『俳句の宇宙』 (中公文庫) 長谷川 櫂 著

  • 2018.04.03 Tuesday
  • 01:16

『俳句の宇宙』 (中公文庫)

  長谷川 櫂 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   「場」の文学としての俳句に迫る

 

 

本書は1989年に刊行された単行本の文庫化ですから、長谷川が35歳の時に書かれたものとなるはずです。

最近、「若手」と騒がれている連中より年少にもかかわらず、これだけのものを書いていたことを思うと驚きます。

読みやすく書かれてはいますが、その射程は深く、現在でも色褪せず通用するものです。

サントリー学芸賞を受賞したのも頷けます。

 

序章では松尾芭蕉の「古池や蛙飛こむ水のおと」を取り上げ、

弟子の宝井其角が「山吹や」を提案したのに対し、芭蕉が「古池や」を選んだことについて、

なかなか面白い解釈をしています。

山吹には蛙の声を取合せるのが定番なので、声ではなく飛び込む音を取合わせたら因習の批判になる、

というのが其角の発想だったのですが、芭蕉がそれを拒絶したことを長谷川は、

「因習へのあらわな批判もひとつの因習と映っていた」と考えます。

単に発想をズラすことを拒否したところから、芭蕉の全く新しい俳諧が始まったという考えは興味深く感じました。

 

長谷川は俳句が成立する基盤となるものを「場」と呼んでいます。

 

俳句は「場」の文芸である。

そして、俳句の言葉は「共通の場」がある限り、いきいきと動くが、それがなくなると通じなくなる。

 

句が背景としていた「場」がなくなると、その句は誰にも理解できなくなる、と長谷川は言います。

そして近代俳句はどこにでもある自然だけを「場」にしてきました。

俳句が自然という「場」に依存しているため、読み手の方から「場」に参加していく必要があるのです。

 

長谷川は反ホトトギスへと舵を切った水原秋桜子の文を引用し、俳句を西洋的な芸術として理解することの害を考察します。

俳句を芸術とみる考え方を推し進めていくと、

「場」を無視して、言葉だけで完結する一行詩としての俳句を目指すことになります。

その形には2つのタイプしかないと長谷川は言います。

 

「場」によって言葉なくして伝わったものが、「場」を認めないことによって、

叙述し説明する文脈に依存した俳句を作るしかなくなるのが第一のタイプです。

これによって「切れ」という「間」を生み出せなくなるというのです。

この指摘はある種の若手俳人にとって、非常に耳が痛いのではないでしょうか。

 

「場」を認めない上に、文脈にも依存しないとなると俳句の言葉は曖昧なままとなって、

意味ありげな言葉の羅列と化してしまうのが第二のタイプです。

長谷川はどちらのタイプもすでに昭和の俳句の歴史で起こったことだと述べて、

言語以前のものである「場」を嫌った近代的な価値観が俳句を矮小化することを問題視しています。

 

しかし作者と読者に共通の「場」が必要だと、その「場」をどう共有するかが問題になります。

「場」を広くしようとすると俳句が浅くなるし、内容を濃くしようとすると「場」が狭くなってしまいます。

正岡子規が近代的普遍性を求めて自然という広い「場」を確立したものの、

自然が失われていったことで、「場」が特殊化していきました。

長谷川はこの問題を指摘したあと、

俳句には「広く浅い「場」よりも、濃く深い場を求める傾向がもともとあるのではないか」と、

「場」が特殊化して俳句がわかりにくくなることは必然だと言います。

俳句はわかりにくいのだ、という開き直りはなかなかうまいやり方だと感心しました。

 

長谷川が指摘する「場」の特殊化と細分化は、今でも非常に重要な問題として残っています。

自然を身近に感じられない「若手」とされる人には、

2ちゃんねるのスレッドのような趣味領域を「場」としたサブカル俳句を作ったり、

消費文化を「場」とした意味から逃走するオシャレ俳句を作ったりして、

それが外部読者を獲得する道だと考えているのですが、

それが細分化された特殊な「場」でしかないため、寄り集まってパック売りをすることで広さを偽装しています。

自然を「場」とすることを乗り越えようとしても、その結果はさらなる細分化となって、

個人で勝負できないグループ俳人を生み出しているのが実態です。

しかし、僕には俳人たちが「場」の細分化の問題を真剣に考えているようには思えません。

 

重要な問題提起ではありますが、本書の議論はおかしな方向へと進んでいきます。

長谷川は俳句を西洋的な近代詩と同じように考えることを批判し、

むしろ西洋的な近代詩との差異である「季語」と「切れ」こそが俳句のオリジナリティだと主張します。

こういう長谷川の近代普遍性への批判には、当時全盛だったポストモダン思想の影響を感じます。

そのことは本書の解説を典型的なポストモダンかぶれで、彼の友人である三浦雅士が書いていることからも窺えます。

 

長谷川は俳句のオリジナリティを「季語」と「切れ」に見出して、

「俳句が日本という「場」と一体になった特殊な詩である」と言い出すのです。

俳句の「場」は細分化されていたはずなのに、いつのまにか日本という「場」と一体になってしまうのです。

僕は長谷川の『震災俳句』のレビューでも指摘しましたが、

彼の俳句観の最大の問題は、俳句と国家を簡単に同一化させてしまうことにあります。

このような欲望が前景化すると、これまで俳句の「場」はもともと狭いものとか言っていたのは誰だったのか、と腹が立ちます。

書き方が巧妙なので一見わかりにくいのですが、はっきり言って詐術です。

このような長谷川のあり方はポストモダン思想がナショナリズムへと変換されるモデルケースと言えるでしょう。

 

こうして長谷川は共有される「場」が狭いはずの俳句を異常なほど巨大化していき、

最終的に宇宙を語るようになってしまいます。

「俳句は、時代の制約を超えて宇宙の鼓動に触れることのできる十七字の火掻き棒である」とか、

「五・七・五は大昔から日本人が宇宙と呼吸を合わせるときに使ってきた原初のリズム」とか、

まともに聞く気にならない大げさなことを言い出すのです。

 

結局、長谷川は近代の普遍性をあれだけ批判していたくせに、

さらなる普遍的な宇宙という「場」へと俳句を飛翔させてしまうのです。

僕はなんだか騙されたような気分になってしまいました。

他人から見たら長谷川自身と彼が批判しているものは大差ないのではないでしょうか。

長谷川には、狭い井戸にいるくせにデカいものに接続したがる心性こそが、

まさに日本という「場」が生み出す害悪だと自覚してほしいものです。

 

 

 

評価:
長谷川 櫂
中央公論新社
¥ 782
(2013-07-23)

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