『「戦後」という意味空間』 (インパクト出版) 伊藤 公雄 著

  • 2018.05.27 Sunday
  • 21:40

『「戦後」という意味空間』 (インパクト出版)

  伊藤 公雄 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   全体主義の危機を見据えて「戦後」を見つめ直す

 

 

著者の伊藤は京大、阪大の名誉教授という肩書きを持つ社会学者で、

これまでの著作を見る限り、男性性に関するジェンダー論で知られているようですが、

伊藤自身は「政治と文化」のかかわりを社会学的視座で幅広く研究していると述べています。

 

本書の第1部は戦中派世代について調査した80年代の論考が収録されています。

戦時中の軍関係者によって構成された戦友会を、

兵学校の同期生などの「学校戦友会」と所属部隊による「部隊戦友会」を大小に分けて、

それぞれの特色を描き出しています。

たとえば靖国神社国家護持についての態度を見ると、

学校戦友会と小部隊戦友会に比べて、大部隊戦友会が積極的であることがわかります。

伊藤は大部隊の「所属縁」が小部隊より弱いために、集団維持のために制度を必要としているからではないかと考察しています。

 

次の論考では戦中派が「戦争」や「天皇」に対する思いを、60年安保を境にどう変化させていったかを考えます。

大きく見れば、日本社会の成熟を背景に、批判的な態度から肯定的な態度へのスライドが起こったと伊藤は捉えています。

戦中派世代は経済成長によって「戦中・戦後を貫通したアイデンティティの探求を開始した」のですが、

過去の敗戦経験から「ナショナルなもの」への全面回帰には至らず、「相対化」による現状肯定へと至ったとします。

伊藤のこの分析を逆転させれば、敗戦経験のない戦後世代は「ナショナルなもの」へと無邪気に一体化できることにもなります。

 

第2部は昭和天皇の逝去と憲法体制を扱った90年代の論考です。

「憲法と世論」は96年の論考なのですが、現在にも通用する内容には正直驚きました。

 

考えてみれば不思議なことだ。日米安保条約を「錦の御旗」とする「対米従属派」以外の何者でもないような戦後の保守派、あるいは「右翼」勢力は、なぜ「アメリカの押し付け憲法廃止」などと矛盾したことを語るようになったのだろうか(先日、散歩をしていたら右翼の宣伝車が駐車していた。中を覗いたら、星条旗グッズであふれていたのでちょっとビックリしたものだ)。

 

右翼の街宣車に星条旗という話は、最近出版された白井聡『国体論』でも取り上げられていましたが、

伊藤は白井より明確に「右翼」の姿勢を「矛盾」と表現しています。

対米従属派でしかないのに、アメリカの「押し付け」に反対するようなことを口にする矛盾、

伊藤は自衛隊の誕生もアメリカの「押し付け」で為されたことを指摘し、

そのご都合主義的な主張のおかしさを冷ややかに語っています。

一方、左翼が憲法改正に触れなくなったことにも疑問を呈します。

 

この論考では憲法記念日の読売新聞と朝日新聞の社説の比較など、面白い試みをしているのですが、

伊藤のすぐれた見識だと僕が感じた文を引用します。

 

ぼくたちは、日本国憲法を語るとき、ややもすれば、その背景にある歴史的な文脈を見失いがちだ。しかし、日本国憲法は、よくもあしくも、アジア太平洋一五年戦争の生み出した歴史的産物なのだ。憲法を語ることは、その点で、あの戦争の総括を迫ることと密接に重なりあっているはずだ。しかし、戦後の憲法論議は、多くの場合、こうした歴史への視線を見失ってきた。

 

伊藤は日本の憲法論議は改憲派も護憲派も日本の内側だけの事情で考えられていて、

アジアを視野に含めていないことを問題視しています。

なかなか重要な指摘だと感じました。

 

第3部にはポピュラー・カルチャーから「戦後」を考える論考がまとめられています。

91年から2015年までの比較的最近のものになりますが、

いきなりサブカルを含めた文化論になるあたり、伊藤の関心の広さが窺えます。

「戦後・社会意識の変容」という論考では、60年代から70年代への変化を文化を題材にして描き出そうとしています。

70年代に社会がとりあえずの「成熟」を果たすと、「批判性」よりも「保身性」に傾いていったことを指摘した伊藤は、

若者の「社会」志向から「私」志向への変化を文学作品を取り上げて対照してみせます。

石原慎太郎の『太陽の季節』は「社会」志向、

村上龍『限りなく透明に近いブルー』や村上春樹『風の歌を聴け』は「私」志向とされるのですが、

その中間が庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』だとするのは多少違和感がありますが、

大まかな捉え方としてはそれほど異論はありません。

 

この論考で非常に共感できる部分は、伊藤が70年代以降の消費資本主義社会を、

イデオロギーの終焉と捉えるのではなく、非人間的で抽象的な「資本」の支配が強まった社会として考えていることです。

 

この「イデオロギー終焉」の時代、一見、バラバラな小さな「物語」が無政府的に氾濫している時代こそ、イデオロギー的支配の深化の時代と考えた方がいいのではないか。ある社会学者の言葉を借りれば「ポストモダン的な断片性や脱中心性こそ、イデオロギーが、葛藤し競合しあう自己正当化するさまざまなディスコースの多元性の上に存在していることを明らかにしている」そして「さまざまなディスコースは、権力と支配の問題に密接に結び付いている」のである。

 

伊藤はポストモダン社会をイデオロギーの終焉と把握するのではなく、

イデオロギー的な文化支配を、表面的な断片性、脱中心性を超えて分析するべきだと述べます。

これは非常に重要な指摘だと思います。

 

消費資本主義イデオロギーが、断片性、脱中心性を特徴として文化支配を強めているのに、

日本のインチキポストモダン学者たちは、表面上の意匠でしかない断片性と脱中心性を深遠な思想の現れであるかのように語り、

資本のイデオロギーと戦うどころか、資本の犬となって中身のない著書を売ることに奔走しています。

僕がレビューで同様の内容の批判をすると、「ポストモダン嫌い」とレッテルを貼って文句を言う学者もいたのですが、

社会学の分野では僕の書くような批判はすでに語られていることだとわかりました。

内輪の意見しか知らない無教養な学者ほど、他人の批判を聞くことができないのです。

 

「戦後男の子文化のなかの「戦争」」も興味深い論考でした。

70年代以降のマンガでは「兵器」を持たない肉弾戦による暴力シーンが増えるのですが、

伊藤は逆に「身体性の喪失を強く感じさせられる」と述べています。

主人公の強さは努力で身に付けるものから天性のものとして描かれるようになり、

読者はヒーローに憧れるのではなく、ただ「傍観」するだけとなる、という見方はすぐれています。

 

また伊藤は、70年代を境にして、男の子のヒーローが一匹狼から友情に支えられた集団戦へと変わっていくとして、

社会や経済の「個人化」が進行したために、幻想において「共同性」が求められると述べています。

そのため、この「共同性」に中身はなく、個人のアイデンティティ保証のための幻想が求められているだけで、

内的な凝集性は不在だと喝破します。

(ここを読んで、僕はやたらと集団化したがる一部の傍流若手俳人たちを思い浮かべてしまいました)

ポップカルチャーの分析として、本書はもっと注目されてもいい内容だと思います。

 

本書の視座が多岐にわたるために、なかなか適当な読者のもとに届かないのではないかと危惧します。

(書名からポップカルチャーを扱う本だとは想像がつかないのではないでしょうか)

内容はすぐれていると思いますので、多くの人に読んでもらえることを願っています。

 

 

 

評価:
伊藤 公雄
インパクト出版会
¥ 2,916
(2017-04-01)

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