「動物化できないポストモダン」 佐野波布一2007年の評論

  • 2018.03.05 Monday
  • 11:52

「動物化できないポストモダン」

 佐野波布一2007年の評論

 

 

 

 

 

 

 70年代生まれインターネット世代 

 

僕は同年代ということで、1971年生まれの東浩紀や北田暁大の議論に注目してきた。言論界では彼らが世代の代表として受け止められているからだが、僕はそれに対して苦々しい思いを感じている。彼らはともに東京大学の大学院出身で、社会学の影響を色濃く受けている。宮台真司チルドレンとでもいうべき存在だ。たしかに彼らは世代の一部を代表しているかもしれない(実際、渋谷のブックファーストでは二人の対談本が売り上げ1位になった)。しかし、世代全体がそうだと思われてはたまらない。
この世代を考えるときに欠かせないのが堀江貴文だろう。堀江も東京大学出身で、僕たちと同世代だ。東と北田、そして堀江をつなぐもの、それは新世代のメディアであるインターネット以外ありえない。彼らの活躍はインターネットの拡大と歩調を合わせている。結局、僕たちの世代とはインターネットによって注目されているだけだというのが現状だ。
そのため、この世代はまずインターネット文化の擁護者として登場することになった。堀江や東や北田はその代表であって、僕のようにインターネット懐疑派は不可視な存在でしかない。まあ、そういうことだ。

 

 読破できなかった東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』


ここでは東浩紀の著作『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』について書いておこうと思う。本当はふれるのもバカバカしい本なのだが、この世代がみんなこんなことを肯定していると思われては困る。同世代からの反論もあった方がいい。しかし、僕は今すぐメディア上で反論のできる著名な立場にいない。仕方がないので、「今」反論していることを示すために、個人的に書き残すという手段をとることにする。「今」とは2007年3月現在だ。
さて、僕はまず読者に弁解をしなければならない。このような文章を書くくせに、僕は『ゲーム的リアリズムの誕生』を途中までしか読んでいない。『ゲーム的リアリズムの誕生』は二章構成になっていて、第1章は理論、第2章は作品論となっているが、僕は第1章のBまでしか読んでいないのだ(ちなみに第1章はCまである)。これはあまりほめられた態度ではない。評価する作品をきちんと読まないでものを言うなんて、津本陽にしか許されていないことだ。僕はここ10年くらい最後まで読まなかった本はほとんどない。しかし、この本は最後まで読めそうにない。
途中挫折の理由は、この本が商品として最低レベルのデキにもないということだ。要するに、売るに値する内容ではないのだ。どれだけひどいのかはあとで書くことになるが、それにしても、こんなものを出版する講談社は何を考えているのだろうか。東浩紀の本というだけでオタクが買うから、たしかに売り上げは期待できるかもしれない。それにしたって、もう少しマシなものを書かせることはできたはずだ。第1章は「理論」と銘打たれているが、かなり乱暴な内容になっているし、半分以上が大塚英志の説にのっかって話を進めている。ちゃんと数えたわけではないが、ページの半分くらいに「大塚」という名詞が登場しているように思える。この名詞にぶつかるたびに、大塚に見捨てられた東のメメシイ感情ばかりが伝わってきて、僕としては涙なしに読み進められなかった。本を途中で断念してしまったのは、武士の情みたいなものと理解してほしい。
それに、一応「理論」といっているのだから、著者の個人的愛憎が伝わってくるのはどうかと思う。そりゃあ、理論にも個人感情は影響を与えるだろうが、それが前面に出ているのはまずいだろう。こんな逸脱した内容で商品化にOKを出す講談社の良識を、僕としては疑わざるをえない。少なくても、もう少し時間をかけて書かせるべきだったろう。
では僕が読んだところまでの内容を検証しよう。正直に言って、この本を評価するうえでは、僕が読んだところまででも十分だと確信している。

 

 「市場原理」という言葉を言い換えただけの「データベース消費」

 

まず、ざっと『ゲーム的リアリズムの誕生』という本の狙いについてまとめておこう。この本は主に「ライトノベル」と呼ばれる小説を扱っている。ライトノベルは何百万部の売り上げを誇る作品もあって、消費市場では無視できないムーブメントであることはまちがいない。この本の目的は、「ポストモダン的」なライトノベルを「文学」として評価することにある。
ライトノベルの評価が東にとって重要なのは、それが「ポストモダン」を読み解くカギになると思っているからだ。ポストモダンとは1970年代以降の時代状況のこと(ポストモダニズムという思想のことではないと東は力説する)らしいから、要するに内容は現代社会学と言ってもいい。この時代状況を、東は「大きな物語」の衰退による「データベース消費」の誕生によって語る。これが五年前の東の著作『動物化するポストモダン』の主張だった。要するに、「データベース消費」とは何なのか、ということを説明するのが東の著作だと思えばいい。
こういうと何か高尚なことをやっているように思えるかもしれないが、「大きな物語」を「イデオロギー原理」、「データベース消費」を「市場原理」とわかりやすい言葉に置き換えてしまえば、なんてことはない、当たり前のことを言っていることになってしまう。「大きな物語」とは、簡単に言えば資本主義と共産主義のイデオロギー対決のことだが、それは全共闘運動の崩壊でほぼ幕を閉じていたのだ。ソ連や中国も社会主義でなくなった時代に何を今さら……、と思われても仕方がない。
この読み替えでほとんどこの本の価値は死んでしまうのだが、実際に東浩紀は脚光を浴びたし、「動物化」も話題になった。それだけに問題の根はもっと深いので、僕はもう少し丁寧に読んでいくことにする。
ただ、ここでひとつ注意しておきたいことは、現代の社会状況を語る本のわりに、東浩紀はオタク文化のみを取り上げるということだ。前作『動物化するポストモダン』は、アニメオタクの「キャラ萌え」(アニメのキャラクターに屈折した性的興奮を得ること)や「ギャルゲー」(アニメ画の女の子の性的画像を見ることがゲームの達成でもあるコンピュータ・ゲーム)のことしか語っていない。その傾向は5年経っても同じで、今回はライトノベルを取り扱っている。
まず、ライトノベルとはなんぞや? という人に説明が必要かもしれない。ライトノベルはマンガやアニメのイラストが表紙や挿絵になっている青少年向けのエンターテイメント小説だ。装丁だけならマンガと間違える人もいるかもしれない。少女マンガをベースにした「コバルト文庫」の男の子版といったら一番わかりやすいだろうか。
東がライトノベルを取り扱う理由は、前作を読んでいる人にはすぐにわかるだろう。ライトノベルは「キャラ萌え」が作品の中心におかれた「ゲームのような小説」であるからだ。オタク傾向を持つ人向けの小説と言ってもたいして誤解はないだろう。
東はこのライトノベルが「文学」として扱われていないことに危機感を感じている(と、本人は言っている)。ライトノベルは子供やオタクの読みものと白眼視されているというわけだ。そのため『ゲーム的リアリズムの誕生』はライトノベルがいかに「文学」であるかを力説した本になっている。
賢明な読者なら、どうして東浩紀が現代のグローバルな社会状況をオタク文化という限定的な現象のみで語ろうとするのか疑問を持つことだろう。その疑問はまったく正しい。しかし、僕はもう少しあとになってから答を述べるつもりだ。まずは新たに出版された東の著書の主張に耳を傾けよう。

 

 「文学」を私小説に限定する東


東はライトノベルが「文学」であると主張するために、「二つのリアリズム」という文学的手法を持ち出す。「二つのリアリズム」とは自然主義的リアリズムまんが・アニメ的リアリズム(両者の分類は大塚英志の議論による)だ。自然主義的リアリズムとは私小説などで使われる方法で、つまりは「私」を視点とした現実世界を「写生」する方法のことだ。
それに対して、まんが・アニメ的リアリズムとは、まんがやアニメの中に存在する虚構を「写生」することとされている(これも大塚の論による)。つまるところ、二つのリアリズムの違いは、「写生」する対象が現実世界であるか、虚構世界であるかという点にある。ここで僕などはアニメ的な虚構を描写することを「リアリズム」と言っていいものか気になってしまうのだが、どちらも「写生」そのものは疑っていないということで、「リアリズム」という言い方をしているのだと解釈することにする。
東の理論の展開を追うと、「文学」はこの両者にすっぱり分かれるようだ。東は大塚にならってライトノベルを「キャラクター小説」と言った上で、「純文学は私を描くので私小説、ライトノベルはキャラクターを描くのでキャラクター小説、というわけである」と分類する。この分類の仕方から、東がライトノベル(キャラクター小説)を純文学と対置させたいことが伝わってくる。
しかしこの二分割は少々強引な印象を禁じえない。「文学」=純文学=私小説という短絡的な図式は失笑ものだし、いまどき純文学というものがあるのかどうかさえ疑問がある。東は高橋源一郎や島田雅彦などの小説を「ポストモダン文学」であることを認めているが、ポストモダンとポストモダニズムが異なることをことわったうえで、こう述べる。

 

いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実的には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取りあげられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。

 

この文章を見るかぎり、「ポストモダン文学」は文芸誌などで文学として評価され、大学で取り上げられていることが保守的でポストモダンらしくないと理解するほかない。その考え方が正しいかどうかはおいといて、僕が疑問に思うのは、それならどうして東はライトノベルを「文学」だと主張するのだろうということだ。ライトノベルが「文学」として評価され、文学賞を受賞したら、それはポストモダンらしくないことになるのではないか? おまけにライトノベルを取り上げている東自身の出どころは、東大というアカデミズムの頂点ではなかったか?(だからこそ、こんな本を書いてもチヤホヤされているのだ)
この文章を読んで僕がまず考えたのは、舞城王太郎という作家のことだ。舞城の小説『九十九十九』は『ゲーム的リアリズムの誕生』の第2章の作品論でも取り上げられている。デビュー当時の舞城はライトノベルと共通の背景を持つ作家で、「メフィスト」という雑誌を中心に活躍していた。しかし、そのうち文芸誌が舞城を引っ張り出して、『阿修羅ガール』で三島賞を与え、『好き好き大好き超愛してる』で芥川賞候補にまでするようになった。今の舞城はライトノベル的なものと文学との両者で活動を続けているわけだが、東の言い分だと、どうして彼に関してだけは文学賞を受賞しているのにポストモダンを語るのに利用していいのかがよくわからない。舞城の作品はまさに高橋源一郎や島田雅彦が「新しい」と絶賛したのだ。
これはつまらないことだが、ここだけ見ても、東浩紀が論理的でもなければ、筋も通っていない無責任な言説を振り回す人間であることがわかるはずだ。東の舞城に対する扱いは明らかにご都合主義的だと言わざるをえない。つまり、根拠になっているのは理論ではなく、東の個人的な趣味感覚なのだ。
さて、本論に戻ろう。東が文学を二つのリアリズムでぶった切っていることを見ていたのだった。この分け方を素直に受け取ると、文学とは私小説(的なもの)ということになってしまう。しかし、これはアカデミックな教育を受けた人間には受け入れがたい説だ。文学史を丁寧に勉強すれば、自然主義的な私小説というものが文学史の一部でしかないことくらいすぐにわかるはずだからだ。
たとえば横光利一は小説の主人公を虚構の「傀儡」として意識的に設定した作家だ。「傀儡」とは要するに虚構のキャラクターのことであるから、東の定義からすれば横光の小説はキャラクター小説ということになる。東浩紀は横光利一など学んだこともないのだろうが、この流れは川端康成、三島由紀夫、村上春樹へと引き継がれていく。彼らの作品を田山花袋や島崎藤村や志賀直哉と同じ私小説だと考える人がいるだろうか? だいたい、横光は志賀直哉的なもの(つまり私小説)からの脱却と格闘した作家なのだ。
このような文学に対する不勉強をベースにライトノベルを「文学」だと主張されるのは困ったものだ。文学がわからないのなら、別にライトノベルはライトノベルのまま評価すればいいと僕は思うのだが、東はそれをどうしても「文学」にしたいのだから仕方がない。僕としてはその誤りを指摘するほかない。

 

 大塚と東の屈折した関係


ちなみに、大塚がこのようなリアリズムの二分法を用いたのは東とはまったく違う意図からだということを言っておきたい。大塚はインターネットやサブカルチャーに群がる若者達の「自分探し」的な状況を、「私」を成立させられないで格闘している混沌状態と考えている。そこで、大塚は現代と言文一致や私小説以前の文学状況を重ねてみせるわけだ。大塚が「私」の成立を田山花袋に阻害された『蒲団』のヒロインにこだわっているのはその視点でこそ理解できる。だから、大塚は私小説成立後の文学史を扱ってはいないし、文学史を二つのリアリズムで読み替えようとは思ってもいないのだ。
しかし東はそんな大塚の二つのリアリズムを文学の全体状況に拡大適用する。論のほとんどを大塚からパクっていながら、とんでもなくデカいことをしているわけだ。こんなことがうまくいくはずがない。たしかに今や文学はくだらないものばかりだが、それにしたって過去の文学までナメてもらっては困る。文学はそんな二分法で語れるほど簡単なものではないのだ。
おまけに不思議なのは、東と大塚の目的がまったく逆だということだ。だから二人はケンカ別れに終わった。大塚は若者達が「私」を成立させられるようにサブカルチャー論を展開している。しかし、東の言う「ポストモダン」もしくは「動物化」とは、「私」の成立を拒否することで成立するはずだ。だって、「私」にこだわっている動物なんかいるはずないのだから。つまり、わかりやすくいえば大塚と東の対立とは、かたや「私」という「人間化」、かたや「私」から逃れる「動物化」を目指すものとしてあったはずなのだ。
なのに対立する両者が同じ議論をベースにしているのは不思議なことだ。どうして東は目的が真逆のはずの大塚の議論をこう執拗に下敷きにしようとするのだろうか? このあたりは僕でなくてもわかりにくいことだろう。もしかしたら、本人もわかっていないかもしれない。東の「無能」もしくは「甘え」に答を求めれば簡単だが、僕はそれが東のアンビバレンツな欲望にあると思えてならない。それはこの本を読んでいくことで、しだいにハッキリしてくることだろう。

 

 市場を「母」とする売り上げ至上主義の精神


このように、東は文学を強引に二つのリアリズムに切り分けた。こうすることで、現在の日本文学の状況がよくわかるらしいのだ。そのことを述べた文を引用しよう。

 

このように理解すると、いまの「日本文学」の状況が、よりはっきりと浮かびあがってくる。自然主義的リアリズムの市場で『東京タワー』が売れ、芥川賞や直木賞が話題になっているときに、まんが・アニメ的リアリズムの市場では、まったく異なった原理と価値観に基づいて「涼宮ハルヒ」シリーズが何百万部も売れている。それが、二〇〇〇年代半ばの日本文学の、おそらくはもっとも俯瞰した立場から見えてくる状況である。批評や文学研究は、純文学だけを追うのではなく、本来はその全体を見わたさなければならない。本書がキャラクター小説を集中的に取りあげるのは、そのような危機感に基づいてのことでもある。

 

これを読んで僕は頭を抱えたくなってしまった。なにひとつ納得して読めるところがないのだ。まず第一に、『東京タワー』って日本文学なの? 自然主義的リアリズムなの? という疑問。ただ売り上げのことだけを持ち出すことが「もっとも俯瞰した立場」なの? という疑問。批評が全体を見渡すべきなのはもっともだが、文学史全体を無視している君が偉そうに言えるの? という疑問。おかげで僕はまったく別の危機感を感じなければならなくなってしまった。
僕がこのようなどうしようもない一文をわざわざ引用したのは、東が本の「売り上げ」つまり市場の評価をもっとも俯瞰した(つまりメタな)価値観としていることを示したかったからだ。この価値観をいかにも当然なものとして説明なしに持ち出してくるのが、僕にはどうにも気になる。
文学の価値は「売り上げ」や芥川・直木賞で決まるものなのだろうか? もちろん、最近の文壇は村上春樹ファッショともいうべき状況で、「読まれている」=「売り上げ」だけで価値が成立しているのは事実だ。しかし、それこそがポストモダン的状況なのであって、本来はその価値観を分析して問題にするのがポストモダン批評のあるべき姿だろう。しかし、ハナからそれを自然なこととして受け入れてしまっては、批評が成立する余地はない。
東が「売り上げ」至上主義者であることを示す別の文も引用しよう。

 

(キャラクター小説はデータベースを共有しない人にはわからない)にもかかわらず、実際にそれは、現在の小説市場で実に多くの読者に受け入れられている。谷川は、現在のライトノベル・ブームを代表する作家であり、ここで引用した『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まる「涼宮ハルヒ」シリーズは、二〇〇六年のアニメ化を契機としてベストセラーに躍り出て、二〇〇七年春の時点で累計四〇〇万部を超えている。キャラクターのデータベースは、オタクたちの頭の中にしかないという点では仮想的な存在だが、一〇〇万部の小説の文体に影響を与えているという点では、紛れもなく現実的な存在だと言えるだろう。

 

ライトノベルの「涼宮ハルヒ」シリーズの売り上げが巨大なことはよくわかったが、仮想的なものでも多くの人が共有すれば「紛れもなく現実的」だというのはどうだろうか。現実的かどうかは多数決で決まるとでもいうのだろうか? このような考えは東のような「売り上げ」至上主義者には理解できても、それ以外の価値観を持っている僕にはついていけない話だ。これじゃあ、データベース論とは岸田秀の共同幻想論の亜流みたいなものではないか。
このように、東がデータベースといっている価値観は市場原理でしかない。ライトノベルはこんなに売れているんだから、『東京タワー』や芥川賞・直木賞作品と同じように扱ってくれというのが東の本音にも思える。こんなことを主張するのに、ポストモダン分析の理論が役に立つはずもないのだから、「理論」がメチャクチャでご都合主義的なのも当然の帰結なのかもしれない。
途中で読むのをやめてしまったので推測にしかならないが、本の題名にもなっている「ゲーム的リアリズム」とは、要するに仮想的な幻想(ゲーム)でも多数の人に共有されているんだから「紛れもなく現実的(リアリズム)」だということになるのだろう。東にとってはデータベースもしくは市場こそがリアルなものなのだ。貨幣の価値は幻想でしかないが、それを多数の人が認めているからこそリアルなものとして流通する。だから、貨幣価値のデータベースである市場こそがポストモダン時代の現実なのだ。

 

 データベースとは何か

 

『ゲーム的リアリズムの誕生』の読解はこんな感じで終わってもいいのだが、ここで僕は前に出した疑問をもう一度持ち出したいと思う。このような経済の問題を、東はなぜオタク文化によって語ろうとするのだろうか?
このことを考えたときに、僕はオタクがアニメやライトノベルなどで行っている「キャラ萌え」を「データベース消費」としている東の主張じたいに疑問を感じないわけにはいかない。僕には本当にオタクたちが「データベース消費」をしているとは思えないのだ。いや、まったく違うということではない。それに近いことをしているのはまちがいない。ただ、オタクたちのデータベースとは、真の意味でデータベースと言えるような市場とは異なった共同幻想で成立しているように思えるのだ。
オタクたちのデータベースを語る前に、まずデータベースとはどういうものなのかを確認しておこう。データベースといえば、一般的にはコンピュータ処理で保管する情報の集積のことになると思うが、コンピュータと言うだけで拒否反応を示す人もいるだろうから、僕はデータベースのモデルを図書館で説明してみたい。
データベースとはあらゆる本を所蔵した図書館のようなものだ。現実的にはそんな図書館はあるはずもないが、ひとつのたとえなので、仮にあるものとして考えてほしい。もしそのような図書館があれば、誰が何の本を探していたとしても、その図書館に行けばどんな本でも絶対に見つかるはずだ。政治の本であろうが、恐竜の本であろうが、エロ本であろうが、絵本であろうが、その図書館にはなんでもあるのだ。
このようにすべての情報(=本)を収納する場所(=図書館)をデータベースという。簡単に言うと、データベースとは情報の倉庫なのだ。
データベースの特徴は大きく二つある。ひとつは集められたデータ(所蔵された本にあたる)が、国家や組織のイデオロギーはもちろん、人間の特定の嗜好や欲望によって選別されたものではないということだ。出版された本であれば、内容にかかわらず機械的に図書館に所蔵されるのだ。つまり、データベースの情報収集には人間の意図がほとんど反映されないことになる。
東の言う「大きな物語」とは、資本主義対共産主義というようなイデオロギーによる意味づけのことを意味する。国家などの社会権力が「人はこうあるべきだ」という意味づけを行い、人々がそれにかなうように生きる。そのような「こうあるべき」という意味を、多くの人が共有することを「大きな物語」と呼んでいるのだ。データベースはそのような意味づけや、特定の意図から解放されている(ように見える)。そのため、「大きな物語」から「データベース消費」への移行とは、意味というものが社会の基準としての力を衰退させていく流れとして考えることもできる。
データベースのもうひとつの特徴は、無限の拡張性だ。当然のことだが、本が出版されるたびに図書館には本が増えていく。時間が経つごとに本はますます増えていって、いつまでたっても所蔵し終わることはない。こうして図書館は永遠に拡大し続けるのだ。刻一刻と変化する情報を網羅するには、データベースを絶えず拡張していくしかないのだ。それを別の角度から見ると、こういうことになる。データベースはすべての情報を網羅しているが、それは「今」という瞬間にだけ達成されてることで、次の瞬間には新しい情報によって更新を余儀なくされる。データベースの網羅とは「今」という瞬間にだけ暫定的に成立する。
ここまでくれば、データベースと自由市場が似たものであることが理解しやすくなる。自由市場にあふれる商品は特定の意味によって限定されたりはしない。買う人さえいれば、売る商品は「なんでもあり」だといってもいい(たとえそれが女子高生の排泄物や人間の内臓であってもだ)。そして、市場には日々新しい商品が登場する。その活動は永遠に終わることはない。どんなに大金持ちであっても、未来に発売される商品は手に入れることができない。金があれば市場でどんな商品でも買うことができるが、「今」発売されているものに限られる(また、法にふれるものは売ることはできないが、ここでは理念上の自由市場を想定しているので、それはおいておく)。

 

 「データベース消費」の例としてオタク文化は不適切


東はライトノベルに登場する人物(キャラクター)が、個々の本(物語)から自律して一種のデータベースに属した存在としてオタクたちの間で消費されていると主張する。これこそオタクが「大きな物語」から「データベース消費」の世界を生きている証だと主張するわけだ。東自身の説明も一応引用しておく。

 

実際に現在のオタクの市場では、物語に人気がなくてもキャラクターには人気があることがめずらしくないし、その逆もある。したがって、そこでは多くの作家たちが、物語内部での必然性や整合性からとりあえず離れ、作品の外に拡がる自律したキャラクターの集合を一種の市場と見なして、そこでの競争力を基準にキャラクターの設定や造形を個別に決定するように変わっていくことになる。

 

ここでは東本人がネタバレ的にキャラクターのデータベースが「一種の市場」であることを語ってしまっている。これを見ても、「データベース的消費」とは「市場原理」のことでしかないことが確認できるはずだが、東はその事実をできるだけ表に出さないようにする。あくまで「データベース消費」という言葉で色づけて、新しい概念でもあるかのような顔をするのだ。
しかし、僕はオタクたちのデータベースが市場に近い意味でのデータベースとは言えないのではないかと思っている。前にも提出した疑問だが、もし本当に「データベース消費」という消費経済概念の拡大を社会学的に示したいのならば、オタクのジャンル以上に適切な分野がほかにたくさんあるのだ。たとえば、ヒップホップなどのサンプリング音楽がそうだ。サンプリングとは過去の音源の二次利用にほかならない。だから、ヒップホップをエコロジー的な廃品利用として積極的に評価する人もいる(僕には強引に思えるが)。また、総合格闘技などの動きもそうだろう。K-1やPRIDEなどは、あらゆる格闘技の出身者が参入できるように心がけているし、今や格闘家だけでなくボビー・オロゴンや金子賢などの芸能人までリングに上がっている。今や総合格闘技に参加する選手のリストは、ジャンルの壁を越えた格闘データベースのようなものになっている。
もっとメジャーな現象もある。オリンピックなどがまさにそうだ。オリンピックは世界スポーツの博物館のような様相を呈していて、図書館のイメージと近いことは誰にでも理解できるだろう。オリンピックの放映権料は1990年以降のグローバル化に伴って爆発的に高騰している。オリンピックの拡大が市場の拡大にも等しいことは、このことからも確認できるはずだ。おまけにオリンピックはアマチュアだけが参加できるはずだったのに、今やプロ解禁は当たり前だ。これはオリンピックの理念が市場の原理に敗北したことを示している。
データベース化の動きとは、要するに「売れればなんでもあり」もしくは「ウケればなんでもあり」の状態に近づくことだと考えることができる。だからパクリは横行するし、内容のないショー化が進むようになる(今や政治も例外ではない)。自由市場概念によるグローバル化は、しだいに腐敗を全般化する(これはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが指摘していることだ)。この動きが行きすぎたときには、国家権力(もしくは〈帝国〉)が法の力(もしくは警察権)で介入する以外なくなってしまうのだ。
このように、いまやデータベース化の現象は広く一般化している。社会学の立場からするなら、よりメジャーな事象を取り扱うのが筋のはずだし、データベースが大きければ大きいほど説得力は増すはずだ。ライトノベルや「キャラ萌え」を取り上げるより、オリンピックを取り上げた方が多くの人にデータベースを理解させるにふさわしい。それなのに、東は執拗にオタク文化の範囲内に思考の対象をしぼっている。このことを考えたときに、僕は東が「データベース消費」なんかより、もっと別のことを語りたいのではないかと勘ぐってしまうのだ。

 

 オタクのデータベースの特殊性


前置きが長くなってしまったが、僕が東の主張するオタクのデータベースが、本当の意味でデータベースと呼べるものなのか疑問があるのは、先に挙げたデータベースの二つの特徴をオタクのデータベースが満たしていないことにある。
まず、データベースの一つめの特徴を思い出してほしい。それはデータの集積が機械的に行われることだった。しかし、オタクのデータベースはどうだろう?  僕はオタクのデータベースの集積がアニメの博物館と等しくなっているとは到底思えないのだ。だって、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』のキャラクターに「萌え」るオタクを僕は見たことがない。
こんな単純な疑問をどうして誰も持ち出さないのか僕には理解に苦しむところがある。まず、オタクがデータベース化するキャラクターは本質的には女性キャラとなっている。これには反論もあるとは思うが、よく考えてみれば明白なことだ。「キャラ萌え」が異性に対する屈折した性的欲望にあることは明らかなので、男性なら対象は主に女性キャラ、女性なら主に男性キャラになってくるのは当然だ。そうでなければ、東が「ギャルゲー」を「キャラ萌え」と並行的な現象として取り上げていることがおかしくなってしまう。「ラブひな」などの一連の「萌え」作品を見てもらえば、男性主人公が多様な女性ヒロインのデータベース上を生活するパターンばかりなのがすぐに確認できることだろう。
オタクは自分たちの性欲を認めることに大きな葛藤を抱えている種族だ。それは母との関係が密になっていることと関係が深い。母への欲望とは異性に対する非性的な思慕といえる。それをそのまま他の異性において実現させようとすれば、その欲望は非性的な思慕のかたちを取るべきだということになる。しかし、生身の女性に対して欲望を向けるかぎり、最終的には性的な欲望を抱えていることを隠しきれない。そこで、マザコン傾向の強い男性は、欲望の対象を性的に成熟していない女性(ロリコン)から、性的関係を持てない女性(アニメキャラ)へと差し向けることになる。だから、「萌え」の対象になるアニメキャラはたいていロリコン向けの絵柄になっているのだ。
たとえば、アニメキャラに欲情するオタクたちは、生身の女性から離れられないアイドルオタクを蔑視する傾向がある(東浩紀はアイドルオタクを一度たりとも取り上げたことはない)。これは二次元への欲情の方が、性的なものからより解放されているという意識から来る(それは誤解でしかないのだが)。それに「萌え」の漢字は若葉が芽を出すようなイメージだ。この字からしても、幼いものに対する欲望が確認できる。そもそも、オタクが「燃え」を「萌え」と言い換えるのは、性欲が自然発生的なものであることを強調しつつ、性にまつわる大人の責任から逃避するためなのだ。そこではマザコン(=ロリコン)と(社会的存在への)成長嫌悪が固く手を結んでいる。
つまり、僕が言いたいのは、オタクのデータベースなるのものがあるとしても、それは性的な欲望によって選別された対象によってしか満たされていないということだ。これは立派なイデオロギーだし、夢判断をすべて性欲で語るフロイトの精神分析的な「物語」とも言える。ちなみに東が脚光を浴びることになった哲学ジャンルでのデビュー作『存在論的、郵便的』は、人間という「郵便的存在」をフロイトの精神分析モデル(転移)によって位置づけている。
オタクたちの世界が精神分析と親しいのは、ラカン派心理学者の斎藤環がオタクを研究対象としていることでもうかがい知れる。斎藤は東と親しい立場にあり、『ゲーム的リアリズムの誕生』の新聞広告にも推薦文を寄せている(斎藤は「またアズマにやられた!」と書いていたが、談合入札でわざと負けた会社のセリフのように聞こえる)。
このように、フロイトや精神分析の「物語」によって選別されたデータベースを、市場に近い意味でのデータベースと呼ぶことには疑問を感じる。だから僕としては、オタクこそが「データベース消費」の時代に「物語」を生きている時代遅れの存在だと考えている。僕は東とまったく逆のことを主張したいのだ。僕の考えが正しければ、東がどうして「データベース消費」の説明によりグローバルな事象を取り上げないで、限定的なオタクの世界のみを語るのかが矛盾なく説明できるのだ。

 

 データ量がほとんど増えないトリック


説明を続けよう。さらに、オタクのデータベースは、データベースの二つめの特徴とも合致しないということを確認したい。その特徴とは無限の拡張性だった。データベースは常に新しい情報を取り入れて永遠に巨大化するのだ。
では、オタクのデータベースはどうだろうか。たしかにライトノベルやアニメのジャンルでも日々新しい作品やキャラクターが登場している。その意味ではデータベースは拡張しているのだが、実質的な情報量が増えているかどうかという点を考えたときに、大きな疑問に突き当たる。それというのも、オタクのデータベースに登録されるキャラクターは、ある一定のパターンのくり返しになっていて、量的に拡大しようとしないからだ。
これは少しややこしい議論かもしれない。ひとつ例を出そう。たとえば二つの名前を持つ人がいるとしよう。ビートたけしと北野武でもいい。データベース上では、コメディアンのビートたけしと映画監督の北野武と二つの情報が記録されている。つまり、情報量は2となるわけだ。しかし、現実世界の人物としては一人でしかない。だから現実のエネルギー量としては1となる。このようなとき、データベース上の名前が増えたからといって、単純にデータベースが拡張したと考えていいものだろうか?
もちろん東はそれを拡張と見なすのだろう。しかし、コンピュータに詳しい人間であればそうは考えないだろう。ファイル名が異なっていても、情報内容が同じであれば、ひとつの情報で二つのファイル名に対応するようにデータ処理することは難しくないからだ。そうなると、情報量は1のままで、名前をひとつ増やした分の情報量(それは量としては微々たるものだ)だけ増やせばすむことになる。
オタクのデータベースの拡張とはこのような手口で行われている。つまり、一つの情報に対してファイル名だけを二つ三つと増やしていき、実際の情報量はほとんど拡大しない。このような中身の変わらない名前だけの情報増加はデータベースの全体量をほとんど変えることがない。当然、データベースはおそるべきスローペースでしか拡大しないことになる。このような拡大スピードの遅さは、市場やオリンピックなどのデータベース拡大のスピードに比べると、恐ろしいほどに保守的だと言わざるをえない。
具体的な例を出そう。せっかくだから東が『ゲーム的リアリズムの誕生』でライトノベルの代表として扱っている「涼宮ハルヒ」シリーズを取り上げよう。僕が見たところ、この作品に出てくるキャラクターの描写には新しさがまったくない。もっとズバリ言ってしまえば、涼宮ハルヒというキャラクターはヒットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカ・ラングレーのほとんどパクリと言ってもいい。それから長門有希というキャラクターも同アニメの綾波レイを思い浮かべない人はいないだろう。もちろん、そっくりすべてが同じではないが、パッケージを変えただけで内容はほとんど同じものであることは、オタクの過半数以上が認める事実だと思う(お疑いの方はアンケートを採ってみればいい)。いや、当の「涼宮ハルヒ」シリーズの著者だって認めるのではないだろうか。

 

 バブル的な粉飾メンタリティ


アニメやライトノベルのキャラクターでこのようなパクリの系図を作ったらものすごいネットワークができることはまちがいない。黒髪の三つ編みでメガネをした女の子のキャラクターは、どんな作品でもほぼ例外なく自己主張の苦手な内閉的な女の子になったりするのは、このような情報量の非拡大が動機になっている。要するに、オタクの世界とは、名詞だけは増えていくが内容の変化も進歩もない超保守的な空間だということだ。そうなると、東がオタクの世界をデータベースだと主張することは、実質の内容つまり資産はほとんど増えていないのに、帳簿の上だけで量を二倍三倍にも増やすことと同じになる。これを会社経営で行ったとしたら、粉飾決算ということになろう。この点においても、東浩紀と堀江貴文のメンタリティが近いことが理解できるというものではないだろうか? われらインターネット世代とは、表面的なものに踊って実質を顧みない人々のことなのだ。

同世代の僕としては、これを世代の問題にされてしまうと非常に困る。だからというわけではないが、東や堀江の粉飾メンタリティは何も我々の世代にはじまったことではないと言っておきたい。いや、むしろ東たち東大組は世代のエリートであるがゆえに、旧世代に属している。というのは、粉飾メンタリティとは要するにバブル経済的な感覚にほかならないからだ。
表面的な数字に踊らされて、実質を顧みない。これはそのままバブル経済の敗因でもある。あの時代、実質のないところにムダな投資をしたことで、多くの不良債権が残されたことは今さら言うまでもない。しかし、日本は実質的にバブル経済の反省をしていない(それどころか過去の戦争の反省さえできていないのかもしれないのだが)。その理由は日本人が現実を直視したがらないことにあるのだが、そのような日本人の性質にアニメやインターネットがあっていたことは容易に想像できる。バブル崩壊後、日本は国家を主体として「IT革命」を推進したし、アニメ事業も今や国策として語られている。このような視点から見ると、インターネットやアニメ事業は戦後の社会主義的な計画経済のなごりに思えてならない。オタクたちは、戦後の経済成長の夢をひきずっている存在なのだ。

 

 現実と虚構の二項対立に貫かれた「セカイ系」


あまり詳しく説明していると長くなるので、ここからは少し荒っぽく整理していきたい。オタクたちはバブルの夢の中に生き続けている。ライトノベルの想像力の基盤になっているのは、『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』などに始まる70〜80年代のロボットアニメだ。最近ライトノベルの作品傾向をとらえて「セカイ系」などと語られることが多いが、その「セカイ系」が成立する基盤はまちがいなくロボットアニメにある。それは「セカイ系」の典型である新海誠のアニメ『ほしのこえ』を見るまでもなく明らかだ。
「セカイ系」とは要するに主人公とヒロインの関係が直接に人類の存亡にかかわってくるという舞台設定を持つ作品のことだ。まあ、つまるところ、自分たちを中心に世界が回る話にしかリアリティを感じられないということでもあるのだろう。「セカイ系」はまさに「世界の中心で愛を叫ぶ」ために書かれているのだが、ロボットアニメがその起源だというのは、主人公が人類の危機を救うために戦っていることからくる。ロボットアニメでは主人公がロボットに乗ることを拒否したら、人類が滅亡してしまうことだってあるのだ(『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』には実際にそんな葛藤が描かれた場面がある)。ロボットアニメの主人公にとって、ロボットに乗ることが人類や社会とつながる社会性の基盤になっているのだ。
このような社会性とは端的に軍隊(動員)の論理と言える。「おまえが戦わなければみんなが死ぬ」という論理は、軍隊以外ではありえないからだ。一般社会では自分が働かなくたって、原則として自分が死ぬだけでしかない(家族のために、という考えは動員論理の応用だと言っておく)。
「セカイ系」が中心のライトノベルの物語の背景には動員の論理がある。そこでは、世界を救うか恋をとるか、という二項対立が語られるのだが、それはモラトリアム気分に浸っているオタクたちの建前でしかない。この建前は彼らの本音にしたがってこう読み替えられるべきだろう。現実社会に出るか虚構や妄想に逃げ込むか、だ。オタクたちにとって、世界のために動員されることは社会参加に等しく、リアリティのないキャラクターとの恋愛は虚構や妄想への逃走に等しい。これが「セカイ系」という「小さな物語」の構造なのだ。当然この構造の根底を見つめると、現実か虚構(まんが・アニメ)かという二項対立が浮かび上がることになる。
さて、ここまで書けば東の持ち出した自然主義的リアリズムまんが・アニメ的リアリズムの二項対立の元ネタがわかるというものだ。東の言う二つのリアリズムとは、「セカイ系」ライトノベルの物語にある二項対立を強引に小説描写の方法に当てはめただけのことなのだ。これでは論理破綻が目立つのも仕方がない。東の「理論」とは結論ありきの粉飾理論なのだから。
東の『ゲーム的リアリズムの誕生』は現在の「日本文学」を二つのリアリズムで読み解いているわけだが、それこそが「セカイ系」という「小さな物語」から生まれた意味づけでしかないというのが僕の結論だ。だからオタクのデータベースと言われるものが、実際にデータベースの特徴を持ち合わせていないのも当然で、オタクは「データベース消費」をしているのではなくて、「小さな物語」の意味づけにそって消費をしているというのが本当のところなのだ。「小さな物語」の消費メッセージとはこうだ。「現実より虚構をベースにしているものを買え!」
そして、その「小さな物語」の元になっているのは、すでに滅びてしまった80年代のバブルを頂点とした戦後経済成長という物語なのだ。現実か虚構かという対立は、仕事か家庭(恋愛)か、もしくは、仕事か余暇か、というサラリーマンのアンビバレンツな感情をより極端にしたものだ。ただ、経済成長物語では仕事(現実)が優先するところを、オタクは逆に余暇(虚構)の方を優先させる。オタクたちの「小さな物語」とは、戦後経済成長という「物語」の裏返しにほかならない。この「小さな物語」にはアメリカに対するアンビバレンツな感情も含まれている(主人公がロボットで身体を巨大化しなければならないのは、彼らの武力が大国アメリカとの合一によってしか威力を持たないからだ)。日本は冷戦下において、アメリカに支配されつつ積極的に依存していた。そのおかげで軍ではなくもっぱら経済に動員され、経済成長という「物語」を生きられたのだ。(つまり、市場原理とは「物語」としても機能する。小泉・安倍政権が語る大企業の収益アップが日本全体の経済を好転させるという「物語」がまさにいい例だ)

 

 動員の現実と戦えないマザコン保守


動員の論理に反対するということは重要なことで、それには僕も共感するのだが、オタクは動員に抵抗するわけではなく、ただそこから無責任に逃れようとする。現実逃避という子供じみたやり方なのだ。そのあたりがまったくポジティブに評価できないところだ。だから経済成長的な「拡大物語」に対抗するのにも、その裏返しでしかない引きこもり的な「縮小物語」を持ち出すことになる。その意味では日本のポストモダンとは、「大きな物語」から「小さな物語」へと転換しているといえるだろう。しかし、そのアンチ経済成長的な「小さな物語」が「売り上げ」至上主義という経済原理によって語られることに、東やオタクたちのアンビバレンツな感情を見ないわけにはいかない。結局、彼らは現実と戦えない保守的な人間であって、現実的には何も変えられないのだ。だから気分だけ(もしくは名詞だけ)を変えることになってしまう。
東の大塚に対する態度にもそんなアンビバレンツな感情が見てとれる。東は大塚に大きく依存しながら、その権威をなんとか解体して自己のナルシシズムを満たそうとしている。これはまさに日本のナショナリズム(とも呼べないナルシシズム)の定番的図式というものだ。実質は大国の支配下にありながら、気分だけは自分が一番であるかのようにふるまうのが、日本のナショナリズム=ナルシシズムだ。要するに、親の庇護下にありながら、家で一番偉そうな顔をする引きこもりみたいなものと考えればいい。

こう見ていくとハッキリするのだが、東に代表されるマザコン系オタクの心情は、最近急速に増えている右傾化オヤジたち(安倍晋三?)の心情とほとんど同じものだ。インターネットが右傾化しているかいないかという議論をよく見かけるが、ナショナリズムという観点ではなく、ナルシシズムという観点から見ればそのことは理解しやすくなるはずだ。インターネットは巨大ナルシシズム空間だからだ。誰もが自分のブログや書き込みを注目してほしがり、注目されたいがために不必要な二次発信を大量に行っている。筑紫哲也にネットの掲示板がトイレの落書きレベルだと言われて、多くのネットユーザーは怒ったようだが、そう言われても仕方がない面は実際にある。それはナルシシズムを満たすことばかりを目的にネット参加している人が多いからなのだ。
ここで日本のインターネット論をやる余裕はないが、東と右傾化オヤジが似ていることをもうひとつ指摘しておく。東がどうしてライトノベルの敵として「文学」を選んでいるのかということだ。文芸誌の売り上げなどずいぶん前から赤字だし、芥川賞といってもたいして権威はなくなっている。それなのに、どうして東は死に瀕している文学を巨大な敵のように扱うのだろうか?
僕はこれこそが右傾化オヤジ的発想だと思ってしまうのだ。ライトノベルと純文学の戦いが現在の「日本文学」を二分する戦いだとする東の「物語」は、日本と北朝鮮の争いが世界を二分する冷戦の延長だと考えている右傾化オヤジたちの「物語」にそっくりだ。もちろん、文藝春秋の朝日新聞叩きだっていい。これが「小さな物語」でなくて、いったいなんだというのだろう?
こうなってくると、東の主張は何から何まで信用できなくなってくる。東はオタクたちが「大きな物語」から解放され、「データベース消費」を生きるポストモダン的な「動物化」をはたしていると主張した。しかし、実際は外の世界こそがデータベース化していて、そこになじめないオタクは精神分析的な「物語」やアンチ戦後経済成長的な「小さな物語」を生きているのだ。それならオタクは「動物化」に抵抗する存在として把握されるべきもののはずだ。その意味で、オタクの理解としては大塚のように「人間化」に向かうスタンスと考える方が正しいように思う。オタクはポストモダンの時代に動物化できない存在なのだ。いくら右傾化オヤジが増えているからといって、大塚以外に東に反論する人が出てこないようでは、日本の行く末が思いやられるというものだ。

『ゲーム的リアリズムの誕生』に関しての僕の疑問はだいたい書けたと思う。本当はオタクの「小さな物語」を戦後のアメリカと日本の関係から読み解きたかったのだが、それは別の機会に譲ろうと思う。ただ、ここまで書いてきて、どうしても僕には腑に落ちないことがある。だいたい、現実か虚構かという二項対立でものごとをぶった切るというやり方自体が、旧時代の「大きな物語」(資本主義か共産主義か)の方法なのだ。イデオロギー批判には必ず二項対立の批判がついて回る。これは思想的常識だ。そのためポストモダニズムは二項対立からの脱却として語られていた。なのに、どうしてデリダ論を書いた東浩紀が二項対立を好んで用いるのだろうか?

 

 『存在論的、郵便的』を書いたのはゴーストライター?


  ここで僕は大きな疑惑を発表せざるをえない。つまり、東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』は実際はゴーストライターが書いたのではないかという疑惑だ。だって、『存在論的、郵便的』に書いてあることから考えると、それを書いた人がインターネットを礼賛したり、市場原理オンリーの価値観を持っていたり、簡単に右傾化したりするとは思えないのだ。『存在論的、郵便的』を今一度読んでみれば、僕の疑問がもっともであることに気づいてもらえると思う。もしかしたら、あの本を実際に書いたのは浅田彰なのではないか? なにしろ、名前だけのすげ替えはオタクの専売特許だ。
一応哲学の話なのでややこしい議論になるが、そのあたりもざっと確認しておこう。『存在論的、郵便的』はハイデガーの存在論をベースに、デリダの謎めいた著作「葉書」の読解を通して、人間存在が「郵便的」であることを解読した本だ。ラストはデリダから得た「郵便的」存在モデルをフロイトの理論で意味づけている。
デリダという哲学者は基本的にはハイデガーの批判者と言っていい。ハイデガーは「存在と時間」という20世紀を代表する著作を記したドイツの哲学者なのだが、ナチスに協力したことで評判が悪い。しかし彼の思想のすべてを否定することは不可能だった。そこで次世代の哲学者は、ハイデガーの思想からファシズムの要素だけを批判し、そうでないところだけを受け継ぐというやり方をとらざるをえなくなった。その作業で大きな成功を収めたのがジャック・デリダなのだ。
だから『存在論的、郵便的』がまずハイデガー存在論の読解からはじめて、そのあとデリダの「葉書」の読解に移るのはしごくまっとうな手順と言える。デリダの主な仕事はハイデガー批判なので、当のハイデガーがわかっていなければあまり意味がない。日本のアカデミズムはフランス現代思想(ポストモダニズム)をやたら取り上げるわりに、そのベースになっているハイデガー思想をまるで勉強していない人たちが多い。だから教条的に「差異」だの「複数性」だのというだけで、ただ消費経済の価値観を広めるだけに終わっているのだ。

 

 デリダによるハイデガー的な現前性批判


『存在論的、郵便的』はハイデガーの「現存在」(人間のこと)を、デリダによって「郵便的」存在つまりメディアとして読み替えることを目的としている。少し専門的な言い方をすれば、ハイデガーの存在論は存在の地平を現在という時間に集約するため、「現前性」から逃れられない。デリダはハイデガーの「現前性」を、音声コミュニケーションによるものと見なし、それを文章コミュニケーション(エクリチュール)によって解体しようとした。現在という一つの時制に位置づけられるハイデガーの単数的超越性を、デリダは異なる複数の時制の複数性によって擾乱する。『存在論的、郵便的』ではそれを複数的超越性ととらえている。
こう書いただけでも門外漢の読者はすでにチンプンカンプンなのではないだろうか。困ったことに、これは哲学の話なので、なかなか簡単にはなりそうにない。とりあえず、わからない人はデリダという哲学者がハイデガーという哲学者を批判していることを理解してほしい。そして東(別の人?)もデリダにならってハイデガー存在論の「現前性」を批判している。
この「現前性」の批判というのがまた難しい。デリダが「現前性」を音声コミュニケーションと考えたことは前に述べたが、要するに「現前性」とはリアルタイム、つまりは同時性のことだと乱暴に整理してしまおう。音声による対面コミュニケーションにおいては、原則として、話す人の言葉を話し手と聞き手が同時に耳にしている。現在という時間で同時にコミュニケーションが行われるのが、音声コミュニケーションのスタイルなのだ。

 

 時間のズレ(差延)を重視するデリダ


デリダは「葉書」という著作の第一部「送付」で、「君」(恋人もしくは妻と思われる)に電話をかける。それは音声コミュニケーションを電話に代表させるためだ。その一方でデリダは同じ「君」に手紙や自分の著作を郵送する。そのため、先に書いた手紙より電話の話が先行してしまったりする。「送付」が提出している問題はこのような時間順序のズレなのだ。
東(別人?)は電話と手紙という異なるメディアによって生じた、デリダの話の順序のズレに注目する。デリダが思考した順番と、受け手が電話と手紙によってその情報を受け取った順番は異なっている。また、電話は国際電話なので話し手と受け手の属する時間にもズレが生じている。このような複数の時間が「現前性」を解体することを東(?)は「存在論的、郵便的」でこう説明している。

 

デリダの思考順序と「君」の理解順序、つまり複数の異なった時間的秩序が生じるのは、そこでは単に、電話と手紙のあいだに速度の差があるからである。速度が異なるメディアを複数、同時に用いることは、現前的な対面コミュニケーションが抑圧した時間的錯綜を暴露してしまう。さらに一般化すればつぎのようになる。目の前にある情報の集合、例えばいま電話から響く相手の声と今日届いた相手からの手紙とは、実際にはそれぞれ異なった速度の来歴を持っている。ひとつの声‐意識(フォネー)がひとつの世界を一気に把握するためには、その全体を「今ここ」に中心化されたもの(現前性)として、それら速度の差異を抑圧せねばならない。つまり現前化とは来歴の抹消なのだ。そしてその抹消が十分に行われないときにこそ、情報の来歴相互のあいだでの速度の差異が、時間的順序の複数化とその衝突を引き起こす(デリダと「君」、ヘーゲルと読者)。その結果「幽霊」が生まれ、メディア環境はそれをさらに顕在化する。

 

まあ、難しく書いてはいるが、電話や手紙による時間のズレは使うメディアに「速度のズレ」があることで生じる、ということだ。しかし、「ひとつの世界」の同時性にこだわる「現前性」はそのような「速度のズレ」を抑圧する。だから現前化とは、「速度のズレ」を記録している来歴を抹消することで成立するというのだ。
ここに書かれた主張に僕は異論がない。この部分だけなら、ほとんどその通りだと思う。教条的ポストモダニストはただ単にズレ(差異)を強調するばかりだが、デリダが本当にこだわっているのは「時間のズレ(差延)」なのだ。そのことをきっちり指摘している『存在論的、郵便的』という著作が注目され評価されたのは当然と言えるだろう。

 

 デリダの言説とインターネット支持は両立しない


しかし、僕がつまずくのは、このような「速度のズレ」を重要視する態度とインターネットや市場を礼賛する態度は相容れないということだ。前にもデータベースの特徴で少しふれたが、データベースが情報を網羅するのは「今」という時間においてだった。つまり、データベースが想定しているのは現在というひとつの時間だけなのだ。
だいたいEメールという代物が同時性をアピールしたメディアであることは誰にだってわかることだろう。手紙は差出人が投函してから受取人が受けるまでにかなりの時差が生まれる。しかし、メールはどうだろう? その時差はほとんどなくなってしまっている。瞬時に届くことがEメールの売りなのだ。手紙ならともかく、メールと電話に速度の差などほとんど生まれるはずもない。大阪から来ようと北海道から来ようと、アメリカ、ダカール、重慶からであろうと、ネット空間に至るまでの速度の差はないに等しい。インターネット空間とはまさに「現前性」の場であって、そこに速度の差は生まれないのだ。
そうなるとインターネットや市場とはある意味ハイデガー的な場所となりはしないか。なにしろどちらもグローバルな単一的世界だ。そんな「ひとつの世界」がズレによる複数性などを考慮するはずもない。だいたい「郵便的」というなら、「電話的」であってはならないのではないか?
また、インターネット空間は来歴を抹消する場でもある。インターネットの匿名性の高さがそれを表している。匿名性はその情報がどこから来たかをわからなくする。これが来歴の抹消でなくてなんだろう?
大塚英志はメディアに姿を現そうとしない舞城王太郎(覆面作家と呼ばれた)などを視野に入れながら、サブカルチャー文化の来歴否認について批判的な思考を展開している。東はその舞城を『ゲーム的リアリズムの誕生』で肯定的に評価しているわけだから、来歴否認を問題視しているようには思えない。
以上のことから、僕は『存在論的、郵便的』の著者が『ゲーム的リアリズムの誕生』を書いたとはどうしても納得できないのだ。東浩紀の複数性といえばそうなのかもしれないが、だったらせめて著者名を二つに分けてほしいものだ。いや、やっぱり別人が書いたものと考える方が納得ができる(一時は浅田彰かとも思ったが、よく考えたら浅田の『逃走論』もスキゾとパラノの二項対立を語った本だった)。悩んだ末に、僕は『存在論的、郵便的』がゴーストライターによって書かれたという結論を出すことにした。デリダ論が「幽霊」によって書かれたとしたら、それはそれで悪くないような気もしてくる。

 

 動物化ではなくオヤジ化した若者

 

ずいぶんと長くなったが、『ゲーム的リアリズムの誕生』と東浩紀についてはこれで終わりにしたい。おそらくインターネットに深く依存している東のメンタリティはこの先も進歩することはないだろうし、それなら僕もこれ以上何を言う必要もないはずだ。とにかく僕は東や堀江が世代の代表だと見なされなければいいのだ。彼らは見た目と同じように実年齢以上のバブル「オヤジ」であって、僕たち貧乏な若者とは価値観がかなり異なっている。年寄りは自分たちと近い「オヤジ」の言うことの方が理解しやすいのだろうが、彼らは東大卒というごく一部の保守勢力でしかないことを忘れてほしくないものだ。
しかし、若者たちもいつまでも「オヤジ」の価値観を反映したライトノベルなど読んでいないで、早く現実に目覚めてほしいものだ。オタクは親の金を搾り取るための媒介(メディア)としてのみ社会に許容されている。その意味ではメディア的存在と言えなくもないが、親に金がなくなったとたん、オタクは社会のゴミと見なされるだろう。そのとき媒介でしかない彼らは、独り立ちできずに、親の代わりの何かにしがみつくしかなくなる。その「新しい親」は彼らに無理難題を押しつけるかもしれない。そうなったとしても、オタクに抵抗する力などあるわけもない。そのときこそ、彼らが本当に「動物化」(家畜化?)するときではないだろうか。

 

 

 

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