「俳句四季」2018年2月号 (東京四季出版)

  • 2018.02.18 Sunday
  • 19:49

「俳句四季」2018年2月号

  (東京四季出版)

 

   ⭐

   自社で出版したら疑問ある作品でも「名句集候補」扱いする尻軽雑誌

 

 

今号の座談会「最近の名句集を探る54」で福田若之の『自生地』が取り上げられています。

僕はすでに『自生地』をレビューして、この本をほめる俳人が問題だと書いているので、

この座談会で軽薄に『自生地』をほめた俳人にものを申したいと思ってレビューを書きます。

 

まず、福田の書いたものを俳句として簡単に処理する人が、僕には理解できません。

あとで説明しますが、散文性が強く、贔屓目に評価しても短歌的(それもニューウェーブ)でしかありません。

したがって、このことに疑問を持たない俳人は、俳句と散文、または俳句と短歌の違いがわかっていないということなので、

俳句をやっても上達する見込みはないと思います。

また、『自生地』を出版するのはいいにしても、「名句集」扱いをして次号に特集まで組む「俳句四季」という雑誌は、

ただ商売のために俳句本を出しているだけで、俳句文化に対する尊敬もなければ勉強もしていない尻軽雑誌であるようです。

俳句界は批判が成立しない自己愛原理の文化なので、土壌がどんどん腐っています。

 

その座談会のメンバーですが、筑紫磐井が司会で、あとは齋藤愼爾、相子智恵、前北かおるの4人です。

実際にほめているのは相子智恵くらいで、筑紫は温情的、齋藤は批判的、前北は関心が薄いというスタンスに見えました。

その後の小野あらたの句集に関しては、みんなでうまい、うまい、と連発しているだけに、

『自生地』がどうにも名句集を探る企画にふさわしいとは思えないのですが、そのあたりは魂のない出版社が自己宣伝したくてやっているのでしょう。

それでも筑紫磐井と相子智恵の発言には看過できないものがありました。

 

まず僕が問題だと感じるのは筑紫磐井のいいかげんなスタンスです。

筑紫は句数の多い俳人を自分は批判しているとして、関悦史や北大路翼を福田とともに挙げてこう言っています。

 

関悦史さんの句集は全部テーマを変えて十数編の短編小説のような格好で並べているし、北大路さんの句集は風俗物の長編小説のようになっています。福田さんの場合は非常に演出に凝っているような気がしました。

 

「小説のよう」であったり「演出に凝って」いたりと、つまるところ彼らがいかに散文性に寄りかかっているかを言っているわけです。

筑紫は「句数の多い句集というのは、ある意味自選能力を否定しているようなものだと常日頃批判し」ているとしつつ、

引用文のように擁護を始めるわけですが、

このような批判に対処するためには、ただ句数を減らせばいいだけということになります。

しかし、ただ句数を減らすだけなら誰だってできるのではないでしょうか。

その意味で筑紫の批判にはほとんど中身がありません。

彼らの問題は「自選能力の否定」にあるわけではありません。

一句で勝負できないために、散文性に寄りかかり、小説のような構成や演出をする必要が出てしまうのです。

つまり、問題は散文性への依存にあるのであって、そこを「自選能力」などというものにすり替えて語ることは、

筑紫が問題を認識できていないか、ごまかしをしているかのどちらかだと思っています。

そもそも筑紫は散文脳の関悦史の庇護者のような役割を果たしてきたわけですから、

選句をしないことだけを批判する態度は、アリバイ批判というか官僚的二枚舌だと感じます。

 

あと、筑紫が福田の句?のいくつかを挙げて「残りうる句だと思います」とか言っていますが、

僕は話題性が尽きたらどこにも残っていないと思います。

 

 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

 図書館までの七月の急な雨

 おもしろくなりそうな街いわしぐも

 あんみつにこころのゆるむままの午後

 

などがそれですが、こんな作が三橋敏雄と並んで残るわけないでしょう。

本気で言っているとしたら筑紫の俳句眼を疑います。

ハッキリ言いますが、福田の作はただの「あるあるネタ」です。

そこには詩的感動などまったくなく、安っぽい共感があるだけです。

俳句や詩が追い求めるものが安っぽい共感であるとでも筑紫は思っているのでしょうか。

まあ、それならさっさと俳句をやめたほうがいいでしょう。

「しあわせがどうしても要る」そうだよね〜

「七月の急な雨」まいっちゃうよね〜

「おもしろくなりそう」いいね!

「あんみつにこころのゆるむ」画像upお願い!

こんな感じのSNS的な内的感情の駄々漏らしですよ。

俳句とツイッターの区別ができない若者が俳句界隈には多く存在しすぎているのではないでしょうか。

 

僕は福田が「かまきり」とか「小岱シオン」とかいう言葉を、彼の著作の中だけで成立する隠喩的な語として用いていることについて、

問題を感じていない俳人の意識の軽さに驚いているのですが、

一句ではなく一冊を作品単位と考えている福田が、自作の中で「かまきり」を特別な隠喩として用いている場合、

それは季語たり得るかといえば、そうではないというのが僕の立場です。

コノテーションと予防線を張れば許されるというレベルの行為ではないと思っています。

福田が「かまきり」という語を自分の作品内での個人的な意味に用いている場合、

そこに季感が存在しないのはもちろん、外部の対象への関心自体が失われていること、

ひいては他の俳人との共同性に背を向けていることを読み取らなくてはいけません。

福田は自分の内面にしか興味のない甘えた人間であり、季語というものを作品を俳句に見せるための形式的な道具としか理解できていません。

僕は俳人ともあろう者が、季語に別の役割を担わせる依存行為(千葉雅也的に言えばハッキング)を、

どうして平然と受け入れられるのかわかりません。

まあ、批判という回路を捨ててしまった「自己慰撫の集団」だからでしょうね。

(もちろん、福田を批判している齋藤は違いますよ)

それでも筑紫のような季語について本を書いている人が問題を感じないのは致命的です。

こういうことが気にならない人の書いた本など読むだけムダです。

僕は一冊だけ筑紫の本を持っているのですが、早々に紙ゴミにしたいと思っています。

 

また、筑紫は「我々は「俳句」という枠組みで作ってしまっているけれど、

福田さんはあえてそれを壊そうというところからスタートしている」とも述べていますが、

福田を革命家扱いするトンチンカンの大まちがい発言です。

何度も言いますが、福田は俳句以外のものをやる力がないために、

一生懸命自分の句 ?を俳句として受け取ってもらおうと努力しています。

だから東京四季出版から句集を出すのですし、自分の本のことを「句集」「句集」と書いてアリバイを作っているのです。

(そして「名句集候補」扱いですよ)

「あえて」と言うなら普通に俳句らしい俳句が作れるということですよね。

筑紫は福田のそういう句を見たことがあるのでしょうか?

(「七月の急な雨」とか言っちゃって、「夕立」「驟雨」という季語も使いこなせない人ですよ)

どこに「あえて」という根拠があるのか、「とりあえずアゲとこう」という官僚的二枚舌もいいかげんにしてほしいものです。

 

それから福田を恥ずかしいくらい擁護している相子智恵ですが、

福田のスタイルも批判できない程度の気持ちでやっているなら、

この人の俳句が上達しないのも仕方がないと思いました。

相子は福田に「俳句を愛しているゆえの切実さ」があるとか言っちゃってますが、

僕の『自生地』レビューを読めばわかる通り、福田は俳句など愛していません。

自分が愛されたいだけです。

自分を俳人として認めてもらい、愛してもらう切実さ、のために俳句が大切になっているだけです。

相子が能動と受動の違いも区別できないのは、それこそ作品に対する切実さが欠けているからだと言わざるをえません。

自分の勝手な思い入れで判断するのではなく、作品自体の解釈から作家の態度を評価するべきです。

俳人は相手に会った印象で勝手に作品を判断することが多すぎます。

藤原定家も作者による作品判断を嘆いているので、そのような態度は昔からよくあることなのでしょうが、

文学的には不誠実でまちがった態度です。

それとも相子は、自分以下の存在を擁護すれば、伸び悩んでいる自分自身を慰撫することになるとでも思ったのでしょうか。

どちらにしても不誠実な人物だとしか僕には思えませんでした。

 

たとえば相子は「九月は一気に青空だから(うつむく)」という句を取り上げて、

 

こういう風に()を入れたり、言葉や構造に触れないといられないという、切実さが感じられます。

 

などと言っているのですが、カッコを使うだけでずいぶんと大げさな評価です。

相子はわかっていないのかもしれませんが、俳句には「切れ」というものがあります。

「切れ」によって句の中に時間の断絶や主体の転換を表現することができる「構造」を俳句は持っているわけですが、

そんなに構造に触れる「切実さ」があるのなら、どうして福田は「切れ」を学ばないのでしょう?

「切れ」を学習せずに安直に()を用いる態度は、むしろ俳句形式への不信の現れだと考えるべきです。

このような表現を用いることが、彼の作品を俳句より短歌に近づけるのは必然です。

そういうことがわからない相子は、勉強不足というか俳句を無自覚にやっているだけの俳人だとわかります。

 

さて、座談会の不誠実な俳人についての罪状はこれくらいにして、

福田の句?が俳句より短歌に近いということを書いて終わりにしたいと思います。

そもそも自らの内面をそのまま吐露するスタイルが短歌の方に近いのは言うまでもないことです。

それ以上に、『自生地』の散文パートを長い長い前書きと捉えた時に、それが短歌から散文への流れにあることがハッキリします。

 

最近ちくま学芸文庫として復刊された大岡信の『紀貫之』には興味深い説が書いてあります。

大岡は紀貫之が『伊勢物語』の作者かもしれないと語った上で、

貫之の歌の多くが屏風歌であることを指摘します。

そこで貫之という歌人が、「虚構を日常茶飯とするジャンルの名匠であった」とします。

そのような虚構性の強い貫之の歌に添えられた前書きが重要な外部文脈であることを大岡が指摘しています。

 

けれども、一首妙に切実な実感がこもってきこえるのは、「宮仕へする女の逢ひがたかりけるに」という詞書によって、二人の置かれた具体的な状況が想像できるからであろう。この詞書がない場合、歌はかなり不安定なものになることは否定できない。

 

そう言って、貫之の歌には一人称より三人称の世界に置いた方がおもしろい歌が多いとします。

 

その結果どういうことになるかといえば、歌というものを物語化しうるものとして、また物語の観点から、眺めるという習性が必ずや生じたはずなのだ。(中略)歌というものを、それが実際にうたわれた具体的状況から引き離し、別の想像的世界の構成要素として生かすとき、そこにはやがて伊勢物語的な歌物語の世界が生れるだろう。

 

つまり、前書き(詞書)に依存した「別の想像的世界の構成要素」となった歌が物語へと変化したというのが大岡の見方なのです。

なかなかの慧眼だと思いませんか?

「別の想像的世界の構成要素」と化した作品は、すでに散文の一部となっているということです。

そして、それは歌から物語の変化をたどっているのであって、俳句のあるべき位置ではありません。

(いや、むしろ俳句はこの変化に逆行するものであったはずです)

そうなると、福田の作品は俳句の自己否定であるということです。

俳人が『自生地』をほめることを僕が激しく糾弾するのは、

もちろん私怨(笑)などではなく、俳人が俳句を否定することが見ていられない(つまり俳句への愛)からなのです。

 

まとめますが、福田は俳句をあえて破壊しているわけではありません。

俳句でないものを俳句だと偽ろうとしているだけなのです。

それは俳句よりニューウェーブの短歌に近いものですし、

だからこそ次号で加藤治郎が『自生地』の作品鑑賞を書くことになるのです。

福田の句?にはまだまだ言いたいことがありますが、この魂のない雑誌では次号も『自生地』の特集をするようなので、

その時にまた書こうと思います。

 

 

 

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