『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著

  • 2018.01.29 Monday
  • 11:58

『メイキング・オブ・勉強の哲学』  (文藝春秋)

  千葉 雅也 著

 

   

   ナルシストの自己欺瞞を知るための教科書

 

 

勉強ばかりしてきた東大院卒で立命館大学准教授の千葉雅也が、

なぜかメタ視点の獲得を「勉強」と称した前著『勉強の哲学』が好評だったことに応えて、

「メイキング」として創作の方法論を惜しげもなく明かしたのが本書です。

セールスが好調ならば、それに乗っかってもう一儲けしようというフットワークの軽さは、

さすがファッションリーダー千葉雅也という姿勢で感心します。

 

本書の第一章は東大の駒場キャンパス(凱旋!)で行われた講演会です。

第二章は2017年7月に代官山の蔦屋書店(ファッショナブル!)で佐々木敦(お仲間)と行ったトークイベントです。

第三章は同8月の文春オンラインのインタビューの再構成です。

(これって「章」の使い方がおかしくないですか?)

第四章が本書語り下ろしで、ぶっちゃけ15ページしかありません。

最後に資料編とか言って手書きノートが並んでいます。

『勉強の哲学』程度の本の手書きノート公開にニーズがあると思えちゃうところがいかにも千葉キュンです。

 

千葉キュンだけでなく、SNSに依存した人々のナルシシズムは日に日に肥大化しています。

相手のナルシシズムを高める「いいね!」を連発することが正義となっていて、

ツイッターなどではそんな「挨拶」が横行しています。

このような内輪主義的な欲望のニーズに合う人間が、「セールスだけ」を期待されて出版社に担ぎ出されるのは必然です。

セールスが期待できないハイカルチャーがセールスの期待できるサブカルチャーに擦り寄るのは、

その現象に意義があるからではなく、単に消費資本主義という「欲望機械」の支配下に降った結果でしかありません。

(僕はドゥルーズ=ガタリの敗北を踏まえて、「欲望機械」という語の意味を転倒させています)

つまり、「セールス」を基準としたサブカル化は、世のニーズに合わせたセールス主義という一元評価社会を無批判に肯定しているだけなのです。

その結果、金銭のやりとりによる人間不在評価の空虚さを、内輪の「肉声」によって埋めようとします。

アニメファンが声優(東浩紀がスルーした萌え要素)を偏愛する理由がここにあります。

ツイッターによる「挨拶」を「母なる肉声」と取り違えることで、彼らは今日も自分の空虚さを埋めているのです。

(このようなSNS漬けの連中が、挨拶性を基盤とする俳句をツイッター的な創作として身近に感じるのは必然です。

それについてはまた別の場所で論じることにします)

 

ニューアカに始まる現代思想のファッション化は、本来は反現代思想的な現象なので思想家から批判されるべきものでしかないのですが、

日本で「思想」を商売にしている人は、セールス主義と戦いもしないくせに自分が思想家であるような顔をしています。

「思想家」という「商売」は本質的に「欺瞞」を抱えているのです。

(ソーカル問題などよりこういう現象を「知の欺瞞」と言うべきです)

つまり、ニューアカに始まる日本の〈フランス現代思想〉受容とは欺瞞の歴史にほかなりません。

僕がこれらを〈俗流フランス現代思想〉と揶揄するのはそのためです。

 

千葉雅也はこのような欺瞞を自覚するどころか、言い訳じみた言葉を並べることで肯定しています。

おぼっちゃま育ちの千葉キュンは自己愛にもとづく自己肯定にあふれているので、

通常の人が大人になる過程で手放さないわけにはいかないナルシシズムを保存し、

欺瞞を欺瞞と感じないですませてしまうのです。

なんとなく読むと気づきませんが、本書をよく読めばそのことが確認できるので、そこを見ていきましょう。

 

まず「『勉強の哲学』は大学一・二年生を主な読者として想定しています」と本書の「はじめに」に書いてあります。

『勉強の哲学』ってそんな狭い層に向けた本でしたっけ? と僕は狐につままれた気持ちになりました。

たぶん自著が大学生には評判が良かったので、後からそういう思い込みをしているのでしょう。

そうすることで年配者からの批判を切り捨てたいのだと感じます。

こういう自己愛保存のための「言い訳」を自己の内面ですませることができず、

ツイッターや著書に書くことで既成事実にしようとする千葉キュンの「弱さ」が問題です。

自己の内面の保存に他者の承認を必要とする「弱さ」や「甘え」が、若者世代に支持されている理由の一つだと僕は推測します。

こういう「弱さ」を持つ精神は思想以前のレベルで、孤独と向き合う文学にも適していません。

 

駒場での講演では調子に乗って好き勝手しゃべってます。

千葉は大学の実学志向を問題にし、「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろうという動きの一環に他なりません」として、

 

僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こうした中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。いまの社会の価値観のなかで成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには何よりも勉強することなのです。

 

と結んでいます。

あくまで個人の感想ですが、僕は努力して東大に行く人の多くは社会体制に疑問を感じていない人だと思っています。

そもそも日本の受験問題自体が、「偉い大人」の作成した「正解」に到達することが目的であって、

それ以上に優れた答を許容する余地を持たないものであるからです。

つまり、受験で結果を出すこと自体が既存社会に馴致されることなのです。

「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろう」とするのは社会の本質なので、

それ自体は部分的に甘受せざるをえないことではありますが、

「より従順な主体、言われた通りに動くような人間」の最たるものが官僚であることは疑う余地のないことですし、

その官僚を多数輩出するのが東京大学であることも疑う余地のないことだと思います。

そして、それは以前からの傾向であって、最近の実学志向とはまったく関係ありません。

 

そのようなテクノクラートになることと、「いまの社会の価値観の中で成功したい」と思うことが千葉の中では同じことになっていますが、

この発想こそが東大的だということに注意が必要です。

「いまの社会の価値観の中で成功」するのはベンチャー起業家でも、芸能人でも構わないからです。

つまり、「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」を批判するならば、

官僚になった千葉キュンの同窓生を批判するだけにとどまらず、セールス主義に則った安直な人々全員が批判されるべきであって、

はからずも千葉キュン本人もその中に含まれるということを自覚しておくべきなのです。

 

たいした内容でもない本のセールスを頼りに、このような余計な本まで出しておきながら、

「今の社会の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」を批判できるというのは自己欺瞞としか説明がつきません。

千葉キュンがツイッター名に自己の著作の宣伝をつけて、AKBよろしくヘビーローテーションさせていたことは多くの人が知っていることと思います。

それは自分の本意ではないという千葉キュンの言い訳を信じるにしても、

出版社が求めたら不本意な行為でも従う人が「従順な主体」でしかないことは明らかです。

 

千葉が「僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞い」を「従順化を強いる世の中への抵抗」としていることは許し難い欺瞞と言えます。

実は千葉のツイッターを大学教員としてふさわしくないとして、表立って批判したのは僕です。

『勉強の哲学』のAmazonレビューのコメント欄にあった文章なのですが、

そのレビューがAmazonに不公正な宣伝行為としてなぜか掲載禁止にされているので、今は読めません。

(不公正な宣伝行為はステマを想定したものですが、なぜ僕のレビューがステマ扱いなのか意味がわかりません)

仕方ないのでここに転載させていただきます。

ちょっと長いので、既読の人は読み飛ばしてください。

 


佐野波布一である。

千葉の欺瞞について明確に示しておきたいので、追記を許していただきたい。

再度私が問題にするのは以下の千葉のツイートである。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

Amazonレビューって、まるで勉強していないのに、フランス思想や「ポストモダンっぽさ」が嫌いな人が発言権を得られるはけ口コーナーになっている。レビューを書けば、まるで著者に伍する気分になれるかのようだ。実に安易な承認欲求調達装置。人を甘やかす装置。

午後6:59 · 2017年5月26日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

だいたいこの本はフランスの文脈だけが背景ではない。補論で分析哲学系の話も書いている。要は読んでないんじゃないのか。

午後7:09 · 2017年5月26日

 

大学という温室にいて外のワイルドな世界を知らないナルシストおぼっちゃまは、

Amazonレビューに対し「まるで勉強していない」と言うが、その根拠はまったく示されていない。

そんなに自分が勉強していると思うなら、私の論旨に堂々と反論したらいかがだろうか。

〈フランス現代思想〉が資本主義と共謀し、コード化して流通している現代において、

脱コード化の対象となるべきなのは〈フランス現代思想〉自身ではないのか。

この問いに対する千葉からの有効な回答はない。

(分析哲学を一部加えたくらいで脱コード化できないことは言うまでもない)

レビューの内容に反論をする態度もなく、感情的な「つぶやき」を弄するだけの人間に、

他人を「まるで勉強していない」などと侮辱する資格はない。

論理的反駁もできずに感情的に相手を貶めるのはプロの研究者のすることではない。

 

千葉のツイートの意図を論理的に理解するなら、

自分同様の〈フランス現代思想〉研究仲間にしか批判はさせない、ということになる。

(というか、仲間が本気で批判するはずもないのだが)

このような同質性への強い執着と志向は、

他者性や否定性に価値を置く〈フランス現代思想〉と相容れないものである。

エクリチュールの価値は書いた人間の資質には関係ない。

まして「勉強」しているかどうかという主観的判断には影響されるはずもない。

〈フランス現代思想〉を「まるで勉強していない」のは千葉自身である。

知識として知っていても、自分自身に蓄積されず、ザルのように抜け落ちている。

このような人間にとって知識は「情報」でしかなく、知性を育むことには役立たない。

いつまでも尊大な自意識を持つだけのおぼっちゃまであり続けるしかない。

こんな口先だけの本(ファッション)を礼賛する人間が多いから日本人は田舎者なのである。

 

己を知らない人間は、敵に対して否定的な自画像を投げつける。

「安易な承認欲求調達装置」に甘えたがっているのは他ならぬおぼっちゃま自身のことである。

ツイッターは気に入らない人間をブロックし、自己承認空間を簡単に作ることができる装置である。

勉強をしていようがいまいが著作を褒め上げる感想については嬉々としてリツイートし、

ツイッターで自己承認の王国を築いているのはいったい誰であろう?

自身こそが承認欲求の安易な調達に勤しんでいることに批判の目が向くことはない。

著書のランキングに対するツイートなどにも承認欲求が露骨に現れている。

資本主義の外に立つこともできずに、ドゥルーズから何を学んだというのだろうか。

 

ハッキリ言っておきたいのだが、

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

この本への最大の批判はここにある。

もう一度言う。

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

「まるで勉強していない」と書いてはいるが、本当はAmazonレビュアーなどには「権威がない」と言いたいだけなのだ。

社会的権威のない人間ごときが、「出版」をしている権威ある人物に肩を並べた気になって批判するな、

というのが千葉のツイートの真の意図なのである。

 

著作では脱コード化を推奨するかのように書いてはいるが、

千葉自身は現行コードに全くアイロニカルな態度をとることもできず、

むしろ無邪気に現行コードと戯れている無害な権威主義者(つまりはおぼっちゃま)でしかない。

だから旧権力(大学や出版業界)にとっては歓迎されるわけである。

これが受験制度と同じく若者を飼いならすシステムであることに気づきもしないのは、

端的に千葉が社会というものを「まるで勉強していない」からである。

(エリート大学で本書が売れるのは、さもありなん、という感じである)

 

千葉は私のいる土俵に上って反論することはできない。

なぜなら、そこでは彼の方が「勉強していない」ことが明らかになるからである。

そこで現行コードの権威(売れている!)を後ろ盾にして私に対して感情的発言を繰り返すのだが、

現行コードの権威にどっぷり浸かりながら脱コード化を推奨するという

自己矛盾した人間でしかないことに虚しくならないナルシストっぷりには驚かされる。

正直、批判を書いている私の方が千葉と関わることに虚しさを感じている。

それは現在の日本社会のありように対して抱く虚しさとまったく変わらない。

 

さらにおぼっちゃまの侮辱ツイートが増えたので一応載せておく。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視する。プロの書評を読むこと。

午後9:30 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むしかない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知識の基本スキルだと思う。

午後9:33 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されている常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもしれない。

午後9:36 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない。

午後9:37 · 2017年6月6日

 

羞恥心のない人間は哀れだ。

プロの間でAmazonレビューの全無視が常識なら、千葉も無視すればいいのである。

ひたすら固執してレビュアーへの侮辱を繰り返しておきながら、何が常識なのだろう?

低評価レビューはダメで参考になるのは高評価レビューというのが「プロの常識」とは、

低評価レビューはやめてくれ、というおぼっちゃまの本音が丸出しである。

自己弁護と受け取られることを恐れて、自己弁護ではないと否定するのがさらに恥ずかしい。

 

「プロ」「常識」を持ち出し、論理でなく権威で批判者に応じるあたり、

私が指摘した通りの権威に従順なおぼっちゃまであることを物語っている。

「本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない」というのも自己弁護でしかない。

そう言えば自分が反論できないことをごまかすことができる。

 

プロの書評がアテになるというのも資本主義を権威と盲信した結果である。

(ちなみに私はプロの書評の裏側を知ることができる環境で育った者である)

プロの書評は出版社から悪く書かないように要求されることが少なくない。

つまり、プロの「商業的」レビューしか読むな、という主張は、

絶対に批判されない安全な書評しか認めないという、自己を甘やかすナルシシズム精神の現れでしかない。

 

千葉は自著の評価が低いのは、「アホ」が低評価をつけているだけと強弁する。

私はこんなことを言う著者を見たことがない。

前代未聞の「アホ」はいったい誰なのだろうか。

理性的な人ならすぐに理解できるのではなかろうか。

 

著者がこういうツイートを繰り返すことは、

ファンを低評価レビューの批判投票に動員する結果となる。

実際に千葉がこういうツイートをした後には参考にならない投票が増えた。

著書が低評価レビューの投票に介入操作をするのははたして「プロの常識」なのだろうか。

 

千葉は「勉強をしている」ことに一元的な価値を置いて人間を判断しているが、

こういう多様性を抑圧する態度も〈フランス現代思想〉を本当に勉強していたらありえない。

書いている人が勉強をしていようがいまいが、

読者にとってはくだらない本はくだらないのである。

 

千葉は「勉強」という言葉で読者を同質性を持つ相手だけに限定し、それ以外を排除している。

こんな排他的な人物を准教授にしている立命館大学が教育機関として心配になる。

いずれこの大学にも教育者にふさわしい人物について問い質す機会があるだろう。


 

今気づきましたが、上記の千葉の侮辱ツイッターは駒場キャンパスでの講演の翌日だったのですね。

いかに自分ワッショイのイベントの直後で千葉が調子に乗っていたかが想像できます。

千葉の「大学教員らしからぬ振る舞い」が上記の千葉のツイッターであることは、

この講演会を文春オンラインで再構成したのが7月なので間違いないと思うのですが、

問題は、こんなAmazonレビュアーを貶す態度が「従順化を強いる世の中への抵抗」であるのかどうかということです。

実は自分の著書に対する批判を許さない姿勢こそが「従順化を強いる」態度なのではないでしょうか。

セールスを邪魔する存在である低評価レビューは「基本アホ」が書いている、という千葉の主張は、

セールス一元評価社会に逆らうな、という「従順化を強いる」内容だと僕は受け止めました。

(なにしろ内容にかかわらず「低評価」であることが問題とされているのですから)

千葉は自分が社会の価値観にひどく従順であり、大学教員の中では明らかに商業主義に前のめりになって、

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」が丸見えであるにもかかわらず、

自分では「従順化を強いる世の中への抵抗」をしていると思い込んでいるわけです。

僕は千葉が計算ではなく本気で、しかも嘘つきではなく誠実な姿勢でこのように書いていると理解しています。

こんな矛盾した行為に疑問も感じない頭脳は、ナルシシズムによる自己欺瞞にしても、

いくらなんでも貴重すぎるサンプルなのではないでしょうか。

 

より問題なのは、こういうおぼっちゃまの自己欺瞞を承認していく「世の中」の方です。

それこそ僕はそんな世の中に抵抗していきたいのですが、自分で自分を語ることで承認されるのであれば、

くだらない「自分語り」が世の中にあふれかえるのは必然ではないでしょうか。

ここにブログやツイッター文化の成れの果てがあると思います。

「自分語り」に禁欲的になれない人間には、アイロニーもユーモアもないということを早く勉強していただきたいものです。

 

17ページも傑作です。

 

今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは一種の擬態です。実は、自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。(中略)今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに「メタ自己啓発的」な書き方を実験しています。

 

『勉強の哲学』は自己啓発本に見えるかもしれないけど、実は「わざと」であって千葉キュンはメタに立っているのだそうです。

一見そう見えるけど、実は「わざと」だというメタな立場にあるという表明は、

要するに「遊びでやっています」ということと同義です。

パロディというのはそういうことです。

みんな千葉キュンが自己啓発本を全力で書くようなレベルの人間ではないということはわかっていますから、

そんな言い訳じみたことは言わずに、どうか安心してほしいものです。

(なんか大学一、二年生向けに書いたという発言と矛盾している気もしますけどね)

ただ、自己啓発本の体裁(ハッキングでしたっけ?)をしたことでセールスを伸ばしたことは間違いありません。

セールスに関しては自己啓発の恩恵にあずかりながら、僕は自己啓発本をメタ的に研究したのだ、などとわざわざ言われると、

むしろ自分がセールス目的で自己啓発本のスタイルで書いたことを見破られることを恐れているのではないか、と疑ってしまいます。

また、著者が自著の創作意図を押し付けてくるということは、

読者に著書の意図を汲み取ることを求める態度なので、全く文学的態度でもなければ〈フランス現代思想〉的態度でもありません。

繰り返しますが、思想の勉強が必要なのは千葉キュン自身の方です。

 

千葉キュンがドゥルーズに興味を持ったのはインターネットのせいだとも述べているのですが、

この薄っぺらさがたまらないですね。

「リゾーム」が深夜のチャット体験にほかならないと感じた、と書いていますが、

ネットが広まった時点でドゥルーズのリゾーム思想は死んでいます。

ネットが一般化する前に言っていたらから価値があったのであって、ネットが一般化してからのリゾーム概念に思想的価値はありません。

これは正直、千葉キュンの思想的素養の低さを感じてしまうので、言わないでほしかった一言でした。

 

また「僕を変身させた東大の授業」のところも最高でした。

まあ、駒場キャンパスでの講演なので、東大ワッショイは理解できるのですが、

駒場での領域横断的な授業で僕は変わった、というその内容があいかわらず浅いのです。

 

高校の時点ですでにいろいろなことに興味を持っていたとはいえ、基本的にはガリ勉で、恋愛経験もなかった。ハイカルチャー主義で、オタクだった僕を、駒場の勉強は柔らかい人間に変身させてくれました。

 

サブカルチャーとハイカルチャーを自由につなげて、「これが当たり前」という態度で話す。いまではその行き来は当たり前かもしれませんが、九〇年代後半に学生だった僕にとって、それはまさに自己破壊的な経験でした。(中略)デリダやレヴィナスを学びながら同時にポピュラー文化を受け入れられるようになった。ガリ勉を脱して、ストリートの身体を経由し、深い勉強に入っていったのです。

 

さて、クイズです。

上の文章は千葉キュンの自己欺瞞だらけなのですが、どこが自己欺瞞なのでしょうか?

「自己ツッコミ」を奨励しているわりに、千葉キュン自身はちっとも自分にツッコミを入れられないので困りますが、

実際はツッコミどころが満載です。

まず、「自己破壊的な経験」の内容が浅すぎます。

ハイカルチャーが好きだった僕が、サブカルチャーを受け入れたら破壊的な経験ですか?

サブカルチャーを受け入れたら、「ストリートの身体を経由し」たことになるんですか?

だって大学で学んだだけでしょう?

結局ガリ勉体質はそのままで、何も変わっていないと思うのですが。

この程度の経験を「自己破壊」とか言われると、

「勉強とは自己破壊である」という彼の主張がただのカッコつけで、中身がないことがわかってしまいます。

そもそも千葉はこう述べています。

「ハイカルチャー主義で、オタクだった僕」

そう、「オタクだった」のです。

もともとオタクだった人が対象をハイカルチャーからサブカルチャーに広げただけで、自己破壊的になるはずがありません。

このような自己欺瞞を平気で講演会で話す人間を、僕は残念ながら信用する気にはなりません。

ハイカルチャーをオタク的に享受しているだけでは、ハイカルチャーをハイカルチャーとして理解したことになりません。

言うことが浅いにしても大概にしてほしいと思ってしまいます。

ちなみに僕も九〇年代後半に駒場でない大学にいましたが、そこでもサブカルを授業で扱っていました。

 

あと、千葉が自身を「文学的」だとアピールしていることに関しては、

その自己欺瞞のひどさが許し難いので指摘しておきたいと思います。

千葉は「自分自身も文学作品的なものを作ろうと思っているわけなので」などと述べていますが、

博論と『勉強の哲学』程度の著書しかないのに、安直にクリエイターぶる自信はどこからくるのでしょう?

まずは千葉の文学観から見てもらいましょう。

 

文学というのは、言葉を自由に使うことで、常識の枠内で考えているような意味的つながりとか、物語的つながりを壊していくことだと僕は思います。

 

〈俗流フランス現代思想〉の特徴は「意味」を否定することに価値があるという勘違いなのですが、

「壊す」だけでは文学どころか作品自体が成り立つわけがありません。

「壊す」ためには誰かが作ったものが必要ですし、ただ「壊す」だけでは依存的でしかありません。

千葉は「文学というのは」とか語っていますが、千葉の語る定義が成立するとすれば、

それは「異化作用」という現代詩の一部においてだけで、彼の知識がいかに文学ビギナーのレベルであるかを示しています。

初身者レベルの理解で「文学」を偉そうに語る神経は、根本的に彼が文学を侮っていることの現れでしかありません。

(佐々木敦程度の本に感心する千葉がどの程度文学を読んできたのかが率直な疑問です)

恣意的に文学の意義を狭めておいて、この人は何様なのでしょうか?

参考までに引用しますが、2017年8月の幻冬社plusで千葉は國分功一郎との対談で小説についてこんなことを語っています。

 

千葉 小説、苦手なんです。というか、人間と人間の間にトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人の間にトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるんであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いてるから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。

千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。

 

思弁的実在論の影響を受けているため、千葉はオブジェクトとか物質とか言って得意気なのですが、

「魂のステージが低い」ので「小説を読む必要がない」と言っている人間が「文学というものは」などと大文字で語ってしまう、

それをおこがましいとも恥ずかしいとも思わないのは、東大で受けた教育にも問題があるように感じます。

(詩には人間がいない、という発言から千葉に詩の素養がないこともハッキリします)

千葉雅也の登場以来、僕は東大の教育レベルにも正直疑問を抱いています。

現在、文系学部の大学に残る人間はあまり優秀でない人が多いというのが僕の実感ですが、

東大の大学院は入りやすいこともあり、やはり社会に出たがらない人材を抱えすぎていると感じます。

自分自身の魂のステージがどの程度かもわからない人に、物語は魂のステージが低いなどと言わせてはいけないと思います。

 

もう一つ傑作なところを引用しましょう。

 

僕が研究者を目指したのには、家庭環境も影響しています。父親は、印刷会社から独立して広告代理店をやっている自営業者だったので、そもそもサラリーマンになるという人生のビジョンがほとんどなかった。アーティストになるか社長になるかしかないと思っていました。どちらかと言えば、アーティストからの置き換えとして哲学の研究者になった、そんな感じだと思います。

 

もうおわかりでしょうが、千葉は東大のネームバリューでスター扱いされているだけの裸の王様であるにもかかわらず、

驚くなかれ、アーティストでもあるかのような気分でいるのです。

(准教授ってサラリーを受け取っているはずですよね?)

自己欺瞞もここまでくるとつける薬は存在しません。

周囲も千葉の鉄壁のナルシシズムに気を遣って、誰も彼に本当のことを言うという徒労を避けているのだと想像がつきます。

誰にも本当のことを言ってもらえない、ということは、真の友達がいないということでもあります。

まあ、彼と同等の魂のステージにある人は少ないでしょうけどね。

 

最後に、書き下ろしの第四章に決定的な欺瞞があるので指摘します。

千葉は現代において接続過剰なツールとそこから逃れるツールを区別して使いこなすのがいい、と述べます。

 

接続過剰なデジタルツールを使うのをやめて孤独になれ、というのは無理です。接続過剰状態がもたらすメリットはあまりに大きい。

 

ツイッター中毒状態の千葉からすれば、接続過剰を弁護するのもある意味当然ではあるのですが、

千葉の博士論文『動きすぎてはいけない』は接続過剰を批判して話題になったはずです。

その一貫性のなさは学者としては致命的と言えますし、

接続過剰批判をしないのなら、二度と「切断」などと語らないでほしいものです。

おまけにそこから逃れる「別のツール」として千葉が挙げているのはEvernoteだったりするので、

こっちもデジタルツールじゃん! というツッコミが抑えられません。

接続過剰批判をした人間が過度の接続過剰人間だったというオチはまったく笑えません。

 

さて、このように千葉の呆れるような自己欺瞞の実態を書き連ねても、

僕のような権威のない無名人から言われるだけでは、千葉は論理不在の侮辱で応じるだけでしょう。

そうやって彼はこれからも自己欺瞞でナルシシズムを保存していくしかない人生です。

千葉は「自己破壊」どころか、自分のうすっぺらい実像と向き合うことを避けるために「アーティスティックな研究活動」をしています。

そんな動機の人間が書くものに共感するのは、同種の人間だけでしょう。

千葉が自分自身と向き合うことを避け続けるかぎり、内輪の世界に居続けるしかありません。

 

ちなみに僕は千葉が俳句をやるより前から俳句のレビューを書いていますし、

鏡リュウジのレビューにも書いた通り、タロット占いもしています。

僕の関心領域の外に全然出ていけない(というより後追いという結果になっている)のに、

「基本アホ」などと僕を侮辱できる身なのか少しは考えてほしいものです。

勉強が自己破壊だと本気で思うなら、Amazonに抗議したりツイッターで感情的な態度をとるのではなく、

大学の外にも自分より賢い人間が大勢いることをまずは「勉強」するべきではないでしょうか。

 

はじめは本書を読んだらすぐに売ろうと思っていましたが、

ナルシストの自己欺瞞のサンプルとしてのデキはすばらしく、

10年後くらいに読み返したいので、それまで手元に置いておこうと思います。

 

 

  (注) このレビューは審査を理由に1か月以上もAmazonでの掲載が見送られています。

    問い合わせたところ、2月14日からずっと審査中だそうです。

        過去の審査は長くて1週間でしたので、今回は異常だと感じていますが、

        Amazonに審査が長い理由を尋ねても返答してくれません。

 

 

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2019 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM