小津夜景の「オルガン調」擁護のインチキ論への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.12 Thursday
  • 22:57

小津夜景の「オルガン調」擁護のインチキ論への

佐野波布一のコメント

 

 

   エセレブ俳人のインテリ風嘘だらけ論は読むに耐えない

 

 

僕は「オルガン」という俳句同人誌を手に取ったこともないのですが、

その中心人物と目される鴇田智哉、田島健一、福田若之の句集のレビューを書いたことがあるので、

彼らの作品の特徴はなんとなく想像がつきますが、

鴇田のように意味を不明瞭にして雰囲気だけを共有する作風が「オルガン調」などと呼ばれているようなのです。

 

僕は彼らの作品がいかに時代遅れのポストモダン的な言語遊戯に根ざしているかを解き明かしています。

「オルガン調」を問題とするのなら、内実のない言語遊戯について議論をしなければ意味がないわけですが、

実際には不毛な議論しか行われていないことが、7月8日に「週刊俳句」のウェブ上に掲載された

小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/07/blog-post_8.html)という文章でわかりました。

(初出は『豆の木』第19号(2018年5月20日)だそうです)

 

僕はこの小津夜景という人の本にレビューを書いています。

そこにも書いたように、小津の作風は鴇田智哉の模倣に見えますし、

彼女の『フラワーズ・カンフー』の帯文は鴇田が書いているので、

小津が鴇田(やオルガン)と非常に近いところにいる、ほぼ内輪の人物であることは念頭に置いておく必要があります。

作風が近いということは、鴇田に影響された宮本の弁護は、小津にとって迂遠な「自己弁護」でもあるということです。

「週刊俳句」あたりに書いている人たちは、この手の「内輪弁護」を慎む意識が全くないのですが、

僕のように、擁護してくれる内輪の存在しない孤独な言論人からすると、

「仲間」だからと見苦しいまでの内輪擁護を慎まない態度には、

自分たちが甘ーいあまーい、お母ちゃんのおっぱいから離れられない幼稚園児同然のメンタリティであることを、

世の中に露出して平気でいるようにしか感じません。

まあ、小津の場合は身内擁護というより、迂遠な「自己弁護」が目的であるため、

幼稚園児のようなピュアさもなく、より不愉快ではあるのですが。

 

僕が小津の論に言っておかなくてはならない、と感じたのは、

小津が「〜における」などと題をつけ、参考文献も提示するような学術論文であるかのような体裁で、

まったく論理的でもない欠陥だらけの論を書いていることに対して、どうせ俳人たちには批判する能力がないと思ったからです。

こういうアカデミックな手続きをした「こけおどし」が通用するとなると、俳句界にとっても利益はないと思います。

 

まず、小津の「オルガン調」弁護の主旨をまとめておきます。

小津は「オルガン調」を「鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ」として、

宮本佳世乃の句を具体例として提示します。

(ちなみに「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうかね)

 

くちなはに枝の綻びつつまはる

ふくろふのまんなかに木の虚のある

 

小津はこれらの句が「くちなはの枝に綻びつつまはる」「木の虚のまんなかにふくろふのある」とあるところを、

「語順を入れ替えることによって詩趣を生み出」したものだとしています。

そもそも、語順の入れ替えにこそ「詩趣」の源泉があるという主張が、決定的な錯誤であると思えるのですが、

こういう言語遊戯即詩的であるという発想こそが、オルガンと同種の感覚の持ち主であることを雄弁に物語っています。

 

まず小津のインチキ議論の第1のポイントは、「オルガン調」とは語順の入れ替えのことを言うのか、ということです。

僕であれば、オルガン調とは「語順の入れ替えが実感に乏しい言語遊戯として行われている」と定義します。

実は小津はこの文章の中で「オルガン調」の内容定義をしっかりとやっていません。

レトリックでごまかしながら、「オルガン調」=「語順の入れ替え」として議論を進めていきます。

このような問題の矮小化が詐術であることに、俳人であればすぐに気がつかなくてはいけません。

 

最初にインチキな定義を通してしまえば、あとの議論は簡単です。

なにしろ、どんな形式であれ、詩において語順の入れ替えなどは珍しくもないからです。

そして小津はくだらない茶番を進めていきます。

 

ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している。

 

小津はこんなことを述べるのですが、「語順の入れ替えで詩趣を生み出す」のは鴇田が元祖ではなく、

芭蕉が杜甫の「倒装法」を真似したことが最初だとするのです。

「倒装法」などと名前をつけて提示すると、専門技法であるかのように見えるわけですが、

このような「こけおどし」に騙されてはいけません。

前述したように、語順の入れ替えで詩的効果を高めることなど、古今東西の詩を探せばいくらでも出てくるはずだからです。

 

小津は「倒装法」を紹介した久保忠夫の文章を参考文献として挙げていますが、

そもそも久保忠夫を調べると、漢詩の研究者ではなく近代詩の研究者のようです。

また、「倒装法」とは杜甫の漢詩の注釈書で使われている言葉であるようですが、

「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。

つまり、このような言葉を使っている人は一般にはほとんどいないと考えられます。

こういうマニアックな文献だけで「オルガン調」とは「倒装法」であり、そのルーツは芭蕉にあるから伝統的だ、

などという論理が成立するはずもありません。

 

少し考えればわかることですが、芭蕉が俳人として現在の地位にあるのは、杜甫からパクった「倒装法」のためではありません。

芭蕉の詩趣が語順の入れ替えから生まれたと考えているとしたら、小津の俳句観がどれだけ信用のできないものかわかるのではないでしょうか。

それなのに、芭蕉が語順の入れ替えをしている、鴇田も語順の入れ替えをしている、

だから鴇田は芭蕉に連なる伝統を受け継いでいるのだ、などという三段論法は稚拙極まりないとしか言いようがありません。

このような三段論法が成立するなら、インド音楽はシタールを使っている、ビートルズの「ノルウェイの森」ではシタールを使っている、

だからビートルズはインド音楽の伝統を受け継いでいるのだ、と言うのと同じことです。

 

小津が引用した文章で久保が芭蕉の「倒装法」について「どれほど成功をおさめてゐるかといふことになると、甚だ疑問である」と書いているように、

それ自体、成功していると評価しているわけでもないのです。

芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が「倒装法」であるかどうかも、久保がそう言っているだけで甚だ怪しいと思います。

自己弁護をするのに芭蕉というビッグネームを持ち出せば箔がつくと思ったのは容易に想像がつきますが、

こういう大学生のヘボ論文レベルのやり方には問題しか感じません。

誇大妄想家が集まっている「週刊俳句」に掲載される文章のレベルを云々するのも馬鹿馬鹿しいのですが、

このような猿知恵を慎むくらいの知性は持っていただきたいものです。

 

一応、専門的な議論もしておきましょうか。

「オルガン調」というものが本当に「倒装法」であると言えるのでしょうか?

僕はそれは間違っていると思います。

問題になっている杜甫の「秋興八首」の語順の入れ替えについて確認しましょう。

「倒装法」として例に挙げられているのは次の詩句です。

 

香稻啄殘鸚鵡粒(香稲啄余鸚鵡粒)

碧梧棲老鳳凰枝

 

この箇所について講談社学術文庫版の『杜甫全詩訳注(三)』では、次のような注釈で説明されています。

 

それぞれ「鸚鵡啄残香稲粒」「鳳凰棲老碧梧枝」の語順を入れ替え、「香稲」「碧梧」に焦点を合わせた表現。

 

岩波文庫の黒川洋一編の『杜甫詩選』では次のような説明があります。

 

 普通にいえば「鸚鵡啄余香稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」とあるべきところを、「鸚鵡」と「香稲」、「鳳凰」と「碧梧」とをひっくり返して、奇抜な効果をねらったものである。

 

どちらにも「倒装法」などという言葉は使われていないので、やはり一般的に用いられる名称ではないわけですが、

僕が問題にしたいのは、このような語順の入れ替えの持つ意味が、日本語と中国語では全然違うということです。

中国文学者の吉川幸次郎が「膠着語の文学」で書いていることですが、

中国語は孤立語といって単語がモノシラブルで構成されていて、

「つまり意味の最小の単位である単語は、音声の最小の単位である一シラブル、ただそれだけであらわされる」ため、

中国語の一つ一つの語には断絶があるというのです。

孤立語が語の交換に対して柔軟であることは言うまでもありません。

中国は句の断絶性が強いため、次の語との関連は弱いので、それが転倒されてもそこまでの違和感は生まれないのです。

 

漢詩には音声上の法則、つまり平仄の決まりがあります。

それは決まった伴奏に乗せて歌うことを目的としていたからです。

「香稻」と「鸚鵡」、「碧梧」と「鳳凰」という入れ替えた名詞は、律詩の平仄二六同の法則に対応しています。

法則上、対応することが要求されている第2語と第6語の単語が入れ替わったとしても、

聞く側に対応関係は理解しやすく、読者の理解を困らせることは少ないと言えます。

 

しかし、膠着語である日本語ではそうはいきません。

吉川は膠着語について次のように説明します。

 

膠着語とは何であるか。私の考えによれば、言葉の流れが常に次に来たるべきものを予想し、予想された次のものにくっつき、流れ込もうとする態勢を、強度にとることである。いいかえれば、連続を以って言語の意欲とすることである。

そうした意欲は、まず、「てにをは」の存在となって現れる。

 

吉川は膠着語を「前なる語が、常に後なる語を予想する」連続性として整理しています。

そのため、日本語はダラダラと文が続く長文になりやすいのです。

「てにをは」などの助詞は続く語を予想させるため、助詞がくっついてしまえば日本語は語順を変えても意味が通ります。

つまり、助詞があるかぎり語順の入れ替えは日本語では意味がないことになります。

となると、意味を転倒させるには語順ではなく、くっついている助詞を入れ替えるほかなくなります。

 

さて、僕が鴇田などの俳句が「倒装法」などというものとは全く違うと思うのは、

それが孤立した名詞の交換ではなく、助詞の使い方に特徴があるからです。

僕は鴇田の『凧と円柱』のレビューで、すでに鴇田が語にくっつけるべき助詞を入れ替えていることを指摘しています。

本来あるべき助詞を入れ替えるということは、故意に読者の予想を裏切るわけですから、

読者を騙すトリックとしてやっていることになるわけです。

これが中国語と日本語の言語的な違いに由来することを無視した小津の論はまったくインチキでしかないわけです。

 

漢詩の「倒装法」なるものは、語順を入れ替えても元のかたちがすぐにわかりますが、

「オルガン調」では元のかたちはそれほど自明ではありません。

それは、「オルガン調」が作り手の自己満足を優先し、読者を欺くことを目的にしているからです。

この事実ひとつをとっても、「オルガン調」が「倒装法」にルーツを持つ伝統技法だという主張が、

いかに欺瞞であるかがよくわかるのではないでしょうか。

 

「膠着語の文学」が俳人にとっては興味深い読み物であることを僕は疑いません。

なぜなら吉川は日本語の性質に反発した文学として俳句を挙げているからです。

吉川は俳句を日本語の性質に逆らう文学形式だと把握し、その特徴を断絶に見ています。

断絶とはすなわち「切れ」であるわけです。

俳句における「切れ」つまり断絶がいかに日本的なものに対して否定的にはたらく生命線なのか、

志の高い俳人なら誰でも意識しなければいけないところでしょう。

俳人が内輪の仲間とつながることばかり考えていることを僕が軽蔑するのは、

このような俳句の「原理」を実行する資質に欠けていることを自ら証明しているからでもあるわけです。

(身内で寄り集まる連中が、自分たちで俳句地図を作って「俳句原理主義」を名乗っていたのはお笑い種だとわかりませんか?)

こういう「つながりたがりの幼稚園児」が本来あるべき俳句原理を否定していくのは必然です。

 

ここで小津夜景のインチキ論の第2のポイントを言っておくと、

「オルガン調」とは語順の入れ替えが問題ではなく、「切れ」の隠蔽にあるということです。

強い切れ字で切るべきところに「てにをは」などの助詞を入れて、「弱い切れ」へと入れ替えることで、

読者の後の予想をズラして意味を曖昧化するのが、鴇田もしくは「オルガン調」というものの欲望です。

 

もう一度、冒頭で小津が取り上げた宮本佳世乃の句を見直してみましょう。

「オルガン調」が読者を騙すことに重点を置いていることが、よくわかると思います。

 

くちなはに枝の綻びつつまはる

 

この句が、小津が指摘する通り「くちなはの枝に綻びつつまはる」を変形したものであるならば、

入れ替わっているのはやはり助詞の「の」と「に」であるのは明白です。

これが「倒装法」でもなければ、語順の入れ替えでもないことがおわかりいただけると思います。

助詞を入れ替えることで、助詞によって予想される後続の語をあるべき語でないところに接続しています。

海に続くドアを開けたら山に出たように読者には感じられるわけです。

文学をCGアートか何かと勘違いしているのでしょうか。

 

では、次の句はどうでしょう。

 

ふくろふのまんなかに木の虚のある

 

これを小津は「木の虚のまんなかにふくろふのある」として「話は簡単だ」と述べるのですが、

さて、こう名詞を入れ換えたところで意味がわかりやすくなっているでしょうか。

「ふくろふ」であるならば、どうして「いる」でなく「ある」となるのでしょうか。

ここには語順を入れ換えただけでは解決できない意味の脱臼があるはずですが、

結論ありきの小津のインチキ論ではそこが見過ごされています。

 

この句に関しては、語順の問題ではなく、「切れ」の問題として考えないと解決できないと思います。

つまり、読者へのわかりやすさを求めるのならば、「ふくろふやまんなかに木の虚のある」となるのではないでしょうか。

そして、このままの句であると、「まんなか」が何の「まんなか」なのかわからないため、さらに語順を変えて、

「ふくろふや木のまんなかに虚のある」としないと情景が描けません。

この手の込んだ細工が、いかに当たり前の情景を描くことからの「逃走」であるかがよく理解できると思います。

この技法の目的が「詩趣を生み出す」ことにあるとは僕には思えません。

CG的なメクラマシを「詩趣」などと感じる人の詩的感性がいかにインチキであるか、

俳句の文化伝統にプライドがあるなら絶対に騙されてはいけません。

 

このようにいかがわしい手法を使って俳句的な断絶を弱めてまで、

意味の脱臼を求める姿勢の先には何があるのでしょうか。

僕の予想では、彼らが模範としたいものは俳句ではなく現代詩となるはずです。

前々から現代詩コンプレックスを持った俳人がいることは知っていましたが、そういう人が「オルガン調」とやらに共感するのでしょう。

 

西洋の現代詩に憧れているから西洋の〈フランス現代思想〉もしくはポストモダン的な意味からの「逃走」という

時代遅れの産物に心惹かれてしまうのです。

こんなことに明け暮れた現代詩がどのような末路を辿ったかを知っている者からすれば、

今更俳句でそんなことを「新しい」と考えることの愚かさを指摘するほかありません。

だいたい、現代詩をやりたいなら現代詩を書けばいいのです。

俳句をある程度極めたわけでもないのに、現代詩っぽいことをやりたがるのは、

現代詩をやりたいのにその能力が足りないから、形式と技法に頼れる俳句を選んでいるだけに感じます。

 

小津夜景は漢詩の何たるかもわからずに、門外漢の俳人相手にファッション漢詩本などを出しています。

この手の人々は責任の生じる場所からズレて、好き勝手に趣味に浸ることを自由と考えているようですが、

この人がポストモダンに依拠した「おフランスかぶれのセレブおばさん」であることを忘れてはいけません。

小津の文章の最後に参考文献として挙げられている佐藤信夫『レトリックの意味論』という本は、

ソシュールやチョムスキーなどの西洋言語学に基づいた本で、漢字はもちろん、膠着語を視野に入れてはいません。

ポストモダンの「言語論的転回」にとっては重要でしょうが、そのまま俳句に役立つものではありませんし、

小津が持ち出した代換法は、「京都の夜」と「夜の京都」のように意味内容に変化がないものなので、

「オルガン調」の説明には不適切な例だと言えるでしょう。

出版が1996年であることを考えても、いかに小津が「死に体」のポストモダン思想に依拠した人間かが理解できるのではないでしょうか。

俳人の頭が悪いから侮られるのでしょうが、ポストモダンおばさんの漢詩を隠れ蓑にした牽強付会の論など、

インチキだと一蹴できないようでは俳句界の未来が思いやられます。

 

 

 

評価:
小津 夜景
ふらんす堂
¥ 2,000
(2016-10-17)

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM