「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

  • 2018.02.08 Thursday
  • 23:45

「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

 

   ⭐⭐

   必要なのはロマン主義でしかない思想の「総反省」ではないか

 

 

昨年こそ「トランプ以後の世界」特集でしたが、今年は定番の新春特集が復活しました。

どうせなら来春は「現代思想の総反省」という特集を期待します。

 

近代の日本人にとって、西洋思想は近代文学と深い関係を持ってきました。

ヨーロッパでは神学と哲学に深い関わりがありましたが、

日本では文学と哲学に深い関わりがあったことは、本号に登場している柄谷行人が文芸批評家であったことにも現れています。

 

その柄谷もどこかで書いていたはずですが、日本近代文学の出発はロマン主義の受容から始まりました。

僕はロマン主義を「現実からの逃避、ここではないどこかへの憧憬」という意味で使っているのですが、

自然主義以降の近代文学にもロマン主義の影は消えず、三島由紀夫や村上春樹までそう言うことができます。

その影響が思想に現れないはずがありません。

現代思想と言うと、日本ではなぜ〈フランス現代思想〉ばかりがアカデミズムの外に波及するのでしょうか?

その答は〈フランス現代思想〉がひとえにロマン主義的であるからです。

日本人はロマン主義が好きだから、合理論にも経験論にもそれほど興味を示そうとしないのです。

 

しかし近代文学はものの見事に滅びました。

ロマン主義が求められるだけなら、よりロマン主義的色彩の強いサブカルチャーで足りるからです。

しかし、サブカルには学問的、思想的意義が欠けていることは言うまでもありません。

その影響が現代思想に及ばないわけにはいかないでしょう。

ロマン主義的でしかない現代思想には、もうサブカル以上の価値はありません。

柄谷が文学批評を捨てて、経済的な「交換様式」の問題に集中したのは、そのようなロマン主義に嫌気がさしたからではないでしょうか。

 

今の我が国の首相は疑いようのないロマン主義者です。

(保守とか言っている人のほとんどは、バブル時代への憧憬を抱いたロマン主義者ではないでしょうか)

〈俗流フランス現代思想〉やその延長にある「思弁的実在論」というロマン主義は、

彼らと歩調を合わせた同時代的現象であり、時代と同衾したい連中の「思想のための思想」でしかありません。

 

日本人の内面はロマン主義的ではあるものの、実社会の経済はアングロサクソン的文化が支配的です。

そのため、実社会で働くときは合理的・経験的なふるまいを強要され、

そうして傷ついたロマン主義的内面を、プライベートなロマン主義の摂取によって癒しているのです。

そういう公私の二面性が極端なのが日本人だと思います。

(そして実社会で経済的に得るところが少なくなると、

「タテマエ」をありがたがる意味がなくなるためロマン主義が「ホンネ」として表面化するのです)

つまり、ロマン主義とは日本人にとっての癒しなのです。

〈俗流フランス現代思想〉や思弁的実在論などは、サブカルやSNSと同様の私的領域での癒しとしてしか機能していません。

そして、そういう「タテマエ」的実社会で我慢することなく、

趣味領域を満喫したロマン主義で商売をしている者を、思想界のヒーローのように扱うのです。

(彼らが往々にして実社会で通用しない人間性の持ち主なのは、その意味では必然なのです)

日本の悪しき社会構造を考えもしないで、それに乗っかって商売している人が、意味のある思想などできるはずがありません。

 

経済の衰退局面でロマン主義が政治化すると、癒しでしかなかったロマン主義思想がそれと結託して調子に乗り始めます。

直視したくない現実からメタ的に離脱することが正義であるかのように語り始めます。

そうやって現実を見失うことは非常に危険なことです。

現実の問題と格闘せずに、そこから「逃走」するためにフィクショナルな方向に全力で舵を切るようになるのです。

(人間不在の領域が重要とか言っている思想が表に出て、それが悪利用されたら彼らは責任を取るのでしょうか)

そんな今だからこそ、思想を癒し目的の商売道具にしている連中から、真に必要とする者の手に取り戻すべきだと僕は思っています。

 

本号はなかなか読み応えがありましたが、

多くは読んでも害しか思い当たらない「思弁的実在論」関連に偏った記事だったのでウンザリでした。

それでも養老孟司のインタビューは自分自身の考えを話しているという点でおもしろく読めましたし、

柄谷行人がSNSは「地域」が欠けているという点で、アソシエーションとは無縁だ、

とネットコミュニティをキッパリと否定したことにも首肯できます。

柄谷はSNSが排外主義、ポピュリズム、怨恨の連帯を生み出す、商品交換的な空疎な関係だとしています。

しかし、それより下の世代は総じてロマン主義的で思想としての内容がないものを書いていると感じました。

 

まず、中沢新一の書き物ですが、こういうつまらない「思想遊戯」をいつまでやるのか、とウンザリします。

中沢は映画『メッセージ』の中でエイリアンが非線形言語を用いて、

因果律にとらわれず直感的にコミュニケーションをするという設定を紹介し、それが人間の心の中にも実在しているとし、それを「レンマ的知性」と名づけます。

例によってナーガールジュナを持ち出したあと、『華厳経』の縁起論とライプニッツ思想が酷似していることが指摘されてきた、と述べます。

過去に誰かが指摘したからといって、それが正しいとは限らないのですが、

とりあえず引用元があれば定説のように扱って良いという作法はどうなのでしょうか。

そのあげく、着地するのは結局量子論だったりします。

 

量子論に詳しい方はもうお気づきのように、我々が縁起論的数による算術の規則を導き出した道筋は、量子論の幼年期にハイゼンベルグが「マトリックス力学」を導き出した推論の道筋と、瓜ふたつなのである。

 

じゃあ、最初から量子論の紹介でいいではないか、という感じです。

「量子論の根底に、レンマ的=縁起論的な思考が横たわっているからである」と中沢は述べていますが、

量子論は縁起論など一瞥だにしないのが現実です。

むしろ、縁起論が量子論に寄りかかって生き残りを図っているだけなのは誰にでもわかります。

因果思考の外部を目指したはずの論考が、量子論に着地して終わることで、結局は科学の外部には出られもしないわけです。

こんな仏教の使い方は遊戯的すぎますし、読んでいて不愉快でしかありません。

 

こんな中沢の思想遊戯はアジア人の癒し以外に何の役に立つのでしょう?

西洋思想の外部のものを参照しつつ、結局は西洋思想の枠内にとどまろうとする彼の思想は、

僕にとっては京都学派的な西洋コンプレックスの裏返し(つまりはアジア回帰)という茶番の繰り返し以外の何物でもないのですが、

一度くらい本気で西洋思想と喧嘩してみたらどうでしょうか。

まあ、できっこないでしょうけど。

 

千葉雅也の思弁的実在論の10年をまとめた論考は、

事実関係をまとめた前半部は非常に明晰でいい読み物でした。

こういう非創造的仕事には向いていますし、能力も感じるのですが、

後半になって自説を語り始めると、彼の知性を疑うしかないような、どうしようもなく怪しげなことを言い始めます。

つまらない自我による勘違いをやめて、自分の適性を早く知った方が彼のためだと思います。

 

千葉は思弁的実在論(SR)が示そうとする「外部」について書いているのですが、

理論の展開が緻密でないため、いくつか恣意的な飛躍があってよくわからないところがあります。

たとえば、メイヤスーが相関主義による世界の必然性を否定したからといって、

どうして世界の外部がハイパーカオスであるという前提で話が進むのかがよくわかりません。

変化可能性はあくまで可能性のはずです。

その変化可能性が現実化しなくては、外部にハイパーカオスがあることも現実化しないのではないでしょうか。

世界の外部はハイパーカオスかもしれない、という仮定の話を持ち出しただけで、

それが実効的に力を持つかのように語るのは、あまりに能天気もしくは遊戯的なのではないでしょうか。

 

また、千葉はクラインの壺モデルを否定神学と名指しして、SR的外部は否定神学システムの外部だとします。

まず先に言っておきますが、僕は否定神学を仮想敵とするやり方は「現実逃避」だと思っています。

千葉はクラインの壺モデルをなぜか相関主義へと置き換えていますが、

浅田彰がクラインの壺モデルを持ち出したのは、貨幣の循環運動による一元化=資本主義を象徴する意図があったはずです。

いつの間にクラインの壺モデルが相関主義を表すものになってしまったのでしょう?

ここには千葉の詐術があります。

 

消費社会のプードルちゃんである千葉には資本主義批判ができません。

そのため、否定神学という誰のリアリティにも着地しない浮遊した用語を用いて、

(そもそも日本とキリスト教神学はほとんど無関係です)

本来は資本主義を仮想敵にしていたドゥルーズなどのフランス現代思想を、恣意的に歪めて消費資本主義万歳の〈俗流フランス現代思想〉へとすり替えているのです。

こうして自分の思想的テーマの欠如をごまかし、何かと戦っているようなポーズだけをしています。

こういうことにすぐ騙される読者が「現代思想」を支えているのでしょうが、もっと知性を働かせてほしいものです。

 

また、千葉は人間の外にあるSR的外部とはクラインの壺のさらに外部であるとします。

はたして実際にそうなるのかはきわめて怪しいと思うのですが、

かりにそうだとしても、次に引用する千葉の文は納得しがたいものがあります。

 

日本現代思想の観点から言えば、SRは、クラインの壺モデル=否定神学システムを破壊しうるその外部を哲学の俎上に載せているのだと言える。

 

外部に存在するからといって、「破壊しうる」と言えるのでしょうか。

むしろアクセス不能な外部なのですから、破壊など不可能なのではないでしょうか。

こういう現実性のカケラもないことを語るのは詐術でしかありません。

いくら「しうる」という可能性を示しただけと言い訳しても飛躍が過ぎます。

これは自分の関係した思想を過剰に有効なものと宣伝したいという意図でしかなく、

前々から指摘していることですが、千葉が思想と宣伝の区別もつかない人間であることをさらに示しただけと言えます。

 

現実世界の外部を求めて、人間のアクセス不能な「実在」を求め、それによって現行システムの破壊を語ることは、

もはやロマン主義以外の何物でもないと思います。

だいたい、思弁的なくせに実在論などというのはそれだけで詐術です。

要するに「但し書き」をするだけの思想なのですから。

人間がアクセスできないのに、どうして我々がその存在を理解できるのでしょうか?

対象は実在する、ただし我々はそれを感知できない、と「但し書き」をすることしか方法がありません。

これはつまるところ「設定」のようなものです。

舞台上に君は幽霊役で実在する、ただしみんなからは見えないことになっている、というようなものです。

実質上は設定上の「お約束」でしかないものを、思想とか哲学とかカッコつけても、

そんなものは狭い内輪の中でしか通用しないのは目に見えています。

「但し書き」に現行システムを破壊する力などあるはずがありません。

世間知らずの夢物語もいいところです。

 

もうひとつ、思弁的実在論の由々しき問題は、ハイデガー思想の焼き直しになるという点です。

たとえば千葉はこんなことを書いています。

 

我々は、心、意味に無関係な外部、とりわけ物質により、圧倒的なナンセンスに規定されている。

 

SRからは次のような意味での「ラディカルな有限性」を抽出することができる──無関係な=無意味な外部によって最終的に規定されてしまっているという有限性、あるいは「一方向的unilateral」な(相関的でない)ままならなさ、である。

 

我々にとって無意味な外部とは死のことだ、と言ってしまえば、

物質である身体の死によって規定されている有限性とは、ハイデガーの死の本来性による生のあり方とそう変わらなくなります。

支配的な思想に単にアンチを唱えるだけでは、悪魔を呼び寄せることになるかもしれません。

ハイデガー思想の問題点を勉強したことがあるならば、人間にとって絶対的な他者を持ち出すことの危険性も理解できそうなものです。

 

たとえば星野太のユージーン・サッカー論にもすでに危険の兆候は現れています。

 星野はサッカーの描く「暗き生」が、我々に知解不可能なままに思考を追い詰めるものだと述べ、

それが「「意味、目的、可能性の滅却」を通じてのみ知解可能になる」としています。

これは用心深くならなければ死への志向と近いもの、もしくは生と死の区別がない領域として受け取れます。

 

このように、思想が死の近辺に行きたがるのは、外部を目指すことが思想だという発想から抜けられないからです。

いつから思想とは「メタに立つこと」の謂になってしまったのでしょう。

メジャーな思想に反対して目立ちたい、という助平心が、それを利用して「メタに立つ」だけの駄論を量産しているように見えます。

僕が現代思想に総反省を提案するのは、もうこのやり方がとっくに限界にきているからにほかなりません。

 

批判ばかりを書きましたが、本誌のいいところを言いますと、

ラボリア・クーボニクスの「ゼノフェミニズム」は非常に面白かったです。

ジェンダーが女性的なものに偏っている、という指摘はもっともです。

ルーベン・ハーシュのアラン・バディウ批判も刺激的でした。

バディウはリアリティを整列集合に一次元的に還元しているが、

それこそ資本の統治によって価格が一次元的に格付けをすることに類似しているという指摘は、

非常にやるべき仕事をやっているという気持ちになりました。

日本の思想商売人はすぐ西洋を権威化するので、こういう視点に欠けています。

 

書き忘れましたが、大澤真幸の思弁的実在論を社会学の前段階に位置付けるやり方はセコいと思いました。

大澤は以前この雑誌でメイヤスーを批判していたはずですが、批判でなく無効化して社会学をアゲるのに使うのは、

巧妙と言えば巧妙ですが、やっぱりセコいのでやめてほしかったです。

 

 

 

評価:
養老孟司,柄谷行人,中沢新一,大澤真幸,千葉雅也,信田さよ子,松本卓也,グレアム・ハーマン,マルクス・ガブリエル,ニック・スルニチェク,エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ,汪暉,野村泰紀
青土社
¥ 1,620
(2017-12-27)

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