「俳句四季」2018年3月号 (東京四季出版)

  • 2018.02.25 Sunday
  • 14:45

「俳句四季」2018年3月号

  (東京四季出版)

 

   ⭐

   自社で出版した本の宣伝ばかり考えている思考停止した尻軽雑誌

 

 

東京四季出版は福田若之の『自生地』が自社の出版物であるため、

先月の座談会に続き、本誌の「人と作品」で取り上げています。

『自生地』が一定レベル以下の作品であることは、僕がこれまで批判してきた通りです。

本気で良いと思っている人が多いとは思えませんが、

出版社の応援によって世間の承認を受けられたような錯覚を蔓延させることになっています。

本気で俳句や文学を愛するなら、

文学的価値よりも売り上げを重視する出版社の功利に屈することなく、

こういう作品にきちんと批判の声を上げるべきでしょう。

 

俳句形式の文学的意図が理解できず、単にゲームのルールとしか理解していない福田の句?は、

知性をもって読めば俳句の自己否定でしかありません。

俳句雑誌が俳句を否定している作品を持ち上げるのは、道理に照らしてみれば矛盾です。

そういうこともわからない人間が編集をやっているのは容易に想像がつきますが、

文学的実質よりマーケティングを重視する出版社など信用できたものではありません。

3月10日にこの出版社から出る『俳誌要覧』でも、「豈」のメンバーとその周辺の人物を多く起用していて、

実作よりも口先に特化した連中ばかりをありがたがる俳句界が、どこを目指しているのか怪しまずにはいられません。

 

さて、本誌の話に戻りますが、

『自生地』をほめるべく原稿を依頼されたのは、青木亮人、池田澄子、加藤治郎、トオイダイスケの4人です。

僕は以前のレビューでも書きましたが、青木は肩書きは研究者ですが、

研究での目立った活躍はなく、ポップでサブカル的なポストモダン俳句のブームに乗って名を売った寄生虫的存在です。

今回の『自生地』についての文章もどうせ礼賛に終わるのはわかっていましたが、

とうに「時代遅れ」となったポストモダンを引っ張り出してきて語るのにはあきれました。

実は青木が書いていることは、すでに僕がレビューで指摘していることなのです。

すでに僕が言っていることを書いてしまうあたりも迂闊ですが、

批判材料として書かれていることを持ち出して、礼賛に用いるというセンスのなさはズバ抜けています。

その知性のレベルたるや、自ずと想像できるというものです。

 

具体的に言うと、青木は福田の句を受けて、

「太宰よりも、平成期の舞城王太郎が小説に描く野放図な「俺」の、

よるべなき幼児性を装った父なき孤影と似通うかもしれない」

と述べて、福田を舞城王太郎と重ねています。

僕は『自生地』のレビューで福田の散文が西尾維新や「ファウスト」という雑誌の影響下にあることを指摘しましたが、

その「ファウスト」の中心にいた作家が舞城なのです。

 

舞城王太郎は2003年に『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞をとって、業界内で大騒ぎした作家です。

〈俗流フランス現代思想〉の東浩紀が礼賛したため、多くの大御所が何もわかっていないのに「新しい」などと礼賛しました。

さて、僕は2014年5月にアップした御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』のレビューですでにこう書いています。

 

御中虫現象には既視感がある。

2003年ごろに文壇では、

サブカル的発想に富んだ舞城王太郎がやたら持ち上げられた。

高橋源一郎や加藤典洋らが「新しい」と絶賛し、芥川賞候補になった。

 

ところが今はどうだろう?

彼を今でも「新しい」と言っている人はいるのだろうか。

結局、年寄りがネット世代に媚びただけのことだった。

 

青木は僕のレビューを読んでいないのでしょうが、まあ見識が足りないですよね。

純文学で2003年に起こって消滅した現象を、俳句界は今さらになって繰り返す気なのでしょうか?

青木の書いていることは僕の批判を裏付けているだけなのですが、

そのくせ彼は批判をするのではなく福田を礼賛してしまうのです。

純文学から15年遅れの現象を持ち出している時点で、福田に新しさが全くないと言っているようなものなのに、

それでも礼賛トーンで終わるのは、先に礼賛という結論ありきだからにほかなりません。

 

それから舞城王太郎が「幼児性を装った」という青木の解釈も受け入れ難いところがあります。

(そもそもペンネームが「自分の城の王」なんですけど……)

たとえ幼児性を「装った」としても、それは幼児性を創作のコアに置く態度によるもので、

彼が幼児的な面を持つ作家であることの否定にはなりません。

舞城の『九十九十九』という作品では露骨に成長嫌悪が語られています。

 

テキストを無視した口先だけの「善意の解釈」を並べる青木の態度は、

適当に良いことを言って敵を作らずにうまく仕事をもらおう、という

凡庸な人間の世渡りテクニック以外の何物でもありません。

僕はすでに福田の幼児性が真性のものであることを、テキスト読解で示しています。

舞城王太郎に関しては、彼の幼児性について、かつて僕が2003年に書いた文章があったはずなので、発掘してブログにでも載せておこうと思います。

そろそろ俳句界の論理力の低さに依存した散文商売を問題にする必要があるのではないでしょうか。

 

青木は「大きな物語」の衰退も語っていますが、

フランスではJ・リオタール、日本では東浩紀によって言われたことです。

リオタールの『ポストモダンの条件』は1979年ですのでほぼ40年前の言説ですし、日本ですら15年以上前の言説になるわけです。

このような「周回遅れ」のポストモダン現象を俳句に持ち込む連中を、僕は凡庸の極致だと批判してきました。

小津夜景『フラワーズ・カンフー』のレビューから引用します。

 

たとえば『君の名は』ヒット以後に、新海誠やRADWIMPSをほめあげる人がいるとする。

このような「遅れてきた俗人」をアートな感性の持ち主だと評価できるだろうか?

当然あなた方はそんな評価はしないであろう。

それと同様に、バブル期に隆盛した消費資本主義を背景にした〈俗流フランス現代思想〉を、

30年たった後になってから振り回す人間が凡庸であることは言うまでもないことである。

 

ただ時間が経っているから、ということではない。

〈俗流フランス現代思想〉は消費資本主義やインターネットテクノロジーによって、

思想的意味なくして人々がすでに享受している「日常」だからである。

主体の抹消とか「私ではない愉悦」とか何かたいそうなものに言っているのが恥ずかしくならないのが不思議だが、

そんなものはネットによって地上から切り離された「メタ的」主体のことでしかない。

だから〈俗流フランス現代思想〉はメタという言葉を使わずにごまかしている。

とっくに「日常」化したものがアートであるはずがない。

そんなこともわからない連中が俳句界隈やふらんす堂界隈には多数生息している。

 

上記の〈俗流フランス現代思想〉というのが、日本のポストモダン現象のことです。

ネットによってとっくに日常化したポストモダンを、アートや文学だと詐称する人たちにはウンザリします。

商業的寄生虫に批判などできないのは当然ですが、もし礼賛がしたいなら、

とっくに時代遅れとなって、他のジャンルでは通用しないポストモダンの「模倣」ではなく、

『自生地』の別の良い要素を発見してもらわないことには話になりません。

 

それなのに俳句界はただの「時代遅れ」の現象を「若手」というくくりでさも新しいことのように取り上げています。

外部の僕からみれば、こんなものは無知な年寄りを騙すための詐欺みたいなものです。

角川「俳句」2015年5月号のレビューに書いた僕の文章を引用しましょう。

 

関悦史やそのエピゴーネンたちは、俳句批評をしているつもりで、

やたら〈フランス現代思想〉などの西洋思想を援用したがるのですが、

〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダンの特徴は、

消費資本主義と歩調を合わせた、その反人間主義や非歴史性にあります。

 

彼らは一方で俳句という伝統詩型の歴史性に依存しながら、

他方で非歴史性を強調する概念論に依存するという二枚舌で批評もどきを展開しています。

これは教養の不足というより、

親父の世話にはなるが親父の影響は受けたくないという、

子供じみたご都合主義と言うべきでしょう。

 

関一派がポストモダンやサブカル(BL!)を援用したがるのは、

自らの歴史性の欠如をごまかし続けるための戦略だと僕は思っています。

もし、非歴史的でありたいのならば、伝統詩型をやるのは端的に「ずるい」ことです。

そのため、関は伝統とも前衛ともどっちつかずの態度をとり続ける日和見な態度になるのです。

 

非歴史性に特徴があるポストモダンに幼児性がつきまとうのは必然です。

「子供じみた御都合主義」を謳歌している人が幼児性丸出しの作品を作るのは当然の帰結なのです。

無知な青木がポストモダンの本質も考えず、舞城が「幼児性を装った」などと穏当なデタラメを語れてしまうのは、

彼が単に流行に迎合する寄生虫でしかなく、自身の批評的な視座を全く持ち合わせていないからにほかなりません。

もし寄生虫でないのなら、ここのコメント欄に反論を書いて僕と論理を戦わせてみてほしいものです。

(仲間をバックにつけるツイッターではなく、僕と同じ立場で「単独で」挑んできてください)

 

僕が単独者としてレビューを書いているにもかかわらず、

フォロワーと連結するツイッターで感情的な文句を返してくる著者が後をたちません。

ツイッターは潜在的に他者と連結したメディアですので、真の意味で単独者にはなれません。

文学の言葉は単独者のものであることが前提ですので、

ツイッターやSNSに依存している人間は、それだけで反文学的存在と言って構わないと思います。

伝達事項を伝える手段としてのツイッターは問題ありませんが、

感情的なつぶやきを安易に表現したり、他人の意見を自分の意見のようにリツイートする人間が、

たいした作品を作れるわけがないのは火を見るより明らかです。

このことも作者の資質を問う指標にしてみたらいいと思います。

(もちろんツイッターをやらなければいい作品を書けるというわけでもありませんが)

 

他の人にも触れておきます。

池田澄子は「パスワード」という言葉にやたらこだわっていますが、

こうやって何か言っていれば作品批評のようになるから俳句は楽ですね。

池田が取り上げた福田の句?はこれです。

 

 春はすぐそこだけどパスワードが違う

 

パスワードが必要になるのは金銭の発生に関わる場面がほとんどです。

春にパスワードが必要だという発想は、自分が資本主義的主体であることに疑問も批評性も持てないことから生まれてくるものです。

すべてを金銭で考える発想が、福田には骨の髄まで染み込んでいます。

もちろん池田にそんなことを読み取る力はありません。

 

これは「あえて」なんだ、とか「装った」だけなんだ、とかいう青木レベルの反論はくだらないのでやめてくださいよ。

そもそも俳句にそういうアイロニーは適していませんし、表現しきれるものではありません。

そういうアイロニーを表現したいのなら、疑いなく俳句以外の形式をとるはずなのです。

「あえて」俳句を選んでいることが、福田の書いていることが「あえて」でも「装った」ものでもなく本気であることを示しています。

また、「あえて」とか「装った」とか言うのなら、どうして福田の散文パートに関してもそう言わないのでしょうか?

散文パートは「切実」とか「青年の思いが詰まってい」るとか評価しておきながら、

都合が悪いところだけ「あえて」とか言うのは、ダブルスタンダードですし、その人の見識を疑います。

 

加藤治郎は俳句がよくわかっていない短歌の人なので、

短歌的文脈で『自生地』を評価しています。

僕は福田の句?が俳句より短歌に近いと書きましたが、加藤が書いた次の文が決定的に僕の見方を裏付けています。

 

『自生地』には、七七五、五五七の形式もある。俳句形式の周辺に五音と七音の断片があるのだ。

 

加藤のこの読みが正しければ、福田の句?は俳句より短歌に近いことの証明となります。

俳句は短歌の五七五七七から五七五で切れた形式です。

俳句であるためには、当然五七五の周辺に五音も七音も気配があってはいけません。

加藤は短歌の人間なのでこれを評価しても構いませんが、

俳人はむしろこのことを批判的に捉えないといけないと思います。

(本誌の「忙中閑談」で降旗牛朗という方が俳句と短歌のちがいについて良いことを書いていますが、

当のこの雑誌がそのような区別ができていません)

概して若手とされる俳人は「切れ」の意識に欠けた人が多く、簡単に句が散文化してしまう傾向があります。

七七五や五七七の形式が、旋頭歌などの奈良時代の和歌形式を想起することも付け加えておきます。

 

トオイダイスケという方はよく存じ上げないのですが、

 

 キオスクが夏の記憶でいまもある

 

という句?を取り上げて、「いまもある」のは「率直に読めば」夏にキオスクを目にした時の「記憶」だと述べています。

格助詞を適切に理解できれば、「キオスクが」が述語「いまもある」の主語に当たるのは明確なので、

当然「いまもある」のはキオスクでしかないはずなのですが、

この方は「が」と「で」の用法が今ひとつ理解できていないようです。

(カタカナ名前の方なので、海外の方なのかもしれません)

現実のキオスクと記憶のキオスクが「二重映しになっている」とも読める、と言うのですが、

いや、そうとしか読めないと思います。

 

トオイダイスケの感想は個人のものなので特に言うこともないのですが、

この句?の問題は「夏の記憶」がどういうものなのか、その内容が読者に完全に秘匿されていて、これっぽっちも示されていないということです。

そのため、読者が勝手に自分の体験を重ねて、そういう瞬間あるよね、という「あるある」を味わうだけに終わっています。

僕はこういうものは創作表現ではなく、ただの「あるあるネタ」だとしか思いません。

 

もし短詩であるなら、これが「夏の記憶」でなければならない「思い」を感じさせてほしいのです。

擁護の心情を抜きにすれば、これが「春の記憶」であっても「冬の記憶」であっても構わないのは明らかです。

キオスクなど日常に位置するものですから、夏休みと結びつけるだけの理由もありません。

 

本気で提案したいのですが、

「青春」といえば未熟でもほめて良いというような甘やかしの風潮はやめにしませんか。

こういう感覚が俳句甲子園とかいう奇妙な競技的文化を生み出し、そこの出身者をいつまでも甘えた勘違いに縛りつけているのです。

俳句甲子園が俳句甲子園という文化として存在するのは構いませんが、

高校野球とプロ野球が別物であるように、俳句甲子園文化と俳句文化には線引きが必要だと思っています。

俳句界はこういうことをすべて曖昧にしたまま、「若手」に言うべき言葉を持たず、

彼らの低レベルな発想を追認することになっています。

 

最近の俳人は作品より人間関係を優先させているように感じます。

出版社は話題とコネで原稿依頼をするだけで、内容を検証する力を持っていません。

ディナーショーのようなイベントが俳句にはたして必要なものなのでしょうか。

商業主義と戦えない文学は形骸化していくだけに終わることでしょう。

 

 

 

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