『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著

  • 2017.05.04 Thursday
  • 21:25

『勉強の哲学  来たるべきバカのために』 (文藝春秋)

  千葉 雅也 著

 

   ⭐⭐

   なぜ〈フランス現代思想〉というコードは脱コード化しないのか?

 

千葉雅也の論に感じる疑問はいつも同じなので簡潔に述べます。

書いていることを千葉雅也自身ができていないため説得力がない、ということです。

 

読み始めると、けっこう読みやすく書かれていますし、

「私たちはつねに、何かの環境に属している。特定の環境

にいるからこそできることがあり、できないことがある。

圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える」

などの一言多い文も千葉雅也ワールドという感じで面白く読みました。

文章については一皮むけた印象がありましたが、

肝心の内容は彼自身の壁を打ち破るものではありませんでした。

 

千葉の言う「勉強」とは、

今の環境に囚われたノリから、自己享楽的な別のノリへと移ることのようです。

要するに現行のコードから脱するため、アイロニーによってメタな立ち位置を獲得し、脱コード化を果たすことを言っているのですが、

こういう「いかにもポストモダン」というノリ自体から千葉がいつまでも変われないことを僕は問題視しています。

 

言語だけでノリを変えられるという発想も疑わしいのですが、

アイロニーによるメタ化を称揚しても、主体が無責任化して、ネット民的なメンタリティに流れ着くのがオチです。

ネット民になることが「勉強」だと言われても、そんなのスマホひとつですぐにできることだと思うんですよね。

みんなが芸能人の不倫を責めるノリでいるときに、

自分一人スマホをいじっていれば、そのコードに乗らなくてすむわけですから。

(千葉は周囲を冷ますツッコミを入れてちゃぶ台返しをすることを求めてますが、

自己享楽という動機でちゃぶ台返しをして周囲から浮くなんて変な人でしかありません)

 

そう述べる千葉雅也自身はいつまでも時代遅れの〈フランス現代思想〉というコードにしがみついているのが問題です。

何十年前のノリを脱コード化できずに、浅田彰東浩紀的コードの上で逃走(中断)を称揚しているのが千葉雅也です。

絶対の真理がないのにそれに耐えられず、何かを真理だと決めてしまうのが「決断主義」だと千葉は批判しますが、

僕には千葉自身がそれを実行しているように見えています。

 

こういう本に感動する人がいることは仕方ないと思いますが、

たいした学説を著したわけでもない若手研究者をスター扱いするノリに対して、

まったくアイロニカルになれないのに、本書の内容を理解したことになるのでしょうか。

そのあたりをしっかり考えたほうがいいと思います。

 

 

   (注)このレビューはAmazonのイチャモンにより消去され、掲載できなくなっています。

 

 

 

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