どうも、以前は佐野波布一だった者です。
長らくご無沙汰してます。
見切り発車ですが、新しいブログを始めました。
どうせなら、と違うサービスを使ってみたのですが、
なかなか思うようなサイトが作れず、苦戦しています。
読者の方にはご不満もあるやもしれませんが、我慢してお付き合いください。
僕がパソコンでサイトを開いてみたところ、安全性に問題があるサイト扱いされていました。
ドメインの関係でそうなっていると思われるのですが、もちろん危険性はありませんのでご心配なく。
あ、僕の新たな筆名は南井三鷹としました。
手で書くのは嫌な名前ですが、変換ならラクラクです。
不本意ながら使い方もよくわからないツイッターも始めてみました。
同時的なメディアをどう使えるのか、それともやめてしまうのか、とりあえず試してみようと思っています。
ブログ : http://blog.minaimitaka.site
ツイッター : http://twitter.com/minaimitaka
]]>
すみません、書いてた人は生きてます
どうも、The formerly known as 佐野波布一、通称「バズシンボル」(元ネタが古くて不安)です。
昨日は父の法事を家族でやってました。
今日は無理がたたって発熱して寝込んでいます。
明日からは仕事が忙しいので、今のうち皆様に感謝を述べさせてください。
何か言いたい人もいるかもしれない、と軽い気持ちでコメント欄を開けたら、
思った以上にコメントがあってビビりました。
冷やかしで僕のブログを見に来た多くの方々も含めて、お騒がせしてすみませんでした。
僕はもともとインターネットがそんなに好きではありませんでした。
しかし、パワハラが横行しているアカデミズムの世界に嫌悪感を抱き、
出版界が商業主義に大きく傾いていくにつれ、出版界の連中と仕事をしたいとも思わなくなり、
消去法でしぶしぶとインターネットの世界に至りました。
Amazonレビューもそう褒められた動機で始めたものではなかった気がします。
僕の攻撃的性格というのは、もはや本人も手を焼いているレベルなので、読んだ皆様がどう感じていたかも想像は難しくありません。
Amazonがいつか僕を追放することは、正直想定はしていました。
(ただ、僕がレビューとして書いたことと無関係な揉め事でこんな事態になることは想像していませんでしたが)
Amazonは過去レビューの一覧を参照しにくいようにしたり、得票数が多くてもレビュー上位に止まりにくくしたり、
「売名行為」を目的とした名物レビュアーが出てこないように気を遣っていた気がします。
(そういえば自己宣伝が大好きな千葉雅也は僕をそのような「売名」人間だと思っていたようでした。
世の中みんな自分と同種の人間しかいないと考えている単細胞な人間は本当に幸せですよね。
しかし、そういう奴こそが自分と異なる価値観を弾圧するのです)
僕が今回皆様からコメントを頂いて感じたことは、
ストイックに応援してくれる方の声と連携することなく、孤独に言論活動を続けていたことには問題もあったということです。
応援する声に耳を閉ざしたため、僕に届くのは感情的反発や嫌がらせ行為ばかりになりました。
そのことが、反対勢力に自らが多数派であると確信する材料を与えて、僕への攻撃を楽にしていたように思います。
だからこそ、「オルガン」や「週刊俳句」と親しい俳人から倫理無用のメチャクチャな嫌がらせを受けることになったのだとわかりました。
結論を言いますと、Amazonレビュアーとしての僕「佐野波布一」はこれにて終了です。
僕の興味に任せてレビューを書こうとすると、時間がいくらあっても足りないことがわかりました。
また、攻撃すべき不愉快な本もますます増えていくだけに感じます。
これからは、レビュー活動だけでなく、文学や思想などのジャンルに興味を絞って、時事的なことから離れた論考も書いていきたいと考えています。
ただ、皆様が僕の「敵」と認知している方々に対しては、僕がこのまま引き下がることはないと考えていただいて結構です。
この先の僕の活動に関しても、おそらく皆様に相談を仰ぐことがあると思います。
個人的な事情ですが、仕事も忙しく、体調もすぐれないので、ちょっと休暇をいただきたいと思います。
皆様のコメントで僕の名前が書きにくいこともわかったので、
新たな変換しやすい名前を考えて、他の手段もないためネット上で文章を発表しようと思います。
(たぶん、別のブログを立ち上げると思います)
死んだフリして別の場所でひっそりとやろうかと思っていたのですが、本気で僕の文章を読んでもいいと思っている方がいるように感じたので、
再始動が決定したら、このブログかどこかでお知らせするつもりです。
ここからは追悼コメントを下さった方一人一人に返答します。
高田獄舎さん
書き続けるのが僕の使命とまで言われるのは、なかなかに重いですね。
あなたの「言うべきことは言う」という態度は、見所があると思いますし、信頼できると思っています。
今回のことの原因があなたにもないわけではないので、責任を感じて僕の反撃に協力していただけるとありがたいですね。
まあ、すでにそんなことを言う必要もないのかもしれませんが。
ジョニーさん
「反体制」を体現したら、普通は死んじゃうじゃないですか。
あ、だから佐野波布一は死んだのですね。
あなたの応援は僕の活動に欠かせないものでした。
本当にありがとうございます。
佐々木貴子さん
俳人の方に詳しくなくて申し訳ないのですが、あなたの句集は田中裕明賞で四ツ谷龍に評価されていましたよね。
その四ツ谷を批判している僕に対して、このようなお言葉をいただけたことに感謝する以上に、
内輪意識で自分を甘やかさない高潔な精神に心が洗われました。
僕のためにAmazonに意見までしてくださるとは、労をおかけして申し訳なく思います。
元気なお子さんが生まれることを願っています。
菅原慎矢さん
クリックすると「poecri」というサイトが現れました。
芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞をお取りになっているのですね。
存じ上げていなくて申し訳ありませんが、僕が数少なく所有している句集に齋藤愼爾のものがあります。
ちょっと縁を感じてしまいました。
たこぽんさん
Amazonレビューが消去されたことで、たこぽんさんのコメントが消えてしまったことが口惜しく、申し訳ないと感じています。
千葉雅也の脅しにさらされていた僕に対してのあのコメントは僕のネット活動で得た宝の一つです。
〈フランス現代思想〉の商業的勢いもだいぶ落ちてきたところなので、
では現代思想は何を考えればいいのか、生産的な方面でも思索を展開したいと思っています。
引き続き僕の文章とおつきあいいただければ幸いです。
ルンバさん
「同意できるものもできないものもあったが、少なくとも根拠をあげた批判であることは間違いなく」と書いていただき、
しっかりと読んでいただいていたんだな、と有難く感じました。
「学者の地位にある者がこれほど議論ができないというのは驚きだった」とも書いてありますが、
本物の学者は当然ですが議論など問題なくできると思います。
僕が糾弾していた人間がインチキ学者だからそうなのであって、
学者の方一般があのようではないと思いますので、ご安心ください。
牟礼鯨さん
「夕立鯨油」という俳句のブログを書いておられる方なのですね。
僕のような俳句素人の文を読んでいただいて恐縮ですが、
「内輪」そのものは僕も否定しなくていいと思います。
(今回、僕も孤立して行動することの問題を実感しました)
問題は内輪の感覚に自足して、外部の批判を排斥する態度ですので、
「波風が常態であるべき」という牟礼鯨さんの考えが俳句界の常識になることを願っています。
ファンさん
僕にファンとは驚きましたが、Amazonの判定は無謬であり絶対であるようなので、復活は難しいです。
応援していただき、本当にありがとうございました。
藤本智子さん
俳人の方に応援していただけるだけでも有難いので、藤本さんが申し訳なく思う必要はないんですよ。
僕自身が応援してくださる方の声を聞こうとしなかったのが悪かったのです。
今回このように声を寄せていただけたことに感謝しています。
花田心作さん
花田さんも俳人の方のようですね。
Amazonレビューに評論を載せるのは法的問題になりかねないとのご指摘、ありがとうございます。
幸いにも問題になる前にAmazonから追放されたのかもしれないわけですね。
再出発へと強く背中を押してくださる花田さんの気持ちが強く響きました。
Amazonと関係なく活動をしようと思いますが、職業契約上の問題で本名は出せないんです。
またくだらなぬ名前で活動することになると思いますが、もうちょっとマシな名前をつける努力をします。
泥炭さん
俳人の方からこんなにコメントをいただき感謝しています。
そうですね、誰にも削除できない、というより、削除が妥当と思われない書き方で書いた方が良さそうですね。
泥炭さんのお考えが深められるようなものが今後も書けたらと思います。
Tukinamiさん
佐野波布一は論理の場にしかいないから、そこでしか佐野波布一は殺せない、とのお言葉は正論です。
論理とともにある人はそのように考えられるのですが、
学者だったり論客だったりするくせに、論理より自己顕示や自己宣伝によって自己承認をただ得たい人がいかに多いかということです。
ポストモダンは悪い面ばかりではないのはもちろんですが、あまりに「そう言っていればいいんだ」という
アホのための便利ツールになってしまって、もはや単なるファッションでしかないことが問題です。
思想内容と関わりなく、日本における「現象」としてのポストモダンがナルシシズムにしか行きつかないことを僕は批判したいのです。
けんじゅさん
個人の中傷でレビューの全削除は考えにくいとのこと、仰ることはよくわかります。
ただ、大学などの組織が関与するほど僕は大物ではありません。
これまでの蓄積があった上で、今回の事態になったことは僕も認めざるをえません。
ですが、中傷者が引き金をひいたことも間違いのないことです。
わざわざ僕のトラブルについて考えてくださり感謝しています。
アマゾンレビューアーさん
僕がブログにレビューを掲載したことが削除の原因なんでしょうか。
ならば、Amazonはそう回答すると思うのですが、そうすると僕がブログをやめたら復活させなくてはいけなくなります。
前述したように、Amazonは前々からクレーム対応をさせられる批判的なレビュアーを追放したかったと思います。
謝罪して復活するならいくらでもしますが、絶対に無理でしょう。
わざわざ対処を考えてくださり、ありがとうございます。
Shoさん
Shoさんの書かれたことは全くその通りだと感じます。
仰るとおり、場所や形態を変えて続けようと思いますので、
その時は内容に関してなどご意見もお聞かせください。
現時点でコメントをくださった方は以上です。
本当にありがとうございました。
]]>
殺された佐野波布一に代わって
去る7月18日の佐野波布一の死は私たちに多大な悲しみと憤りをもたらしました。
Amazonレビュアーとして生きた彼にとって、Amazonレビューが投稿できないことは水を失った魚に等しく、
死すべき運命をただ享受するよりほかに選ぶべき手段は残されていませんでした。
Amazonに問い合わせたところ、ある暴漢の中傷によることを否定しなかったので、
私たちは佐野波布一の死が、その暴漢によってもたらされたことを疑いません。
その暴漢自身がAmazonレビューに何かを書かれたわけでもないだけに、
どうしてAmazonレビューを消去させなくてはならなかったのでしょう。
この国には論理で返答できなくなると、
権力や多数派であることを背景にした「暴力」で応じて良いという「文化」があります。
普段は政権批判や弾圧批判めいたことをしている人も、身内のこういう「暴力」には知らん顔です。
私たち遺族は俳人のみなさんが佐野波布一の死について知らん顔をして過ごすような気がしています。
このような出来事に目を閉ざしておけば、佐野波布一が指摘した内輪主義の持つ排他性と向き合わなくてすむのですから。
他者に暴力で応じる人が研究者や詩人の顔をしている国を、私たちは軽蔑します。
俳句に関心のない 読者の方々も少なくないでしょう。
どなたであっても構いません、佐野波布一を悼む方がもしおられるなら、
焼香の代わりにコメント欄を開きますので、供養のコメントでもお寄せください。
(コメントには認可がありますので、不掲載希望の方はそうご記入ください)
また、犯人である暴漢とその一味についてご存知のことがある方から情報をいただければ幸いです。
]]>
全削除への
佐野波布一のコメント
突然の一律削除は「暴力」でしかない
どうも、佐野波布一と申します。
今朝、僕のAmazonレビューが全削除されていることに気づきました。
アクセスしてなかったので、もしかしたら昨日から消えてたのかもしれませんが、
これがAmazonの自発的行為ではないことは、新たなレビューをアップしていなかった時期なので、誰が考えてもすぐにわかります。
おそらく、一人や二人の抗議ではこのようなことにはならないと思いますので、
一定の人数が同時に徒党を組んで、「赤信号みんなで渡ればこわくない」とばかりに僕の言論を弾圧する運動をしたのでしょう。
タイミングからして、自分たちが犯人だと類推されても構わないということでしょうが、
Amazonレビュー上で生じた問題でもないことを理由に、なぜAmazonレビューが消去されなければならないのか、
僕にはこの不条理が納得できないのですが、
おそらく、こういうことを「ざまあみろ」としか思わない奴が一定数いるのだとわかりました。
(もちろん久留島元が無関係ということはありえないと言い切れますが、
これ以上返答しないとか言っておいてやることが中傷を弄した弾圧行為とは、どこまでクズなんだコイツは)
千葉雅也のレビューの時でもわかる通り、Amazonは自らのガイドラインに違反していないと審査して判断したにもかかわらず、
著者クレームがあったりすると、レビューを消去します。
それでも再度の掲載が可能であるわけですので、
つまりは自分たちが責任を負いたくないがための「その場対応」であるのですが、
今回も同様のクレームを受けた「その場対応」のつもりでAmazonは軽々しく僕のレビューを全削除したのでしょう。
Amazonには現在問い合わせ中ですが、
ヤツらは情報公開を絶対にしない暴力的な集団なので、
適当なことを返答してごまかすのは目に見えてます。
僕は週6日10時間以上働いています。
休日は日曜だけで、その時間の多くをレビュー活動に捧げてきました。
家族にも多大な迷惑をかけて成立していたのが僕のAmazonレビューです。
こんな結果になって妻にも応援してくれた親友にも申し訳ないと感じています。
正面から反論をせずに、裏から弾圧運動をする連中に対しては、
その程度のヤツラだとわかっているため、驚くほど何も感じませんが、
僕に知らせることもなく、一方の意見だけでレビューの全削除を行うAmazonのアンフェアで暴力的なやり方には、
呆れ果てるほかありません。
というか、Amazon側にどのような正当性があるのか本気で理解できません。
こんなことをする企業とは、正直つきあいたくもないのですが、
それはAmazonにとって願ったり叶ったりなのでしょう。
再掲載ができるか試してみたところ、
ガイドラインに抵触したので再掲載ができないという結果でした。
これまで掲載してきたくせに、1日にしてすべてのレビューが一律でガイドラインに抵触したとか、
本当にガイドラインがあればありえないことだとすぐにわかります。
それどころか、新たな商品にもレビューを書こうとすると、
申し訳ありませんが、お客様からのこの製品レビューを受け付けることができません。
本商品に投稿されたカスタマーレビュー ガイドラインに抵触した可能性があります。 カスタマーレビューは商品の批評が自由に投稿、閲覧できる仕組みであり、お客様に公平なご意見をご提供することを意図しているため、広告、プロモーションであるという誤解を招く可能性が高いとみなされるものは掲載を中止する場合があります。
という表示が出ます。
過去に投稿したこともない商品なのに「投稿された」ことになっていて、ガイドラインに抵触したとか言われます。
もうウンザリです。
僕が何の「広告、プロモーション」をしたというのでしょうか。
ちょうどレビュー活動にも飽きてきたので、今後のことを考える機会にしようと思います。
【2020年7月 南井三鷹による追記】
最近読み返して気づいたので追記します。
佐野波布一のAmazonレビュー全削除については、上で述べているように、
タイミング的に久留島氏の関与を疑いましたが、
あまりに事が早く動きすぎるのと、久留島氏本人の無関係だという言葉から、
千葉雅也の通報が最大の原因であることをAmazonに問い詰め、確信を得ました。
久留島氏の態度にも問題はありましたが、今は彼の関与があったとは思っていません。
久留島氏にはご迷惑をおかけしました。
佐野波布一のコメント
久留島元という人物に対する証明4つ
どうも、佐野波布一と申します。
先日、久留島元という京都精華大学に籍を置く研究者から悪口を言われ、
それに対する説明を要求したところ、久留島は説明になっていない身勝手な暴論を展開したあと、
自分から悪口を言ってきたくせに、これ以上は不毛だから返答しないと「ブロック」同然の扱いをかましてきました。
僕と妻は久留島のルール無用のふるまいに「なんて最低な態度なんだ」と憤り、朝まで寝つくことができませんでした。
(残念ながら僕には日曜しか休日がありません)
この文章は主に久留島元に宛てたもので、他の方々には退屈だと思われますので、
興味のない方は読み飛ばしていただきたいと思っています。
それでも一応は第三者にもわかるように手続きは取っておこうと思います。
まず、久留島の悪口をもう一度掲載しておきます。
佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。
これに対し、僕はいくつかの点について説明を要求しました。
久留島は自ら論点を4つに整理して、それぞれに応答するフリをしながら、支離滅裂なことを書き綴りました。
久留島が自身のブログ「曾呂利亭雑記」(http://sorori-tei-zakki.blogspot.com)の7月15日付で、僕の文章を以下のようにまとめています。
?
アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。
僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。
?
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
?
意味がわからないのは、
「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。
「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、
?
そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。
僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。
まず言っておく必要があるのは、上記は僕の文章からのコピーで構成されているにもかかわらず、
久留島が整理した論点じたいにすでに捏造が行われていたり、
論点のすり替えが行われていたりすることです。
それが彼の読解力の不足によるのか、意図的な汚いミスリードによるのか、僕には判断がつきませんが、
こちらが説明を要求したことに答えるのではなく、話をズラしていては回答にならないことは言うまでもありません。
まず?について久留島はこんなふうに回答しました。
?
これについては私の認識がゆるかったので、やや訂正すべきかと思います。
佐野波さんの膨大な書評すべてを閲する労を怠ったため認識が雑だったことは申し訳ないのですが、「サブカル的発想に富んだ舞城王太郎やたら持ち上げられた。」「サブカル的なファッション俳句」「「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界」といった評言から、サブカル的感性・ライトノベルに対する評価の低さを読み取ったうえで、「本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。」とあり、
「アート」>「サブカル」
といった図式を持っていると判断したものです。
もちろん「サブカル的であっても、それだけでは否定しません。」という発言もあるので、
サブカルに対する低評価からサブカル的感性の俳句に手厳しい
とでもすべきだったでしょうか。
自分の認識が間違っていたのに、「私の認識がゆるかった」と自らを甘やかし、
間違いを認めるのではなく、「やや訂正すべきかと思います」などと基本の主張は間違っていないかのように書いています。
あのね、間違いは間違いなんですよ。
だいたい「アート」>「サブカル」とか言いますけど、アートをサブカルより上に評価する価値観って、一般的じゃないですか?
それだけで「「サブカルは文学ではない」という強固な価値観」などと言われなければならないのでしょうか。
まあ、ひとつハッキリしたことは、久留島自身は「サブカル」>「アート」という価値観を持っていて、
サブカル的感性による俳句はアート以上にすばらしいと考えているということです。
おっと、ちょっと調べたら、京都精華大学ってマンガ学部があるんですね。
なるほど、自分の大学での世渡りの都合が影響しているわけですか。
久留島ってヤツの抜け目がないことがよーくわかりましたが、そんな己の立身出世事情で僕のすることに文句を言うのはお門違いです。
証明終わり。
証明? 久留島元はサブカルをアートより上位に置く価値観の持ち主であり、サブカル的感性の俳句を高評価するため、「オルガン」連中の俳句に肩入れしている。
では、次に?へと移りましょう。
ここで久留島の説明を見る前に、僕自身が書いた文章を引用させてください。
いかに久留島が編集作業によって僕の文章を捏造したかがよくわかります。
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、
これに悪意を感じないわけにはいきません。
そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、
僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。
(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。
「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。
たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、
その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。
その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。
普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。
上記の文章を見ればわかる通り、青木亮人に「寄生虫」と書いたことがやりすぎであることは僕も認めています。
その部分と「人格に否定」と言うが僕が誰にそんなことを行なったのか、という文章は段落を分けていますし、
「また」と別の話とわかる接続詞を入れています。
それなのに久留島はその二つの話を意図的に接合して、「人格否定」から話をそらして「寄生虫」の話へと持っていくのです。
もう一度、久留島の整理した文を見てください。
?
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
このように、最後の文が前の段落の続きであるかのようにくっつけています。別々の内容をくっつけて、「人格否定」の話を強引に「寄生虫」のことにつなげる手口です。
では、久留島のインチキ回答を見てください。
?
については、何をかいわんや、Amazonでは消したけどブログには載せているのですから、評言として看過しがたいのは言うまでもありません。
青木さんの研究上の業績については、国文学論文目録データベースでも検索していただければ多数ヒットします。
青木さんは私が知っている限りでもトップクラスに筆の速い研究者であり、論文数だけでも抜きんでた存在です。佐野波という人物がどんなに知識人ぶってもまったく研究の実態がわかっていないことは明らかです。
また、40歳未満の新進俳文学研究者に贈られる「柿衞賞」の第17回受賞者であることからも、(佐野波さん個人の素人的判断は措いて)すぐれた研究者であると認められた存在であることは自明です。
ところが当該の文中では「微妙な記述」どころか「寄生虫」という罵倒は5回も登場しており、およそ簡単に人を「寄生虫」呼ばわりする人物が、「否定」と「批判」の区別を人に説いて聞かせるという凄惨な喜劇に頭を抱えたくなります。
結局、僕が落ち度を認めている「寄生虫」のことを蒸し返しているだけで、僕が説明を要求した「人格否定」についてはごまかして終わっています。
最初に言っておくべきでしたが、僕が自分の文章を見直してみたところ、
僕は青木について「研究業績のない」などと書いていないのです。
僕の文章では「研究での目立った活躍はなく」と書いているだけです。
専門的な国文学データベースで検索しないとヒットしない論文をいくつ書いていようが、
「目立った活躍」ではないわけですから、僕の書いたことが間違いだとは言えないわけです。
僕の書いていないことを捏造しておいて、その捏造した文章に立脚して僕の悪口を言うような人物が、
研究者の資質があろうはずがありません。
久留島こそが大学の寄生虫であることは間違いないので、さっさと辞めて社会人としての常識を学ぶべきだと思います。
こういう他人の文章を捏造したり、勝手に削ったりくっつけたりして内容をズラして平気でいる態度だから、
鴇田智哉の助詞の勝手な入れ替えを「最強の文体」などと言えるのだとよくわかりました。
だいたい、人を「寄生虫」呼ばわりする人物が相手だからといって、
自分の書いたことへの説明をしなくていいなどということはありません。
それこそ僕の人格を否定した態度であることは明らかです。
僕は「寄生虫」という言葉は「口汚い」とは思いますが、真実であると今でも思っていますので訂正する気はありません。
相手が平気で悪口を書く人間だから、自分の吐いた悪口に対して説明を要求されようが応答は必要ない、などと考える人間こそが、
自分の書いたことに責任も負わず、相手の人格を否定する最低野郎であることは誰が見ても明らかなのではないでしょうか。
証明終わり。
証明? 久留島元は相手の論を平気で捏造し、悪口に対する説明要求にも回答を拒む、相手の人格をないがしろにする人物である。
次に?ですが、これに対しては久留島が本気で頭が悪いのかもしれませんが、
「分断主義」「排他主義」という言葉が辞書にあるかどうかという話にすり替えられています。
彼が引用した僕の文章にも「僕は存じ上げない」とあるように、自分の辞書に出てなかったので僕が知らないと言っているだけの文章ですよ。
誰が「そんな言葉は辞書に載っていない」などと書いたのでしょうか?
コイツは本気で日本語が読めないのでしょうか。
?
え、辞書にないのか、と思ってとりいそぎ『日本国語大辞典』を調べたところ、たしかに分断、排他はあっても排他主義はありませんでした。ただネット上では「実用日本語表現辞典」に掲載がありましたので引いておきます。
排他主義 読み方:はいたしゅぎ
自分と自分の仲間以外のものを容易に受け入れず、むしろ排斥するあり方や態度。他を排斥する主義。
これについては、「四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物」のように、一部の交友関係をとりあげて云々するやり口を上げれば充分でしょう。
恣意的に交流関係をあげ自分の気に入らないたちを特定団体のごとくあげつらう評は、これが俳壇内情にくわしい人物なら楽屋落ちというべきでしょうが「結社の人間」ことを重ねて強調するからにはネットで類推されたのでしょうか。
私は佐野波さんに友だちがいるかどうかは知りえませんが、「僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いる」ことを盾に、事実かどうかわからない(何があったかは、推して知るべし/つまり彼自身は関知していない)「大学から戒められるような千葉の行為」に「寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担する」俳人たちを、「クサレ言論弾圧俳人」と呼ぶような行為は、目に余ります。
インターネット上での言論行為において問題視されるのは「悪質性の高い」「中傷」を書き込んだ場合であり、政治的権力も持たない一般人がSNSにおいて拡散した程度で誹謗中傷される謂われはないと思います。
もう久留島の暴論に付き合うのもウンザリしますが、
「恣意的に交流関係をあげ云々するやり口」とか僕の批判をしていますけど、
四ツ谷は「オルフェウス」という匿名のAmazonレビュアーとして、関悦史と鴇田智哉の句集にレビューを書いています。
それが事実であることを四ツ谷は態度で認めているわけですから、「恣意的に」というのは事実に反しています。
だいたいネットだから立証が難しいだけで、ステマ行為はAmazonに禁止されている行為です。
僕が気に入らない人を特定団体としている、とか言いますが、
僕が捏造しているかのような書き方は図々しいのではないですか?
僕はたしかに俳句外部の人間ですから、ある程度の類推はあるかもしれません。
しかし僕の書いたレビューに対して、内輪事情を知る人から「その人間関係は事実でない」などという反論を見かけたこともありませんし、
久留島も「類推」とケチをつけるだけで事実でないとは言いません。
オマエだって実情を知っているだろうに、僕が勝手に嘘を書いているかのような論法でよく来るな、と思います。
外部にいる人間が内輪事情を書くには類推が入るのは仕方ないだけに、
こちらが外部にいることを盾にした汚い汚い汚いきたなーいやり口であると憤りを感じます。
決定的なのは、久留島の書いたことが何一つ僕が「排他主義」と言われることの妥当性を証明していないということです。
俳人の交友関係を書いたからって、どこが排他主義なんですか?
何も説明になっていないのに態度だけは偉そうなのはどういうこっちゃ。
マジでコイツのルールのないやり口をどうにかしてほしいです。
僕は今まで色々な人に文句を言われたり、攻撃されたりしましたが、久留島はその中で間違いなくルール無用の最低なヤツだと感じています。
(千葉雅也や高山れおなや「てーこく」の鴉越え、おめでとうございます)
「クサレ言論弾圧俳人」という言葉については、僕は彼らが謝罪をしなければこの言葉を使うと宣言してあったはずです。
被害者であるこちらのことは無視して、被害を糾弾する側の取るに足らない言葉遣いを「目に余る」とか、
オマエは本当に何様なんだ。
「政治的権力のない一般人がSNSで拡散した程度で誹謗中傷される謂われはない」という感覚も異常だと思います。
だいたいスクショまでアップして事実に立脚しているのが明らかな行為に対しての非難を「誹謗中傷」とは言いません。
それより四ツ谷の「頭がおかしい」というツイートは誰が見ても「誹謗中傷」です。
どうしてそこは触れずにスルーするのでしょうか?
また、その界隈でファンを動員できる有名人を、「政治権力のない」という理由で「一般人」とするのも身勝手な強弁だとしか思えませんし、
「SNSで拡散した程度」だと悪く言われるに値しないという感覚も理解できません。
以上でわかる通り、久留島の立場はまったくフェアなものではなく、どっぷり「週刊俳句」や「オルガン」の連中と同一化しています。
俳句界において「週刊俳句」や「オルガン」の俳人と僕とでは、どちらが「政治権力のない一般人」なのでしょう。
本当に世の中をナメた物言いだと思いました。
俳人が一般読者をよってたかってイジメておいて、それに文句を言うと、「誹謗中傷される謂われはない」ですか?
オマエ本当に一度生まれ直してこいよ。
千葉のツイートの内容が正しいとするなら、ちゃんとそれを証明してから使うべきです。
問題となるのは「悪質」な「中傷」とか書いていますが、それはいったい誰が判断するものなのですか?
僕にとっては千葉のツイートこそが「悪質」であり、「中傷」であったわけですし、
僕と同様に感じた人が一定数いたことも、僕に対するリアクションから証明されているはずだと思うのですが。
本当に久留島は自己中心的で非倫理的な言い分を平気で垂れ流す最低な奴です。
LINEいじめでクラスメイトを不登校に追い込んでも、久留島にとっては「政治的権力がない一般人」のすることだから問題ないわけです。
(もちろん、それが「悪質」だと判断されるのは、自殺のような取り返しのつかない事態が起きた後のことです。
つまり、僕が彼らのリツイートによって遺書を残して自殺していれば、千葉や彼らの行為は「悪質」と認定されるはずです)
結局久留島にとっては僕のやることはすべて悪いし、その僕に対してであれば何をしても悪くないというだけでしかありません。
「誰が」という視点だけで考えて、「行為」に対する客観的な視点をまったく持つこともありません。
内輪のすることは正しく、外部は悪だと考えているからこんな暴論が書けてしまうのです。
本当に大学は一部で社会不適合なクズを養っていると感じます。
そもそも僕が要求した説明は、僕に味方がいるのかというものでした。
個人の価値観をイデオロギーというのか、という問いもありました。
味方を作らない僕に「二分法で敵味方にわける低劣な分断主義、排他主義」という言葉は合わないという主張です。
なぜに「佐野波さんに友だちがいるかどうか」という話になっているのでしょう?
明らかに俳句界においての敵味方の話をしているわけですから、友達の有無など無関係だと思うのですが。
久留島にはこういう姑息な論点のズラしが多すぎます。
しかし、これで敵と味方に分けた二分法で物事を判断しているのが久留島自身だということは証明されたと思います。
証明終わり。
証明? 久留島元は他人に排他主義と濡れ衣を着せて、内輪の行為は正義、外部の行為は悪という自分自身の排他主義的な価値観をごまかす人間である。
あ、ちなみに「分断主義」という言葉の説明が書いてないということは、辞書になかったんですね。
半分しか見つからないのに、よく反論として書くよな、ホント。
?について書くのも寝不足なので疲れてきましたが、
とりあえず頭の悪い人間を相手にするにはきちんとした手続きをとることが重要です。
?
これは?、?で充分例証できると思いますが、小津夜景さんを「おフランスかぶれのセレブおばさん」などと揶揄する言動が、「作品に現れる知性や能力の評価」を越えた人格誹謗に近いと私は思います。
もとより私は自分自身が中立だと思ったことなどありませんが、私こそ佐野波さんとは一面識もなく、佐野波さんの文章からその立ち位置を類推するだけに過ぎません。
しかし「AというならBはどうなんだ!」というのは、論理のすりかえを感じます。
これは私見ですが、レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます。たとえば高浜虚子『五百句』のレビューに、虚子は秋桜子を排除した人物で云々と作家の行動に関わることばかり書かれていたら、私はうんざりします。
また、小津さんの知識において佐野波さんが垂れ流している「「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうか」「「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。」などという印象操作は、前者は「グーグルで検索」すると英文法に関するページが多くヒットしますし、後者は日中辞典や芥川龍之介の文章がヒットすることを申し添えておきます。
大前提の話をしておきますが、「人格否定」というのは人間としての人格を認めていないということです。
つまり、「朝鮮人はゴキ◯◯だ」のようなものです。
「おフランスかぶれのセレブおばさん」は小津夜景のフランス「趣味」を揶揄はしていますが、
それが明らかに「人格」を問題にしているわけではないので、
「人格誹謗に近い」というのは行きすぎた久留島の主観的判断でしかありません。
(コソコソと人格「否定」でなく「誹謗」に言い換えるあたりも卑怯なやり口ですよね)
だいたい久留島自身が自分で「揶揄」と書いているではないですか。
なんで「揶揄」だと自分で認識しているのに「人格誹謗に近い」などと書いてしまうのでしょうか。
こういう支離滅裂な文章が、相手憎しで理性を失った物言いであることを証明していると思います。
久留島が「レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます」と
書いているのは僕のどの記述に対してなのかよくわからないのですが、
クサレ俳人の言論弾圧行為については僕のブログに「コメント」として出しているものなので、
「レビューという場」ではありませんけどね。
仮にそこでもダメだとなると、じゃあどこで糾弾すればいいのかを久留島には答えてほしいですね。
ネット上での「レビューという場」しかフィールドを持たない僕に、
「レビューという場」で俳人を糾弾するな、と書くことは、僕の言論行為そのものを禁じたのと同じことです。
つまり、久留島は僕に対する言論弾圧の欲望をしれっと語ったわけです。
いやあ、本当に最低このうえないですね。
自分がアカデミズムの寄生虫だからって、一般人の言論を禁じる権利がオマエにあるのかと言いたいです。
ちなみに「倒装法」の検索の件など、相変わらず論理の核心ではなく瑣末なことにばかり文句を言うのが好きなようですが、
久留島が引用している僕の文に「他の論文は出てきません」とあるように、
僕が「論文」を対象として書いているのは明らかです。
「日中辞典や芥川龍之介の文章」は当然僕も検索したので見ていますが、いやはや、これが「論文」だとは知りませんでした。
(そもそも芥川の文章は小津が参考文献に挙げているので読んでますよ)
「類像性」が英文法の本でヒットしたらしいですが、じゃあ、詩を語るのにはあまり使わない語なんですよね。
英文法の本を読まない僕が「聞き覚え」がないのも、別に問題はないと思うのですが。
こういうのを「印象操作」とか言って僕の批判に使うのは、もう言い飽きましたが最低のやり口だと思います。
論の骨子が理解できないからって、わかりそうなところに適当に文句をつけるようなやり方は、
終始悪意しか感じませんので、非常に不愉快です。
これほど支離滅裂な説明とも言えない暴論を書いておいて、
久留島はこんな一方的な物言いで締めくくっていきます。
俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。
追記.なお、対談記事を読んでいただければわかるとおり、佐野波さんへの言及は対談の本筋とは関わらない部分で、獄舎さんのたってのご希望で掲載したものです
自分から悪口を言っておいて、僕が説明を要求したら、一方的に言いたいことを言って「これきりにしたいと思います」ですって!
「ご寛恕」などできるはずがありませんので、僕はオマエが謝罪するまで許すことはないと言っておきます。
(いずれ機会があれば、面と向かってお話ししましょう)
あげく「本筋とは関わらない部分」だとか高田獄舎の希望で掲載したとか言い訳をしていますが、
それがオマエの発言を免罪する理由になると思っているのか、と言いたいです。
だいたい久留島は高田が二人の対談記事を、「週刊俳句」の掲載前に自分のブログに掲載したことに対し、
「仁義を踏み破り、企画の横取り」だなどと文句をツイートしていたはずです。
「私自身の評言が、勝手に、意図しない形で公開されるのは不愉快である」と高田を糾弾していたりもしますが、
僕の文章を捏造して文句を言うようなヤツがよくも言ったものだと呆れ果てます。
手柄になるところは俺の権利に属する、と主張しながら、危ういところになると高田が希望したのだと逃げを打つ。
こういう人間をどう信用したら良いのでしょうか。
ひとつハッキリしたことは「子宮回帰」のようなサブカル的感性を俳句に持ち込みたがる人間には、
まともな論理は書けないということです。
自己中心の子宮世界を生きている「つながりたがりの幼稚園児」なので、
いつでも自分から見た視点を絶対化し、内輪の世界を絶対視してしまいます。
そういう人にとって外部からの批判はすべて悪でしかありませんので、
イベントをやったり、ディナーショーをやったりして、内輪意識でファンを選別し、
猿山の大将の気分に浸りつつ外部の視点を拒否する「引きこもりメンタリティ」となるのは火を見るより明らかです。
証明終わり。
証明? 久留島元は批判言論の弾圧を欲望しているため、言論弾圧を肯定する人間であり、「子宮」大好きの幼稚園児であるため、論理はもちろん、おそらく日本語もイマイチ使いこなせていない。
シンプルな話ですが、他人から文句を言われたくなければ、自己反省をすればいいと思うのです。
久留島の駄文は、僕の指摘を受けた後に自分自身で読み直しても反省できる明白な問題点に富んでいます。
少しでも自分の知性にプライドがあるならば、自分の書いた文章に責任ある態度を取るべきだと思います。
あなたの書いたものを読むのは内輪の人物に限らない、ということを強く意識することをお勧めします。
(7月17日追記)
久留島の書いたことで引っかかることがあります。
久留島は「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。」
などと書いているのですが、
僕の文章を見ていただければわかることですが、
僕は悪口を書いた久留島に説明を求めはしましたが、よく知らない彼のことを誹謗中傷などしていないのです。
久留島はなぜ「このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあい」などと書くのでしょうか。
彼は過去に匿名や別の名前で僕と何かやりとりをしたことでもあるのでしょうか。
そうでなければ、これは捏造でしかありません。
要するに、久留島にとっては説明を求められることさえ「誹謗中傷」となるということです。
こんな連中が「批判」と「否定」もしくは「誹謗」の区別がつかないのも当然です。
おまけに自分が「誹謗中傷」をしていることに関して自覚的なのはタチが悪すぎるのではないでしょうか。
僕は久留島から一方的に根拠なき悪口を言われたと思っていますが、
(もちろん、今回の文章を含めたとしても、僕の方は彼の文章を根拠に「証明」をしているので、誹謗中傷ではありません)
ハッキリ言って、一部の俳人のマナーの悪さはどこの界隈でもありえないレベルです。
僕は久留島がこんなクソな態度を平気でとれるのは、
僕に対してなら、どんな酷いことをしても喝采してくれる腐った仲間がいる、
内輪という「子宮」に守られていると確信しているからだと思います。
こういうマナーのない奴を受け入れている人間が、
いかにイジメじみた行為を助長しているかを、それ以外のマトモな俳人の方々には真剣に考えていただきたいと切に願います。
そうでないと、俳人すべてがこういう人間と同類だと考えざるをえなくなります。
こちらがAmazonガイドラインなどの一定のルールにおいて著作を批判をしているにもかかわらず、
批判者にはルール無用、マナー無用で排撃していいなどと考えている人間については、
「人格」について批判をする以外ないと考えます。
僕が「子宮」大好きのサブカル的「引きこもり」感性を批判するのは、
それこそが内輪を全体化する日本型ファシズムの温床であるからです。
(研究者が「現在」にコミットすることを高らかに宣言する末期症状!)
戦中に詩が果たした役割を反省してきた戦後詩人たちが世を去っていき、
バブルに踊った無知な世代が過去の汚点に学ぶこともなく、
批判を排除した日本的な内輪陶酔によって、「いつか来た道」へと帰っていくのは、
もはやどうしようもないのかと半ば諦めています。
]]>
久留島元の根拠なき中傷に対して説明を要求します
どうも、佐野波布一と申します。
俳句についてのコメントが最近多くて自分でも辟易としていますが、
久留島元とかいうよく知らない人から、事実でないレッテル貼りをされていることが看過できませんでした。
調べてみたら久留島は京都精華大学に属する研究者のようなのですが、
そういう人が文章に基づかない「決めつけ」で文句を書くのは問題だと思います。
問題の文章は「週刊俳句」や高田獄舎のブログ「愚人正機」(http://guzinsyouki.blog.fc2.com/blog-entry-37.html)にあります。
佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。
久留島は僕が「サブカルは文学ではない」という「強固な価値観」でサブカル的感性の俳句を「一律否定」したと言っていますが、
いつ僕がそんなことをしたのでしょうか。
たとえば僕は富野由悠季監督のアニメ映画「伝説巨神イデオン」についてのレビューで、この作品を「文学」だと語っています。
アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。
僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。
僕の批判をただの「サブカル排除」へと読み換えて批判するのは、あまりに不正確で安直なのではないでしょうか。
それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、
これに悪意を感じないわけにはいきません。
そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、
僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。
(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。
そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。
「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。
たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、
その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。
その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。
普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。
いいかげん話のすり替えをやめていただきたいものです。
僕が丁寧に本文引用をしているのは見ればわかるはずなのに、
そういう「事実」を無視したかのように文句だけ書く人を、どうしたらいいのでしょうか。
意味がわからないのは、
「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。
「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、
お笑い種なのは、「敵味方にわける」とか言っている部分です。
僕には味方と言えるような人はいません。
どうやって二分法で分けるというのでしょうか。
いや、僕に味方がいるなら、どこにいるのか教えていただきたいものです。
誰が僕の味方にあたるのですか?
『自生地』を批判した人間は僕の味方だ、などと僕がどこに書いたのでしょうか。
「排他」という言葉を辞書で引くと、「仲間でない者を排斥すること」とありますので、
仲間を作らない孤独な人に使うのは不適切です。
『自生地』を評価した人の俳句観は信用できない、というのは僕の意見ですし、個人的な思いです。
それに立脚して評価した人間は「信用できない」としても、僕個人の意見であることはハッキリしています。
そこのどこに「主義」などが介在しているというのでしょう。
自分の意見を言うだけでイデオロギーを振り回しているとでも言うのでしょうか。
久留島のツイッターなど見たくはないのですが、その辺りの説明をきちんとしていただきたいので、
sorori名義のツイッターでもいいので、研究者ならしっかりと論理的に説明して後始末をしてください。
そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。
僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。
作品批判から作者の資質に筆が及ぶことよりも、批判言説そのものを「集団で」弾圧する方が罪が軽いと言うのでしょうか。
それだけでなく、彼らは僕の謝罪要求に関しても無視し続けています。
僕に対して根拠もなく「頭がおかしい」とツイートした四ツ谷龍は、まさに人格否定を行なったわけですが、
久留島はそういう「俳句界の内輪」の人間に対しては同様の文句を言うことは絶対にありません。
おまえこそが敵と味方の二分法で低劣な二枚舌を弄している排他的な人間ではないか、と思われても仕方ないと思います。
最近、僕は嵯峨直樹という歌人の『みずからの火』という歌集にレビューを書きました。
それに対して嵯峨本人がブログで、素人である僕の厳しい批判にいろいろ文句を言いたいのを我慢して、生産的な応答をしていました。
しかし俳人は本人が直接応じることを避けて、仲間が出てきて文句を言うことが常態化しています。
関悦史の批判をすれば高山れおなが文句を言う。
鴇田智哉の批判をすれば四ツ谷龍が「オルフェウス」という匿名レビュアーとして文句を言う。
福田若之を批判すれば、関やオルガンの連中が言論弾圧リツイートを拡散する。
青木亮人の真実を暴露すれば久留島元が文句を言う。
こんなことばかりです。
嵯峨は「短歌界は健全です」と書いていたと思うのですが、この発言には「俳句界と違って」という意味が含まれていたように感じました。
こういう批判封じに仲間が出てくることこそが、内輪集団の「排外的行為」と批判されるにふさわしいのではないでしょうか。
]]>
佐野波布一のコメント
エセレブ俳人のインテリ風嘘だらけ論は読むに耐えない
僕は「オルガン」という俳句同人誌を手に取ったこともないのですが、
その中心人物と目される鴇田智哉、田島健一、福田若之の句集のレビューを書いたことがあるので、
彼らの作品の特徴はなんとなく想像がつきますが、
鴇田のように意味を不明瞭にして雰囲気だけを共有する作風が「オルガン調」などと呼ばれているようなのです。
僕は彼らの作品がいかに時代遅れのポストモダン的な言語遊戯に根ざしているかを解き明かしています。
「オルガン調」を問題とするのなら、内実のない言語遊戯について議論をしなければ意味がないわけですが、
実際には不毛な議論しか行われていないことが、7月8日に「週刊俳句」のウェブ上に掲載された
小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/07/blog-post_8.html)という文章でわかりました。
(初出は『豆の木』第19号(2018年5月20日)だそうです)
僕はこの小津夜景という人の本にレビューを書いています。
そこにも書いたように、小津の作風は鴇田智哉の模倣に見えますし、
彼女の『フラワーズ・カンフー』の帯文は鴇田が書いているので、
小津が鴇田(やオルガン)と非常に近いところにいる、ほぼ内輪の人物であることは念頭に置いておく必要があります。
作風が近いということは、鴇田に影響された宮本の弁護は、小津にとって迂遠な「自己弁護」でもあるということです。
「週刊俳句」あたりに書いている人たちは、この手の「内輪弁護」を慎む意識が全くないのですが、
僕のように、擁護してくれる内輪の存在しない孤独な言論人からすると、
「仲間」だからと見苦しいまでの内輪擁護を慎まない態度には、
自分たちが甘ーいあまーい、お母ちゃんのおっぱいから離れられない幼稚園児同然のメンタリティであることを、
世の中に露出して平気でいるようにしか感じません。
まあ、小津の場合は身内擁護というより、迂遠な「自己弁護」が目的であるため、
幼稚園児のようなピュアさもなく、より不愉快ではあるのですが。
僕が小津の論に言っておかなくてはならない、と感じたのは、
小津が「〜における」などと題をつけ、参考文献も提示するような学術論文であるかのような体裁で、
まったく論理的でもない欠陥だらけの論を書いていることに対して、どうせ俳人たちには批判する能力がないと思ったからです。
こういうアカデミックな手続きをした「こけおどし」が通用するとなると、俳句界にとっても利益はないと思います。
まず、小津の「オルガン調」弁護の主旨をまとめておきます。
小津は「オルガン調」を「鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ」として、
宮本佳世乃の句を具体例として提示します。
(ちなみに「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうかね)
くちなはに枝の綻びつつまはる
ふくろふのまんなかに木の虚のある
小津はこれらの句が「くちなはの枝に綻びつつまはる」「木の虚のまんなかにふくろふのある」とあるところを、
「語順を入れ替えることによって詩趣を生み出」したものだとしています。
そもそも、語順の入れ替えにこそ「詩趣」の源泉があるという主張が、決定的な錯誤であると思えるのですが、
こういう言語遊戯即詩的であるという発想こそが、オルガンと同種の感覚の持ち主であることを雄弁に物語っています。
まず小津のインチキ議論の第1のポイントは、「オルガン調」とは語順の入れ替えのことを言うのか、ということです。
僕であれば、オルガン調とは「語順の入れ替えが実感に乏しい言語遊戯として行われている」と定義します。
実は小津はこの文章の中で「オルガン調」の内容定義をしっかりとやっていません。
レトリックでごまかしながら、「オルガン調」=「語順の入れ替え」として議論を進めていきます。
このような問題の矮小化が詐術であることに、俳人であればすぐに気がつかなくてはいけません。
最初にインチキな定義を通してしまえば、あとの議論は簡単です。
なにしろ、どんな形式であれ、詩において語順の入れ替えなどは珍しくもないからです。
そして小津はくだらない茶番を進めていきます。
ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している。
小津はこんなことを述べるのですが、「語順の入れ替えで詩趣を生み出す」のは鴇田が元祖ではなく、
芭蕉が杜甫の「倒装法」を真似したことが最初だとするのです。
「倒装法」などと名前をつけて提示すると、専門技法であるかのように見えるわけですが、
このような「こけおどし」に騙されてはいけません。
前述したように、語順の入れ替えで詩的効果を高めることなど、古今東西の詩を探せばいくらでも出てくるはずだからです。
小津は「倒装法」を紹介した久保忠夫の文章を参考文献として挙げていますが、
そもそも久保忠夫を調べると、漢詩の研究者ではなく近代詩の研究者のようです。
また、「倒装法」とは杜甫の漢詩の注釈書で使われている言葉であるようですが、
「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。
つまり、このような言葉を使っている人は一般にはほとんどいないと考えられます。
こういうマニアックな文献だけで「オルガン調」とは「倒装法」であり、そのルーツは芭蕉にあるから伝統的だ、
などという論理が成立するはずもありません。
少し考えればわかることですが、芭蕉が俳人として現在の地位にあるのは、杜甫からパクった「倒装法」のためではありません。
芭蕉の詩趣が語順の入れ替えから生まれたと考えているとしたら、小津の俳句観がどれだけ信用のできないものかわかるのではないでしょうか。
それなのに、芭蕉が語順の入れ替えをしている、鴇田も語順の入れ替えをしている、
だから鴇田は芭蕉に連なる伝統を受け継いでいるのだ、などという三段論法は稚拙極まりないとしか言いようがありません。
このような三段論法が成立するなら、インド音楽はシタールを使っている、ビートルズの「ノルウェイの森」ではシタールを使っている、
だからビートルズはインド音楽の伝統を受け継いでいるのだ、と言うのと同じことです。
小津が引用した文章で久保が芭蕉の「倒装法」について「どれほど成功をおさめてゐるかといふことになると、甚だ疑問である」と書いているように、
それ自体、成功していると評価しているわけでもないのです。
芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が「倒装法」であるかどうかも、久保がそう言っているだけで甚だ怪しいと思います。
自己弁護をするのに芭蕉というビッグネームを持ち出せば箔がつくと思ったのは容易に想像がつきますが、
こういう大学生のヘボ論文レベルのやり方には問題しか感じません。
誇大妄想家が集まっている「週刊俳句」に掲載される文章のレベルを云々するのも馬鹿馬鹿しいのですが、
このような猿知恵を慎むくらいの知性は持っていただきたいものです。
一応、専門的な議論もしておきましょうか。
「オルガン調」というものが本当に「倒装法」であると言えるのでしょうか?
僕はそれは間違っていると思います。
問題になっている杜甫の「秋興八首」の語順の入れ替えについて確認しましょう。
「倒装法」として例に挙げられているのは次の詩句です。
香稻啄殘鸚鵡粒(香稲啄余鸚鵡粒)
碧梧棲老鳳凰枝
この箇所について講談社学術文庫版の『杜甫全詩訳注(三)』では、次のような注釈で説明されています。
それぞれ「鸚鵡啄残香稲粒」「鳳凰棲老碧梧枝」の語順を入れ替え、「香稲」「碧梧」に焦点を合わせた表現。
岩波文庫の黒川洋一編の『杜甫詩選』では次のような説明があります。
普通にいえば「鸚鵡啄余香稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」とあるべきところを、「鸚鵡」と「香稲」、「鳳凰」と「碧梧」とをひっくり返して、奇抜な効果をねらったものである。
どちらにも「倒装法」などという言葉は使われていないので、やはり一般的に用いられる名称ではないわけですが、
僕が問題にしたいのは、このような語順の入れ替えの持つ意味が、日本語と中国語では全然違うということです。
中国文学者の吉川幸次郎が「膠着語の文学」で書いていることですが、
中国語は孤立語といって単語がモノシラブルで構成されていて、
「つまり意味の最小の単位である単語は、音声の最小の単位である一シラブル、ただそれだけであらわされる」ため、
中国語の一つ一つの語には断絶があるというのです。
孤立語が語の交換に対して柔軟であることは言うまでもありません。
中国は句の断絶性が強いため、次の語との関連は弱いので、それが転倒されてもそこまでの違和感は生まれないのです。
漢詩には音声上の法則、つまり平仄の決まりがあります。
それは決まった伴奏に乗せて歌うことを目的としていたからです。
「香稻」と「鸚鵡」、「碧梧」と「鳳凰」という入れ替えた名詞は、律詩の平仄二六同の法則に対応しています。
法則上、対応することが要求されている第2語と第6語の単語が入れ替わったとしても、
聞く側に対応関係は理解しやすく、読者の理解を困らせることは少ないと言えます。
しかし、膠着語である日本語ではそうはいきません。
吉川は膠着語について次のように説明します。
膠着語とは何であるか。私の考えによれば、言葉の流れが常に次に来たるべきものを予想し、予想された次のものにくっつき、流れ込もうとする態勢を、強度にとることである。いいかえれば、連続を以って言語の意欲とすることである。
そうした意欲は、まず、「てにをは」の存在となって現れる。
吉川は膠着語を「前なる語が、常に後なる語を予想する」連続性として整理しています。
そのため、日本語はダラダラと文が続く長文になりやすいのです。
「てにをは」などの助詞は続く語を予想させるため、助詞がくっついてしまえば日本語は語順を変えても意味が通ります。
つまり、助詞があるかぎり語順の入れ替えは日本語では意味がないことになります。
となると、意味を転倒させるには語順ではなく、くっついている助詞を入れ替えるほかなくなります。
さて、僕が鴇田などの俳句が「倒装法」などというものとは全く違うと思うのは、
それが孤立した名詞の交換ではなく、助詞の使い方に特徴があるからです。
僕は鴇田の『凧と円柱』のレビューで、すでに鴇田が語にくっつけるべき助詞を入れ替えていることを指摘しています。
本来あるべき助詞を入れ替えるということは、故意に読者の予想を裏切るわけですから、
読者を騙すトリックとしてやっていることになるわけです。
これが中国語と日本語の言語的な違いに由来することを無視した小津の論はまったくインチキでしかないわけです。
漢詩の「倒装法」なるものは、語順を入れ替えても元のかたちがすぐにわかりますが、
「オルガン調」では元のかたちはそれほど自明ではありません。
それは、「オルガン調」が作り手の自己満足を優先し、読者を欺くことを目的にしているからです。
この事実ひとつをとっても、「オルガン調」が「倒装法」にルーツを持つ伝統技法だという主張が、
いかに欺瞞であるかがよくわかるのではないでしょうか。
「膠着語の文学」が俳人にとっては興味深い読み物であることを僕は疑いません。
なぜなら吉川は日本語の性質に反発した文学として俳句を挙げているからです。
吉川は俳句を日本語の性質に逆らう文学形式だと把握し、その特徴を断絶に見ています。
断絶とはすなわち「切れ」であるわけです。
俳句における「切れ」つまり断絶がいかに日本的なものに対して否定的にはたらく生命線なのか、
志の高い俳人なら誰でも意識しなければいけないところでしょう。
俳人が内輪の仲間とつながることばかり考えていることを僕が軽蔑するのは、
このような俳句の「原理」を実行する資質に欠けていることを自ら証明しているからでもあるわけです。
(身内で寄り集まる連中が、自分たちで俳句地図を作って「俳句原理主義」を名乗っていたのはお笑い種だとわかりませんか?)
こういう「つながりたがりの幼稚園児」が本来あるべき俳句原理を否定していくのは必然です。
ここで小津夜景のインチキ論の第2のポイントを言っておくと、
「オルガン調」とは語順の入れ替えが問題ではなく、「切れ」の隠蔽にあるということです。
強い切れ字で切るべきところに「てにをは」などの助詞を入れて、「弱い切れ」へと入れ替えることで、
読者の後の予想をズラして意味を曖昧化するのが、鴇田もしくは「オルガン調」というものの欲望です。
もう一度、冒頭で小津が取り上げた宮本佳世乃の句を見直してみましょう。
「オルガン調」が読者を騙すことに重点を置いていることが、よくわかると思います。
くちなはに枝の綻びつつまはる
この句が、小津が指摘する通り「くちなはの枝に綻びつつまはる」を変形したものであるならば、
入れ替わっているのはやはり助詞の「の」と「に」であるのは明白です。
これが「倒装法」でもなければ、語順の入れ替えでもないことがおわかりいただけると思います。
助詞を入れ替えることで、助詞によって予想される後続の語をあるべき語でないところに接続しています。
海に続くドアを開けたら山に出たように読者には感じられるわけです。
文学をCGアートか何かと勘違いしているのでしょうか。
では、次の句はどうでしょう。
ふくろふのまんなかに木の虚のある
これを小津は「木の虚のまんなかにふくろふのある」として「話は簡単だ」と述べるのですが、
さて、こう名詞を入れ換えたところで意味がわかりやすくなっているでしょうか。
「ふくろふ」であるならば、どうして「いる」でなく「ある」となるのでしょうか。
ここには語順を入れ換えただけでは解決できない意味の脱臼があるはずですが、
結論ありきの小津のインチキ論ではそこが見過ごされています。
この句に関しては、語順の問題ではなく、「切れ」の問題として考えないと解決できないと思います。
つまり、読者へのわかりやすさを求めるのならば、「ふくろふやまんなかに木の虚のある」となるのではないでしょうか。
そして、このままの句であると、「まんなか」が何の「まんなか」なのかわからないため、さらに語順を変えて、
「ふくろふや木のまんなかに虚のある」としないと情景が描けません。
この手の込んだ細工が、いかに当たり前の情景を描くことからの「逃走」であるかがよく理解できると思います。
この技法の目的が「詩趣を生み出す」ことにあるとは僕には思えません。
CG的なメクラマシを「詩趣」などと感じる人の詩的感性がいかにインチキであるか、
俳句の文化伝統にプライドがあるなら絶対に騙されてはいけません。
このようにいかがわしい手法を使って俳句的な断絶を弱めてまで、
意味の脱臼を求める姿勢の先には何があるのでしょうか。
僕の予想では、彼らが模範としたいものは俳句ではなく現代詩となるはずです。
前々から現代詩コンプレックスを持った俳人がいることは知っていましたが、そういう人が「オルガン調」とやらに共感するのでしょう。
西洋の現代詩に憧れているから西洋の〈フランス現代思想〉もしくはポストモダン的な意味からの「逃走」という
時代遅れの産物に心惹かれてしまうのです。
こんなことに明け暮れた現代詩がどのような末路を辿ったかを知っている者からすれば、
今更俳句でそんなことを「新しい」と考えることの愚かさを指摘するほかありません。
だいたい、現代詩をやりたいなら現代詩を書けばいいのです。
俳句をある程度極めたわけでもないのに、現代詩っぽいことをやりたがるのは、
現代詩をやりたいのにその能力が足りないから、形式と技法に頼れる俳句を選んでいるだけに感じます。
小津夜景は漢詩の何たるかもわからずに、門外漢の俳人相手にファッション漢詩本などを出しています。
この手の人々は責任の生じる場所からズレて、好き勝手に趣味に浸ることを自由と考えているようですが、
この人がポストモダンに依拠した「おフランスかぶれのセレブおばさん」であることを忘れてはいけません。
小津の文章の最後に参考文献として挙げられている佐藤信夫『レトリックの意味論』という本は、
ソシュールやチョムスキーなどの西洋言語学に基づいた本で、漢字はもちろん、膠着語を視野に入れてはいません。
ポストモダンの「言語論的転回」にとっては重要でしょうが、そのまま俳句に役立つものではありませんし、
小津が持ち出した代換法は、「京都の夜」と「夜の京都」のように意味内容に変化がないものなので、
「オルガン調」の説明には不適切な例だと言えるでしょう。
出版が1996年であることを考えても、いかに小津が「死に体」のポストモダン思想に依拠した人間かが理解できるのではないでしょうか。
俳人の頭が悪いから侮られるのでしょうが、ポストモダンおばさんの漢詩を隠れ蓑にした牽強付会の論など、
インチキだと一蹴できないようでは俳句界の未来が思いやられます。
への佐野波布一のコメント
適切と思えない人を選者に起用する朝日新聞の不見識
どうも、佐野波布一と申します。
朝日新聞に一般公募の俳句から4人の選者が選んだ俳句を掲載する「朝日俳壇」というコーナーがあります。
そこで長らく選者を務めた俳句界の重鎮、金子兜太が亡くなって欠員が出たあとに、
その後釜に高山れおなが選ばれたと知り、
新聞を購読していない僕は7月8日の朝日新聞をコンビニで買ってみました。
高山れおなは以前に朝日俳壇のコラムを書いていて、すでに朝日新聞と「つて」があるのは知っていたので、
彼が選ばれたことにはそれほど疑問はなかったのですが、
朝日新聞の俳句に対するナメた認識に関しては正直不愉快さしか感じませんでした。
というのも、俳句の選者というのは単なる著名人の「興味」や「好み」で行われるべきものだとは思えないからです。
ある一定の理念のもとに結社の「先生」として後進を指導した経験を持っていたり、
実作や批評において広く尊敬される確固たる美意識を示している、
その実績においてこそ、その人の俳句の「選」というものが一般に通用することの秤となるのです。
しかし、高山は結社の先生として俳句の指導をしたことがないのはもちろん、
何かの賞の審査員などで確かな俳句の選をした実績もほとんどないのです。
その上、彼の実作者としての実力が一流と言えるかどうかという点にも大いに疑問が残ります。
他の選考者(大串章、稲畑汀子、長谷川櫂)と比べると見劣りすることは否めません。
高山は若手傍流集団のボス的地位にはありますが、それだけでは後者の条件にも見合う人物だとは評価できません。
金子兜太が前衛枠(そんな枠があるのか?)だと考えて、若手の前衛路線の人を選びたいにしても、
それならよっぽど賞の審査などを経験している関悦史を選んだ方が納得できる気がします。
まあ、マスコミ関係の仕事もしていて、朝日と「つて」があるから仕方ないのかもしれませんが、
高山がズレた俳句を評価して一般的な俳句を侮っている俳人であることは、
彼の同人誌「クプラス」の「いい俳句」特集に自ら寄せた文でもよくわかります。
「いい俳句」について、独自の意見という程のものもない。人々が「いい」とする句は、程度の差こそあれ大抵自分も「いい」と思う。この頃関心があるのは、「いいパイク」の方で、これはまず「わるい俳句」であることが前提となる。
俳句を「パイク」とズラしているのは、それが一般的には「わるい俳句」に見えるからです。
つまりは俳句らしくないけど面白い、というような価値観なのですが、
じゃあ前衛的な新しいものを好んでいるかといえば、
そんなことを言いながら、高山の実際の句作では過去の作品をプレテクストとしたものが主流なのです。
つまり、高山は「ズレ」を価値として評価する、今更ながらのポストモダン的な発想を評価している人なのです。
小さなズレを理解するにはプレテクストの理解が欠かせないのはオタクの世界と同じで、
ある種のオタク的知識が作品鑑賞の前提となるため、一般人や初心者とは縁遠い俳句観の持ち主であるのはハッキリしています。
僕は「週刊俳句」で関悦史に対して批判コメントをしたところ、この高山に俳句をやらない人間は俳句を語るな、とばかりに文句を言われました。
僕はこの発言に対して謝罪して退散したのですが、それでも「俳句は俳人にしかわからない」などという意識を持った人が、
新聞俳壇の選者にふさわしいとは到底思えません。
ですから、高山大先生にとっては、たいして俳句に詳しくもない一般人の俳句の選など、
心底気が進まなかったはずなので、「深く俳句を理解していない奴の句なんか読めるか」と強くつよーく固辞したに違いありませんが、
それにもかかわらず、こういう人を一般公募の新聞俳壇の選者に起用する朝日新聞の俳句文化に対する浅はかな理解はどうかと思います。
俳句指導の経験も乏しく、客観的な基準での審査経験もよくわからない人を選者に起用するということは、
その人の個人的もしくは私的な感覚で俳句選をしても良いと認めているに等しいからです。
選者が個人的な感覚で選をすることが当然となると、俳句の良し悪しに関する公的な基準がなくなるわけですから、
俳句観の怪しい選者の共感があるかどうかだけが基準になってくるわけです。
ならば、選者など誰でもいいではないか、ということにならないでしょうか。
さて、その高山れおな大先生の第一回の選句を興味深く拝見させていただきましたが、
最初に選んだのは北嶋克司さんの次の句でした。
不忘碑に蛍が一つ付いていた
「不忘碑」は戦時中に起こった新興俳句弾圧事件の記憶を風化させないために金子兜太らが作った「俳句弾圧不忘の碑」のようです。
「蛍が一つ付いていた」はその金子の句「おおかみに蛍が一つ付いていた」からの流用です。
金子の後釜に座った高山が前任者へのリスペクトを込めて選句したことを思わせるものでした。
ただ、プレテクストを参照する句を好むのは高山自身の句作そのものであることも忘れてはいけません。
いきなり1句目から自分の「興味」や「好み」で選句したということもまた事実です。
もちろん、このような選句は前衛性とは何の関わりもありません。
そもそも高山が前衛に位置する俳人であると僕は思ったことがありません。
前述したように、ただ伝統俳句や日常詠をズラすことに価値を認めている人という印象です。
金子兜太は安倍政権への反対を強く打ち出していましたし、原爆・原発などに反対する活動もしていました。
しかし、高山は前衛性もないただの「趣味人」でしかなく、政治性など皆無と言えます。
この人が金子の何を引き継ぐというのでしょうか。
高山の句にこのようなものがあります。
げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
原発と前衛とを「おとなのあそび」で一括りにしています。
このように、ただ一人自分がメタに立って周囲を侮るような視点が、高山や関悦史一派の俳句の特徴です。
こんな俳句を書く人に金子は本当に後を受けてほしいと思っていたのでしょうか。
朝日新聞は政権に批判的な「左翼」系だと一般には思われていますが、
僕はだいぶ昔からこの新聞は魂を売ったファッション左翼のエリート新聞だと思って読むのをやめています。
金子から高山へのバトンパスは、その意味では必然的な流れだとも感じています。
それから、僕は高山や関悦史が戦中の「俳句弾圧」を取り上げ、
被害者の系譜に自らが連なっているかのような態度をすることが許せないと思っています。
ユダヤ人がホロコーストの被害者という立場でナチスを批判しながら、
イスラエルとして平気でパレスチナ人を虐殺しているように、
彼らは俳句弾圧の被害者への共感を漂わせながら、
自分たちを批判する者の言説を平気で弾圧してきた人間なのです。
こういう奴に限ってユダヤ的な〈フランス現代思想〉を表層的にしか理解せずに振り回したりしています。
クサレ俳人やその仲間を起用してしまうことで、新聞は自らの批判精神がいかにインチキであるかを立証し続けることになっています。
文化状況の裏面まで理解できないのであれば、
新聞は早く文化に関わるのをやめて、政治や経済のニュースに特化していくべきだと思います。
ついでなので書いておきたいのですが、
高山れおなが朝日俳壇の大先生になったことで、その手下の上田信治が四ツ谷龍のツイッターに難癖をつけた場面に出くわしました。
上田が問題にしたのは四ツ谷の次のツイートです。
四ッ谷龍@leplusvert
選考委員とか選者とか、できるだけやりたくない。他人に対する評価なんて、本質的にむなしいものなんだ。
裕明賞は裕明の賞だから引き受けて、必死にやっている。これは別のもの。
俳句の世界では、選者をやりたい人とか俳句地図を作りたい人がいっぱいいる。好きにやればと思う。
表面的には「俳句地図を作りたい人」が上田のことを暗に指しているということで上田が反発してモメたように見えますが、
僕はその前に四ツ谷が「選者をやりたい人」と書いた相手が暗に高山れおなを指していることに、
手下の上田が反発したのだろうと解釈しています。
ボスが出世するのは手下の喜びでもあるので、それを面白く思わない人には攻撃を浴びせるというのが彼ら一派のやり方です。
僕もよく攻撃対象にされるので、このあたりは非常によくわかります。
(こう書いておけば上田からのくだらないイチャモンを避けられるのではないかと期待しています)
しかし上田は、田中裕明賞で四ツ谷が上田のお仲間の句集に攻撃的論陣を張って受賞を阻んだとか何とかツイートしていましたが、
それってそもそも僕のレビューを嚆矢として言われるようになったことですよね。
僕の言説に乗っかってよく言うよ、と思ったことを付け加えておきます。
まあ、乗っかり虫は何にでも乗っかるのかもしれませんが。
]]>
嵯峨 直樹 著
⭐⭐
主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ
僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、
嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。
生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、
おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、
作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。
もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、
そこを批判するのはお門違いということになるのですが、
僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、
それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。
まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。
さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり
花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って
冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす
見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ
前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。
しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、
「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、
実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。
嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、
歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。
2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、
「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。
このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。
乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき
このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。
後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、
「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。
ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、
続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。
最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、
歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。
これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、
歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。
つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。
僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。
作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。
個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。
詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。
「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。
黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ
艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり
炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く
平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き
このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、
私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。
村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、
抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。
しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。
そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。
ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球
地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空
肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている
平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き
闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。
このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。
「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。
それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。
性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。
水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている
あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて
寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音
ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を
ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの
抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。
結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、
それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、
うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。
内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火
ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を
忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと
血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ
このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。
抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、
20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。
嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。
同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。
秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨
この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。
この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。
雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、
自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。
となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような
「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。
ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。
たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、
「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。
こういう歌は他にいくつもあります。
暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある
水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう
きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力
長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な
一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。
「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。
このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。
他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。
こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。
(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)
散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。
自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、
そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。
説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。
現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、
現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。
しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、
そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、
僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。
(新潮選書) 池内 恵 著
⭐⭐⭐⭐
シーア派については詳しいが、スンニ派については物足りない
『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』に続く池内恵の【中東大混迷を解く】シリーズの第2弾は、
イスラム教の2大宗派のスンニ派とシーア派の対立を扱います。
イランはシーア派が主導的な国で、サウジアラビアはスンニ派主導で仲が悪いとか、
ISIS(イスラム国)はスンニ派に属するなどの情報は僕も知っているのですが、
実態としてどこまで宗派対立が中東情勢に影響を与えているのか、ということまではよくわかりません。
中東情勢に詳しい池内による本書が宗派対立の実際を学ぶのにうってつけだと思って読んでみました。
冒頭で池内は中東問題を宗派対立に還元する視点を否定します。
すべて宗派対立が問題だとするのは現実的な理解を妨げるとしながらも、
政治が宗派を利用することが実際に行われていて、「宗派主義による政治は、動かし難く存在している」と述べています。
宗派対立といっても教義においての対立ではない、としながら、宗派は政治的に構成されたとも言い切れない、とも言います。
結局、池内自身は宗派対立の現実について、まともな回答を避け続けているように感じました。
なかなか難しい問題なのは想像できるのですが、他人の見解を否定しておいて自身の見解が不明瞭なのには不満が残りました。
第2章はシーア派とは何かを歴史的に振り返ります。
シーア派が第4代カリフのアリーの血筋を正統だと考えていることは、
受験世界史の知識でも知ることができるのですが、
さすがに池内の説明はさらに詳しくわかりやすいもので勉強になりました。
シーア派とスンニ派はムハンマド死後の後継者問題に端を発します。
後継者である初代カリフはムハンマドの妻アーイシャの父アブー・バクルですが、
アブー・バクルからウマル、ウスマーン、アリーへと至る「正統カリフ」の権力継承を認める「主流派」がスンニ派で、
ムハンマドの娘婿のアリーが正統な後継者であるべきだった(イマーム)と考える「反主流派」がシーア派です。
個人的に興味深かったのは、シーア派が「あるべきだった権力継承」という理想に立脚して、この現実を超克する立場にあることです。
スンニ派という主流派によって「虐げられた民」であるシーア派というあり方が、
反体制勢力の原動力となり、権力を掌握して王朝を築き上げるまでに至りました。
その代表がアラブ人によって従属民の位置に置かれたペルシア人を中心とするイランだと池内は言います。
第3章は1979年のイラン革命について詳しく語られます。
西洋化を進めたパフラヴィー朝がウラマーというイスラム学者による統治体制に打倒されたのがイラン革命です。
池内はイラン革命の衝撃を物語る4つの要素を挙げています。
(1)近代化・西洋化に対する否定
(2)イスラーム統治体制の樹立
(3)スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握
(4)反米路線へ転換
このように整理してもらえると、
現在のイランのアメリカやサウジアラビアとの葛藤がどこに根ざすのかがわかりやすくなります。
第4章はイラク戦争後の宗派対立について、第5章はレバノンの宗派主義体制について述べていきます。
「レバノン政治は、この本のテーマとなる宗派対立の元祖・家元とも言えるような存在である」と池内が語るように、
本書の目的のひとつにはレバノン情勢を語ることがあるように思います。
レバノンが宗派主義体制と言われるのは、国内の宗派の人口比率に応じて政治権限を分けているからです。
レバノンはイスラエルの北に位置し、シリアとも隣接する位置にある国ですが、
これまでキリスト教のマロン派が国内の多数派を占めていたようです。
キリスト教諸宗派の人口が多数派であれば、議会の議席もそれに応じて多数が配分され、
大統領はマロン派、首相はスンニ派、議長はシーア派というように決まっていく、と池内は述べます。
これは各宗派に権限が分散するための工夫ではあるのですが、
出生や移民による人口の変化によりシーア派が実質上の最大派になると、各派が外国勢力を巻き込んで内戦へと発展しました。
その後、1989年にマロン派の権限を弱める「ターイフ合意」で和解がはかられました。
これに反発したのがマロン派の「自由愛国運動」を率いるミシェル・アウン将軍です。
しかし、アウン将軍の部隊がシリア軍に鎮圧されたことで内戦は集結しました。
そのままシリア軍のレバノン進駐も黙認されることになりました。
2005年にスンニ派の首相ラフィーク・ハリーリーが爆殺され、シリアの関与が疑われると、
シリア軍撤退を求める大規模なデモが続き、親シリアの内閣が総辞職する
「レバノン杉革命」が起こり、
民主化への期待が高まりましたが、結果はさらなる混乱へと突入しました。
このあたりの経緯は複雑なのでぜひ本書を読んでほしいのですが、
たしかに宗派対立という単純な視点では理解しきれない複雑な出来事に感じました。
レバノンにはシーア派のヒズブッラー(ヒズボラ)という反イスラエル勢力が存在します。
ここにはパレスチナとイスラエルの問題も関係しますし、
同じシーア派のイランがヒズブッラーを支援していることもあり、
イスラエルに肩入れしているトランプがイラン核合意から離脱することも、
このあたりの知識がないと理解が難しいと思います。
本書ではシーア派についての説明に力点があり、
サウジアラビアなどのスンニ派の実情についてはあまり書かれてはいないようでした。
【中東大混迷を解く】シリーズがこれからどうなるのかわかりませんが、
アメリカやイスラエルがアラブに及ぼしている影響を、池内が客観的に論じた本も読んでみたいと思いました。
ブレイディ みかこ/松尾 匡/北田 暁大 著
⭐⭐⭐
レフト3.0宣言の内容は反緊縮経済?
本書は3人の鼎談形式で構成されています。
イギリス在住でアナーキー志向のコラムニストのブレイディみかこ、
立命館大学経済学部教授でケインズやマルクスの経済学に明るい松尾匡、
東京大学大学院情報学環教授で社会学専攻の北田暁大の面々なのですが、
彼らは日本の左派の不甲斐なさに不満をつのらせている点で意見が一致しているらしく、
内容の大部分は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンなどのヨーロッパの左派を手本として、
緊縮財政を訴えている日本の左派はダメだという話になっています。
松尾は量的緩和(本書では金融緩和)をするべきだと主張しているために、
アベノミクスを肯定し、左派を叩いていると誤解されると本書のあとがきで嘆いていますが、
正直、虚心に本書を読んでみて、そう受け止める人がいるのは仕方ないように僕には思えました。
実際に3人は日本の左派をダメだダメだと言っていますし、それに比べると安倍政権への批判は抑えめです。
たとえば松尾は安倍政権下での実質賃金の下降について、民主党政権の後半から始まっていたと語り、
量的緩和を擁護するために安倍の経済政策の問題点はあまり強調できていません。
アベノミクスは実際には量的緩和以外にほとんど効果を示していないので、
量的緩和を肯定するとアベノミクス支持と受け止められても不思議はありません。
つまり、松尾は安倍の右翼的政策には反対ではあっても、経済政策そのものにはそれほど反対していないわけです。
どんなにケインズやマルクスを持ち出しても、結論が量的緩和であるならアベノミクスでいいではないか、
と経済の素人は思ってしまうのではないでしょうか。
(その意味で、松尾の提言を野党が受け入れないのは当然だとしか僕には思えません)
もちろん松尾の語っていることが間違っているとは僕も思わないのですが、
政治的な視点からすれば、松尾の語る経済政策で左派のアップデートができる気はしませんでした。
そもそも、日本人が経済政策にそれほど関心もなければ理解も乏しいということはどう考えているのでしょうか。
世界一の豊かさを誇った日本経済が「失われた30年」などと言われるほど停滞したのはなぜなのか、
僕は多くの経済関係の本を読んできましたが、そのあたりの共通認識も立ち上げられてないような気がします。
不良債権処理でつまづいたのか、デフレが問題なのか、借金が問題なのか、
中国の製造業の台頭が問題なのか、金融グローバル化が問題なのか、少子化が問題なのか、
人によって問題にしていることが違うという印象があります。
(そのすべてが問題ということもありそうですけれども)
この本では緊縮財政が諸悪の根源であるような「わかりやすい論点」が示され、
3人が意見を合わせて反緊縮だ反緊縮だと言っているのですが、
前述したように、それならアベノミクスでいいではないか、と思わなくもありません。
松尾は量的緩和によって完全雇用が実現する前に福祉や教育の分野へお金が回るようにすべきだと言いますが、
むしろ、そうなるためにはどうすればいいのかを考えていただきたかったです。
現在のグローバル金融資本主義に適応することを優先したら、そんなお金の回り方はありえないと思うだけに、
量的緩和の主張に重点があるような鼎談はあまり意味がなく退屈でした。
それから3人は最後の方で左派の根本は階級闘争であるということを語り出します。
これにはまったくその通りだと僕も同意したいところです。
「左派による下部構造の忘却がはじまってしまった」と北田も発言しています。
90年代の左派の主流となったマイノリティの権利などのアイデンティティ・ポリティクスがマルクスを忘却したのはその通りで、
僕も〈フランス現代思想〉からアントニオ・ネグリへと至る左派アカデミズムは時代遅れだとずっと批判しています。
北田は「どれだけ泥臭くなれるか」がレフト3.0の課題だとした上で、これまでの左派が口だけの「草の根」だったことを批判します。
北田 レフト1.0のまずさをよくわかっているから、みんな草の根だと自認し、宣伝するんですよね。ポストモダンブームの時のキーワードは「リゾーム(根茎)」でしたし、最近ではネグリたちの「マルチチュード(ラテン語で「多数」「民衆」の意味)」です。こうした概念は、先行世代の左派批判にはその都度使いやすいのだと思いますが、社会学的には根拠が見当たりません。正直わたしは単なる高学歴者の流行思想なんじゃないかと思います。
左派の本質にエリート主義があるという北田の指摘は非常に重要ですが、
松尾も北田も自分自身が大学教授であるという事実をどう考えているのかが僕には気になるところです。
ただ、北田のポストモダンに対する分析そのものは正しいと言えます。
日本の左派インテリがフランスの流行思想に飛び乗ることに自己満足してきたことは、もっともっと批判されるべきだと思います。
読んでいて最も違和感があったのは、次のことです。
そんなに下部構造が大事だと言うのなら、日本共産党や小沢一郎の「国民の生活が第一」などはどうなのでしょうか。
共産党もエリート主義ではあると思いますが、建前上は下部構造重視を貫いていると思います。
どこまで本気かわかりませんが、小沢の掲げる建前も同様です。
彼らが共産党や小沢をどう考えるのかに興味があったのですが、僕が見たところ、本書でこれらに触れたことは一度もなかったように思います。
自民党と公明党、民主党と社民党は批判されたりするのですが、共産党は存在しないかのようなのです。
もちろん、共産党が量的緩和に賛成するとは思えないわけですが、
下部構造を重視しているはずの党の支持がそれほど上がっていないことを彼らがどう処理するのか、
という僕の興味は巧妙にスルーされてしまった気がしています。
それから、僕個人としては日本の経済を語るなら、最優先で地方経済のことを考える必要があると思っています。
本書では松尾単独のあとがきで少し触れているだけで、鼎談の中ではほとんど語られていませんでした。
大上段で「〈経済〉を語ろう」と言ったわりに、正直内容は乏しすぎたような気がします。
これでは、もっとダメな左派を叩くだけの印象しか残らないのも仕方がないのではないでしょうか。
評価:
ブレイディ みかこ,松尾 匡,北田 暁大 亜紀書房 ¥ 1,836 (2018-04-25) |
牧野 雅彦 著
⭐⭐
やはりシュミットはよくわからない
ナチスへの協力が取りざたされて批判にさらされたドイツの法学者カール・シュミットを、
再評価する動きが最近目立っていますが、牧野もそのような流れの中で本書を書いています。
シュミットの思想はナチスに協力した危険思想だ、と切り捨ててしまえるものでないことは本書を読んでよくわかりましたが、
では、なぜシュミットがナチスと近い立場に身を置いたり、反ユダヤ主義とも思える言説をしていたのか、という点については、
牧野の記述は非常に後ろ向きでしかなく、これもまたフェアな立場だとは思えませんでした。
批判して終わりも良くありませんが、シュミットをただ擁護するだけの態度も、門外漢としては同様に偏ったものに感じました。
副題に「カール・シュミット入門」とあることに読み終わってから気づきましたが、
明らかに入門書のレベルではありませんし、入門書の体裁でもありません。
僕は途中でわからなくなって、もう一回最初から読み直したのですが、かなり難しくて苦労しました。
シュミットの著作自体について以上に彼の周辺人物の著作や当時の政治状況についての方が、
触れている量が多かったようにさえ感じました。
第一章は「政治神学とは何か」と題されていますが、シュミットの概念をわかりやすく説明してくれるのかと思いきや、
シュミットが影響を受けたカトリック系の反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルやドノソ・コルテスの思想を長々と説明します。
いきなりシュミットではなく謎の反動思想家の説明が続くのは、マニアックとしか言えません。
そこを乗り越えてシュミットの思想に至ったと思っても、ほとんど記述らしい記述がなく、
気づいたらメーストルとコルテスの思想にだけ詳しくなっていました。
第二章ではシュミットの『政治的なものの概念』を取り上げ、シュミットが多元主義のハロルド・ラスキを批判したことが述べられます。
直後、牧野はハロルド・ラスキの著作の内容に踏み込んでカトリック反動について長々と説明したあと、
次にジョン・フィッギスという歴史家の、教会を中心とした団体自治論を説明し始めます。
ここまで30ページを要していますが、その間にシュミットはほとんど登場しません。
これで本当にシュミットの入門書と言えるのでしょうか?
そのあとやっと『政治的なものの概念』における「友と敵」の実存的決定の話が出てくるのですが、
これが数行のあっさりとした記述で終わってしまうのです。
続いて『憲法理論』を取り上げ教会の「権威」と国家の「権力」をシュミットがどう考えていたかが語られます。
ですが、この部分は9ページで終わってしまいます。
シュミットの著書『独裁』における「委任独裁」と「主権独裁」の区別については、説明にそれほど不満はありません。
秩序を制定する権力である国民を「憲法制定権力」としたとき、憲法制定を委任された代理人が「主権独裁」である、というのは、
安倍晋三の憲法改正に対する黒い情熱を想像する上で興味深いものがありました。
シュミットの国際連盟批判や、統一帝国であるライヒへの執着、内戦を終結させる「アムネスティ」という相互忘却の原則についてや、
パルチザンにおける敵の問題など、がんばって読めばおもしろい部分もあるのですが、
長々しい上に専門的で敷居の高い内容だったというのが正直な印象です。
しかし、肝心の友と敵の区別についての説明に分量をかけていないため、
基礎的な部分をぼんやりとしか理解していないまま、先々の理論に付き合わされている感じは否めません。
牧野は「友と敵」の区別が「政治的なもの」の核心だと結論だけは何度も述べるのですが、
それがどういうプロセスで成立しているのかは、なぜか詳しく説明してくれません。
もしかしたら、シュミットとナチスとの関係にとって不利な内容なので、あまり触れないようにしているのでしょうか。
危機状態を前提にした権力論は、議論が本質的になるため魅力があるのは理解できますが、
一方で例外状態はあくまで例外状態であるという認識も大切でしょう。
「敵」を設定し共有することで自己のあり方を決めるというのであれば、
それは反動保守のやり方とそう変わらないように思えるのですが、
本書には僕の疑問を解消するような説明は見つけられませんでした。
ナイジェル・ウォーバートン 著/月沢 李歌子 訳
⭐⭐⭐⭐
イギリス視点の哲学史に〈フランス現代思想〉は存在しない
イェール大学出版局の「リトル・ヒストリー」シリーズの『経済学史』はなかなか良い内容でしたが、
この『哲学史』も著者は違うのですが、40の断章で哲学史上の思想家を紹介していきます。
これだけ多くの思想家をわかりやすく取り扱うウォーバートンの力量には感心させられますが、
彼が大学に籍を置かないフリーの哲学者であることにも驚きました。
大学の出版局からの著書なのに、大学の先生でない人に書かせられるほど、イギリスの人文知の裾野は広いのだと感じます。
ソクラテス、プラトンから始まっていき、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経て、
デカルト、パスカル、スピノザと続き、ルソー、カントへと至る流れは王道と言えます。
聞いたことがある哲学者の名前が次々と出てくるのは、ビギナー向けとしては欠かせない要素です。
また、ウォーバートンはビギナーが困らないように、わかりやすい説明を心がけています。
エピクロスは僕にはそれほど馴染みのある思想家ではなかったのですが、
「エピクロスの教えは、ある種のセラピーでもあった」と説明されると、興味が掻き立てられます。
ヴォルテールについて書かれている章もためになりました。
彼は言論の自由の擁護者で、「あなたの主張には反対だが、そう発言する権利は命を懸けて守ろう」と発言したそうです。
僕はR大学の准教授に言論弾圧を受けたことがあるのですが、そういうインチキ野郎に比べてヴォルテールは偉い人だと思いました。
ヴォルテール自身は権力者である貴族を侮辱したとして、バスティーユ監獄に入れられてしまったのですが、
それでも周囲の偏見や疑わしい主張に疑問を呈し続けるのをやめない、勇敢な人だったとウォーバートンは述べています。
ヴォルテールの『カンディード』がライプニッツの楽観主義を風刺しているというところも、
非常におもしろく読みました。
誤解されやすいルソーの「一般意志」についても鮮やかに説明しています。
共同体全体の利益になるものが一般意志であるため、自己本位であれば誰もが税金を払いたくないと思うものだが、
一般意志に基づくと、共同体が適切なサービスができるのに十分な高さの税金を支払うべきだということになる、
という例を出されると、理解が平易になります。
ただ、本書はイギリス人による哲学史のためか、ウォーバートンの個人的趣味のためなのかわかりませんが、
全体にドイツ思想に対して評価が厳しいように思いました。
カントの道徳哲学をアリストテレスと比較して、ウォーバートンは次のように書いています。
アリストテレスは、真に徳のある人はつねに適切な感情をもち、その結果として正しい行動をすると考えた。カントにとって、感情とは、見せかけではなく本当に正しいことをしているのかどうかをわからなくして、問題をあいまいにするものである。
カントは理性さえあれば道徳的でいられると考えたというのがウォーバートンの説明なのですが、
あまりにカント思想の理解が表層的に思えます。
20章に登場したイマヌエル・カントは、「嘘をつくな」というような、どんな場合でも適応される義務があると主張した。だが、ベンサムは、行為の善悪は結果によって判断されるとし、状況次第だと考えた。嘘をつくのはつねに誤りだとは限らない。
この「嘘をつくな」の例はカントの定言命法を説明するのにふさわしいとは僕は思いません。
その意味で、ウォーバートンの記述にはカントに対する悪意が感じられなくもありません。
ヘーゲルやニーチェの扱いもあまり良いとは言えませんでした。
バートランド・ラッセルの紹介などは非常に良く書けていたので、やはりイギリス偏重という傾向は否めないと思います。
特に日本人にとって違和感があると思われるのは、フッサールとハイデガーの現象学と解釈学に対する記述がほとんどないことでしょう。
ハイデガーの名前を出したかと思うと、すぐにアーレントへと話を進めてしまうあたりは不自然に思えます。
また、サルトルとボーヴォワールには触れるのですが、
日本では現代思想の代名詞であるフランスの構造主義とポスト構造主義の思想家については一言も触れていません。
アーレントからカール・ポパーへと進み、トーマス・クーン、フィリッパ・フット、ジョン・ロールズときて、
オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーで締めくくられます。
イェール大学による哲学史ではいわゆるポストモダン思想は哲学ではないというのは非常に興味深く思えました。
その意味では日本的な現代思想バイアスを修正するのに本書は適しているかもしれません。
個人的には、ポパーがフロイトなどの精神医学に反証可能性がないため、非科学だと批判したというところが勉強になりました。
思想家の変わったエピソードなども差し挟まれていたりして、読み物としてもなかなか面白かったです。
評価:
ナイジェル・ウォーバートン すばる舎 ¥ 3,456 (2018-04-25) |
佐野波布一のコメント
W杯グループリーグ最終戦での「他力本願」を監督の苦渋の決断と持ち上げる欺瞞
僕はスポーツを見るのは好きですが、ネットでそれについて書きたいとは思いません。
ただ、今回の日本人の自己欺瞞があまりに耐え難いために発信させていただきます。
僕のサッカーとの付き合い方は変わっているので、周囲からは「変人」と思われています。
僕は10代の時にテレビでワールドカップを見ていたとき、日本が出ていなかったため、
応援する母国がほしいと思って、コロンビアを母国にしようと決意しました。
それ以来、サッカー国籍はコロンビアだと公言しています。
(ヨーロッパ偏重の権威主義的なサッカーファンに対する反感もあったかもしれません)
それからずっと僕はコロンビア人として、ワールドカップ予選は南米予選だけをチェックしてきましたし、
チャンピオンズリーグよりもリベルタドーレスを見てきました。
コロンビアを応援するために94年のアメリカ大会にも行きました。
(日本代表の試合は国内すら一度も行ったことがありません)
僕はサッカーマニアではありませんが、日本代表の選手よりコロンビア代表の選手の方が断然詳しいと思います。
今大会でコロンビアが日本に負けたのは僕にとって悪夢でした。
日本中が喜んでいるのかと思うと、どうしようもなく気持ちが沈んだものですが、
コロンビア人と受難をともにしたことで、自らのサッカーアイデンティティの強固さを感じたものです。
そのため、僕はグループリーグ最終戦ではコロンビア対セネガルの試合をリアルタイムで見ていました。
日本戦には1秒たりともチャンネルを合わせなかったので、日本戦で何が行われていたのかは翌日のニュースで初めて知りました。
終了近い時間帯に日本が負けているのにもかかわらず、パス回しで時間稼ぎをしていたと知って、僕はびっくりしました。
コロンビアがセネガルに1点リードしていることから、西野監督はコロンビアの勝利に期待して、
1点差負けで決勝トーナメント進出を手に入れようと考えたようなのです。
僕が驚いたのは、このようなギャンブルに全く合理性がなかったということです。
コロンビアとセネガルの試合をずっと見ていればわかることですが、ハッキリとセネガル優勢の試合でした。
僕はコロンビアの分の悪さを悟って、ハーフタイムで妻にも厳しい状況であることを話しました。
チャンスもセネガルの方が多く、日本がポーランドに先制され、こちらが引き分ければ決勝に行けると知った後も、
引き分けること自体が至難の技だと感じて喜びもしませんでした。
しかし、セットプレーというものは一撃があります。
リーベル移籍後にかつての輝きを取り戻しつつあるキンテーロからのコーナーキックに、
バルサでくすぶっているジェリー・ミナが頭で合わせて先制したのです。
僕の実感では運良く先制点をゲットしたというところでした。
その後は当然セネガルが攻勢に出て、コロンビアは何度も窮地に立たされました。
最後の笛が鳴るまで、ものすごく時間が長く感じられましたし、いつ点が入っても不思議でない展開でした。
こういうことはリアルタイムの実感でないとわからないので、日本戦を見ていた日本人にはわからないと思います。
そのため、僕のような自称コロンビア人が語ることに意味があると思って書いています。
要するに、コロンビア人から見ると、薄氷を踏むような先のわからない展開の中で、
試合を捨ててまでコロンビアの勝利に賭けるという西野監督の采配は、たまたまうまくいっただけでクレイジーだと思えるのです。
たとえばネットにある読売新聞の記事に、浅井武という人が書い文章がありましたが、
彼は「かなり危ない橋を渡った」と「他力本願」に否定的な評価をしているのですが、
「セネガルにスーパーゴールが生まれたり、コロンビアに致命的なミスが出たりして」
などと書いているように、どうも日本人はコロンビアが優勢に試合をしていたと思い込んでいる節があります。
まずはその認識が間違っていることを共有してから、今回の采配について評価をするべきだと思います。
それなのに、日本でニュースなどを見ると、セネガルが追いついたら批判されるであろうことを、
「あえて」決断した西野監督を讃えるようなコメントが繰り返されていて、呆れ果てました。
世界から日本の行為は散々に批判されていますが、客観的に見れば当然批判される行為でしかありません。
なにしろ、自力で勝ち進めない自らの力不足を自覚をして、
結果を他のチームの頑張りに丸投げしていながら、
決勝トーナメントにだけは進出したい、という浅ましさだけを表に出してしまったのですから。
このような「浅ましい」行為を後ろめたく思う日本人も少なくないことを僕は確認していますが、
サッカー協会への批判がタブーとなっている日本メディアは、あろうことか西野が立派な「決断」をしたかのような欺瞞言説を垂れ流しています。
僕にはそれが正当な評価とは思えません。
日本対ポーランド戦に関しては、僕が知った情報はすべて試合後のものでしかないのですが、
日本はスタメンを6人も変えて試合に臨んでいます。
過去2試合で敵ながら怖いと思った乾がスタメンでないということに驚いたのですが、
この采配が、日本が戦力を温存しても連敗中のポーランドとなら引き分けられる、
という甘い見通しによるものであったことは間違いないと思います。
コロンビア戦を一人多い状態で勝ったわりに何を勘違いしたのかわかりませんが、
ずいぶんと余裕をかましたものだな、と思います。
このスタメンから感じることは、日本サッカー協会と西野朗が日本の決勝トーナメント進出を楽観視していたということです。
つまり、彼らにとって日本の決勝トーナメント進出は「既定路線」となっていたのです。
(初めからコロンビアがセネガルに勝つにちがいないと思っていたのかもしれませんが)
おそらく、その「既定路線」をもとに裏ではいろいろなお金が動いていたに違いありません。
このようなナルシスティックな楽観主義はいかにも日本的だと思いますし、第二次大戦時の大日本帝国が、ナチスがイギリスを倒してくれることを期待して作戦を立てていたことが思い出されました。
しかし、ポーランドに先制されたことで日本に予選落ちの危機があることに今更ながら気づかされたのでしょう。
「既定路線」が「既定路線」でなくなることが最も恐ろしい人たちが取る手段は決まっています。
どんなことをしても「既定路線」を維持することです。
たとえフェアでないと言われようと、たとえ他力本願であろうと、「結果」を合わせていくことが最も大事になるのです。
それが「あられもない時間稼ぎ」という西野の采配を導いただけだと僕は考えます。
サッカー協会と一体化した西野にとっては、日本が決勝トーナメントに進めないこと以上に怖いことはなかったように思います。
それなのに、セネガルが同点に追いついたら批判されるとわかっていて、時間稼ぎを決断した西野はすごい、
などとメディアが垂れ流すのは、僕からするとサッカー協会とタッグを組んで情報操作をしているとしか思えません。
何もすごいことなどありはしません。
日本が失点して「自己責任」となるより、他会場の「自然」に結果を任せた方が、
西野自身が責められることは少ないと計算しただけにすぎません。
その証拠に、日本以外の国で西野の戦術を立派な決断だなどと評価しているメディアを見かけませんし、
かつてガンバ大阪で西野の下でプレイしたことがある遠藤保仁などは日刊スポーツの取材に、
「セネガルが得点したのなら、みんなの責任」などと答えて、西野の責任がスッポリ抜け落ちるような発言をしています。
(僕はこの遠藤の発言に、戦争責任は全員にあるという「一億総懺悔」を彷彿とさせられました)
ネットには勝てば官軍とばかりに「結果」がすべてで問題ないという「強弁」をしている「わかっていない人」がいますが、
日本のやったことは問題がないという言説は世界では通用しません。
なぜなら、他会場の結果で試合結果をコントロールすることが問題行為だと見なされているからこそ、
グループリーグの最終戦は同時刻に試合を行うようにしているのです。
つまり、FIFAが日本の採用した作戦を良いものだと評価するはずがないのです。
そのような意図もわからず、自己本位な行為をしてしまった田舎者が日本代表だということです。
自国内の自己満足的な視点しか持ち得ない日本人は喜んで騙されていくのかもしれませんが、
西野監督の采配を評価することは外から見たら滑稽でしかないわけです。
(残念ながら僕は純粋な外の人間ではないので、滑稽ですませられずにこのような文句を言いたくなるわけですが)
11人対11人の試合展開では一度も相手チームをリードしたことがなかった日本が、
他力本願の時間稼ぎをして決勝トーナメントに進出したのは明らかなのですから、
潔く「まともに戦ったら弱い僕らが決勝トーナメントに行くには、みっともなくてもあれしかなかったんだ」と言ってほしいものです。
まあ、日本人はナルシシズムを充溢させることが生き甲斐なので、そんなことが認められるわけがないんですけどね。
どうして日本は実力以上に背伸びをしていないと気がすまないのでしょうか。
バブル経済で夢を見てから、現実のショボい自己像と向き合うことを避けることが、日本人の欲望になってしまいました。
僕は主に思想界や文学界などで、実力が乏しいのに斜陽の出版業界との癒着でスター扱いされている人物を批判していますが、
このような人物が後を絶たないのは、彼らが現在の日本の自画像と一致しているからだと感じています。
その意味で彼らは現代の日本人からの共感は得られるわけですが、
さすがに長い歴史の中では、いずれ彼らの実力の乏しさが暴露され批判されることになると思います。
サッカーで実力が暴露されるのは、それに比べれば時間がかからないのではないでしょうか。
]]>船木 亨 著
⭐
権威主義的なドゥルーズ学者を調子に乗せる出版界の腐敗
日本の出版界には「現代思想=フランス構造主義の系譜」という硬直した発想が根強くあります。
そのため、ドイツ人でF・シェリングを専門とする思想家マルクス・ガブリエルが来日すると、
ドイツ思想の研究者でもない國分功一郎や千葉雅也というG・ドゥルーズ研究者を対談相手にしてしまったりします。
ドイツとフランスの区別もできない西洋思想後進国にはガブリエルも苦笑するしかないところですが、
このようなドゥルーズを持ち上げていれば安全というような、一元的な価値を日本の現代思想は30年以上も守ってきています。
本書の著者の船木もドゥルーズ学者ですが、あまりに短絡的で教条主義的な〈フランス現代思想〉の「受け売り」にウンザリしました。
何の思想を研究するにしても、対象を無条件で信奉してしまったら、それは思想とは言えないでしょう。
簡単に〈フランス現代思想〉の特徴を整理すれば、ポストモダン的な近代批判であり、
反人間主義に基づいた理性批判、主体批判になります。
本書を読みはじめると、船木は理性や主体を近代的な悪と決めつけて自説を展開するばかりで、
読む前からゴールのわかっている本でしかないという印象でした。
僕は完読主義でどんな本も最後まで読むのがマナーだと思っているのですが、
本書は130ページまで読んだところで断念しました。
思想好きの人でないとなかなか読んでいないであろう思想家の著作を、たいした説明もなく持ち出すわりに、
説明が親切ではないので、それだけで挫折する人もいると思います。
しかし、それらを読んでいて内容もある程度知っている僕が読んでも、
それほど思想的に感心することが書いてあるわけではありません。
わかりやすくズバリ言ってしまえば、本書は500ページ以上にわたって船木の自己満足が綴られているため、
読み手にまで届くものがほとんどない恐怖の本だと感じました。
そういえば、誰一人として生徒が耳を傾けていない授業を平気でしている大学教授っていますよね。
僕は前々から、〈フランス現代思想〉学者が、その特色である相対主義を偉そうに主張しながら、
自分の依存対象である〈フランス現代思想〉をまったく相対化できないことにガッカリさせられています。
本書を断念するキッカケとなった僕が最も許せなかった記述は、
ヒトラーを支持した「権威主義者」を批判したエーリッヒ・フロムが間違っているというところです。
船木はフロムが「権威主義者」である大衆を非理性的な存在として批判したと述べたあと、
理性は悪だと思い込んでいるためか、
「権威主義者が普通の人間であり、理性的主体の方が変人なのである」などと主張しているのです。
船木はそのあと、権威主義者が「一定の比率で出現するのが社会なのだと考えるべきではないだろうか」などと述べるのですが、
本当に「一定の比率」でしかなかったら社会全体の体制に影響するはずがありませんので、
説得力のない論理で権威主義者を擁護しているようにしか受け取れません。
このように単純に理性を否定する人物が、どうして理性的エリートがなる大学教授などというポストにいるのでしょうか。
まさか彼はドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲望によって論文を書いたとでも言うのでしょうか。
僕には船木自身がフロムの言う「権威主義的パーソナリティ」を体現した人物であるため、
「わたしこそが普通の人間なのだ」と主張したいがためにフロムを批判しているようにしか感じられませんでした。
今、ペラペラと先の方をめくってみたら、163ページにこんな文もありました。
昇華された暴力が理性なのである。生活条件の満たされたメジャーなひとびとにとって抑圧されるべきものがあり、これを抑圧する暴力が理性と呼ばれているものなのだ。
パラ見なので文脈はよくわかりませんが、やっぱり教条的に理性を悪だと考えているとしか思えません。
そして最後の方を開いて確認してみましたが、僕の予想通りの結論が展開されていました。
「近代の一時期は、理性主義的な少数エリートが強力だったという点で、ちょっと特別だった」
などと述べて、やっぱり船木は理性と近代をひっつけて「近代主義」などと批判するのです。
ちょっとでも歴史の知識があれば、中国の科挙制度などの官僚制度に基づく社会はいつの時代であろうと理性的エリートが主導した社会です。
まさか船木は律令国家も近代主義だとでも言うのでしょうか。
正直に言えば、僕は〈フランス現代思想〉を単純に権威化して、このような暴論を書く人間に怒りを感じています。
そもそも大学教授こそが理性的エリートであり、それが官僚的エリートになっていく人材を選別し教育しているのです。
自分のことは棚にあげ、何か批判をしているつもりで、無意味に長大な本を書く、
こんなことを許す筑摩書房という出版社はどうかしていると思います。
そして理性を批判した船木が最後にたどりついた結論は、「情動」が大事だということでした。
情動は、複数の身体のあいだで起こる感情のことです。性衝動などがいい例なのですが、それ以外にも、悪くいえば、まさに群衆心理的なもの、横並び的な集団主義的なものを惹き起こすさざ波のようなもののことです。
幼稚園児の一人が泣くとみんなに伝播して集団で泣き出すような情動が大事だという結論です。
この幼児性(性衝動というなら「萌え」のようなもの?)が現代思想の結論だとしたら、どれだけ虚しいことでしょう。
船木の言う「横並びの集団主義」が日本的な価値観であることは強調しておく必要があります。
日本流の〈俗流フランス現代思想〉が西洋思想の顔をしながら、実は日本人のナルシシズムを高めるだけでしかないことは、
僕が繰り返し指摘していることですが、船木の結論はまさにそれをなぞるものでしかありませんでした。
(だいたいドゥルーズは群集心理が大事だなんて言ってませんよね)
思った通り、ゴールの決まった本であったことがパラ見でも確認できるわけです。
盲目的に〈フランス現代思想〉の権威をありがたがれる人にだけ本書をオススメします。
そうでない方は本の上にレモンを置いて立ち去るのが良いでしょう。