久留島元の汚いやり口への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.16 Monday
  • 20:43

 久留島元の汚いやり口への

 佐野波布一のコメント

 

 

 

   久留島元という人物に対する証明4つ

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

先日、久留島元という京都精華大学に籍を置く研究者から悪口を言われ、

それに対する説明を要求したところ、久留島は説明になっていない身勝手な暴論を展開したあと、

自分から悪口を言ってきたくせに、これ以上は不毛だから返答しないと「ブロック」同然の扱いをかましてきました。

僕と妻は久留島のルール無用のふるまいに「なんて最低な態度なんだ」と憤り、朝まで寝つくことができませんでした。

(残念ながら僕には日曜しか休日がありません)

 

この文章は主に久留島元に宛てたもので、他の方々には退屈だと思われますので、

興味のない方は読み飛ばしていただきたいと思っています。

それでも一応は第三者にもわかるように手続きは取っておこうと思います。

 

まず、久留島の悪口をもう一度掲載しておきます。

 

佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。

 

特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。

 

人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。

 

これに対し、僕はいくつかの点について説明を要求しました。

久留島は自ら論点を4つに整理して、それぞれに応答するフリをしながら、支離滅裂なことを書き綴りました。

久留島が自身のブログ「曾呂利亭雑記」(http://sorori-tei-zakki.blogspot.com)の7月15日付で、僕の文章を以下のようにまとめています。

 

アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。

僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

 

意味がわからないのは、

「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。

「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、

 

そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。

僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。

 

まず言っておく必要があるのは、上記は僕の文章からのコピーで構成されているにもかかわらず、

久留島が整理した論点じたいにすでに捏造が行われていたり、

論点のすり替えが行われていたりすることです。

それが彼の読解力の不足によるのか、意図的な汚いミスリードによるのか、僕には判断がつきませんが、

こちらが説明を要求したことに答えるのではなく、話をズラしていては回答にならないことは言うまでもありません。

 

まず,砲弔い撞徇嬰腓呂海鵑覆佞Δ鵬鹽しました。

 

これについては私の認識がゆるかったので、やや訂正すべきかと思います。

佐野波さんの膨大な書評すべてを閲する労を怠ったため認識が雑だったことは申し訳ないのですが、「サブカル的発想に富んだ舞城王太郎やたら持ち上げられた。」「サブカル的なファッション俳句」「「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界」といった評言から、サブカル的感性・ライトノベルに対する評価の低さを読み取ったうえで、「本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。」とあり、

 「アート」>「サブカル」

といった図式を持っていると判断したものです。

もちろん「サブカル的であっても、それだけでは否定しません。」という発言もあるので、

 

 サブカルに対する低評価からサブカル的感性の俳句に手厳しい

 

とでもすべきだったでしょうか。

 

自分の認識が間違っていたのに、「私の認識がゆるかった」と自らを甘やかし、

間違いを認めるのではなく、「やや訂正すべきかと思います」などと基本の主張は間違っていないかのように書いています。

あのね、間違いは間違いなんですよ。

だいたい「アート」>「サブカル」とか言いますけど、アートをサブカルより上に評価する価値観って、一般的じゃないですか?

それだけで「「サブカルは文学ではない」という強固な価値観」などと言われなければならないのでしょうか。

 

まあ、ひとつハッキリしたことは、久留島自身は「サブカル」>「アート」という価値観を持っていて、

サブカル的感性による俳句はアート以上にすばらしいと考えているということです。

おっと、ちょっと調べたら、京都精華大学ってマンガ学部があるんですね。

なるほど、自分の大学での世渡りの都合が影響しているわけですか。

久留島ってヤツの抜け目がないことがよーくわかりましたが、そんな己の立身出世事情で僕のすることに文句を言うのはお門違いです。

証明終わり。

 

証明 ゝ徇嬰膰気魯汽屮ルをアートより上位に置く価値観の持ち主であり、サブカル的感性の俳句を高評価するため、「オルガン」連中の俳句に肩入れしている。

 

では、次に△悗醗椶蠅泙靴腓Α

ここで久留島の説明を見る前に、僕自身が書いた文章を引用させてください。

いかに久留島が編集作業によって僕の文章を捏造したかがよくわかります。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、

これに悪意を感じないわけにはいきません。

そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、

僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。

(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)

 

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。

「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。

たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、

その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。

その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。

普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。

 

上記の文章を見ればわかる通り、青木亮人に「寄生虫」と書いたことがやりすぎであることは僕も認めています。

その部分と「人格に否定」と言うが僕が誰にそんなことを行なったのか、という文章は段落を分けていますし、

「また」と別の話とわかる接続詞を入れています。

それなのに久留島はその二つの話を意図的に接合して、「人格否定」から話をそらして「寄生虫」の話へと持っていくのです。

もう一度、久留島の整理した文を見てください。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

 

このように、最後の文が前の段落の続きであるかのようにくっつけています。別々の内容をくっつけて、「人格否定」の話を強引に「寄生虫」のことにつなげる手口です。

では、久留島のインチキ回答を見てください。

 

については、何をかいわんや、Amazonでは消したけどブログには載せているのですから、評言として看過しがたいのは言うまでもありません。

青木さんの研究上の業績については、国文学論文目録データベースでも検索していただければ多数ヒットします。

青木さんは私が知っている限りでもトップクラスに筆の速い研究者であり、論文数だけでも抜きんでた存在です。佐野波という人物がどんなに知識人ぶってもまったく研究の実態がわかっていないことは明らかです。

また、40歳未満の新進俳文学研究者に贈られる「柿衞賞」の第17回受賞者であることからも、(佐野波さん個人の素人的判断は措いて)すぐれた研究者であると認められた存在であることは自明です。

ところが当該の文中では「微妙な記述」どころか「寄生虫」という罵倒は5回も登場しており、およそ簡単に人を「寄生虫」呼ばわりする人物が、「否定」と「批判」の区別を人に説いて聞かせるという凄惨な喜劇に頭を抱えたくなります。

 

結局、僕が落ち度を認めている「寄生虫」のことを蒸し返しているだけで、僕が説明を要求した「人格否定」についてはごまかして終わっています。

 

最初に言っておくべきでしたが、僕が自分の文章を見直してみたところ、

僕は青木について「研究業績のない」などと書いていないのです。

僕の文章では「研究での目立った活躍はなく」と書いているだけです。

専門的な国文学データベースで検索しないとヒットしない論文をいくつ書いていようが、

「目立った活躍」ではないわけですから、僕の書いたことが間違いだとは言えないわけです。

僕の書いていないことを捏造しておいて、その捏造した文章に立脚して僕の悪口を言うような人物が、

研究者の資質があろうはずがありません。

久留島こそが大学の寄生虫であることは間違いないので、さっさと辞めて社会人としての常識を学ぶべきだと思います。

 

こういう他人の文章を捏造したり、勝手に削ったりくっつけたりして内容をズラして平気でいる態度だから、

鴇田智哉の助詞の勝手な入れ替えを「最強の文体」などと言えるのだとよくわかりました。

 

だいたい、人を「寄生虫」呼ばわりする人物が相手だからといって、

自分の書いたことへの説明をしなくていいなどということはありません。

それこそ僕の人格を否定した態度であることは明らかです。

僕は「寄生虫」という言葉は「口汚い」とは思いますが、真実であると今でも思っていますので訂正する気はありません。

相手が平気で悪口を書く人間だから、自分の吐いた悪口に対して説明を要求されようが応答は必要ない、などと考える人間こそが、

自分の書いたことに責任も負わず、相手の人格を否定する最低野郎であることは誰が見ても明らかなのではないでしょうか。

証明終わり。

 

証明◆ゝ徇嬰膰気倭蠎蠅力世鯤慎い肺埖い掘悪口に対する説明要求にも回答を拒む、相手の人格をないがしろにする人物である。

 

次にですが、これに対しては久留島が本気で頭が悪いのかもしれませんが、

「分断主義」「排他主義」という言葉が辞書にあるかどうかという話にすり替えられています。

彼が引用した僕の文章にも「僕は存じ上げない」とあるように、自分の辞書に出てなかったので僕が知らないと言っているだけの文章ですよ。

誰が「そんな言葉は辞書に載っていない」などと書いたのでしょうか?

コイツは本気で日本語が読めないのでしょうか。

 

え、辞書にないのか、と思ってとりいそぎ『日本国語大辞典』を調べたところ、たしかに分断、排他はあっても排他主義はありませんでした。ただネット上では「実用日本語表現辞典」に掲載がありましたので引いておきます。

排他主義 読み方:はいたしゅぎ

自分と自分の仲間以外のものを容易に受け入れず、むしろ排斥するあり方や態度。他を排斥する主義。

これについては、「四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物」のように、一部の交友関係をとりあげて云々するやり口を上げれば充分でしょう。

恣意的に交流関係をあげ自分の気に入らないたちを特定団体のごとくあげつらう評は、これが俳壇内情にくわしい人物なら楽屋落ちというべきでしょうが「結社の人間」ことを重ねて強調するからにはネットで類推されたのでしょうか。

私は佐野波さんに友だちがいるかどうかは知りえませんが、「僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いる」ことを盾に、事実かどうかわからない(何があったかは、推して知るべし/つまり彼自身は関知していない)「大学から戒められるような千葉の行為」に「寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担する」俳人たちを、「クサレ言論弾圧俳人」と呼ぶような行為は、目に余ります。

インターネット上での言論行為において問題視されるのは「悪質性の高い」「中傷」を書き込んだ場合であり、政治的権力も持たない一般人がSNSにおいて拡散した程度で誹謗中傷される謂われはないと思います。

 

もう久留島の暴論に付き合うのもウンザリしますが、

「恣意的に交流関係をあげ云々するやり口」とか僕の批判をしていますけど、

四ツ谷は「オルフェウス」という匿名のAmazonレビュアーとして、関悦史と鴇田智哉の句集にレビューを書いています。

それが事実であることを四ツ谷は態度で認めているわけですから、「恣意的に」というのは事実に反しています。

だいたいネットだから立証が難しいだけで、ステマ行為はAmazonに禁止されている行為です。

僕が気に入らない人を特定団体としている、とか言いますが、

僕が捏造しているかのような書き方は図々しいのではないですか?

僕はたしかに俳句外部の人間ですから、ある程度の類推はあるかもしれません。

しかし僕の書いたレビューに対して、内輪事情を知る人から「その人間関係は事実でない」などという反論を見かけたこともありませんし、

久留島も「類推」とケチをつけるだけで事実でないとは言いません。

オマエだって実情を知っているだろうに、僕が勝手に嘘を書いているかのような論法でよく来るな、と思います。

外部にいる人間が内輪事情を書くには類推が入るのは仕方ないだけに、

こちらが外部にいることを盾にした汚い汚い汚いきたなーいやり口であると憤りを感じます。

 

決定的なのは、久留島の書いたことが何一つ僕が「排他主義」と言われることの妥当性を証明していないということです。

俳人の交友関係を書いたからって、どこが排他主義なんですか?

何も説明になっていないのに態度だけは偉そうなのはどういうこっちゃ。

マジでコイツのルールのないやり口をどうにかしてほしいです。

僕は今まで色々な人に文句を言われたり、攻撃されたりしましたが、久留島はその中で間違いなくルール無用の最低なヤツだと感じています。

(千葉雅也や高山れおなや「てーこく」の鴉越え、おめでとうございます)

 

「クサレ言論弾圧俳人」という言葉については、僕は彼らが謝罪をしなければこの言葉を使うと宣言してあったはずです。

被害者であるこちらのことは無視して、被害を糾弾する側の取るに足らない言葉遣いを「目に余る」とか、

オマエは本当に何様なんだ。

 

「政治的権力のない一般人がSNSで拡散した程度で誹謗中傷される謂われはない」という感覚も異常だと思います。

だいたいスクショまでアップして事実に立脚しているのが明らかな行為に対しての非難を「誹謗中傷」とは言いません。

それより四ツ谷の「頭がおかしい」というツイートは誰が見ても「誹謗中傷」です。

どうしてそこは触れずにスルーするのでしょうか?

また、その界隈でファンを動員できる有名人を、「政治権力のない」という理由で「一般人」とするのも身勝手な強弁だとしか思えませんし、

「SNSで拡散した程度」だと悪く言われるに値しないという感覚も理解できません。

 

以上でわかる通り、久留島の立場はまったくフェアなものではなく、どっぷり「週刊俳句」や「オルガン」の連中と同一化しています。

俳句界において「週刊俳句」や「オルガン」の俳人と僕とでは、どちらが「政治権力のない一般人」なのでしょう。

本当に世の中をナメた物言いだと思いました。

俳人が一般読者をよってたかってイジメておいて、それに文句を言うと、「誹謗中傷される謂われはない」ですか?

オマエ本当に一度生まれ直してこいよ。

千葉のツイートの内容が正しいとするなら、ちゃんとそれを証明してから使うべきです。

問題となるのは「悪質」な「中傷」とか書いていますが、それはいったい誰が判断するものなのですか?

僕にとっては千葉のツイートこそが「悪質」であり、「中傷」であったわけですし、

僕と同様に感じた人が一定数いたことも、僕に対するリアクションから証明されているはずだと思うのですが。

 

本当に久留島は自己中心的で非倫理的な言い分を平気で垂れ流す最低な奴です。

LINEいじめでクラスメイトを不登校に追い込んでも、久留島にとっては「政治的権力がない一般人」のすることだから問題ないわけです。

(もちろん、それが「悪質」だと判断されるのは、自殺のような取り返しのつかない事態が起きた後のことです。

つまり、僕が彼らのリツイートによって遺書を残して自殺していれば、千葉や彼らの行為は「悪質」と認定されるはずです)

 

結局久留島にとっては僕のやることはすべて悪いし、その僕に対してであれば何をしても悪くないというだけでしかありません。

「誰が」という視点だけで考えて、「行為」に対する客観的な視点をまったく持つこともありません。

内輪のすることは正しく、外部は悪だと考えているからこんな暴論が書けてしまうのです。

本当に大学は一部で社会不適合なクズを養っていると感じます。

 

そもそも僕が要求した説明は、僕に味方がいるのかというものでした。

個人の価値観をイデオロギーというのか、という問いもありました。

味方を作らない僕に「二分法で敵味方にわける低劣な分断主義、排他主義」という言葉は合わないという主張です。

なぜに「佐野波さんに友だちがいるかどうか」という話になっているのでしょう?

明らかに俳句界においての敵味方の話をしているわけですから、友達の有無など無関係だと思うのですが。

久留島にはこういう姑息な論点のズラしが多すぎます。

しかし、これで敵と味方に分けた二分法で物事を判断しているのが久留島自身だということは証明されたと思います。

証明終わり。

 

証明 久留島元は他人に排他主義と濡れ衣を着せて、内輪の行為は正義、外部の行為は悪という自分自身の排他主義的な価値観をごまかす人間である。

 

あ、ちなみに「分断主義」という言葉の説明が書いてないということは、辞書になかったんですね。

半分しか見つからないのに、よく反論として書くよな、ホント。

 

い砲弔い峠颪のも寝不足なので疲れてきましたが、

とりあえず頭の悪い人間を相手にするにはきちんとした手続きをとることが重要です。

 

これは◆↓で充分例証できると思いますが、小津夜景さんを「おフランスかぶれのセレブおばさん」などと揶揄する言動が、「作品に現れる知性や能力の評価」を越えた人格誹謗に近いと私は思います。

 

もとより私は自分自身が中立だと思ったことなどありませんが、私こそ佐野波さんとは一面識もなく、佐野波さんの文章からその立ち位置を類推するだけに過ぎません。

しかし「AというならBはどうなんだ!」というのは、論理のすりかえを感じます。

これは私見ですが、レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます。たとえば高浜虚子『五百句』のレビューに、虚子は秋桜子を排除した人物で云々と作家の行動に関わることばかり書かれていたら、私はうんざりします。

また、小津さんの知識において佐野波さんが垂れ流している「「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうか」「「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。」などという印象操作は、前者は「グーグルで検索」すると英文法に関するページが多くヒットしますし、後者は日中辞典や芥川龍之介の文章がヒットすることを申し添えておきます。

 

大前提の話をしておきますが、「人格否定」というのは人間としての人格を認めていないということです。

つまり、「朝鮮人はゴキ◯◯だ」のようなものです。

「おフランスかぶれのセレブおばさん」は小津夜景のフランス「趣味」を揶揄はしていますが、

それが明らかに「人格」を問題にしているわけではないので、

「人格誹謗に近い」というのは行きすぎた久留島の主観的判断でしかありません。

(コソコソと人格「否定」でなく「誹謗」に言い換えるあたりも卑怯なやり口ですよね)

だいたい久留島自身が自分で「揶揄」と書いているではないですか。

なんで「揶揄」だと自分で認識しているのに「人格誹謗に近い」などと書いてしまうのでしょうか。

こういう支離滅裂な文章が、相手憎しで理性を失った物言いであることを証明していると思います。

 

久留島が「レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます」と

書いているのは僕のどの記述に対してなのかよくわからないのですが、

クサレ俳人の言論弾圧行為については僕のブログに「コメント」として出しているものなので、

「レビューという場」ではありませんけどね。

仮にそこでもダメだとなると、じゃあどこで糾弾すればいいのかを久留島には答えてほしいですね。

ネット上での「レビューという場」しかフィールドを持たない僕に、

「レビューという場」で俳人を糾弾するな、と書くことは、僕の言論行為そのものを禁じたのと同じことです。

つまり、久留島は僕に対する言論弾圧の欲望をしれっと語ったわけです。

いやあ、本当に最低このうえないですね。

自分がアカデミズムの寄生虫だからって、一般人の言論を禁じる権利がオマエにあるのかと言いたいです。

 

ちなみに「倒装法」の検索の件など、相変わらず論理の核心ではなく瑣末なことにばかり文句を言うのが好きなようですが、

久留島が引用している僕の文に「他の論文は出てきません」とあるように、

僕が「論文」を対象として書いているのは明らかです。

「日中辞典や芥川龍之介の文章」は当然僕も検索したので見ていますが、いやはや、これが「論文」だとは知りませんでした。

(そもそも芥川の文章は小津が参考文献に挙げているので読んでますよ)

「類像性」が英文法の本でヒットしたらしいですが、じゃあ、詩を語るのにはあまり使わない語なんですよね。

英文法の本を読まない僕が「聞き覚え」がないのも、別に問題はないと思うのですが。

こういうのを「印象操作」とか言って僕の批判に使うのは、もう言い飽きましたが最低のやり口だと思います。

論の骨子が理解できないからって、わかりそうなところに適当に文句をつけるようなやり方は、

終始悪意しか感じませんので、非常に不愉快です。

 

これほど支離滅裂な説明とも言えない暴論を書いておいて、

久留島はこんな一方的な物言いで締めくくっていきます。

 

俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。

追記.なお、対談記事を読んでいただければわかるとおり、佐野波さんへの言及は対談の本筋とは関わらない部分で、獄舎さんのたってのご希望で掲載したものです

 

自分から悪口を言っておいて、僕が説明を要求したら、一方的に言いたいことを言って「これきりにしたいと思います」ですって!

「ご寛恕」などできるはずがありませんので、僕はオマエが謝罪するまで許すことはないと言っておきます。

(いずれ機会があれば、面と向かってお話ししましょう)

あげく「本筋とは関わらない部分」だとか高田獄舎の希望で掲載したとか言い訳をしていますが、

それがオマエの発言を免罪する理由になると思っているのか、と言いたいです。

だいたい久留島は高田が二人の対談記事を、「週刊俳句」の掲載前に自分のブログに掲載したことに対し、

「仁義を踏み破り、企画の横取り」だなどと文句をツイートしていたはずです。

「私自身の評言が、勝手に、意図しない形で公開されるのは不愉快である」と高田を糾弾していたりもしますが、

僕の文章を捏造して文句を言うようなヤツがよくも言ったものだと呆れ果てます。

手柄になるところは俺の権利に属する、と主張しながら、危ういところになると高田が希望したのだと逃げを打つ。

こういう人間をどう信用したら良いのでしょうか。

 

ひとつハッキリしたことは「子宮回帰」のようなサブカル的感性を俳句に持ち込みたがる人間には、

まともな論理は書けないということです。

自己中心の子宮世界を生きている「つながりたがりの幼稚園児」なので、

いつでも自分から見た視点を絶対化し、内輪の世界を絶対視してしまいます。

そういう人にとって外部からの批判はすべて悪でしかありませんので、

イベントをやったり、ディナーショーをやったりして、内輪意識でファンを選別し、

猿山の大将の気分に浸りつつ外部の視点を拒否する「引きこもりメンタリティ」となるのは火を見るより明らかです。

証明終わり。

 

証明ぁゝ徇嬰膰気枠稟集析世涼動気鰺瀚召靴討い襪燭瓠言論弾圧を肯定する人間であり、「子宮」大好きの幼稚園児であるため、論理はもちろん、おそらく日本語もイマイチ使いこなせていない。

 

シンプルな話ですが、他人から文句を言われたくなければ、自己反省をすればいいと思うのです。

久留島の駄文は、僕の指摘を受けた後に自分自身で読み直しても反省できる明白な問題点に富んでいます。

少しでも自分の知性にプライドがあるならば、自分の書いた文章に責任ある態度を取るべきだと思います。

あなたの書いたものを読むのは内輪の人物に限らない、ということを強く意識することをお勧めします。

 

 

(7月17日追記)

 

久留島の書いたことで引っかかることがあります。

久留島は「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。」

などと書いているのですが、

僕の文章を見ていただければわかることですが、

僕は悪口を書いた久留島に説明を求めはしましたが、よく知らない彼のことを誹謗中傷などしていないのです。

久留島はなぜ「このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあい」などと書くのでしょうか。

彼は過去に匿名や別の名前で僕と何かやりとりをしたことでもあるのでしょうか。

そうでなければ、これは捏造でしかありません。

 

要するに、久留島にとっては説明を求められることさえ「誹謗中傷」となるということです。

こんな連中が「批判」と「否定」もしくは「誹謗」の区別がつかないのも当然です。

おまけに自分が「誹謗中傷」をしていることに関して自覚的なのはタチが悪すぎるのではないでしょうか。

僕は久留島から一方的に根拠なき悪口を言われたと思っていますが、

(もちろん、今回の文章を含めたとしても、僕の方は彼の文章を根拠に「証明」をしているので、誹謗中傷ではありません)

ハッキリ言って、一部の俳人のマナーの悪さはどこの界隈でもありえないレベルです。

 

僕は久留島がこんなクソな態度を平気でとれるのは、

僕に対してなら、どんな酷いことをしても喝采してくれる腐った仲間がいる、

内輪という「子宮」に守られていると確信しているからだと思います。

こういうマナーのない奴を受け入れている人間が、

いかにイジメじみた行為を助長しているかを、それ以外のマトモな俳人の方々には真剣に考えていただきたいと切に願います。

そうでないと、俳人すべてがこういう人間と同類だと考えざるをえなくなります。

 

こちらがAmazonガイドラインなどの一定のルールにおいて著作を批判をしているにもかかわらず、

批判者にはルール無用、マナー無用で排撃していいなどと考えている人間については、

「人格」について批判をする以外ないと考えます。

僕が「子宮」大好きのサブカル的「引きこもり」感性を批判するのは、

それこそが内輪を全体化する日本型ファシズムの温床であるからです。

(研究者が「現在」にコミットすることを高らかに宣言する末期症状!)

戦中に詩が果たした役割を反省してきた戦後詩人たちが世を去っていき、

バブルに踊った無知な世代が過去の汚点に学ぶこともなく、

批判を排除した日本的な内輪陶酔によって、「いつか来た道」へと帰っていくのは、

もはやどうしようもないのかと半ば諦めています。

 

 

 

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM