『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書) 白井 聡 著

  • 2018.05.04 Friday
  • 01:01

『国体論 菊と星条旗』 (集英社新書)

  白井 聡 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   戦後左派の主張の延長だが、今やこういう本も貴重

 

 

『永続敗戦論』でヒットを飛ばした白井聡が、

現代日本の「永続敗戦レジーム」のルーツを近代の天皇制国家体制である「国体」とみて、

日本の近代史を「国体」の護持という視点から描いてみせたのが本書です。

日本が敗戦後も戦時「国体」の存続を望んだことが、戦後のアメリカ従属の原因だと白井は考えています。

 

問われるべきは、戦前から引き継がれたシステムとしての「国体」が、対米関係を媒介としてその存続に成功したこと、そしてそれによって、どのような歪みが日米関係にもたらされたのかという問題である。

 

こう述べる白井の問題意識は、現在の「永続敗戦レジーム」が歴史的に成立した経緯を明らかにすることなので、

近代から戦後までの通史に照らして「国体」護持(果ては天皇制)という不可視化された日本人の核を、

なんとか浮かび上がらせようと努力しています。

ただ、結論そのものは『永続敗戦論』とそう変わらないので、その学問的手続きを退屈に感じる人もいるかもしれません。

 

白井の主張する「永続敗戦レジーム」とは、敗戦後の日本がアメリカに永久服従する体制のことです。

独立国としての尊厳もなく、不公平な日米地位協定を改定もできず、永遠にアメリカの卑屈な子分の道を歩む戦後日本。

白井はこのような体制を「異様なる隷属」として、

「日本は独立国ではなく、そうありたいとという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と糾弾します。

 

このような「奴隷」を思わせるアメリカへの絶対服従がどうして起こったのかを、

白井は「国体」を至高の価値とする近代日本史を振り返ることで説明していきます。

敗戦後、アメリカは共産主義陣営との冷戦をにらんで、

前線基地として日本の安定支配を必要としたわけですが、

そのために天皇制を保存することを選択したため、戦時「国体」が延命することになりました。

D・マッカーサーがアメリカ幕府として天皇に承認されたかのように日本人は受け取ったわけです。

この解釈は特別新しいものではなく、それなりに知られているので、

戦後史を知っている人間なら反論する人はいないのではないでしょうか。

 

僕は前から疑問なのですが、

国体が護持されたということは、真の意味で日本は敗北していないとも言えるのではないでしょうか。

白井は「永続敗戦」と言いますが、天皇制の支配層にとっては国民が何人死のうが、

ラスボスである天皇が生き残れば「敗戦」ではないと言えなくもありません。

白井は日本人が敗戦を「否認」していることを糾弾しているのですが、

もし「敗戦」していないのであるならば、それは「否認」ではなく真実でしかないわけです。

僕にはこのあたりの白井の考察はまだまだ弱いと感じます。

 

本書でも触れていますが、

天皇とその周囲は、ロシアが共産主義革命による皇帝の殺害を行なったことで、

日本でも同じことが起こることを恐れていました。

つまり、昭和天皇は自分の命を何より惜しんでいたわけです。

(このことはハーバート・ビックス『昭和天皇』を読んで僕が受けた印象でしかありませんが)

アメリカも天皇制支配層も戦後の共産主義革命を恐れていたため、

両者の利害が一致して戦後体制が始まったことを白井は指摘しています。

それならばやはり、天皇制支配層にとっては軍部を切り離すことで、

真の「敗戦」を免れたと言えるのではないでしょうか。

 

このことから、僕は白井の論に根本的な矛盾があると考えざるをえません。

戦後に国体の護持が行われたのなら、日本は「永続敗戦」どころか天皇制の勝利が続いているとするべきですし、

それが不満であるならば、天皇の「お言葉」などを自らの論拠に持ち出すのはおかしいのです。

白井は天皇制と戦う気があるのかないのか、僕はそのあたりを怪しんでいます。

 

もし天皇制と本気で戦う気があるのであれば、

近代天皇制の考察をするだけでは問題の本質にはたどり着けないと言っておきます。

僕自身の考えを簡単に記しておくと、天皇という存在は共同体にとっての外部のシンボルという役割を負っています。

引きこもり体質の日本人は外圧をひどく恐れているため、自己享楽をする以外の行動原理は外圧にしかありません。

そのため、普段は外圧を無化して鬱に陥ることを避けなくてはいけません。

そこで外部を天皇という存在に肩代わりさせ、彼を崇拝することで内輪のシェルターを築いたのです。

(そのため、天皇は死者という外部にも通じる回路なのです)

 

白井は日本人がアメリカ依存をしていることを糾弾しますが、

そもそも日本は中国文化に依存していた国です。

外圧の中にいて外圧を無化(否認)して自己享楽する以上の価値がない国なのは、

長い歴史の中で維持されてきたアイデンティティであり、戦後に始まったものではありません。

それを支えているのが古代からの天皇制なのです。

日本史を見れば、外圧に屈するか、引きこもるか、侵略戦争に打って出るか、そのどれかしかありません。

(アメリカ=世界として、それだけを外部の窓とするのは、鎖国と大差ないと思いませんか?)

 

白井は天皇制が「第二の自然」として不可視化されていたため、共産主義者の天皇制との戦いが困難だったと述べています。

外部を放逐して内輪で楽しくやりたい日本人にとって、外部の象徴である天皇を不可視化するのはシステム上不可欠なのです。

白井は不可視化された天皇制+アメリカ支配を認知するように日本人に要求しますが、

そのためには日本人の欲望が変わるか、否応なく巨大な外圧によって開国を迫られるかしかないと僕は思っています。

 

なにか批判しているような書き方になってしまいましたが、

僕としては白井に本気で天皇制に戦いを挑む気があるのならば、

中途半端な思索で満足せず、歴史に挑戦する気持ちで市民革命を呼びかけてほしいのです。

しかし、天皇制を批判するわりに、天皇の「お言葉」に依存するような内容でしかありませんでした。

僕が残念だったのは、

白井の論には丸山眞男や竹内好などの受け売りそのままと感じられるところがあって、

戦後左派の考えをそのまま受け継いだだけに終わっているように感じられたところです。

 

もちろん、ポストモダンなどのインチキ思想に享楽して、

丸山眞男や竹内好などの戦後思想も知らないのに思想人ぶっている似非知識人が増えている中、

白井のように戦後左派の思想を受け継ぐ意志を持つ人は貴重だと思います。

その意味で僕は本書の社会的意義を評価しますが、個人的な感想だけを言えばかなり物足りないというのが正直なところです。

 

細かいことですが、

白井は「天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体を成して」いると述べています。

その指摘はしごくもっともだと感じますが、

それなら憲法9条の維持に賛成しながら沖縄の基地に反対する態度は矛盾していることになるのではないでしょうか。

安保体制を批判するのは構いませんが、同時に左派政党の欺瞞も批判するのが筋だと感じます。

 

戦前戦後の時代区分に社会学者の大澤真幸のアイデアを用いるのも少し安易に感じました。

もともと大澤が師の見田宗介の区分に倣ったものであり、歴史を都合よくメタ化する方法として用いられている印象です。

明治憲法における天皇の二重性については、とりたてて問題とすることなのか僕にはよく理解できませんでした。

立憲主義からすれば君主の立場に二重性があるのは当たり前のことにも感じました。

北一輝を取り上げ、「国民の天皇」が挫折したら「天皇の国民」イデオロギーが回帰するとするところも、

僕には腑に落ちる感じがあまりありませんでした。

北一輝の発想が時代を代表していたとも思えませんし、だからこそ二・二六事件は挫折したのではないでしょうか。

 

僕は白井の「永続敗戦レジーム」への批判には共感するのですが、

以上のように本書の論理に関しては同意できない部分が多々ありました。

結局、白井は日本近代史における「国体」の問題に興味があるのではなく、

「冷戦終焉後の世界で、アメリカに追従しておればまずは間違いない

という姿勢が日本の国家指針であることの合理性が失われた」

ということを主張したいのだと思います。

南北朝鮮の融和ムードによって、白井の指摘はだんだんと信憑性を増していることは間違いありません。

アメリカに隷属しているだけではジリ貧である、ということを正面から語れば良かったと思います。

 

 

 

「現代思想 特集=保守とリベラル」2018年2月号 (青土社)

  • 2018.05.03 Thursday
  • 13:08

「現代思想  特集=保守とリベラル」2018年2月号  (青土社)

 

 

   ⭐⭐

   日本にイデオロギー対立はあるのか?

 

 

最近、政治の場面では右翼vs左翼という対立軸に変わって、

保守vsリベラルという立場が持ち出されたりしています。

 

そのわりに、「保守」や「リベラル」の定義すらハッキリしていません。

リベラルは理性を盲信するが、保守は理性を疑うのだ、などという

保守マンセーのための大嘘を著書やテレビで平気で振り回せる世の中になっています。

(じゃあフランス革命に共感したカントは保守思想家かよ)

このような不確かな言葉を「シニフィエなきシニフィアン」として「言霊化」してしまうのが日本人なのですが、

「ねじれる対立軸」という副題をつけても、結局は対立軸として採用してしまう本誌の知性も怪しまれます。

 

本誌の執筆者の多くも保守とリベラルという対立軸への疑念をあらわにしています。

北田暁大は「保守/革新」と欧州型「リベラル/ソーシャル」の対立がごちゃまぜになって成立した「日本型リベラル」を分析しています。

北田は「リベラル」とは「革新」から社会主義色を薄くしたものではないか、と書いていますが、

社会主義体制の崩壊によって、左派のモデルがアメリカ型になったという見方には首肯できます。

 

「日本型保守」の効果的な分析が見当たらなかったのが残念ですが、

右派の国家主義的な面をマイルドにするための表現だと僕は考えています。

つまり、右派も左派も共にイデオロギーを脱色していった結果、保守とリベラルという語に落ち着いたのでしょう。

その意味では便宜的に成立した語でしかないので、

大澤真幸が宇野重規との対談で引き出そうとしている日本の保守の逆説的なねじれ、

つまり、本来の保守とは似ても似つかないことを示すことにはあまり意義は感じません。

 

僕は日本の右派と左派の対立というのは、

保守やリベラルという身にまとうイデオロギー自体はただのファッションでしかなく、

思想的な内容を欠いた対立だと感じています。

だから、保守やリベラルという思想(イデオロギー)を考察することにほとんど意味はありません。

本誌の特集がレビューがひとつもつかないほどコケているのは、そのためです。

保守の嘘、リベラルの嘘、とどっちも嘘だらけなのも当然です。

だって中身なんてないのですから。

 

森政稔がリベラル左派は安倍政権を批判しても北朝鮮の人権問題をスルーしてきたことを批判していますが、

これもイデオロギーを基盤として行動しているわけではないからだと考えれば何も不思議ではありません。

右派も全く同じで、彼らは愛国とか言いながらアメリカ従属の売国奴であっても平気なのです。

日本の右左の対立が思想やイデオロギーとは無関係に成立していることを、そろそろ知識人も気づいたらいいと思うのですが、

思想の雑誌だから思想の問題という前提を崩すわけにはいかないのでしょうか。

 

どこかでまとめて文章にしようと思ってはいますが、ざっと語ると、

自己充足的な日本人の行動原理は本質的に外圧しかありません。

そのくせ物事の基準が自己本位の「甘え」でしかないため、

その外圧が自分にとって同情的か敵対的か、自分を好きか嫌いかという判断へと収斂します。

日本の対立軸など本質を言えば「甘え」を許容するかしないか、これしかありません。

右派は「甘え」を許容してほしい人々、左派は「甘え」に批判的な人々ということです。

そのため右派は権力にすりよる人々、左派は権力に対して闘争的な人々になります。

(その左派が権力側になると、今度は自分たちの「甘え」を許容する右派へとひっくり返るのです)

 

要するに自分の「甘え」を許容する味方か批判する敵かという対立であって、イデオロギーは方便でしかないのです。

批判する側も身内の問題には味方だからと目をつむり、「甘え」を許してしまうので、

現在の利害による対立でしかなく本質的に中身はどちらも一緒なのです。

僕に言わせれば、どっちも日本人でしかないということです。

 

本気でこの問題を考察したければ、このような日本人の本質を考察しなければいけないのですが、

そのあたりにわずかにでも届いている論考は、岡野八代「フェミニズムとリベラリズムの不幸な再婚?」くらいでした。

岡野は日本軍性奴隷の問題を中心において、保守とリベラルという虚構の対立図式を批判しています。

 

あたかも日本に「リベラルと保守」といった政治的な対抗図式があるかのように装われることで、国家主義的な反動にすぎない勢力が、なんらかの政治的理念をもって活動しているかのように喧伝されてしまう状況について、批判的に描き出してみたい。

 

岡野は自分の論考の意図をこう説明していますが、

「なんらかの政治的理念をもって活動しているかのよう」な勢力は、保守陣営だけでなくリベラル陣営も同様なのです。

外圧の源泉である外的権力をどこに置くかというスタンスが違うだけで、

両者はともに外圧を参照するだけの、内発的思想のない連中であることに変わりはありません。

 

僕は前々から左派スタンスの〈フランス現代思想〉などのポストモダン的価値観の隆盛によって、

日本が右派スタンスの保守化を進めてきたという逆説を唱えていますが、

そのようなことが起こるのも、両者が根本で同じ行動原理を有しているからにほかなりません。

 

僕は日本人が歴史的に維持してきた行動原理を変えられるとは思っていませんので、

このようなことを指摘することにシラけた思いを抱いています。

ただ真実は真実として存在しているものなので、僕が言わなければいいというものではないことをご理解ください。

 

それから、荻上チキと立岩真也と岸政彦の討議は、

自分たちの仕事上の悩みを語り合う内輪的な内容すぎて、

自分たちの仕事の宣伝でなければ、まったく掲載する意味がわかりませんでした。

 

 

 

評価:
大澤真幸,宇野重規,岸政彦,立岩真也,荻上チキ,北原みのり,武田砂鉄,北田暁大,杉田敦,中北浩爾,樫村愛子,岡野八代,森政稔,明戸隆浩
青土社
¥ 1,512
(2018-01-27)

『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

  • 2017.11.25 Saturday
  • 10:35

『親鸞と日本主義』  (新潮選書)

  中島 岳志 著 

 

   ⭐⭐⭐

   国家の枠を超えられない日本の宗教

 

 

浄土真宗には「戦時教学」として国体と一体化していった過去があります。
衆生を救済する阿弥陀如来の本願にすがる絶対他力が浄土真宗の教義の核だと僕は理解していますが、
その阿弥陀如来と現人神の天皇とが同一であると主張したのです。

僕がつまずくのは、国境を超える世界宗教であるはずの仏教が、
近代日本ナショナリズムという国家の枠に吸収されてしまう、という逆転です。
大小の関係がおかしいのではないか、と普通なら誰でも思うでしょう。
ベースボールの神様は長嶋茂雄だと言うようなものですから。

この逆転について中島岳志は残念ながら答えようとしません。
彼が保守思想に興味が強いからなのか、
親鸞と本居宣長の国学思想との共通性は語れても、ナショナリズムの本質には踏み込めないようです。
(ちなみに中島は左翼は理性を過信するが、保守思想は理性の限界を認めるとか言っていますが、
ある程度の知性がある人は、イデオロギーに関わらず誰しも理性の限界を認めていると思いますよ。
理性を嫌悪する〈思考停止人間〉にお墨付きを与えるようなインチキくさい定義はやめてほしいものです。
というか、そういう定義をしているのって保守の人だけですよね)

僕は中島の本を初めて読んだのですが、
大学教授とは思えないほど「読ませる」文章でした。
京都学派など知識人の排除を目的とした『原理日本』のメンバーたちや、
倉田百三や暁烏敏など、批判対象のはずの人物に小説を読んでいるように迫っていきます。
その筆力には非常に感心しますが、
大部分が日本主義に走った人物に寄り添うドキュメントになっているため、
中島が彼らの思想的問題を批判しようとしているのか不明瞭になっている気がしました。

僕は国学を含む日本主義の問題はナルシシズムとして考える必要があると思っています。
部分と全体の逆転が起こるのは、その根源にナルシシズムがあるからです。

たとえば中島は『原理日本』の蓑田胸喜の親鸞論の特徴を、
「東洋哲学やインド仏教への否定的態度にある」と述べています。
厭世的で現世否定的なインド仏教を、蓑田は「外来」思想として「日本的精神の外部」に放逐します。
挙句には釈迦を否定して、親鸞がそれを凌駕したと主張します。
蓑田は「現世の絶対的肯定」を重視し、ナルシシズムを傷つける否定性を排除しようとしたのです。
この点においては、たしかに「外来」思想を「さかしら」として排除したがった本居宣長の国学と共通します。

蓑田の親鸞論には僕が前述した逆転が見られます。
世界仏教の亜流でしかない親鸞思想が世界仏教を否定するという逆転です。
この逆転を考えるには、当時の政治的文脈を無視するわけにはいきません。
当時は西洋帝国主義の亜流でしかない大日本帝国が、西洋列強を否定する無謀に酔いしれる時流にあったのです。
その意味で浄土真宗は大日本帝国の等価物となりえたわけです。
蓑田の親鸞論はナショナリズムが宗教のかたちで現れたものと考えられると思います。
しかし、中島の思索はこういうところには至りません。

ちなみに日本の仏教受容には歴史的に現世肯定的な要素があったことは、
仏教学者の中村元も指摘しています。
閉鎖環境の中でナルシシズムを充溢させることを喜びとする性向は、
外的現実を無化するために理性や反省を嫌悪し、
ありのままの現在を肯定する「思考停止」を求めることになります。
結局、そこにあるのは権威への盲目的な追随です。
日本ナショナリズムに〈思考停止による一体化〉への欲望が含まれていることは、もっと指摘されるべき問題だと思います。

倉田百三のくだりでも面白いことが書いてあります。
仏教学者の末木文美士が『出家とその弟子』を「キリスト教的である」と論じ、中島も共感していることです。
そうなると、日本の近代化のあり方こそが問題であって、
純粋に浄土真宗や親鸞の問題ではないのではないか、と感じます。

そのあたりは暁烏敏についての記述にも見られます。
中島は本地垂迹説を退けた暁烏が「宗門人」としての立場より「日本国民」としての立場を優先させたと述べます。
そこには国家の前では宗教などただの「手段」でしかない、というような
そんな「近代的」日本人の姿が現れてはいないでしょうか。

暁烏は日本を「阿弥陀仏の浄土」だと偽り、日本に死は存在しないとまで言っています。
そして日本で不満を言う人間は恥を知れと一喝し、「偉大な皇国の前に跪け」と〈思考停止による一体化〉を求めます。

日本の保守傾向の中にナルシシズムと「思考停止」があることを指摘せずに「批評」たりえるとは思えません。
自己のナルシシズムが原動力であるかぎり、自己の所属する最大組織に同一化する以上の普遍性は成立させられませんし、
その組織の普遍性は自己の存在を基盤とするわけですから、
部分が全体に一致するだけでなく、部分が全体に優越するという逆転を生むのです。

序章で中島は親鸞の思想の中に日本主義と結びつく危うさがあるのではないか、
という問いを投げかけていますが、
〈俗流フランス現代思想〉にすらその要素はあると僕は思っています。
用心すべきは特定の思想ではなく、ナルシシズムと〈思考停止による一体化〉を求めるもの全てではないでしょうか。

 

 

 

評価:
中島岳志
新潮社
¥ 1,512
(2017-08-25)
コメント:『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

『福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」』 (講談社現代新書) NHKスペシャル『メルトダウン』取材班著

  • 2017.10.08 Sunday
  • 21:56

『福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」』

  (講談社現代新書)

  NHKスペシャル『メルトダウン』取材班著 

   ⭐⭐⭐

   極限での事故対応に正解を求めるなら

 

 

2011年の東日本大震災の津波によって引き起こされた福島第一原発のメルトダウンという未曾有の事態を、
はたして防ぐ手立てはなかったのか、それをNHKスペシャルの取材班が探ります。

本書の論点は、原子炉を冷却してメルトダウンを避ける方策として、
「イソコン」(アイソレーション・コンデンサーの略)という非常用冷却装置が起動していなかったことにあるように感じました。
吉田所長の「海水注入」の効果がなかったことについても第4、5章を割いて扱っていますが、
これは原子炉までの注水ラインに抜け道があって水が届いていなかったということなので、
届いていなかったことになぜ気づけなかったかという話になっていきます。
そこで吉田所長の疲労が問題になるのですが、
こうなると「今更言っても……」という思いが頭をもたげます。

福島第1原発には原子炉冷却のための多重バックアップがありましたが、
地震と津波の被害を免れた冷却装置は「イソコン」だけでした。
イソコンは原子炉で発生する水蒸気で動くので、電力が必要ありません。
これがきちんと働いていれば1号機のメルトダウンや水素爆発を防げたのではないか、というのが本書の問題提起です

実は地震後にイソコンは正常に動作して、順調に原子炉を冷却していたのですが、
津波による電源喪失の時に、イソコンも停止しました。
イソコンは電源が失われた段階で止まる仕組みになっていたことが、あとで判明するのですが、
中央制御室がイソコンの動作停止を確認するのに苦戦したことで、イソコンは停止したまま宝の持ち腐れとなってしまいます。

イソコンの動作停止がどうして確認できなかったのか。
本書ではその原因として、事故対応の現場である免震棟と中央制御室の間の情報共有の失敗と、
近隣への騒音配慮によるイソコンの稼働試験不足を挙げています。

どちらもその通りだと思いますが、僕は根本的な問題として
どうしても原発事故という「都合の悪いこと」を考えたくない、という「日本人のナルシス精神」に問題があるように感じてしまいます。
本書でもそれを感じさせる記述がわずかに見られます。

アメリカでは5年に一度イソコンの実動作試験を行なっているのに、
福島第一原発では40年近く行われていませんでした。
本書取材班がその理由を探求した結果、旧通産省の保安規定文書の中にヒントを見出します。
「報告書の記述を借りると、日本の原発は海外の原子力施設より高い信頼性を確保してきており、
引き続きこの考え方を採り続ける限りにおいて、当該運転中サーべランスを導入する必要はない」
(サーべランスとは定例試験のことです)

試験する必要がないくらい原発は高い信頼性がある、という信仰にも似た感覚は、
不安を打ち消したいがための「強いもの」への依存的精神を感じずにはいられません。
戦時中の軍部のシミュレーションであったことですが、
「日本は神国だからこんな魚雷は当たらない」と勇ましげな言葉で、
実は潜在的な不安と向き合うことを避ける精神と同じものに思えます。
日本では、現実的な不安と向き合うことを避けるために、
権力の代弁者となって「見せかけの安楽空間」を作りたがる「脆弱な精神」が支持されやすい国なのです。

自分たちの「痛いところ」に踏み込まないで、この問題の「失敗の本質」を探求したことになるとは僕には思えません。
自らを被害者の立場に置いて、単に事業者や政府を批判する姿勢では何度も同じことを繰り返すことに終わるのではないでしょうか。

 

 

 

評価:
---
講談社
---
(2017-09-22)
コメント:『福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」』 (講談社現代新書) NHKスペシャル『メルトダウン』取材班著

『リベラルという病』 (新潮新書) 山口 真由 著

  • 2017.09.15 Friday
  • 21:34

『リベラルという病』 (新潮新書)

  山口 真由 著 

 

   ⭐

   リベラル矮小化という病

 

 

学のない人が狭い自分の実感と俗流の発想でリベラルを批判する本です。
山口は「はじめに」でこう述べます。

 私はアメリカの政治や思想を専門とする者ではない。だから、この本
 は、東京大学とハーバード・ロースクールの両方で学び、両国の司法
 試験に合格した経験や、また財務官僚として国家のために働いた経験
 に、主に基づく。

たしかにII章とIII章は司法におけるリベラルとコンサバの対立の話なので、
日本とアメリカの「両国に司法試験に合格した経験」をお持ちの方らしく、
それなりにまともなこと(退屈なこと)を書いていましたが、
読者が本書で注目するであろうリベラル批判の部分は、エリート意識を盾にして素人実感を垂れ流している印象でした。

まず、山口はアメリカのリベラルを「リベラル信仰」とし、
それが「宗教として認識されていないことの弊害は大きい」と述べます。
しかし、リベラリズムはイデオロギーであったとしても、宗教ではないでしょう。
狭義の宗教は、神が存在し、教祖が存在し、聖典が存在するものです。
広義の宗教としても、儀式や信仰形態は存在していなければなりません。
リベラリズムはあくまでイデオロギーであって、物理的基盤は確認できません。
こんなことは専門家でなくても理解できることだと思います。

そもそも山口のリベラルの把握自体が俗流でいいかげんです。

 こう考えると、リベラルとコンサバを貫くものが見えてくる。リベラ
 ルの根底にあるのは、人間の理性に対する信頼、逆に、コンサバの方
 は徹底的な不信だ。

こんな定義をよく書けたものだと呆れ果てるしかありませんが、
こういう俗流の発想は「保守オヤジ」に媚びたリベラル(そしてコンサバ)の矮小化もいいところです。
リベラルは弱者擁護の理想を建前でふりかざす「お花畑」、コンサバは本音で懐疑的な強き「野生」とでもいうのでしょうか。
こういう発想はネオ・ダーウィニズムを基礎とした、資本主義的な弱肉強食思想、
要するにネオリベラリズムに由来するものでしかないことがわかります。
本来のリベラルは国家主義的な権力の暴挙に対して、個人の自由を主張する態度を基礎としているはずです。
山口は「コンサバには、自分への懐疑が常にあった」とするので、
基礎的なことを理解せずに、時流によって生じたネオリベ的な視野狭窄をそれこそ「自分への懐疑」もなく垂れ流している
山口自身はリベラルな人間ということになるのではないでしょうか。

論理が支離滅裂なので、山口はおかしなことを言いだします。
山口は「リベラル信仰」を国家が「布教」しているとします。
「要は、国家のような圧倒的権力が、ひとつの価値観を広めること自体が問題なのだ」と言うのですが、
このような国家の暴挙に対する反発というのは、本来はリベラルの態度なのです。
自分でリベラルを矮小化しておいて、それを実質リベラルな言説で批判する山口の目的はどこにあるのでしょう?

だいたい、こう述べた直後に山口はアメリカ司法界のリベラルとコンサバの対立について語るわけですから、
アメリカが国家ぐるみでリベラルを「布教」しているとするのは事実ではないわけです。
共和党と民主党の二大政党があるように、対立軸を保持しているのがアメリカです。
どうして「リベラル信仰」という「ひとつの価値観」だけを国家が広めているなどと言えるのでしょうか。
それなら、どうしてD・トランプは大統領に当選できたのでしょうか。
帯には「日本の若き知性」などと書かれていますが、
この人の知性に「徹底的な不信」を抱いてしまう僕は、おそらくコンサバなのでしょう。

さらに気になったことを言えば、
山口は日本の民進党をリベラルとするのですが、それも解せません。
なんといっても、当の山口が民進党だけでなく自民党も「イデオロギー的な核がない」と述べているのですから。
山口は民進党が政策に軸がなくカメレオンのように変化するのは、対する自民党自体がそうであるからだと言います。
これはまったくその通りだと思います。
それなら問題は自民党(と日本国民)にあるはずですが、なぜか山口は民進党の批判に勤しみます。
このあたりが「保守オヤジ」に媚びていると感じるところですが、新潮新書だから仕方ないのでしょうか。
しかし、それなら民進党がリベラルだという判断そのものが間違いだということになると思います。
僕は民進党をリベラルだと思っていませんし、当初から自民党の二軍だと思っていました。
一軍が不甲斐ないから二軍にチャンスを与えたが、やっぱり一軍の方がマシだったというのが、政権交代の実情だと思っています。

以上、本書は本書の中だけですでに論理破綻しています。
帯には「「正しさ」には限界がある」と書いてありますが、
いくら限界があるにせよ、ここまで論理破綻していてOKというわけにはいきません。
「正しさ」を批判する人物がこんな程度だと、
無責任な仕事でもいいじゃないか、と言われているだけに思えてしまいます。

 

 

 

評価:
山口 真由
新潮社
¥ 821
(2017-08-09)
コメント:『リベラルという病』 (新潮新書) 山口 真由 著

『開発空間の暴力―いじめ自殺を生む風景』(新曜社) 荻野 昌弘 著

  • 2017.09.02 Saturday
  • 23:12

『開発空間の暴力―いじめ自殺を生む風景』(新曜社)

  荻野 昌弘 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   脱中心化する風景がいじめ自殺を生む

 

 

あまり本屋で見かけないのが解せないのですが、非常にすぐれた本だと思います。
著者の荻野は関西学院大教授で社会学が専門です。
荻野はいじめによる自殺の個々のケースに立ち入りながら、
その背後に開発空間=脱中心化した風景の影響を指摘します。

いじめに街の風景が関係しているという発想は慧眼だと思います。
荻野は脱中心化された空間の歴史的成立にまで立ち戻り、
それが人々にどのような影響を与えたのかを立証していくのですが、
この学者らしい専門的な手続きで本書は損をしているのかもしれません。

僕が強調しておきたいのは、本書がポストモダン的なものに対する重要な批判になっているということです。
日本では〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想が消費資本主義に依拠して、
中心の解体やアイデンティティの揺らぎを称揚し、
場所とのつながりや身体性を削ぎ落とす主体のメタ化を暗黙に肯定したのですが、
荻野の考察はポストモダン性のはらむ問題を示すとともに、
脱中心化によるアイデンティティの揺らぎが引き起こす「悪」を直視しようとしています。
荻野自身は意識していないと思いますが、本書の問題意識はネット空間という脱中心化した風景にも適用可能だと僕は考えています。

荻野が定義する脱中心化する風景とは、
山林、農地や木造家屋、旧商店街や神社、墓地などの自然素材を用いたものと、
公共施設、住宅団地や工場、ロードサイド店舗などの合成素材を用いたものに、
空き地が共存したものと考えられています。
高層ビルやターミナルなどの大都市には中心の代替物があるため、脱中心化する風景にはなじみません。

「中心を欠き、歴史性の欠如した脱中心化する風景は、何を生み出すのか。
それは、暴力の噴出である。いじめ自殺が起こるのは、脱中心化する風景がある場所なのである」
風土の特殊性が消滅し、抽象的で個性を欠いた脱中心化する空間では、
身体と空間の分断が生じ、身体から遊離した風景が表象としてコード化される、と荻野は述べます。
そこに消費文化が入り込んだ後に、暴力が生まれるのです。

脱中心化する風景は所有=消費の欲望を醸成します。
その欲望は合成素材を特権化する美意識によってさらに強まります。
こうした過程で育つ子供は、勤勉な労働者を育てる学校という規律に従う面と、
大人同様の消費者として扱われる消費空間に積極的に参加する面の両面を持つわけですが、
生産に従事しない子供は、「今すぐ」に欲望を充足させる消費の時間だけに縛られやすくなります。
そして、「今すぐ」欲望を実現できない場合、暴力を用いるようになり、それがいじめにつながるのです。

さらに荻野はフランスでも使用されるという「かわいい」という形容詞を分析します。
「かわいい」は「キモかわいい」などのように否定性を包含していく特徴をもち、
反対語が存在しないため、あらゆる対立軸を無にする効果がある、と荻野は言います。
消費社会の進展とともに浸透した「かわいい」は、多様性を包摂しつつ、
消費文化のコードとして、暴力の噴出を抑える秩序を生み出すのです。
荻野はかわいいの秩序が徹底できれば暴力を抑えられるかもしれないが、
子供には学校があるためそうなっていないとしています。

この荻野の考察はネット上の「いいね」の氾濫にも当てはまると僕は考えます。
SNSでは「かわいい」のように反対語の存在しない「いいね」が否定性を駆逐しています。
僕自身にもAmazonレビューでの批判を中傷のように受け取られた経験があります。
ネットでは「炎上」という現象が時折見られるわけですが、
これはいじめの一種と言ってもいいものです。
僕は「炎上」は「いいね」によって抑圧された否定性が行き場を求めて集中したものだと思っています。
その意味で、「かわいい」の秩序を徹底しても、いじめがなくなるとは思えません。

表層的にポジティブな感情を垂れ流して、表面的に多様性を共存させたとしても、
人間の負の感情や否定すべき要素というものは抑圧されたまま消えることなく、
どこかで吐き出す場所を探しているものなのです。
消費資本主義に依拠しただけの表層的な多様性を称揚したポストモダン思想が隆盛したのちに、
ヘイトスピーチや自国の否定的側面に開き直る保守思想が露出したのも、
このようなメカニズムだと考えれば腑に落ちます。

荻野は最終章で消費空間が死を消滅させることを取り上げ、
死や暴力に対する怖れの感覚の欠如が問題だと指摘します。
あっさりとした記述なのですが、非常に重要な指摘だと感じました。
死の追放は開発空間だけの問題ではありません。
むしろ大都市の方が徹底していると言えると思います。
「死の怖れを知り、暴力を制御するしくみ、新たなかたちでの追憶の秩序を、
高度消費社会はいかに築いていくのかが、問われているのである」
という最後の一文が、読後に何とも言えない重みを残しました。

 

 

 

評価:
荻野 昌弘
新曜社
¥ 2,808
(2012-03-20)
コメント:『開発空間の暴力―いじめ自殺を生む風景』(新曜社) 荻野 昌弘 著

『徹底検証 日本の右傾化』 (筑摩選書) 塚田 穂高 他著

  • 2017.08.31 Thursday
  • 17:12

『徹底検証 日本の右傾化』 (筑摩選書)

  塚田 穂高/斎藤 貴男/高史明 他著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   「右傾化」の現象を追うだけだと本質を見誤る

 

 

包括的に日本の「右傾化」を徹底検証する本ということで、
多くの執筆者がいくつかの視点で「右傾化」を問題視しています。
「右傾化」している方々の中には、戦後日本は左翼教育をしていて、
日本のマスコミの多くは左翼思想の価値観に貫かれているため、
右派的な言説が正義の少数派なのだという詐術を信じる人が少なくありません。
その意味では、日本が「右傾化」していて多数派となりつつあることを立証するのは、
そのような詐術に依存する人々に対する反撃にはなると思います。

ですが僕は「右傾化」という切り口はあまり効果的だとは思いません。
「そう言いたてる人間は左翼だ」と言えば否定はしきれませんし、
イデオロギーに関心がない人々には無関係な話になってしまうからです。

本書で検証されている「右傾化」にはいくつかの視点があります。
在日などに対する排外主義的な傾向、
自民党など政治の右傾化、
教育制度や家族制度などの復古主義、国家主義的な傾向、
テレビ番組などの自己賛美のナルシシズム、
歴史認識をめぐる自虐史観から自賛史観への転換、
宗教団体の国家主義への依存、
だいたいこんな感じで分けられると思います。

整理すれば、排外主義と復古主義と国家主義と歴史修正主義そしてナルシシズムとなりそうです。
このような要素をまとめて「右傾化」という「現象」として片付けるよりも、
それぞれの問題の「本質」を考えて、さらにそれらを連結させることが重要なのではないでしょうか。

たとえば歴史修正主義やナルシシズムに関しては、
〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想受容にも見られる問題です。
つまり、リベラルを自認する人々にそのルーツがあるわけです。
消費資本主義に享楽したバブル期の価値観がこれらを産み出したことを考えないと、
問題の「本質」にはたどり着けません。

排外主義と復古主義と国家主義は保守主義的傾向と考えられます。
このような発想が台頭した原因は、バブル崩壊後の日本経済の凋落にあるのは間違いありません。
中国経済が世界を席巻し、その国際的地位を高めたことが影響しています。
人口減少に見舞われる将来の日本が現在の国際的地位を維持できる見込みは残念ながら低いと言わざるを得ません。
「アジアの盟主」だった時代はもう過去のものとなりつつあるわけですが、
このような日本の凋落に傷ついた人々の心の癒しが、
中韓などに対する排外主義だったり、かつてアジアを支配した軍国主義日本への復古的憧憬だったり、
国家の力を強めたいという国家主義への傾斜だったりするのです。

このような「右傾化」の「現象」の奥にある「本質」こそが研究されるべきであって、
「現象」についてだけ問題にしてわかりやすい犯人探しをするのは、
これも一種の排外主義的なやり方になる恐れがあります。

僕は日本の右傾化「現象」の「本質」にあるのはバブル期への憧憬だと思っています。
おそらく30代、40代に代表されるバブル期やその残滓を当然のように享受した世代が、
このような「現象」を牽引しているのではないでしょうか。
復古主義と見られる人々は経済面では戦前の状態を評価してはいないと思います。
「右傾化」した人々は戦後の言説が左翼的だと批判することはありますが、
戦後の経済成長を批判している姿を僕は見たことがありません。
本当の復古主義であるなら、これは非常に「ずるい」ことです。

日本の宗教の世俗主義に関しては今に始まった事ではないので、
社会が変化すれば世俗宗教も同じ方向をたどっていくのは当然に思えます。

これらすべてのことを連結することができるとすれば、
それは「バブルの繁栄をもう一度」というナルシシズムの充足だということになります。
作られたバブルを自分の実力と勘違いし、ナルシシズムを巨大化させたことを直視せず、
いまだにナルシシズムが一人歩きしているのが日本の「右傾化」の真の姿なのではないでしょうか。

そのうちにバブルを知らない世代が現実的な視点でものを考えるようになってきます。
日本の「右傾化」はそれまでの過渡的現象だと思いますが、それでも当分の間は続いてしまうのでしょう。

 

 

 

評価:
塚田 穂高
筑摩書房
¥ 1,944
(2017-03-14)
コメント:『徹底検証 日本の右傾化』 (筑摩選書) 塚田 穂高 他著

『自民党―「一強」の実像』 (中公新書) 中北 浩爾 著

  • 2017.05.22 Monday
  • 08:07

『自民党―「一強」の実像』  (中公新書)

  中北 浩爾 著 

 

   ⭐⭐⭐

   「一強」とは言うものの

 

 

政権交代で成立した民主党政権が2012年に下野してから、
自民党は安倍晋三首相のもとで安定した支持を維持しています。
本書の副題は「「一強」の実像」となっていますが、
自民党一強と安倍一強の両方を視野に入れているようです。

リクルート事件というスキャンダルを受けた選挙制度改革によって、
政権交代可能な二大政党制をめざした小選挙区制が採用されましたが、
それが皮肉にも自民党の「一強」を導く結果となっています。
中北はそのような自民党の現状を多くのデータに基づいて歴史的に検証しています。

党中党と言われた派閥の弱体化や、
総裁権力の増大、官邸主導の政策決定と順々に分析されますが、
小選挙区制が候補者を選定する党指導部の権力を強めたことは、
すでにわかっていることを立証しているという印象でしかなく、
学問的手続きに興味がない人にとっては、あまり興味深い内容ではないかもしれません。

その後は自民党の背後にある支持母体などの分析に入ります。
友好団体や地方組織、個人後援会などが対象です。
おおむね、かつての自民党と比べて弱体化していて、
「一強」であるわりに中身はそれほど盤石ではないという感じでした。
安倍の右派的理念も支持を高める効果を持っているわけではなく、
左派的スタンスの民主党(民進党)への対応だと中北は見ています。

中北はハッキリと述べてはいませんが、
自民党の基盤は以前より弱体化しているように思えます。
そのため、「一強」というより他が弱すぎるというのが実感です。
僕としては、政権交代に妙に懲りてしまった国民の、
「もう安倍自民党に永遠に任せるしかない」という政権交代アレルギーのような風潮が、
自民党の現状を支えているように感じているのですが、
それを誰かが分析してくれないものかと思っています。
(だいたい世論調査をすると「他にいい人がいない」が主な支持理由だったりしますよね)
自民党の強みはその中身にあるのではなく、
「老舗ブランド」の安心感というところにあるのかもしれないのですから。

 

 

 

評価:
中北 浩爾
中央公論新社
¥ 950
(2017-04-19)
コメント:『自民党―「一強」の実像』 (中公新書) 中北 浩爾 著

『民主主義の内なる敵』 (みすず書房) ツヴェタン・トドロフ 著

  • 2016.10.09 Sunday
  • 08:57

『民主主義の内なる敵』 (みすず書房)

  ツヴェタン・トドロフ 著

 

   ⭐⭐⭐

   民主主義の「行き過ぎ」が招く危機

 

 

ロラン・バルトの弟子筋にあたるツヴェタン・トドロフはブルガリアの生まれで、
共産主義国家の問題を身をもって体験し民主主義の価値をよく知る人物ですが、
そんな彼が民主主義の「行き過ぎ(デムジュール)」に警鐘を鳴らしています。

トドロフの専門は記号論であるはずなので、
本書に専門的な視点による難解さはありませんが、
視野がヨーロッパに偏っているため、
具体的事例などが僕にはついていきにくいところがありました。

トドロフが挙げる民主主義の内なる敵という言い方をしているのは、
ナチスや共産主義などの民主主義外部のわかりやすい敵がなくなったため、
民主主義の敵は民主主義自身の「行き過ぎ」にあるとするからです。
具体的に言えば、それはポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰です。

政治的なメシア信仰、個人の専横、新自由主義、ポピュリズムと外国人嫌いに
それぞれ一章が割かれて詳細な説明がなされていますが、
正直に言うと、あまり最初の結論を深めるほどの内容を感じませんでした。
良く言えば妥当ですし、悪く言えばわかりきったことを言っている印象でした。

特に「行き過ぎ」に対する有効な処方箋が民主主義の再生、見直しという
非常に抽象的なもので終わっていることには物足りなさを感じました。
「政治的なメシア信仰」の章はいまだに共産主義批判をやっているという感じで、
マルクス主義が差異を消滅させるとか、
諸国家が道徳と正義の名のもとに己の利益を追求したとか、
差異の称揚と道徳批判といういかにもフランス現代思想的な結論を確認しただけに思えました。

結果として本書は民主主義の内なる敵を描きえているというよりは、
リベラル思想の機能不全を印象づけています。
トドロフは民主主義の「行き過ぎ」を問題視する一方で、
民主主義体制の中で生きることは他の体制よりも良いと述べます。

相対的に見れば悪くない体制が、徐々に内側から蝕まれていくことに対して、
われわれは打つ手もなくジレンマを感じているしかないのでしょうか。
それを打開するヒントを僕は本書に見つけられませんでした。

 

 

 

評価:
ツヴェタン・トドロフ
みすず書房
¥ 4,860
(2016-07-26)

『憲法に緊急事態条項は必要か』 (岩波ブックレット) 永井 幸寿 著

  • 2016.03.17 Thursday
  • 18:35

『憲法に緊急事態条項は必要か』 (岩波ブックレット)

  永井 幸寿 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   自民党は永遠に権力に居座れると思っている?

 

 

安倍晋三は前々から憲法改正に言及していますが、
改正した憲法に緊急事態条項を加えようとしていると聞いて、
それってワイマール憲法がヒトラーの独裁を許す原因になったものじゃないか、
と驚いて本書を購入してしまいました。

緊急事態条項(国家緊急権)の必要性を訴える側としては、
地震などの災害やテロなどの緊急事態に対応するため、
というのが理由であるようです。
しかし、災害やテロ対策として考えたときに、
緊急事態条項の必要性はないというのが本書の立場です。
(まあ、題名を見ればだいたい想像できるでしょうが)

国家緊急権とは、非常事態において国家の存立を維持するため、
憲法の秩序(人権や権力分立)を一時停止するというもので、
濫用されると国家権力を著しく強めてしまう危険なものでもあります。

本書には大日本帝国憲法のもとで国家緊急権が濫用された歴史が書いてあります。
(そのため日本国憲法では設けていません)
前述したようにナチスのようなケースもあり、
危険な面があることを無視するのはおかしなことなのですが、
自民党の緊急事態条項案は内閣への権力集中、人権制約をもたらし、
権力の濫用が可能となる危険なものになっているようなのです。

永井が緊急事態条項を不必要と考える理由は、
内閣に権力を集中するより現場の自治体の権限を強める
現行憲法の方が災害の対応には適している、
そもそもテロは国家緊急権が発動する「非常事態」ではないし、
すでにテロに対応する法制度は存在している、という現実的なものでした。

僕が興味があったのは他の国の国家緊急権がどうなっているのか、という点でしたが、
永井はドイツ・フランス・イギリス・アメリカを例に挙げ、
それぞれを明快に説明しています。
これを読めば、「緊急事態条項はどの国にもある」という主張が、
論点のズレた主張だということが理解できると思います。
自民党案はそれら4国と比べても格段に危険な面が野放しになっています。
(このあたりは実際に本書を読んでいただきたいところです)

永井の説明は十分に冷静で説得的なので、
この本をしっかり読んだ上でのまともな反論というものは難しいのではないでしょうか。
おそらく、この主張に文句を言う人は非論理的な態度をとることでしょう。

これは僕個人の疑問ですが、
権力が非常事態を宣言して緊急事態条項を濫用し、
内閣に権力を集中して独裁体制に近づけることができるようにするとして、
自民党はそれを自らが行使するとなぜ確信できるのでしょうか?
自分たちが逆にそれによって潰されるとは思わないのでしょうか?

もちろん、思わないのでしょう。
これは自民党の憲法案を支持する人たちも同様です。
なぜ自分たちが権力を行使する側だと確信できるのでしょうか。

永井は国家緊急権が絶対王政と同じ構造を持つと書いていますが、
それは世襲で権力が受け継がれる時代の発想とも言えます。
安倍晋三を代表として、自民党の政治家には世襲議員が少なくありません。
この事実が、身分制度の時代のように自分の権力者としての地位を、
揺るぎなき確固たるものと思わせてはいないでしょうか。

自分の権力者としての地位が不動だと思っているからこそ、
危険な条項を憲法に組み入れても自分が行使する側だと信じられるのではないでしょうか。
僕にはすでにこの発想が反民主的なものに思えてなりません。

自民党の方々には、憲法改正をするにしても、
他党の政権が緊急事態条項を行使することまで想像して、
新しい憲法案を考えてほしいものです。

 

 

 

『迷走する民主主義』 (ちくま新書) 森 政稔 著

  • 2016.03.15 Tuesday
  • 17:39

『迷走する民主主義』 (ちくま新書)

  森 政稔 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   民主党政権の批判がほとんどで、安倍政権については4ページくらいしか直接の記述がないのは謎

 

 

本書は第機↓局瑤搬茘敬瑤覇睛討変化しています。

森自身の説明では、
以前に書いたまま発表の機会を逃していた民主党政権についての原稿を、
本書の第局瑤房録するにあたって、新たに第吃瑤搬茘敬瑤魏辰┐燭茲Δ覆里任垢、
その構成が本書をいびつなものにしているように感じました。

政権交代までの政治状況をまとめた第吃瑤呂垢个蕕靴て睛討世隼廚い泙靴拭
資本主義の変化と政治状況を連動させた分析は見事で、
非常に説得力がありました。
たとえば、リーマンショックを機に政府が市場の救済者として期待されるようになった、
などの分析はただの政治学者にはなかなか期待できないのではないでしょうか。

続く第局瑤寮権交代と民主党政権の批判についても、
大部分は首肯できるものでした。

その後の第敬瑤任呂気蕕覆訐権交代と安倍政権のことが分析されるのかと思いきや、
具体的な政治状況は語られず、
「民主主義の思想的条件」ということで抽象論が展開されます。
これまで読み進めてきた流れから急に別方向に舵を切られた印象で、
興味を持続する気持ちが萎えてしまいました。

政権復帰後の自民党政治の分析がなされていないことが、
第局瑤諒析にも悪い影響をもたらしている気がします。
たとえば、森は
「自民党支配のもとでは自民党と政府とは事実上つながっていながら
両者の使い分けが巧妙になされていたのに対して、
民主党政権では党と政府とを一体化し、
党が政府を包摂することが模索された。」
と書いていますが、
森が説明する自民党のあり方は派閥が機能していたときまでで、
小泉政権や政権交代後の安倍政権に当てはまるとは思えないのです。

また、森は「強いリーダーシップ」が「統治理性の欠如」を招くとしています。
その分析そのものはもっともだと感じるのですが、
それがアメリカのブッシュ政権を支えたとするのなら、
なぜ日本ではそれが民主党政権の問題になるのかがわかりません。
それって小泉政権の高支持率によって説明されるべきものではないのでしょうか。

森が「強いリーダーシップ」の問題を小泉支持と結びつけないことが、
「マニフェストへの不信から、強い政治指導者を選び、
その人物に白紙委任することこそが、民意の反映であり真の民主主義である、
というような考え方への飛躍が見られるようになった」
という分析に影響しているように思います。
森はこのあと橋下徹を持ち出すのですが、
僕には橋下は小泉のエピゴーネンでしかないように思えます。

実は第吃瑤任両泉内閣への分析もなんか薄味なんですよね。
大衆の「強いリーダーシップ」渇望状況を小泉抜きで語るのは、
僕の実感からするとありえないように思うのですが、
政治思想の立場だと感覚が違うのでしょうか。

森は雑誌「現代思想」の昨年2月号の論考では安倍政権に批判的だったので、
安倍の批判を避けているとは思わないのですが、
いずれ別の本で発表するつもりなのでしょうか。
しかし、民主党がダメなのは「民主党の迷走」であって、
「民主主義の迷走」とはあまり受け取られていたような気がしないので、
安倍政権への分析抜きでこの書名というのは首をひねりたくなります。

このように疑問に感じる部分もありますが、
全体的に分析は鋭いと思いますし、
第敬瑤眛販したものと考えれば悪くないように思います。

特に第敬瑤侶誅隻瑤如
「人間の有限性が政治の条件となっている」とし、
「有限性の制約のもとでの民主主義」を模索すべきという森の言葉は、
非常に含蓄あるものとして僕は受け止めました。

 

 

 

『右傾化する日本政治』 (岩波新書) 中野 晃一 著

  • 2015.08.30 Sunday
  • 17:56

『右傾化する日本政治』 (岩波新書)

  中野 晃一 著 

 

   ⭐⭐⭐

   同時に「リベラル左派」の敗北も考慮に入れる必要がある

 

 

日本政治が右傾化しているか否かという点でも、
反論したがる輩はいそうなので、
「新右派連合」という切り口で右傾化の現状を説明しきった本書は、
労作というほかありません。

特に序章に書かれた「新右派連合」の分析チャートは見事です。
新自由主義と国家主義を二本の柱として、
それがどのように結びついているのかわかりやすく示しています。

中曽根康弘から安倍晋三に至る右傾化の流れについても、
多くの研究を踏まえた研究者らしい手続きで解説されていて、
引用文のチョイスのうまさには感心しました。
中野の研究者としての能力の高さを感じます。

中野が一番力を入れているのは安倍政権への批判です。
「新右派連合」の集大成が安倍政権だということなのでしょう。

しかし、その結論への強い確信からなのか、
全体が結論から逆算して書かれた印象だったのが惜しまれます。
そのため、細川政権の誕生については軽く触れる程度で、
右傾化への道が一本道に見えすぎているように感じました。

安倍政権が「権力の暴走」状態を生み出しているのは事実ですし、
その政権運営は強く批判されるべきだと僕も思いますが、
「新右派連合」の寡頭支配を国民が黙認していることは、
認めざるをえない事実なのではないでしょうか。

中野は自民党の得票率は伸びていない、とか、
右寄りの新政党ばかりが誕生し、政治システム自体が右傾化していたとか、
右傾化は国民の選択ではないと言いたげですが、
やはり右傾化の現状は国民の選択と認めるべきだと思います。

「リベラル左派」は「新右派」より国民にとって魅力がなかったのです。
その認識から逃げているようでは、
中野の言う「リベラル左派連合」の再生は難しいと思います。

ちなみに本書が提案する「リベラル左派」再生の条件は、

1 小選挙区制の廃止
2 リベラル勢力の新自由主義との訣別
3 同一性にもとづく団結ではなく他者性を前提とした連帯

となっています。
1はともかく、2と3は左派得意の「リアリティに欠ける正論」に思えます。

僕は過去レビューで、ポストモダンの価値観が昨今のナショナリズムの源泉だと書いています。
ポストモダンは一元的な価値に対して差異や多様性を称揚しますが、
その多くは消費資本主義的な市場の上での差異に吸収されるものでしかなく、
市場への信仰という点で新自由主義と親しい関係にあります。
バブル以後、リベラル陣営の人たちは消費資本主義を批判するどころか、
やれポストモダンだといって耽溺していましたし、今もしています。
その反省もされていないのに、市場主義と訣別などできるのでしょうか。

「他者性」というのもポストモダン的な価値観で、
アントニオ・ネグリなどのアイデンティティ政治批判の焼き直しに見えます。
現在の保守主義はポストモダンを通過した結果なので、
いまさらポストモダンの価値観を振り回しても効果は期待できません。
LGBTなどのマイノリティの支持で選挙に勝てるとも思えません。

このように、「リベラル左派」は自分たちがなぜ敗北したのかわかっていないのです。
僕は「リベラル左派」には再生してもらいたいと思っていますが、
このようなやり方ではジリ貧です。
左派の再生には、まず自らの失敗を認めることが必要です。
政治とは「正論」を言っていれば支持されるというものではありません。
「我一人潔し」という態度が、大衆から嫌われる原因であることをいいかげん自覚してください。

それから、残念な点をもうひとつ。
個別的な事例について中野の分析は鮮やかなのですが、
右傾化が世界的な傾向だと述べるのであれば、
冷戦終結による国際情勢の変化をベースに、
日本政治の右傾化を考えてもよかったのではないかと思います。

冷戦終結までは、日本は「世界で最も成功した社会主義国」と言われることもありました。
社会主義的な「計画経済」ともいえる
国家主導の横並びの非競争経済でうまくいっていたのです。
(だからこそ終身雇用が制度化できたのではないでしょうか)

しかし、冷戦終結で市場競争主義が進むと、
これまでのように横並びの経済成長は不可能です。
中曽根や小泉による国鉄や郵政の民営化はそのような社会主義的なものへの決別の代表です。
つまり、新自由主義は冷戦後のグローバルな潮流ということになるわけですが、
それまで国家主導の横並び経済だった日本に、
急に市場競争原理など根付くわけがないのです。

そこで今度は国家主導の市場競争経済へと転換する結果になったのです。
これまでと全く違うことを無理矢理やらせるわけですから、
政権に権力を集中する国家主義が強まるのは必然です。
見方によっては、国家という権威に依存しないとやっていけない、という
戦前戦後の日本人のあり方が、今にまで影響しているとも考えられます。

これは僕個人の考えですが、
右派だろうが左派だろうが、
権威に判断を任せて自分の頭で考えない人が少なくない気がします。
国際的な調査でも、日本人のマスコミ報道への信頼は先進国にしては高すぎる結果が出ています。
権威主義が薄まらない限り、この国には何度でも国家主義が隆盛することになるでしょう。

「リベラル」を自認する人々も、多くは西洋を権威と疑わない権威主義者でしかなく、
実態は「リベラル」陣営に属している非リベラリストだったりします。
右左で争うのではなく、権威主義という問題の根幹を批判する方が有意義なのではないでしょうか。

 

 

 

『ヴァイマル憲法とヒトラー──戦後民主主義からファシズムへ』 (岩波現代全書) 池田 浩士 著

  • 2015.07.08 Wednesday
  • 13:12

『ヴァイマル憲法とヒトラー   戦後民主主義からファシズムへ』 (岩波現代全書)

  池田 浩士 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   明確な問題意識を持った力作

 

 

扱っているものが歴史なので、
同時期に出版された『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)と、
内容は重なるところがありますが、
最終章が「遙かな国の遠い昔ではなく」となっているように、
池田は現在の日本の状況と照らし合わせることを意図して書いています。

問題意識が高いため、優れた考察も目立ちます。

当時は先進的であったヴァイマル憲法を持ちながら、
ヒトラー政権を誕生させてしまった人々の心情について、
「いま現在についての絶望や怒りであるよりは、むしろ、
迫りくるものについての不安や危機感なのです。」
「ナチズムは、こうした予感的あるいは予防的な危機感を、
いわば未然に吸収し組織したのではないでしょうか。」
という池田の分析は示唆に富んでいます。

また、ヴァイマル憲法には基本的人権をないがしろにする独裁権限、
「大統領緊急命令条項」が存在していたことについても、
「弱者に対しては傲慢に振る舞い、そのくせ権威に頼らなくては生きられず、
皇帝を無条件で尊崇する、権威主義的なドイツ人」が、
絶対的な拠り所を必要としたためではないか、と鋭い分析をしています。

 自分たちが平等な関係の中で自主決定しなければならないはずの
 困難な課題に直面したとき、その解決を絶対的な権威に委ねてしま
 うというありかた、「臣下」あるいは「臣民」の習性が、ヴァイマル
 憲法の第四八条にその痕跡を残してしまった

池田はこのような「臣民」根性が日本人にもあると考えています。
日本は権威主義が強く機能している国だというのは僕も同感です。

本書の分析で独特だと感じたのは、ナチズムとボランティアの関係です。
池田はボランティアからファシズムへという流れでナチズムを捉えています。

 ナチズムが文化革命だったのは、ドイツの歴史の中で、さらには
 人類の歴史の中で、初めて、全面的な「参加の文化」を創出した
 からでした。しかもその参加は、自発的な、自由意志による主体
 的な参加を起点としていたのです。

とはいえ、自発的な労働はそのうちに強制へと変化するので、
あくまで「起点」が自発的であったというだけのことです。 
僕個人としては「自発的参加」が悪なのかどうかは判断しかねました。

池田は最終章で、痛烈な日本政府批判を展開します。
(明瞭に政治家の名前を出すことは控えられていますが)
歴代の日本政府はヒトラーもやらなかったことをしているというのです。
その内容はぜひ本書を読んで確認していただきたいと思いますが、
これは歴史事実と歴史事実を比較して確認できることなので、
右とか左とかのイデオロギーによる発想ではありません。

ポストモダンによる非歴史的な発想が支配的になり、
その弊害があちこちで噴出している今、
ようやく歴史に学ぶ態度が出始めていることは歓迎すべきことだと思います。

 

 

 

『ヒトラーとナチ・ドイツ』 (講談社現代新書) 石田勇治

  • 2015.07.06 Monday
  • 13:04

『ヒトラーとナチ・ドイツ』 (講談社現代新書)

  石田勇治

 

   ⭐⭐⭐⭐

   歴史を学ぶことに今を紐解くヒントがある

 

 

歴史を学ぶと必ずつきあたる事実があります。
作用と反作用のように、ある方向に進むと必ず反動が起こるということです。

憲法や自国民の意志決定を軽視した安倍政権や、
それを案外許容している国民の現状を考えるときにも、
国民の意志による民主党政権誕生とその失望への反動を無視することはできません。

そのような反動のモデルケースとしてナチ・ドイツを考えることにも意味があると思います。

さて、石田が本書で最も重視している問いは、
議会制民主主義を否定し、ユダヤ人差別を公にしていたナチ党が、
なぜドイツ国民に支持されるようになったのか、ということです。

石田はヒトラーが大統領ヒンデンブルクから首相に指名されるまでの駆け引きを丁寧に説明し、
ヒトラーの首相指名は、ナチ党が議席を減らした選挙でなされたので、
勢いが衰退した局面で起こったものだと言います。
つまり、選挙で多数派になってヒトラー政権が誕生したという単純な図式ではないというのです。

ただ、そうはいってもヒトラー政権の前半期は国民の支持は高いものでした。
石田はその原因を、ドイツの大国意識の高揚感や失業対策の成功などに求めています。

僕が興味深かったのは、
ナチ党が勢力を拡大したのは、共産主義への危機意識だという点です。
石田はヒトラーのユダヤ人敵視も、
ユダヤ人が共産主義運動の中心にいると考えていたからだとしています。

ヒトラーがユダヤ人=共産主義と考えていたかの真偽はわかりませんが、
共産主義によって起こるかもしれない変化への危機意識が、
民主主義を捨て去るという同程度の変化を招き入れてしまうという皮肉は、
まさに保守反動の力の大きさを示していると感じました。

一方の変化を極度に恐れる心が、
もう一方の変化を相対的に軽いと思わせてしまう。
共産主義が形骸化した国の脅威を訴えることで、
保守を自認する勢力が社会に好ましくない変革を導き入れる。
このような手口を、麻生太郎の発言にもあったように、誰かさんが学んだわけではないでしょうが、
結果として今の日本がそのような局面に立たされていることを、
本書を読んで考えるのは大切なことに思えます。

 

 

 

『仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』 (中公新書) 筒井 淳也 著

  • 2015.07.05 Sunday
  • 12:34

『仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』

  (中公新書)

  筒井 淳也 著 

   ⭐⭐⭐

   良くも悪くもデータ分析

 

 

1970年代以降、夫婦の働き方のモデルや出生率を
主に日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンのデータ比較によって、
考えていく本です。

数多くのデータが示され、筒井の丁寧な分析もあって、
読み進む上では不満はなかったのですが、
読後には物足りなさが残りました。

たとえば、男女の未婚化の原因について、
女性の高学歴化や男性の過剰労働などの社会的要因は考察されますが、
当人たちの意識についてはあまり考慮されていないのです。

たとえば、自分の趣味の充実を優先する人などが、
異性より消費に金をかけているとか、
「一人が気楽」と考える人が増えているとか、
当事者の心境変化はデータに入っていません。

結婚したいかどうかは社会構造だけで決まるわけではないと思います。
特に日本のようにピア・プレッシャー(同調圧力)の強い社会では、
独身仲間がある程度増えると、結婚への圧力が機能しにくいとか、
そういう心理的な問題もあるのではないでしょうか。

また、女性の社会進出の分析にしても、
日本社会のあり方への批判が最小限に抑えられているため、
何が問題なのかわかりにくくなっています。

たとえばアメリカもスウェーデンもドイツも同一労働同一賃金ですが、
日本では企業に非正規雇用の乱用を許していて、
正社員と同等の仕事でも低賃金が横行しています。
筒井もその事実は指摘するのですが、
日本も同一労働同一賃金にすべきだとは書きません。

せっかくデータで問題を明確化しても、
日本の現状をどう変えるべきかの結論部が、
2ページくらいであっさり終わってしまい、
なんとなく穏当なことを言って終わるのが消化不良ではありました。

 

 

 

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