核だと僕は思っています。
彼の憑かれたような熱弁は神秘主義者のそれであって、
全身で、それも命懸けで体感された啓示は、頭で考えただけの言葉を簡単に凌駕してしまいます。
彼が言葉だけの《人間主義》を批判し、行動の優位を語るのはそのためです。
自らの《存在》を築きあげるのは言葉ではなく、ただ行動だけなのだ。《存在》というのは言葉の支配下にあるのではなく、行動の支配下にある。
このあたりまでは共感を持って読み進められるのですが、
ここからサン=テグジュペリが行動のうちで最も重要なものが「犠牲」だと言い出すに至って、
現代の読者は非常に用心して読み進める必要が出てきます。
共同体のために命を捧げることが尊厳ある人間だと読むことができるからです。
友愛は犠牲のなかにおいてのみ結ばれる。自分より広大なものへと共に身を捧げることによってのみ結ばれる。
戦争のさなかに書かれた本作は、こうして動員の論理に吸収される面を持つことになります。
「私は昔から傍観者というやつが大嫌いだった」と語るサン=テグジュペリは、
ナチスと戦わずにアメリカに亡命し傍観者となったアンドレ・ブルトンを手紙で批判しているのですが、
彼がマルセイユ沖で散っていき、傍観者の方が生き残るのが歴史というものの裏側なのかもしれません。
その結果、〈フランス現代思想〉がサン=テグジュペリの啓示を動員の論理として退け、
普遍性を放棄した反人間主義による個のメタ化を称揚することで、
平和で貧しい現実を傍観的に肯定することが正しいことであるかのように主張してきました。
かくして文学や思想は貧しい現実を後追いするだけとなり、実質的には死に絶えました。
いまや文学や思想は自分を売り込みたいだけの商売人たちや、実社会に適応できない人のルサンチマンを解消する道具に成り下がっています。
出版社は利益を上げるために、そのような人間を利用するだけで、文化を保存する気概すらありません。
人間の普遍性を放棄したからといって、戦争がなくなることはありませんでした。
動員の論理には僕も反対ですが、それに繋がる危険性を理由として、
普遍的な《人間》の価値は放棄されるべきものではないと思います。
そのためには本作をいかに「正しく」読むかが重要になってきます。
サン=テグジュペリは共同体のために死ぬことを価値としたわけではありません。
個人を超越した普遍的な《人間》の尊厳を見直すことを訴えているのです。
私は戦う。《人間》のために。《人間》の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。
サン=テグジュペリが最後に「自分自身にも抗して」と書いたことの意味を、われわれは考える必要があります。
安直な個人の自己満足を超えるものが存在しなくなった人類を、彼は「白蟻の群れ」と書きました。
われわれが「白蟻」にならないためには、まず何よりも自分自身に抵抗する必要があるのではないでしょうか。
川合 康三・富永 一登・釜谷 武志 他訳注
⭐⭐⭐⭐⭐
中国古典文学の規範となった『文選』が文庫で読める
『文選』は中国南北朝時代に興った梁の蕭統(昭明太子)が526年から531年にかけて編纂した総集(文学アンソロジー)です。
戦国時代から秦・漢・魏・晋・南朝宋・南斉・梁にわたって、規範となるべき詩が集められています。
もとは全30巻であったものが、唐の李善によって60巻に分けられました。
そのうち詩篇にあたる19巻から30巻までを、岩波文庫版では全6冊で刊行していくようです。
本書には収録されていませんが、当時の文学ジャンルは広範で、
公的な言辞や実用的な文書である命令書や意見書も『文選』には収録されています。
実用的な文章にも文学的修辞がほどこされたりする中国では、
文学が政治的実用性と深く結びついていたのですが、『文選』の編纂からもその姿勢がうかがえます。
そのような文学的伝統を考えれば、漢詩をただ美的に享受する読み方は、
近代的な詩概念に毒された表面的な理解でしかないかが明らかになります。
(詩が物質的で人間不在だとか得意気に言う人は、ツラばかりデカい不勉強なオタクだということです)
『文選』はそれ以後の総集を編纂する基準として利用され、唐では科挙の試験勉強に必須のテキストとなります。
そうして盛唐期には確固とした地位を確立します。
杜甫が自分の詩の中で『文選』を褒めたたえていたことも、僕の印象に残っています。
北宋になって蘇軾が『文選』の批判を展開しますが、これも『文選』を権威化しすぎた人々への反発があったように思います。
蘇軾は昭明太子の編纂が無秩序で取捨選択も適切ではない、と手厳しいのですが、
音楽CDのベスト盤の収録曲に不満を持つ人は当然いるものです。
『文選』には屈原、宋玉などのビックネームに加えて、
刺客として秦の始皇帝暗殺を計った荊軻や、漢の高祖劉邦の詩と言われるものもあるのですが、
これらは本書には収録されていませんので、続刊に期待します。
本書の読みどころは唐以前の最高の詩人と名高い曹植の詩が6篇収録されていることです。
兄である魏の文帝(曹丕)との葛藤に苦しんだ曹植の姿が、切実さを湛えた詩句から浮かび上がってきます。
『文選』に詩が40篇も収録された南朝宋の謝霊運は「山水詩」と言われる叙景詩の元祖ですが、
謀反の嫌疑をかけられて最後には処刑される悲劇の運命を辿ります。
解説にも書かれていますが、彼は風景を純粋に美的な対象として描いてはいません。
汚濁にまみれた世の中から離れて、自然の中にあるべき真実を見出そうとしています。
西晋の左思も容姿にも恵まれない不遇な人物でしたが、
本書に収録されている彼の「詠史八首」は、自身の憤懣を美しい対句で表現しています。
(中国人の美意識を考えるときに、対という要素は欠かせません)
このように政治的に不遇な人物の思いを、漢詩によって社会に再回収する中国文化のあり方が、
可視化された現体制の評価を絶対化しがちな日本人と違い、
体制外の潜勢力を貪欲に掘り起こすことにつながっていると僕は思います。
中国は王朝の交代が頻繁であり、社会基盤に一神教の宗教もないため、
政治権力の相対性が文化の中にも刻み込まれています。
たとえ現体制において政治的に評価されなくても、政治体制より広範な「文化」によって回収され、
他の体制において花開く可能性をもつ潜勢力として記録に残されていくのです。
つまり、古代中国では文化が政治以上に包括的なものとして理解されていたのです。
(たとえ異民族が王朝を建てても、漢民族の文化システムが異民族体制までも吸収したことを考えればその威力は歴然です)
残念ながら日本には既存体制のイデオロギーを超える「文化」があったとは思えません。
だから、レベルが低かろうが世に流通すれば優れている(売れてる=正義)という短絡的発想が信じられてしまうのです。
古代日本人も学んだ中国古典を読むことは、日本のルーツを訪ねることでもあります。
そこには古代日本人が吸収しなかった要素があるはずなので、
それを再回収して現代に活かすこともできるのではないでしょうか。
高橋 康也 著
⭐⭐⭐⭐
「道化」というキーワードでベケットを読む
『ゴドーを待ちながら』などサミュエル・ベケットの作品を多く翻訳している高橋康也が、
ベケットの半生と主な作品を時系列に沿って網羅的に解説した本です。
作品読解から文学的テーマに踏み込む凝縮された内容のわりに、平易で読みやすく書かれています。
1971年出版の本を底本としていますので、本文は約半世紀前に書かれていたものです。
加えて高橋によるベケット追悼文、詩人の吉岡実のエッセイ、G・ドゥルーズ翻訳者の宇野邦一の解説が収録されています。
代表作『ゴドーを待ちながら』は「不条理演劇」などと言われたりしますが、
高橋はベケットを「道化」と位置付けて、不条理の表現としてのおかしさと笑いに注目しています。
「道化芝居とはいえぬ道化芝居、道化とはいえぬ道化」というベケット的な名辞矛盾を用いて、
通常言われる道化とはかけ離れたところで、かえって道化性があらわになるベケットの主人公たちを理解しようと努めています。
(道化といっても太宰治のようなコンプレックスの反映とは全く違う次元の話なのでご注意を)
本書では若きベケットとその師であるJ・ジョイスとの関係について詳しく語られています。
2人ともアイルランド出身でありながら、祖国に背を向けた亡命者です。
ジョイスの饒舌、ベケットの寡黙と表現の方向性としては真逆にあたる両者ですが、
高橋は両者がともに自らの世界を「終わりなき煉獄」と捉えていたことを指摘します。
ベケットはジョイスの描く「煉獄」を「絶対者の絶対的不在」による善悪などの対立関係の混濁と見ているのですが、
このような相対化の極北であるポストモダン的状況を、多くの日本人が苦悩することもなくスノッブに享楽できてしまうことを、
僕は無視することができないのです。
「煉獄」を「煉獄」であると自覚するには、「絶対者」の存在の痕跡を感じることができなくてはなりません。
しかし「絶対者の不在」が歴史的に常態化している国では、それのどこが問題なのか、ということにしかなりません。
実際に生きている場所が「煉獄」であったとしても、外の世界を知らなければそこを天国と錯覚することは可能です。
つまり、ドゥルーズがしたようにベケットをポストモダン的な文学として扱ったとしても、
ポストモダニズムを消費資本主義的享楽としてしか受容しなかった日本人にとって、大した文学的意義はないということです。
日本人を相手にベケットを「道化」として語ることは、
「煉獄」が「煉獄」であることもわからない享楽主義者たちの誤解を深める結果になるのではないかと危惧します。
高橋が本稿を執筆した時代はおそらくそうではなかったのでしょうが、現代では「道化」という表現が適切なのか難しいところだと感じました。
(そのため「道化とはいえぬ道化」という表現を引用したのです)
僕がベケットを「道化」と表現することに抵抗を感じる理由はもうひとつあります。
高橋はベケットをデカルト的二元論において把握し、肉体の唾棄と精神の解放を目指していることを説明しています。
その説明に異論はありませんが、「道化」とはなにより身体的な存在でなければいけない気がするのです。
身体を捨てた純粋精神とは、観念的存在であって、地上に居場所はありません。
いったい地上を離れたところに存在する「道化」など想像できるものでしょうか?
高橋が選んだ「道化」という言葉はまだまだ地上的です。
しかし、ベケットは地上から離れた「聖なるもの」への野望を抱いていたのではないでしょうか。
「ベケットの最も深い意味における宗教性、彼の道化の逆説的な聖性をぼくは疑うことができない」
と高橋も本書で述べています。
その「聖なるもの」への志向が、ドゥルーズ的な観念論によって安直なメタ化へと変換され、
あの〈フランス現代思想〉という、資本主義と共謀した単なるメタゲームへと堕落していったのです。
当然そこにあるのは聖なる神の残滓ではなく、運動そのものを自己目的化した資本の運動(メタに立つためだけにメタに立つ運動)だけです。
本書の解説を宇野邦一が書いていることでもわかるように、
高橋の読解はドゥルーズ的なポストモダニズムと呼応した内容になっています。
高橋は『ワット』を解説した部分で、ノット氏の邸宅でのワットの体験を、
「何も起きない」いや、「無であることが起きる」と書き、
それが「意味論的」崩壊の状況、認識の不可能性と解釈しています。
このようなnotつまり否定性を無意味や不可知性として前景化するのがポストモダニズムだと言えるでしょう。
「無」を持ち出せば人間的意味の外に立てる、つまり〈フランス現代思想〉とは人間のメタに立つことを目的とした「脱自」の思想なのです。
ドゥルーズの失敗を繰り返さないために、
そろそろベケットの偉大さを認めつつも、あえて批判的に読む必要もあるのではないでしょうか。
ベケットの主人公たちは身体を失い、自己を剥奪され、脱自的な「無」へと突き進んでいきます。
ベケット自身も母語ではない言語を用いた単純な文章によって、言語の豊かさを剥奪していきます。
高橋はノット氏やゴドーに象徴される「無」を、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に似ているとしていますが、
ウィトゲンシュタインが自殺する運命となったのは、彼の家系だけが原因ではないと思います。
「無」へと至る自己剥奪が「聖なるもの」を実現すると考えてしまうと、
人間とは無縁な観念論へと道を開き、果ては文学の自殺へと陥ります。
ドゥルーズに代表される〈フランス現代思想〉の反人間主義の延長にある思弁的実在論が、
人間不在の世界を観念化しようと躍起になるのも、「無」へと至るまでの自己剥奪の徹底(パラノイア!)によるものです。
僕がベケットの人物たちに心惹かれるのは、
人間誰しも自己を生きられるわけではない、ということからきています。
自己を剥奪されて、自分が自分で無いような「よそよそしい存在」に思えたとしても、
それでも生き続けなければならないときもあるのです。
ベケットはそんな悲しくも普遍的な人間の「原型」(もしくは原罪)を、僕たちの前に提示している、と僕には思えるのです。
ベケットは自ら望んで自己を剥奪し、自己の外に出ようとしているのではありません。
自己を奪われた人間こそが現代の人間であることを示しているのです。
(このあたりをユダヤ的に解釈することは可能ですが、広く「現代」と考えてみるべきでしょう)
『ゴドーを待ちながら』を解説する高橋は、それを演劇的「無」を体現したものと捉え、
その「無」が人間の運命であり生の原型であるために、
作中で「何の葛藤も解決もない」必然的な結果として描かれていることを指摘してこう述べます。
しかしぼくたちは、このような否定的ないないづくしがその極点において肯定的な豊饒に逆転することを見失ってはならない。そこに『ゴドーを待ちながら』の奇蹟的としか言いようのない勝利があるのだから。
この解釈は間違っていませんが、現代においてはこの解釈自体が逆転させられる必要があります。
つまり、肯定的な逆転を考えすぎて否定的な苦しみを見失ってはならない、ということです。
ベケット自身は亡命(ディアスポラ)の苦悩においてこのような作品を書いていたわけですが、
消費資本主義的享楽を生きて母国に依存するような連中が、このような逆転をやすやすと果たしていることに目を光らせる必要があります。
(天皇陛下即位20年の愛国イベントにエグザイルという名前のグループが呼ばれたことが、日本のポストモダンを象徴しています)
ベケットを逆回転させたものが〈俗流フランス現代思想〉であり、現状のナルシス日本です。
あらゆる理想的な営みを否定的に捉え、現状を必然や運命と捉えて、「何の葛藤も解決もない」ぬるい生を望む人がいかに多いことか。
(安倍さん以外に首相をやらせる人がいない、とか日本人以外には意味不明の発言でしょう)
彼らはゴドーなど存在しないかもね、とすでに割り切っていて、
苦しんで待つだけの意味も感じられないため、ただスマホで「気散じ」をするだけの人生です。
それをこれっぽっちも「煉獄」だと感じることができません。
ゴドーを待つ苦悩を知らない人間にベケット作品も〈フランス現代思想〉もまったく意味がありません。
彼らは「何の葛藤も解決もない」自分の生を知的ぶって肯定するために、それを自己弁護として利用するだけなのです。
(そのために自らが迫害を受けているかのように被害者ぶるのが、日本的ポストモダニズムの成れの果てです)
いつまでもゴドーは現れない、
それでも僕たちはゴドーを待って苦悩するべきなのです。
一神教から遠く離れた国では、
詩的な自己剥奪など今やスマホによる暇つぶしと大差がなくなりました。
今や文学に詩は必要ありません、真の亡命者となるほどの苦悩や葛藤こそが必要なのです。
Amazonレビューへの佐野波布一コメント
どうも、佐野波布一と申します。
マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』について、どこぞのフランス現代思想学者が解説している文章を目にしましたが、
僕が予想していた通り、自分の立場と対立しない内容だけに触れるという、
どこぞの省庁と似たような手口を使っています。
具体的に言えば、意味を中心とした人間主義であることを明確にすることは避けています。
科学一元論を批判する反ファシズム思想だとか、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているとか書いているのですが、
これもかなり欺瞞に満ちた内容と言えます。
科学一元論を批判しているのはその通りですが、同時に人間不在の思弁的実在論も批判しているのに、
そこをカメレオン学者はスルーして触れません。
思弁的実在論の代弁をしてきた自分に不利な事実は削除するわけです。
また、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているという解説は誤読でしかありません。
ガブリエルが拒否する特権的な包括的な場は「世界」としか書かれてはいません。
「世界」が存在しないことで「意味の場」が成立するとガブリエルは書いているわけですから、
ひとつの覇権的な場は「意味の場」になるはずがないのです。
(もちろんガブリエルもそんな表現はしていません)
これは誤読であるか、そうでなければ内容の身勝手な改ざんと言えるでしょう。
彼が書いているひとつの特権的な意味の場が存在しない、という反ファシズムの思想とは、
まったくもってガブリエルの著書の内容ではなく、
これまで〈フランス現代思想〉がさんざん垂れ流してきた言説でしかありません。
もし本当にガブリエルがこんなことを言っているのだとしたら、まったく新しくありません。
いや、本当に自分に都合がいいように「書き換え」をするものだと、呆れ果てました。
この人には学者としての良心など存在しないのでしょうか。
まるでガブリエルが意味を批判しているかのような「書き換え」は、
あまりにガブリエルとは逆方向の主張になるので、もし誤読でないのなら、彼の一般読者を騙そうとする不誠実な態度と考えるしかありません。
僕の好き嫌いなど関係なく、事実を捻じ曲げるような内容を流通させる学者を日本ではなぜ問題だと考えないのでしょうか。
いや、国の省庁が事実を書き換えて平気なのですから、学者だって平気で書き換えを行うのがこの国なのでしょう。
しかし、本書のレビューでも確認したように、
僕はずいぶん前から彼らがこのような「読み換え」をすることは予想していたので、
日本的な自己保身を優先する文化にどっぷりつかっている人たちが、
西洋思想を「宣伝」していることがいかにお笑いな事態であるかの良い証拠になると思います。
マイケル・ウォルフ 著/関根 光宏・藤田 美菜子 訳
⭐⭐
自らを暴露しまくるトランプに暴露本は無用
本書はドナルド・トランプ政権の中心人物たちの困った人間模様を描き出した、いわゆる暴露本です。
著者のウォルフはメディア王のルパート・マードックの評伝などで知られるジャーナリストだそうです。
(そういえばマードックは本書でも何度か登場しています)
リベラル派や著名人に嫌われているトランプ大統領を批判した本なので、
規範的な視点からトランプ政権のお粗末さを嘆くようなスタンスなのかと思いましたが、
読んでみると、ウォルフがそのお瑣末さを面白がって書いているような印象を受けました。
トランプ政権の内幕を書けば金になる、というトランプに負けず劣らずの野心を感じます。
ウォルフは最初の章でトランプ陣営が大統領選に勝つとは当日まで思っていなかったと書いています。
トランプと側近がもくろんでいたのは、自分たち自身は何一つ変わることなく、ただトランプが大統領になりかけたという事実からできるだけ利益を得ることだった。生き方を改める必要もなければ、考え方を変える必要もない。自分たちはありのままでいい。なぜなら自分たちが勝つわけがないのだから。
トランプにとっては「敗北こそが勝利だった」と言い切るウォルフは、
勝利の瞬間、トランプが幽霊を見たような顔をし、メラニア夫人が喜びとは別の涙を流した、と述べています。
ここで描かれた情景が僕にはあまり腑に落ちませんでした。
たしかに事前のメディアの予想ではトランプは敗色濃厚という見込みであったと思うのですが、
直前までトランプは劣勢を跳ね返す粘り腰を見せていたはずで、
本当にトランプ本人が負けを望んでいたら簡単にそうなったように思うのです。
このあたり、必ずしも事実ではなく、反トランプの人々の実感にうまく合わせるような書き方をしている気がしました。
本書で描かれるトランプ像にはあまり驚くことはありません。
「トランプには良心のやましさという感覚がない」
「トランプはごくごく基本的なレベルの事実すら無視する」
「トランプには計画を立案する力もなければ、組織をまとめる力もない。集中力もなければ、頭を切り替えることもできない」
ウォルフは相当にボロクソ言っていますが、読者は特に違和感なく納得できるのではないでしょうか。
むしろ誰が見ても秀でた能力を感じない人物が、なぜ大統領になっているのかが謎なのですが、
トランプの実像を描いてもその答は得ることができないのです。
それより面白かったのは、トランプとメラニア夫人の夫婦生活についてや、
娘のイヴァンカがテレビ番組で父の髪型を笑いものにした話などでした。
この本を最後までキッチリと読み通す人はあまり多くないのではないかと推測します。
途中からスティーヴ・バノンとトランプの娘夫婦の権力争いを描くことに重心が移っていき、
肝心のトランプの影が薄くなっているからです。
バノンはボブ・マーサーという右派の資産家の後押しで「ブライトバード」という保守系メディアを経営し、
トランプの首席戦略官に就任し、大いなる成り上がりを果たした人物です。
ウォルフが「スティーヴ・バノンほどホワイトハウスに似つかわしくない人物はそういない」と書くのは、
バノンが63歳という高齢でありながら政治未経験者だという事実が影響しています。
彼はイヴァンカ・トランプとその夫ジャレッド・クシュナーをまとめて「ジャーヴァンカ」と嘲笑的に呼び、
クシュナーとの間で意見が対立すると、リーク合戦を繰り広げて互いの足を引っ張ります。
金を追い求めて挫折し続けるバノンの経歴も興味深かったのですが、
そんなバノンが保守系メディアで成功したのは、
リベラル系に比べて保守系メディアの「参入障壁が低いというメリット」があったという指摘に納得しました。
どこの国であれ、保守系メディアに登場する人物が社会への怨念を抱えていたりするのには、
そのような背景があるのかもしれません。
ウォルフが途中からバノンの視点に近接し、バノンの言葉や考えを生々しく述べるにつれ、
本書の主役はトランプではなくバノンなのではないかと感じました。
実際、本書はトランプ政権の誕生からジョン・ケリーが首席補佐官に任命され、バノンが首席戦略官を退任するまでを扱っています。
池上彰の解説にバノンが取材に全面協力したと書いているので、バノンの言に依存した結果だとわかりました。
そうなると、本書の内容にバノン的バイアスが反映していてもおかしくはありません。
本書の記述でなるほどと思ったところがあります。
ウォルフはトランプ政権をこう分析しています。
トランプ政権の矛盾は、他の何よりもイデオロギーに突き動かされた政権であると同時に、ほとんどイデオロギーのない政権でもあるということだ。(中略) ゲームで優位に立つより重要な目的など、まったくありそうになかった。
トランプは時としてリベラルに激しい批難を浴びせますが、民主党的なスタンスを取ることもあります。
トランプは「すべてを個人的にとらえる」人であり、頭には自分の勝利しかないのです。
(だから大統領選に負けるつもりだったとは僕には思えないのです)
「アメリカは、こういう人間を大統領に選んたのだ」とは解説の池上彰の言葉ですが、
日本もそれほど人のことは言えないように思います。
聖人君子をトップに抱くより、等身大で自分の分身のような人物こそが自分たちを代表するべきだと国民が考えるようになれば、
国のトップが凡庸な人になるのも驚くことではないように思います。
大岡 信 著
⭐⭐⭐⭐⭐
刺激的な考察に富む日本文化論
本書は亡き大岡信が1971年に書いた論の再文庫化です。
題名通り紀貫之の和歌について書かれているのですが、
僕がおもしろいと思ったのは、紀貫之の歌についての考察よりも、
和歌のルーツやそれを生み出した日本文化に対する考察の方でした。
正岡子規が貫之を「下手な歌よみ」と言ったのは、『歌よみに与ふる書』でした。
大岡はこの偶像破壊とも言える子規の革新運動を広く取り上げます。
そのため、冒頭は紀貫之というより正岡子規のことが多く書かれています。
子規が生真面目に俳句の「滑稽と諧謔」を拒絶して、松尾芭蕉の雄壮さをとりわけ評価したのに対し、
「花鳥諷詠」という天地の造化への挨拶を俳句の本質とした高浜虚子は、「滑稽と諧謔」を許容している、
などと述べ、「滑稽と諧謔」が個人のモチーフとして現れるようになったのは古今和歌集だとしています。
そこで大岡はあるものと別のものとを「合わす」ことに、詩的感情の成熟を見ています。
二つのものを「合わす」ところに滑稽や諧謔も挨拶もあり、そんな歌の力を古代人が重んじていた、という指摘は、
和歌と俳句という伝統詩型ついて考えるうえで欠かせない要素のように思えます。
大岡は第四章で、「合わす」行為、二つのものの融合を日本語の特徴から考えていきます。
そのモデルとなる貫之の歌がこれです。
影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
この海底を空として捉える「逆倒的な視野構成」において、水と空は互いが互いを映す鏡となっています。
「詩的言語」を詩人が自覚的に用いるようになったのは、互いに映発し合うものの発見にあり、
映像と映像とを一つに融け合わせ、暗示に富んだ小世界を作りあげる手法が、
テニヲハを駆使する膠着語という日本語の特質に由来する、と大岡は考えています。
さらに大岡はテニヲハなどの助詞が、漢文の訳読に用いる記号「ヲコト点」から発達したことにまで遡ります。
助詞が言語になりきっていない記号から発達したという事実はなかなか興味深いものがあります。
使われる助詞の数は万葉集に比べて、古今和歌集で著しく増大します。
しだいに大岡の興味は貫之一個人を超えて、日本人の自然観や文化へと逸脱していきますが、
そこが非常におもしろいのです。
大岡は津田左右吉や石田英一郎の言を引いて、
日本人が外来思想の影響を受けなかったことや合理主義的な世界観を拒絶したことなどを示したあと、
その原因を「距離」の尺度として説明します。
草原や砂漠を生活環境とする人は、あらゆる関係の尺度を「遠さ」に置いているが、
日本では逆に「近さ」を前提とした情緒的で省略の多い伝達様式が発達したというのです。
いずれにしても、人や物の空間的「近さ」という感覚に距離の尺度をもつ精神は、隔絶した絶対者にむかって絶望的な飛躍・挑戦を試みるよりは、神や人間の観念に先立つ与件としての「あめつち」、すなわち自然界ないし宇宙との、親和・融合を、ほとんど本能的に試みようとするだろう。それは自然現象のあらゆる発現、言いかえれば、「季節」そのものを、自己の生命の直接の象徴とさえ見なすに至るであろう。
自然への「近さ」が季節を自分の命の象徴と見なすことにつながるとするのですが、
中国も人間と隔絶した存在を絶対化する傾向が薄いと言えますし、季感を重視する詩のスタイルの元祖なので、
そのまま大岡の説を鵜呑みにすることには抵抗があるのですが、それでも傾聴に値する意見だと思います。
ただ、このあと大岡が触れる季節感の類型的な成立に関しては、たしかに日本的なものと言えると思います。
大岡は日本的な季節感が、現実の実感に密着したものではなく、
「象徴の体系を通して感じとられる 共通の文化体験」だとし、それが類型化と結びついていることを指摘しています。
季節の類型化と象徴性との関係を考えることは、非常に重要な視点だと思います。
僕の関心に即したため、貫之の和歌についての考察をあまり紹介できていませんが、
本書が貫之の和歌を詠むことに重きを置いていることは間違いありません。
読みどころが多くありますので、読者の多様な興味に応えられる本だと思います。
トム・ストッパード 著/小田島 恒志 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
即座に二度読みした深い作品
ストッパードはチェコ生まれですが、ナチスから逃れてイギリスに移住した経歴を持ちます。
映画『恋に落ちたシェイクスピア』の脚本も彼が担当したものです。
作品が知的で難解なため、テーマがどこにあるのかわからなかったりするのですが、
人物や台詞が魅力的でグイグイと読み進んでいけます。
僕は週6日労働のため演劇を観に行く時間がなかなか得られません。
演劇ファンですらない素人読者です。
ハヤカワ演劇文庫で出ているストッパードの作品はすべて読んでいますが、
舞台は一度も観ることができていません。
そのため、読みながら自分の脳内で舞台を再現しています。
本作はある貴族の館を舞台にしていますが、2つの時代を行き来する構成になっています。
ロマン派の詩人バイロンがその館に滞在した19世紀初頭と、
バイロンの周辺人物を研究する研究者や作家がその館を訪れている現代。
観客は2つの時代をめぐりながら、過去の出来事を現在の舞台上の人物とともに謎解きをしていきます。
過去場面ではバイロン本人は肉体として舞台上に登場しません。
館の持ち主であるカヴァリー伯爵の娘で数学の天才トマシナと、
その家庭教師で女好きのセプティマスを軸に、
館に呼ばれた植物学者で詩人のチェイターと庭師のノークス、トマシナの母などが出てきます。
劇はトマシナがチェイター夫人の不倫話をセプティマスに始めるところから始まるのですが、
その不倫相手が実はセプティマスで、それを知ったチェイターが決闘を申し込みに飛び込んできます。
この出来事が現代場面に持ち越されていくことになります。
現代場面では館の主であるヴァレンタイン・カヴァリーのところに、
この館の庭にある隠者の庵に住んでいた人物を研究する作家ハンナが滞在しています。
そこにチェイターのことを調べにきた伊達男バーナードが現れます。
ヴァレンタインの妹クロエはバーナードを気に入り、その弟で寡黙なガスはハンナを思慕しているという関係です。
情熱家バーナードと冷静なハンナは意見が対立しがちで、ヴァレンタインは科学者の立場に立っています。
バーナードはバイロンがチェイターと決闘して殺したと考えています。
ただ、観客はチェイターが決闘を申し込んだのがセプティマスだと知っていますので、
その後の展開がどうなったのかが気になってきます。
トマシナが書き残した方程式をヴァレンタインが解明していくあたりもミステリアスな展開になっています。
「訳者あとがき」で小田島恒志が指摘しているように、
この作品はエントロピーの増大をテーマのひとつとして取り扱っています。
劇では過去と現在が交互に展開するのに、舞台となる部屋に置かれた小物は2つの時代を通じて増え続けます。
ストッパードはこのようなエントロピーという不規則性の増大と、芸術が古典主義からロマン主義へと移行する過程を重ねます。
過去パートにノークスという庭師が登場するのも、
イギリス庭園がフランス的幾何学図式と異なる不規則性(ピクチャレスク・スタイル)を重視していたことを関連させたいからでしょう。
ストッパードは規則的・可逆的なニュートン力学を神の象徴と捉え、
熱力学に属するエントロピーによって世界が不規則的・不可逆的であることを示すのですが、
この劇に感動を呼び起こされるのは、エントロピーを生み出す熱を人間の情熱へと読み替えているからです。
バーナードの遠い過去の事実を知りたいという情熱、トマシナのセプティマスを恋い慕う情熱、
これらが不規則性を生み出していく要因だとストッパードは暗に示しています。
(ここには示しませんが、注意深く読めば台詞に根拠をみつけることができます)
残念ながら、バーナードもトマシナもその情熱のために破滅の運命をたどることになります。
しかし、『アルカディア』は決して悲劇でも喜劇でもありません。
この短期的な失敗も長い人間の歴史の中で引き継がれ、道を成すというのがストッパードのメッセージです。
彼は劇中でセプティマスにこう言わせています。
我々は何かを拾うと何かを捨てる。両腕いっぱいに荷物を抱えて歩く旅人のように。そして私たちが捨てた物は後から来る誰かが拾います。道は長いが人生は短い。私たちは道の半ばで死んでしまう。しかし、何一つ道からはみ出すことはない、だから失われるものは一つもありません。
不規則な情熱によって何かを失っても、それを後から来る人が拾ってくれる、
そのため、われわれは道を踏み外すことも、何かを失うこともない、
この美しいテーマが劇のまとめに置かれるのではなく、中盤より前にあるのが憎いところです。
僕は本書を読み終わってすぐに二度目の読みに取りかかったのですが、
最初に読んだときはこのセリフに注目できませんでした。
トマシナを失ったセプティマスは誰にも知られない隠者となりますが、
時を経てそれをハンナが後から拾っていることになります。
劇の後半は2つの時代が舞台を変えずに同時に展開していきます。
ラストは時代を超えてトマシナとセプティマス、ガスとハンナの2つのカップルが同時にダンスを踊る美しいシーンで幕を閉じます。
時間の不可逆性を超えて一致を見る瞬間、道を踏み外さず失われるものない境地、これぞアルカディア(理想郷)というところでしょうか。
ストッパードは科学を扱いながら、演劇の芸術性でそれを超えてみせます。
科学が専門のヴァレンタインにも、ストッパードはこのようなことを言わせています。
予測できないことと予め決まっていることが一緒になって展開して、何もかも今ある状態になっていく。こうして自然は自らを創り上げている、それもあらゆるレベルで──ひらひら舞う雪も、吹雪も。そう考えると僕は幸せを感じるんだ。最初の、何も分かっていなかった頃に立ち返るみたいで。
神の意志と人間の不規則性が一緒になって形成されるのが自然だとヴァレンタインは考えます。
考えてみれば、演劇というのもそういうものかもしれません。
作者の意志と役者の不規則性によって構成される舞台、それが演劇ですから。
機会があったら一度この舞台を実際に見てみたいと思いました。
評価:
トム・ストッパード,Tom Stoppard 早川書房 ¥ 1,296 (2018-02-20) |
佐野波布一2007年の評論
70年代生まれインターネット世代
僕は同年代ということで、1971年生まれの東浩紀や北田暁大の議論に注目してきた。言論界では彼らが世代の代表として受け止められているからだが、僕はそれに対して苦々しい思いを感じている。彼らはともに東京大学の大学院出身で、社会学の影響を色濃く受けている。宮台真司チルドレンとでもいうべき存在だ。たしかに彼らは世代の一部を代表しているかもしれない(実際、渋谷のブックファーストでは二人の対談本が売り上げ1位になった)。しかし、世代全体がそうだと思われてはたまらない。
この世代を考えるときに欠かせないのが堀江貴文だろう。堀江も東京大学出身で、僕たちと同世代だ。東と北田、そして堀江をつなぐもの、それは新世代のメディアであるインターネット以外ありえない。彼らの活躍はインターネットの拡大と歩調を合わせている。結局、僕たちの世代とはインターネットによって注目されているだけだというのが現状だ。
そのため、この世代はまずインターネット文化の擁護者として登場することになった。堀江や東や北田はその代表であって、僕のようにインターネット懐疑派は不可視な存在でしかない。まあ、そういうことだ。
読破できなかった東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』
ここでは東浩紀の著作『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』について書いておこうと思う。本当はふれるのもバカバカしい本なのだが、この世代がみんなこんなことを肯定していると思われては困る。同世代からの反論もあった方がいい。しかし、僕は今すぐメディア上で反論のできる著名な立場にいない。仕方がないので、「今」反論していることを示すために、個人的に書き残すという手段をとることにする。「今」とは2007年3月現在だ。
さて、僕はまず読者に弁解をしなければならない。このような文章を書くくせに、僕は『ゲーム的リアリズムの誕生』を途中までしか読んでいない。『ゲーム的リアリズムの誕生』は二章構成になっていて、第1章は理論、第2章は作品論となっているが、僕は第1章のBまでしか読んでいないのだ(ちなみに第1章はCまである)。これはあまりほめられた態度ではない。評価する作品をきちんと読まないでものを言うなんて、津本陽にしか許されていないことだ。僕はここ10年くらい最後まで読まなかった本はほとんどない。しかし、この本は最後まで読めそうにない。
途中挫折の理由は、この本が商品として最低レベルのデキにもないということだ。要するに、売るに値する内容ではないのだ。どれだけひどいのかはあとで書くことになるが、それにしても、こんなものを出版する講談社は何を考えているのだろうか。東浩紀の本というだけでオタクが買うから、たしかに売り上げは期待できるかもしれない。それにしたって、もう少しマシなものを書かせることはできたはずだ。第1章は「理論」と銘打たれているが、かなり乱暴な内容になっているし、半分以上が大塚英志の説にのっかって話を進めている。ちゃんと数えたわけではないが、ページの半分くらいに「大塚」という名詞が登場しているように思える。この名詞にぶつかるたびに、大塚に見捨てられた東のメメシイ感情ばかりが伝わってきて、僕としては涙なしに読み進められなかった。本を途中で断念してしまったのは、武士の情みたいなものと理解してほしい。
それに、一応「理論」といっているのだから、著者の個人的愛憎が伝わってくるのはどうかと思う。そりゃあ、理論にも個人感情は影響を与えるだろうが、それが前面に出ているのはまずいだろう。こんな逸脱した内容で商品化にOKを出す講談社の良識を、僕としては疑わざるをえない。少なくても、もう少し時間をかけて書かせるべきだったろう。
では僕が読んだところまでの内容を検証しよう。正直に言って、この本を評価するうえでは、僕が読んだところまででも十分だと確信している。
「市場原理」という言葉を言い換えただけの「データベース消費」
まず、ざっと『ゲーム的リアリズムの誕生』という本の狙いについてまとめておこう。この本は主に「ライトノベル」と呼ばれる小説を扱っている。ライトノベルは何百万部の売り上げを誇る作品もあって、消費市場では無視できないムーブメントであることはまちがいない。この本の目的は、「ポストモダン的」なライトノベルを「文学」として評価することにある。
ライトノベルの評価が東にとって重要なのは、それが「ポストモダン」を読み解くカギになると思っているからだ。ポストモダンとは1970年代以降の時代状況のこと(ポストモダニズムという思想のことではないと東は力説する)らしいから、要するに内容は現代社会学と言ってもいい。この時代状況を、東は「大きな物語」の衰退による「データベース消費」の誕生によって語る。これが五年前の東の著作『動物化するポストモダン』の主張だった。要するに、「データベース消費」とは何なのか、ということを説明するのが東の著作だと思えばいい。
こういうと何か高尚なことをやっているように思えるかもしれないが、「大きな物語」を「イデオロギー原理」、「データベース消費」を「市場原理」とわかりやすい言葉に置き換えてしまえば、なんてことはない、当たり前のことを言っていることになってしまう。「大きな物語」とは、簡単に言えば資本主義と共産主義のイデオロギー対決のことだが、それは全共闘運動の崩壊でほぼ幕を閉じていたのだ。ソ連や中国も社会主義でなくなった時代に何を今さら……、と思われても仕方がない。
この読み替えでほとんどこの本の価値は死んでしまうのだが、実際に東浩紀は脚光を浴びたし、「動物化」も話題になった。それだけに問題の根はもっと深いので、僕はもう少し丁寧に読んでいくことにする。
ただ、ここでひとつ注意しておきたいことは、現代の社会状況を語る本のわりに、東浩紀はオタク文化のみを取り上げるということだ。前作『動物化するポストモダン』は、アニメオタクの「キャラ萌え」(アニメのキャラクターに屈折した性的興奮を得ること)や「ギャルゲー」(アニメ画の女の子の性的画像を見ることがゲームの達成でもあるコンピュータ・ゲーム)のことしか語っていない。その傾向は5年経っても同じで、今回はライトノベルを取り扱っている。
まず、ライトノベルとはなんぞや? という人に説明が必要かもしれない。ライトノベルはマンガやアニメのイラストが表紙や挿絵になっている青少年向けのエンターテイメント小説だ。装丁だけならマンガと間違える人もいるかもしれない。少女マンガをベースにした「コバルト文庫」の男の子版といったら一番わかりやすいだろうか。
東がライトノベルを取り扱う理由は、前作を読んでいる人にはすぐにわかるだろう。ライトノベルは「キャラ萌え」が作品の中心におかれた「ゲームのような小説」であるからだ。オタク傾向を持つ人向けの小説と言ってもたいして誤解はないだろう。
東はこのライトノベルが「文学」として扱われていないことに危機感を感じている(と、本人は言っている)。ライトノベルは子供やオタクの読みものと白眼視されているというわけだ。そのため『ゲーム的リアリズムの誕生』はライトノベルがいかに「文学」であるかを力説した本になっている。
賢明な読者なら、どうして東浩紀が現代のグローバルな社会状況をオタク文化という限定的な現象のみで語ろうとするのか疑問を持つことだろう。その疑問はまったく正しい。しかし、僕はもう少しあとになってから答を述べるつもりだ。まずは新たに出版された東の著書の主張に耳を傾けよう。
「文学」を私小説に限定する東
東はライトノベルが「文学」であると主張するために、「二つのリアリズム」という文学的手法を持ち出す。「二つのリアリズム」とは自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム(両者の分類は大塚英志の議論による)だ。自然主義的リアリズムとは私小説などで使われる方法で、つまりは「私」を視点とした現実世界を「写生」する方法のことだ。
それに対して、まんが・アニメ的リアリズムとは、まんがやアニメの中に存在する虚構を「写生」することとされている(これも大塚の論による)。つまるところ、二つのリアリズムの違いは、「写生」する対象が現実世界であるか、虚構世界であるかという点にある。ここで僕などはアニメ的な虚構を描写することを「リアリズム」と言っていいものか気になってしまうのだが、どちらも「写生」そのものは疑っていないということで、「リアリズム」という言い方をしているのだと解釈することにする。
東の理論の展開を追うと、「文学」はこの両者にすっぱり分かれるようだ。東は大塚にならってライトノベルを「キャラクター小説」と言った上で、「純文学は私を描くので私小説、ライトノベルはキャラクターを描くのでキャラクター小説、というわけである」と分類する。この分類の仕方から、東がライトノベル(キャラクター小説)を純文学と対置させたいことが伝わってくる。
しかしこの二分割は少々強引な印象を禁じえない。「文学」=純文学=私小説という短絡的な図式は失笑ものだし、いまどき純文学というものがあるのかどうかさえ疑問がある。東は高橋源一郎や島田雅彦などの小説を「ポストモダン文学」であることを認めているが、ポストモダンとポストモダニズムが異なることをことわったうえで、こう述べる。
いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実的には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取りあげられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。
この文章を見るかぎり、「ポストモダン文学」は文芸誌などで文学として評価され、大学で取り上げられていることが保守的でポストモダンらしくないと理解するほかない。その考え方が正しいかどうかはおいといて、僕が疑問に思うのは、それならどうして東はライトノベルを「文学」だと主張するのだろうということだ。ライトノベルが「文学」として評価され、文学賞を受賞したら、それはポストモダンらしくないことになるのではないか? おまけにライトノベルを取り上げている東自身の出どころは、東大というアカデミズムの頂点ではなかったか?(だからこそ、こんな本を書いてもチヤホヤされているのだ)
この文章を読んで僕がまず考えたのは、舞城王太郎という作家のことだ。舞城の小説『九十九十九』は『ゲーム的リアリズムの誕生』の第2章の作品論でも取り上げられている。デビュー当時の舞城はライトノベルと共通の背景を持つ作家で、「メフィスト」という雑誌を中心に活躍していた。しかし、そのうち文芸誌が舞城を引っ張り出して、『阿修羅ガール』で三島賞を与え、『好き好き大好き超愛してる』で芥川賞候補にまでするようになった。今の舞城はライトノベル的なものと文学との両者で活動を続けているわけだが、東の言い分だと、どうして彼に関してだけは文学賞を受賞しているのにポストモダンを語るのに利用していいのかがよくわからない。舞城の作品はまさに高橋源一郎や島田雅彦が「新しい」と絶賛したのだ。
これはつまらないことだが、ここだけ見ても、東浩紀が論理的でもなければ、筋も通っていない無責任な言説を振り回す人間であることがわかるはずだ。東の舞城に対する扱いは明らかにご都合主義的だと言わざるをえない。つまり、根拠になっているのは理論ではなく、東の個人的な趣味感覚なのだ。
さて、本論に戻ろう。東が文学を二つのリアリズムでぶった切っていることを見ていたのだった。この分け方を素直に受け取ると、文学とは私小説(的なもの)ということになってしまう。しかし、これはアカデミックな教育を受けた人間には受け入れがたい説だ。文学史を丁寧に勉強すれば、自然主義的な私小説というものが文学史の一部でしかないことくらいすぐにわかるはずだからだ。
たとえば横光利一は小説の主人公を虚構の「傀儡」として意識的に設定した作家だ。「傀儡」とは要するに虚構のキャラクターのことであるから、東の定義からすれば横光の小説はキャラクター小説ということになる。東浩紀は横光利一など学んだこともないのだろうが、この流れは川端康成、三島由紀夫、村上春樹へと引き継がれていく。彼らの作品を田山花袋や島崎藤村や志賀直哉と同じ私小説だと考える人がいるだろうか? だいたい、横光は志賀直哉的なもの(つまり私小説)からの脱却と格闘した作家なのだ。
このような文学に対する不勉強をベースにライトノベルを「文学」だと主張されるのは困ったものだ。文学がわからないのなら、別にライトノベルはライトノベルのまま評価すればいいと僕は思うのだが、東はそれをどうしても「文学」にしたいのだから仕方がない。僕としてはその誤りを指摘するほかない。
大塚と東の屈折した関係
ちなみに、大塚がこのようなリアリズムの二分法を用いたのは東とはまったく違う意図からだということを言っておきたい。大塚はインターネットやサブカルチャーに群がる若者達の「自分探し」的な状況を、「私」を成立させられないで格闘している混沌状態と考えている。そこで、大塚は現代と言文一致や私小説以前の文学状況を重ねてみせるわけだ。大塚が「私」の成立を田山花袋に阻害された『蒲団』のヒロインにこだわっているのはその視点でこそ理解できる。だから、大塚は私小説成立後の文学史を扱ってはいないし、文学史を二つのリアリズムで読み替えようとは思ってもいないのだ。
しかし東はそんな大塚の二つのリアリズムを文学の全体状況に拡大適用する。論のほとんどを大塚からパクっていながら、とんでもなくデカいことをしているわけだ。こんなことがうまくいくはずがない。たしかに今や文学はくだらないものばかりだが、それにしたって過去の文学までナメてもらっては困る。文学はそんな二分法で語れるほど簡単なものではないのだ。
おまけに不思議なのは、東と大塚の目的がまったく逆だということだ。だから二人はケンカ別れに終わった。大塚は若者達が「私」を成立させられるようにサブカルチャー論を展開している。しかし、東の言う「ポストモダン」もしくは「動物化」とは、「私」の成立を拒否することで成立するはずだ。だって、「私」にこだわっている動物なんかいるはずないのだから。つまり、わかりやすくいえば大塚と東の対立とは、かたや「私」という「人間化」、かたや「私」から逃れる「動物化」を目指すものとしてあったはずなのだ。
なのに対立する両者が同じ議論をベースにしているのは不思議なことだ。どうして東は目的が真逆のはずの大塚の議論をこう執拗に下敷きにしようとするのだろうか? このあたりは僕でなくてもわかりにくいことだろう。もしかしたら、本人もわかっていないかもしれない。東の「無能」もしくは「甘え」に答を求めれば簡単だが、僕はそれが東のアンビバレンツな欲望にあると思えてならない。それはこの本を読んでいくことで、しだいにハッキリしてくることだろう。
市場を「母」とする売り上げ至上主義の精神
このように、東は文学を強引に二つのリアリズムに切り分けた。こうすることで、現在の日本文学の状況がよくわかるらしいのだ。そのことを述べた文を引用しよう。
このように理解すると、いまの「日本文学」の状況が、よりはっきりと浮かびあがってくる。自然主義的リアリズムの市場で『東京タワー』が売れ、芥川賞や直木賞が話題になっているときに、まんが・アニメ的リアリズムの市場では、まったく異なった原理と価値観に基づいて「涼宮ハルヒ」シリーズが何百万部も売れている。それが、二〇〇〇年代半ばの日本文学の、おそらくはもっとも俯瞰した立場から見えてくる状況である。批評や文学研究は、純文学だけを追うのではなく、本来はその全体を見わたさなければならない。本書がキャラクター小説を集中的に取りあげるのは、そのような危機感に基づいてのことでもある。
これを読んで僕は頭を抱えたくなってしまった。なにひとつ納得して読めるところがないのだ。まず第一に、『東京タワー』って日本文学なの? 自然主義的リアリズムなの? という疑問。ただ売り上げのことだけを持ち出すことが「もっとも俯瞰した立場」なの? という疑問。批評が全体を見渡すべきなのはもっともだが、文学史全体を無視している君が偉そうに言えるの? という疑問。おかげで僕はまったく別の危機感を感じなければならなくなってしまった。
僕がこのようなどうしようもない一文をわざわざ引用したのは、東が本の「売り上げ」つまり市場の評価をもっとも俯瞰した(つまりメタな)価値観としていることを示したかったからだ。この価値観をいかにも当然なものとして説明なしに持ち出してくるのが、僕にはどうにも気になる。
文学の価値は「売り上げ」や芥川・直木賞で決まるものなのだろうか? もちろん、最近の文壇は村上春樹ファッショともいうべき状況で、「読まれている」=「売り上げ」だけで価値が成立しているのは事実だ。しかし、それこそがポストモダン的状況なのであって、本来はその価値観を分析して問題にするのがポストモダン批評のあるべき姿だろう。しかし、ハナからそれを自然なこととして受け入れてしまっては、批評が成立する余地はない。
東が「売り上げ」至上主義者であることを示す別の文も引用しよう。
(キャラクター小説はデータベースを共有しない人にはわからない)にもかかわらず、実際にそれは、現在の小説市場で実に多くの読者に受け入れられている。谷川は、現在のライトノベル・ブームを代表する作家であり、ここで引用した『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まる「涼宮ハルヒ」シリーズは、二〇〇六年のアニメ化を契機としてベストセラーに躍り出て、二〇〇七年春の時点で累計四〇〇万部を超えている。キャラクターのデータベースは、オタクたちの頭の中にしかないという点では仮想的な存在だが、一〇〇万部の小説の文体に影響を与えているという点では、紛れもなく現実的な存在だと言えるだろう。
ライトノベルの「涼宮ハルヒ」シリーズの売り上げが巨大なことはよくわかったが、仮想的なものでも多くの人が共有すれば「紛れもなく現実的」だというのはどうだろうか。現実的かどうかは多数決で決まるとでもいうのだろうか? このような考えは東のような「売り上げ」至上主義者には理解できても、それ以外の価値観を持っている僕にはついていけない話だ。これじゃあ、データベース論とは岸田秀の共同幻想論の亜流みたいなものではないか。
このように、東がデータベースといっている価値観は市場原理でしかない。ライトノベルはこんなに売れているんだから、『東京タワー』や芥川賞・直木賞作品と同じように扱ってくれというのが東の本音にも思える。こんなことを主張するのに、ポストモダン分析の理論が役に立つはずもないのだから、「理論」がメチャクチャでご都合主義的なのも当然の帰結なのかもしれない。
途中で読むのをやめてしまったので推測にしかならないが、本の題名にもなっている「ゲーム的リアリズム」とは、要するに仮想的な幻想(ゲーム)でも多数の人に共有されているんだから「紛れもなく現実的(リアリズム)」だということになるのだろう。東にとってはデータベースもしくは市場こそがリアルなものなのだ。貨幣の価値は幻想でしかないが、それを多数の人が認めているからこそリアルなものとして流通する。だから、貨幣価値のデータベースである市場こそがポストモダン時代の現実なのだ。
データベースとは何か
『ゲーム的リアリズムの誕生』の読解はこんな感じで終わってもいいのだが、ここで僕は前に出した疑問をもう一度持ち出したいと思う。このような経済の問題を、東はなぜオタク文化によって語ろうとするのだろうか?
このことを考えたときに、僕はオタクがアニメやライトノベルなどで行っている「キャラ萌え」を「データベース消費」としている東の主張じたいに疑問を感じないわけにはいかない。僕には本当にオタクたちが「データベース消費」をしているとは思えないのだ。いや、まったく違うということではない。それに近いことをしているのはまちがいない。ただ、オタクたちのデータベースとは、真の意味でデータベースと言えるような市場とは異なった共同幻想で成立しているように思えるのだ。
オタクたちのデータベースを語る前に、まずデータベースとはどういうものなのかを確認しておこう。データベースといえば、一般的にはコンピュータ処理で保管する情報の集積のことになると思うが、コンピュータと言うだけで拒否反応を示す人もいるだろうから、僕はデータベースのモデルを図書館で説明してみたい。
データベースとはあらゆる本を所蔵した図書館のようなものだ。現実的にはそんな図書館はあるはずもないが、ひとつのたとえなので、仮にあるものとして考えてほしい。もしそのような図書館があれば、誰が何の本を探していたとしても、その図書館に行けばどんな本でも絶対に見つかるはずだ。政治の本であろうが、恐竜の本であろうが、エロ本であろうが、絵本であろうが、その図書館にはなんでもあるのだ。
このようにすべての情報(=本)を収納する場所(=図書館)をデータベースという。簡単に言うと、データベースとは情報の倉庫なのだ。
データベースの特徴は大きく二つある。ひとつは集められたデータ(所蔵された本にあたる)が、国家や組織のイデオロギーはもちろん、人間の特定の嗜好や欲望によって選別されたものではないということだ。出版された本であれば、内容にかかわらず機械的に図書館に所蔵されるのだ。つまり、データベースの情報収集には人間の意図がほとんど反映されないことになる。
東の言う「大きな物語」とは、資本主義対共産主義というようなイデオロギーによる意味づけのことを意味する。国家などの社会権力が「人はこうあるべきだ」という意味づけを行い、人々がそれにかなうように生きる。そのような「こうあるべき」という意味を、多くの人が共有することを「大きな物語」と呼んでいるのだ。データベースはそのような意味づけや、特定の意図から解放されている(ように見える)。そのため、「大きな物語」から「データベース消費」への移行とは、意味というものが社会の基準としての力を衰退させていく流れとして考えることもできる。
データベースのもうひとつの特徴は、無限の拡張性だ。当然のことだが、本が出版されるたびに図書館には本が増えていく。時間が経つごとに本はますます増えていって、いつまでたっても所蔵し終わることはない。こうして図書館は永遠に拡大し続けるのだ。刻一刻と変化する情報を網羅するには、データベースを絶えず拡張していくしかないのだ。それを別の角度から見ると、こういうことになる。データベースはすべての情報を網羅しているが、それは「今」という瞬間にだけ達成されてることで、次の瞬間には新しい情報によって更新を余儀なくされる。データベースの網羅とは「今」という瞬間にだけ暫定的に成立する。
ここまでくれば、データベースと自由市場が似たものであることが理解しやすくなる。自由市場にあふれる商品は特定の意味によって限定されたりはしない。買う人さえいれば、売る商品は「なんでもあり」だといってもいい(たとえそれが女子高生の排泄物や人間の内臓であってもだ)。そして、市場には日々新しい商品が登場する。その活動は永遠に終わることはない。どんなに大金持ちであっても、未来に発売される商品は手に入れることができない。金があれば市場でどんな商品でも買うことができるが、「今」発売されているものに限られる(また、法にふれるものは売ることはできないが、ここでは理念上の自由市場を想定しているので、それはおいておく)。
「データベース消費」の例としてオタク文化は不適切
東はライトノベルに登場する人物(キャラクター)が、個々の本(物語)から自律して一種のデータベースに属した存在としてオタクたちの間で消費されていると主張する。これこそオタクが「大きな物語」から「データベース消費」の世界を生きている証だと主張するわけだ。東自身の説明も一応引用しておく。
実際に現在のオタクの市場では、物語に人気がなくてもキャラクターには人気があることがめずらしくないし、その逆もある。したがって、そこでは多くの作家たちが、物語内部での必然性や整合性からとりあえず離れ、作品の外に拡がる自律したキャラクターの集合を一種の市場と見なして、そこでの競争力を基準にキャラクターの設定や造形を個別に決定するように変わっていくことになる。
ここでは東本人がネタバレ的にキャラクターのデータベースが「一種の市場」であることを語ってしまっている。これを見ても、「データベース的消費」とは「市場原理」のことでしかないことが確認できるはずだが、東はその事実をできるだけ表に出さないようにする。あくまで「データベース消費」という言葉で色づけて、新しい概念でもあるかのような顔をするのだ。
しかし、僕はオタクたちのデータベースが市場に近い意味でのデータベースとは言えないのではないかと思っている。前にも提出した疑問だが、もし本当に「データベース消費」という消費経済概念の拡大を社会学的に示したいのならば、オタクのジャンル以上に適切な分野がほかにたくさんあるのだ。たとえば、ヒップホップなどのサンプリング音楽がそうだ。サンプリングとは過去の音源の二次利用にほかならない。だから、ヒップホップをエコロジー的な廃品利用として積極的に評価する人もいる(僕には強引に思えるが)。また、総合格闘技などの動きもそうだろう。K-1やPRIDEなどは、あらゆる格闘技の出身者が参入できるように心がけているし、今や格闘家だけでなくボビー・オロゴンや金子賢などの芸能人までリングに上がっている。今や総合格闘技に参加する選手のリストは、ジャンルの壁を越えた格闘データベースのようなものになっている。
もっとメジャーな現象もある。オリンピックなどがまさにそうだ。オリンピックは世界スポーツの博物館のような様相を呈していて、図書館のイメージと近いことは誰にでも理解できるだろう。オリンピックの放映権料は1990年以降のグローバル化に伴って爆発的に高騰している。オリンピックの拡大が市場の拡大にも等しいことは、このことからも確認できるはずだ。おまけにオリンピックはアマチュアだけが参加できるはずだったのに、今やプロ解禁は当たり前だ。これはオリンピックの理念が市場の原理に敗北したことを示している。
データベース化の動きとは、要するに「売れればなんでもあり」もしくは「ウケればなんでもあり」の状態に近づくことだと考えることができる。だからパクリは横行するし、内容のないショー化が進むようになる(今や政治も例外ではない)。自由市場概念によるグローバル化は、しだいに腐敗を全般化する(これはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが指摘していることだ)。この動きが行きすぎたときには、国家権力(もしくは〈帝国〉)が法の力(もしくは警察権)で介入する以外なくなってしまうのだ。
このように、いまやデータベース化の現象は広く一般化している。社会学の立場からするなら、よりメジャーな事象を取り扱うのが筋のはずだし、データベースが大きければ大きいほど説得力は増すはずだ。ライトノベルや「キャラ萌え」を取り上げるより、オリンピックを取り上げた方が多くの人にデータベースを理解させるにふさわしい。それなのに、東は執拗にオタク文化の範囲内に思考の対象をしぼっている。このことを考えたときに、僕は東が「データベース消費」なんかより、もっと別のことを語りたいのではないかと勘ぐってしまうのだ。
オタクのデータベースの特殊性
前置きが長くなってしまったが、僕が東の主張するオタクのデータベースが、本当の意味でデータベースと呼べるものなのか疑問があるのは、先に挙げたデータベースの二つの特徴をオタクのデータベースが満たしていないことにある。
まず、データベースの一つめの特徴を思い出してほしい。それはデータの集積が機械的に行われることだった。しかし、オタクのデータベースはどうだろう? 僕はオタクのデータベースの集積がアニメの博物館と等しくなっているとは到底思えないのだ。だって、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』のキャラクターに「萌え」るオタクを僕は見たことがない。
こんな単純な疑問をどうして誰も持ち出さないのか僕には理解に苦しむところがある。まず、オタクがデータベース化するキャラクターは本質的には女性キャラとなっている。これには反論もあるとは思うが、よく考えてみれば明白なことだ。「キャラ萌え」が異性に対する屈折した性的欲望にあることは明らかなので、男性なら対象は主に女性キャラ、女性なら主に男性キャラになってくるのは当然だ。そうでなければ、東が「ギャルゲー」を「キャラ萌え」と並行的な現象として取り上げていることがおかしくなってしまう。「ラブひな」などの一連の「萌え」作品を見てもらえば、男性主人公が多様な女性ヒロインのデータベース上を生活するパターンばかりなのがすぐに確認できることだろう。
オタクは自分たちの性欲を認めることに大きな葛藤を抱えている種族だ。それは母との関係が密になっていることと関係が深い。母への欲望とは異性に対する非性的な思慕といえる。それをそのまま他の異性において実現させようとすれば、その欲望は非性的な思慕のかたちを取るべきだということになる。しかし、生身の女性に対して欲望を向けるかぎり、最終的には性的な欲望を抱えていることを隠しきれない。そこで、マザコン傾向の強い男性は、欲望の対象を性的に成熟していない女性(ロリコン)から、性的関係を持てない女性(アニメキャラ)へと差し向けることになる。だから、「萌え」の対象になるアニメキャラはたいていロリコン向けの絵柄になっているのだ。
たとえば、アニメキャラに欲情するオタクたちは、生身の女性から離れられないアイドルオタクを蔑視する傾向がある(東浩紀はアイドルオタクを一度たりとも取り上げたことはない)。これは二次元への欲情の方が、性的なものからより解放されているという意識から来る(それは誤解でしかないのだが)。それに「萌え」の漢字は若葉が芽を出すようなイメージだ。この字からしても、幼いものに対する欲望が確認できる。そもそも、オタクが「燃え」を「萌え」と言い換えるのは、性欲が自然発生的なものであることを強調しつつ、性にまつわる大人の責任から逃避するためなのだ。そこではマザコン(=ロリコン)と(社会的存在への)成長嫌悪が固く手を結んでいる。
つまり、僕が言いたいのは、オタクのデータベースなるのものがあるとしても、それは性的な欲望によって選別された対象によってしか満たされていないということだ。これは立派なイデオロギーだし、夢判断をすべて性欲で語るフロイトの精神分析的な「物語」とも言える。ちなみに東が脚光を浴びることになった哲学ジャンルでのデビュー作『存在論的、郵便的』は、人間という「郵便的存在」をフロイトの精神分析モデル(転移)によって位置づけている。
オタクたちの世界が精神分析と親しいのは、ラカン派心理学者の斎藤環がオタクを研究対象としていることでもうかがい知れる。斎藤は東と親しい立場にあり、『ゲーム的リアリズムの誕生』の新聞広告にも推薦文を寄せている(斎藤は「またアズマにやられた!」と書いていたが、談合入札でわざと負けた会社のセリフのように聞こえる)。
このように、フロイトや精神分析の「物語」によって選別されたデータベースを、市場に近い意味でのデータベースと呼ぶことには疑問を感じる。だから僕としては、オタクこそが「データベース消費」の時代に「物語」を生きている時代遅れの存在だと考えている。僕は東とまったく逆のことを主張したいのだ。僕の考えが正しければ、東がどうして「データベース消費」の説明によりグローバルな事象を取り上げないで、限定的なオタクの世界のみを語るのかが矛盾なく説明できるのだ。
データ量がほとんど増えないトリック
説明を続けよう。さらに、オタクのデータベースは、データベースの二つめの特徴とも合致しないということを確認したい。その特徴とは無限の拡張性だった。データベースは常に新しい情報を取り入れて永遠に巨大化するのだ。
では、オタクのデータベースはどうだろうか。たしかにライトノベルやアニメのジャンルでも日々新しい作品やキャラクターが登場している。その意味ではデータベースは拡張しているのだが、実質的な情報量が増えているかどうかという点を考えたときに、大きな疑問に突き当たる。それというのも、オタクのデータベースに登録されるキャラクターは、ある一定のパターンのくり返しになっていて、量的に拡大しようとしないからだ。
これは少しややこしい議論かもしれない。ひとつ例を出そう。たとえば二つの名前を持つ人がいるとしよう。ビートたけしと北野武でもいい。データベース上では、コメディアンのビートたけしと映画監督の北野武と二つの情報が記録されている。つまり、情報量は2となるわけだ。しかし、現実世界の人物としては一人でしかない。だから現実のエネルギー量としては1となる。このようなとき、データベース上の名前が増えたからといって、単純にデータベースが拡張したと考えていいものだろうか?
もちろん東はそれを拡張と見なすのだろう。しかし、コンピュータに詳しい人間であればそうは考えないだろう。ファイル名が異なっていても、情報内容が同じであれば、ひとつの情報で二つのファイル名に対応するようにデータ処理することは難しくないからだ。そうなると、情報量は1のままで、名前をひとつ増やした分の情報量(それは量としては微々たるものだ)だけ増やせばすむことになる。
オタクのデータベースの拡張とはこのような手口で行われている。つまり、一つの情報に対してファイル名だけを二つ三つと増やしていき、実際の情報量はほとんど拡大しない。このような中身の変わらない名前だけの情報増加はデータベースの全体量をほとんど変えることがない。当然、データベースはおそるべきスローペースでしか拡大しないことになる。このような拡大スピードの遅さは、市場やオリンピックなどのデータベース拡大のスピードに比べると、恐ろしいほどに保守的だと言わざるをえない。
具体的な例を出そう。せっかくだから東が『ゲーム的リアリズムの誕生』でライトノベルの代表として扱っている「涼宮ハルヒ」シリーズを取り上げよう。僕が見たところ、この作品に出てくるキャラクターの描写には新しさがまったくない。もっとズバリ言ってしまえば、涼宮ハルヒというキャラクターはヒットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカ・ラングレーのほとんどパクリと言ってもいい。それから長門有希というキャラクターも同アニメの綾波レイを思い浮かべない人はいないだろう。もちろん、そっくりすべてが同じではないが、パッケージを変えただけで内容はほとんど同じものであることは、オタクの過半数以上が認める事実だと思う(お疑いの方はアンケートを採ってみればいい)。いや、当の「涼宮ハルヒ」シリーズの著者だって認めるのではないだろうか。
バブル的な粉飾メンタリティ
アニメやライトノベルのキャラクターでこのようなパクリの系図を作ったらものすごいネットワークができることはまちがいない。黒髪の三つ編みでメガネをした女の子のキャラクターは、どんな作品でもほぼ例外なく自己主張の苦手な内閉的な女の子になったりするのは、このような情報量の非拡大が動機になっている。要するに、オタクの世界とは、名詞だけは増えていくが内容の変化も進歩もない超保守的な空間だということだ。そうなると、東がオタクの世界をデータベースだと主張することは、実質の内容つまり資産はほとんど増えていないのに、帳簿の上だけで量を二倍三倍にも増やすことと同じになる。これを会社経営で行ったとしたら、粉飾決算ということになろう。この点においても、東浩紀と堀江貴文のメンタリティが近いことが理解できるというものではないだろうか? われらインターネット世代とは、表面的なものに踊って実質を顧みない人々のことなのだ。
同世代の僕としては、これを世代の問題にされてしまうと非常に困る。だからというわけではないが、東や堀江の粉飾メンタリティは何も我々の世代にはじまったことではないと言っておきたい。いや、むしろ東たち東大組は世代のエリートであるがゆえに、旧世代に属している。というのは、粉飾メンタリティとは要するにバブル経済的な感覚にほかならないからだ。
表面的な数字に踊らされて、実質を顧みない。これはそのままバブル経済の敗因でもある。あの時代、実質のないところにムダな投資をしたことで、多くの不良債権が残されたことは今さら言うまでもない。しかし、日本は実質的にバブル経済の反省をしていない(それどころか過去の戦争の反省さえできていないのかもしれないのだが)。その理由は日本人が現実を直視したがらないことにあるのだが、そのような日本人の性質にアニメやインターネットがあっていたことは容易に想像できる。バブル崩壊後、日本は国家を主体として「IT革命」を推進したし、アニメ事業も今や国策として語られている。このような視点から見ると、インターネットやアニメ事業は戦後の社会主義的な計画経済のなごりに思えてならない。オタクたちは、戦後の経済成長の夢をひきずっている存在なのだ。
現実と虚構の二項対立に貫かれた「セカイ系」
あまり詳しく説明していると長くなるので、ここからは少し荒っぽく整理していきたい。オタクたちはバブルの夢の中に生き続けている。ライトノベルの想像力の基盤になっているのは、『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』などに始まる70〜80年代のロボットアニメだ。最近ライトノベルの作品傾向をとらえて「セカイ系」などと語られることが多いが、その「セカイ系」が成立する基盤はまちがいなくロボットアニメにある。それは「セカイ系」の典型である新海誠のアニメ『ほしのこえ』を見るまでもなく明らかだ。
「セカイ系」とは要するに主人公とヒロインの関係が直接に人類の存亡にかかわってくるという舞台設定を持つ作品のことだ。まあ、つまるところ、自分たちを中心に世界が回る話にしかリアリティを感じられないということでもあるのだろう。「セカイ系」はまさに「世界の中心で愛を叫ぶ」ために書かれているのだが、ロボットアニメがその起源だというのは、主人公が人類の危機を救うために戦っていることからくる。ロボットアニメでは主人公がロボットに乗ることを拒否したら、人類が滅亡してしまうことだってあるのだ(『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』には実際にそんな葛藤が描かれた場面がある)。ロボットアニメの主人公にとって、ロボットに乗ることが人類や社会とつながる社会性の基盤になっているのだ。
このような社会性とは端的に軍隊(動員)の論理と言える。「おまえが戦わなければみんなが死ぬ」という論理は、軍隊以外ではありえないからだ。一般社会では自分が働かなくたって、原則として自分が死ぬだけでしかない(家族のために、という考えは動員論理の応用だと言っておく)。
「セカイ系」が中心のライトノベルの物語の背景には動員の論理がある。そこでは、世界を救うか恋をとるか、という二項対立が語られるのだが、それはモラトリアム気分に浸っているオタクたちの建前でしかない。この建前は彼らの本音にしたがってこう読み替えられるべきだろう。現実社会に出るか虚構や妄想に逃げ込むか、だ。オタクたちにとって、世界のために動員されることは社会参加に等しく、リアリティのないキャラクターとの恋愛は虚構や妄想への逃走に等しい。これが「セカイ系」という「小さな物語」の構造なのだ。当然この構造の根底を見つめると、現実か虚構(まんが・アニメ)かという二項対立が浮かび上がることになる。
さて、ここまで書けば東の持ち出した自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムの二項対立の元ネタがわかるというものだ。東の言う二つのリアリズムとは、「セカイ系」ライトノベルの物語にある二項対立を強引に小説描写の方法に当てはめただけのことなのだ。これでは論理破綻が目立つのも仕方がない。東の「理論」とは結論ありきの粉飾理論なのだから。
東の『ゲーム的リアリズムの誕生』は現在の「日本文学」を二つのリアリズムで読み解いているわけだが、それこそが「セカイ系」という「小さな物語」から生まれた意味づけでしかないというのが僕の結論だ。だからオタクのデータベースと言われるものが、実際にデータベースの特徴を持ち合わせていないのも当然で、オタクは「データベース消費」をしているのではなくて、「小さな物語」の意味づけにそって消費をしているというのが本当のところなのだ。「小さな物語」の消費メッセージとはこうだ。「現実より虚構をベースにしているものを買え!」
そして、その「小さな物語」の元になっているのは、すでに滅びてしまった80年代のバブルを頂点とした戦後経済成長という物語なのだ。現実か虚構かという対立は、仕事か家庭(恋愛)か、もしくは、仕事か余暇か、というサラリーマンのアンビバレンツな感情をより極端にしたものだ。ただ、経済成長物語では仕事(現実)が優先するところを、オタクは逆に余暇(虚構)の方を優先させる。オタクたちの「小さな物語」とは、戦後経済成長という「物語」の裏返しにほかならない。この「小さな物語」にはアメリカに対するアンビバレンツな感情も含まれている(主人公がロボットで身体を巨大化しなければならないのは、彼らの武力が大国アメリカとの合一によってしか威力を持たないからだ)。日本は冷戦下において、アメリカに支配されつつ積極的に依存していた。そのおかげで軍ではなくもっぱら経済に動員され、経済成長という「物語」を生きられたのだ。(つまり、市場原理とは「物語」としても機能する。小泉・安倍政権が語る大企業の収益アップが日本全体の経済を好転させるという「物語」がまさにいい例だ)
動員の現実と戦えないマザコン保守
動員の論理に反対するということは重要なことで、それには僕も共感するのだが、オタクは動員に抵抗するわけではなく、ただそこから無責任に逃れようとする。現実逃避という子供じみたやり方なのだ。そのあたりがまったくポジティブに評価できないところだ。だから経済成長的な「拡大物語」に対抗するのにも、その裏返しでしかない引きこもり的な「縮小物語」を持ち出すことになる。その意味では日本のポストモダンとは、「大きな物語」から「小さな物語」へと転換しているといえるだろう。しかし、そのアンチ経済成長的な「小さな物語」が「売り上げ」至上主義という経済原理によって語られることに、東やオタクたちのアンビバレンツな感情を見ないわけにはいかない。結局、彼らは現実と戦えない保守的な人間であって、現実的には何も変えられないのだ。だから気分だけ(もしくは名詞だけ)を変えることになってしまう。
東の大塚に対する態度にもそんなアンビバレンツな感情が見てとれる。東は大塚に大きく依存しながら、その権威をなんとか解体して自己のナルシシズムを満たそうとしている。これはまさに日本のナショナリズム(とも呼べないナルシシズム)の定番的図式というものだ。実質は大国の支配下にありながら、気分だけは自分が一番であるかのようにふるまうのが、日本のナショナリズム=ナルシシズムだ。要するに、親の庇護下にありながら、家で一番偉そうな顔をする引きこもりみたいなものと考えればいい。
こう見ていくとハッキリするのだが、東に代表されるマザコン系オタクの心情は、最近急速に増えている右傾化オヤジたち(安倍晋三?)の心情とほとんど同じものだ。インターネットが右傾化しているかいないかという議論をよく見かけるが、ナショナリズムという観点ではなく、ナルシシズムという観点から見ればそのことは理解しやすくなるはずだ。インターネットは巨大ナルシシズム空間だからだ。誰もが自分のブログや書き込みを注目してほしがり、注目されたいがために不必要な二次発信を大量に行っている。筑紫哲也にネットの掲示板がトイレの落書きレベルだと言われて、多くのネットユーザーは怒ったようだが、そう言われても仕方がない面は実際にある。それはナルシシズムを満たすことばかりを目的にネット参加している人が多いからなのだ。
ここで日本のインターネット論をやる余裕はないが、東と右傾化オヤジが似ていることをもうひとつ指摘しておく。東がどうしてライトノベルの敵として「文学」を選んでいるのかということだ。文芸誌の売り上げなどずいぶん前から赤字だし、芥川賞といってもたいして権威はなくなっている。それなのに、どうして東は死に瀕している文学を巨大な敵のように扱うのだろうか?
僕はこれこそが右傾化オヤジ的発想だと思ってしまうのだ。ライトノベルと純文学の戦いが現在の「日本文学」を二分する戦いだとする東の「物語」は、日本と北朝鮮の争いが世界を二分する冷戦の延長だと考えている右傾化オヤジたちの「物語」にそっくりだ。もちろん、文藝春秋の朝日新聞叩きだっていい。これが「小さな物語」でなくて、いったいなんだというのだろう?
こうなってくると、東の主張は何から何まで信用できなくなってくる。東はオタクたちが「大きな物語」から解放され、「データベース消費」を生きるポストモダン的な「動物化」をはたしていると主張した。しかし、実際は外の世界こそがデータベース化していて、そこになじめないオタクは精神分析的な「物語」やアンチ戦後経済成長的な「小さな物語」を生きているのだ。それならオタクは「動物化」に抵抗する存在として把握されるべきもののはずだ。その意味で、オタクの理解としては大塚のように「人間化」に向かうスタンスと考える方が正しいように思う。オタクはポストモダンの時代に動物化できない存在なのだ。いくら右傾化オヤジが増えているからといって、大塚以外に東に反論する人が出てこないようでは、日本の行く末が思いやられるというものだ。
『ゲーム的リアリズムの誕生』に関しての僕の疑問はだいたい書けたと思う。本当はオタクの「小さな物語」を戦後のアメリカと日本の関係から読み解きたかったのだが、それは別の機会に譲ろうと思う。ただ、ここまで書いてきて、どうしても僕には腑に落ちないことがある。だいたい、現実か虚構かという二項対立でものごとをぶった切るというやり方自体が、旧時代の「大きな物語」(資本主義か共産主義か)の方法なのだ。イデオロギー批判には必ず二項対立の批判がついて回る。これは思想的常識だ。そのためポストモダニズムは二項対立からの脱却として語られていた。なのに、どうしてデリダ論を書いた東浩紀が二項対立を好んで用いるのだろうか?
『存在論的、郵便的』を書いたのはゴーストライター?
ここで僕は大きな疑惑を発表せざるをえない。つまり、東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』は実際はゴーストライターが書いたのではないかという疑惑だ。だって、『存在論的、郵便的』に書いてあることから考えると、それを書いた人がインターネットを礼賛したり、市場原理オンリーの価値観を持っていたり、簡単に右傾化したりするとは思えないのだ。『存在論的、郵便的』を今一度読んでみれば、僕の疑問がもっともであることに気づいてもらえると思う。もしかしたら、あの本を実際に書いたのは浅田彰なのではないか? なにしろ、名前だけのすげ替えはオタクの専売特許だ。
一応哲学の話なのでややこしい議論になるが、そのあたりもざっと確認しておこう。『存在論的、郵便的』はハイデガーの存在論をベースに、デリダの謎めいた著作「葉書」の読解を通して、人間存在が「郵便的」であることを解読した本だ。ラストはデリダから得た「郵便的」存在モデルをフロイトの理論で意味づけている。
デリダという哲学者は基本的にはハイデガーの批判者と言っていい。ハイデガーは「存在と時間」という20世紀を代表する著作を記したドイツの哲学者なのだが、ナチスに協力したことで評判が悪い。しかし彼の思想のすべてを否定することは不可能だった。そこで次世代の哲学者は、ハイデガーの思想からファシズムの要素だけを批判し、そうでないところだけを受け継ぐというやり方をとらざるをえなくなった。その作業で大きな成功を収めたのがジャック・デリダなのだ。
だから『存在論的、郵便的』がまずハイデガー存在論の読解からはじめて、そのあとデリダの「葉書」の読解に移るのはしごくまっとうな手順と言える。デリダの主な仕事はハイデガー批判なので、当のハイデガーがわかっていなければあまり意味がない。日本のアカデミズムはフランス現代思想(ポストモダニズム)をやたら取り上げるわりに、そのベースになっているハイデガー思想をまるで勉強していない人たちが多い。だから教条的に「差異」だの「複数性」だのというだけで、ただ消費経済の価値観を広めるだけに終わっているのだ。
デリダによるハイデガー的な現前性批判
『存在論的、郵便的』はハイデガーの「現存在」(人間のこと)を、デリダによって「郵便的」存在つまりメディアとして読み替えることを目的としている。少し専門的な言い方をすれば、ハイデガーの存在論は存在の地平を現在という時間に集約するため、「現前性」から逃れられない。デリダはハイデガーの「現前性」を、音声コミュニケーションによるものと見なし、それを文章コミュニケーション(エクリチュール)によって解体しようとした。現在という一つの時制に位置づけられるハイデガーの単数的超越性を、デリダは異なる複数の時制の複数性によって擾乱する。『存在論的、郵便的』ではそれを複数的超越性ととらえている。
こう書いただけでも門外漢の読者はすでにチンプンカンプンなのではないだろうか。困ったことに、これは哲学の話なので、なかなか簡単にはなりそうにない。とりあえず、わからない人はデリダという哲学者がハイデガーという哲学者を批判していることを理解してほしい。そして東(別の人?)もデリダにならってハイデガー存在論の「現前性」を批判している。
この「現前性」の批判というのがまた難しい。デリダが「現前性」を音声コミュニケーションと考えたことは前に述べたが、要するに「現前性」とはリアルタイム、つまりは同時性のことだと乱暴に整理してしまおう。音声による対面コミュニケーションにおいては、原則として、話す人の言葉を話し手と聞き手が同時に耳にしている。現在という時間で同時にコミュニケーションが行われるのが、音声コミュニケーションのスタイルなのだ。
時間のズレ(差延)を重視するデリダ
デリダは「葉書」という著作の第一部「送付」で、「君」(恋人もしくは妻と思われる)に電話をかける。それは音声コミュニケーションを電話に代表させるためだ。その一方でデリダは同じ「君」に手紙や自分の著作を郵送する。そのため、先に書いた手紙より電話の話が先行してしまったりする。「送付」が提出している問題はこのような時間順序のズレなのだ。
東(別人?)は電話と手紙という異なるメディアによって生じた、デリダの話の順序のズレに注目する。デリダが思考した順番と、受け手が電話と手紙によってその情報を受け取った順番は異なっている。また、電話は国際電話なので話し手と受け手の属する時間にもズレが生じている。このような複数の時間が「現前性」を解体することを東(?)は「存在論的、郵便的」でこう説明している。
デリダの思考順序と「君」の理解順序、つまり複数の異なった時間的秩序が生じるのは、そこでは単に、電話と手紙のあいだに速度の差があるからである。速度が異なるメディアを複数、同時に用いることは、現前的な対面コミュニケーションが抑圧した時間的錯綜を暴露してしまう。さらに一般化すればつぎのようになる。目の前にある情報の集合、例えばいま電話から響く相手の声と今日届いた相手からの手紙とは、実際にはそれぞれ異なった速度の来歴を持っている。ひとつの声‐意識(フォネー)がひとつの世界を一気に把握するためには、その全体を「今ここ」に中心化されたもの(現前性)として、それら速度の差異を抑圧せねばならない。つまり現前化とは来歴の抹消なのだ。そしてその抹消が十分に行われないときにこそ、情報の来歴相互のあいだでの速度の差異が、時間的順序の複数化とその衝突を引き起こす(デリダと「君」、ヘーゲルと読者)。その結果「幽霊」が生まれ、メディア環境はそれをさらに顕在化する。
まあ、難しく書いてはいるが、電話や手紙による時間のズレは使うメディアに「速度のズレ」があることで生じる、ということだ。しかし、「ひとつの世界」の同時性にこだわる「現前性」はそのような「速度のズレ」を抑圧する。だから現前化とは、「速度のズレ」を記録している来歴を抹消することで成立するというのだ。
ここに書かれた主張に僕は異論がない。この部分だけなら、ほとんどその通りだと思う。教条的ポストモダニストはただ単にズレ(差異)を強調するばかりだが、デリダが本当にこだわっているのは「時間のズレ(差延)」なのだ。そのことをきっちり指摘している『存在論的、郵便的』という著作が注目され評価されたのは当然と言えるだろう。
デリダの言説とインターネット支持は両立しない
しかし、僕がつまずくのは、このような「速度のズレ」を重要視する態度とインターネットや市場を礼賛する態度は相容れないということだ。前にもデータベースの特徴で少しふれたが、データベースが情報を網羅するのは「今」という時間においてだった。つまり、データベースが想定しているのは現在というひとつの時間だけなのだ。
だいたいEメールという代物が同時性をアピールしたメディアであることは誰にだってわかることだろう。手紙は差出人が投函してから受取人が受けるまでにかなりの時差が生まれる。しかし、メールはどうだろう? その時差はほとんどなくなってしまっている。瞬時に届くことがEメールの売りなのだ。手紙ならともかく、メールと電話に速度の差などほとんど生まれるはずもない。大阪から来ようと北海道から来ようと、アメリカ、ダカール、重慶からであろうと、ネット空間に至るまでの速度の差はないに等しい。インターネット空間とはまさに「現前性」の場であって、そこに速度の差は生まれないのだ。
そうなるとインターネットや市場とはある意味ハイデガー的な場所となりはしないか。なにしろどちらもグローバルな単一的世界だ。そんな「ひとつの世界」がズレによる複数性などを考慮するはずもない。だいたい「郵便的」というなら、「電話的」であってはならないのではないか?
また、インターネット空間は来歴を抹消する場でもある。インターネットの匿名性の高さがそれを表している。匿名性はその情報がどこから来たかをわからなくする。これが来歴の抹消でなくてなんだろう?
大塚英志はメディアに姿を現そうとしない舞城王太郎(覆面作家と呼ばれた)などを視野に入れながら、サブカルチャー文化の来歴否認について批判的な思考を展開している。東はその舞城を『ゲーム的リアリズムの誕生』で肯定的に評価しているわけだから、来歴否認を問題視しているようには思えない。
以上のことから、僕は『存在論的、郵便的』の著者が『ゲーム的リアリズムの誕生』を書いたとはどうしても納得できないのだ。東浩紀の複数性といえばそうなのかもしれないが、だったらせめて著者名を二つに分けてほしいものだ。いや、やっぱり別人が書いたものと考える方が納得ができる(一時は浅田彰かとも思ったが、よく考えたら浅田の『逃走論』もスキゾとパラノの二項対立を語った本だった)。悩んだ末に、僕は『存在論的、郵便的』がゴーストライターによって書かれたという結論を出すことにした。デリダ論が「幽霊」によって書かれたとしたら、それはそれで悪くないような気もしてくる。
動物化ではなくオヤジ化した若者
ずいぶんと長くなったが、『ゲーム的リアリズムの誕生』と東浩紀についてはこれで終わりにしたい。おそらくインターネットに深く依存している東のメンタリティはこの先も進歩することはないだろうし、それなら僕もこれ以上何を言う必要もないはずだ。とにかく僕は東や堀江が世代の代表だと見なされなければいいのだ。彼らは見た目と同じように実年齢以上のバブル「オヤジ」であって、僕たち貧乏な若者とは価値観がかなり異なっている。年寄りは自分たちと近い「オヤジ」の言うことの方が理解しやすいのだろうが、彼らは東大卒というごく一部の保守勢力でしかないことを忘れてほしくないものだ。
しかし、若者たちもいつまでも「オヤジ」の価値観を反映したライトノベルなど読んでいないで、早く現実に目覚めてほしいものだ。オタクは親の金を搾り取るための媒介(メディア)としてのみ社会に許容されている。その意味ではメディア的存在と言えなくもないが、親に金がなくなったとたん、オタクは社会のゴミと見なされるだろう。そのとき媒介でしかない彼らは、独り立ちできずに、親の代わりの何かにしがみつくしかなくなる。その「新しい親」は彼らに無理難題を押しつけるかもしれない。そうなったとしても、オタクに抵抗する力などあるわけもない。そのときこそ、彼らが本当に「動物化」(家畜化?)するときではないだろうか。
マルクス・ガブリエル 著/清水 一浩 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
哲学をわれわれの手に取り戻すことこそが倫理だ
本書はドイツの若き哲学者が自らの思想である「新しい実在論」を、
一般の人にもわかるように平易なスタイルで書いて、本国でベストセラーになったものです。
本書について書かれたものを読むと、文章が平易で理解しやすいわりに、
ガブリエルの意図を適切に把握していない人が多くて驚きます。
彼は「世界が存在しない」ことを語りたいのではありません。
「世界が存在しない」のは「なぜ」なのかを問うているのです。
ガブリエルはまず「対象領域」について語り始めます。
対象領域というのは哲学的にもあまり聞きなれない用語です。
ガブリエルは次のように説明します。
対象領域とは、特定の種類の諸対象を包摂する領域のことです。
政治なら政治の対象領域があって、そこには有権者、税金、ベーシックインカム、日韓関係など関連する多くのものが属しています。
自然数という対象領域には5とか7とかが属していて、居間という対象領域にはテレビ、カーテン、コーヒー染みなどが属します。
ガブリエルが対象領域を導入することで意図していることは、
実在する存在は「意味」によって棲み分けがなされるということです。
それを明確にするため、ガブリエルは対象領域から「意味の場」へと自説を展開します。
ガブリエルは対象領域と数学的な集合概念とを重ねることを、論理学の誤りと批判したうえで、
フレーゲの「意味と意義」を範にして、集合にも対象領域にも当てはまらない「意味の場」の重要性へと読者を導きます。
ガブリエルが意味を存在の基礎に置こうとしていることを指摘しなくては、本書を読んだとは言えないでしょう。
意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何らかの意味の場のなかに現象します。
存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。
以上の引用文を読んでわかるとおり、
ガブリエルは「意味の場」に現象するものを存在と呼んでいます。
(それが人間の経験とは関わりがないことに注意を促しています)
そして、これらの「意味の場」をすべてひっくるめるような全体としての「世界」は存在しないというのです。
いや、世界が存在しないからこそ、意味の場が存在の根拠になるというのが彼の主張です。
存在の意味、つまり「存在」という表現によって指し示されているものとは、意味それ自体にほかなりません。このことは、世界は存在しないということのうちに示されています。世界が存在しないことが、意味の炸裂を惹き起こすからです。
このようにガブリエルは諸々の意味を超える全体としての「世界」など存在しないと力説します。
「わたしたちは、意味から逃れることはできません」と述べたあと、
人間だけでなく存在する一切のものにとって意味こそが運命だと言うのです。
?章でガブリエルは自然科学とニューロン構築主義を批判するのですが、
注意深く読めば、彼が〈フランス現代思想〉とその延長にある思弁的実在論をも批判していることがわかるはずです。
〈フランス現代思想〉は人間と意味をないがしろにした思想ですし、
思弁的実在論に至っては人間不在の世界を思考対象にしようと懸命です。
これだけガブリエルが意味を強調しているにもかかわらず、
日本の読者がそれを読み損ねて、世界の不在ばかりに注目してしまうのは、
ガブリエルが批判している思弁的実在論のような、人間を置き去りにして「世界」を語るメタ的な欲望に、
暗黙理に毒されているからではないでしょうか。
物分かりの悪い人のために証拠の文を引用しましょう。
哲学は、古代ギリシアでも、古代インドや古代中国でも、そもそも人間とは何かということを当の人間が自問することから始まりました。哲学は、わたしたちが何であるのかを認識しようとするものです。つまり哲学は、自己認識の欲求に発しているのであって、世界を記述する公式から人間を抹消したいという欲求に発しているのではありません。
このあと、ガブリエルは世界は存在しないという洞察によって、
「人間をテーマにすることができるようになります」と述べています。
彼は明らかに哲学を人間に引き戻そうと考えています。
要するに本書は〈フランス現代思想〉などの意味を排除した反人間主義への異議申し立てなのです。
僕の見るところ、日本で〈フランス現代思想〉を公然と批判している人は、僕以外にあまり見かけたことはありません。
疑問があるのに反対せずに黙っておくという処世術は、外部なき全体化(つまりはムラ社会化)を強めるだけに思えます。
外部なきオタク村の人々にかかると、〈フランス現代思想〉の批判者まで〈フランス現代思想〉の「仲間」として処理されてしまうから驚きです。
日本人が弁証法(二大政党制)となじめないのは、カーリング娘のお菓子をみんなで買いあさるような村落的全体化の欲望が手放せないからだと痛感します。
だから日本では現代思想がいつまでも外来のファッションでしかなく、真っ当な思想になれないのです。
そんなオタク的〈俗流フランス現代思想〉に、本書を出版した講談社が毒されていることは指摘しておかなくてはなりません。
本書の裏表紙ではこんな文でガブリエルを紹介しています。
「カンタン・メイヤスーらの潮流とも連携しつつ活躍する」
ガブリエルがメイヤスーや思弁的実在論の批判者に当たることは、
本書だけでなく、S・ジジェクとの共著『神話・狂気・哄笑』を見ても明らかなのに、
どうしてメイヤスーと「連携し」などと仲間扱いした表現ができるのでしょうか。
(「連携」と言うなら、ジジェクやマウリツィオ・フェラーリスでしょうに)
そういう講談社の外部なき発想が、思弁的実在論に肩入れしまくっている千葉雅也に本書の帯文を依頼したことに現れています。
ガブリエルの批判対象に当たる千葉キュンがなぜ本書の帯文にふさわしいのでしょうか。
自分と真逆の立場の本に「推薦」の帯を書く軽快なフットワークも商売人ならではというところでしょうが、
日本の現代思想市場はこういうセールスしか頭にない人々によって支えられているのです。
実を言うと僕はすでにガブリエルの『神話・狂気・哄笑』のレビューで、このような事態を危惧していました。
門外漢の読者である我々は、これらドイツ系の思想の「日本的受容」に用心する必要があります。既得権を持つフランス思想関係者はマルクス・ガブリエルを自らを脅かすことのない思想へと読み替えるにちがいないからです。
こう書いたのですが、残念ながら予想は的中したようです。
本書の意図が人間存在と意味の復権であることは明らかなのに、
多くの人がそう読んでいないのは、現代思想=〈フランス現代思想〉という現代思想市場(既得権)の発想によるミスリードに影響され、
意味を軽視することを自明視していたからではないか、と疑います。
ガブリエルは?章で宗教を、?章で芸術を扱っていますが、
ここも意味という視点で読まなければ理解がおぼつかないでしょう。
フェティシズム的でない宗教は、「無限なもののなかに意味の痕跡を探求する営み」だと述べていますし、
芸術についてもこのように述べています。
芸術作品において、わたしたちは対象だけを見るのではありません。ひとつの対象であれ、複数の対象であれ、つねに自らの意味とともに現象する対象を見るのです。およそ芸術作品は、反省的な意味の場にほかなりません。
〈俗流フランス現代思想〉のせいで芸術に意味が必要ないなどという勘違いが蔓延しています。
詩は物質だけで人間がいないからすばらしい、などと文学から人間と意味を排除したがっている人が、
本書を「推薦」すること自体、ガブリエルに対して失礼な行為だと講談社は思わないのでしょうか。
メイヤスーの代弁者が自分の本を推薦したと彼が知ったら苦笑するのは間違いありません。
僕は平気で矛盾したふるまいをする商魂カメレオン学者を野放しにしておくことには絶対に反対です。
くり返しますが本書は人間存在と意味の復権を意図したものです。
これによりガブリエルはわれわれの生活から遠くに行きすぎた哲学を、
もう一度われわれの近くに引き戻そうと考えています。
彼はメタ的な「世界」像を断念することによってそれが可能になると考えています。
人生の意味とは、生きるということにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に参与することが、わたしたちには許されています。(中略)これに続くべき次の一歩は、すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、(以下略)
「世界は存在しない」という命題は、メタ的な「すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること」を表しているのです。
(もちろん無について語っているわけではありません)
僕は「現代思想」のロマン主義的なメタ化への欲望を何度も批判してきましたが、
僕のような無名人以外にも同様の批判を行う人がいることを、偏狭な日本の現代思想オタクたちにも知っていただきたいものです。
(まあ、本書の意図も理解できない方々に期待はできませんが)
ガブリエルの主張は平易に書かれているため、凡庸な鏡には凡庸に映るかもしれませんが、
哲学本来のあり方を模索した非常に重要な提言だと思います。
思弁的実在論のような人間と関わりのない思想が仮に成り立つとして、いったいそんなものに誰が責任をとるのでしょう?
哲学がふたたび倫理と関係を取り結ぶためには、どうしても反人間主義の見直しが必要ですし、
そのために意味の重要性を再確認することは当然の道筋です。
思想や哲学を、知的ぶりたいだけのファッション野郎たちの道具にするべきではありません。
僕は地に足をつけて考えることにも大いなる価値があると信じています。
菅原 潤 著
⭐⭐⭐⭐⭐
京都学派を包括的にとらえた名著
本書カバーの経歴には、菅原の専門が日本哲学史と書いてあるのですが、
「あとがき」を読むとどうやら専門はF・シェリング研究であるようです。
専門の仕事でない本の出版に葛藤があった菅原が、
「胸を張って堂々と本書を世に問いたい」と言うほどに、充実した内容になっています。
正直に言って、久々におもしろいと感じながら思想関係の本を読んだ気がします。
ただ、本書に登場する学者の本をある程度読んだことがある僕には興味深くても、
そうでない方にはマニアックな専門書と感じられるかもしれません。
たとえば菅原は東北大の出身ですが、東北大の雄である高橋里美に対する記述はかなり厚めです。
西田幾多郎や田辺元を批判した高橋の存在を僕が知ったのは、実は数年前でしかなく、
まだ存命だった父に高橋のことを尋ねた記憶があるのですが、
父の書庫にも高橋関連の著作はひとつもありませんでした。
そんな高橋の包弁証法についての解説がされていたことは、通り一遍の京都学派の本よりも魅力的に思えました。
菅原は戦後の京都学派の流れまで追いかけているので、
戦中の京都学派の戦争協力が、戦後にどのような問題意識で受け継がれたかも理解できるのですが、
そこで菅原は人間魚雷「回天」(一種の特攻隊)の搭乗員だった上山春平に高い評価を与えています。
菅原は仏教に興味があり、上山の『仏教の思想』シリーズによって京都学派を意識したらしいのですが、
僕もこのシリーズは文庫版ですが四五冊持っています。
ただ、上山がプラグマティズムの創始者C・パースの研究者だったことや、 彼の「アブダクションの理論」についてはよく知りませんでした。
京都学派がヘーゲル弁証法と深い関係があるのはもちろんですが、
菅原は京都学派とプラグマティズムの関係にも注意を促しています。
西田とW・ジェームズの関係は「純粋経験」においてよく知られていますが、
高山岩男のJ・デューイに対する評価や、前述の上山とパースの関係など、
最近のフランスからアメリカへの哲学の流れを先取りしている、と菅原は評価します。
日本の西洋哲学研究の草創期についての概説も興味深いものでした。
東大哲学科発足時にいた井上哲次郎がキリスト教を嫌悪していたことが、
西田幾多郎の東洋への志向を後押ししたのではないかとする説や、
「種の論理」を書いた田辺が実は弁証法を嫌っていたなど、
思わず「へえ〜」とつぶやきたくなる情報も多くありました。
興味深い論点が多すぎて語りきれないのですが、
京都学派の巨人である西田や田辺だけに興味がある人にとっては、
本書は扱っている範囲が広すぎるので、焦点が拡散する印象になるかもしれません。
しかし、哲学史というアプローチからすれば、包括的かつバランス良く書かれていると思います。
紹介される思想の解説は簡潔なのにわかりやすく、菅原の見識の深さにも感心しました。
菅原は京都学派の戦争協力について、やはりナショナリズムから逃れられなかったことを問題視しています。
「わが国の知識人のなかには、方法論的に違いはあるものの、
どうにかして日本文化を中国文化から際立たせようとする傾向が根強く存在するようである」
こう述べる菅原が取り上げたのは1957年の梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」です。
そこでは日本をイギリスと同列に扱う史観が展開され、それに便乗した竹山道雄などがナショナリスティックな反応をしたのです。
「自文化礼賛」に陥っていく学者は、現在でも多く存在しています。
僕は〈俗流フランス現代思想〉がそのような役割を果たしたと書き続けています。
そのため、G・ドゥルーズ学者やM・セール学者が京都学派(というか西田幾多郎)を持ち出すことに内心愉快でない思いを抱いていました。
京都学派的な「西洋派の日本回帰」には戦争協力という反省すべき点があることを考慮せず、
ポストモダン的な非歴史性を頼りにして、観念論だからと西田を再評価する態度は軽薄でしかありません。
西田の弟子である西谷啓治はルネサンス以後の人間中心主義と民主主義を批判し、
理性を否定するところに生の根源性である「主体的無」が見出されるとしました。
この「主体的無」が社会制度という媒介を欠いた国家への「滅私奉公」へと結び付けられます。
菅原は西谷がヒトラーを賛美した文章を引用していますが、
このような理性を否定する反人間主義は、最近の思弁的実在論の方向性に近いと感じます。
(思弁的実在論の人間不在を批判するマルクス・ガブリエルは菅原と同じシェリングの研究者です)
西洋近代を批判することで、日本の後進性を押し隠そうという欲望は、
このように古くからあるものです。
菅原はこの延長にネトウヨがいることを指摘していますが、まさにその通りだと思います。
バブル以後の日本の思想界は、自覚的か無自覚的かにかかわらず、いまだにその欲望に囚われています。
僕も属するバブル以後の消費享楽世代は、日本が西洋と同様の近代を達成した存在だと疑問もなく捉えて、
日本の後発近代性をめぐる戦中・戦後思想の格闘と挫折を忘却しようとしています。
(柄谷行人まで語った菅原が、ニューアカ以後に触れないのは、そこに思想史の断絶があるからでしょう)
歴史と断絶した「現代思想」を盲目的に賛美している人こそ、本書を読んで日本の思想史を学んでほしいと思いました。
佐藤 航陽 著
⭐⭐
よくあるIT長者のIT万能論
佐藤は早稲田大学在学中に起業し、オンライン決算事業で年商100億円以上を実現した若きIT長者です。
経済のプラットフォームの変化に乗って、起業家として成功したのは立派ですが、
本書の内容にはそれほど感心するところはありません。
インターネット技術が社会の構造に大きな変化をもたらすという、今までにも何度も目にしたものでした。
本書の主眼は第2章の題名にある通り、
「テクノロジーが変えるお金のカタチ」にあります。
インターネットに代表されるネットワーク・メディアが、貨幣を物質から電子データに変えるというのです。
佐藤はビットコインなどのブロックチェーンで流通するトークン・エコノミーによって、
国定通貨のように国の中央管理を必要とすることなく、
企業や個人が手軽にトークンを発行して独自の経済ネットワークを形成できるとします。
今後、シェアリングエコノミーやトークンエコノミーも進化していくと、中央に一切の管理者が不在で自動的に回り、拡大し続ける有機的なシステムとして存在するようになることが予想されます。
佐藤はネットワーク・メディアによる「分散化」は経済の民主化をもたらす、と述べます。
佐藤は若いのでご存知ないのでしょうが、草創期というのは、いつもそういう気分になるんですよ。
ネットが一般化し始めたころ、同じような言説がたくさんありました。
ネットで自由な言論が生まれる、とか、より民主化が進む一般意志2.0だとか、数えきれません。
しかし、それらはすべて草創期の夢でした。
既得権を持つ者にただ技術革新だけで対抗できるはずがないのです。
(当然彼らの方がその技術革新を利用して自らの利益を拡大するからです)
ビットコインが国家管理を脅かしかねない広がりを見せたら、
必ず国家が規制に乗り出します。
そのとき佐藤が国家権力と貨幣の民主化を求める戦いを繰り広げるかといえば、どうせ簡単に屈するに決まってます。
国家による中央管理が自然となくなるという発想は夢物語だと感じます。
佐藤の言う「分散化」が起こるとしたら、それは中央管理をしのぐかたちで「拡大し続ける有機的なシステム」という擬似一神教ではなく、
ローカルな領域に多数形成される多神教的なシステムでなければ話が合いません。
一神教的なシステムと中央管理は絶対に切り離せません。
つまり、ビットコインのようなものが国定通貨を脅かすためには、
ある程度以上に拡大しないローカルなトークンが、複数並立して存在する必要があるのです。
佐藤の言う「分散化」とは特定の管理者が存在せず、ネットワーク内で自律的に運用されることのようですが、
問題なのは「全体性」を志向することを手放していないことです。
佐藤は「自律分散」ということを説明するところでこう言っています。
「自律分散」とはあまり聞き慣れない言葉ですが、全体を統合する中枢機能を持たず、自律的に行動する各要素の相互作用によって全体として機能する仕組みと定義されています。
このように、「全体として機能する」ことが目指されているのです。
これでは分散化されているのは権力の在処でしかありません。
僕には株主資本主義とあまり変わりがない仕組みに思えます。
しかし、思い出してください。
権力を特定の一者ではなく、多くの同志によって分散化する仕組みって何か思い当たりませんか?
そう、ソヴィエトです。
ソヴィエトは特定の一者に権力を集中せずに、労働者議会のメンバーによる共同統治を目指し、権力の分散化を目指しました。
その結果どうなったでしょうか。
村ソヴィエトが拡大し、最高ソヴィエトとして国家権力へと移行して、
官僚制をベースとしたスターリンという独裁者を生んだわけです。
権力を分散化しても、全体化を手放さない限り、中央集権として機能するのは歴史が証明しています。
(佐藤のギロチンが市民の娯楽として用意されたという記述を読んでも、彼が世界史の教養に乏しいことはよくわかりますが)
第3章で佐藤は資本主義から「価値主義」へと社会が転換するとか書いています。
こんなことを書くくらいなら、先に『資本論』を読んで勉強した方がいいと思いました。
貨幣こそが価値を創造し可視化してきたものですよ。
佐藤の主張していることは資本主義の乗り越えでは全然なく、
貨幣を不可視化して「価値」そのものを焦点化する「資本主義1.2」でしかありません。
お金にカタチがなくなるだけで、お金が必要なくなる社会になる話ではないのです。
佐藤は内面的価値がこれから重要になる、などと言うのですが、
結局その価値とは多くの人に共有されるものであることが大前提です。
たくさんのフォロワー、たくさんの「いいね」のことを価値と言っているだけです。
そんなものはその人の商品価値が高いというだけです。
佐藤は「他者からの注目」が貨幣換算が難しい価値だと書いていますが、
むしろ、そういう「社会的」な要素を価値として可視化したのが貨幣なのです。
佐藤は価値によって多くの人に影響を与えることが、お金をたくさん持っているより良い、という論法でくるのですが、
多くの人にネットで影響を与える人はたいていお金も持っているはずだと思うのですが、違うのでしょうか?
誰にも共有されない内面的価値が金になりますか?
佐藤は「価値」という言葉でその裏側をごまかし続けています。
この本はIT長者をさらに長者にするための本です。
(僕も貢献してしまいました)
読んだあなたは中身のない甘い言葉に酔って、「これから新しい時代が来るんだ」といい気分になる以外に得るものはありません。
本書でひとつだけ良いことを書いていると思ったところがあります。
内面的な価値が経済を動かすようになると、そこでの成功ルールはこれまでとは全く違うものになり得ます。金銭的なリターンを第一に考えるほど儲からなくなり、何かに熱中している人ほど結果的に利益を得られるようになります。つまり、これまでと真逆のことが起こります。
金銭のリターンを動機にしていると支持されず、そのものを追求する方が評価され、
「結果的に」利益が得られるというのは真理です。
ただ、これは「これまでと真逆」では全然なく、これまでもそういう人や会社が成功してきました。
これは新しいルールではなく、資本主義の基本ルールなのです。
ただ、不況下になると、このような基本ルールを守れない会社が増えてくるだけのことです。
まあ、佐藤の認識はともかくとして、この部分の内容に限ってはそのとおりだと思いますので、
金銭的リターンばかりを考えている企業がどんどんと淘汰される社会を僕も望んでいます。
評価:
佐藤 航陽 幻冬舎 ¥ 1,620 (2017-11-30) |
佐野波布一2003年の評論
純文学の不人気
いわゆる純文学というものが不人気になってずいぶんになる。サノバとしては、以前から「純文学」という言い方には抵抗があって、普段からあまり使わないようにしている。なにしろ、「純文学」というからには「純粋」な「文学」なわけで、ということは「純粋でない文学」というものが前提されていることになるからだ。おいおい、文学に純粋であるかないかなんてあるのかい? どこで判断すんの?
第一、日本では「文学」が理解されているのか疑問だ。文学さえあやふやなのに、それに「純」とはどういうことだ? 誰かにこの言葉の成立を研究していただきたいものだが、そのような暇つぶしは暇な学者に任せるとして、サノバは早々に結論を出すとしよう。「大衆文学(文芸)」に対する「純文学」なんでしょうな、きっと。
日本には市民革命など起きたためしはなく、支配階級のトップダウンの改革しか存在しなかった。近代文学の巨人の漱石、鷗外だって武士階級の出身だ。つまり日本には支配階級と支配される階級の間にくっきりとした溝があると思いがちである。疑似封建的感覚を強く残した人々なのね。そのためいつまでたっても市民の政治参加という近代の基本が身につかないし、支配階級も下克上を嫌うからそんな教育もしないわけだ。
さて、そんな日本だから「純文学」と「大衆文学」をくっきり分ける。メインとサブをくっきり分ける。この構造を押さえておかないと、この先のサノバの話はわかりませんよ。
バブル崩壊ののち、日本のメインストリームは急速に衰退した。このあたり、ものすごく大きな話なんだけど、一行で書いちゃった。つまりはそれまで日本の主たる文化や機能と思われていたものがどんどん不人気になっていったのである。例えば、プロ野球(巨人)や相撲の人気は急落したでしょ。政党離れも進んで、無党派候補者が流行る。「自民党を壊す」なんてメインの破壊を売りにした首相が80%の支持を得る。戦後日本のメインを支えたアメリカに対する反発が強まる。松田聖子型の正統アイドルが滅び、(松山千春曰く)風俗アイドルのモーニング娘。が人気になる。新聞よりネットが偉いような言説が流行る。北海道や沖縄、因島などの僻地のミュージシャンが台頭する。
そんな中、「純文学」も支配系のメインカルチャーだから、サブカルに押されるのが流れなわけ(まあ、すでに村上春樹や村上龍はサブカル文学なのかもしれないけど)。そこで「純文学」は滅びればいいのに、他ジャンルの三流人の人気にすがろうとしていった。ミュージシャンの辻仁成や町田康や中原昌也、演劇の柳美里、映画監督の青山真治などに次々に文学賞をばらまいたのがそれ(柳美里だけは舞台を見ていないので、二流くらいかもしれない。あとは三流でOK)。日本のODA外交みたいに節操がない。
しかし実は「純文学」の敵は他ジャンルではなく「大衆文芸」にあった。サブカルの隆盛が衰退の原因なのだから、そりゃそーなのだ。
アキハバラ系の文芸
その敵となる「大衆文芸」は直木賞なんかではもちろんない。今や文芸系サブカルはマンガ・アニメ・TVゲーム類に決まってる。いわゆるアキハバラ組(秋葉原に親しんでいる電脳系オタク)の人々の御用達だ。
それらサブカルの要素を丸出しにした推理小説(?)ジャンルが、講談社のメフィストという雑誌から現れてきている。業界では講談社ノベルス系なんて言われてるらしいが。その代表が清涼院流水や舞城王太郎や西尾維新や佐藤友哉たちである。彼らのことはアキハバラ組のカリスマ東浩紀がよくお取り上げになっているが、東はあまりに彼らに近い生を生きすぎていて、彼らへの評価はすなわち自己評価となってしまい、自己弁護のために彼らを高く評価してしまうのだ。
まあ、彼らはアキハバラ組の中でも社会派と言えるんだろう。本質は同じなんだけどね。オタクの中にも差異はある。そのくらいはサノバだって尊重するよ。
さて、やっとこさ舞城王太郎にふれられそうだ。このアキハバラ系サブカル推理小説の作家である舞城王太郎が、最近純文学の生き残りを図る編集者に担ぎ出されているのだ。つまり、辻仁成や町田康の次は舞城というわけだ。狭い純文学の世界、一部の編集者の企てで簡単に世界が動く。舞城は純文学系の作品二作目にして三島由紀夫賞を受賞してしまった。選考委員の一人、宮本輝は激怒したみたいだけど。編集者にたかる男福田和也や世渡り詐欺師島田雅彦が選考委員なのだから仕方がない。
朝日新聞の書評で、高橋源一郎が舞城の『九十九(ツクモ)十九(ジュウク)』を「決定的に新しい」と評し、三島賞では福田和也が舞城の『阿修羅ガール』をやはり「新しい」と評していた。しかしどちらもどこがどういうふうに「新しい」のかについてはまるっきり語らないのである(高橋は「あえてここには書かない」らしいのだが)。こんな明らかに下手な宣伝文句に乗せられて、サノバはちょっと舞城を読んでみた。
二次創作『九十九十九』の交換可能な時間
まずは『九十九十九』。これはまさに講談社ノベルスで出ている。一応推理小説の方の作品だ。なるほど、この小説を書評するのは厄介だ。表題のツクモジュウクはこの作品の主人公の名前なのだが、もともと九十九十九というのは清涼院流水の小説の中の登場人物らしいのだ。へぇ〜、と思って清涼院流水の小説を開いてみると、確かに九十九十九という登場人物がいる。なんでこんなことになっているのかというと、実は清涼院流水さえも『九十九十九』の登場人物になっているのだ。作中で主人公の九十九十九は自分が清涼院流水によって書かれた(生み出された)人物であることを知る、というのがネタなのである。
なるほど、高橋があえて書かないのも仕方がない。書評でネタバレは反則である。まあ、でもこれが最終的なオチではないので、サノバとしては別に書いてもいいような気もする。それにこんなネタはアキハバラ組には新しくもないんじゃないか? ギャルゲーなんかではよくある構造のような気がするんだが。
作品の説明をいちいちしていることもできないので、サノバの本質直観によって作品の核になる要素を取り出してしまおう。
『九十九十九』は七話構成であるが、一話一話が並列した妄想世界として設定されている。第一話の九十九十九と第二話の九十九十九はそれぞれ独立しうる(パラレルワールドとして成立する)。実際、物語中で第五話を生きた九十九十九が第四話にタイムスリップして殺されたりする。そしてオチとしては、タイムスリップによって存在のかぶった第二、第三の九十九十九がオリジナルの九十九十九を殺すのである。そのようなケッタイな話のため、『九十九十九』は第一話→第二話→第三話→第五話→第四話→第七話→第六話と進行する構成になっている。
通常、第一話→第二話→第三話→第四話……、というように物語は順序通り連続して進んでいく。これは時の流れが線条性として把握されている限り、何も驚くことのないものである。しかし、マンガやアニメなどでは、第三話で死んだ人物や壊れた建物が、第四話で生き返ったり、すっかり復元していたりすることによく出くわす。ある時期の少年ジャンプのマンガでは、死んだキャラクターがバンバン生き返ってきた。このようなことが起こる時、第三話と第四話が連続した時間にあると読者は把握できないだろう。物語上は連続した時間と思ってあげてはいても、なんやかんや言っても第三話は第三話、第四話は第四話として始められることを知ってしまう。極端なことを言えば、『サザエさん』など何話が何話と入れ替わろうと全く問題がないわけである。日常を描くマンガやアニメほど、このような入れ替えが起こりやすいことは注目に値する。その意味では、日常とは物語が欠落し、そのために時間の線条性が失われる場所なのである。
これをもう少し詳しく説明すると、マンガやアニメの身体とは記号表現である、という問題にぶつかる。記号化された身体は、トラックに轢かれてもぺしゃんこな平面になって、空気を入れれば元に戻る、なんて表現が成立するのである。記号化された身体は、実体としては、傷つかないし、死なないし、成長しない。『サザエさん』や『ルパン三世』は話を重ねても成長することはない。ルパンに至っては声を当てていた人間(山田康夫)を置き去りにして、今も若さを維持し続けている。つまり、記号的身体は、時間進行の停滞した「永遠の日常」を生きているのである。その意味で記号的身体が存在する世界は、全て無時間という同時刻であり、その時間(世界)は交換可能となるのである。
『九十九十九』の作品世界においても時間は交換可能である。それはタイムスリップという古典的な手法で表されている。各話は時間的に並列しているために、行き来が可能である。その意味では、タイムスリップというのはただの設定であり、実質はすぐ隣の世界への侵入(越境)と考えるべきである(各話の間にある時間的ズレは、時間的ズレを含んだ設定の違いでしかなく、実際には時間は並列されている)。オリジナルの九十九十九は時間の線条性を生きている。つまり物語を生きていると言い換えることができる。その彼が殺されてしまうこの作品は、明らかにその荒唐無稽な作品世界とは裏腹に、物語(オリジナル)を廃棄して日常(シミュラークル)に帰着することへの強い執着に支えられているかが浮き彫りになるはずである。もちろん、ここで言う日常(シミュラークル)とは「永遠の日常」のことで、後に確認することとなるが、舞城の成長嫌悪という感情が求めた居場所に過ぎない。
軽いタッチのスプラッター
『九十九十九』だけでなく『阿修羅ガール』でもそうなのだが、舞城は二流スプラッター映画のような人間解剖やバラバラ殺人を好んで描く。それも軽いタッチで(軽いタッチでしか書けないという作者の能力限界もあるのだが)。この背景には、やはり強い日常への帰属感があると思われる。作者である舞城が安全な日常にどっぷり浸かっているので、非日常的な残虐な描写を軽々とすることが可能なのである。これは想像力の欠如にもつながっている。体感をするがごとく残虐さを前にするならば、それを書き表すことの難しさに捕らわれる。しかしそのような葛藤は舞城にはない。どっぷり日常に浸かっている彼は、非日常を体感する可能性をゼロと考えるからである。これが他者(自分の理解の外にあるもの)に対する想像力の欠如と結びつくのは必然である。舞城はものごとの外観しか目にしていない。メディアを通して伝わってくるものごと(外観)以上のものは存在しないと考えるスペクタクルの住人、アキハバラ組の御曹司なのである。
さて、少々はしょってしまうが、私がMOバブルと言うのは、舞城が文芸誌編集者からポスト村上春樹を期待されていると思うからである。ある部分では、舞城は三島から村上春樹への流れを引き継いでいる。それが春樹の次の時代は舞城だ、というITならぬMOバブルを引き起こしているのである。
ここであげたスプラッター要素は、古くは三島由紀夫の『憂国』あたりを読んでいただければ見て取れるはずである。谷崎にも微妙に要素はあるが、三島は確信犯である。ただし、三島の描写は舞城のお粗末な描写とは雲泥の差がある。三島のスプラッターは切腹へのこだわりでわかるように、日本という母なる共同体へのエロチックな接近を実現する手段である。切腹とはエロスである。ここまでなら、なんとか文学的なものとして把握できる。
村上春樹にそんなスプラッターはあったっけ? と思う人もいるかもしれないが、春樹作品になじみのない私でも出くわしたことがある。『ねじまき鳥クロニクル』の中でロシア兵に皮剥の拷問を受ける日本兵の描写がそれだ。ここの描写も舞城とは比べるのがかわいそうになるほどの差がある。春樹も三島と同じく読者に痛みを感じさせようと言う意図を持って描写をしている。ただし、春樹の動機は三島とは違うものであると思われる。それはエロスではなく恐怖であろう。共同体が行うスプラッターに対する恐怖が、仲間の皮剥を目撃した兵士を井戸の中に引きこもらせるのである。
死において母なる共同体への接近を夢想した三島。死から逃亡して引きこもって新たな共同体を夢想した春樹。では舞城は?
春樹の後継者たる舞城は、すでに充分に「引きこもり」の資質を持っている。今さら恐怖を持って春樹のように逃亡する必要はない。逆に、井戸の奥で自己の安全を確保しているので、おもしろ半分でスプラッターを扱えるのである。これは完全に子供じみた行為である。子供が無邪気に虫の頭をもいでみせるのと同じように、舞城は登場人物の手足をもいでみせる。そう、彼は子供なのである。舞城は母の子宮という井戸の中にいる。
父が不在で母とベッタリの自分が神の幼児的世界
『阿修羅ガール』には「グルグル魔人」と名乗るバラバラ殺人者が出てくる。彼は三つ子の子供を殺してアシュラマン(マンガ『キン肉マン』に出てくるキャラ)を作ろうとする。これがプラモデル感覚なのは読めばすぐにわかる。この「グルグル魔人」こと大崎英雄は母親を召使いのように使っている、母親ベッタリ中学生である。『阿修羅ガール』の主人公の愛子は暴行を受けて意識不明の中で、英雄の意識に接合してしまう。しかし、愛子がどうこうと言うより、舞城本人が英雄と接合する性質を持った人間であることは作品が語ってしまっている。
『九十九十九』も『阿修羅ガール』も父は不在である(『阿修羅ガール』では愛子の夢の中で父が芸能人のグッチ裕三と置き換わっている)。そんな小説は珍しくないだろうが、父どころか大人がほとんど不在である。私の読んだ村上春樹の小説も大人と言えるような内面を持つ人物は出てこない。舞城はサリンジャーの影響を受けているとネット経由で耳にしたが、春樹と言えばサリンジャーを先頃翻訳した。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、主人公のホールデンが大人社会のインチキに窒息寸前になる話である。ホールデンは「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいと言う。それはつまり、子供が危険なところに落ち込まないように、手助けをしてあげる役割なのだが、重要なのは、子供の無邪気さを傷つけないようにすることへのこだわりである。子供が危険なところへ近づくと、大人はそれを注意する。注意された子供は挫折感を味わう。これが大人への道である。しかしホールデンは子供に挫折を味わわせることなく、危険回避をさせたいのである。たぶん、子供が危険なところへ近づいたら、もっと魅力的な物を提示したりしてそれと気づかぬうちに安全な方に引き戻すのであろう。身近な話で恐縮だが、私の弟は自分の娘が危険な物を握った時に、それを力ずくで奪って注意するのではなく、別の物をより魅力的に見せてそれを代わりに握らせていた。これなら子供は挫折感を感じない。
ホールデンのように無邪気さを守ろうとする態度は、たいてい無垢を美として考える思想として好意的に把握されがちである。しかし私は遠慮無く言わせてもらうが、それは子供の全能感を不必要に維持させる結果になるだけである。「無垢擁護」は行きすぎると、「誰でも全能=誰でも神」に行き着くのである。
この結論こそが、舞城を語るのに必要なのである。九十九十九は生みの親である清涼院流水が不在であることから、自分が神であると結論する。またグルグル魔人の大崎英雄は自分が神だと主張している。
オンリーワンは不戦勝のナンバーワン
九十九十九は「人間の知識には限界がある」とか「僕にはわからない」とか言うので、まるで自己の全能性を否定しているかのように見えるかもしれないが、そんな小手先の技に引っかかってはいけない。これこそが自己の全能感を裏付ける仕掛けなのである。推理作家はこんなトリックが大得意だが、私には通用しない。SMAPの「世界で一つだけの花」という曲が「ナンバーワンよりオンリーワン」という趣旨の歌詞で、個性賛美をするかのように受け取られてヒットしたが、この曲が二〇〇三年のナンバーワンヒット曲であることを無視してはいけない。こいつらはなんやかんやいってナンバーワンなのである。これは偶然でも皮肉でもない。オンリーワンとは、不戦勝によるナンバーワンなのである。自分の限界を設定することは、防御の上では好都合である。自分の身が危ないところにおいては、「僕の限界を超えています」と言えば、人から責められて傷つくことはない。つまり全能感を維持し続けられるのである。ナンバーワンを目指して人と競争することを避け、自分は自分とオンリーワンに自足すれば、挫折を避けて全能でいられる。オンリーワンは自分だけの世界の神として自分をナンバーワンに君臨させるトリックなのである。当然このオンリーワン世界には父も母も存在していない。
父の排除が、母との同一感を生み(母と完全に同一することは、母=自分となり母は自分の視界に入らない。つまり、存在していないように見える)、不必要な全能感と安全性を与える根拠となり、子供を自分だけの世界の神と思い込ませる。舞城の描く世界はそんな世界である。ハッキリさせておきたいのだが、舞城はこの世界を批評的に客体化して書いているのではない。単に彼がこの世界を生きているだけである。純文学に転身するために、口先ではいろいろなごまかしを行うだろうが、挫折を避け全能感に浸りたい彼はしょせん自己批判などできるわけがない(東浩紀と同じく)。過大評価は禁物である。
さて、これが「新しい」のだろうか? 高橋さん福田さんよく聞いてくださいね。これってただ日本の現状なんじゃないんですかね? SMAPの歌聴けばわかるでしょ。
『九十九十九』が物語的時間とオリジナルを殺すあたりなんて、そのまま東浩紀の言説を使用できる。東が「大きな物語が崩壊して、データベース的自己が成立する」と言うのと全く同じでしょ。なにしろ『九十九十九』の中で東浩紀の著書『動物化するポストモダン』が紹介されているんだから(もちろん東も舞城を高評価している。このあたりの内輪褒めはいやーねー)。
だいたい並列時間を扱ったわかりやすい作品では、エリクソンあたりが有名だ。福永武彦の『死の島』だってそう把握できる部分があるし。時間の線条性を崩すなんてプルーストからそうなわけだし。複数自己とオンリーワン妄想世界に関しては横光利一が扱っている。
だいたい最近だって村上春樹の『海辺のカフカ』がすでに舞城的世界を持つ作品になっているのである。ここではダメ押しとして『海辺のカフカ』と舞城作品の共通要素を見ていく。
近代的「中心」を手放さない『海辺のカフカ』
『海辺のカフカ』は二つの物語が一章ごとに交互に展開していく、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ構成の作品である。一つは世界一タフな十五歳を目指す田村カフカの話で、もう一つは猫と話すことができるナカタさんという爺さんの話である。このような作品構成は古くはフォークナーの『野生の棕櫚(しゅろ)』などに見られるわけで、春樹得意のアメリカ文学ではなじみの物だが、もともとの出所はグリフィスの映画『イントレランス』の手法ではないかと私は思っている。フォークナーはハリウッドでも仕事をしている。『イントレランス』は異なる四つの時代の物語を同時並行的に進行させる。この手法は『海辺のカフカ』にそっくりだ。しかし『イントレランス』の同時並行はモンタージュの手法として使われていたわけで、異なる時代の話が並行するのはそれぞれの話が(観客の)イメージの上で結び合わされるからにほかならない。『野生の棕櫚』の構成もやはりモンタージュが背景にあるが、『海辺のカフカ』に関しては全くそうではない。田村カフカとナカタさんの物語は、ほとんど同時刻で進められている。グリフィスの世界の同時並行性はイメージ(意味)において結びつけられるゆえに時空を超えるのだが、春樹の世界の同時並行性は、物語時間の同時性に支えられているので、空間を超えても時間は超えられない(実は田村カフカが少女時代の実の母親とイメージ上で邂逅を果たすシーンがあるのだが、ここでは時間は超えても空間は超えられない)。
時間の同時性を保持して空間を超えるというのは、近代的な感覚である。簡単に示してしまえば、新聞やニュースというものがそうであるからだ。ニュースは「今日」という同時間に、各地の空間で何が起こったかを示す。つまり空間の異なる出来事が、時間的同時性に結びつけられているのである。その時間的同時性(結びつける側)を司る権力が「中心」である。その「中心」が国家の中枢となることで近代国家が整備されていった。
並行世界を結びつける時間的同時性
『海辺のカフカ』はこのような近代的「中心」に回収される下地を手放さない。これは作品の核にもつながってくる。二つの話が時間的同時性を保持しているのは、並行した二つの作品世界が直接的に接合しなければならないからである。『イントレランス』ではイメージ上で接合された並行世界が、『海辺のカフカ』では物語上で接合されている。物語上でナカタさんは「入口の石」を探す(これが春樹お得意のRPG的探求パターンを構成する)のだが、この石がどこへの入口になるかと言えば、隣の世界の持ち主田村カフカの内面への入口だったりする。このように、『海辺のカフカ』の並行世界は作品上でその接合自体が描かれている。そして、その接合の基盤として時間的同時性(リアルタイム)が必要とされるのである。
ちなみに「入口の石」は神社のご神体であった。要するに鏡である。鏡を媒介にして自己と他者の内面をつなぐというシステムは、戦中戦後天皇制の基本構造である。他者(=天皇)を外観的にのみ把握することで、空白となった他者の内面に、自己の内面を投影(注入)することで、他者を自己と同一化してしまうコミュニケーションなきコミュニケーション・システム。外観均質化ファシズム(みんなで髪の毛を染めてしまうような外観的ブーム心理の背景にあるシステムだ)。これについて詳細な説明をすると最低でも漱石・横光・川端を読解していかないといけないのでここでは省く。信用できない方は御自分で勉強してください。
さて、話が舞城からそれてしまって、どこが共通性だ、ということになってしまっているが、舞城の『九十九十九』の並列世界は『海辺のカフカ』のように同時性を基盤にしていない。なぜなら両者の作品は結論が全く逆なのである。だからたいていの論者は両者を似たものとして捉えることはないであろう。しかし、結論に至るまでの材料は全く共通しているのである。結論なんて作者がカッコつけたくて書いたものがほとんどで、そんなものはたいてい口先だけである。実践が伴わない作家の主張など、まともに取り合ってはいけない。作品上で実践している主張のみを評価すべきである。
固有名を「中心」に置く『九十九十九』
『九十九十九』の並行世界も物語上で接合している。この点で舞城はグリフィスやフォークナーではなく明らかに春樹寄りである。「入口の石」ならぬタイムスリップ(これが隕石によって引き起こされているのは笑える偶然だ)によって九十九十九は他の九十九十九の世界に侵入(接合)するのである。春樹が時間的同時性を接合の基盤としていたのに対し、舞城は何を基盤とするのだろうか。それはもちろん九十九十九という「名前」だろう。オリジナルの九十九十九という線条性の時間が存在していることからもそれは明らかだ。ここでいうオリジナルとは「名前」が本来帰属するべき本体のことである。固有名というものは、(発する者の立場からすれば)世界においてそれを指し示すものが一つの個体と決定されることが前提となって成立している。九十九十九という名前が指すべき人物は、世界で一人である。その一人の人物こそがオリジナルなのである。その意味では、固有名は一つの個体に縛りつけられていると言ってもいい。
舞城が企てるのは固有名の解放である。固有名を縛りつける本体=オリジナルを殺害することで、固有名は帰属すべき本体のない幽霊(これを思想用語では「シニフィエなきシニフィアン」と言ったりする)となる。九十九十九はオリジナルから自由になって、複数存在することが可能になる。
思想に詳しい方ならもうおわかりだろうが、この舞城の企てのベースにはデリダ思想(私はあえてポストモダンとは言わない)がある。「幽霊」(ファントム)というのはデリダの有名な概念である(ただし、デリダの概念はさっきの解釈とは異なる)。オリジナルを殺すという発想も、ハイデガーの「死の本来性」というオリジナル思想を、デリダが「アポリア(矛盾)」によって「死を死でなくする」ことで解体したことを単純に把握することで得られるものである。そしてデリダの差延という概念は、ハイデガーが「最終的な固有な名前」というオリジナルに固執したことを批判し、それを超え出るものとして考えられている。
日本では価値を持たないポストモダン思想
東浩紀もデリダ論で注目されたわけだが、私はこのようなデリダ思想の日本応用には思想的価値はないと思っている。なぜなら日本のメイン(本体)はとっくに死んでいる。現在、日本とはサブにこそ存在するのである。デリダ思想がポストモダン思想と言われるゆえんは、そのサブ的内容が強固なメインを成立させたモダンを破壊(脱‐構築)するからである。ハナからメインもモダンもない日本では、デリダ思想はその本源である批判思想にはならない。ただの自己弁護として利用されるだけである。その証拠に、アキハバラ組のデリダ利用者はデリダを誤読している(そして彼らはデリダ思想が誤読を責めないことを知って、確信犯で行っているのだ)。ユダヤ人であるデリダの基盤にはユダヤ思想があるわけだが、ユダヤは非到達の神を設定してもそれを追い求め続ける。非到達だからといって、神が空位であり、それゆえに自分が神だなんて考えたりはしない。ユダヤの神は非到達の神としてしか神でない、というだけの話なのである。そのためユダヤでは偶像崇拝(=到達の先取り)は禁止される。しかしアキハバラ組は偶像崇拝の権化ばかりである(ネット信者は先取りが生き甲斐だ)。東浩紀の掲げる「萌え要素」だって要するに偶像崇拝の論理である。彼のデリダ論に納得する日本の思想(というより宗教)レベルは悲しいほど低い。
ユダヤ的「非到達」の自己中心的転回
『九十九十九』は創世記と黙示録をストーリー展開の基本プログラムに使っているので、ユダヤを意識しているのだろうが、東と同じく舞城もユダヤ思想を全く理解していない。やはり彼らはユダヤ思想のポーズをしていても日本思想でしかないのである。
その分かれ目は「非到達」をどう解釈するかということにある。ユダヤ的な神は「他者」として現れる。ユダヤ的「非到達」というのは、自分の思いのままにならない「他者」を示しているのである。神とは人間の思い通りにならないものであり、だから「非到達」として現れにならない現れ(抹消された痕跡)として存在する。
しかし日本人が「非到達」を解釈すると、それは存在しないものと考えられる。なぜなら世界を眼差す視点(つまり「中心」)が自分にあるからである。自分にとって「非到達」のものは自分の世界には現れることがない。日本人にとって「見えない」ものは存在しないのと同じなのである。日本人にとって神とは「中心」である自分自身なのであるが、自分自身を見ることはできないので、自分自身が映ったモノこそが神となる(人ではなくモノでなければ、自分と思うことはできない)。それで日本では古来から鏡(シャーマン=天皇)が神なのである。舞城の結論である「自分=神」が極めて日本的な思想の直接的露出であることには注意が必要である。大部分の日本人はまだ「自分=神」という結論に不愉快なものを感じるだろう。それはこの結論が彼らに当てはまらないからではない。彼らはこの結論を媒介を通じて得ていたからである。つまりこれまでの日本人にとっては、「自分=媒介(鏡・天皇)=神」というプロセスで自己を神格化していた。戦時中の日本人を思い出して欲しい。戦死するとなぜ靖国神社にまつられるのだろうか。自分と鏡に映る自分が独立して存在していたとして、鏡に映る自分を本当の自分にしたければ、自分の方を抹消するほかない。肉体としての自分を抹消することで鏡に映る自分(自己の痕跡=名前)を残すことができるのである。鏡に映る自分が神である自分であることは説明不要だろう。戦死した日本兵は、靖国神社の名前と化すことで神となったのである。
日本兵の生きた肉体つまり、自分自身の本体はオリジナルの自己である。これを殺して幽霊になることが「自分=神」の直接性を成立させる。「オリジナル自分(肉体)=鏡に映った自分=神」から「オリジナル自分=鏡に映ったコピー自分=神」となるのである。つまりは舞城が「自分=神」と言う時、その「自分」とはすでに「コピー自分」であるわけである。
さて、靖国が出たところで三島の切腹事件を思い出してくれた人がいたら、舞城が三島由紀夫賞にふさわしいと福田和也が考えそうなことも想像できるだろう。また『僕は模造人間』なんて「コピー自分」小説を書いた島田雅彦が選んでしまう理由まで説明できてしまいそうだ。彼らはみんなこの日本的図式から逃れられない幸せな人達なのである。
それは村上春樹も同じである。さきほど『海辺のカフカ』の二つの物語の接合に関して、天皇制システムがうかがえると書いたが、まさにそうなのである。春樹も舞城も、世界の「中心」は自分にあると考えていることに変わりはない。ただ、媒介が異なるだけである。
世界の「中心」が自分にある場合、世界は「自分の世界」となる。要するにオンリーワン世界(モナド)である。そこには他者は存在せず、自分しかいない。他人はどこに存在するかというと、「隣の世界」に同じように一人でいるのである。そして世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。この世界モデルはインターネットで再現される。アキハバラ組がやたらこういう世界を描くのは、単にネット世界という世界観に依存して日常を生きているからである。自分だけの個室にこもり、そこでパソコンという世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。パソコンの画面=鏡に映るのは自分の欲望であり、それこそが鏡に映った自分=神なのである。
まだそこまでは到達していないみたいだが、いずれ舞城は自分の欲望=神とか言い出すことであろう。ネタバレである。
だいたい自分の世界を妄想で作り上げたら、それは自分の欲望の投影世界でしかない。舞城には『世界は密室でできている』という著書もあるが、その密室は妄想世界である。そしてこの点が春樹との共通点なのである。
アンチ・オイディプスこそが社会的欲望である日本
ずいぶん前に書いた部分に戻るが、このようなオンリーワン妄想世界を維持するために必要なことは、父の排除と母との同一化であった(母とはしばしば共同体でありうる)。この条件が『海辺のカフカ』と『九十九十九』でともに満たされている。それどころか、この条件を満たすことが物語の主軸になっているのである。
『海辺のカフカ』が、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』を下敷きにして物語が作られていることは有名だが、その結末があまりに異なることについてはあまり言及されていない。主人公田村カフカは父を殺し母と性交する予言を受ける。これはオイディプスと同じである。父を殺したのは田村カフカ本人ではないようだが、母とは関係する。この予言の内容自体が、父の排除と母との同一化となるわけで、『海辺のカフカ』はまさにそれが実行された作品である。同じことを実行したオイディプスは、王位を追われ目をつぶして放浪者となる悲劇の結末を迎えるが、田村カフカはそうはならない。しっかりした大人に成長する未来が暗示される。
オイディプスが目をつぶすのは、自分には予言という真実が全く見えていなかったからである。オイディプス自身は父と知らずに父を殺し、母と知らずに母と関係した。つまりは無知が問題であったのである。しかし田村カフカは違う。予言を彼自身が知り、自ら家出をして父を排除し、自ら望んで母と関係する。だから目をつぶす必要もない。
春樹が何を意図して描いたのかはわからないが、結果的に予言を実行した田村カフカは立派な大人になるらしい。予言とは神託であるから、神の言葉である。日本では神=自分なので、予言とは自分の欲望の投影でしかない。つまりは予言を実行する自分とは、鏡に映った自分なのである。『海辺のカフカ』では鏡に映った自分になることが立派な大人になることだと示している。立派な大人か神かの違いはあるが、結果としては春樹も舞城も鏡に映ったコピー自分万歳である。
『九十九十九』についても書いておこう。『九十九十九』のラストでは、生みの親である神=清涼院流水が否定され、神は自分であると結論する。だから九十九十九の父は九十九十九なのだ、と述べる。父が九十九十九なら母と関係するのも九十九十九であるのは間違いない。父が自分であるというのは父が排除されているのと同じことで、母とも関係しているのだから、父の排除、母との同一化が九十九十九の妄想世界の基盤であることがわかる。
ラカンが主張する鏡像段階とは、子供が自己の鏡像として母親を見ることも含まれるのだが、この時期、母とは子供にとって鏡に映った自分なのである。つまり、鏡に映った自分こそ自己であるとするならば、そこでは母と同一化する必要があるわけである。
春樹も舞城も鏡像段階への退行が見られる。これが彼らの中にある「成長嫌悪」と結びつくわけである。前に二人をサリンジャーで結びつけたが、サリンジャーは大人を嫌悪していた。ただし、『ライ麦畑でつかまえて』は子供の目から大人の社会を批判することが主題になっているのに対し、春樹と舞城は大人を排除して自分の妄想世界に閉じこもってしまうのである。作者のサリンジャー自身は人を避けるように家に閉じこもった「引きこもり」であるが、作品『ライ麦畑でつかまえて』はそれに終わらない名作である。しかし春樹と舞城は作品ではなく、作者のサリンジャーに共感しているらしく、どちらも社会に対する批判的視座を作品に取り入れられていない(『海辺のカフカ』では行きすぎたフェミニズムを批判する部分があるが、内容は茶番である)。
それはそうなのである。春樹は心の奥底で(母系国家)共同体に依存しているし、舞城はアキハバラ組(IT系市場)共同体に依存している。森喜朗が「IT革命」とかのたまったので春樹と舞城の共同体はほとんど隣接しているのが日本の現状であるが、サリンジャーが発狂寸前になりながら単身で大人社会に挑んだことに比べて両者の貧弱さはえもいわれぬものがある。私としては彼らがサリンジャーなんておこがましいと怒りを感じる。西尾幹二がニーチェと言うのと同レベルのおこがましさである。
だいたい海外に住む日本の著名人ほどタチの悪い者はない。日本で商売しているくせに海外に住む奴は、日本を去勢しつつも日本にベッタリしている、いわば父なる日本を排除し、母なる日本と同一化した奴らである。これを日本の内部で行っているのが、ネット系引きこもりのみなさんである。彼らは日本にいながら日本の外にいる。言い換えれば、彼らはメイン日本を避けて責任のないサブ日本に居続けているのである。
コミュニケーションなきインスタントセックス
このように、春樹と舞城は自己の欲望を自己に置き換えることに肯定的である。資本主義的消費社会を生きる人間の典型と言えるわけだが、私が彼らの作品を読んで特に抵抗があるのは、コミュニケーションなきインスタントセックスである。ホントに気持ち悪いからやめてください。
彼らは自己の欲望を映す妄想世界に住んでいるので、性的欲望に溢れている。しかし、まるで性欲がないかのような顔をしている。しかしそれはポーズである。なぜなら性欲を否定しないと母との同一化が不可能となるからである。母とは性を介在しない女との関係においてしか成立しえないものである。それでも春樹&舞城は性を断念しない。自分が求めなくても女が勝手にやってくれる、という形でそれを解決するのである。『海辺のカフカ』のさくらという女は、長距離バスで乗り合わせた田村カフカと少し話しただけで携帯番号を教える。それでいて「誰にでも簡単に自分の携帯の番号を教えるわけじゃないのよ」などと言う。これは普通に考えれば明らかに誘惑のためのセリフである。そしてのちにこの女は、彼氏がいるにもかかわらず田村カフカを部屋に泊めて自分からフェラチオをしてあげるのである(ある意味男にとっては性交よりフェラの方が、女を喜ばせる責任を負わなくてすむ分快適なのだ)。男なら泣いて喜ぶシチュエーションではないか。
いろいろな評者のコメントを見たが、ほとんどがさくらだけは魅力的だった、などと言っているから日本の文壇は終わってる。恋愛のプロセスをすっとばして女と関係したって、単に自己の性欲を満たすだけである。それだったら女だったら相手は誰でもいいじゃないか。お軽ければ。『ねじまき鳥クロニクル』でも主人公は妻とろくにコミュニケーションもせずに、隣家の少女とお話ししてばかり。夫婦のリアリティなど全く感じられなかった。
『九十九十九』も女とのコミュニケーションはほとんど描かない(単なる会話しかない)のに、やたらにセックスが描かれる。貧しい。徹底的に貧しい。情愛のこもった男女の会話の場面が一カ所だけあったが、その内容もそこいらのマンガやゲームで垂れ流されているようなレベルだった。
春樹も舞城もサリンジャー的成長嫌悪に共感しておきながら、性ばかりはオヤジ化している。私の読んだ範囲では、サリンジャー作品に性の欲望丸出しの場面はなかったように思える。
作品上の登場人物が性欲を丸出しにしていなければ素人読者にはわからないかもしれない。しかし作品の構造が風俗的サポートを積極的に押し進めていることで、作者の性的願望は描かれているのである。春樹は『少年カフカ』に収録された読者からのメールの返事に「風俗嬢に巫女的なものを感じる」と書いていたが、さもありなんという感じである。巫女とは神と人間をつなぐ媒体(=シャーマン)であり、それが天皇と同じ役割を果たしていることは偶然ではない。能動的性欲を神秘で隠蔽できるのは、それが風俗嬢によって去勢されているからにほかならない。春樹や舞城は体制に反抗するような能動的性欲(攻撃性)を自ら去勢することで、風俗嬢=巫女(その背後には共同体)に進んで奉仕してもらえる世界を描いている(自ら非武装化することによってアメリカに奉仕してもらえる国のようだ!)。このような社会システムでは、女性をコミュニケーションの対象として考えるより、性欲の対象として捉えた方がより社会的な男性と見なされるのが必然である。その上で彼らは自己去勢し、マスターベーションに浸らなくてはならないのである。なんとも苦しそうな社会である。
インテリぶりたいオタクの自意識
このように春樹は自分のリビドーをトリックを用いてなんとか見えないようにしようとする作家であるが、舞城は別の所にトリックを用いている。春樹は他人に自分をきれいに見せたいようだが、舞城は自分を思想的人物に見せたいらしい。
作品を読みながらも舞城の自尊心の高さはちらほらと伝わってきたが、どうやら彼はインテリである自分こそが鏡に映った自分(=自己の欲望)であるようである。
『九十九十九』のラストの文を引用しよう。
だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない。
思想的素養がないと理解できない大衆小説としては不親切な文である。「アキレスは先を行く亀に追いつけない」というのはエレア学派のゼノンによる「アキレスと亀」のパラドックスのことで、アキレスが亀のいる地点まで進むと、亀もその分だけ進むので永遠にアキレスは亀に追いつかない、という逆説である。ベルクソンが解き明かしているように、このパラドックスは本来なら連続性であるものを分割可能とすることから起こる。そして「空間の時間化」や「時間の空間化」を引き起こす。「終わりまでの時間を微分する」と書かれているように、九十九十九は本来は連続性であるはずの時間を分割するのである。これは「時間の空間化」を背景にしているわけだが、その分割された時間を「微分する」ということは、分割された時間においても濃度は全体と等しくなる。つまり、永遠と一瞬が等しくなる。「一瞬の永遠の中で」と言うのはそのためである。これは先に書いた「時間の交換」を成立させる手法でもある。
死ぬまでの時間に生きる人生の濃度を、一瞬という最小単位に分割した時間においても再現する。そこでは一瞬が最大であるから、それ以上の成長はない。究極の全能感である。
そうなると、僕が亀に「非到達」であるのは、一瞬を最大に生きる永劫回帰的時間だからということになる。言葉の上では。
しかし問題はそんなに言うほど実践できているのか、ということである。小説というのは、実践が評価の基準である。言うだけなら誰だってできるのだ。小説だったらそんな小難しい論理を書くのではなく、一瞬が最大であるような生を描いてみろよ、ということなのである。九十九十九はぐだぐだ言ってはいるが、終わりまでの時間を微分するほどの濃厚な生をちっとも生きていない。明らかに幼稚な生しかそこにはない。こうなるとお偉い文を読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。まっとうな大人も出てこない。人との交流も形だけ。セックスもするだけ。要するに体験や実感のこもったリアリティがこれっぽっちもないのである。
ネットの住人は何を書き込んでも匿名なので、自分の実践がチェックされないことに慣れていて、無責任な言動が多い。『九十九十九』のラストの文などはそのようなネット住人と同じ精神で書かれている。
いや、このようなことを可能にするために、彼はオリジナルを殺したいのである。実体であるオリジナルを消せば、存在するのは書かれた自己つまりは鏡に映った自己だけである。そうなれば言葉の上だけのことに実践が伴っているかをチェックするのは不可能だ。
出たがりの村上龍に比べて、春樹は本人がメディアに露出することはない。しかしそれ以上に舞城は顔写真さえ出さない謎の作家である。その理由についてももう理解できることだろう。舞城は書かれたものを自己としたいために、自分の実体(オリジナル=肉体)を抹消せねばならないのである。舞城は本名を消去して舞城王太郎になりたいのである。
オウム真理教徒が本名と異なるホーリーネームを持っていたように、神戸首切り殺人の犯人である少年も酒鬼薔薇聖斗という虚構の名前を記した犯行声明をマスコミに送りつけた。彼らは本名を抹消し、虚構の名を獲得するための儀式としてテロや殺人を行ったかのように見える、と言ったら言いすぎであろうか。社会学者の大澤真幸によれば、オウム真理教のサリン事件を先取りする形で起こったテロが三島事件(三島由紀夫による平岡公威の殺害?)だという。
虚構の住人となることを欲したということにおいて、舞城王太郎が三島由紀夫賞に輝いたというのなら一応の筋は通るのかもしれない。しかし三島は遺作『豊饒の海』が示す月面の海(つまり実際は水がない海だ)のように、実際は空虚で何もないところを、豊饒に見せることにおいては天才的であった。つまらないトリックや実を伴わないロジックなどではなく、文章の力によって勝負できた作家であった。
冒頭に戻るけど、いわゆる純文学が不人気になったのは三島事件の後くらいからじゃないの? それとサブカルの隆盛が大きく関係しているような気がする。その理由を社会的に考察することもできるが、それはまた別の機会にしようと思う。今回は舞城王太郎という作家を葬ったということでサノバは満足するよ。
結局今の若い人は「鏡に映った自分」になりたいんだよね(サノバは東や舞城と同世代だけど)。それはブラウン管に映った自分ということもできる。やたら不細工なくせに歌手やモデルになりたがる奴らがいるじゃない? アートやってるとかいっても実際はただチヤホヤされたいだけの奴の多いこと。サノバの在籍していた大学にはたくさんそんな奴らがいたよ。メディア化した自己。流通する自己。そういうものになりたいんだね。
それはつまるところ金になりたいってだけのことだ。みなさんお金のような人間になりたいのである。お金はみんなにチヤホヤされるし、自由になりたいものに変身できる。風俗嬢も買い放題だよ春樹さん。ギャルゲーも買い放題だよ舞城さん。
しかしどれだけ舞城という名前を売ったとしても、本名宛で赤紙が来ることは避けられないと思うけどね。所詮金なんていずれは消えるもの。豊饒の海みたいなものだ。サノバ達の世代はバブル崩壊で充分それを体験したはずなんだけど、まだまだわかっていない人が多いみたいだ。そういう若者は金のために戦争したがる保守派の金持ちに巻き込まれて命を弄ばれる危険がある。彼らは安全圏にいるから、舞城が描いたみたいに、人がスプラッター映画みたいに死んでいってもおもしろ半分で眺めていられることだろう。
MOバブルはじける時にはご用心!
(東京四季出版)
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自社で出版した本の宣伝ばかり考えている思考停止した尻軽雑誌
東京四季出版は福田若之の『自生地』が自社の出版物であるため、
先月の座談会に続き、本誌の「人と作品」で取り上げています。
『自生地』が一定レベル以下の作品であることは、僕がこれまで批判してきた通りです。
本気で良いと思っている人が多いとは思えませんが、
出版社の応援によって世間の承認を受けられたような錯覚を蔓延させることになっています。
本気で俳句や文学を愛するなら、
文学的価値よりも売り上げを重視する出版社の功利に屈することなく、
こういう作品にきちんと批判の声を上げるべきでしょう。
俳句形式の文学的意図が理解できず、単にゲームのルールとしか理解していない福田の句?は、
知性をもって読めば俳句の自己否定でしかありません。
俳句雑誌が俳句を否定している作品を持ち上げるのは、道理に照らしてみれば矛盾です。
そういうこともわからない人間が編集をやっているのは容易に想像がつきますが、
文学的実質よりマーケティングを重視する出版社など信用できたものではありません。
3月10日にこの出版社から出る『俳誌要覧』でも、「豈」のメンバーとその周辺の人物を多く起用していて、
実作よりも口先に特化した連中ばかりをありがたがる俳句界が、どこを目指しているのか怪しまずにはいられません。
さて、本誌の話に戻りますが、
『自生地』をほめるべく原稿を依頼されたのは、青木亮人、池田澄子、加藤治郎、トオイダイスケの4人です。
僕は以前のレビューでも書きましたが、青木は肩書きは研究者ですが、
研究での目立った活躍はなく、ポップでサブカル的なポストモダン俳句のブームに乗って名を売った寄生虫的存在です。
今回の『自生地』についての文章もどうせ礼賛に終わるのはわかっていましたが、
とうに「時代遅れ」となったポストモダンを引っ張り出してきて語るのにはあきれました。
実は青木が書いていることは、すでに僕がレビューで指摘していることなのです。
すでに僕が言っていることを書いてしまうあたりも迂闊ですが、
批判材料として書かれていることを持ち出して、礼賛に用いるというセンスのなさはズバ抜けています。
その知性のレベルたるや、自ずと想像できるというものです。
具体的に言うと、青木は福田の句を受けて、
「太宰よりも、平成期の舞城王太郎が小説に描く野放図な「俺」の、
よるべなき幼児性を装った父なき孤影と似通うかもしれない」
と述べて、福田を舞城王太郎と重ねています。
僕は『自生地』のレビューで福田の散文が西尾維新や「ファウスト」という雑誌の影響下にあることを指摘しましたが、
その「ファウスト」の中心にいた作家が舞城なのです。
舞城王太郎は2003年に『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞をとって、業界内で大騒ぎした作家です。
〈俗流フランス現代思想〉の東浩紀が礼賛したため、多くの大御所が何もわかっていないのに「新しい」などと礼賛しました。
さて、僕は2014年5月にアップした御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』のレビューですでにこう書いています。
御中虫現象には既視感がある。
2003年ごろに文壇では、
サブカル的発想に富んだ舞城王太郎がやたら持ち上げられた。
高橋源一郎や加藤典洋らが「新しい」と絶賛し、芥川賞候補になった。
ところが今はどうだろう?
彼を今でも「新しい」と言っている人はいるのだろうか。
結局、年寄りがネット世代に媚びただけのことだった。
青木は僕のレビューを読んでいないのでしょうが、まあ見識が足りないですよね。
純文学で2003年に起こって消滅した現象を、俳句界は今さらになって繰り返す気なのでしょうか?
青木の書いていることは僕の批判を裏付けているだけなのですが、
そのくせ彼は批判をするのではなく福田を礼賛してしまうのです。
純文学から15年遅れの現象を持ち出している時点で、福田に新しさが全くないと言っているようなものなのに、
それでも礼賛トーンで終わるのは、先に礼賛という結論ありきだからにほかなりません。
それから舞城王太郎が「幼児性を装った」という青木の解釈も受け入れ難いところがあります。
(そもそもペンネームが「自分の城の王」なんですけど……)
たとえ幼児性を「装った」としても、それは幼児性を創作のコアに置く態度によるもので、
彼が幼児的な面を持つ作家であることの否定にはなりません。
舞城の『九十九十九』という作品では露骨に成長嫌悪が語られています。
テキストを無視した口先だけの「善意の解釈」を並べる青木の態度は、
適当に良いことを言って敵を作らずにうまく仕事をもらおう、という
凡庸な人間の世渡りテクニック以外の何物でもありません。
僕はすでに福田の幼児性が真性のものであることを、テキスト読解で示しています。
舞城王太郎に関しては、彼の幼児性について、かつて僕が2003年に書いた文章があったはずなので、発掘してブログにでも載せておこうと思います。
そろそろ俳句界の論理力の低さに依存した散文商売を問題にする必要があるのではないでしょうか。
青木は「大きな物語」の衰退も語っていますが、
フランスではJ・リオタール、日本では東浩紀によって言われたことです。
リオタールの『ポストモダンの条件』は1979年ですのでほぼ40年前の言説ですし、日本ですら15年以上前の言説になるわけです。
このような「周回遅れ」のポストモダン現象を俳句に持ち込む連中を、僕は凡庸の極致だと批判してきました。
小津夜景『フラワーズ・カンフー』のレビューから引用します。
たとえば『君の名は』ヒット以後に、新海誠やRADWIMPSをほめあげる人がいるとする。
このような「遅れてきた俗人」をアートな感性の持ち主だと評価できるだろうか?
当然あなた方はそんな評価はしないであろう。
それと同様に、バブル期に隆盛した消費資本主義を背景にした〈俗流フランス現代思想〉を、
30年たった後になってから振り回す人間が凡庸であることは言うまでもないことである。
ただ時間が経っているから、ということではない。
〈俗流フランス現代思想〉は消費資本主義やインターネットテクノロジーによって、
思想的意味なくして人々がすでに享受している「日常」だからである。
主体の抹消とか「私ではない愉悦」とか何かたいそうなものに言っているのが恥ずかしくならないのが不思議だが、
そんなものはネットによって地上から切り離された「メタ的」主体のことでしかない。
だから〈俗流フランス現代思想〉はメタという言葉を使わずにごまかしている。
とっくに「日常」化したものがアートであるはずがない。
そんなこともわからない連中が俳句界隈やふらんす堂界隈には多数生息している。
上記の〈俗流フランス現代思想〉というのが、日本のポストモダン現象のことです。
ネットによってとっくに日常化したポストモダンを、アートや文学だと詐称する人たちにはウンザリします。
商業的寄生虫に批判などできないのは当然ですが、もし礼賛がしたいなら、
とっくに時代遅れとなって、他のジャンルでは通用しないポストモダンの「模倣」ではなく、
『自生地』の別の良い要素を発見してもらわないことには話になりません。
それなのに俳句界はただの「時代遅れ」の現象を「若手」というくくりでさも新しいことのように取り上げています。
外部の僕からみれば、こんなものは無知な年寄りを騙すための詐欺みたいなものです。
角川「俳句」2015年5月号のレビューに書いた僕の文章を引用しましょう。
関悦史やそのエピゴーネンたちは、俳句批評をしているつもりで、
やたら〈フランス現代思想〉などの西洋思想を援用したがるのですが、
〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダンの特徴は、
消費資本主義と歩調を合わせた、その反人間主義や非歴史性にあります。
彼らは一方で俳句という伝統詩型の歴史性に依存しながら、
他方で非歴史性を強調する概念論に依存するという二枚舌で批評もどきを展開しています。
これは教養の不足というより、
親父の世話にはなるが親父の影響は受けたくないという、
子供じみたご都合主義と言うべきでしょう。
関一派がポストモダンやサブカル(BL!)を援用したがるのは、
自らの歴史性の欠如をごまかし続けるための戦略だと僕は思っています。
もし、非歴史的でありたいのならば、伝統詩型をやるのは端的に「ずるい」ことです。
そのため、関は伝統とも前衛ともどっちつかずの態度をとり続ける日和見な態度になるのです。
非歴史性に特徴があるポストモダンに幼児性がつきまとうのは必然です。
「子供じみた御都合主義」を謳歌している人が幼児性丸出しの作品を作るのは当然の帰結なのです。
無知な青木がポストモダンの本質も考えず、舞城が「幼児性を装った」などと穏当なデタラメを語れてしまうのは、
彼が単に流行に迎合する寄生虫でしかなく、自身の批評的な視座を全く持ち合わせていないからにほかなりません。
もし寄生虫でないのなら、ここのコメント欄に反論を書いて僕と論理を戦わせてみてほしいものです。
(仲間をバックにつけるツイッターではなく、僕と同じ立場で「単独で」挑んできてください)
僕が単独者としてレビューを書いているにもかかわらず、
フォロワーと連結するツイッターで感情的な文句を返してくる著者が後をたちません。
ツイッターは潜在的に他者と連結したメディアですので、真の意味で単独者にはなれません。
文学の言葉は単独者のものであることが前提ですので、
ツイッターやSNSに依存している人間は、それだけで反文学的存在と言って構わないと思います。
伝達事項を伝える手段としてのツイッターは問題ありませんが、
感情的なつぶやきを安易に表現したり、他人の意見を自分の意見のようにリツイートする人間が、
たいした作品を作れるわけがないのは火を見るより明らかです。
このことも作者の資質を問う指標にしてみたらいいと思います。
(もちろんツイッターをやらなければいい作品を書けるというわけでもありませんが)
他の人にも触れておきます。
池田澄子は「パスワード」という言葉にやたらこだわっていますが、
こうやって何か言っていれば作品批評のようになるから俳句は楽ですね。
池田が取り上げた福田の句?はこれです。
春はすぐそこだけどパスワードが違う
パスワードが必要になるのは金銭の発生に関わる場面がほとんどです。
春にパスワードが必要だという発想は、自分が資本主義的主体であることに疑問も批評性も持てないことから生まれてくるものです。
すべてを金銭で考える発想が、福田には骨の髄まで染み込んでいます。
もちろん池田にそんなことを読み取る力はありません。
これは「あえて」なんだ、とか「装った」だけなんだ、とかいう青木レベルの反論はくだらないのでやめてくださいよ。
そもそも俳句にそういうアイロニーは適していませんし、表現しきれるものではありません。
そういうアイロニーを表現したいのなら、疑いなく俳句以外の形式をとるはずなのです。
「あえて」俳句を選んでいることが、福田の書いていることが「あえて」でも「装った」ものでもなく本気であることを示しています。
また、「あえて」とか「装った」とか言うのなら、どうして福田の散文パートに関してもそう言わないのでしょうか?
散文パートは「切実」とか「青年の思いが詰まってい」るとか評価しておきながら、
都合が悪いところだけ「あえて」とか言うのは、ダブルスタンダードですし、その人の見識を疑います。
加藤治郎は俳句がよくわかっていない短歌の人なので、
短歌的文脈で『自生地』を評価しています。
僕は福田の句?が俳句より短歌に近いと書きましたが、加藤が書いた次の文が決定的に僕の見方を裏付けています。
『自生地』には、七七五、五五七の形式もある。俳句形式の周辺に五音と七音の断片があるのだ。
加藤のこの読みが正しければ、福田の句?は俳句より短歌に近いことの証明となります。
俳句は短歌の五七五七七から五七五で切れた形式です。
俳句であるためには、当然五七五の周辺に五音も七音も気配があってはいけません。
加藤は短歌の人間なのでこれを評価しても構いませんが、
俳人はむしろこのことを批判的に捉えないといけないと思います。
(本誌の「忙中閑談」で降旗牛朗という方が俳句と短歌のちがいについて良いことを書いていますが、
当のこの雑誌がそのような区別ができていません)
概して若手とされる俳人は「切れ」の意識に欠けた人が多く、簡単に句が散文化してしまう傾向があります。
七七五や五七七の形式が、旋頭歌などの奈良時代の和歌形式を想起することも付け加えておきます。
トオイダイスケという方はよく存じ上げないのですが、
キオスクが夏の記憶でいまもある
という句?を取り上げて、「いまもある」のは「率直に読めば」夏にキオスクを目にした時の「記憶」だと述べています。
格助詞を適切に理解できれば、「キオスクが」が述語「いまもある」の主語に当たるのは明確なので、
当然「いまもある」のはキオスクでしかないはずなのですが、
この方は「が」と「で」の用法が今ひとつ理解できていないようです。
(カタカナ名前の方なので、海外の方なのかもしれません)
現実のキオスクと記憶のキオスクが「二重映しになっている」とも読める、と言うのですが、
いや、そうとしか読めないと思います。
トオイダイスケの感想は個人のものなので特に言うこともないのですが、
この句?の問題は「夏の記憶」がどういうものなのか、その内容が読者に完全に秘匿されていて、これっぽっちも示されていないということです。
そのため、読者が勝手に自分の体験を重ねて、そういう瞬間あるよね、という「あるある」を味わうだけに終わっています。
僕はこういうものは創作表現ではなく、ただの「あるあるネタ」だとしか思いません。
もし短詩であるなら、これが「夏の記憶」でなければならない「思い」を感じさせてほしいのです。
擁護の心情を抜きにすれば、これが「春の記憶」であっても「冬の記憶」であっても構わないのは明らかです。
キオスクなど日常に位置するものですから、夏休みと結びつけるだけの理由もありません。
本気で提案したいのですが、
「青春」といえば未熟でもほめて良いというような甘やかしの風潮はやめにしませんか。
こういう感覚が俳句甲子園とかいう奇妙な競技的文化を生み出し、そこの出身者をいつまでも甘えた勘違いに縛りつけているのです。
俳句甲子園が俳句甲子園という文化として存在するのは構いませんが、
高校野球とプロ野球が別物であるように、俳句甲子園文化と俳句文化には線引きが必要だと思っています。
俳句界はこういうことをすべて曖昧にしたまま、「若手」に言うべき言葉を持たず、
彼らの低レベルな発想を追認することになっています。
最近の俳人は作品より人間関係を優先させているように感じます。
出版社は話題とコネで原稿依頼をするだけで、内容を検証する力を持っていません。
ディナーショーのようなイベントが俳句にはたして必要なものなのでしょうか。
商業主義と戦えない文学は形骸化していくだけに終わることでしょう。
熊野 純彦 著
⭐⭐⭐
すでに自分で『資本論』を読んだ人向けの本
熊野純彦の本は一般書の体裁であっても、学術論文のスタイルからそれほど離れていません。
テキストに対して忠実な姿勢で読んでいくのが基本です。
わりと面白みの少ない学者らしい説明が続きます。
それでいて概説書というわけでもないのが難しいところです。
熊野の興味自体は案外共有しにくいところにあったりするので、よく読まないと彼の意図についていけなくなります。
(たとえば本書なら「フクシマ以後」という熊野の問題意識を共有できるか、という点ですね)
なので、自身が読んでいないテキストを熊野の本で理解しようとすると、
たいていはその試みが打ち破られることになってしまうと思います。
本書も一度は『資本論』を読んだことがある人でないとあまり楽しめないのではないかと思います。
熊野は『資本論』の内容を忠実になぞった書き方をしているので、
入門書としても通用してもいいような気がするのですが、案外そうならないのは、
熊野がテキストに忠実すぎて、その外になかなか出てこないからだと思います。
たとえば価値形態論の話をするときに、僕なら「メルカリ」などを例に出して説明するでしょう。
商品が商品に「なる(生成する)」のは、それ自身の価値のためではなく他の商品との関係においてである、という話をしたいなら、
自分にとって不必要な(つまり使用価値がない)ものであっても、「メルカリ」では商品と「なる」ことで説明すればわかりやすいと思うのです。
当然、このようなあり方は価値と価値の等価交換ではありませんし、
価値とはその商品自体ではなく、外部のものによって現れることがわかります。
こういうのはテキストに固着しすぎないで、ある程度「現実」を導入した方が、
わかりやすく、その論の有効性も確認しやすくなるように思います。
しかし、熊野は徹底的にテキスト固着型の人なんですよね。
もちろんテキストにこだわることは大切です。
だから僕自身は熊野の書くものは結構好きです。
ただ、多くの読者が面白いと思うかといえば、そうではないだろうと想像できてしまいます。
さらに問題なのは、そのようなスタイルで『資本論』の読解を進めてきたのに、
最後になって急に「フクシマ以後」という「現実」を持ち出してくることです。
唐突な進路変更に読者が戸惑うのも仕方がないように思います。
第?章で銀行信用と恐慌について解説したあと、
手形によって商品の代価を得るより先に資金を入手する信用操作が莫大な架空資本を製造するという話から、
デリバティブによるバブルとグローバリズムの話へと接続するあたりや、
株式投資ではいつか暴落が起こる、という話から、
「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例として原子力発電所の問題へと接続するあたりは唐突と感じます。
「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例ならば、アベノミクスと呼ばれる異次元の量的緩和のことを挙げた方が妥当なのではないでしょうか。
物質代謝の話ならば原発を持ち出すのは構わないのですが、
原発は(この期に及んでも)、いつか落ちる雷だとは思われていないのではないでしょうか。
このあたりも、熊野がテキストと「現実」を結びつけるのがあまり得意でないと感じます。
最後に熊野は交換そのものに否定的な見解を示します。
熊野はK・マルクス最晩年の文献『ゴータ綱領批判』を引用し、
コミューン主義の第二段階を「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」の文で示します。
この段階に至っては、分配の原則が「各人の必要」となるため、
平等な分配でもなければ、交換でもなく、原理として前提されるものは「贈与」だとし、
「他者との関係と他者の存在そのものを無条件的に肯定する贈与です」としめくくります。
こうして熊野は贈与の原理を考える必要を述べて本書を終わるのですが、
ここで僕は熊野がE・レヴィナスの思想を所有の観点から読んでいたことを思い出しました。
まさに「資本論の哲学」にふさわしい抽象概念で本書は閉じられます。
ここで直接に本書とは関係ありませんが、僕自身が本書の価値形態論を読み直して考えたことを少し書きます。
(興味のない方はこの先は読まないでください)
商品は使用された時にはもう商品でない、と熊野は述べています。
確かに返品できるのは使用以前の段階で、十分に使用している時の道具は商品ではありません。
そして、その商品を買った人がどう使うかは自由です。
ハンマーをつっかえ棒として使ってもいいですし、スマホを文鎮として使っても構わないわけです。
つまり、使用価値はモノ自体にあるものではなく、購入者の「意味づけ」だということです。
そうなると、意味というのは商品購入以後の使用価値において存在するのであって、
貨幣による価値づけ(交換価値)において意味は必要がないわけです。
交換価値は抽象的な人間にとっての価値であり、あなたにとっての価値ではないのですから。
さて、僕が話したいのは文学や思想のことです。
意味というものは各人にとっての使用価値なので、ローカルな領域にしか存在できません。
しかし、貨幣的価値は抽象化されているため、グローバルな流通が可能です。
何が言いたいかわかりますか?
グローバル化が各人にとっての意味、つまり文学や思想を殺すということです。
〈俗流フランス現代思想〉が反人間中心主義を標榜し、意味を排除していったのは、
アングロサクソン主義、つまるところグローバリズムに依拠した「ヘゲモニーと同衾する思想」であったのです。
結果、彼らはローカルな「意味」の代わりにグローバルな数式や理系的価値づけに擦り寄るわけですが、
こういう連中が文学者ヅラや思想家ヅラをすることを許してはいけません。
彼らは文学や思想の敵でありスパイであり裏切り者であるからです。
(もちろんそれが現代的で新しい文学や思想でないことも今やハッキリしています)
意味がない文学作品が現代的だと考えているお目出度い人が日本には大勢います。
彼らは堂々と文学を裏切っているくせに、自分では文学をやっている気分になっている失笑を禁じえない人物です。
そして、資本の飼い犬に成り下がった出版社が彼らを後押ししています。
そんな〈俗流フランス現代思想〉に感化された「ヘゲモニーと同衾した太鼓持ち」に文学を語らせてはいけません。
文学や思想は資本による非人間的な抽象化に抵抗し、ローカルな局面に立って各人にとっての意味の回復に努めるべきなのです。
グローバル資本のプードルちゃんを一刻も早く文学から追放するべきですし、そのために僕は彼らを糾弾し続けます。
(東京四季出版)
⭐
自社で出版したら疑問ある作品でも「名句集候補」扱いする尻軽雑誌
今号の座談会「最近の名句集を探る54」で福田若之の『自生地』が取り上げられています。
僕はすでに『自生地』をレビューして、この本をほめる俳人が問題だと書いているので、
この座談会で軽薄に『自生地』をほめた俳人にものを申したいと思ってレビューを書きます。
まず、福田の書いたものを俳句として簡単に処理する人が、僕には理解できません。
あとで説明しますが、散文性が強く、贔屓目に評価しても短歌的(それもニューウェーブ)でしかありません。
したがって、このことに疑問を持たない俳人は、俳句と散文、または俳句と短歌の違いがわかっていないということなので、
俳句をやっても上達する見込みはないと思います。
また、『自生地』を出版するのはいいにしても、「名句集」扱いをして次号に特集まで組む「俳句四季」という雑誌は、
ただ商売のために俳句本を出しているだけで、俳句文化に対する尊敬もなければ勉強もしていない尻軽雑誌であるようです。
俳句界は批判が成立しない自己愛原理の文化なので、土壌がどんどん腐っています。
その座談会のメンバーですが、筑紫磐井が司会で、あとは齋藤愼爾、相子智恵、前北かおるの4人です。
実際にほめているのは相子智恵くらいで、筑紫は温情的、齋藤は批判的、前北は関心が薄いというスタンスに見えました。
その後の小野あらたの句集に関しては、みんなでうまい、うまい、と連発しているだけに、
『自生地』がどうにも名句集を探る企画にふさわしいとは思えないのですが、そのあたりは魂のない出版社が自己宣伝したくてやっているのでしょう。
それでも筑紫磐井と相子智恵の発言には看過できないものがありました。
まず僕が問題だと感じるのは筑紫磐井のいいかげんなスタンスです。
筑紫は句数の多い俳人を自分は批判しているとして、関悦史や北大路翼を福田とともに挙げてこう言っています。
関悦史さんの句集は全部テーマを変えて十数編の短編小説のような格好で並べているし、北大路さんの句集は風俗物の長編小説のようになっています。福田さんの場合は非常に演出に凝っているような気がしました。
「小説のよう」であったり「演出に凝って」いたりと、つまるところ彼らがいかに散文性に寄りかかっているかを言っているわけです。
筑紫は「句数の多い句集というのは、ある意味自選能力を否定しているようなものだと常日頃批判し」ているとしつつ、
引用文のように擁護を始めるわけですが、
このような批判に対処するためには、ただ句数を減らせばいいだけということになります。
しかし、ただ句数を減らすだけなら誰だってできるのではないでしょうか。
その意味で筑紫の批判にはほとんど中身がありません。
彼らの問題は「自選能力の否定」にあるわけではありません。
一句で勝負できないために、散文性に寄りかかり、小説のような構成や演出をする必要が出てしまうのです。
つまり、問題は散文性への依存にあるのであって、そこを「自選能力」などというものにすり替えて語ることは、
筑紫が問題を認識できていないか、ごまかしをしているかのどちらかだと思っています。
そもそも筑紫は散文脳の関悦史の庇護者のような役割を果たしてきたわけですから、
選句をしないことだけを批判する態度は、アリバイ批判というか官僚的二枚舌だと感じます。
あと、筑紫が福田の句?のいくつかを挙げて「残りうる句だと思います」とか言っていますが、
僕は話題性が尽きたらどこにも残っていないと思います。
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
図書館までの七月の急な雨
おもしろくなりそうな街いわしぐも
あんみつにこころのゆるむままの午後
などがそれですが、こんな作が三橋敏雄と並んで残るわけないでしょう。
本気で言っているとしたら筑紫の俳句眼を疑います。
ハッキリ言いますが、福田の作はただの「あるあるネタ」です。
そこには詩的感動などまったくなく、安っぽい共感があるだけです。
俳句や詩が追い求めるものが安っぽい共感であるとでも筑紫は思っているのでしょうか。
まあ、それならさっさと俳句をやめたほうがいいでしょう。
「しあわせがどうしても要る」そうだよね〜
「七月の急な雨」まいっちゃうよね〜
「おもしろくなりそう」いいね!
「あんみつにこころのゆるむ」画像upお願い!
こんな感じのSNS的な内的感情の駄々漏らしですよ。
俳句とツイッターの区別ができない若者が俳句界隈には多く存在しすぎているのではないでしょうか。
僕は福田が「かまきり」とか「小岱シオン」とかいう言葉を、彼の著作の中だけで成立する隠喩的な語として用いていることについて、
問題を感じていない俳人の意識の軽さに驚いているのですが、
一句ではなく一冊を作品単位と考えている福田が、自作の中で「かまきり」を特別な隠喩として用いている場合、
それは季語たり得るかといえば、そうではないというのが僕の立場です。
コノテーションと予防線を張れば許されるというレベルの行為ではないと思っています。
福田が「かまきり」という語を自分の作品内での個人的な意味に用いている場合、
そこに季感が存在しないのはもちろん、外部の対象への関心自体が失われていること、
ひいては他の俳人との共同性に背を向けていることを読み取らなくてはいけません。
福田は自分の内面にしか興味のない甘えた人間であり、季語というものを作品を俳句に見せるための形式的な道具としか理解できていません。
僕は俳人ともあろう者が、季語に別の役割を担わせる依存行為(千葉雅也的に言えばハッキング)を、
どうして平然と受け入れられるのかわかりません。
まあ、批判という回路を捨ててしまった「自己慰撫の集団」だからでしょうね。
(もちろん、福田を批判している齋藤は違いますよ)
それでも筑紫のような季語について本を書いている人が問題を感じないのは致命的です。
こういうことが気にならない人の書いた本など読むだけムダです。
僕は一冊だけ筑紫の本を持っているのですが、早々に紙ゴミにしたいと思っています。
また、筑紫は「我々は「俳句」という枠組みで作ってしまっているけれど、
福田さんはあえてそれを壊そうというところからスタートしている」とも述べていますが、
福田を革命家扱いするトンチンカンの大まちがい発言です。
何度も言いますが、福田は俳句以外のものをやる力がないために、
一生懸命自分の句 ?を俳句として受け取ってもらおうと努力しています。
だから東京四季出版から句集を出すのですし、自分の本のことを「句集」「句集」と書いてアリバイを作っているのです。
(そして「名句集候補」扱いですよ)
「あえて」と言うなら普通に俳句らしい俳句が作れるということですよね。
筑紫は福田のそういう句を見たことがあるのでしょうか?
(「七月の急な雨」とか言っちゃって、「夕立」「驟雨」という季語も使いこなせない人ですよ)
どこに「あえて」という根拠があるのか、「とりあえずアゲとこう」という官僚的二枚舌もいいかげんにしてほしいものです。
それから福田を恥ずかしいくらい擁護している相子智恵ですが、
福田のスタイルも批判できない程度の気持ちでやっているなら、
この人の俳句が上達しないのも仕方がないと思いました。
相子は福田に「俳句を愛しているゆえの切実さ」があるとか言っちゃってますが、
僕の『自生地』レビューを読めばわかる通り、福田は俳句など愛していません。
自分が愛されたいだけです。
自分を俳人として認めてもらい、愛してもらう切実さ、のために俳句が大切になっているだけです。
相子が能動と受動の違いも区別できないのは、それこそ作品に対する切実さが欠けているからだと言わざるをえません。
自分の勝手な思い入れで判断するのではなく、作品自体の解釈から作家の態度を評価するべきです。
俳人は相手に会った印象で勝手に作品を判断することが多すぎます。
藤原定家も作者による作品判断を嘆いているので、そのような態度は昔からよくあることなのでしょうが、
文学的には不誠実でまちがった態度です。
それとも相子は、自分以下の存在を擁護すれば、伸び悩んでいる自分自身を慰撫することになるとでも思ったのでしょうか。
どちらにしても不誠実な人物だとしか僕には思えませんでした。
たとえば相子は「九月は一気に青空だから(うつむく)」という句を取り上げて、
こういう風に()を入れたり、言葉や構造に触れないといられないという、切実さが感じられます。
などと言っているのですが、カッコを使うだけでずいぶんと大げさな評価です。
相子はわかっていないのかもしれませんが、俳句には「切れ」というものがあります。
「切れ」によって句の中に時間の断絶や主体の転換を表現することができる「構造」を俳句は持っているわけですが、
そんなに構造に触れる「切実さ」があるのなら、どうして福田は「切れ」を学ばないのでしょう?
「切れ」を学習せずに安直に()を用いる態度は、むしろ俳句形式への不信の現れだと考えるべきです。
このような表現を用いることが、彼の作品を俳句より短歌に近づけるのは必然です。
そういうことがわからない相子は、勉強不足というか俳句を無自覚にやっているだけの俳人だとわかります。
さて、座談会の不誠実な俳人についての罪状はこれくらいにして、
福田の句?が俳句より短歌に近いということを書いて終わりにしたいと思います。
そもそも自らの内面をそのまま吐露するスタイルが短歌の方に近いのは言うまでもないことです。
それ以上に、『自生地』の散文パートを長い長い前書きと捉えた時に、それが短歌から散文への流れにあることがハッキリします。
最近ちくま学芸文庫として復刊された大岡信の『紀貫之』には興味深い説が書いてあります。
大岡は紀貫之が『伊勢物語』の作者かもしれないと語った上で、
貫之の歌の多くが屏風歌であることを指摘します。
そこで貫之という歌人が、「虚構を日常茶飯とするジャンルの名匠であった」とします。
そのような虚構性の強い貫之の歌に添えられた前書きが重要な外部文脈であることを大岡が指摘しています。
けれども、一首妙に切実な実感がこもってきこえるのは、「宮仕へする女の逢ひがたかりけるに」という詞書によって、二人の置かれた具体的な状況が想像できるからであろう。この詞書がない場合、歌はかなり不安定なものになることは否定できない。
そう言って、貫之の歌には一人称より三人称の世界に置いた方がおもしろい歌が多いとします。
その結果どういうことになるかといえば、歌というものを物語化しうるものとして、また物語の観点から、眺めるという習性が必ずや生じたはずなのだ。(中略)歌というものを、それが実際にうたわれた具体的状況から引き離し、別の想像的世界の構成要素として生かすとき、そこにはやがて伊勢物語的な歌物語の世界が生れるだろう。
つまり、前書き(詞書)に依存した「別の想像的世界の構成要素」となった歌が物語へと変化したというのが大岡の見方なのです。
なかなかの慧眼だと思いませんか?
「別の想像的世界の構成要素」と化した作品は、すでに散文の一部となっているということです。
そして、それは歌から物語の変化をたどっているのであって、俳句のあるべき位置ではありません。
(いや、むしろ俳句はこの変化に逆行するものであったはずです)
そうなると、福田の作品は俳句の自己否定であるということです。
俳人が『自生地』をほめることを僕が激しく糾弾するのは、
もちろん私怨(笑)などではなく、俳人が俳句を否定することが見ていられない(つまり俳句への愛)からなのです。
まとめますが、福田は俳句をあえて破壊しているわけではありません。
俳句でないものを俳句だと偽ろうとしているだけなのです。
それは俳句よりニューウェーブの短歌に近いものですし、
だからこそ次号で加藤治郎が『自生地』の作品鑑賞を書くことになるのです。
福田の句?にはまだまだ言いたいことがありますが、この魂のない雑誌では次号も『自生地』の特集をするようなので、
その時にまた書こうと思います。
小川 仁志 著
⭐
目配りだけで中身のカラッポなドイヒーな商売本
僕は小川仁志の本を初めて読んだので、他の本のことはわかりませんが、
本書だけを見る限り、何度か読み切るのを断念しそうになるほど、どうしようもない内容だと思いました。
小川の問題意識と結論に関しては、むしろ僕も賛成という立場です。
G・ハーマンに影響を受けたような(軽薄!)図式にあるように、
小川は感情、モノ、テクノロジー、共同性という四つの知を連結した「多項知」を掲げ、
「私」と社会をつなぐこれからの公共哲学の必要性を訴えます。
いや、別にこれは全く悪くない発想だと思うのです。
小川はポスト・トゥルース現象や哲学の思弁的転回を受けて、
現代は「脱理性時代」の段階にあり、テクノロジーの発達がそれを後押ししているとします。
それに対して、「理性そのものをアップグレードすること」が新たな公共哲学に求められると小川は述べるのですが、
このあたりに関しても別にいいことを言っていると思います。
グランドデザインはこのように悪くはない気がするのですが、
細部の内容に入ると、ボロが出まくりで読む気が失われていきました。
当然、その新しい公共哲学の実現性はほとんどないのは明らかで、
ただ耳に心地よい夢物語を語っているだけの、思想を用いた商売本であることがわかりました。
僕はもう二度と小川の本を読む気はありませんし、哲学者という肩書きも信用しません。
まず、細部のずさんな論の進め方について書いておきます。
小川は最初にポピュリズムを扱っています。
そこで小川は「反知性主義」という言葉が広まった理由をトランプの台頭と結びつけて語ります。
アメリカ大統領選にドナルド・トランプが名乗りを上げ、大方の予想を裏切る快進撃を続けるにつれ、反知性主義という言葉が人口に膾炙するようになった。
「なぜトランプの快進撃によって反知性主義という言葉をよく耳にするようになったのか」
とも小川は書いているのですが、
僕はこの言葉を垂れ流した本の多くにレビューを書いたのでよく覚えているのですが、
日本で「反知性主義」という言葉が流通したのはトランプ現象のためではなく、
知識人が安倍内閣批判をするために用いたのが発端です。
内田樹と白井聡が中心となって『日本の反知性主義』を出版したのは、2015年3月のことです。
現代思想の反知性主義特集が2015年1月で文芸誌の「文学界」の反知性主義特集は2015年の6月です。
小川も引用している森本あんりの『反知性主義』も2015年2月です。
反知性主義という言葉が人口に膾炙したのが2015年の前半にあたるのは明らかです。
それに対し、トランプが共和党の指名候補に選出されたのが2016年7月ですから、
トランプが大統領になるかもしれない、という流れのだいぶ前になるわけです。
だいたい内田たちの『日本の反知性主義』という本は「日本の」と書いているわけですから、
トランプ現象とは何の関わりもありません。
森本あんりの『反知性主義』の帯には今でこそトランプの写真があったりしますが、
出版当初の帯にはありませんし、本の中で森本がトランプに触れた部分もないはずです。
このような状況を記憶している人間からすると、
反知性主義がトランプの快進撃によって人口に膾炙したなどという記述こそが、
ポスト・トゥルース以外の何物でもないと感じます。
自らポスト真実を生きている人間が、どうやってポスト真実を乗り越える公共哲学を生み出せるというのでしょうか?
安倍晋三によって人口に膾炙した「反知性主義」という言葉を、
トランプのためという嘘にすり替えるのはどうしてなのでしょうか?
小川は山口大学の准教授です。
山口県といえば安倍晋三のお膝元ですので、まさかとは思いますが、そこに忖度があったのではないか、と考えてしまいます。
小川のずさんな論はこれだけにとどまりません。
思弁的実在論についての説明にも胡散臭さが爆発しています。
だいたい、この男は思弁的実在論の説明になるとひたすら千葉雅也の引用ばかりで構成していくのですが、
自著を批判した人を感情的に侮辱する千葉のような「感情を飼いならす方法」も知らない人の言うことを丸呑みにしている人間が、
公共哲学を主張するなんてブラックジョークとしか思えません。
その上、小川は自分が引用した千葉の書いた論考すらきちんと読んでいません。
いくつか挙げておきましょう。
まず小川は「思弁的実在論を中心とする思弁的転回の流れは、この10年ほどの間に思想界に大きなインパクトを及ぼしつつある」と述べます。
小川の認識では思弁的転回は現在進行形という書き方になっています。
しかし、千葉の論考ではそのように書かれていません。
二〇一〇年頃に頂点を迎えたSR(注:思弁的実在論のこと)のブームは、その後だいぶ沈静化したとはいえ、現在もさまざまな方面に影響を及ぼし続けている。
思想界ではもうピークを過ぎた、というのが千葉の認識です。
もし小川が現在進行形の現象として書きたいのなら、「日本の思想界に」と書かなくてはいけないと思います。
まあ、温情深い読者の皆様は、この程度は目くじらをたてるほどではないと思うかもしれません。
マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の説明も首をひねりたいところがあります。
小川がガブリエルの「新しい実在論」を説明するために引用したヴェズーヴィオ山の箇所は、
本文294ページ中の15ページ目の部分で、それこそ登山なら登り始めもいいところです。
そのため、ガブリエルの実在論に欠かせない「対象領域」の話も出てきません。
この人は本当に最後までこの本を読んだのか、と疑問を感じずにはいられませんでした。
小川は思弁的実在論を「人間をまったく無化してしまうような、異質な公共哲学である」と述べています。
「いわば非−人間中心主義の公共哲学」などとも書くのですが、
小川は「私」と社会をつなぐのが公共哲学だと言っていたはずです。
(だいたい思弁的実在論が公共哲学なわけがないだろうに)
本書200ページでも「私が主役に躍り出る日」と見出しをつけて、
「各々の非理性的な部分を克服していく必要がある。それができて初めて、理性は強靭なものとなるのだ」
などとも書いているのです。
人間不在の世界に「私」どころか社会も公共性もあるわけがありませんし、
明らかに理性批判をしている思弁的実在論を批判しないで、どうやって「非理性的な部分を克服する」ことになるのか意味がわかりません。
こういう矛盾を放置できてしまう態度をされると、何も理解できずにただ凡庸なことを言っているだけとしか思えません。
思弁的実在論などの流行に媚びて「非−人間中心主義の公共哲学」などという語義矛盾もいいところの言葉を平然と垂れ流す人物の知性など、
どうして信用することができるものでしょうか。
ただあちらこちらに適当にいい顔をして、商売をしたいだけとしか僕には思えません。
まだまだありますよ。
小川は千葉が思弁的実在論を「不気味でないもの」と言い表したことを紹介し、
わかりやすくいうと、不気味の反対語が親密なものだとすると、近代以前の私たちに馴染みのある思想は親密なものだといえる。ところが、思弁的実在論以前のポスト構造主義と呼ばれる現代思想は、馴染みの思想の外部にある不気味なものだったのだ。したがって、さらにその不気味なものの外部としての思弁的実在論は、不気味ではないものと形容できるというわけである。
などと述べているのですが、
このような「読み間違い」は、この人が本当に学者なのか疑いたくなるほどにずさんです。
まず、千葉は思弁的実在論を「不気味でないもの」とは書いていません。
思弁的実在論が示そうとしている「外部」のことを「不気味でないもの」としています。
「外部」が脱落しているのはずさんだと思うんですよね。
また、小川はその「不気味でないもの」を「親密なもの」と考え、まるで思弁的実在論が近代以前の哲学に回帰するように捉えていますが、
それは誤読もいいところです。
小川の書き方だと、ポスト構造主義の外部に思弁的実在論があることになっています。
もちろん、ポスト構造主義のG・ドゥルーズ研究者である千葉がそんなことを言うはずがありません。
小川が引用した論考で、実は千葉はこう書いています。
ポスト構造主義は外部性の思考だった。しかしその外部性の脅威は、せいぜい「不気味なもの」だった。だがいまや問題は、我々を、不気味にでも何でもなく圧倒する力なのである。
我々を「圧倒する力」が「親密なもの」であるはずはありません。
小川は「千葉の意味するところとは異なるが」と書いてはいますが、
これだけ逆方向に解釈するのであれば、千葉の論に乗っかって書くのはおかしいですし、
まるっきり逆方向に欺瞞的な解釈をするくらいなら、きちんと批判をすべきです。
流行に対して適当にいい顔をして公共性が成り立たない領域まで公共哲学にしてしまう。
いくら具体的なヴィジョンを示さない抽象論とはいえ、何でも「新しい公共哲学」だと言って取り込んでしまうのでは、
すべてを「我が神の思し召し」としてしまう新興宗教と変わりありません。
小川は宗教的な再魔術化を乗り越えるべき問題として提示してはいますが、
その再魔術化を利用しているのは、他ならぬ小川自身だと感じます。
また、千葉はポスト構造主義の「外部性」を「不気味なもの」としているのであって、
小川が言うような、近代以前の思想の外部にあるのがポスト構造主義であり、
その外部が思弁的実在論であるなどという同心円状の構造など、千葉は全く描いていません。
千葉はポスト構造主義の外部性と思弁的実在論が扱う外部の話をしているだけなのです。
この程度の理解力で地方大学の准教授になれるというのは僕には新鮮な発見でした。
他にも言っておきたいことがあります。
小川はM・ウエルベックの小説『服従』についてこのような紹介をしています。
『服従』という小説をご存知だろうか? フランスの作家ミシェル・ウエルベックによるベストセラー小説で、なんとフランスにイスラム系の大統領が誕生し、国民がイスラムに改宗させられるというストーリーだ。なぜこれがベストセラーになったかというと、この本の出版当日を狙って、イスラム過激派がパリの新聞社を襲った、あの「シャルリー・エブド襲撃事件」が起きたからである。
ハッキリ言って嘘八百の内容です。
まず、『服従』ではイスラム政権が誕生しますが、連立によって成立しているので、独裁ではありません。
当然国民はイスラム教に改宗させられたりはしていません。
主人公が自分の意志でイスラム教に改宗するという話です。
(国民が改宗させられる話なら、ラストに主人公が自ら改宗を選ぶインパクトが台無しです)
『服従』という小説をご存知だろうか? とは、こちらが小川に尋ねたい言葉です。
また、この小説がベストセラーになった理由が「シャルリー・エブド事件」にあったとは言い切れません。
ウエルベックは『服従』の前作『地図と領土』の時点でゴンクール賞を受賞している人気作家です。
さらに疑わしいのは、テロが「この本の出版当日を狙って」起こったという記述です。
ざっとネットで検索してもひとつも出会わない解釈なのですが、『服従』の出版当日を狙ったということにソースはあるのでしょうか?
浅田彰はコラムで「偶然」と書いています。
このようなずさんな記述をする人の思想が緻密なはずがありません。
たとえば小川の「感情」の捉え方が完全に多様性を捨象しているところや、
シェアリング・エコノミーが「資本主義をも凌駕しようとしている」などという見方などひどいものです。
シェアと言うから良いように見えますが、要するにネットを介したマッチングサービスのことでしょう。
マッチングをする連中が利潤を吸い上げるサービスなのに、どうして資本主義を超えるのか意味がわかりません。
ネットには料金がかからないとでも思っているのでしょうか。
このようなシェアリング・エコノミーに対する過剰な期待は小川だけでなく、いろいろな人が言っているようなのですが、
まったく流行に魂を売る人間というのは呆れるしかありません。
カバーの折り込みに、小川が商店街で「哲学カフェ」を主宰する、とありますが、
カフェで語るような適当な感覚で本を書いてはいけません。
本とはそんな甘いものではないのです。
僕は二度と小川の本を読むつもりはありませんが、
小川はトピックの新しさを追い求めて内容をいい加減にしないように、自戒するべきだと言っておきます。