『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房) 大黒 岳彦 著

  • 2016.11.22 Tuesday
  • 20:14

『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房)

  大黒 岳彦 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   情報社会の存立構造に迫る渾身のクリティーク

 

 

NHKを退職して東大大学院に入り、明大教授になった経歴を持つ
大黒岳彦がメディアに対する体系的批判(クリティーク)を試みた本です。
いまだ旧世紀の発想でメディア論を上梓している学者もいる中で、
大黒は2010年以降の最新メディア環境を扱っています。
GoogleはもちろんビッグデータやAI、SNSなども扱われています。

まず、導入となる序章が興味深いのです。
大黒はインターネットというネットワークメディアとテレビ的なマスメディアを区別し、
その地殻変動をマーシャル・マクルーハンを題材に考えていきます。

マクルーハンは著書『グーテンベルクの銀河系』で活字の黙読による個人主義文化の成立を語りましたが、
彼個人は〈活字〉の文化より共同体的な〈声〉の文化を理想視していました。
マクルーハンはテレビという〈電気〉メディアによって〈声〉の文化の復活を目論んでいたのです。
大黒はそこにカトリック的な一体感を持つ共同体としての「地球村」への憧憬があったと語ります。

しかし実際にはインターネットによって「地球村」は実現していません。
「なぜならメディアは一般的に言って、「融合」と同時に「分断」と「差別化」をも果たすからである」
と大黒はいうのですが、これは重要な指摘です。

 電話というメディアは、単に人と人とを〈つなぐ〉技術ではな
 い。それは、「いつでも電話で話せるから」という理由で人と
 人とを〈切り離す〉技術でもある。また、ある人と〈つながる〉
 とは、その人を選別したことであり、したがってそれ以外の人
 を〈排除〉したことを意味する。

いつでも自己都合でつながることは、それ以外の時間はつながりたくない、という欲望を生みます。
また、つながりたい相手を自己都合で選ぶことは、望まない相手からのアプローチを嫌悪することになります。
問題なのは、圧倒的に〈切り離す〉時間や相手が増えるということです。
現代の排外主義はこのようなメディア環境によって引き起こされているのではないでしょうか。

大黒は排外主義の話ではなくマクルーハンが依拠したメディアが、
テレビ的なマスメディアであったことを問題にしていきます。
マスメディアとは「権威としてのプロフェッショナルが制作した情報コンテンツが大量に複製され、
それが大衆という不特定多数の受容者に対して情報「商品」として一斉同時送信される「環境」」ですが、
ネットワークメディアでは発信者と受信者の区別がハッキリしなくなるので、
マクルーハンが描いたような事態にはならなかったのです。

個人的なことですが、僕はAmazonでレビューを書いたことで、
著者から何度か人格を貶めるツイートを流されました。
彼らはいまだ「プロフェッショナル」としての「権威」だけを貪り、
「プロフェッショナル」な仕事をしない人たちなのですが、
ツイッターを扱いながら彼らがメディア環境の変化にいかに対応できていないかがわかります。

この変化から、大黒は学者の知識に依拠した仲介業である「知識人」がお払い箱になると指摘します。
ネットワークメディアにおいては、マスメディアから大衆へというヒエラルキーは成立しなくなるのです。
それに代わり、情報社会の「知識」をめぐる権力を主導するのはGoogleだとします。

第一章はあらゆる情報を収集する「汎知」のあり方を、
文字メディアの様態である博物誌、百科事典、教科書を順々にさらいつつ、
電子メディアの様態(代表はGoogle)への変化をたどります。
大黒が強調するのは電子メディアのユーザーインターフェイスには「主体性」が実装されているということです。
どういうことかというと、断片化された情報をつなぐ「リンク」という知的作業は、
利用者の側ではなく検索システムの側にあるということです。

大黒はこのような事態をマルティン・ハイデガーが予言していたと述べます。
ハイデガーはテクノロジーの自己目的化運動を「配備=集立」(Ge-stell)として批判しています。
このような事態は現在も進行中であるわけですが、
昨今の思弁的実在論は情報社会の現状を追認し適応を促すばかりで、
ハイデガーの予言を覆すに至っていない、と大黒の口吻は不満げです。

第二章はビッグデータを扱っています。
問題となるのはデータ収集の運動が〈自律=自立〉することです。
人間の意志決定はビッグデータの自己目的運動に組み込まれ、知らず知らず「搾取」されることになります。
そこではデータのオートポイエーシスの方が「主体」となるのです。

第三章はSNSによるコミュニケーションの情動化をふまえて、
「実在的」社会把握に代わる「抽象的」な社会理論としてニコラス・ルーマンの社会理論が紹介されます。
ルーマンは社会をコミュニケーションの連鎖的接続によって産出されるオートポイエーシス・システムと考えています。

人工知能とロボットに触れるのが第四章です。
ここでは身体がネットワークに組み込まれることで、人間から引きはがされ、
「配備=集立」(Ge-stell)の運動に巻き込まれる事態が語られます。
大黒はAIが従来のように所与のデータを扱うのではなく、
人間のアウトプットしたデータから認識困難な課題を見つけ出すようになり、
人間を素子として利用している点で、すでに人間を超えていると述べています。

大黒はロボット工学者のロドニー・ブルックスの「包摂アーキテクチャ」を取り上げ、
それが人間ではなく昆虫に範をとるものであり、
主体性が局所化、分散化されることを指摘します。
もはや主体性に内面は必要がない、自律して「見える」ことが主体性だと判断されるというのです。

 では、AIとロボットがそこへと組み込まれつつある新しい社
 会とは如何なるものなのか? (中略)端的に言えばそれは、
 〈コミュニケーション〉が非人称的“演算”(Operation)として
 持続的に連鎖する中で、社会構造が〈再帰的(reflexiv)=自己言及
 的(selbstreferenziell)〉に、すなわち社会過程の反復によって力動的
 に再生産される一つの〈システム〉である。

大黒は情報社会の中で人間は
「AIやロボットと機能的に等価なネットワークのノード」となり、
主体性の特権的所有を誇ることはなくなると語ります。

最終章で大黒は情報社会において倫理が可能かを問います。
倫理には権威の承認が必要だが、インターネットはそれを無化する構造を持つため、
〈ネットワーク〉メディアにおいては倫理の不可能性が前景化せざるをえないからです。
こうした状況に対し、大黒は倫理的多元主義の可能性を考察します。
ルーマンとジャック・デリダの思想をヒントにして、
現行の社会システムを別でもあり得た可能性の一つとして相対化し、新たな多元性の領野を偶発的に捉えるというやり方です。

このあたりの議論はとりわけ抽象的なので、詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、
非倫理的な外部の参照によって絶えず倫理のアップグレードをはかり、
システムそのものが不断に変化することだと僕は理解しています。
こうして「〈倫理〉こそが情報社会の「可能性の条件」なのである」という一文で本書は閉じられます。

この長いレビューにつきあっていただいた方にはおわかりだと思いますが、
本書は情報社会の現在を捉えるための広い視野と深い考察に満ちていて刺激的でした。
「哲学」ということを強く意識しなくても多くの示唆が得られる本だと思いますのでぜひ一読をおすすめします。

 

 

 

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