「週刊俳句」の高山れおな「福田若之『自生地』を読む」への佐野波布一の幻のコメント

  • 2018.04.01 Sunday
  • 13:04

「週刊俳句」の高山れおな

 「福田若之『自生地』を読む」への

   佐野波布一の幻のコメント

 

   恥じらい無き内輪褒めはなぜ行われるのか?

 

 

夏石番矢のブログで「猿集団のマスターベーション」と揶揄された「週刊俳句」の3月25日版「句集を読む」に、

高山れおなが「福田若之『自生地』を読む」(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2018/03/blog-post_22.html)を書いています。

かつてクプラスという集団のボスだった高山が、手下だった福田の擁護に乗り出したわけですが、

このような内輪褒めの醜さを僕は何度も指摘してきたので、その進歩のない猿芸にあきれているのですが、

高山の文章というのがあまりにウッキー感丸出しの赤尻ものだったので、

アホくさいと思いながらコメントを寄せることにしました。

 

冒頭で高山は『自生地』に「別格の感じを持った」として、安井浩司と並べて評価します。

なるほど「別格」という言葉は便利なものです。

実力が別格であるという受け取り方が普通だと思いますが、

このあとで高山が福田と安井を比肩させる理由が、千句以上を収録しているという数字でしかないのです。

つまり、規模が別格だと言っているだけ、と言い訳ができるように書かれているのです。

続いて福田の読者を無視した自分勝手な創作のエネルギーが安井を思わせると言いながら、

福田の今後のことはわからない、と先々の責任からは逃避する予防線を張るのです。

 

無駄に長文を書いたわりに、冒頭で自己弁護の予防線を張りめぐらせる腰抜け感はさすが高山れおなです。

僕は彼の句集『荒東雑詩』のレビューでこう書いています。

 

高山は句を無防備に提出して、

読者と同等の位置に立つのが嫌なのだ。

それで、プレテクストを参照しないといけない句を作りたがる。

 

僕が指摘したのは高山の自己保存体質だったのですが、

ここでもそれが発揮されているわけです。

 

佐藤文香はこの高山の文章を受けて、勘違いツイートをしています。

 

かものはし(さとう)

@kamonnohashi

 

ちょっとそのジャンルかじってれば批判はいくらでもできるけど、絶賛はふつうの人にはできない。絶賛には、その作家と同等以上のセンスが要るし、そのジャンルふくめ広範な知識量が必要で、何より愛。最高の絶賛は官能的ですらある。

午後1:50 · 2018年3月26日

 

彼女の発言内容はまともに聞くに値するものではありません。

絶賛であろうと批判であろうと最低のもあれば最高のもあります。

絶賛だけに知識が必要で、批判には知識がいらないという発言は笑うしかありませんが、

(『自生地』を批判した杉本徹や齋藤愼爾に失礼ですよ)

こういう批判のない世界を必要とするメンタルの人間が、福田の周辺に集まっていることには注意をするべきでしょう。

 

しかし、自分が騙されていることにも気づかない佐藤については気の毒にすらなります。

本当に高山の文章が愛から発した言葉であるならば、自己弁護の予防線など張る必要があるのでしょうか?

本当に福田に対して愛があるなら、「先のことは知らない」などと無責任なことを書かず、

「先の責任はオレが負う!」くらいの気持ちで書くのではないでしょうか。

自分をメタ的に守りながら、読む人が都合良く誤読することを期待するようなレトリックは、

言葉の既成事実化に依存し平気で嘘を書く、高山の得意とするモンキーマジックでしかありません。

(簡単に言えば、たとえ嘘でも書いたものが共有されれば真実になる、という外部読者をナメた態度です)

こういうレトリックの裏まで読解する力がない人は騙されて終わりです。

 

高山は仲間内では「いい人」なのだろうと僕も思いますが、

普段の人間性と文章に現れる人格は分けて考える必要があります。

高山が他人について責任を負うことに逃げ腰な人間だという「本性」は文章に現れています。

書くという行為はかくも自己を露出させる恐ろしいものなのです。

(そしてそれを指摘すると「被害に遭った」などと言うガキがいるのです。

自分で書いたものの責任を自分で負えないなら文筆などやめてしまえ、甘ったれどもが)

佐藤にも一度自分の書いたものが檻の外の観衆にどう見えているのか、

冷静に考えてみることをオススメします。

 

高山は福田の「句集の主体を提示することへのひるみのなさ」が読者に切実という印象を与えたと書いていますが、

主体の提示を避けたいキャラの高山からそう見えるのはわかりますが、

僕の『自生地』レビューを読めば、福田の言葉を真に受けずにもっと深い読みをするべきであることがわかるはずです。

福田は自分の本を「句集」「句集」と自ら連呼し、自分の句が俳句とは言えないのではないかという疑問を封じるのに必死です。

自らの作を「句集」としたがっている人が、「句集の主体」を提示することに「ひるみ」などあるはずがありません。

むしろ、それこそが福田の欲望であることがわかります。

福田が「俳人」になりたがっていることを僕はレビューで指摘しています。

絶賛をするなら批判を打ち消せるレベルの内容でないと空疎でしかありません。

 

そもそも僕が問題としているのは、

俳人たちが福田の句?をどうして俳句として受容できるのか議論しないことにあります。

本人が俳句(句集)と言い張れば俳句となるのか、ということが、俳句をやらない人間にとっては疑問なのです。

しかし、高山は無駄に長文を書いていながら、このことについては少しも触れていません。

単に「別格」とか言うだけです。

まあ、俳句でなければ俳句とは「別格」なわけですから、むしろ俳句ではないと言っているのかもしれませんが、

そこを曖昧にするのも「汚い」と僕は感じるわけです。

 

高山は「別格」と感じさせる理由を、

「自己の人生の感情の劇を総体として書ききっていること」と表現しています。

この文章が『自生地』が句集ではないことを完全に裏付けているのですが、

浅はかな高山はどうやらそれに気づいていないようです。

まず、「総体として」とか曖昧なレトリックでごまかしていますが、

これは「一冊の本として」という意味しか考えられません。

つまり、僕がレビューですでに指摘したように、『自生地』は「句」が単位となっているのではなく、

「本」が単位となっているのです。

句集とは文字通り句が集まったものなので、句が単位でない限り「句集」という名称は不適当です。

 

「人生の感情の劇」も同様です。

俳句で「劇」など展開するはずがありません。

それが「劇」として受け取れるのは、それが散文的な文脈を形成しているからでしかありません。

散文的な文脈が必要になるものを、他から一句で「切れ」た俳句とは呼ぶに値しないことを、

高山のような偽物ではなく、本物の俳人なら誰でもわかることではないでしょうか。

 

それなのに愚かな高山は福田の作が文脈に依存していることをご丁寧に説明していきます。

たとえば高山は『自生地』を不遜にも松尾芭蕉の『おくの細道』の「文脈」と比較しています。

『おくの細道』を持ち出す時点で句集とは呼べない気もしますが、文脈の話をすることが必要になる時点で、

それは散文脈を必要とするものであり、いわゆる句集とは異質なものであるわけです。

 

福田の句?を連作として解釈を展開しなくてはいけないことに疑問がないことも問題です。

連作であるとことわっていないのに、連作としての解釈を要求するのは、それが散文的な文脈を要求しているからです。

 

高山は「かまきり」や「小岱シオン」の語の「省察」というものもしているのですが、

多くの詞書(というか散文注釈)を総合した「省察」が必要になるということは、

これらの語が一句の中で判断が不能な非俳句的な言葉であることを示しています。

 

決定的なのは、高山が後半の作品解釈で福田の立ち上げた主体を「詩作家」と呼びならわしていることです。

「俳人」ではないのです。

つまりは福田の作は俳句でもないし、『自生地』も句集ではないと高山自身もこっそりと認めているわけです。

この曖昧化による自己弁護的なやり方こそが、自らの実作にもつながる高山れおなの手口なのです。

 

僕が批判した内容をそのまま受け入れている内容なのに、あきれるくらいの礼賛を並べ立てる態度は、

居直り強盗のようなやり方で正直軽蔑します。

礼賛するならまずは読者の疑問に答えたらどうなのでしょうか?

疑問点に答えずに幕引きする態度は、内輪の人間を守りたいどこぞの政権党のようなやり方で不信感を高めるだけだと思います。

(そういう政治には批判的な顔をして、自分の内輪の同様の行為を黙認する関悦史の政治的態度など絶対に信用してはいけません)

 

福田に「メタ的な水位が一貫して意識されている」という表現も同様です。

僕は福田や関、鴇田智哉、田島健一、小津夜景などのポストモダン俳句が安直に主体をメタ化することを批判してきました。

ここでもやはり高山は僕の考察をそのままなぞっているわけです。

つまり、僕の解釈そのものは受け入れているのに、なぜかそれを礼賛に用いるのです。

 

この違いはポストモダンを「時代遅れ」と考えている僕と、そのノスタルジーから抜けられないおっさんおばさん「若手」俳人との違いです。

(ちなみに福田若之ってサブカルの趣味が年齢よりおっさん寄りですよね。ジミヘンとか、おまえ何歳だよ、と思いました)

現代がたとえどうであれ、時間は前に進むので、いずれは時代遅れになるわけですから、

そのうち僕の方が正しいと判明するのは必定です。

(だから高山は「先のことは知らない」とか言って逃げるわけです。ホント汚いヤツですよね)

まあ、よく勝算のない戦いをするものだとあきれますが、

俳句界(ひいては極東日本)というニッチ(田舎)がそういう夢を見せてしまうのもまた事実です。

彼らが正面から僕に反論をしてこないのは、真実が僕の側にあるため論争に勝てないからです。

ただ、僕が俳句の外の人間であるのをいいことに、現在を逃げ切ろうと考えているアベノミクスみたいな奴らなのです。

予言をしておきますが、安倍政権が倒れてしばらくする頃になって彼らは顧みられなくなるでしょう。

 

外の現実から逃避して、批判のない内輪のシェルターを作ったくせに、

それを外の人間にも認めてほしい、などと己の身の程もわからなくなった井の中の蛙が「猿集団」の正体です。

口にするのが僕一人だったときは、「被害に遭った」とか言って僕を敵視していればすむとでも思っていたのでしょうが、

外の人が目に入らない人間というものは気の毒なものです。

本来なら、一派の中で数少ないカタギの社会人のはずの高山れおながブレーキをかけるべき役割のはずですが、

彼が「ウチの若い者をかわいがってくれたな」という態度でしゃしゃり出てくるのでは、

どうやらそれも期待できないようです。

 

言い忘れましたが、高山は福田に一句を作る力量があると擁護したくてこう書いています。

 

全体の規模の大きさや過剰なまでの仕掛け、しばしば強く出る連作性のために見えにくくなっているかもしれないが、この作者の一句一句を作る地力の高さは改めて強調しておきたい。しかもそれを、従来的な上手さとは一線を画す形でやり遂げているのである。

ただ、途方もない句数のことを思えば、全くつまらない句がごく少ない理由を、地力の高さ(それは結局、技術の高さの謂いだろう)だけに帰するわけにはゆくまい。むしろ、作者の感情の豊富さの方が決定的なはずである。これは逆に、我々がそれなりの手練れの句集を読むに際して、しばしば退屈を嚙み殺しながら、僅かな佳句・秀句との出会いを待ち続けなくてはならない理由と、裏腹の関係にある事実であろう。感情が豊富な詩人は感情が希薄な詩人より偉いというのは、富士山は高尾山より標高が高いというのと同じくらい簡明な真理である。

 

このように高山は「つまらない句がごく少ない」ことを福田の力量に還元するのですが、

僕はレビューでも書いた通り、福田の句?はほとんど読み飛ばしました。

何度も書いているように、『自生地』は句集ではありませんし、高山自身も一句一句という単位で読んでいません。

俳人にとって『自生地』に「つまらない句がごく少ない」と思えるのは、

それが散文的な文脈を構成しているからです。

それが文脈の一部であれば、何かしらの流れを感じるようになるので、つまらない句はなくなるのです。

つまり、高山の書いていることが『自生地』が句集でないことを立証しているのです。

句集というものは、たとえ安井浩司のものでも、つまらなくて読み飛ばしたくなる句はある程度あるものです。

逆に言えば、僕のように散文を読む方が得意な人間からすると、

散文パートを読むだけで十分なので、まどろっこしい連作文脈など構成する必要を感じないわけです。

外の読者を意識するならば、俳人以外がどう読むかということにも注意を払う必要があると思います。

 

これでコメントしたいことはだいたい終わりなのですが、

高山の文章の後半は、福田の句?の鑑賞になっています。

長い上につまらなすぎて途中で読むのをやめてしまったのですが、

目についてしまった高山の解釈について正しておかなければならないところがあるので書いておきます。

 

 産業革命以来の冬の青空だ

 

この句?の評で高山は「わざわざ平泉まで旅をしなくても、「詩作家」の窓からは歴史が見えるんだぜ」などと書いていますが、

こういう文字上の言葉を真に受ける態度は批評的とは言えませんし、

作品鑑賞の態度としても甘すぎると思います。

 

自然のままでなく工業的に汚染された空を「産業革命以来」と表現したという解釈には異論はありません。

しかし、これを安易に「歴史」と言ってしまうのは問題です。

ここに見るべき「詩作家(笑)」の態度は歴史的な視線ではなく、単に「メタ化」した実感なき主体の姿であるべきです。

わかりやすく説明しましょう。

この「詩作家(笑)」が見上げた空がイギリスの空であると僕には思えません。

おそらくは日本の空でしょう。

ならば、「歴史」からすれば日本の空の汚染の原因は遠いイギリスの産業革命にあるわけではありません。

本当に「歴史」を考えるならば、「高度(経済)成長以来の」と言わなくてはいけません。

たとえば北京のスモッグの中でこんな作を書いたとします。

さて、北京の大気汚染の原因が歴史的に見て産業革命だと実感するものでしょうか?

こんなことが書けるのは、福田が大きく工業化とくくってメタ化した、非歴史的な視線で考えているからにほかなりません。

こういう読み替えを僕が問題だと考えるのは、

大気汚染の原因から自分自身を免罪し、遠い西洋のせいにしてしまうインチキポストモダンの近代批判をなぞった発想だからです。

これは「詩作家」の発想ではありません。

単に時代遅れのポストモダンをなぞっただけの、詩人としての実感のかけらもないリクツで作った句?だということです。

(こういう頭でっかちなところが関悦史と似ているんですよ)

 

高山に批評能力がないことは関を評価していることでもわかりますが、

能力がないことは仕方がないにしても、内輪褒めをしたいという欲望を丸出しにすることは問題です。

高山は「俳句をやらない人間は謙虚でいろ」などと「第二芸術論」のレベルから一歩も出られない発言をするくらいなら、

身内の評価に対して謙虚であってほしいものです。

福田を芭蕉や蕪村や一茶、もしくは安井浩司ひいてはプルーストにたとえていく大仰さは、

誰が見たってバカバカしいの一言です。

実を言うと、僕はこの文章を読んで何回か大笑いしてしまったのですが、

こういうことを恥ずかしげもなく書ける人というのも、いくら内輪評価にしても理解できないところがあります。

 

高山は予防線を張ったつもりかもしれませんが、こういうものを書いた過去は消し去れません。

ネットだから消えていくと思っているのかもしれませんが、僕は保存しておきましたよ、と伝えておきます。

10年後くらいに思い出させてあげますので、楽しみにしておいてください。

 

  

 

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福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

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