『自生地』 (東京四季出版) 福田 若之 著

  • 2018.01.23 Tuesday
  • 09:48

『自生地』 (東京四季出版)

  福田 若之 著

 

   ⭐

   もはや評価している人間の方に問題がある

 

 

俳句界では批評の成立しない「内輪褒め」が横行しています。

この『自生地』は通常の句集とは異なっているので、評価にためらいがあるのが普通だと思うのですが、

簡単に褒めてしまう俳人が少なくないことに驚きます。

こういうものを簡単に褒める俳人は、端的に俳句に対する意識が低いといえるので、

俳句などやめたらいいと思うのですが、他人の句集は褒めていれば安全だとでも思っているのでしょう。

俳句に一定のレベルが存在しないのなら、「先生」は必要ありませんので、

金輪際その言葉を使わないでいただきたいものです。

少なくとも『自生地』を褒めた俳人を、僕が「先生」と呼ぶことは一生ないでしょう。

 

まず第一に福田の「俳句らしきもの」を俳句と呼ぶべきかどうかを問題にする必要があります。

そこに触れずに褒めている人は、俳句とは何かという基準を自分で持っていないわけですから、

俳句に対して不誠実な人だと判断するべきでしょう。

仮に俳句であるなら、句中の散文的な要素をどう許容するのかを明らかにする必要があります。

そこに触れずに褒めている人も俳句に対して不誠実だと言えるでしょう。

第二に福田の「俳句らしきもの」が俳句ではないとするならば、

賢明な俳人は評価を避けるべきですし、俳句誌で他の句集と同列に取り上げるのは他の人に失礼です。

僕自身は福田の作品は俳句であろうがあるまいが一定レベルに達していない質の低いものだと考えています。

 

まず、ライトノベルをある程度読んだことのない人には『自生地』の真の評価はできないでしょう。

閉鎖的な俳句界は他のジャンルとの関係で作品を見ることができない人だらけで、

そのために関悦史程度のサブカル作品を褒めたりしてしまうわけですが、

「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界は、

そういう文化を知らない人には喪失感を抱えた若者の「書く」ことへの模索とでも受け取っているのでしょうが、

残念ながらほとんどはラノベでよく見るポーズであって、真剣に読むに耐えないナルシシズムの表出でしかありませんでした。

(小岱シオンというネーミングセンスも西尾維新的です。

もしかしたら福田は「ファウスト」という雑誌の熱心な読者だったのかもしれません)

 

『自生地』が俳句と散文で編まれた句集だという受け止め方もまちがっています。

俳句をやっている人は何でも俳句として受け入れる癖(俳句脳)ができているのでしょうが、

俳句をやらない僕から見れば、この本はすべてが散文だと感じましたし、

実は俳句らしきものの方はかなり読み飛ばしました。

実際、散文だけあればすむ内容ではないでしょうか。

 

それでも福田は散文パートの中でこの本を「句集」「句集」と執拗に呼んでいます。

自ら「句集」と喧伝することで、この本が句集であるかどうかの議論を封じようとする態度は、

自分自身が俳句の定型などの縛りを嫌っておきながら、

読者には自分の作品を「句集」という縛りで把握することを強要することにほかなりません。

このような態度がどこか「ワガママ」であることは、落ち着いて考えれば理解できるのではないでしょうか。

 

では、なぜ自ら「句集」「句集」と釘を刺す必要があるのでしょうか。

それは普通に読んだら句集に見えない可能性があるからです。

つまり、福田自身、自分の句が俳句たりえていないのではないか、という不安を抱いているのです。

それは、このような文からもよくわかります。

 

〈文〉の思考とは別の、〈句〉の思考ということについて考えている。だが、句は、一見すると、それ自体がひとつの文をなしているように見えることがある。

 

福田は散文に見えない俳句を作るための「修行」をサボっていながら、

自分が散文にしか見えない句しか書けないことを、あらかじめ散文で言い訳をすることによって免罪しようとしています。

僕は福田と個人的に知り合いではなく、身銭を切って本書を購入しているので、

このような甘えた態度を文学的だと感じるほどお人好しにはなれません。

こんなことを書くくらいなら、がんばって俳句を作ればいいのです。

ある程度俳句の修行をしたであろう俳人が、このような言い訳を「書くことへの誠実な悩み」と受け止めているのを見ると、

俳句のやりすぎで散文が読めなくなったのではないかと疑います。

 

散文抜きのいわゆる句集を作る勇気が福田にはなかったのでしょう。

思い悩むポーズで言い訳を垂れ流す散文パートの多くには無責任さが刻印されています。

(こういうのを真に受けてしまう、コノテーションの理解ができない人は本当に文学なんてやめた方がいいと思います)

 

句集をまとめたいという望みはかねてからのものだったけれど、それが具体的な計画として動き出したことは、必ずしも僕自身の意志によってではなかった。

 

このように本書を作ったのは自分の意志ではない、と福田は予防線を張っているのですが、

これが本心でないことがわからない人はどうかしています。

サブカルオタクが自分の欲望を隠したがるのは定番です。

(村上春樹の小説が性的誘惑を女にさせることで、主人公の性欲を不可視化するのと同様の原理です)

なにしろ、福田は後半のページでこう書いています。

 

僕は句集を編むことばかりを考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。

 

この粘着質な文だけでも、福田がどれだけ「句集」を作ることに思い入れがあったか理解できそうなものです。

これが「句」ではなく「句集」であることにも注意が必要です。

彼は俳句がやりたいわけではないのです。

自分の本を作って他人に承認されたいだけなのです。

 

予防線と無責任さに関しては別の箇所にも気になるところがあります。

 

拾い集め、書き写す作業に終始しながら、句集というのは書くというよりはむしろ編むものであるという、考えてみればあたりまえの事実に、あらためて愕然とせずにはいられない。こんなふうにして一冊の本ができてしまって、よいものなのだろうか。こんなものを、本と呼んでしまって、よいのだろうか。

 

ここだけ読んでも福田には一句独立した俳句という感覚がないことが明確です。

明らかに福田にとっては「本」というのが一つの単位なのです。

「こんなものを、本と呼んでしまって、よいのだろうか」と言いつつ、出版はしているわけですから、

これはもちろん誠実さの表れなどではなく責任回避の予防線でしかありません。

もし本気で言っているとしたら、こちらは「金返せ」と言うしかなくなります。

 

福田の散文パートを読んでいると、自分の書いたものを自分で所有したいという思いの強さが読み取れます。

福田は現代思想に詳しい、とどこかで読みましたが、

エクリチュール(それ以前にポエジー)というものが全く理解できていない態度で、何が現代思想なのか意味がわかりません。

実際に例をあげましょう。

 

歩くという言葉を記すたび、僕は感情にわずかな痛みを覚える。僕の書く歩くことは、僕だけが感じることのできる、決して伝えることも残すこともできない何事かだ。

 

僕の書くことは僕だけのものだ、という宣言です。

このような所有への固執は、喪失への恐れの強さが原因になっています。

散文パートの多くは、それほどのものを失っていないであろう若い青年の妙な喪失への恐れが書き綴られています。

 

失くした消しゴムを探して、机の裏に潜りこんで埃まみれになったこともあった。それでも、もうその消しゴムをとりもどすことはできなかった。買ったばかりの消しゴムが前の消しゴムと違うことが許せなかった僕は、それを何も書かれていない机にこすって、どんどん丸くしてしまうのだった。

 

喪失感が消しゴムで表現されているあたり、彼の抱く喪失感の程度が想像できるはずです。

母親へとつながる「エックス山」のエピソードなどもサブカル的な子宮回帰願望丸出しですし、

誰もが彼の幼児性については気づいているはずなのですが、なぜそのことを語ろうとしないのでしょう?

何でも甘やかして、他人から「いい人」と思われたいという年輩俳人の弱さが、

承認願望の強い若者と共犯関係を結んでいるように僕には見えています。

 

たとえば上田信治が福田を評した文などはひどいものでした。

ホトトギス的な俳句を閉鎖的(自分こそが内輪主義なのに!)だとする不勉強な「ホトトギス虐史観」を展開し、

新しい世代にはサブカルが同時にハイカルチャーだという詭弁を弄しています。

言っておきますが、僕は関悦史より年少ですが、サブカルをハイカルチャーだと思ったことは一度もありませんし、

多くのクリエイターと知り合いましたが、そんな考えの人に会ったこともありません。

サブカル志向こそが高尚な垂直志向性だなどと論理もへったくれもないことを、

内輪弁護という動機で恥ずかしげもなく書く上田の態度には怒りすらおぼえます。

(しっかり俳句史を学びもせずに、ホトトギスを批判すれば新しいんだと思い込んでいるだけでは、

朝日新聞を貶していれば脱・戦後だと考えているネトウヨと同レベルの思考力です)

ポップであることが現代芸術に通じているというような論理は、もはや失笑するしかありません。

だいたい俳句は現代アートではありませんし、あってはいけません。

(現代アートのほとんどはメッセージ性に依存した芸術の単なる形骸にすぎません)

おそらく「芸術新潮」の編集者を崇拝しすぎて脳がフリーズしているのでしょうが、

文学の本質には「遅れ」があることをもう一度強調しておきます。

松尾芭蕉の『おくのほそ道』が同時代的な形式を採っていないことも、不勉強な上田はどうせ知らないのでしょう。

論理を軽視する人間を僕は信用しないので、もう高山れおなの腰巾着には「うえだンち」から外に出ないでほしいと思っています。

 

俳人が自分のやっていることにプライドもなく、福田のような俳句のなり損ないを甘やかすばかりなのは、

外の人間からするとガッカリします。

彼らは他の文化(もしくは現代)に媚びているつもりかもしれませんが、

あまりに「何でもアリ」になりすぎてしまうと、

外から見ればしっかりした価値基準を持たない人々の集団、と感じるだけのことです。

若い人であっても伝統の技術を持つ職人にこそ価値を感じるものです。

 

話を福田に戻します。

 

句を書くというのは、弔いに弔いを重ねることなのではないかと、ときに思うことがある。

 

弔いに弔いを重ねるときには、僕たちが手で触れることのできる表面において、奥行きがそのまま過去の痕跡となる。

 

このあたりの散文パートでデリダっぽい思索的な印象を出そうとしていますが、これもポーズです。

その後の句が実態を暴露します。

 

 書き出して夜風キャベツの畝をゆく

 誤字を塗りつぶすと森のひとが来る

 いなびかり指先が惜しむいとくず

 萩すすきスリーエフまぶしくやつれ

 

この句だけで「弔いに弔いを重ねる」なんて感じられたらあなたは天才でしょう。

そんなカッコいいことを言うほどに何を弔っているのか、読者に感じるものがあるとは思えません。

句で実態が伝わってしまうのに散文でカッコつければ何とかなると思っているあたり、

福田が信頼している形式が本当は散文であることがハッキリします。

ある程度散文を読む力があれば、

これらの文がどこまでも抽象的で、ただ「弔い」という言葉だけで雰囲気を出しているだけで、

書いた本人はたいしたものを抱えているわけではないと感じます。

 

散文も俳句も中途半端に書けるという本書の形式だと、その言葉が背負う真実味を検証されずにすむわけですが、

たとえ短文であろうと、弔いと過去という語に内容の違いがないことが読みとれます。

要するに「弔いに弔いを重ねる」というのは「過去を書くことで過去にする」というだけのことです。

この感覚は、前述した所有への強い固執を前提としなければ、

ただのレトリックでしかなく、福田を理解したことになりません。

福田は自分の過去にも自分の書いたものにも強い執着があり、

それをまるごと(母に抱かれるように)読者に受け止めてほしいのです。

 

そもそも福田とその周辺の俳人は、文学的「遅れ」などに価値を置かずに現代性を追い求めている存在です。

それを考えるだけでも、こんな低レベルのレトリックを真に受けるのはバカげています。

 

このような個人的な感覚に対して承認を求める幼稚な感情は、

クリエイターとしては「作品」を作り上げる以前の未熟段階と言って良いと思います。

「ママ、見て見て!」の延長なわけですから。

いや、「ママ、見て見て!」でもジョン・レノンくらいの喪失感を表現できるのなら、

読者に感動や共感も引き起こすことはできるかもしれません。

サブカルであり、ポップであるならなおさら、読者に訴える「強度」が必要です。

 

しかし、福田はひたすら「僕」「僕」「僕」の話を続けるだけで、

ナルシシズムから外に出て来ることがありません。

このような人物は最初は見世物にはなるかもしれませんが、すぐに飽きられてしまうことでしょう。

(いい歳こいてやっていると、どんどん村上春樹みたいにイタいことになってしまいます)

福田自身はまだ若いので、本人がこのような精神で創作をしているのは致し方ない気もしますが、

ある程度の年齢の人間がそれを甘やかすことについては、反文学的な行為として問題にしたいと思っています。

本書に関しては、著者よりも安直にそれを応援している人間(と出版社)に不信感を持つべきですし、

新傾向俳句の焼き直しのような現象を反ホトトギスだと思っている不勉強な「反動」精神には、

現在が保守反動の時代であるだけに、より厳しい目を向けておく必要があります。

 

念のためもう一度言っておきますが、

僕は俳句をやらないので、福田の作品が俳句としてどう受容されるかに興味はありません。

サブカル的であっても、それだけでは否定しません。

僕は彼の作品に文学的、詩的な一定水準以上の価値がないということを問題にしています。

そして俳句界が作品を詩的水準において評価しようとしないことにも失望しています。

たとえ本質が散文作品であっても、俳句だと言い張れば低レベルでも褒めてもらえるというのでは、

粗製乱造の憂き目をみて、すぐに頭打ちになるだけではないでしょうか。

 

 

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

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