『ただならぬぽ』 (ふらんす堂) 田島 健一 著

  • 2017.09.17 Sunday
  • 22:12

『ただならぬぽ』 (ふらんす堂)

  田島 健一 著

 

   ⭐⭐

   とにかく明るい田島

 

 

この句集を開くと「序」とされたページに、
「無意味之真実感合探求」「新感覚非日常派真骨頂」という文字が並んでいます。
石寒太の言葉とのことですが、田島自身の宣言とも受け止められます。
田島は「無意味」と「非日常」を前面に押し出して、
ホトトギス的な伝統俳句とは違う俳句を作ろうとしているからです。

僕は俳句をやらないので、俳句形式に思い入れはありません。
端的に詩的価値があるかどうか、おもしろいと思えるかどうかで考えています。
なので、伝統的でなくても作品がすぐれていればいいと思うのですが、
最近の俳句界は反伝統的で言語遊戯的な中身の薄い俳句をやたらと持ち上げています。
田島健一の俳句も話題になっていたので期待して読んでみましたが、
実感から遊離した言語遊戯的な言葉の組み合わせで、俳句的意味を脱臼させることを楽しむ句がほとんどでした。
素人目には軽妙で「オシャレ」に思えるかもしれませんが、
詩的価値が低く、消費されるだけの「ファッション俳句」と言うべきものでしかありませんでした。

詩人の杉本徹は「ふらんす堂通信」で田島の句を評して、
「多くの句は、句の世界以前にそもそも言葉自体がフラットすぎる。
それは言葉が、句の素材としての、部品としての、貌しか持ちえていないからであろう」
と述べていますが、僕も同じ印象を感じました。
季語の情趣を意外な方向に「ズラし」たり、
言葉の意外な組み合わせで不思議さを出して、客観写生から「ズラし」たりして、
伝統的な俳句から軽やかに「逃走」することが目的となっている句ばかりです。

「逃走」して何か新たな感動が生まれるなら、それも意義あることでしょうが、
しかし、「逃走」すること自体が目的となっている句を褒める気にはなれません。
そういう句は「これって俳句なの?」と最初は物珍しさで騒がれるかもしれませんが、
軽やかさ以外の価値がないために、すぐに消費されて終わってしまうものです。

古来からの季感や俳句としての格調が、
消費社会的実感からは遠く感じられたり、重く感じられたりするのはわかります。
しかし、現実から遊離した言葉の組み合わせだけで詩的イメージが生み出されると思っているとしたら、
文学はそんなに甘いものではない、と言うしかありません。
魂のない「素材としての」「フラット」な言葉は、詩的感動のない「ファッション俳句」となるだけです。
その実態を田島の句に即して見てみましょう。

田島の「ファッション俳句」は暇つぶしとしてはいいのですが、
「逃走」自体が目的だとわかってしまうと途端に退屈になります。
その退屈さの原因は、意味することを避けるあまり、
3分の1あまりの句が幼児的なイメージに回収される類型的な句となっていることにあります。
あまりにパターンが限られているので、パターンごとに本書の全句を分類してみました。
そのパターンとは、以下の4つです。

.リアー系  澄んだ、静か、晴れ、などのイメージ。
▲轡礇ぅ鷏蓮 ,劼り、かがやく、明るい、などのイメージ。
ビューティフル系  きれい、美しい、などのイメージ。
ぅ淵奪轡鵐扱蓮 〔機知らない、などのイメージ。

驚くべきことは、これらの句の多くはイメージを結ぶことさえなく、
「しずか」「ひかり」「あかるい」「きれい」「〜ない」などの言葉を用いた直接表現になっています。
そのため、良く言えば純粋でピュア、悪く言えば稚拙で幼児的という印象を抱かせます。
どちらにしても、類型的すぎて退屈という欠陥があります。
実際にどんな感じなのかパターンごとに句を紹介しましょう。

.リアー系  澄んだ、静か、晴れ、などのイメージ。(計30句 8.1%)

 猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝
 蓑虫は澄んだ眼の鉛筆となる
 無限に無垢につづく足し算秋澄む日
 風花の奥のしずかな披露宴
 傷ひとつ得ずふらここを残して去る
 蚕豆の神話しずかなそらもよう

▲轡礇ぅ鷏蓮 ,劼り、かがやく、明るい、などのイメージ。(計27句 7.2%)

 中空にひかる午睡の不思議な木
 月と鉄棒むかしからあるひかり
 島あかるく名前も顔もない茸
 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
 とくべつな光を食べて春の鶴
 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

ビューティフル系  きれい、美しい、などのイメージ。(計13句 3.5%)

 口笛のきれいな薔薇の国あるく
 草笛を吹くいちれんの手がきれい
 謹賀新年まなこきれいな蛸つかみ
 鵜飼いの鵜ビジネスマンの美のごとし
 枇杷かじりいる真面目さが美しさ
 兎の眼うつくし紙のような自我

ぅ淵奪轡鵐扱蓮 〔機知らないなどのイメージ。(計55句 14.8%)

 枇杷無言雨無言すべてが見える
 欠伸ころして何も無くなり冬の晴
 風のなき四章を読み終えし雪
 流氷動画わたしの言葉ではないの
 なにもない雪のみなみへつれてゆく
 何か言うまであるようでない冬日

,らい離ぅ瓠璽犬両立している句もありますが、
単純に合計すれば全体の約33%がこれらのパターンに合致します。
意味することを避け、「逃走」を目的とした結果、
ありふれたイメージへと回収されてしまうことになっています。

特に「逃走」そのものが主題となるようなパターンが多すぎます。
とにかく「無」や「無垢」を提示すればポジティヴだという発想です。
これこそが〈俗流フランス現代思想〉的な発想の成れの果てで、
消費資本主義における貨幣=メディア的主体もしくはメタ主体の在処でしかありません。
自身を積極的に示すことができず、交換の間を漂うだけの「無」、
それが消費資本主義的な主体像です。

これを「主体の抹消」と「勘違い」している人もいるようですが、
まったく似て非なるものです。
その証拠に、資本主義的主体にはある種の幼児性が宿ります。
なぜなら、生産をしないで純粋に消費だけに勤しむ存在とは、子供であるからです。

貨幣と等しい消費資本主義的主体は、現実に基盤を持たない抽象性を特徴とします。
それが詩的言語と近似するからといって、騙されてはいけません。
ソシュール言語学が言語と貨幣を同質のものとして把握したため、
構造主義以降、この両者の区別が曖昧になってしまいました。
(だから「オシャレ俳句」の連中は自己弁護のために〈俗流フランス現代思想〉を援用したがるのです)
貨幣は交換の中で使用価値を失い、フェティッシュの対象となります。
言葉が意味を失い、フェティッシュな対象となったものが、
田島の句の「ただならぬ海月ぽひかり追い抜くぽ」の「ぽ」という音だけの語であり、
この「ぽ」という「無意味」によって田島は自社商品への欲望をかき立てようとしているのです。
「それ以外のもの」の方が本当は余計であるという逆説に気づけば、
田島の俳句の虚無性を理解できたことになると思います。

 

 

 

評価:
田島 健一
ふらんす堂
¥ 2,592
(2017-01-17)

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