「俳句 30年2月号」 (角川書店)

  • 2018.02.01 Thursday
  • 15:21

「俳句 30年2月号」  (角川書店)

 

 

   ⭐⭐

   周回遅れの「ソーカル事件」を後押しする編集部の勉強不足

 

 

今号の大特集は「高野素十と写生」です。

特に「写生」が表紙に大きな文字で強調されています。

その特集には「5人の論客による評論」というものがあるのですが、

その人選が偏っているだけでなく、俳句そのものを軽視したような論があるため、雑誌の品格が失われることを僕は危惧します。

 

偏っているというのは、四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、

若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物であるということです。

サブカル俳句の彼らが俳句の伝統である「写生」を語るのにふさわしい人材でないことは、

読む前からわかることですが、角川の編集者はどのような意図で彼らを起用しているのでしょう。

 

たしかに写生を語らせることに岸本尚毅という人選は適格であることは疑いありませんが、

彼が四ツ谷龍とともに田中裕明賞の審査員としてサブカル的なファッション俳句を応援してきた人物であることも忘れてはいけません。

青木亮人にいたっては俳句の研究者としての実績はよくわかりませんし、

僕が彼の著書を読んだ限りでは月並俳諧の研究者だったはずなので、

ポップな句を語るのはわかるのですが、写生を語らせるのに適任だとは思えません。

僕にはサブカル俳句の隆盛に乗っかっただけの寄生虫的存在という印象の方が強い人物です。

5人中の少なくとも3人が写生と程遠い偏った色のついた人物であるこということが、

最近の流行りの傾向に乗りたいだけの浅いあっさ〜い編集者の学識のない発想を窺わせます。

 

僕が問題にするのは2点です。

特に四ツ谷龍と関悦史の二人に関してなのですが、彼らは「写生」に対して最初から偏見を持つ人間なので、

特集の執筆者としてふさわしくないということです。

それは本号の論考を検討すれば確認できます。

 

もう一つは四ツ谷龍と関悦史が周回遅れのポストモダン的発想を俳句に持ち込んでいることです。

これがただ時代遅れというだけなら冷笑するだけで良いのですが、

ポストモダン思想家たちが不適切に理系知識を濫用していたことを暴露したアラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』にあるような、

俳句に怪しげな理系的言説を持ち込む四ツ谷と関の欺瞞に満ちた論考を、

角川俳句の編集部が「論客」扱いで取り上げている破廉恥さが問題です。

伝統ある俳句界がすでに言い古された「ソーカル事件」を繰り返すのは、勉強不足すぎて見ていられません。

 

本論に入る前に、四ツ谷龍という人物を理解するために、彼の「品のない行為」について書いておかねばなりません。

前述したように四ツ谷はふらんす堂が主催する田中裕明賞という俳句賞の審査員の一人なのですが、

自分が受賞を後押しした句集(関悦史『六〇億本の回転する曲がった棒』や鴇田智也『凧と円柱』)に、

批判的なレビューが掲載されると、自ら匿名の「裏アカウント」を使って、カスタマーでもないのに反論(というか攻撃)のレビューを載せました。

賞の審査員自身が商品レビューの欄で、それも匿名を用いて批判者を攻撃するという行為は、

著しく「品のない行為」であることは間違いありません。

(Amazonはこういうステルスマーケティングに該当するレビューはガイドラインで禁止しています)

バレなければ「品のない行為」でも行っていいのだ、という価値観はいかがなものかと思います。

こういう人物を審査員として起用し続けているふらんす堂にも、品格を求める人々の声を届かせる必要があると思っています。

 

田中裕明賞の審査過程を読んだ人ならおわかりでしょうが、

四ツ谷は自分の考えを絶対視し、他の審査員の意見を聞かない専制的な態度をしています。

今回の高野素十の論でも同様の態度が目につくのですが、四ツ谷龍という人物を知らない人は読み流してしまうことでしょう。

そのため、先に彼がいかに「品のない行為」を行う自己中心的な人物であるかを示す必要がありました。

 

さて、四ツ谷龍の論ですが、「素十俳句は客観写生とは言えない」の題でもわかるとおり写生的な読みを「否定する」内容でした。

ポイントは「否定する」というところにあります。

客観写生と言えない面を持っている、という穏当な主張ではないのです。

そのラディカルさがはたした妥当なのか、それとも専制的態度の現れなのかが問題にされなくてはいけません。

 

文頭に素十は客観写生の手法で句を作っていたと「本人もそれを公言していた」と四ツ谷は述べています。

そして四ツ谷は「客観写生」を「事実そのまま述べたもの」だと定義し、

写生の例とする中村草田男の句と素十の句を並べて評していきます。

 

 そら豆の花の黒き目数知れず    草田男

 甘草の芽のとびとびのひとならび  素十

 

などの句を比較して、対象の特徴が的確に描かれている草田男の句を「事実を忠実になぞる作風」とします。

それに対し、芽のかたちが具体的に描かれていない素十の句はそうでないと言うのです。

しかし、これでは詳細に観察していなければ「客観写生」ではないということになってしまいます。

 

 秋風や脛で薪を折る嫗       草田男

 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴   素十

 

これらの句を取り上げた四ツ谷は、

草田男の句では「作者が実際に経験した一回限りの事実が、ありありと再現されている」のに対し、

素十は明日も明後日も去年も来年も起こりうる出来事だと述べます。

しかし、老女が脛で薪を割るのは本当に一回限りの出来事なのでしょうか?

去年も来年もそのようなことはしないのでしょうか?

 

それ以上に問題なのは、素十がいつでも繰り返される鈴の音を詠んでいるという解釈です。

たしかに鈴はいつでも鳴るわけですが、素十が俳句として詠んだ時の音は「一回限り」のものとして、

自分自身に迫ってくる「アウラ」として感じられたものではないでしょうか。

芭蕉も蛙が古池に飛び込む音を「一回限り」のものとして聞いていると思います。

こんなこともわからない四ツ谷には根本的に詩的センスが欠けているのではないかと疑念を持たざるをえません。

 

自分の論に都合のいい句を選んできて語っているにもかかわらず、

にわかに納得できない説明では強弁に聞こえても仕方ありません。

そのため、四ツ谷の「客観写生」に対する認識についても問われる必要があると僕は思っています。

「事実をそのまま述べたもの」がはたして「客観写生」なのでしょうか?

それなら雑誌でわざわざ特集する価値もない、誰にでもすぐにできるものになってしまうのではないでしょうか。

 

すでに論の信憑性がかなり欠けているにもかかわらず、四ツ谷はさらに奇妙なことを言いだします。

「素十の句には数字がひんぱんに表れる」ことを指摘し、

数字の扱いが様式的であるため「素十の感覚はいかにもデジタル的だ」という結論を導きます。

数字だけを取り出して考えれば様式的になるのは当たり前ですし、

それだけで素十がデジタル的感覚だとは、まあ、ずいぶんと粗い論だと思いますが、

こういう中身は怪しいだけなのに理系ぶったことを言うのが、前述したポストモダンの犯した誤りソックリなのです。

四ツ谷は俳句と数学を結びつけたがっているのですが、

そういう詐欺じみた「思考遊戯」が、実は文学的でも詩的でもなく、

詩の創作能力に欠けた理屈人間のルサンチマンであることは、ある程度詩に感動したことのある人間ならわかるはずです。

 

少なくとも私が今日素十から強い影響を受けているとすれば、それは対象を写生する手法を習得しているわけではなく、対象を様式的に処理する手続きを彼から学んでいると言ったほうが実際に近いところだ。

 

このような四ツ谷の言に示されているとおり、彼は写生にそもそも興味がないのです。

ハナから写生に興味のない人に写生特集の原稿を依頼した編集者の考えを聞いてみたくなる一文です。

おまけに、「影響を受けているとすれば」と仮定になっているので、実際には素十の影響を受けていないのかもしれないのです。

こうなると、単に自分の考えだけを語る内容になるのは必然ではないでしょうか。

 

結果、素十の句が「方法論としては写実とも客観主義とも、大きく離れたものと言わざるをえないであろう」と論をしめくくるのですが、

そう「言わざるをえない」のは四ツ谷自身がそういう考えに凝り固まっているからでしかありません。

四ツ谷は田中裕明賞の選考で「これまでの俳句と違うものを作る」ことを「倫理的」と表現したように、

花鳥諷詠、客観写生を重視するホトトギス的な俳句を敵視することが「詩的」であると短絡している人物です。

この論考は高野素十論ということになっていますが、四ツ谷は対象である素十俳句を「歪曲」し、

単に自説を開陳する場に変えてしまっています。

このように作品自体より自らのエスタブリッシュメントを優先する人間を、僕は反文学的態度として糾弾します。

もう賢明な読者の方々にはご理解いただけると思いますが、

四ツ谷が「素十俳句は客観写生とは言えない」と写生の否定にまで至る必要があったのは、

俳句鑑賞によって到達した結論がそうだからではなく、単に自らの欲望を表明することを抑制できないからなのです。

僕はこういうものを「素十論」と称することにも抵抗があるのですが、

「論客」扱いをして平気で掲載する角川俳句の編集者の読解能力にも疑問を感じずにはいられません。

 

関の論考も仲良しの四ツ谷と呼応するように、自分でも使いこなせていない理系的な意匠によって論を進めています。

関も「写生」が何であるかはよく理解していないようで、

 

 くもの糸一すぢよぎる百合の前

 桔梗の花の中よりくもの糸

 

などの句を取り上げ、素十の関心はピンと張った糸の「力学的緊張」だとか言い始めます。

「ナントカ的」と観念を振り回すのは関の得意技ですが、

写生というテーマで観念しか持ち出せない引き出しの少なさには哀れさを感じます。

まあ、糸なんてピンと張るでしょうから、「力学的緊張」なんて呼ぶ必要もないのですが、

そういう衒学的用語を使わずにはいられないのがソーカルの指摘する「知」の欺瞞なのです。

欺瞞にまみれた解釈は四ツ谷も挙げた素十の代表句にも及びます。

 

 甘草の芽のとびとびのひとならび

 

この句について関はこんなことを書いています。

 

〈とびとびのひとならび〉とは、直線状に配列されたグラフのなかの点にほかならず、素十の眼はその配列に、非実在の「糸」の存在を見て取っている。素十の句に特有の、奇妙に乾いた清潔な抽象性はここに由来するものである。

 

こうやって関は素十の句を写生から程遠い「抽象性」へと「歪曲」した上に、

「重く湿った人間的な感動といったものにはさほど関心を示さず」

「力学的な事件が発生する現場のみを拾っているのである」と結論します。

俳句に関して好き勝手なことを言っていい、というのでなければ、

関の解釈は詐術にまみれていて、説得力のカケラもないと言わなければなりません。

きちんと頭脳を働かせて読んでいただければ理解できると思いますが、

「とびとびの芽」がどうして「グラフのなかの点にほかならず」なのでしょうか?

何を根拠として「グラフ」が出てきたのでしょう?

ただ「点にほかならず」と言うのならわかりますが、「グラフのなかの」と書くところに詐術があるのです。

なぜなら、「グラフ」を先に持ち出さなければ、点を糸に転換することができないからです。

 

こういう自説のために俳句作品を奉仕させるような論考は、

俳句に対して不遜であるというより、本当は俳句なんて好きではないのではないか、という疑念すら浮かびます。

もしそうでないなら、関悦史はつまらない自我など抑制して、もっと作品に対して謙虚に向き合うべきでしょう。

もう一度言いますが、先に「グラフ」と書いて直線のイメージに読者を誘導しているから、

素十が「非実在の「糸」の存在を見て取っている」などという暴論が論理的であるように感じるのです。

関悦史は自作の俳句でも、先に外部文脈を自分で設定して、それを参照するかたちで散文脈の俳句を作るのを得意としていますが、

論考も俳句も同様の散文でしかない関は、どちらにも同様の手口を使うので注意が必要です。

 

また、「重く湿った人間的な感動」に関心を示さないのは、

素十俳句の特徴ではなく、すべて俳句自体の特徴です。

多くの句に当てはまることを素十の句の特徴のように語るのは、何も語ってないのと変わりません。

前から思っていることですが、関悦史は低レベルの人にしか通用しないつまらない(レ)トリックではなく、

自分の知性とつりあう誠実な内容の文章を書くべきです。

 

「力学的な事件が発生する現場のみを拾っている」などと言って、

俳句を「人間不在」の領域にしようという欲望には、現代思想(の一部)で流行と目されている思弁的実在論の影響を感じます。

非論理的な詐術であるため、自分が知的な存在であることをアピールしたい、という関の自己都合ばかりが前景化し、

素十の俳句そのものとは全く関係がない次元の文章になっています。

死に体のポストモダン概念でも免疫のない俳句界でなら通用するだろう、という生半可な精神は、

フランスの詐欺師が日本人なら簡単に騙せるだろう、と考えている態度とそう変わりはありません。

 

もうお里が知れたので、先を読むのはやめますが、

ちらっと見たら、「素十の句は、厳しく人間を排除する絶対的な」(そこからページをめくるのが面倒なので見ませんでした)という文字が目に入りました。

いわんこっちゃない、やはり「人間不在」だと言いたいだけだと思います。

 

こういうものを思想のバックボーンがあってやっていると思っているところに関の知性の程度が知れるのですが、

彼が依拠する現代思想的なものは、実際は思想とは言えない〈俗流フランス現代思想〉という現象でしかありません。

日本の〈俗流フランス現代思想〉は、裏に他者排除を隠し持った「人間嫌い」を肯定するだけの「知的言い訳」として流通しているので、

フランス本国から見れば、中国の「なんちゃってドラえもん」のような現象でしかありません。

 

外部の人間が見れば、関が俳句よりも他のものへの志向を優先しているのは明白です。

(関は俳句の伝統より、すぐ沈静化する思想ブームの方を尊重しているのですから)

俳句界がこういう生半可のくせにインテリぶりたいだけの人を「論客」扱いしているのは、僕には滑稽を通り越して不快です。

こういうことになる原因は、角川俳句の編集部、ひいては俳句界全体の他ジャンルに対する勉強不足にあります。

角川俳句の編集部は今すぐ「ソーカル事件」について勉強し、俳論にいかがわしい理系的言説を持ち込むことに厳しい目を持つ必要があります。

四ツ谷や関が目指しているのは俳句から人間を排除することです。

最終的にはAIを模倣するような俳句を作って、それを新しいとか言い出すのは目に見えています。

(すでに生駒大祐がそういう俳句をやっているように見えるので、今後彼らを中心に生駒を持ち上げるムーブメントが予想できます)

文学や詩が「人間不在」だと言うことに何の意味があるのでしょう?

編集者は四ツ谷や関に論考を書かせるにしても、

その内容が不適切な方向に行かないようにチェックできるだけの教養を持つ必要があると思いますし、

そんなこともできない雑誌が「写生」という伝統の特集を組むこと自体がお笑いだということを自覚するべきでしょう。

 

 

 

 

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