『<世界史>の哲学 東洋篇』 (講談社) 大澤 真幸著

  • 2014.03.08 Saturday
  • 12:18

『<世界史>の哲学 東洋篇』 (講談社)

  大澤 真幸著

 

   ⭐

〈セカイ系〉の哲学

 

 

西洋中心主義者の大澤がインドと中国を考察するということで、
嫌な予感はしていましたが、学問をやっていた人とは思えない乱暴な内容です。

最初に読者に謎を提示して、それに対する仮説を導き、
恣意的なテキストの読解を通して、いつの間にか仮説が証明されたことになっている、
そんないつもの手口です。

まず違和感があるのは、
大澤にとって東洋は西洋のネガでしかないということです。
ユダヤキリスト教と違うという点でしか問題になっていないのです。

総じて大澤の議論は資本主義決定論に思えるのですが、
インドと中国にはそれが通じないので、
柄谷行人に乗っかって、「贈与の原理」を持ち出します。

贈与は西洋にもあるはずですが、
前の二巻では考察される気配もなかったので、
途中で贈与論に多くページが割かれます。(ほぼ1/4は贈与論)
なんとも場当たり的な印象です。

贈与の関係の中で生じる余剰の第三者が、
大澤得意の「第三者の審級」を形成し、それが中国の皇帝だとするのですが、
贈与の第三者は水平的な円環構造を形成する原因になっても、
それだけで階級的な王と臣下の関係が成立する必然性になりません。
その転換を大澤は「ひねりが加わる」と言ってすませてしまうのです。

また、贈与の関係の中からすべて皇帝が生まれるかというと、
むしろ少数派もいいところで、多数は円環構造にとどまっているはずです。
大澤の説明では、その分かれ目は「偶然」だといいます。
都合が悪いところはホントに適当ですね(笑)

ちなみに贈与の関係から皇帝が誕生するメカニズムを、
大澤は「資本論」の価値形態論と同質のものとして提示するのですが、
皇帝=貨幣という結論が結局は資本主義決定論で大澤らしいと思いました。

大澤の中国観は、中国が古代から一つの帝国をあるべき姿としていて、
始皇帝時代の秦から共産党政権までを同じ視座で捉えたものです。
この「ひとつの中国」という前提は現在の共産党政権から逆照射したもので、
中国の通史において成立するとは思えません。
(このあたりは葛兆光『中国再考』が参考になります)

大澤の「第三者の審級」は超越論なので、
それで中国を説明するためには、中国が「天」の概念による統一帝国でないと困るということでしょう。
おかげで、「天」を皇帝の上位にある超越的概念にせざるをえなくなりました。
じゃあ、中国も一神教じゃん!、という感じです。

その「天」と連動する形で「歴史」があり、
中国人にとって「歴史」は「聖書」であるとか言っちゃいます(苦笑)
僕の記憶では中国の歴史は正史ひとつではなく、
注釈主義も発達していたはずですが、それでも超越的なものになるのでしょうか。

結局、「世界史なんてボクの「第三者の審級」理論で全部説明できるよ」ってことなのでしょう。

僕は大澤の「第三者の審級」は現人神というシステムを説明するのにはいいと思っています。
だからオウム真理教の考察には有効でしたし、近代天皇制の考察にも向いていると思うのです。

でも、大澤はそれをずっと避け続けています。
「東洋篇」と言いながら、日本が入っていないのも関係があると思います。

大澤は超越論的自己となり、メタな位置に立ってゲーム的に世界を解読したいだけなのです。
だから自分の現実に関わる日本近代なんてやりたくないのでしょう。
そんなことをしたら、メタという安全な立ち位置が脅かされてしまうのですから。
西洋中心主義者というより、メタに立ちたい人なんでしょうね。

次回からは題名を「世界史の哲学」ではなく「セカイ系の哲学」に変えた方がいいと思います。

 

 

 

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