「文学界」2015年7月号 (文藝春秋)

  • 2015.06.10 Wednesday
  • 11:39

「文学界」2015年7月号

  (文藝春秋)

 

   ⭐

   そもそも出版社に知性が見られない

 

 

僕は「反知性主義」関連本の批判レビューをいくつか書きましたが、
こう次々と現れてくると、
モグラたたきでもしている気分になります。
(もう最後にしようと思っています)

「反知性主義」という言葉が出版界で流行していますが、
この言葉に明確な内実はありません。
漠然と自らが「悪」と感じるものを「反知性」と名指しして、
それを攻撃したり排除することで、
自らの心の平安を求めるための非知性的な言葉です。

問題をしっかりと認識せずにレッテル貼りをするという点で、
この言葉は問題解決を意図してはいません。
ただの「鬱憤晴らし」の要求に応えているだけです。

この言葉が動員のための言葉として使われるのではないか、と
僕は内田樹『日本の反知性主義』のレビューで書いたのですが、
今号の特集「「反知性主義」に陥らないための必読書50冊」で、
とうとう「反知性主義」が動員のための言葉として利用されました。

その意味では、動員された50人の知性には疑問を感じますが、
全員の書いたものを読んでみると、
中には単なるエクスキューズではなく、
批判的知性を持って書いている人もいます。

たとえば池内恵はこんなことを書いています。

 「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなって
 こんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」
 の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、
 といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高
 に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本
 は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。
  今手にとっておられるこの雑誌を出している出版社だって、私
 から見れば数多くの反知性主義本を出し続けている。

池内は「反知性主義」という非知性的な言葉を垂れ流す出版社が、
むしろ知性的といえない存在であることを示唆していますが、
原稿を依頼された出版社を批判するのは簡単ではないと思います。
こういうことを書いてくれる人が一人でもいることに救われます。

他では、石井洋二郎の発言も妥当だと感じました。

 ある種の人々に「反知性主義者」というレッテルを貼って事を済
 ませてしまうのはたやすい。けれどもそのこと自体が典型的な判
 断停止であり、まさに反知性主義的な身振りであることを心得て
 おく程度の感性は、最低限持ち合わせておくべきだろう。

また、松浦寿輝が反知性主義への処方箋として、
外国語と親身につきあうことを挙げていたのは、なるほどと思いました。
(個人的には東大で働く連中などほめたくはないのですが)

そういえば、「反知性主義」で本まで出した内田樹は、
今回一度も「反知性主義」という言葉を使っていませんでした。
なにか心境に変化でもあったのでしょうか。

こうして「反知性主義」現象を追いかけていると、
出版社の安直な発想が問題だと感じます。
知性や倫理より自己保身を優先する日本のマスコミこそが、
反知性主義と呼ばれるのにふさわしいと僕は思っています。

さて、僕は仕方なくひさしぶりに文芸誌というものを買いましたが、
内容は以前よりさらにひどくなっていますね。

芸人でウケたからかわかりませんが、
演劇人や俳人などの下手な小説を載せて何が面白いのでしょうか?
小説の修行をしてきた人より素人を好むのは、
AKB文化にでも影響を受けた結果でしょうか?

それから小山鉄郎の「村上春樹の「歴史認識」」は不愉快でした。
ナルシスト村上春樹に配慮して、
出版社が批判をしないようにしていることはわかります。
(以前、爆笑問題の太田光がラジオで村上の本を揶揄したら、
出版社の人間が抗議に来たと話していました)
僕もどうせ提灯記事だとはわかっていましたが、
内容が「歴史認識」となると看過できない面があります。

小山は村上の作品に東アジア関連の記述があるというだけで、
村上が「歴史認識」を持った作家だとしていますが、
「歴史認識」とは単に歴史をネタにしていることとは違うはずです。

小山は『1973年のピンボール』に登場する双子の女の子が、
「208」「209」というトレーナーを着ていることについて、
それが昭和20年8月と9月を示していると書いています。
百歩譲ってそれが正解だったとしても、
これが村上の歴史認識の何を示しているのでしょうか?
それこそ敗戦を正面から描いた小説などいくらでもあります。
こんなのは「遊び」であって「歴史認識」であるはずがありません。

村上春樹の歴史認識を語るならば、
彼が日米戦争という事実から逃げていることを言うべきでしょう。
満州やソ連のことは書いても、
アメリカを敵として戦ったことは明確に描こうとしません。

これは白井聡流に言えば、(アメリカとの)敵対性の否認といえるでしょう。
もちろん、村上が大好きなアメリカのマーケットを配慮し、
戦略的に描かないようにしている可能性もありえますが、
どちらにしても否認をしていることは同じです。

小山の経歴を見ると、共同通信論説委員とありますので、
ジャーナリズムの世界で生きてきた人だと思われます。
それが「歴史認識」という語をいいかげんな意味で使い、
ほとんどジャーナリスティックな態度が見られないのは、
いったいどうしたことでしょう?

『1973年のピンボール』に出てくる「配電盤の葬式」エピソードが、
「日本近代の統一性、効率性の追求に対抗するアニミズム」だとは、
よくぞ書いたものです。
そんなことにアニミズムを読み取れるのであれば、
別に西洋の小説にだっていくらでもあると思いますよ。

小山は「動物と話せる言葉の力、アニミズム的な力を持つ日本人」の代表として、
村上春樹を位置づけていくのですが、
これが村上の魅力だと思っているファンがどれだけいるのでしょう?
(というか、象に話しかける=動物と話せる、ってどういうこっちゃ)

こういう中身のない持ち上げ記事で点数稼ぎを続けて、
文藝春秋は村上の本を出すに至ったのでしょう。
「「反知性主義」に陥らないための」とか言っている雑誌が、
とっくに知性を失っていると感じないわけにはいきませんでした。

 

 

 

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