『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』(東京大学出版会) 石田 英敬/蓮實重彦/その他 著

  • 2015.09.06 Sunday
  • 18:31

『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』

  (東京大学出版会)

  石田 英敬 /蓮實重彦/その他 著 

   ⭐

   表紙を変えても中身は古いまま

 

 

本書は2007年に東大大学院情報学環で行われた
シンポジウムを単行本の形にしたものです。

出席者にはフリードリヒ・キットラーやベルナール・スティグレールがいて、
メンバーは豪華といえなくもないのですが、
近年めざましいメディアの技術革新からすると、
8年も経ってから本にするのは遅すぎるように思います。

現在「メディア哲学」と銘打って本を出すなら、
当然インターネットやスマホの全般化という環境は無視できません。
そのあたりを期待して本書を購入したのですが、
8年前がベースでは現在の状況に間に合うはずもありません。

インターネットに触れているのはスティグレールの論考ぐらいです。
「WiMax」を名指ししている論考でしたが、
今となっては彼がWiMaxだけを問題にした理由がよくわかりません。
内容も将来への曖昧な展望であって、
不明瞭なイメージしか得られませんでした。

RFID(ID情報を埋め込まれたタグ)やメディアアートの話も、
物足りなさが残りました。
このシリーズを買うなら、2巻以降を買った方がいいかもしれません。

最初の蓮實重彦の論考は旧世紀のメディア論の焼き直しでした。
まだこんなことを言っていればいいのか、と正直あきれました。
蓮實お得意の映画についての論考なのですが、
映画の起源はサイレントであって、音声は映像とズレているというのです。

彼の発想のもとにはジャック・デリダの『声と現象』があるのでしょう。
音声は純粋な自己触発であって、同一性の強化につながるが、
エクリチュールは多様な意味をもたらし、差異によってズレが生じる、
という図式の応用です。

もしくはジル・ドゥルーズの『シネマ』を踏まえているのかもしれません。
映像イマージュと音声イマージュの切断、断絶という発想です。

このThat'sポストモダンという発想自体がダメだとは言いませんが、
何十年も同じ事を言い続けることは同一性の強化ではないのか、
という疑問が僕にはぬぐえません。
(また、このズレが映画においてどう重要なのかもわかりません)

このような弊害は、
日本では思想が「語られる」だけで良いものであり、
「実効性」を問われないことから起こっています。

これはそもそも、西洋思想が日本で実効性を持たないことを利用した腐敗の構造といえるものです。
西洋思想だから日本で実効性がなくても当たり前。
だから、口だけで言っていても別に責任を問われない。
このメカニズムはメディア上の匿名の発言と構造上の類似があります。
つまり西洋思想をメディアとした無責任性が存在するわけです。

メディアや差異の問題を考えるなら、
西洋と日本の差異とそれを媒介するメディアの働きの批判的考察が欠かせません。
(ただ、この問題は西洋の思想家が考えてくれないので、
自分たち自身で「考える」ことをしなくてはいけませんね)

総じて〈フランス現代思想〉に依存した連中は、
思想の実効性には関心がなく、
権威のある思想を振り回すことに執心しています。

彼らは口では差異とか他者とか言いながら、
自らの行動がパラノイア的であることを反省しません。
どんなに思想の内容がすばらしくても、
それを使う人間が低俗な精神しか持たなければ真逆の効果を導きます。

「メディアのデジタル転回」などと新しげなことを言うならば、
デジタル以前のメディア論では到達しえない新たな理論を出してほしいものです。

 

 

 

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