『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ) 沖本 克己 著

  • 2018.04.09 Monday
  • 10:21

『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ)

  沖本 克己 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   言語で語ることのできない禅というものを語る

 

 

禅には「不立文字」という言葉がありますが、それは禅には文字が必要ないということを意味します。

学問的な知識、理論ばかりに傾くことを戒めた言葉で、実践の重要性を訴えたものです。

禅宗の開祖と言われる中国の馬祖道一も、言葉は真理への「道しるべ」だと語っています。

言葉が「道しるべ」とされるのは、それはただの標識であって、大事なのは悟りへと実際に到達する実践だという意味です。

このように、自分自身の内的な体得を到達点とし、言語化や理論化を避けるのが禅のあり方です。

そういう非言語的な世界を、言語によって語るという矛盾を無視できない沖本は、

禅とはこういうものである、というようなわかりやすい定義をしてくれません。

葛藤したり、逸れていったり、個人のつぶやきになったり、と非常に収まりの悪い本になっています。

ただ最後まで読むと、この収まりの悪い書き方こそが沖本の誠実さの現れであることがわかってきます。

 

本書は禅の本であるはずなのに半分以上は仏教史を追っています。

ブッダの教えから教団の成立、仏教の学問化(アビダルマ)、大乗仏教の登場という仏教変遷の歴史を解説した上で、

大乗の名だたる学者として、龍樹、弥勒、無著、世親、鳩摩羅什、玄奘などを取り上げています。

あまりに禅が出てこないため、途中でこれは何の本だっけ? という気持ちになってしまうかもしれません。

 

「シナ禅宗とはブッダ仏教の時空を隔てた再現であり、原点回帰運動の一つ」だと沖本は言います。

つまり禅は、ブッダの教えを学問化したことで失われた原点を取り戻すことを目的としているのです。

そこで禅が否定している仏教の学問化の歴史を理解する必要が出てくるのです。

 

沖本は仏教史をフィクショナルなものとして相対化するのですが、それがしっかりした仏教史の理解に裏打ちされていることが重要です。

本書の半分以上を占める仏教史の解説は、簡明でおもしろいのです。

たとえば沖本はブッダの教えを「縁起」に還元し、それまでのインド哲学であるウパニシャッドの実在論を否定したとします。

「縁起」の意味については次のように説明しています。

 

この「縁起」とは、すべては相対的な関係によって、今現成しており、そして絶えず変化し続ける。それ故、どこにも、如何なる固有の実体も存しない、ということである。

 

沖本はブッダの教えの根幹を縁起説に見ています。

すべて存在するものは一時的な現象であって、相対的な関係によって成り立っているため、

永続する絶対的な存在はなく、すべては変化していくという考えです。

ブッダ本人は何も書き遺さなかったので、教えは教団の弟子たちが口伝し、それがのちに経典となったのですが、

やがて仏法を自らのものとしないで研究の対象とする立場が生まれます。

それが学問としての仏教、アビダルマ仏教です。

 

自らと法が一体となるように努力せよ、というのがブッダの遺言であった。仏教はあくまで自らの主体に関わる問題であり、それを解決するための具体的方法であった。ところがアビダルマとは教法を客体化して自らの外に置いて学習と考察の対象とすることである。つまりアビダルマとは主体と客体を分離することに他ならない。

 

こうして仏教は精密な学問体系となりましたが、その弊害として次々に異説を生むことになったと沖本は述べます。

『臨済録』にその言葉が残る臨済義玄は、「青二才の愚かな坊主たち」が「まやかしの邪説」を信じているとオカンムリです。

修行や実践を忘れて、もっともらしい真理を語るだけになった仏教への批判が禅の根底にあるのです。

 

学問エリートによるアビダルマに反発した一派が大乗仏教を生み出していくのですが、

本書は大乗の思想についても三章に渡ってかなり念入りに扱っています。

ここにも興味深い沖本の指摘がいくつも見つけられます。

大乗が架空仏と同等となるほどに菩薩の地位を高めたわりに、

菩薩が「悟っていない存在」であることに変わりがないことに注目し、

大乗では信者に悟りはありえず、ただ架空のブッダを信奉するだけに終わる、と辛辣です。

 

仏教の「空」とはゼロであり、実体が無いことを表すという説明もかなり簡明です。

否定する対象を持たない「空」は「有無」とは別の次元にあるのです。

『華厳経』に関してもおもしろいことを言っています。

「『華厳経』とは多弁を弄しつつ多弁を否定するという奇妙な言語空間なのだ、というより他は無い」というまとめには思わずニヤリとします。

そして沖本は『華厳経』はどこまでも理論の世界で、具体的な実践を全く語らないと批判します。

 

「空」と「唯識」の思想、密教などをたどると、ようやく禅の登場です。

禅は言葉による伝達を遮断して直接的な心の了解をめざすため、

経典の言葉ではなく、師と弟子が心と心で伝達することを重視します。

心の伝達が仏教の原点回帰へと至るメカニズムを沖本はこう説明します。

 

この仏心の伝達の強調は、単にブッダから現在に至るだけではなく、却って自らの立脚点を確認する証拠として、過去にさかのぼってブッダに及ぶという意味をもつのである。

 

このようにブッダの教えから禅宗に至るまでの仏教の歴史的外観が、丁寧にまとめられています。

体系的でないはずの仏教を体系的に理解する試みは矛盾にも思えますが、

その葛藤を引き受けつつ理解するほかありません。

 

後半は禅の実践者たちの紹介になっています。

禅が言葉に頼らないことを考えれば当然ですが、

沖本は「禅宗には歴史に名をとどめぬままその波の中に消え去っていった有為の人物のはるかに多いこと」を指摘しています。

禅僧は悟りを得ても多くを語らないため、無名の人物が多いのです。

このような語らぬ禅僧を沖本は「沈黙の人」としています。

禅宗は沈黙の重みの上に成立しているのです。

 

それに対し、当人が語ったり当人の語録を弟子が残したりして「饒舌の人」となった禅僧もいます。

その功罪併せ持つ存在のなかで沖本が取り上げるのは、道元、白隠慧鶴、鈴木大拙の3人です。

本書の副題が「沈黙と饒舌の仏教史」となっているのは、

言語を用いなければ後世に残らないが、言語を用いると本質から外れるという禅の抱える難点のためだと思います。

 

道元は『正法眼蔵』という難解な書で知られています。

沖本は「通常の概念や論理構造を超脱し破壊して直接感性に訴える」ところが、

『正法眼蔵』を読む鍵ではないか、と実感を語っています。

道元は臨済宗や臨済義玄を強く批判しました。

それは臨済宗という小さな立場に仏教を限定することを危惧したからなのですが、

結局は道元も曹洞宗という立場で同じことをしてしまった、と沖本は述べています。

 

白隠慧鶴は江戸時代に日本独自の臨済禅という全く新しい禅宗を創始した人物です。

白隠には膨大な著述がありますが、晩年には大衆向けの平易な読み物や絵本まで書いています。

また、白隠は公案を分類、段階化して禅僧の教育をシステム化したと言われています。

(沖本は弟子の東嶺の仕業ではないかと考えています)

沖本からみると白隠という人物は、

「私の結論を言えば、白隠は禅傑であり同時に俗物である」と述べているように、

禅の修行を厳しく進める面と、俗な手段で大衆を導く面との二面性を備えた稀有な存在であるようです。

 

沖本が「胡散臭い」と最も反発しているのが鈴木大拙とその影響下にあった西田幾多郎です。

禅は個人的体験に根ざすのに、初学者に教えの道を示せるかのように振る舞うところや、

師と弟子のその場において成立する状況的な言葉を、禅とは不合理で非論理的なのだ、と一般化して平気でいるところや、

そもそも読解力が足りていないというところが大拙の問題点として糾弾されています。

 

禅匠は理屈づけのためなら儒教や道教、神道や西洋哲学の信徒となってもいい、という大拙の言葉を、

沖本は「何でもござれ」の野合の勧めとして解釈し、

大拙の論が暗黙理に禅と国家主義を結びつけて、普遍妥当性を捨ててしまうことを解き明かします。

こうして大拙は「宗教は普遍性を振り捨てて国家に奉仕することを第一義とする、と断言する」のです。

これを沖本は絶対矛盾的自己同一だと憤慨して述べています。

 

この延長に西田幾多郎『日本文化の問題』が置かれます。

西田論は数多くあるのですが、その中に『日本文化の問題』を取り上げたものはなかなか見当たらないのですが、

その中で「矛盾的自己同一としての皇室中心」と書いたことで、西田の時流への迎合が明らかになる著作です。

僕が気になるのは『日本文化の問題』のこの一文です。

 

私は日本文化の特色と言ふのは、主体から環境へと言ふ方向に於て、何処までも自分自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと言ふにあるのではないかと思ふ。

 

この一文には主体を否定する態度と人間である自己の否定によって「物」となる態度が現れているのですが、

主体を否定する反人間主義や人間不在の「物」へと至ろうとするあり方が、

〈フランス現代思想〉や思弁的実在論と重なるのは、何も僕の牽強付会ではありません。

檜垣達也や清水高志はすでに〈フランス現代思想〉と西田を結びつけています。

歴史と向き合わない彼らは、西田思想に含まれる戦時体制への迎合については取り上げもしません。

沖本がこの問題を正面から扱ったことは、西田と同じように時代に迎合するだけの〈フランス現代思想〉学者たちと比べて、

彼の学問的誠実さと知性を示すものだと僕は受け取りました。

真の「近代」が実現しなかったため、「近代」を西洋的な他人事ととらえた日本人が、

それを超えるものとしての東洋に突然居直りをしたのがポストモダンだったのではないか、

と沖本は述べたあとで、

「西田と大拙の時流迎合的な取り組み方も、この合理主義を唾棄する「ポストモダン」論議と状況を一にするものであった」

と「近代の超克」とポストモダン状況との類似へと思い至ったのはさすがと言えるでしょう。

 

大拙の禅文化論の問題点は、禅体験に寄りかかって禅の本質を見誤ったことに加え、

迎合的ファシズムとでもいうべき戦時体制へのへつらいにある、と沖本は結論づけます。

このあたりは歴史に詳しくないと沖本が何を言っているのか、理解するのが難しいところかもしれません。

それでも禅の汚点とも言うべき、扱いにくく難しい問題を避けずに向き合う態度は立派だと思いました。

仏教学者は今でもわりと戦時体制への迎合の歴史を語ることが多いように思います。

文化の中に過去のあやまちを刻み込んでいることが感じられますが、

それと同時に、西洋哲学の学者が西田などを扱う態度の方には蹉跌の影が感じられません。

つまり、西洋哲学の学者は自国の過去のあやまちを「他人事」と考えがちであるため、

かえって過去の愚を繰り返す危険があるということです。

西田幾多郎はポストモダンだと安易に持ち上げている人にこそ読んでもらいたい本だと思いました。

 

 

 

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