『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田) 四ッ谷 龍 著

  • 2017.03.09 Thursday
  • 13:48

『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田)

  四ッ谷 龍 著 

 

   ⭐

   コマネチやコケまくってるこの句集

 

 

田中裕明賞で審査員として専制をふるっている四ッ谷龍の新句集です。
若手との交流と震災とバッハ研究が影響していると著者本人が記しています。
僕には震災の影響はあまりつかめなかったのですが、
若手交流とバッハ研究の影響は確実に悪い方に働いていると感じました。

全体を読んで印象に残ったことは二つあります。
ひとつは切れ字の使用をできるかぎり避けたり、
定型を崩す字余りを意識的に多用しているということ。
もうひとつはバッハ研究の成果を俳句に持ち込んで、
フーガ形式のような連作をつくっていること。

「ナルシシズムとか頭でひねったアイデアみたいなのが先にあって、
それを言葉にしちゃってるようなところもある」
とは第三回田中裕明賞で四ッ谷が山口優夢の句を評した言葉ですが、
同じ印象を僕は四ッ谷自身の句集に抱きました。

 台風がアンモナイトの上に来る
 「トースターで焼かれたような」詩が愛撫から生まれ
 プレート・テクトニクス男同士の腕からまる
 なんという朝!奴はあんこになっちゃった

台風の渦巻きが渦巻き模様のアンモナイトの上に来るという句に、
ユーモアを感じるには前提としてメタ的な視点が必要です。
つまりこの句に実景のユーモアはなく、
メタ的な戯れに優越感の喜びを感じるナルシシズムがあるかどうかが作用します。
僕はこういう無機的な言葉によるメタ的遊戯は詩ではなくサブカル的な堕落だと思っているので、
ユーモアがあるとはまったく思いません。

「トースターで焼かれたような」詩、とは何か出典でもあるのでしょうか?
僕にはまったくわかりませんでした。
詩が愛撫から生まれ、の部分も、
物質でないものを愛撫するというのは飛躍がありすぎて困惑します。
こういう句は意味がわからなくても、
読者に何かしらのイメージを立ち上げられれば、詩になると思うのですが、
それも難しいのではないかと思いました。
せいぜい「うまいこと言った」という作り手の自己満足があるだけです。

プレート・テクトニクスとからまった男の腕もイメージを取り結びません。
大地を男性の腕と重ねているのでしょうか?
でも、プレートテクトニクスはプレートの水平移動を意味しても「からまる」ことは直接には意味しませんよね。
もし、プレートのぶつかり合いで起こる地震を意味したいのならば、
プレート・テクトニクスでは意味合いが不正確(プレートの移動が必ず大地震になるわけではない)なので、
どうして「プレートの衝突」と言わないのかという疑問が起こります。
おそらく主観過多か知的な操作をしたかったのかのどちらかだと思いますが、
こういう関悦史に影響されたような主観過多なカタカナ語の濫用は、作り手のナルシシズムしか伝えません。

最後の「なんという朝!」はバイきんぐの小峠のネタ「なんて日だ!」の方が5文字ですぐれています。
キャッチーなお笑いはお笑い芸人に任せた方が良いでしょう。

四ッ谷は「素直に「かな」とか「けり」とか使っちゃだめなんですね」と第6回田中裕明賞の審査で発言しているので、
この句集でも「かな」と「けり」の使用は極力避けられています。
問題はその試みがどれだけ成功しているかですが、
あまりうまくいっているようには思えませんでした。

切れ字を避けたため、四ッ谷の句には一定のパターンが目立ちます。
1 AのB CがDする
2 AがBする CがDする
3 AがBするとCがDする
の形です。
特に最後を用言で終わる句が多いのが特徴的です。
四ッ谷は佐藤文香の句を「これは俳句ではない」と批判しましたが、
そのとき「一句は一句として、物として確立していなきゃいけない」と偉そうに言っていたのですが、
用言で終わる句の多くは一句屹立を弱める効果になるだけに終わっています。

 水蛸の口開け襞揺れ全脚巻く
 排気塔霧を突きおり二基見ゆる
 波音の砂町に来て鈴緒引く
 鵲の橋はほろびぬ星雲輝る
 檜の根のぼる亀虫ひっくり返る
 鶺鴒が剣道具店へ来て飛び去る

僕は俳句をやらないので作り手の事情はわかりませんが、
このような結句の用言は、そこが終わりであることを明示できないために、
一句を「物として確立」させるのは難しいのではないでしょうか。
中には「ただの散文じゃないの?」と思う句もありますよね。

ホトトギス的な有季定型に挑戦するのはいいと思うのですが、
かえって俳句を弱めたり崩したりしていることが目立ちます。
こういうのは前衛的試みを讃えるのではなく、やはり結果で評価することが大切です。
(もちろん有季定型の堕落した句も批判すべきです)

ちなみに四ッ谷は第7回田中裕明賞の審査で、
有季定型にこだわる村上鞆彦の句の評価で、
「かな」「けり」を安易に使うところを批判していたはずですが、
使わない結果がこんな句でしかない人には言われたくないと村上も思ったのではないでしょうか。
(その意味で四ッ谷に言われて意見を変えた岸本尚毅は信念のない人間だと失望しました)

長くなったので終わりたいのですが、
もうひとつ、四ッ谷がバッハ研究の影響と述べていたように、
フーガ形式に着想を得たと思われる連作についても言わなければなりません。

 枯野人測量の棒持ち上げる
 長靴に艶とて失せぬ枯野人
 行く我を眼で追っており枯野人
 立ち小便終えれば元の枯野人
 地に何か落として屈む枯野人
 両頬のてらてらとして枯野人
 枯野人かばんを掛ける肩換える
 ポケットから何かはみ出て枯野人
 枯野人携帯電話に「えっ、えっ」と

四ッ谷は一句で完結していないものは俳句ではないと言っていたので、
これは俳句ではないのかもしれないのですが、
日野草城「ミヤコホテル」以来、連作というのはどうしても散文的になりがちです。
上に引用した句もやはり散文的な場面描写の連続を逃れられていません。
一句としてはともかく、まとめて見ても特に面白くもありません。
仲間内の俳人は謹呈本でタダで読んでいるので、面白いですませられるでしょうが、
高い金を払って買ったのに、こんなものを読ませられてはたまりません。

もっとひどいのが、これに頭韻を組み合わせた連作です。

 なななんとなんばんぎせるなんせんす
 男色のなんばんぎせるなななんと
 生煮えななんばんぎせるナルシスト
 泣いちゃうぞなんばんぎせるなまけもの
 なにくそやなんばんぎせるなんぼやねん
 なりきったなんばんぎせる鍋つかみ
 殴りあうなんばんぎせるなまけもの
 嘆くなよなんばんぎせるなせばなる
 なちゅらるななんばんぎせる嘆くのな
 成増でなんばんぎせるなかなおり

実は上の句にはひとつだけ模倣をした僕の句が入っています。
区別できないとしたら、俳句をやらない人間でもできるということです。
こういうのは、座を囲んでみんなで言い合うのであれば楽しいかもしれませんが、
句集として金を払って読む気になるものではありません。

余計なことですが、この連作のどこにバッハ研究が活かされているのかもわかりません。
フーガ形式は主題を繰り返しますが、
対唱、応唱と主題自体がズレながら、ビブラート的な拡張効果をもたらし、
垂直性の展開をもたらす、つまりはクライマックスに向かうものだと思います。
しかし四ッ谷の連作は繰り返されるものが季語である時点で、
作り手の創作した主題でもなく、主題自体のズレもありません。
当然クライマックスはなく、水平的にダラダラ続くだけです。
これはむしろ日本的な「奥」の形態に近く、どこがバッハなのか首をひねりたくなります。

全体的にこういう知的操作の自己満足ばかりが目立つ句集でした。
結果、パズルのように用いられた言葉は無機的な道具に貶められ、
感動を導いたり、詩的なイメージを喚起したりする詩語にはほど遠いものになっています。
いろいろ工夫をすることも大事ですが、結果が「つまらない」句でしかないのは問題です。
頭で考えたことがどれだけ立派でも、
できあがった句がある程度の文学的水準に達しなければ意味がないということを、
四ッ谷はもっと胸に刻みつけるべきだと思います。

 

 

 

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM