『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社) 佐藤 文香 編著

  • 2017.09.18 Monday
  • 19:19

『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社)

  佐藤 文香 編著 

   ⭐⭐

   SNS的気分に貫かれた傍流集団の「村おこし」

 

 

本書は1968年以降に生まれた俳人たちの「現代俳句」のアンソロジー集ということですが、
それを額面通りに受け取るのにはためらいを感じます。
広く俳句界の若手の句を集めているわけではなく、
本書の編集をしている佐藤文香が自分のお友達を中心にして編んだ、
言うなれば傍流集団の「村おこし」の企画であるからです。

本書に関わる代表的な俳人は、佐藤文香自身が属していた元「クプラス」の同人に、
「オルガン」の同人と田中裕明賞の受賞者を加えたメンバーが中心です。
自分に近いお友達の句ばかりを集めて、「現代俳句」とは大きく出たな、と思いますが、
かつて『新撰21』というアンソロジー集で名を売った人たちが、
二匹目のドジョウを狙って、再度寄り集まっているようにも見えます。
中心にいるのは師を抱く伝統的な俳句結社を嫌って、近い世代でサークル感覚で俳句をやっている人たちです。
その意味ではこれまでの俳句文化の「傍流」であるはずの彼らが、
こういう本を出版して自分たちこそが「現代俳句」であるという既成事実を作ろうという態度には、
ある種の「あざとさ(もしくは野心)」を感じずにはいられません。

俳句界の実情に詳しくない人には若い俳人の句を集めたオシャレな感覚の本に思えるかもしれませんが、
それは表面上のことで内実は少しちがいます。
佐藤は俳人としてそれなりに活躍してはいるのですが、
そのバックには、俳人というより「編集者」という印象の上田信治、高山れおなという人物がいて、
現在の俳句界への反感と自らの野心を満たすために若手俳人を利用している側面があるのです。

本書が1968年を区切りにしているのは、1968年生まれの高山れおなに合わせただけの事情でしょうし、
上田信治が小川軽舟と並んで若手の句を語るご意見番になっているのも、
実力とは関係なく、佐藤との人脈によるものです。
(僕は上田の俳句なんてほとんど見た覚えがありません)
高山や上田は現在の俳句界では「傍流」に位置する存在なので、
彼らは「クプラス」という同人誌で、メインストリームにいる長谷川櫂や石田郷子に対してルサンチマン(少数派の嫉妬感情)をあらわにしています。
このような人たちが作った本が、醜悪なルサンチマンから自由になれるはずがないのです。
読者は本書のさわやかな表面だけを見るのではなく、裏にある醜悪な情念にも注意を払うべきでしょう。

ちなみに、こういう友達感覚の若手俳人たちには、孤高の俳人、安井浩司もインタビューで違和感を語っています。

 安井
  俳壇では、最近では若い頃から早々と徒党を組んでるんだよなぁ。
 私らの若い頃は、簡単に他の創作者に気を許さなかったです。トゲト
 ゲしくて、第三者を見ると論争しようよって感じだった。それを通過
 しないと仲良くなれなかったです。他の創作者を否定するのは、同時
 に自己否定することでもあったわけです。いろんな意味で先に進まな
 きゃならないから、そう簡単に他者も自己も受け入れられない。現状
 を肯定したらそこで止まっちゃうわけです。だから否定は先に進むた
 めには必要なことです。最近の俳壇では結社より同人誌の方が盛んな
 ようです。同人誌が悪いとは言いません。でも結果として、私らが作っ
 たような同人誌にはなってないような気がします。仲間を作って、仲
 間同士で評価し合うような感じになっていますね。
                   (金魚詩壇 2014年11月1日)

本書は佐藤を中心とした内輪の世界という点で、SNS的であるといえます。
一部の俳人について対談で語り合うぺージは、小川軽舟以外は、元「クプラス」の仲間同士のため、
まさに「仲間同士で評価し合うような感じ」で、軽いノリの「いいね!」という内輪評価が垂れ流されていて、
自分のペットを自慢し合う話を聞かされるようなシラけた気持ちに襲われます。
(「睫さんは一句でイケメンです」って、なんじゃそりゃ)
このページは本当にやめた方がよかったと思います。

特に、高山に対する上田と佐藤の礼賛は醜悪を極めています。
ボスに対する忠誠をあられもなく語る二人を見ていると、
この人たちの内輪主義の醜さがよくわかるので、引用してみます。

 上田 僕はやっぱりれおなさんが一番すごいと思います。圧倒的な才
 能だと思うね。この水準で書けてる作家が、この集中はもちろん、今
 の俳句界に何人いるだろうか。(中略)塚本邦雄とか加藤郁乎とかの
 才能のあり方を思わせるよ。
 佐藤 王様です。なのに、持っている教養とかお茶目さみたいなのと
 か、青春性までをも、ちゃんと手渡してくれる。

 上田 (前略)〈日の春をさすがいづこも野は厠〉は、安井浩司を思
 い起こさせるけど、野原だからどこでもしていいよね、っていうのを、
 なんでこんなきれいな言葉で言えるのか。
 佐藤 「を」「さすが」がすごいんです。野原一面に裸の人たちがた
 くさんいて、笑いながらシャーってしたりしている姿さえ見えるよう
 な、天国みたい。れおなさんは美術雑誌の編集者でもあるので、芸術
 の一番いい部分を知っている人の俳句と言えるのではないでしょうか。

なんて話しているのですが、読んでいるこちらが恥ずかしいほどの内輪褒めです。
その「王様」の「日の春を〜」の句は、「不勉強」な上田と佐藤にはよくわからなかったようなのですが、
其角の有名な句「日の春をさすがに鶴の歩みかな」をプレテクストにしているのは明らかです。
先頃出版された半藤一利『其角と楽しむ江戸俳句』の冒頭に置かれている句なので、
そんなにマニアックな句ではないと思うのですが、この人たちは俳句をやらない僕よりも俳句を知らないのでしょう。
俳句そのものがわかってないのに、作者との付き合いで俳句まで評価してしまう。
こんな人たちの礼賛をまともに信じていいはずがありません。

僕の名前で検索すれば読めるはずなのですが、高山れおなは週刊俳句というサイトに書き込みをした僕に対して、
俳句をやらないなら謙虚でいろ、という「さすがに王様な態度かな」で応じました。
彼らは本心では俳句を作らない人間を軽蔑しているくせに、都合のいいところだけ外部の読者を求めるのです。

他にも、下段の俳句の文字のポイントが小さすぎて読む気が起こらないとか、構成上の問題もあるのですが、
一番の問題は、本書の俳句の多く(特に「クプラス」「オルガン」の人たち)が「つまらない」ものでしかないことです。

彼らの俳句の何が問題なのか簡単に述べると、
貧しい消費文化を後ろ盾にして反伝統的な俳句を作ることを、
何かオシャレなことであるかのように「勘違い」しているということです。

実感に乏しい言葉をパズルのように組み合わせるだけの空疎な断片を、
俳句であるという言い訳を後ろ盾にして「軽やかに」垂れ流すのがオシャレだというのでしょうか。
彼らの「ファッション俳句」が、消費社会において商売に有効に見えるのは理解できるので、
オシャレであることは認めることにやぶさかではありませんが、
文学や思想とオシャレな「商品」はまったく別のものです。
僕はここで「ファッション俳句(ポストモダン俳句)」の文学的価値が低いことだけはハッキリさせておきたいと思います。

「ファッション俳句」は現実を反映しない、主体性や意味を薄めた言葉の「軽やかさ」に、
嗜好品を購入する時に抱く現実からの解放感を宿らせようとしています。
そのため、嗜好品の多くがそうであるように、彼らの俳句は余裕ある消費者の欲望を喚起する「イケてる」ものであることに執心します。
ファッションがモードとともに流れ去るものであるように、
彼らの「ファッション俳句」は流れ去る運命にあります。
現実的葛藤から「逃走」する作品は、現実的基盤がないためにすぐに流れ去ってしまうのです。
(関悦史や北大路翼がツイッターのように大量に句を垂れ流すのも、現代風俗とともにある「ファッション俳句」だからです)
しかし、文学や詩は本来時の流れに逆らうものであるはずです。

文学の特徴には「遅れ」があります。
J・デリダの「差延」に「遅れ」が含まれているのはそのためですが、
日本ではそのことを理解できていなかった東浩紀の『存在論的、郵便的』などという駄作を持ち上げ、
デリダが嫌った同時性のWebを東が礼讃しても疑問にも感じませんでした。
(だから日本は〈俗流フランス現代思想〉だというのです)
ハッキリ言いますが、〈俗流フランス現代思想〉の連中はニューアカの残滓を貪り、
消費文化に踊らされた、思想とファッションの区別もつかない田舎者です。

また、文学には現実との葛藤によるネガティヴなエネルギーが必要です。
メタに立って現実との葛藤を避けたがる〈俗流フランス現代思想〉は、
文学にとっても、アートにとっても百害あって一利なしと言えます。
その意味で、本書の帯文を〈俗流フランス現代思想〉のアイドル千葉雅也が書いているのは象徴的です。
「ファッション俳句」と「ファッション思想」のタッグとは、なんと醜悪なことでしょう。
(千葉が雑誌「現代思想」の編集に加わって、内輪の人を起用して大顰蹙を買った人物であることを忘れるべきではありません)
もちろん時代と同衾したい人は好きにすればいいのですが、
ファッションはファッションであって、文学や思想にはなれないことだけは明確にしておきたいと思います。

「クプラス」や「オルガン」の人たちは俳句をオシャレでアートぶった「商品」にしたがっているのですが、
逆に言えば、彼らは俳句が文学であるだけでは我慢ができない人たちと言えます。
だったら他のものをやればいいと思うのですが、彼らは「ヌルい」俳句界にいる方が居心地がいいらしいのです。
そのため、メジャーリーグに行く実力もないのに、日本野球は世界一だと強弁する野球選手のようなルサンチマンを抱えることになるのです。
このあたりの事情については、のちにもう一度触れます。

佐藤は「あとがき」で「新しい読者が必要」とか本書を他のジャンルの棚に置いてくれ、とか書いています。
これを俳句の外への志向などと勘違いしてはいけません。
(なにしろ彼ら自身はとんでもなく内輪主義なのですから)
ただ、彼らは古めかしい俳句などではなく、「現代俳句」という「イケてる」カルチャーをやっている人たちと思われたいだけなのです。
本当に「イケてる」のであれば、それも結構なのかもしれませんが、
残念ながら「イケてる」人は俳句などやらないのです。
その意味で、俳句の詩性を犠牲にしてでも「オシャレ」「アート」と思われたい、
というような自意識が表に出てしまうことは、ルサンチマンの垂れ流しと等しい結果になるわけです。

本書には一部こういった動きとは距離のある俳人も含まれていますが、
もし「私はファッション俳句に興味はない」と思うなら、安井浩司の言葉を心に刻み、
こんな浅はかな企画に参加したことを反省し、自分を戒めるべきだと忠告しておきます。
俳句の低迷を理由に総動員されることが何を意味するか、『辻詩集』でも読んで勉強してください。

本書についてまとめて言えば以上のようになりますが、
個々の俳人についても少しだけ触れておこうと思います。
本書の一番手には佐藤文香内閣の稲田朋美とでも言うべき、福田若之の俳句が載っています。
佐藤は福田に対して並々ならぬ思い入れがあるようなので、
一番手が福田なのは予想通りすぎたのですが、それだけに
福田はルサンチマン村の「村おこし」の象徴とも言える存在かもしれません。

 ながれぼしそれをながびかせることば
 焚き火からせせらぎがする微かにだ
 子供たちが幾何学をする初夏の路地
 キオスクが夏の記憶で今もある

まあ、どれを引用しても価値は変わらないので何でもいいのですが、
福田の「俳句らしきもの」は90年代の短歌で起こったニューウェーブの俳句版というところでしょう。
しかし俳句は短歌ほど主観の表現ではないため、真似をしてもその意義はさらに低いと言わざるをえません。
上田は才能とか寝ぼけたことを言っていますが、
福田の作品にとって最重要なのは作品自体ではありません。
これを「俳句として受容してもらう」という「文脈」にあるのです。

句の外部の「文脈」に依存した作品といえば関悦史などが代表ですが、
福田に関していえば、「これも俳句なんだぁ」という、俳句という「文脈」からズレる意外性しかありません。
たとえば、俳句だと考えることなく彼の作品を眺めたらどうでしょう?
そんなに魅力的なフレーズでしょうか?
喫茶店で横に座った人がノートに「キオスクが夏の記憶で今もある」などと書いていたら、
「おおっ!」と思うでしょうか?
僕には無理です。

福田は俳句という「文脈」に置かれずに、単に詩語というだけで勝負するものを書く力がありません。
もしそんな力があるなら、他のジャンルに進出したらいいのです。
しかし、福田はそんなことはしませんし、それどころか俳句として受け取られるように、
定型を守り、季語を入れてなんとか俳句に見えるように努力までします。
なんという苦労でしょう。
俳句と思われる一線をキープしながら、俳句から外れているものを書こうという苦行。
こんなことをしなければならないのは、俳句の外で勝負する力がないから、これに尽きます。

だから福田は絶対に「俳人」というアイデンティティにこだわっているはずです。
それこそが彼が「文脈」を維持するための生命線だからです。
このようなルサンチマンを持つ人間が、高山を中心とする変にアートぶったルサンチマン集団に引き込まれてしまうのです。

このような本が出版されるということは、同じような事情を持つ俳人が他に何人もいるようです。
彼らはみんなで寄り集まって、「僕らは現代俳句をやっている一味違う俳人なんだよ」と認めてもらうことに勤しむのです。
一見俳句に見えなくても俳句であるという前提によって、自らの実力不足を免罪しようというのが本書の試みです。

こういうポストモダン的な現象を「世界に一つだけの花」イデオロギーと僕は言っています。
ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワン、とかそんな歌詞だったと思いますが、
そのオンリーワンとは不戦勝のナンバーワンなのです。
競争相手のいないところでそれぞれがナンバーワンのナルシシズムに浸っている状態です。
花屋の店先の花が天の川銀河の星々になっただけのことで、
発想自体が既視感バッリバリで呆れ死ぬほど時代遅れです。
(そんなんだから「イケてる」他のジャンルで勝負できないのです)

生駒大祐のプログラム的なAI俳句についても批判したかったのですが、
長くなりすぎたのでまたにします。
最後にひとつだけ、俳句界の内部に彼らを批判する人が出てこないのは問題です。
ここに俳句の未来があると思っているのなら仕方ありませんが、
どういう未来になるかはおのずと知れることのように思います。

 

 

 

評価:
佐藤文香
左右社
¥ 2,376
(2017-08-31)
コメント:『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社) 佐藤 文香 編著

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