『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

  • 2017.11.25 Saturday
  • 10:35

『親鸞と日本主義』  (新潮選書)

  中島 岳志 著 

 

   ⭐⭐⭐

   国家の枠を超えられない日本の宗教

 

 

浄土真宗には「戦時教学」として国体と一体化していった過去があります。
衆生を救済する阿弥陀如来の本願にすがる絶対他力が浄土真宗の教義の核だと僕は理解していますが、
その阿弥陀如来と現人神の天皇とが同一であると主張したのです。

僕がつまずくのは、国境を超える世界宗教であるはずの仏教が、
近代日本ナショナリズムという国家の枠に吸収されてしまう、という逆転です。
大小の関係がおかしいのではないか、と普通なら誰でも思うでしょう。
ベースボールの神様は長嶋茂雄だと言うようなものですから。

この逆転について中島岳志は残念ながら答えようとしません。
彼が保守思想に興味が強いからなのか、
親鸞と本居宣長の国学思想との共通性は語れても、ナショナリズムの本質には踏み込めないようです。
(ちなみに中島は左翼は理性を過信するが、保守思想は理性の限界を認めるとか言っていますが、
ある程度の知性がある人は、イデオロギーに関わらず誰しも理性の限界を認めていると思いますよ。
理性を嫌悪する〈思考停止人間〉にお墨付きを与えるようなインチキくさい定義はやめてほしいものです。
というか、そういう定義をしているのって保守の人だけですよね)

僕は中島の本を初めて読んだのですが、
大学教授とは思えないほど「読ませる」文章でした。
京都学派など知識人の排除を目的とした『原理日本』のメンバーたちや、
倉田百三や暁烏敏など、批判対象のはずの人物に小説を読んでいるように迫っていきます。
その筆力には非常に感心しますが、
大部分が日本主義に走った人物に寄り添うドキュメントになっているため、
中島が彼らの思想的問題を批判しようとしているのか不明瞭になっている気がしました。

僕は国学を含む日本主義の問題はナルシシズムとして考える必要があると思っています。
部分と全体の逆転が起こるのは、その根源にナルシシズムがあるからです。

たとえば中島は『原理日本』の蓑田胸喜の親鸞論の特徴を、
「東洋哲学やインド仏教への否定的態度にある」と述べています。
厭世的で現世否定的なインド仏教を、蓑田は「外来」思想として「日本的精神の外部」に放逐します。
挙句には釈迦を否定して、親鸞がそれを凌駕したと主張します。
蓑田は「現世の絶対的肯定」を重視し、ナルシシズムを傷つける否定性を排除しようとしたのです。
この点においては、たしかに「外来」思想を「さかしら」として排除したがった本居宣長の国学と共通します。

蓑田の親鸞論には僕が前述した逆転が見られます。
世界仏教の亜流でしかない親鸞思想が世界仏教を否定するという逆転です。
この逆転を考えるには、当時の政治的文脈を無視するわけにはいきません。
当時は西洋帝国主義の亜流でしかない大日本帝国が、西洋列強を否定する無謀に酔いしれる時流にあったのです。
その意味で浄土真宗は大日本帝国の等価物となりえたわけです。
蓑田の親鸞論はナショナリズムが宗教のかたちで現れたものと考えられると思います。
しかし、中島の思索はこういうところには至りません。

ちなみに日本の仏教受容には歴史的に現世肯定的な要素があったことは、
仏教学者の中村元も指摘しています。
閉鎖環境の中でナルシシズムを充溢させることを喜びとする性向は、
外的現実を無化するために理性や反省を嫌悪し、
ありのままの現在を肯定する「思考停止」を求めることになります。
結局、そこにあるのは権威への盲目的な追随です。
日本ナショナリズムに〈思考停止による一体化〉への欲望が含まれていることは、もっと指摘されるべき問題だと思います。

倉田百三のくだりでも面白いことが書いてあります。
仏教学者の末木文美士が『出家とその弟子』を「キリスト教的である」と論じ、中島も共感していることです。
そうなると、日本の近代化のあり方こそが問題であって、
純粋に浄土真宗や親鸞の問題ではないのではないか、と感じます。

そのあたりは暁烏敏についての記述にも見られます。
中島は本地垂迹説を退けた暁烏が「宗門人」としての立場より「日本国民」としての立場を優先させたと述べます。
そこには国家の前では宗教などただの「手段」でしかない、というような
そんな「近代的」日本人の姿が現れてはいないでしょうか。

暁烏は日本を「阿弥陀仏の浄土」だと偽り、日本に死は存在しないとまで言っています。
そして日本で不満を言う人間は恥を知れと一喝し、「偉大な皇国の前に跪け」と〈思考停止による一体化〉を求めます。

日本の保守傾向の中にナルシシズムと「思考停止」があることを指摘せずに「批評」たりえるとは思えません。
自己のナルシシズムが原動力であるかぎり、自己の所属する最大組織に同一化する以上の普遍性は成立させられませんし、
その組織の普遍性は自己の存在を基盤とするわけですから、
部分が全体に一致するだけでなく、部分が全体に優越するという逆転を生むのです。

序章で中島は親鸞の思想の中に日本主義と結びつく危うさがあるのではないか、
という問いを投げかけていますが、
〈俗流フランス現代思想〉にすらその要素はあると僕は思っています。
用心すべきは特定の思想ではなく、ナルシシズムと〈思考停止による一体化〉を求めるもの全てではないでしょうか。

 

 

 

評価:
中島岳志
新潮社
¥ 1,512
(2017-08-25)
コメント:『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

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