『俳句の誕生』(筑摩書房) 長谷川 櫂 著

  • 2018.04.29 Sunday
  • 21:14

『俳句の誕生』(筑摩書房)

  長谷川 櫂 著

 

   ⭐

   俳句の衰退は本当に批評の衰退が原因なのか?

 

 

若き長谷川櫂の著書『俳句の宇宙』は流行のポストモダン的発想に依拠していたとはいえ、

俳句における「場」の重要性を丁寧に説明しきったという点においては、

なかなかにすぐれた本であったと思います。

しかし、本書『俳句の誕生』では「場」という言葉がどこかへと消えてしまって、

「主体の転換」などというような批評的な用語を無理して用いているため、かえって内容が不確かで乏しいものとなっています。

 

本書の第一章はまさに「主体の転換」と名付けられています。

岡野弘彦、三浦雅士と長谷川による連句が紹介されていて、

「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」ことを説明していきます。

 

ここで「主体の転換」という言葉について考えておきたいのですが、

長谷川は「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」こととします。

わかりにくいので、長谷川の説明を引用しましょう。

 

では主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるということだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平たくいえば、ぼーっとする。いわば「魂抜け」である。

 

お友達の三浦雅士の影響を受けているのかわかりませんが、

長谷川は連句の「主体の転換」を「幽体離脱」、つまり一種のトランス状態として理解しています。

これは三浦の大好きな大野一雄の舞踊などを持ち出して説明するのにふさわしい要素です。

これ以後、本書で長谷川は繰り返し「ぼーっとする」ことを俳句の中心要素として語るのですが、

このような極端なまでの単純化が長谷川の論に批評性が欠けているという印象を与えてしまう原因のひとつと言えるでしょう。

 

長谷川は俳句の「切れ」が散文的論理を断絶することで、「ぼーっとする」空白を生み出し「主体の転換」を果たすと主張します。

俳句が「切れ」などによって散文的論理を超えるという見方については、僕も特に異論はありません。

そのような俳句の非論理性が初期の長谷川の主張では「場」に依存していることになっていたのですが、

本書ではトランス的な「主体の転換」によるのだという説明に変更されています。

これは議論として後退していると思います。

なぜなら、トランス状態に基づいた芸術ならば、俳句以上にもっとふさわしいものが多くあるからです。

僕がこの長谷川の主張に三浦の影響を感じてしまうのは、長谷川の主張に大きな齟齬があるからです。

 

「主体の転換」とは、「転換」であるかぎりにおいて、Aという状態からBという状態への移行を意味します。

連句でいえば連衆が自分自身という主体から、句の主体へと移行することを意味するはずです。

しかし、ただこれだけであれば、小説家や漫画家や演劇の脚本家であっても構わないはずです。

自分を離れて登場人物Aの気持ちを代弁し、今度は人物Bの気持ちを代弁するわけですから。

これだって作者が「幽体離脱」をしていると言えなくもないわけです。

だとしたら、散文的思考であっても「主体の転換」は十分可能ということになるのではないでしょうか。

 

それなのに、長谷川は別の状態への移行の間に「ぼーっとする」という空白の状態、

つまりはイタコ的なトランス状態を差し挟もうとするのです。

前述しましたが、このようなトランス状態は舞踊であったり、もっといえば能の方が明確に確認できるものです。

言ってしまえば舞台芸術において成立する要素であるということです。

これを俳句を語るのに用いるのは、だいぶ力技が過ぎるという印象を受けます。

そのため、「現代思想」の編集長を経て「ダンスマガジン」を創刊した三浦の影響ではないのかと勘ぐってしまうのです。

(三浦が青森の出身であるのも興味深いところではありますが)

 

念のため、「ぼーっとする」ことがトランス状態を示していることを確認しておきましょう。

 

詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきることである。詩歌の代作をすることである。役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でなければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるということは言葉をかえれば、我を忘れてぼーっとすること、ほうとすることだ。

 

この文章は柿本人麻呂の歌を論じたところにあるのですが、

このような「空の器」になることは、詩人の能力に負うところが大きいはずです。

俳人であろうが、役者であろうが、ミュージシャンであろうが、この能力を発揮できる場面は数多くあるのですから、

俳句がトランス文芸であるという主張よりは、俳人はトランス状態に入って俳句を作らなければいけない、

という論の運びにならなければおかしいのです。

それなのに、長谷川はあくまで俳句がトランス文芸であるという主張を崩しません。

 

長谷川自身は論理を超えた俳句の魅力を訴えようとしているのかもしれませんが、

肝心の著書が論理に依存したパッチワークで形成されているのでは格好がつきません。

というのは、ただ「主体の転換」だけを根拠にするならば、

そんなものは頭で考えて行っているだけだと反論されたら終わってしまうからです。

むしろ長谷川は「ぼーっとする」トランス状態が起こっている俳句が「すぐれている」ことを論証する必要があったのではないでしょうか。

しかし長谷川は「切れ」があるから間が生まれ、間があるから「ぼーっとしている」のだ、という論理にしてしまうのです。

こうなると、俳句の形式から必然的にトランス状態が生まれることになってしまい、

作り手の状態や能力など考える必要もないことになってしまいます。

 

僕は俳人ではないため、俳人たちが俳句の「形式」に過剰なまでの役割を負わせることはある種の依存心だと感じています。

彼らはまるで「形式」が芸術を生み出すかのように語るのですが、

たしかに俳句が大衆に開かれた文芸であるにしても、

「形式」自体に価値があると考えるのは一種の倒錯です。

このあたりは俳人たちに真摯に反省してもらいたいところだと僕は思っています。

 

俳句にもいい俳句や悪い俳句がありますし、いい俳人もダメな俳人もいます。

俳句「形式」に則っていれば必ずいい俳句になるというなら、こんな簡単な創作はありません。

そうでないから俳人は苦労をするのですし、努力もするのです。

それなのに、俳人は自らの依り代の価値を高めたいという邪心が強いのか、

やたら俳句の「形式」自体に価値を負わせようとがんばります。

小説家や漫画家や劇作家など他の多くのジャンルでは絶対にそんなことは考えません。

こういう発想は「伝統」に守られたマイナージャンルの「甘え」であると、

長谷川をはじめとする俳人たちには理解してほしいものです。

 

長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退していることを嘆くのですが、

その原因を批評と選句という「俳句大衆の道標」の衰退に見ています。

長谷川は『俳句の宇宙』ではそれを共有できる「場」の衰退に見ていたはずです。

それがどうして批評と選句になってしまうのか、僕には理解に苦しむのですが、

僕のような俳句を作らない純粋読者から言わせていただけば、

俳人がこのように「作り手」ばかりに目を向けていることが衰退の原因ではないかと思っています。

 

僕は連句については前の文脈を意図的に脱臼させるため、

トランス状態によるのではなく、知的な作業によって成立していると考えます。

ただし、もし俳句に長谷川が言うようなトランス状態があるとするとするなら、

それは「読み手」の持つ能力を前提としないと成立しない気がします。

作り手が提出した句を、読み手の側が自分を離れて「ぼーっとする」ことにより、

作り手の生み出した句の「場」へとトランスして近づいていくからです。

読み手のトランス作業によって質の高い「主体の転換」が行われ、

短い断片の言葉からイマジネーションを感じ取ることが可能になるのではないでしょうか。

つまり、良い俳人とは例外なく良い読み手であり、だからこそ選句も批評もうまかったのではないでしょうか。

 

しかし読者のほとんどが俳人であることにあぐらをかいた俳句界は、

俳句を作る作業ばかりを重んじて、読者を育てることをサボってきました。

あげく僕のような純粋読者が俳句批評をすると、「俳句をやらないなら謙虚でいろ」とか言う偽俳人が出てくる始末です。

外山滋比古が和歌と俳句には「声」を基礎とした「二人称読者」が欠かせなかったと述べていますが、

現代俳句はマスコミや出版(もしくはネット)によって俳句を流通させることを当然と考えるあまり、

句が顔のある誰かに向けられたものとしてあることを忘れているのではないでしょうか。

俳人はつまらぬ自意識を反映した下手な句を作ってアーティストぶるより前に、

俳句の良い読み手であるように努めるべきだと思います。

(もちろん、俳句を読むより観念的な言葉を振り回すことに熱心な「批評もどき」は良い読みとは言えません)

 

結論を語ってしまったのですが、本書にはどうしても指摘しておきたい部分があります。

長谷川は「新古今和歌集」が禅の思想を享受したことによって誕生したと書いているのですが、

このような説を僕は初めて目にしました。

これは本当に信用に足る説なのでしょうか?

平安時代の仏教の影響は『源氏物語』を読んでもわかる通り、浄土思想に現れていたはずですし、

一般的には「新古今和歌集」は古典教養に根ざした技巧的な作り方や本歌取りが歌風とされていたはずです。

ちなみに沖本克己の『禅』にはこのような文があります。

 

禅文化とはそもそも背理を含んだ言葉である。禅は文化や芸術には本来無頓着である。(中略)もし禅が文化を領導したり時代社会の指導原理になるとしたら、それはどうも碌でもない事にちがいない。

 

禅の研究者がこのように書いている以上、僕は長谷川の説を信じることはできません。

長谷川は「俳句は禅にはじまる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最終の一単位なのだ」などと書いていますが、

あまりに不確かな説だけに、主張するならそれだけの根拠を示してほしいと感じました。

このあたりにも、俳人が自分の依拠する俳句をやたら高尚なものに「捏造」しようとする、さもしい欲望を感じてしまいます。

 

 

 

評価:
長谷川 櫂
筑摩書房
¥ 3,597
(2018-03-02)

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