『夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷) 山下 洪文 著

  • 2017.09.03 Sunday
  • 23:20

夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷)

 山下 洪文 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   時流に負けない超攻撃的精神

 

 

日本の現代詩といわれるものの多くは、思潮社と結びついて文化を形成しています。
その現代詩シーンに21世紀以後に登場した詩人たちの「ゼロ年代詩」を、
山下は若さと攻撃性を武器に徹底的に批判しています。
少々語り口が感情的なところもあって反発を感じる人もいそうですが、
その指摘は適切かつ的確で、正面からの反論は難しいのではないかと推測します。

冒頭の論考「夢と戦争」で、山下は詩のあるべき場所としての〈夢〉を考察します。
〈夢〉は主体性や能動性、倫理や道徳もない、根源的に現実と背反する〈異界〉です。
時代によって変化していく〈夢〉は、
現代では消費社会の〈夢〉として、浅田彰が賛美したスキゾフレニックなありかたをしています。
山下は「夢文学の復権」を訴え、そのために〈夢〉と戦争の回路を奪還する必要があると言います。
(僕は山下がラカン的な想像界と現実界をつなぐ象徴界を復活させたい、
ということを意図しているのだと解釈しているのですが)

山下が問題にしているのは「主体」についてです。
深層世界である〈夢〉を表層の言葉に移し変える「主体」の存在があって、
はじめて想像物が想像物となりえるからです。
「〈夢〉をそのまま言語化する試みは、必然的に失敗する」と彼は述べます。
〈夢〉の断片をつなぎ合わせて〈世界〉として現前させるに至るには、
詩人の主体と想像力がどうしても必要だからです。

 私たちは主体こそが、〈夢〉と〈言葉〉の境界に位する、創造の核心
 であると考える。
 主体は、〈夢〉の・原始の・死の領域と、〈言葉〉の・現在の・生の
 領域のあいだに漂っている。〈夢〉の世界から〈言葉〉を作り出し、
 〈言葉〉の世界から〈夢〉を作り出す。主体なくしては、〈夢〉はた
 だの幻像にすぎない。〈言葉〉はただの記号にすぎない。

このように山下は詩において主体が重要であることを強調するのですが、
残念ながら最近の詩や思想の潮流は主体を抹消することが何かアートなことでもあるような「勘違い」が横行しています。
その根底にはバブル期に代表される消費資本主義があり、
東大発の〈俗流フランス現代思想〉がそれに正当性を与えているのです。

主体の衰退はスキゾフレニックな(分裂病的)状態を招き寄せます。
山下はそのような状態に陥ったものとして、外山功雄や小笠原鳥類、岸田将幸の詩を取り上げます。
批判がなかなか痛烈なので、現代詩のファンには受け入れ難いでしょうが、
僕には山下の分析がまったくの的外れだとは感じられませんでした。

これらの詩人への考察は「言葉の近親相姦」と題された論考でさらに深められています。
外山らの詩は主体の衰退によって世界の中に溶けてしまう、と山下は言います。
世界と主体の境界が溶解した状態を「分裂病的」とするのはその通りで、
山下は「病理学的解釈にすっぽり収まるものを書いて「詩人」たりえてしまう、
この時代を告発している」と述べるのですが、「この時代」を告発したあたりは、よくぞ言ったと喝采したい文句です。

現代の病理を描けば文学であるような「勘違い」は、村上龍あたりからハッキリしてきました。
1997年に村上龍の『イン ザ・ミソスープ』が神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)と重なったことを価値として騒いだことです。
2005年に芥川賞を受賞した阿部和重『グランド・フィナーレ』には、
現実の女児殺傷事件を予見したという宣伝文句が使われていたと記憶しています。
平野啓一郎が文学的に行き詰まったあとに、2008年に『決壊』というネット時代の殺人者を扱った作品を書きましたが、
現代の病理を描くのが「ゼロ年代」文学の生き残り戦術となっていたという点で、現代詩だけの問題ではなかったと思います。

周回遅れの俳句の世界では、いま主体の抹消が「新しい」かのように喧伝されています。
その意味で、この現象は「文学」そのものの終わりを示しています。

個人的な意見を言わせてもらえるなら、この現象は商業主義を背景にしているものなので、
一般人相手の商売を軽蔑する態度にしか「文学」の生き残る道はないと思っています。
つまり現代では詩人は「売れたい」と思った時に終わるということです。
出版社と懇意な人間など信用できたものではありません。
(もちろん、大学という安全地帯に居続ける人間もダメだということです。
文学と異なる手段で食い扶持をなんとかするのが重要です)

さて、山下が批判するもうひとつの流れには、稲川方人門下の中尾太一、白鳥央堂の詩があります。
山下は彼らの詩を「模倣」として批判します。
「煉獄とドラえもん」という論考に詳しいのですが、
「彼らの詩的精神は、一九七〇年代詩の影響と、アニメ、マンガ、流行歌の模倣によって成り立っている。
それらを総合する主体が欠落しているため、彼らの詩はついに、風俗の記録以上のものになりえない」
その風俗も「ただ「空」の上で享受するだけ」だと山下が言うのは、
彼らが消費者というメタな立ち位置から商品(山下の言う「風俗的断片」)を眺める感覚で「抒情」を垂れ流すからでしょうか。

 軽く、やわらかく、優しいファシズム。彼らの「詩」は、そのイデオロ
 ギー的反映である。意味も思想も結ばないゼロ年代詩は、〈権力〉が拡
 散し、〈世界〉が均質化し、一切が分散された現代状況のうつしである。

なかなかに辛辣です。
批判をやるならこのくらいやった方がいいですし、
批判された方も山下が無名だからとスルーするのではなく、正面からの反論をしてほしいものです。
山下はさらに蜂飼耳や和合亮一の批判を書いています。
正直に言えば、僕は蜂飼への批判は一読してあまりよく理解できませんでした。
和合亮一への批判に関しては、これもよくぞ言ったという気持ちで読みました。
前述した主体の抹消に正当性を与えている〈俗流フランス現代思想〉は、
根底にユダヤ的要素が強く、その意味で「大戦の被害者」という立場を利用している面があります。
(フランス自体もナチスの被害者という立場にありました)
和合の発言の根底にあるのも同じ被害者的立場の絶対化で、僕は当時から本当に不快でした。
(和合の詩を『苦海浄土』と比較してみればよくわかることです)
山下はふれていないので、これは僕自身の意見ですが、
和合が感情的に「フクシマ」を連発することで、原発事故が福島県民だけの問題に矮小化され、
責任ある各団体にとって、これ以上ない手助けとなったことを誰か指摘すべきではないでしょうか。
(風向きさえ悪ければ、東京の人々だって避難せざるをえなかったかもしれないのです)
結果いまだ原発は日本国民全体にとって深刻なイシューになっていません。

僕は本書を遠出した大きな書店でたまたま見つけるまで全く知りませんでした。
若書きのため言葉遣いに乱暴さはありますが、
現代の大問題と言うべき「主体の抹消」に異議を唱えた人は本当に貴重なので、
日本が山下の言う「優しいファシズム」でないのなら、もう少し読まれてもいい本だと思います。

 

 

 

評価:
山下 洪文
未知谷
¥ 5,348
(2016-10-01)
コメント:『夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷) 山下 洪文 著

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