『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ―第三回芝不器男俳句新人賞受賞記念句集』 御中虫著

  • 2014.05.05 Monday
  • 23:15

『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』

  (愛媛県文化振興財団)

  御中虫著 

   ⭐

   車椅子を奪ったら弱者へのいじめです

 

 

御中虫を絶賛する評ばかりなのが私には不思議だ。

このたび一冊すべて読むにあたって、
傾向を同じくする句が多いことに気づき、
すべての句をトレースしながら分類していった。
以下がその結果である。

A スローガン&呼びかけ系

 生まれたと無意味に叫べ今は春
 醜い。醜い。醜い。醜い。俺も、貴様も。
 落ちてこそ雷死んでこそ人間

説明するまでもなく、ほとんどキャッチコピーである。
俳句としては珍しい気がするが、
この系列を賞賛する人はあまりいないので、無視。

B 死と空虚、虚構礼賛系

 すべきこと全部燃やして芋ほおばる
 この聖夜まがひものこそうつくしき
 じきに死ぬくらげをどりながら上陸
 虫の闇宇宙に鼓膜たゞ二つ

このあたりから御中虫のインパクト重視がハッキリする。
死の暗さや空虚さに生命力や明るさを対置する句は戦略的だが、
「全部」「まがひもの」「じきに死ぬ」「宇宙」のような、
安易な全体の提示が、作者のメタ的立ち位置を強化し、
平板な印象しか与えていない。
全体を示す表現は捨象力を高めるが、
具体性に欠けると捨象自体に意味がなくなる。

C スプラッター系

 見上げれば両目にさゝる松葉かな
 蚊ではないものに手足を食はれけり
 秋麗ゾンビのような車掌の声

これもインパクト重視と言えばそれで終わる。
マンガっぽいとも言えるが、
その意味で境界が薄いのが次のケース。

D マンガ描写と擬人法系

 イナビカリ目ノ白黒ハ反転ス
 滝のごとゲロを吐く月を背にして
 泣いても笑ってもスコールが赦す

こういうのが季語の使い方として新しいのだろうか。
俳句をやらない私にはわからないが、
こんな手法で良ければ誰でもできそうな気がする。

E 視覚ヒップホップ系

 だだだってハハハ春なんですものの
 啓蟄歩行手足即興土不踏
 一滴一罪百滴百罪雨ハ蛙ヲ百叩キ
 人人人人人人人銀杏散る
 暗ヒ暗ヒ水羊羮テロリテロリ
 木と木と木と木と木と月と木と木と木

これらはヒップホップの視覚化だと確信する。
これに衝撃を受けた俳人は、まずはケツメイシから聴け。

F 小さな喜び系

 泣き止んで首のうしろに虹が出た
 舌先に仁丹ちょこり冬に入る
 明白な美学アスファルトに鶏頭
 乳房ややさわられながら豆餅食う

こればっかりだったら受賞できたかどうか。

G 閉塞ズラし系

 万緑や目が万緑や目が眩む
 だしぬけに蛙もとからここに居る
 新月や何処を踏んでも己の影
 吐いても吐いても桃桃桃
 沈めても沈めても微笑むなすび
 頬は腕を腕は足を足は頬を

繰り返しの閉塞感をズラすことで、
つかの間の開放感を与える系列がこれだ。
ただ、レトリックと言えばレトリックなので、
実質的な開放感はなく、ただ煙に巻いた感じだ。

H 季語ズラし系

 おはよう(コンビニ横にキノコが)ごさいます
 ブランコで明日の酸素を借りに行く

季語に季語の働きをさせない句で、
御中虫でなくても最近の若手にはちょくちょく見られるパターン。
Gの解により、御中虫にとって季語=閉塞感という等式が成り立ちうる。

I 強さと怒り誇示系

 原爆忌楽器を全力で殴る
 春の椅子に腰掛けたまゝ憤慨す
 去年今年かたつぱしから火にくべる
 一葉落つ否まだだまだ地面ぢゃない
 歳時期は要らない目も手も無しで書け
 それは違うそれは堕落だ冬暖か

この系列もかなり多かった。
結局のところ、このような強さの誇示は、
やはり閉塞感の打破を意図しているように思える。

歳時記や季語に対する敵意も、
季語=閉塞感と感じているのであれば、当然かもしれない。

しかし、御中虫の句で閉塞が打破されると私には思えない。
サブカル的な想像力によって、閉塞をズラしていく発想は、
かなり手垢のついたやり方でしかない。

御中虫現象には既視感がある。
2003年ごろに文壇では、
サブカル的発想に富んだ舞城王太郎がやたら持ち上げられた。
高橋源一郎や加藤典洋らが「新しい」と絶賛し、芥川賞候補になった。

ところが今はどうだろう?
彼を今でも「新しい」と言っている人はいるのだろうか。
結局、年寄りがネット世代に媚びただけのことだった。

強さや怒りが芸やポーズであって、実はいい人というパターンは、
カンニング竹山や有吉弘行など現在ウケる芸人に多いが、
御中虫もそんな感じでウケている気がする。

俳人の中には、
「俳句のことは俳句をやっている人にしかわからない」
という傲慢かつ不遜な考えを持っている人が少なくない。
それが本人とつきあった印象で作品を評価する
内輪主義の温床となっている。
(そんな人が俳句批評の雑誌を出すなんて滑稽すぎて!)

そういう人は俳句に他のジャンルのものが入ってこようが、
「俳句は俳句だから」と高をくくっている(甘えている)可能性が高く、
別種の想像力をつまみ食いして、
目先の閉塞感をやり過ごそうとしがちだ。

しかし、このような句が賞賛されるということは、
俳句形式自体の閉塞感を
多くの俳人が感じているということの証明ではないだろうか。

その閉塞感を打破するのは、
別ジャンルの安っぽい想像力ではなく、
そのジャンルを突き詰めることで、
自然と外へと開かれてしまうような句作にあると私は考える。

 

 

 

calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM