高田獄舎と久留島元の対談への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.15 Sunday
  • 10:50

高田獄舎と久留島元の対談への佐野波布一のコメント

 

 

   久留島元の根拠なき中傷に対して説明を要求します

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

俳句についてのコメントが最近多くて自分でも辟易としていますが、

久留島元とかいうよく知らない人から、事実でないレッテル貼りをされていることが看過できませんでした。

調べてみたら久留島は京都精華大学に属する研究者のようなのですが、

そういう人が文章に基づかない「決めつけ」で文句を書くのは問題だと思います。

 

問題の文章は「週刊俳句」や高田獄舎のブログ「愚人正機」(http://guzinsyouki.blog.fc2.com/blog-entry-37.html)にあります。

 

佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。

 

特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。

 

人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。

 

久留島は僕が「サブカルは文学ではない」という「強固な価値観」でサブカル的感性の俳句を「一律否定」したと言っていますが、

いつ僕がそんなことをしたのでしょうか。

 

たとえば僕は富野由悠季監督のアニメ映画「伝説巨神イデオン」についてのレビューで、この作品を「文学」だと語っています。

アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。

 

僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。

僕の批判をただの「サブカル排除」へと読み換えて批判するのは、あまりに不正確で安直なのではないでしょうか。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、

これに悪意を感じないわけにはいきません。

そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、

僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。

(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)

 

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。

「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。

たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、

その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。

その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。

普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。

いいかげん話のすり替えをやめていただきたいものです。

僕が丁寧に本文引用をしているのは見ればわかるはずなのに、

そういう「事実」を無視したかのように文句だけ書く人を、どうしたらいいのでしょうか。

 

意味がわからないのは、

「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。

「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、

お笑い種なのは、「敵味方にわける」とか言っている部分です。

僕には味方と言えるような人はいません。

どうやって二分法で分けるというのでしょうか。

いや、僕に味方がいるなら、どこにいるのか教えていただきたいものです。

誰が僕の味方にあたるのですか?

『自生地』を批判した人間は僕の味方だ、などと僕がどこに書いたのでしょうか。

「排他」という言葉を辞書で引くと、「仲間でない者を排斥すること」とありますので、

仲間を作らない孤独な人に使うのは不適切です。

 

『自生地』を評価した人の俳句観は信用できない、というのは僕の意見ですし、個人的な思いです。

それに立脚して評価した人間は「信用できない」としても、僕個人の意見であることはハッキリしています。

そこのどこに「主義」などが介在しているというのでしょう。

自分の意見を言うだけでイデオロギーを振り回しているとでも言うのでしょうか。

久留島のツイッターなど見たくはないのですが、その辺りの説明をきちんとしていただきたいので、

sorori名義のツイッターでもいいので、研究者ならしっかりと論理的に説明して後始末をしてください。

 

そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。

僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。

作品批判から作者の資質に筆が及ぶことよりも、批判言説そのものを「集団で」弾圧する方が罪が軽いと言うのでしょうか。

それだけでなく、彼らは僕の謝罪要求に関しても無視し続けています。

僕に対して根拠もなく「頭がおかしい」とツイートした四ツ谷龍は、まさに人格否定を行なったわけですが、

久留島はそういう「俳句界の内輪」の人間に対しては同様の文句を言うことは絶対にありません。

おまえこそが敵と味方の二分法で低劣な二枚舌を弄している排他的な人間ではないか、と思われても仕方ないと思います。

 

最近、僕は嵯峨直樹という歌人の『みずからの火』という歌集にレビューを書きました。

それに対して嵯峨本人がブログで、素人である僕の厳しい批判にいろいろ文句を言いたいのを我慢して、生産的な応答をしていました。

しかし俳人は本人が直接応じることを避けて、仲間が出てきて文句を言うことが常態化しています。

関悦史の批判をすれば高山れおなが文句を言う。

鴇田智哉の批判をすれば四ツ谷龍が「オルフェウス」という匿名レビュアーとして文句を言う。

福田若之を批判すれば、関やオルガンの連中が言論弾圧リツイートを拡散する。

青木亮人の真実を暴露すれば久留島元が文句を言う。

こんなことばかりです。

嵯峨は「短歌界は健全です」と書いていたと思うのですが、この発言には「俳句界と違って」という意味が含まれていたように感じました。

こういう批判封じに仲間が出てくることこそが、内輪集団の「排外的行為」と批判されるにふさわしいのではないでしょうか。

 

 

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