『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ) 佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

  • 2018.04.15 Sunday
  • 11:42

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ)

  佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

   ⭐

   ドゥルーズ=ガタリの左旋回は不都合な過去の隠蔽でしかない

 

 

G・ドゥルーズとF・ガタリの著作『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が日本で哲学的インパクトを持って迎えられたのは、

バブル期からネットが一般化するまでの期間でした。

20年以上前、現代思想といえばドゥルーズ=ガタリ、J・デリダ、M・フーコーのことでした。

ドゥルーズ=ガタリ自身はF・ヘーゲルやJ・ラカンの思想を批判した「アンチ」だったのですが、

当時の日本では彼らの支持者が圧倒的なマジョリティだったことは確認されなければなりません。

僕にとって学生時代からドゥルーズはメジャー中のメジャーでしたし、ヘーゲルなど超弩級のマイナーな存在でした。

 

西洋哲学の伝統がない日本では、ドゥルーズ=ガタリは批判哲学としての意味を持っていませんでした。

ドゥルーズ=ガタリが評価されたのは、それが西洋の新時代を示しているように見えたからです。

そうなれば「新しい」ものに弱い日本人が殺到するのは必然です。

実際、彼らの思想には商業的な「新しさ」がありました。

存在の一義性はグローバリズムの浸透によるマーケット一元主義と歩調を合わせたものでしたし、

「スキゾ」という言葉は、消費資本主義と呼応して因習を打ち破るファッションになりましたし、

「リゾーム」という概念はインターネットを先取りしたものでした。

何より大衆動員力のある映画を礼賛していたことで、

ドゥルーズ=ガタリは商業的な「新しさ」と共犯関係を持っていたのです。

 

このように日本ではドゥルーズ=ガタリの思想が商業的な先端性として受容されたために、

実際は反資本主義を意図していたということが、ブラックジョークにしかなっていません。

同じく反資本主義を意図したJ・ボードリヤールの著書が、日本では電通の社員の愛読書になったように、

〈フランス現代思想〉は日本で受容されると反資本主義的な内容が体良く去勢されてしまうのです。

 

以前から僕は〈フランス現代思想〉の研究者が、本国と日本の受容のギャップを指摘しないことに不信感を抱いてきました。

そのため、本書が今さらドゥルーズ=ガタリが資本主義打倒の革命思想家だったというスタンスを前面に出すのには違和感があります。

日本の商業的な受容のあり方についての反省もなく、

原発や沖縄の抵抗運動にドゥルーズ=ガタリ思想が関連しているようなことを書く佐藤と廣瀬には、

その運動に共感するにしても、にわかに賛同する気にはなれません。

 

参考までに手元にあった雑誌「現代思想」2008年12月号のドゥルーズ特集を開いてみます。

特集内容の内訳(中見出し)を見ると、

最初に「『シネマ』を読む」、次に「映画=思考」と映画論がメインです。

次は「科学・情動」「情報・生命」「言語・芸術・文学」と続きます。

そして、やっと最後が「権力・社会」です。

日本でのドゥルーズ思想がいかに政治的な文脈でないかがよくわかる構成です。

気の毒なことに、その雑誌で「動的発生から生成変化へ」という権力論を担当しているのが、

本書の著者である佐藤嘉幸なのです。

この事実ひとつを取り上げても、佐藤のような政治的アプローチが日本のドゥルーズ受容の傍流であったことがよくわかります。

(ちなみにこの佐藤の論考に、一度として「資本主義」「革命」という言葉を見つけることはできませんでした)

 

要するに、〈フランス現代思想〉研究者の中で脱原発などの政治的実践を厭わない佐藤や廣瀬は、

メジャー思想の研究者の中でのマイノリティであるのでしょう。

その意味では商業主義的で欺瞞を垂れ流すドゥルーズ学者よりは何十倍もマシだと思いますが、

僕が彼らに賛同できないのは、彼らがドゥルーズの非政治的受容に対して反省も批判もしないことです。

日本の受容を見れば、ドゥルーズ=ガタリの思想に消費資本主義と共鳴するところがあったことは明らかです。

ドゥルーズ=ガタリの思想の商業面を批判しないで資本主義打倒を語るのは図々しいと思うのです。

 

〈フランス現代思想〉は概してユダヤ的な要素が強く、

ナチスドイツの被害者だったフランス人とユダヤ人の共感で成立している印象があります。

日本は大戦中はナチスの仲間だったわけですから、そもそも〈フランス現代思想〉に共感する立場にはありません。

もしドゥルーズ思想を批判理論として引き受ける気があるなら、日本のドゥルーズ学者は日本の戦時体制を批判しなくてはいけません。

デリダ学者の高橋哲哉はそういう視点を持っている印象がありますが、他の学者はちっともそんな気がないようです。

日本でドゥルーズ=ガタリの思想が非政治的にしか受容されなかった理由のひとつには、

自分自身の過去の傷に触れたくなかったことがあるのではないでしょうか。

そうして日本の〈フランス現代思想〉は批判理論としては機能することなく、

自身のあやまちまで遠い西洋近代のせいにして、ひたすらナルシシズムを高めていったわけです。

 

さて、本書の内容について触れていきますが、

少し読んだだけで、ドゥルーズ=ガタリの思想に触れたことのない人には難しすぎる不親切な本だとわかります。

ほとんどがドゥルーズ=ガタリの著作からの引用とそれを信奉した概説で構成されているからです。

佐藤と廣瀬はドゥルーズ=ガタリと適切な距離が取れていないため、

現代思想の権威の雄弁かつ過剰な代弁者となってしまい、読者が自分自身で考える機会を奪っています。

このような本はエディプス図式そのままの従順な教条主義者を生み出すだけではないでしょうか。

自分自身が服従化の欲望を生きている権威的マジョリティの代行者でしかないのに、

よくも批判している気分になれるものだと呆れます。

 

僕は前々から疑問なのですが、

どうしてドゥルーズ=ガタリのことを書く人は、

ドゥルーズ=ガタリと適切な距離を取って、その思想を検証しつつ解説することをしないで、

自らがドゥルーズ=ガタリの代弁者のようになってしまうのでしょうか。

彼らの思想は批判理論であるはずなのに、それを研究する日本人は一様に無批判にその思想を受け入れています。

他の思想家ではそこまで極端な同一化は起こりません。

僕が見た限りでは、ドゥルーズ=ガタリを理論的に批判した人は外国人ばかりです。

長らく日本の現代思想においてドゥルーズ=ガタリは批判の許されないファッショ的存在だったと言えるのではないかと思います。

 

本書が示す三つの革命は、

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』という三つの著作に対応しています。

つまりはこの三作がすべて革命的な著作だと言いたいようなのですが、

そのあまりに反省や検証のない評価のあり方はどうかしています。

ドゥルーズ=ガタリの言っていることは、今となってみれば、ひどくロマン主義的で、ひどく都合のいい論だと気づけるはずだからです。

そもそも佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』を読解する第三部の冒頭でこう述べています。

 

レーニン的切断がその社会的、政治的効力の一切を失いつつあったこの歴史的局面において、ドゥルーズ=ガタリは、プロレタリアによる階級闘争も、マイノリティによる公理闘争も、実現不可能なものになった、と判断している。

 

佐藤と廣瀬は『アンチ・オイディプス』を「プロレタリアによる階級闘争」とし、

『千のプラトー』を「マイノリティによる公理闘争」として章題にもしているのですから、

これらがダメになったということは、少なくともその二作には今や思想的実効性がないと言っているわけです。

彼らは社会主義体制の崩壊を理由にしていますが、僕はドゥルーズ=ガタリの理論自体に欠陥があったと思っています。

さんざんその二作の内容を大上段から説明してきたくせに、

それが失敗だったことをこの一文だけで済ませてしまう態度は納得がいきません。

思想というものは、本当に価値があれば社会体制の変化ぐらいで断念されるものではありません。

つまり、ドゥルーズ=ガタリ自身は過去の思想に問題があったと認めているわけです。

それなのに、日本のドゥルーズ学者たちは彼らの思想の欠陥を検証することもせず、

相変わらず有効性のない思想の権威だけを維持しています。

 

彼らが考察をしないので、代わりに僕がドゥルーズ=ガタリ思想の欠陥をざっと書いておきましょう。

フーコーもそうなのですが、理性的主体というものが権力への服従を促すという認識に問題があります。

一部は正しいとしても一部では間違っています。

それなのに〈フランス現代思想〉は主体批判をすれば、権力の批判をしているという気分から抜けられません。

〈フランス現代思想〉以外ではこんな大前提は共有されていませんので、内輪的発想と考えてもいいと思います。

この間違った「大前提」はいいかげん反省されるべきものです。

『アンチ・オイディプス』はこの間違った「大前提」に依存しているため、

無意識の欲望に権力からの自由を見出すことになっています。

 

ドゥルーズ=ガタリにおいて主体は、欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによって、その機械の傍らに、残余として生産される(残余–切断)。その意味において、主体は意識によって中心化された人称的主体ではなく、非人称的特異性から構成された「脱中心化された」主体、すなわち無意識の主体である。また、この主体は、多様なフローを採取、消費することによって刻々と変容を繰り返す非人称的主体である。

 

ドゥルーズ学者はこのような「お題目」に則って、「生成変化」とか言いながら変容を肯定してきました。

引用した佐藤と廣瀬の文章にある「フロー」とか「消費」とかいうワードでわかる通り、

ドゥルーズ=ガタリの「無意識の主体」とは、消費資本主義的な主体に回収されるものです。

ドゥルーズ=ガタリはこの「無意識な主体」によって、権力に服属するエディプス的主体を打ち破れると考えたのですが、

その「無意識の主体」は彼らが思い描いたような無秩序で多方向に分裂する主体にはならず、

知らず知らずのうちにマーケティングに乗せられている消費的な欲望主体として資本主義に服属するだけに終わったのです。

もう結果が出ているので検証もできるはずなのに、ドゥルーズ研究者たちはこのことに知らん顔をし続けています。

 

多方向な欲望は、40人を超えるアイドルグループや4人以上のヒロインがいるアニメなどに飼いならされ、

見かけは選択肢が増えて多様でも、大枠では同一のものに服属していることを欲望することに終わり、

アナーキーな欲望にまでは至らず、結局はナショナリズムを超えることはできませんでした。

この失敗はドゥルーズ=ガタリが「無意識」というものにロマン的な価値を見出しすぎていたことにあります。

シュールレアリスムも同様なのですが、フランス人は無意識を都合よく美化しすぎていると思います。

その結果「欲望機械」とか言って、理性的主体としての「人間」を解体すれば体制の打破ができるような幼稚な幻想を語るのです。

 

リゾーム的横断性による権力的ツリー構造の破壊をめざす『千のプラトー』に至っては、

インターネットを持ち出せばすむような内容です。

わざわざドゥルーズ=ガタリの引用に基づいて小難しい読解をする意味がわかりません。

その態度こそが権威を保存するやり方でしかないと感じます。

ちなみにスター扱いされているあるドゥルーズ研究者は、

ドゥルーズ=ガタリ的な非人称的主体であるAmazonレビュアーを「基本アホ」と罵倒し、

人称的でツリー構造に依拠するマスコミに掲載されたプロの書評を読めとツイートしたのですが、

このようにマリノリティへと生成変化するどころか、権威の場に平然と依存し続けて、

ドゥルーズ=ガタリの思想を全く尊重することもない人がドゥルーズ思想を語ってしまう国で、

西洋思想の何が学べるというのでしょうか。

 

佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』では、「マジョリティであることの恥辱」を感じることの重要性を語っています。

ここを読んで僕が疑問に思ったのは、

恥辱を感じるのは、はたして無意識の主体なのか理性的な主体なのかということです。

僕の常識的実感では、それは理性的主体でなければならないはずなのですが、そのあたりを佐藤と廣瀬は触れずにすませてしまいます。

恥辱を感じることが重要ならば、人間不在の思想に入れあげたドゥルーズ研究者は何もわかっていないということになります。

ドゥルーズ=ガタリの思想が多方向に変容しているのか知りませんが、

こういう一貫性を考えない態度が、官僚が文書を平気で書き換える時代と親和的であることは間違いありません。

 

本書の最後にある日本の反体制運動についての記述は欺瞞まみれで憤りを感じました。

そうやって現実を自己都合で解釈するロマン主義的な態度は、彼らが反発している安倍政権と何ら変わりがありません。

たとえば、佐藤と廣瀬は「安倍やめろ」の政権反対運動について、

「賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ」

と解釈して、ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』へと話を接続し、

「その運動の直中で、資本主義的主体性から自らを脱領土化し、

純粋内在性の集団的行為主体の構築過程の上へと自らを再領土化するのだ」

とか述べるのですが、どう考えても強引な牽強付会でしかありません。

「安倍やめろ」がどうして賃労働反対の表明になるのでしょう?

佐藤と廣瀬は大多数の日本人が天皇制を保存したい権威依存的な性格であるという事実から目を背けて、

身勝手な「解釈」によって現実を自分のロマン主義的な夢へと塗り替えてしまうのです。

 

本書で沖縄県民を執拗に「琉球民族」と書き記すことも違和感を感じずにはいられません。

そのうえ、沖縄の基地反対運動もなぜか賃労働反対へと変換されてしまいます。

 

基地廃絶を求める琉球労働者たちは、彼ら自身の階級利害に反する熱狂を生きているのであり(分裂者的リビドー備給)、この熱狂の絶対性に押されて彼らは、賃労働にはもはや立脚しない新たな生を創造する過程(生成変化)の上へと自らを再領土化するのである。

 

基地廃絶という具体的イシューを、賃労働に立脚しない生の創造へと身勝手な抽象化をしてしまう、

このような抽象化を逃げ道として〈フランス現代思想〉研究者たちは自己都合のポストトゥルースを垂れ流してきました。

他のジャンルの研究をしている方なら、日本の〈フランス現代思想〉研究者のレベルの低さが実感できるのではないでしょうか。

研究者はドゥルーズの権威を利用した「商売」を謹んで、学問的に思想内容を検証したり批判したりしてほしいものです。

 

 

 

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