『花咲く機械状独身者たちの活造り』 (港の人) 関 悦史 著

  • 2017.04.12 Wednesday
  • 10:50

『花咲く機械状独身者たちの活造り』 (港の人)

  関 悦史 著

 

   ⭐

   自己目的化した逃走行為(SEKI NO OWARI)

 

 

2011年に出版された『六十億本の回転する曲がつた棒』に続く第2句集です。
相変わらず選句という作業の重要性が理解できていないらしく、
発表した句を「蛆湧きつぐ」ごとく、ほとんど載せています。
選句ができないというのは、一句一句に力がないことをごまかすため、
もしくは散文的な文脈で俳句を評価してもらうためではないかと疑います。
(オタク的な外部文脈に頼る句が多いだけに散文化が必要になるのです)
一句という単位を失い、散文性に依存したアリバイ化した俳句に何の意味があるのか、
現代的な問題としてそのことを真剣に考えたいと思います。

僕は俳句を読むばかりで自分では作ったりしませんが、
それでも関の俳句には奇をてらうばかりで中身がないと感じるものが少なくありません。

俳句の材料として異質な用語(学術的なカタカナ語など)を持ち込んで、
わざわざ字余りにして定型を崩し、散文的な表現にするのは常套手段ですが、
僕が感心しないのは、俳句の形式を利用することで、
主体が曖昧になるのをいいことに無責任な表現を垂れ流しているところです。
また、視覚と意味に過剰依存し韻律を軽視しすぎるのも問題です。

関の句の全体的な傾向を語っても理解しにくい方もいると思うので、
ここからは具体的に句を取り上げてどこに問題があるかを述べたいと思います。

まず、主体の曖昧さを利用してメタに立つ態度が招く安易な全般化は問題視すべきです。

 一億のアイヒマン顔初詣
 片陰や全紙全局政府に和す
 「報道」いま億の脳削ぐ鮨にまみれ
 白人女性つぎつぎ湧きぬ秋の草
 アジア人に不意に囲まる秋の暮

これらの句を見て感じるのは「あなただけが特別なの?」ということです。
一億全員が初詣に行くわけではないし(僕も行ってません)、
「全紙全局」を関がチェックしたとも信じられません。
まして全員がメディアを信じているわけでもないと思います。
それなのに、自分以外はみんなダメであるかのような物言いです。
関が白人女性でないのはわかりますが、アジア人でもないかのようなのが気になります。
とにかく発話主体が曖昧でメタ的なのです。

「アイヒマン顔」ということは一億人を「凡庸な悪」呼ばわりするわけですから、
「自分はどうなんだ?」という反論が当然起こるわけですが、
そのあたりを主体の曖昧化でごまかし切るのは無責任だと思うのです。

こういうものは自分の問題として引き受けるという倫理的態度があって、
はじめて批判をする主体への信頼が生まれるものなので、
こうしたやり方は倫理的主体化をスルーするために俳句の形式を利用していると思われても仕方ありません。
つまり、主体を曖昧にして責任を負うことなく批判をすることは簡単だし卑怯だということに尽きます。

これは「人類に空爆のある雑煮かな」の時から言えることです。
責任主体から逃走しているために安直なメタ化が可能になり、
無責任に「人類に」とか言えてしまうだけのことを、多くの人が過大評価しただけの句でしかありません。
責任主体からの逃走=オタク化に果たした〈フランス現代思想〉の影響について僕は他のレビューで書いていますが、
〈フランス現代思想〉やポストモダンの無責任性が見直され始めた今になって、
俳句でこんな周回遅れのことをやっていて恥ずかしくないのか、というのが僕の感想です。
こんなものを「新しい」と感じたとしたら、平野ノラのネタをマジで受け取るくらいの相当な流行音痴だと自覚するべきでしょう。

批評的視座や学術用語の使用に関しても同様のことが言えます。
批評をするならそれなりに鋭い視点や根拠がなくてはなりません。
学術用語を用いるなら理解の適切さが問われなければなりません。
関は俳句の形式をその義務を避けるために利用しているだけなのです。

 日本兵死因大方餓死ぞ秋
 奴隷船TPP号春眠き
 原発啓蟄「ノーモア」訛り「ノモンハン」
 無愛これソメイヨシノは皆クローン
 日本が食ひ尽くしたる鰻かな

こういうメタ俳句になると定型を崩さないのもアリバイ行為に思えますが、
季語を取ってつけて定型俳句のフリをしなければ内容は俗っぽいものでしかありません。
そりゃあ日本兵の多くは餓死だよ、だから?
ソメイヨシノはクローンだよね、だから?
日本人は鰻を食べまくってる、だから?
これらは夕方のニュースで語られるレベルの情報でしかありません。
実際に批評になる部分に関しては何も語らず、読者に投げるだけです。

またTPPが奴隷船だというのはどういうことなのか?
ノーモアが訛るとどうしてノモンハンになるのか?
根拠や説明が不足したまま投げ出して、俳句を言い訳にメタに立つ快楽だけを貪っています。

 議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇き
 エッシャーの滝を素麺流れけむ
 冷蔵庫からタナトスを出して飲む
 千の高原(プラトー)全てに映り夏の雲

これらの学術用語を用いた意味は誰か理解できるのでしょうか?
ホモ・サケルはアガンベンの著作で描かれた殺しても構わない存在のことですよね。
議事堂前のデモ聴衆は殺されてもいい剥き出しの生だとでもいうのでしょうか。
ホモ・サケルを「聖なる人」という訳語レベルでしか理解していないのではないかと疑います。
エッシャーのだまし絵で僕が思い浮かぶのは水路ですが、滝もあったのでしょうか。
タナトスは死の本能ですが、冷蔵庫から出したら本能ではありませんね。
「ミル・プラトー」はドゥルーズの著書ですが、実景になり得ないし、ただ言いたいだけでしょう。
こういう思いつきの学術用語利用は厳しく見たほうがいいと思います。
俳句を言い訳にすれば何をやっても許されるんだとしか感じないからです。

 少年(リトル・ボーイ)の魔羅立つ地平 散り建つ原発
 ゲルニカの馬福島の牛夜寒

前句はBLの文脈に置かれた句ですが、
「リトル・ボーイ」とフリガナをしたことで、広島に投下された原爆を喚起させています。
「地平」を引き合いに出すのですからBLでは意味がくみとれません。
曖昧に書いても、意図するところは原爆と原発を重ねて捉えることです。
次の句もゲルニカの空襲と原発事故を重ねたい意図が見られます。
しかし、災害における事故と戦争による殺戮を重ねるのは恣意的で乱暴ではないでしょうか。
散文で書けば知性に疑問符がつくところを、俳句にすれば読者を煙に巻けるわけです。
こういう句を並べられると、関にとって俳句は知性に欠けたエセ批評を無責任に行うための隠れ蓑なのではないかと感じます。

それからBLなど外部文脈に依存する句も、最初に言い訳が成立するため無責任な物言いに終わりがちです。
ラブドールの連作など外部文脈を無視して句だけを鑑賞したら凡庸でしかありません。
長谷川櫂の『震災句集』に当てつけた句は逆効果といえるくらいひどいものです。
試みに両者の句を並べてみましょうか。

櫂 風鈴や呻くがごとく鳴りはじむ
関 風鈴や妹呻き鳴りはじむ
櫂 人変はり天地変はりて行く秋ぞ
関 ヒト滅ぼす妹変はり行く秋ぞ
櫂 震災の今年はすごし大文字
関 吾妹らの今年は襲ふ大文字
櫂 人間に帰る家なし帰り花
関 人間に戻る妹なし帰り花
櫂 早蕨やここまで津波襲ひしと
関 早蕨やここまで妹ら襲ひしと
櫂 一望の瓦礫を照らす春の月
関 一望の死妹を照らす春の月
櫂 原発の煙たなびく五月来る
関 妹壊えて煙たなびく五月来る
櫂 幾万の声なき声や雲の峰
関 幾万の吾妹の声や雲の峰
櫂 東京を霧のごとくに襲ふもの
関 東京を霧のごとくに襲ふ妹
櫂 原発の蓋あきしまま去年今年
関 原発と妹融けあひて去年今年
櫂 塩焼の翁なるらん初笑
関 妹を焼く翁なるらん初笑

僕は『震災句集』に厳しいレビューを書きましたし、評価はしていませんが、
批判するにしてももっと責任のある他のやり方をすべきだったように思います。
サブカル(妹萌え)にズラして批判した気になれるという関の精神が僕には理解できません。
パロディとしても意味不明でつまらないのですが、
それ以上に長谷川に対して失礼なだけの行為にも思えます。

このように関の俳句は安直で問題山積だと感じますが、
理屈でしかものを考えられず、力のある俳句が作れないことをごまかすために、
意図的に定型を崩し散文化していくような言い訳(アリバイ)が常態化していることを示しておきたいと思います。

 屬董廖屬蓮廖屐舛箸覆蝓廖屐舛靴董廚覆匹寮睫澄⊇述後の多用で意味過剰の眩暈効果を狙いすぎている。

 風光るライトノベルの投げ売りは

最後の「は」の必然性がわかりません。
定型として「投げ売りのライトノベルや風光る」や「風光るライトノベルの叩き売り」とできるはずですが、
それだと凡庸になるのが嫌なのでしょう。
「は」のあとに何かあるように見せかけてごまかしているように思えます。

 解氷は石田彰の声したり

「解氷は」の部分は「浮氷」とか「薄氷」とか名詞で十分意図は伝わるはずですが、
作為的に「は」を用いて散文化し説明をすることで、俳句の詩的効果を弱めています。
関の狙いが詩的効果より俳句の散文化にあることが感じられてしまう助詞の使い方です。

 女装と知ってもウェイトレス美し文化祭

途中までは散文でしかないのに急に「美し」というのは、居心地が悪くなります。
「と知っても」のような逡巡は俳句としては捨象するべきもので、
「女装せる」と表現した方がいいと思いますが、
わざわざ散文的発想を持ち込んでサブカル臭を強めています。

 小学生といへどもマスク美人となる

「といへども」+「となる」は完全に説明になっています。
「マスクして美人となりぬ小学生」とか「小学生マスク美人となりにけり」とか、
詰めて言うことはできるはずですが、
これも散文化して定型俳句の文脈から逃げることが目的になっています。

描写が散文的なため字余りや破調を生む。言葉の無駄遣い。

 水着女の動画にアラビア語のコメント

助詞が無駄に使われすぎています。これではただの散文です。
「水着女の動画コメントアラビア語」と俳句にできるはずです。
これはファンも擁護ができないレベルのダメな句です。

 南風の品書き「親子丼」とは鮭イクラ

「品書き」は全くの無駄に思えるのですが、洗練させる気がないのでしょうか。

 烏賊墨パスタ巻き寄せ冬星的重さ

「冬星的重さ」がわかりませんが、重いことをオーバーに言いたいとして、
「烏賊墨のパスタ巻きたる重みかな」と無季にするか、
「烏賊墨のパスタ巻きたり冬の星」にするとスッキリします。
これは「イカ墨パスタを巻き寄せたら星の重さみたいだ」という散文発想に、
無理に季語を入れてアリバイで俳句に見せたような印象です。

L亀┐龍腓覆里傍┯譴鯡詰に入れて屈折感を出す。季語によるアリバイ俳句化。

 地に座す人々仮設「商店街」秋日

「地に座して秋日の仮設「商店街」」の方が韻律がよくなる気がしますが、
季語が韻律からはみ出して不必要な印象を抱かせてしまいます。
季語抜きで「人々は地に座す仮設「商店街」」でもいいのですが、
あまりに韻律を無視すると、アリバイで俳句にするために季語をつけたと疑いたくなります。

 サンタガールの素肌の腿や北風の吹く

「の」の乱発が説明的になりすぎて散文的になっています。
「素肌の腿」という表現も説明を意図していて歓迎する気になりません。
サンタガールの腿だけでも寒そうなのに、わざわざ北風というのも説明過剰ではないでしょうか。

だ擇貉を使うべきところで使わず、必要ないところで使う。

 天使の羽負ふドールや金具冷やかに

この「や」は「の」でいいところです。切る必然性がありません。
「や」を入れれば俳句に見えるというアリバイ俳句なのではないかと疑います。

 もう何も生らぬ大地に稲光
 目覚めゐる青年の身も春の水
 みんな気体の倭の山のあたたかし

「や」で切るべきところを「に」「も」「の」で繋いでいます。
「も」は理屈になるだけですし、「の」の乱発もいただけません。

 とめどなき汚染の海やサーファーゐる

最後を「波乗りす」と主体的な表現にするなら「や」の効果も出そうですし、
サーファーの主体性に思いが及び、彼の故郷愛を感じることもありそうですが、
「サーファーゐる」としたため、ただ傍観的な視点しか意識されません。
関が安全な視点に引きこもるアイロニカルな傍観者であることが無意識に現れている句と言えるでしょう。
俳句は詩である限り、こういう引きこもり体質を正当化する文学ではあってはいけないと思います。

ヌ蟻未北昌譴鯆垢して俳句にはめ込む。素材頼りのこけおどし。

 P・K・ディックのレプリカ話すディックの忌
 十二原色知る蝦蛄グレートバリアリーフの中
 ボナヴェントゥーラ『夜警』の目もて北風(きた)を歩く
 コンピュータウイルスから体毛の痕跡
 フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器

キリがないのですが、すべて縮めることが可能です。
長い固有名詞に寄りかかって定型から逃げようという発想に思えます。
俳句が省略の文学だということを彼はわかっているのでしょうか?

ζ虻遒亮臑里簑仂櫃曖昧。言語をしっかり使わず空気や外部文脈に依存する。

 元朝や瓦礫となりて瓦礫に棲む

何が瓦礫となったのか、主体が曖昧でよくわかりません。
震災句だから家だとわかってもらえるという外部文脈への依存でしょうか。
ただ、震災句と明示はされてないので、前後の句との関連で判断するしかありません。
おめでたい語である「元朝」も不適切な印象です。

 打水のいづこもメイド秋葉原

打水をしている人がメイドなのか、打水の先にいたのがメイドなのか、
言葉の使い方からすれば曖昧なのに、どこにもメイドがいるという意味で通じる気がするのは、
秋葉原といえばメイドだらけというステレオタイプの発想と、
メイドがあちこちで打水しないだろうという決めつけがあるからです。
その意味でこの句の本質は表現ではなくネタにあるといえます。

俳句を作らない僕に技術的な話は負担が大きすぎるのでこの辺りでやめておきますが、
全体として、逃走や曖昧化やメタ化という周回遅れのポストモダン的方法を俳句に持ち込みたいがために、
定型を散文にズラすこととなり、その結果、韻律への意識が希薄になるという弱点があります。
カタカナ語などの視覚要素に頼り、詩であるよりもネタであることを選んだのが関のアリバイ俳句の正体です。
アリバイ俳句で詩に興味のないサブカル人間に支持を広げたとしても、
そのあとに残るのは堕落によるHAIKU NO OWARIでしかありません。
(文学を読まない人にアピールした村上春樹をチヤホヤした後の純文学をごらんなさい)

関は「クプラス」という同人誌で僕にレビューされたことを「被害に遭った」と書いているのですが、
購入した人がつまらない句集を批判するのは普通のことではないでしょうか。
自分の著作に気に食わないレビューを書かれたからって、
「被害に遭った」としてレビュアーを責める(それも同人誌で)のはどうかと思います。
著作を世に問うつもりで出していながら、批判をされることを覚悟していないのでしょうか。

低評価レビューをすると、書いた人間が悪いとばかり非難する人が目につきますが、
批判の存在を否定して肯定ばかりが溢れる世界が本当に健全なのでしょうか。
僕はナルシシズムを原理とした今の日本社会の行く末が心配です。

 

 

 

   (注)このレビューはAmazonに4回以上不当に消去されたため、掲載日が変わっています。

 

 

 

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