『みずからの火』 (角川書店) 嵯峨 直樹 著

  • 2018.07.08 Sunday
  • 21:08

『みずからの火』 (角川書店)

  嵯峨 直樹 著

 

   ⭐⭐

   主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ

 

 

僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、

嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。

生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、

おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、

作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。

 

もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、

そこを批判するのはお門違いということになるのですが、

僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、

それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。

まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。

 

さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり

花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って

冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす

見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ

 

前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。

しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、

「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、

実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。

嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、

歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。

2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、

「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。

このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。

 

乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき

 

このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。

 

後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、

「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。

ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、

続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。

最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、

歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。

 

これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、

歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。

つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。

 

僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。

作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。

個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。

詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。

 

「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。

 

黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く

平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、

私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。

村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、

抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。

しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。

そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。

 

ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球

地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空

肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている

平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。

このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。

「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。

それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。

性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。

 

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて

寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音

ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を

ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの

 

抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。

結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、

それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、

うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。

 

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと

血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ

 

このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。

抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、

20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。

嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。

同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。

 

秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨

 

この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。

この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。

雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、

自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。

となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような

「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。

 

ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。

たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、

「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。

こういう歌は他にいくつもあります。

 

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう

きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力

長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な

 

一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。

「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。

このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。

他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。

こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。

(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)

散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。

自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、

そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。

説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。

 

現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、

現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。

しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、

そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、

僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。

 

 

 

評価:
嵯峨 直樹
KADOKAWA
¥ 2,808
(2018-06-01)

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