『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書) 小川 仁志 著

  • 2018.02.17 Saturday
  • 19:04

『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書)

  小川 仁志 著

 

   ⭐

   目配りだけで中身のカラッポなドイヒーな商売本

 

 

僕は小川仁志の本を初めて読んだので、他の本のことはわかりませんが、

本書だけを見る限り、何度か読み切るのを断念しそうになるほど、どうしようもない内容だと思いました。

 

小川の問題意識と結論に関しては、むしろ僕も賛成という立場です。

G・ハーマンに影響を受けたような(軽薄!)図式にあるように、

小川は感情、モノ、テクノロジー、共同性という四つの知を連結した「多項知」を掲げ、

「私」と社会をつなぐこれからの公共哲学の必要性を訴えます。

いや、別にこれは全く悪くない発想だと思うのです。

 

小川はポスト・トゥルース現象や哲学の思弁的転回を受けて、

現代は「脱理性時代」の段階にあり、テクノロジーの発達がそれを後押ししているとします。

それに対して、「理性そのものをアップグレードすること」が新たな公共哲学に求められると小川は述べるのですが、

このあたりに関しても別にいいことを言っていると思います。

 

グランドデザインはこのように悪くはない気がするのですが、

細部の内容に入ると、ボロが出まくりで読む気が失われていきました。

当然、その新しい公共哲学の実現性はほとんどないのは明らかで、

ただ耳に心地よい夢物語を語っているだけの、思想を用いた商売本であることがわかりました。

僕はもう二度と小川の本を読む気はありませんし、哲学者という肩書きも信用しません。

 

まず、細部のずさんな論の進め方について書いておきます。

小川は最初にポピュリズムを扱っています。

そこで小川は「反知性主義」という言葉が広まった理由をトランプの台頭と結びつけて語ります。

 

アメリカ大統領選にドナルド・トランプが名乗りを上げ、大方の予想を裏切る快進撃を続けるにつれ、反知性主義という言葉が人口に膾炙するようになった。

 

「なぜトランプの快進撃によって反知性主義という言葉をよく耳にするようになったのか」

とも小川は書いているのですが、

僕はこの言葉を垂れ流した本の多くにレビューを書いたのでよく覚えているのですが、

日本で「反知性主義」という言葉が流通したのはトランプ現象のためではなく、

知識人が安倍内閣批判をするために用いたのが発端です。

内田樹と白井聡が中心となって『日本の反知性主義』を出版したのは、2015年3月のことです。

現代思想の反知性主義特集が2015年1月で文芸誌の「文学界」の反知性主義特集は2015年の6月です。

小川も引用している森本あんりの『反知性主義』も2015年2月です。

反知性主義という言葉が人口に膾炙したのが2015年の前半にあたるのは明らかです。

それに対し、トランプが共和党の指名候補に選出されたのが2016年7月ですから、

トランプが大統領になるかもしれない、という流れのだいぶ前になるわけです。

だいたい内田たちの『日本の反知性主義』という本は「日本の」と書いているわけですから、

トランプ現象とは何の関わりもありません。

森本あんりの『反知性主義』の帯には今でこそトランプの写真があったりしますが、

出版当初の帯にはありませんし、本の中で森本がトランプに触れた部分もないはずです。

 

このような状況を記憶している人間からすると、

反知性主義がトランプの快進撃によって人口に膾炙したなどという記述こそが、

ポスト・トゥルース以外の何物でもないと感じます。

自らポスト真実を生きている人間が、どうやってポスト真実を乗り越える公共哲学を生み出せるというのでしょうか?

 

安倍晋三によって人口に膾炙した「反知性主義」という言葉を、

トランプのためという嘘にすり替えるのはどうしてなのでしょうか?

小川は山口大学の准教授です。

山口県といえば安倍晋三のお膝元ですので、まさかとは思いますが、そこに忖度があったのではないか、と考えてしまいます。

 

小川のずさんな論はこれだけにとどまりません。

思弁的実在論についての説明にも胡散臭さが爆発しています。

だいたい、この男は思弁的実在論の説明になるとひたすら千葉雅也の引用ばかりで構成していくのですが、

自著を批判した人を感情的に侮辱する千葉のような「感情を飼いならす方法」も知らない人の言うことを丸呑みにしている人間が、

公共哲学を主張するなんてブラックジョークとしか思えません。

その上、小川は自分が引用した千葉の書いた論考すらきちんと読んでいません。

 

いくつか挙げておきましょう。

まず小川は「思弁的実在論を中心とする思弁的転回の流れは、この10年ほどの間に思想界に大きなインパクトを及ぼしつつある」と述べます。

小川の認識では思弁的転回は現在進行形という書き方になっています。

しかし、千葉の論考ではそのように書かれていません。

 

二〇一〇年頃に頂点を迎えたSR(注:思弁的実在論のこと)のブームは、その後だいぶ沈静化したとはいえ、現在もさまざまな方面に影響を及ぼし続けている。

 

思想界ではもうピークを過ぎた、というのが千葉の認識です。

もし小川が現在進行形の現象として書きたいのなら、「日本の思想界に」と書かなくてはいけないと思います。

まあ、温情深い読者の皆様は、この程度は目くじらをたてるほどではないと思うかもしれません。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の説明も首をひねりたいところがあります。

小川がガブリエルの「新しい実在論」を説明するために引用したヴェズーヴィオ山の箇所は、

本文294ページ中の15ページ目の部分で、それこそ登山なら登り始めもいいところです。

そのため、ガブリエルの実在論に欠かせない「対象領域」の話も出てきません。

この人は本当に最後までこの本を読んだのか、と疑問を感じずにはいられませんでした。

 

小川は思弁的実在論を「人間をまったく無化してしまうような、異質な公共哲学である」と述べています。

「いわば非−人間中心主義の公共哲学」などとも書くのですが、

小川は「私」と社会をつなぐのが公共哲学だと言っていたはずです。

(だいたい思弁的実在論が公共哲学なわけがないだろうに)

本書200ページでも「私が主役に躍り出る日」と見出しをつけて、

「各々の非理性的な部分を克服していく必要がある。それができて初めて、理性は強靭なものとなるのだ」

などとも書いているのです。

 

人間不在の世界に「私」どころか社会も公共性もあるわけがありませんし、

明らかに理性批判をしている思弁的実在論を批判しないで、どうやって「非理性的な部分を克服する」ことになるのか意味がわかりません。

こういう矛盾を放置できてしまう態度をされると、何も理解できずにただ凡庸なことを言っているだけとしか思えません。

思弁的実在論などの流行に媚びて「非−人間中心主義の公共哲学」などという語義矛盾もいいところの言葉を平然と垂れ流す人物の知性など、

どうして信用することができるものでしょうか。

ただあちらこちらに適当にいい顔をして、商売をしたいだけとしか僕には思えません。

 

まだまだありますよ。

小川は千葉が思弁的実在論を「不気味でないもの」と言い表したことを紹介し、

 

わかりやすくいうと、不気味の反対語が親密なものだとすると、近代以前の私たちに馴染みのある思想は親密なものだといえる。ところが、思弁的実在論以前のポスト構造主義と呼ばれる現代思想は、馴染みの思想の外部にある不気味なものだったのだ。したがって、さらにその不気味なものの外部としての思弁的実在論は、不気味ではないものと形容できるというわけである。

 

などと述べているのですが、

このような「読み間違い」は、この人が本当に学者なのか疑いたくなるほどにずさんです。

まず、千葉は思弁的実在論を「不気味でないもの」とは書いていません。

思弁的実在論が示そうとしている「外部」のことを「不気味でないもの」としています。

「外部」が脱落しているのはずさんだと思うんですよね。

また、小川はその「不気味でないもの」を「親密なもの」と考え、まるで思弁的実在論が近代以前の哲学に回帰するように捉えていますが、

それは誤読もいいところです。

 

小川の書き方だと、ポスト構造主義の外部に思弁的実在論があることになっています。

もちろん、ポスト構造主義のG・ドゥルーズ研究者である千葉がそんなことを言うはずがありません。

小川が引用した論考で、実は千葉はこう書いています。

 

ポスト構造主義は外部性の思考だった。しかしその外部性の脅威は、せいぜい「不気味なもの」だった。だがいまや問題は、我々を、不気味にでも何でもなく圧倒する力なのである。

 

我々を「圧倒する力」が「親密なもの」であるはずはありません。

小川は「千葉の意味するところとは異なるが」と書いてはいますが、

これだけ逆方向に解釈するのであれば、千葉の論に乗っかって書くのはおかしいですし、

まるっきり逆方向に欺瞞的な解釈をするくらいなら、きちんと批判をすべきです。

流行に対して適当にいい顔をして公共性が成り立たない領域まで公共哲学にしてしまう。

いくら具体的なヴィジョンを示さない抽象論とはいえ、何でも「新しい公共哲学」だと言って取り込んでしまうのでは、

すべてを「我が神の思し召し」としてしまう新興宗教と変わりありません。

小川は宗教的な再魔術化を乗り越えるべき問題として提示してはいますが、

その再魔術化を利用しているのは、他ならぬ小川自身だと感じます。

 

また、千葉はポスト構造主義の「外部性」を「不気味なもの」としているのであって、

小川が言うような、近代以前の思想の外部にあるのがポスト構造主義であり、

その外部が思弁的実在論であるなどという同心円状の構造など、千葉は全く描いていません。

千葉はポスト構造主義の外部性と思弁的実在論が扱う外部の話をしているだけなのです。

この程度の理解力で地方大学の准教授になれるというのは僕には新鮮な発見でした。

 

他にも言っておきたいことがあります。

小川はM・ウエルベックの小説『服従』についてこのような紹介をしています。

 

『服従』という小説をご存知だろうか? フランスの作家ミシェル・ウエルベックによるベストセラー小説で、なんとフランスにイスラム系の大統領が誕生し、国民がイスラムに改宗させられるというストーリーだ。なぜこれがベストセラーになったかというと、この本の出版当日を狙って、イスラム過激派がパリの新聞社を襲った、あの「シャルリー・エブド襲撃事件」が起きたからである。

 

ハッキリ言って嘘八百の内容です。

まず、『服従』ではイスラム政権が誕生しますが、連立によって成立しているので、独裁ではありません。

当然国民はイスラム教に改宗させられたりはしていません。

主人公が自分の意志でイスラム教に改宗するという話です。

(国民が改宗させられる話なら、ラストに主人公が自ら改宗を選ぶインパクトが台無しです)

『服従』という小説をご存知だろうか? とは、こちらが小川に尋ねたい言葉です。

また、この小説がベストセラーになった理由が「シャルリー・エブド事件」にあったとは言い切れません。

ウエルベックは『服従』の前作『地図と領土』の時点でゴンクール賞を受賞している人気作家です。

さらに疑わしいのは、テロが「この本の出版当日を狙って」起こったという記述です。

ざっとネットで検索してもひとつも出会わない解釈なのですが、『服従』の出版当日を狙ったということにソースはあるのでしょうか?

浅田彰はコラムで「偶然」と書いています。

 

このようなずさんな記述をする人の思想が緻密なはずがありません。

たとえば小川の「感情」の捉え方が完全に多様性を捨象しているところや、

シェアリング・エコノミーが「資本主義をも凌駕しようとしている」などという見方などひどいものです。

シェアと言うから良いように見えますが、要するにネットを介したマッチングサービスのことでしょう。

マッチングをする連中が利潤を吸い上げるサービスなのに、どうして資本主義を超えるのか意味がわかりません。

ネットには料金がかからないとでも思っているのでしょうか。

このようなシェアリング・エコノミーに対する過剰な期待は小川だけでなく、いろいろな人が言っているようなのですが、

まったく流行に魂を売る人間というのは呆れるしかありません。

 

カバーの折り込みに、小川が商店街で「哲学カフェ」を主宰する、とありますが、

カフェで語るような適当な感覚で本を書いてはいけません。

本とはそんな甘いものではないのです。

僕は二度と小川の本を読むつもりはありませんが、

小川はトピックの新しさを追い求めて内容をいい加減にしないように、自戒するべきだと言っておきます。

 

 

 

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