「第六回 田中裕明賞」 (ふらんす堂)

  • 2016.05.15 Sunday
  • 07:55

「第六回 田中裕明賞」 (ふらんす堂)

 

 

   ⭐⭐⭐

   次回からは「四ッ谷龍賞」を一人でやった方がいい

 

 

田中裕明賞は俳句界に新風を送り込む新人賞というイメージですが、
その審査の透明性には特筆すべきものがあると思っています。
石田郷子、小川軽舟、岸本尚毅、四ッ谷龍の各氏が候補作の中から、
1〜3位を決めてそれぞれに3〜1点を割り振って点数をつけていきます。
その結果をもとに論議して受賞者を決めるのですが、
その選考会の様子が対談のかたちで冊子として読めるのです。
なかなかそのような賞はないので、非常に良いことだと思います。

しかし、審査の過程が透明であることと審査そのものが透明に行われていることは別だと思います。
本書に対応する第六回とこの前発表された第七回の選考結果を見ると、
ある選考委員が「ゴリ推し」とも取れる力の入れようで結果を思い通りにしようとしているのではないか、
という疑問が拭い去れません。

第六回田中裕明賞の受賞作は鴇田智哉『凧と円柱』でした。
僕もこの作品が受賞すると思っていたので結果に疑問はないのですが、選考委員の得点の内訳を見てみると、
石田2位(2点)、小川2位(2点)、岸本2位(2点)、四ッ谷1位(3点)
となっていて、1位に推したのは四ッ谷だけという結果でした。

ちなみに次は佐藤文香『君に目があり見開かれ』と鶴岡香苗『青鳥』でしたが、佐藤の句集の得点は、
石田3位(1点)、小川1位(3点)、岸本1位(3点)、四ッ谷圏外(0点)
となっているので、実は1位に挙げた選考委員が二人もいます。
つまり、四ッ谷がいなければ鴇田6点、佐藤7点と違う結果も考えられたのです。

そうなると、四ッ谷が佐藤の句集に点を入れなかったことが気になります。
そこで四ッ谷の佐藤句集の評価を読んでみたところ、「ここまでけなすか?」という内容に驚きました。

四ッ谷が佐藤の句集を批判した内容をまとめると、
一句が俳句として完結せず読者に投げている、
書き手の主観が出過ぎて短歌的である、
という感じなのですが、「これは俳句ではないと思いますね」という強い否定が新人に向けて選考委員が言うべき台詞なのか疑問でした。
おまけに二人の選考委員が1位にしているのですから、「俳句ではない」という排他的な物言いは彼らにも失礼でしょう。

また、四ッ谷の批判が他の選考委員を全く納得させていないことも問題です。
四ッ谷が佐藤の句を作者本人しかわからないと批判したところ、
石田は「私もわかった」とその意見を否定していますし、
小川は四ッ谷の短歌的で七七をつけたくなるという批判に、
「決して七七を求めて間延びしたんではなくて、
五七五の意味をもう一度考えるための破調かなあというふうに
私は好意的に読みました」と同意していません。

四ッ谷の佐藤の句に対しての分析については理解できなくはないのですが、
そのような俳句観とはじめから違うところで勝負しようとしている佐藤に対して、
端っから理解しようという気のない読み方だと感じました。
選考委員なのですから、自分の俳句観に合うか合わないかで審査するのは狭量すぎる気がします。

このように四ッ谷は気に入らない句集に対して厳しいのですが、
自分が推している句集に関しては意外と甘かったりします。
主観というなら鴇田智哉の句にも言えるところはあります。
僕は『凧と円柱』のレビューで鴇田は助詞の操作によって、原風景を主観的に描き直していると批判しましたが、
四ッ谷は「確かに「の」を良く使うんですよ。「の」とか「に」とか。
この問題については議論の余地があるでしょうね」
と発言するだけで、実際に議論もなされず、鴇田の助詞の操作が主観の拡大作用であることに関しては指摘することができていません。
俳句をやらない僕でも指摘できることを批判的に考察しようとしないのは、
結局は好き嫌いで判断しているだけではないかと疑います。

僕は『凧と円柱』のレビューで、鴇田の俳句を言語操作でパターン化した「金太郎飴」と評しましたが、
小川も「何か意味を抜いたりずらしたりっている手の内が見えてくると、
あっこれはパターンだなと思ってしまう部分もあるんですけれど」と指摘しています。
もちろん四ッ谷は鴇田のこのような面には触れようとしません。
自分が推す句集には批判的視座がまったく欠けてしまうのです。

とはいえ、鴇田智哉の『凧と円柱』が最高点をつけた句集なので、
これが受賞するのは正当だと思います。
しかし、第七回の結果は看過できない問題があるように感じました。

当欄は第六回田中裕明賞のレビュー欄なので、第七回の結果について書くのは逸脱行為かもしれませんが、
第七回の冊子が出てから問題にするのでは遅すぎると感じたので、
抗議の意味を込めてあえてここに書かせていただきます。

第七回田中裕明賞は北大路翼『天使の涎』に決まりました。
しかし、ふらんす堂のホームページを見ていると、過去に例のない事態が起こっています。
北大路の句集は最高点を獲得してはいないのです。

最高点を獲得したのは村上鞆彦の『遅日の岸』で、
石田1位(3点)、小川1位(3点)、岸本2位(2点)、四ッ谷圏外(0点)
ですが、対する受賞作の北大路翼『天使の涎』の得点は、
石田3位(1点)、小川2位(2点)、岸本圏外(0点)、四ッ谷1位(3点)
なので、村上8点と北大路6点とその差は2点であるように見えますが、
四ッ谷以外の三人だけを考えると、村上8点、北大路3点と大差がつきますし、
四ッ谷以外の三人全員が北大路より村上の評価を上にしています。

もちろん必ずしも点数で受賞作を決める必要はないと僕も思いますが、
この点数の内訳を見れば、四ッ谷一人しか村上の受賞に反対する人間はいないことがわかります。
つまり、四ッ谷一人が他の選考委員の意見を考慮せずに北大路の作品を受賞作に「ゴリ押し」したと考えられるわけです。
これは僕の勝手な推測ではありません。
小川軽舟の「選考委員の言葉」を読むとそのことが確認できます。

  『天使の涎』が受賞することには異存なかったが、『遅日の岸』
 は問題が多く受賞に値しないとの四ッ谷氏の意見には賛成できず、
 田中裕明賞の選考会では初めて最終的に多数決で受賞作を決めるこ
 とになった。

たしかに、『遅日の岸』はすでに俳人協会新人賞を受賞していますし、
伝統的な作風が田中裕明賞には物足りないという意見はわかりますが、
津川絵理子のときにそんな話は出ませんでしたし、
何よりも、自分が評価する作品に受賞させたいからといって、
最高点をつけた句集を「問題が多く受賞に値しない」などと貶める方向で引きずり落とすというのは、
いくら選考委員であってもやりすぎではないでしょうか?

四ッ谷は「選考委員の言葉」で村上の句の「情景描写に主観が入り込むところなど共感できぬ部分があり」と書いていますが、
作品なのですから主観が入り込むのはある程度避けられないので、そのことだけで問題になるはずはありません。
そこにネガティブな評価を下すのは、自分が「共感」できないことが大きいのでしょう。
つまり、本質的な問題は四ッ谷が村上の句に「共感できぬ」ということなのです。
作品に対して「共感」できるかできないかは大事なことではありますが、
「共感できぬ」という理由で作品に受賞の価値がないとまで主張するのは、
もはや選考者の態度を逸脱していると言わざるをえないと思います。

総じて選考会での四ッ谷の態度には専制的な面が見られるのですが、
生前の田中裕明とのつきあいによって特別な後押しでもあるのでしょうか?
他の選考委員の評価に耳を傾けないのは、何か自分が特別だ(自分こそが田中裕明を理解している!)という意識があるのでしょう。
四ッ谷は俳句に主観が入ることにやたら批判的ですが、
自分の選考基準が度を超えて主観的であることにも批判的視座を持っていただきたいものです。
(主観的でなければ、他の選考委員を納得させられるはずですしね)

俳句界の内輪主義にはずっとウンザリさせられているのですが、
生前のつきあいがある種の「権力」のように作用するのであれば問題です。
俳句の評価について独断を押し通したければ、田中裕明の名に頼らず、
自ら「四ッ谷龍賞」を開設するのが筋だと思います。
僕のように言葉ひとつでものを申している人間からすると、
知人の権威を利用して持論を声高に語る人間は甘えているようにしか見えません。

 

 

 

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