『マルクス 資本論の哲学』 (岩波新書) 熊野 純彦 著

  • 2018.02.22 Thursday
  • 17:22

『マルクス 資本論の哲学』  (岩波新書)

  熊野 純彦 著

 

   ⭐⭐⭐

   すでに自分で『資本論』を読んだ人向けの本

 

 

熊野純彦の本は一般書の体裁であっても、学術論文のスタイルからそれほど離れていません。

テキストに対して忠実な姿勢で読んでいくのが基本です。

わりと面白みの少ない学者らしい説明が続きます。

それでいて概説書というわけでもないのが難しいところです。

熊野の興味自体は案外共有しにくいところにあったりするので、よく読まないと彼の意図についていけなくなります。

(たとえば本書なら「フクシマ以後」という熊野の問題意識を共有できるか、という点ですね)

なので、自身が読んでいないテキストを熊野の本で理解しようとすると、

たいていはその試みが打ち破られることになってしまうと思います。

 

本書も一度は『資本論』を読んだことがある人でないとあまり楽しめないのではないかと思います。

熊野は『資本論』の内容を忠実になぞった書き方をしているので、

入門書としても通用してもいいような気がするのですが、案外そうならないのは、

熊野がテキストに忠実すぎて、その外になかなか出てこないからだと思います。

たとえば価値形態論の話をするときに、僕なら「メルカリ」などを例に出して説明するでしょう。

商品が商品に「なる(生成する)」のは、それ自身の価値のためではなく他の商品との関係においてである、という話をしたいなら、

自分にとって不必要な(つまり使用価値がない)ものであっても、「メルカリ」では商品と「なる」ことで説明すればわかりやすいと思うのです。

当然、このようなあり方は価値と価値の等価交換ではありませんし、

価値とはその商品自体ではなく、外部のものによって現れることがわかります。

こういうのはテキストに固着しすぎないで、ある程度「現実」を導入した方が、

わかりやすく、その論の有効性も確認しやすくなるように思います。

しかし、熊野は徹底的にテキスト固着型の人なんですよね。

 

もちろんテキストにこだわることは大切です。

だから僕自身は熊野の書くものは結構好きです。

ただ、多くの読者が面白いと思うかといえば、そうではないだろうと想像できてしまいます。

さらに問題なのは、そのようなスタイルで『資本論』の読解を進めてきたのに、

最後になって急に「フクシマ以後」という「現実」を持ち出してくることです。

唐突な進路変更に読者が戸惑うのも仕方がないように思います。

 

第江呂廼箙埒用と恐慌について解説したあと、

手形によって商品の代価を得るより先に資金を入手する信用操作が莫大な架空資本を製造するという話から、

デリバティブによるバブルとグローバリズムの話へと接続するあたりや、

株式投資ではいつか暴落が起こる、という話から、

「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例として原子力発電所の問題へと接続するあたりは唐突と感じます。

「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例ならば、アベノミクスと呼ばれる異次元の量的緩和のことを挙げた方が妥当なのではないでしょうか。

物質代謝の話ならば原発を持ち出すのは構わないのですが、

原発は(この期に及んでも)、いつか落ちる雷だとは思われていないのではないでしょうか。

このあたりも、熊野がテキストと「現実」を結びつけるのがあまり得意でないと感じます。

 

最後に熊野は交換そのものに否定的な見解を示します。

熊野はK・マルクス最晩年の文献『ゴータ綱領批判』を引用し、

コミューン主義の第二段階を「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」の文で示します。

この段階に至っては、分配の原則が「各人の必要」となるため、

平等な分配でもなければ、交換でもなく、原理として前提されるものは「贈与」だとし、

「他者との関係と他者の存在そのものを無条件的に肯定する贈与です」としめくくります。

こうして熊野は贈与の原理を考える必要を述べて本書を終わるのですが、

ここで僕は熊野がE・レヴィナスの思想を所有の観点から読んでいたことを思い出しました。

 

まさに「資本論の哲学」にふさわしい抽象概念で本書は閉じられます。

ここで直接に本書とは関係ありませんが、僕自身が本書の価値形態論を読み直して考えたことを少し書きます。

(興味のない方はこの先は読まないでください)

 

商品は使用された時にはもう商品でない、と熊野は述べています。

確かに返品できるのは使用以前の段階で、十分に使用している時の道具は商品ではありません。

そして、その商品を買った人がどう使うかは自由です。

ハンマーをつっかえ棒として使ってもいいですし、スマホを文鎮として使っても構わないわけです。

つまり、使用価値はモノ自体にあるものではなく、購入者の「意味づけ」だということです。

 

そうなると、意味というのは商品購入以後の使用価値において存在するのであって、

貨幣による価値づけ(交換価値)において意味は必要がないわけです。

交換価値は抽象的な人間にとっての価値であり、あなたにとっての価値ではないのですから。

 

さて、僕が話したいのは文学や思想のことです。

意味というものは各人にとっての使用価値なので、ローカルな領域にしか存在できません。

しかし、貨幣的価値は抽象化されているため、グローバルな流通が可能です。

何が言いたいかわかりますか?

グローバル化が各人にとっての意味、つまり文学や思想を殺すということです。

〈俗流フランス現代思想〉が反人間中心主義を標榜し、意味を排除していったのは、

アングロサクソン主義、つまるところグローバリズムに依拠した「ヘゲモニーと同衾する思想」であったのです。

 

結果、彼らはローカルな「意味」の代わりにグローバルな数式や理系的価値づけに擦り寄るわけですが、

こういう連中が文学者ヅラや思想家ヅラをすることを許してはいけません。

彼らは文学や思想の敵でありスパイであり裏切り者であるからです。

(もちろんそれが現代的で新しい文学や思想でないことも今やハッキリしています)

 

意味がない文学作品が現代的だと考えているお目出度い人が日本には大勢います。

彼らは堂々と文学を裏切っているくせに、自分では文学をやっている気分になっている失笑を禁じえない人物です。

そして、資本の飼い犬に成り下がった出版社が彼らを後押ししています。

そんな〈俗流フランス現代思想〉に感化された「ヘゲモニーと同衾した太鼓持ち」に文学を語らせてはいけません。

文学や思想は資本による非人間的な抽象化に抵抗し、ローカルな局面に立って各人にとっての意味の回復に努めるべきなのです。

グローバル資本のプードルちゃんを一刻も早く文学から追放するべきですし、そのために僕は彼らを糾弾し続けます。

 

 

 

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