『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書) 白井 聡 著

  • 2018.05.04 Friday
  • 01:01

『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書)

  白井 聡 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   戦後左派の主張の延長だが、今やこういう本も貴重

 

 

『永続敗戦論』でヒットを飛ばした白井聡が、

現代日本の「永続敗戦レジーム」のルーツを近代の天皇制国家体制である「国体」とみて、

日本の近代史を「国体」の護持という視点から描いてみせたのが本書です。

日本が敗戦後も戦時「国体」の存続を望んだことが、戦後のアメリカ従属の原因だと白井は考えています。

 

問われるべきは、戦前から引き継がれたシステムとしての「国体」が、対米関係を媒介としてその存続に成功したこと、そしてそれによって、どのような歪みが日米関係にもたらされたのかという問題である。

 

こう述べる白井の問題意識は、現在の「永続敗戦レジーム」が歴史的に成立した経緯を明らかにすることなので、

近代から戦後までの通史に照らして「国体」護持(果ては天皇制)という不可視化された日本人の核を、

なんとか浮かび上がらせようと努力しています。

ただ、結論そのものは『永続敗戦論』とそう変わらないので、その学問的手続きを退屈に感じる人もいるかもしれません。

 

白井の主張する「永続敗戦レジーム」とは、敗戦後の日本がアメリカに永久服従する体制のことです。

独立国としての尊厳もなく、不公平な日米地位協定を改定もできず、永遠にアメリカの卑屈な子分の道を歩む戦後日本。

白井はこのような体制を「異様なる隷属」として、

「日本は独立国ではなく、そうありたいとという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と糾弾します。

 

このような「奴隷」を思わせるアメリカへの絶対服従がどうして起こったのかを、

白井は「国体」を至高の価値とする近代日本史を振り返ることで説明していきます。

敗戦後、アメリカは共産主義陣営との冷戦をにらんで、

前線基地として日本の安定支配を必要としたわけですが、

そのために天皇制を保存することを選択したため、戦時「国体」が延命することになりました。

D・マッカーサーがアメリカ幕府として天皇に承認されたかのように日本人は受け取ったわけです。

この解釈は特別新しいものではなく、それなりに知られているので、

戦後史を知っている人間なら反論する人はいないのではないでしょうか。

 

僕は前から疑問なのですが、

国体が護持されたということは、真の意味で日本は敗北していないとも言えるのではないでしょうか。

白井は「永続敗戦」と言いますが、天皇制の支配層にとっては国民が何人死のうが、

ラスボスである天皇が生き残れば「敗戦」ではないと言えなくもありません。

白井は日本人が敗戦を「否認」していることを糾弾しているのですが、

もし「敗戦」していないのであるならば、それは「否認」ではなく真実でしかないわけです。

僕にはこのあたりの白井の考察はまだまだ弱いと感じます。

 

本書でも触れていますが、

天皇とその周囲は、ロシアが共産主義革命による皇帝の殺害を行なったことで、

日本でも同じことが起こることを恐れていました。

つまり、昭和天皇は自分の命を何より惜しんでいたわけです。

(このことはハーバート・ビックス『昭和天皇』を読んで僕が受けた印象でしかありませんが)

アメリカも天皇制支配層も戦後の共産主義革命を恐れていたため、

両者の利害が一致して戦後体制が始まったことを白井は指摘しています。

それならばやはり、天皇制支配層にとっては軍部を切り離すことで、

真の「敗戦」を免れたと言えるのではないでしょうか。

 

このことから、僕は白井の論に根本的な矛盾があると考えざるをえません。

戦後に国体の護持が行われたのなら、日本は「永続敗戦」どころか天皇制の勝利が続いているとするべきですし、

それが不満であるならば、天皇の「お言葉」などを自らの論拠に持ち出すのはおかしいのです。

白井は天皇制と戦う気があるのかないのか、僕はそのあたりを怪しんでいます。

 

もし天皇制と本気で戦う気があるのであれば、

近代天皇制の考察をするだけでは問題の本質にはたどり着けないと言っておきます。

僕自身の考えを簡単に記しておくと、天皇という存在は共同体にとっての外部のシンボルという役割を負っています。

引きこもり体質の日本人は外圧をひどく恐れているため、自己享楽をする以外の行動原理は外圧にしかありません。

そのため、普段は外圧を無化して鬱に陥ることを避けなくてはいけません。

そこで外部を天皇という存在に肩代わりさせ、彼を崇拝することで内輪のシェルターを築いたのです。

(そのため、天皇は死者という外部にも通じる回路なのです)

 

白井は日本人がアメリカ依存をしていることを糾弾しますが、

そもそも日本は中国文化に依存していた国です。

外圧の中にいて外圧を無化(否認)して自己享楽する以上の価値がない国なのは、

長い歴史の中で維持されてきたアイデンティティであり、戦後に始まったものではありません。

それを支えているのが古代からの天皇制なのです。

日本史を見れば、外圧に屈するか、引きこもるか、侵略戦争に打って出るか、そのどれかしかありません。

(アメリカ=世界として、それだけを外部の窓とするのは、鎖国と大差ないと思いませんか?)

 

白井は天皇制が「第二の自然」として不可視化されていたため、共産主義者の天皇制との戦いが困難だったと述べています。

外部を放逐して内輪で楽しくやりたい日本人にとって、外部の象徴である天皇を不可視化するのはシステム上不可欠なのです。

白井は不可視化された天皇制+アメリカ支配を認知するように日本人に要求しますが、

そのためには日本人の欲望が変わるか、否応なく巨大な外圧によって開国を迫られるかしかないと僕は思っています。

 

なにか批判しているような書き方になってしまいましたが、

僕としては白井に本気で天皇制に戦いを挑む気があるのならば、

中途半端な思索で満足せず、歴史に挑戦する気持ちで市民革命を呼びかけてほしいのです。

しかし、天皇制を批判するわりに、天皇の「お言葉」に依存するような内容でしかありませんでした。

僕が残念だったのは、

白井の論には丸山眞男や竹内好などの受け売りそのままと感じられるところがあって、

戦後左派の考えをそのまま受け継いだだけに終わっているように感じられたところです。

 

もちろん、ポストモダンなどのインチキ思想に享楽して、

丸山眞男や竹内好などの戦後思想も知らないのに思想人ぶっている似非知識人が増えている中、

白井のように戦後左派の思想を受け継ぐ意志を持つ人は貴重だと思います。

その意味で僕は本書の社会的意義を評価しますが、個人的な感想だけを言えばかなり物足りないというのが正直なところです。

 

細かいことですが、

白井は「天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成して」いると述べています。

その指摘はしごくもっともだと感じますが、

それなら憲法9条の維持に賛成しながら沖縄の基地に反対する態度は矛盾していることになるのではないでしょうか。

安保体制を批判するのは構いませんが、同時に左派政党の欺瞞も批判するのが筋だと感じます。

 

戦前戦後の時代区分に社会学者の大澤真幸のアイデアを用いるのも少し安易に感じました。

もともと大澤が師の見田宗介の区分に倣ったものであり、歴史を都合よくメタ化する方法として用いられている印象です。

明治憲法における天皇の二重性については、とりたてて問題とすることなのか僕にはよく理解できませんでした。

立憲主義からすれば君主の立場に二重性があるのは当たり前のことにも感じました。

北一輝を取り上げ、「国民の天皇」が挫折したら「天皇の国民」イデオロギーが回帰するとするところも、

僕には腑に落ちる感じがあまりありませんでした。

北一輝の発想が時代を代表していたとも思えませんし、だからこそ二・二六事件は挫折したのではないでしょうか。

 

僕は白井の「永続敗戦レジーム」への批判には共感するのですが、

以上のように本書の論理に関しては同意できない部分が多々ありました。

結局、白井は日本近代史における「国体」の問題に興味があるのではなく、

「冷戦終焉後の世界で、アメリカに追従しておればまずは間違いない

という姿勢が日本の国家指針であることの合理性が失われた」

ということを主張したいのだと思います。

南北朝鮮の融和ムードによって、白井の指摘はだんだんと信憑性を増していることは間違いありません。

アメリカに隷属しているだけではジリ貧である、ということを正面から語れば良かったと思います。

 

 

 

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