『日本の詩歌──その骨組みと素肌』 (岩波文庫) 大岡 信 著

  • 2018.01.03 Wednesday
  • 21:36

『日本の詩歌──その骨組みと素肌』  (岩波文庫)

  大岡 信 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   国外向けの古典詩講義は日本人にとっても意義深い

 

 

本書は昨年亡くなった大岡信のフランスでの講義録です。

予備知識の少ない海外の人を相手にした講義のため、

古典への興味がさほど強くない日本人にとっても格好の入門書となっています。

 

第1回は菅原道真の漢詩を取り上げます。

大岡がこの講義を和歌ではなく、菅原道真の漢詩から始めたのはさすがだと思いました。

道真の漢詩では詩人の主体的な立場が明確なため、客体との区別が厳然と存在し、

社会に対して自己主張することを当然としているのに対し、

日本の和歌はその短さのため、具体的な描写を最小限として作者の感動の簡潔な表現をめざします。

その結果、和歌で主体が自己主張し、社会に具体的に関与していく姿が歌われることは少ない、として大岡は、

 

総じて言えば、漢詩が作者の「自己主張」を当然の条件とするのに対し、和歌はむしろ、作者の「自己消去」をごく自然に招き寄せる詩だとさえ言えるのです。

 

と整理します。非常に簡潔かつ正確な対比です。

大岡は和歌が自己主張の代わりに、自我を超越した自然との一体化をめざしているとし、

この「自己消去」が主流になった背景には、

自己主張のしにくい強固な秩序に支配された「同質社会」の存在があったと見ています。

 

道真の漢詩に重税にあえぐ貧しい人々が描かれたものや、為政者の不正を弾劾するものがあることを取り上げ、

近代以前の日本の詩史に、このような題材を扱った詩が他にないという指摘にも感心しました。

 

最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』成立の背景についても大岡の見解はおもしろいものでした。

藤原氏の摂関政治では後宮の女性の地位が高まり、女性の使う仮名文字で書かれた和歌が表舞台に現れたと言うのです。

僕は必ずしもこの大岡の見方に全面的に賛成ではありませんが、

中国文化の影響を脱した日本独自の文化が、女性的なものであったことは強調しておきたいところです。

 

大岡の和歌についての解釈も非常に勉強になりました。

和歌は「人の声に合わせ応じる」という意味があり、

「相手と調子を合わせて唱和し、調和し合うことが、和歌という語の根本的な意味でした」と述べています。

和歌には「調和」を引き出す感応力があり、超自然的な恐るべき存在までやわらげ、人間化する力があると信じられていたのです。

 

それ以上におもしろいのは、和歌が実用的なものとして発展したということです。

貴族の男性が出世を求めて有力者の娘と結婚をするためには、恋の和歌が重要になります。

和歌は相手の心を捉え、説得するための実用的な手段であって、必ずしも詩的才能の見せ場ではなかったのです。

和歌の感覚的洗練も実用的な意味において成立している、とも述べます。

大岡はこの見解は一般的ではないとことわっていますが、非常に重要な指摘だと思います。

特に日本の短詩系と西洋近代詩を短絡的に接続する教養不足の人が増えている昨今では、

このような見解はもっと紹介されるべきでしょう。

 

また次のような指摘も重く受け止めておきたいものです。

 

詩というものが、手とり足とりで指導されうるものだということは、西欧の人々の常識にはないことですが、和歌、そしてその派生形態であり、全く別種の詩的表現として自立した俳諧という、日本を代表する二種類の伝統的詩形式においては、むしろこのやり方が正統的であり、実際、千年にわたってその有効性が確かめられ続けてきたのです。

 

近頃は結社の指導を嫌った若手俳人の一部が、端的に未熟でしかない俳句を平気で書籍化し、

僕がその未熟さをレビューで指摘すると「逆恨み」をして嫌がらせをしてくるのですが、

いくら教養がないからといって自らの非常識を反省しない態度は目に余りますし、

俳句界がそういう連中を甘やかしているのも何百年の歴史に対して失礼というものです。

 

他にも日本の詩を考える上で興味深いことが多く書かれています。

和歌にしても俳句にしても、日本の抒情詩は外界の描写と内面の表現を一体化させようとしますが、

そのような迂遠な方法は、母や乳母などに強力にガードされた女性に男が恋の歌を送る時に、

自らの恋情を明らかにしにくいため、季節その他の要素で偽装する必要があった、

と大岡は言うのですが、これもなかなか独創的な説に思えます。

吉川幸次郎も書いていますが、自然と内面を一致させる詩のあり方は、

実際は漢詩の方法でもあるため、日本の政治事情によって成立したものとは考えにくいと僕は思いますが、

大岡が指摘するような事情が関係した可能性もないとは言えません。

 

平安時代は叙景と叙情との一体化が栄えたのですが、風景を純然たる風景と捉えるように変化したのが、

鎌倉時代の13世紀末から14世紀にかけて、『玉葉和歌集』『風雅和歌集』のあたりなのだそうです。

京極為兼、伏見天皇、永福門院などの歌は、自らがカメラとなって客観的に自然を写しとる態度がある、と大岡は述べます。

このあたりも勉強になりました。

 

第5回は日本の中世歌謡を取り上げています。

『梁塵秘抄』や『閑吟集』など世俗的で時にはエロい歌です。

僕は一応『閑吟集』は読んだことがあるのですが、

大岡が「肉欲肯定と現世的欲望の賛美」と書いた通りの内容でした。

今で言えばネット的とでも言うのでしょうか。

 

薄い本ですし、講演なのでわかりやすい語り口なのですが、

内容は非常に重要かつ豊かで、コストパフォーマンスを考えればものすごくお買い得な本です。

ただ、池澤夏樹の解説はまったく必要がないと断言できるほど内容が薄く、

最後は本書に名が出た自分の本の翻訳者のことを大岡と話したかった、などと自分の話で終わったのは、

本書のレベルにそぐわない人選なのが明らかで、不快でした。

天下の岩波書店が河出書房新社程度の人選をするのは如何なものかと思います。

 

 

 

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM