『みずからの火』 (角川書店) 嵯峨 直樹 著

  • 2018.07.08 Sunday
  • 21:08

『みずからの火』 (角川書店)

  嵯峨 直樹 著

 

   ⭐⭐

   主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ

 

 

僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、

嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。

生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、

おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、

作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。

 

もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、

そこを批判するのはお門違いということになるのですが、

僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、

それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。

まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。

 

さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり

花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って

冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす

見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ

 

前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。

しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、

「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、

実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。

嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、

歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。

2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、

「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。

このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。

 

乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき

 

このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。

 

後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、

「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。

ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、

続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。

最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、

歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。

 

これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、

歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。

つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。

 

僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。

作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。

個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。

詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。

 

「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。

 

黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く

平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、

私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。

村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、

抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。

しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。

そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。

 

ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球

地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空

肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている

平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。

このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。

「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。

それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。

性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。

 

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて

寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音

ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を

ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの

 

抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。

結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、

それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、

うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。

 

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと

血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ

 

このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。

抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、

20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。

嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。

同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。

 

秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨

 

この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。

この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。

雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、

自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。

となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような

「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。

 

ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。

たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、

「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。

こういう歌は他にいくつもあります。

 

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう

きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力

長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な

 

一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。

「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。

このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。

他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。

こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。

(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)

散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。

自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、

そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。

説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。

 

現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、

現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。

しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、

そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、

僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。

 

 

 

評価:
嵯峨 直樹
KADOKAWA
¥ 2,808
(2018-06-01)

『俳句の誕生』(筑摩書房) 長谷川 櫂 著

  • 2018.04.29 Sunday
  • 21:14

『俳句の誕生』(筑摩書房)

  長谷川 櫂 著

 

   ⭐

   俳句の衰退は本当に批評の衰退が原因なのか?

 

 

若き長谷川櫂の著書『俳句の宇宙』は流行のポストモダン的発想に依拠していたとはいえ、

俳句における「場」の重要性を丁寧に説明しきったという点においては、

なかなかにすぐれた本であったと思います。

しかし、本書『俳句の誕生』では「場」という言葉がどこかへと消えてしまって、

「主体の転換」などというような批評的な用語を無理して用いているため、かえって内容が不確かで乏しいものとなっています。

 

本書の第一章はまさに「主体の転換」と名付けられています。

岡野弘彦、三浦雅士と長谷川による連句が紹介されていて、

「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」ことを説明していきます。

 

ここで「主体の転換」という言葉について考えておきたいのですが、

長谷川は「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」こととします。

わかりにくいので、長谷川の説明を引用しましょう。

 

では主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるということだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平たくいえば、ぼーっとする。いわば「魂抜け」である。

 

お友達の三浦雅士の影響を受けているのかわかりませんが、

長谷川は連句の「主体の転換」を「幽体離脱」、つまり一種のトランス状態として理解しています。

これは三浦の大好きな大野一雄の舞踊などを持ち出して説明するのにふさわしい要素です。

これ以後、本書で長谷川は繰り返し「ぼーっとする」ことを俳句の中心要素として語るのですが、

このような極端なまでの単純化が長谷川の論に批評性が欠けているという印象を与えてしまう原因のひとつと言えるでしょう。

 

長谷川は俳句の「切れ」が散文的論理を断絶することで、「ぼーっとする」空白を生み出し「主体の転換」を果たすと主張します。

俳句が「切れ」などによって散文的論理を超えるという見方については、僕も特に異論はありません。

そのような俳句の非論理性が初期の長谷川の主張では「場」に依存していることになっていたのですが、

本書ではトランス的な「主体の転換」によるのだという説明に変更されています。

これは議論として後退していると思います。

なぜなら、トランス状態に基づいた芸術ならば、俳句以上にもっとふさわしいものが多くあるからです。

僕がこの長谷川の主張に三浦の影響を感じてしまうのは、長谷川の主張に大きな齟齬があるからです。

 

「主体の転換」とは、「転換」であるかぎりにおいて、Aという状態からBという状態への移行を意味します。

連句でいえば連衆が自分自身という主体から、句の主体へと移行することを意味するはずです。

しかし、ただこれだけであれば、小説家や漫画家や演劇の脚本家であっても構わないはずです。

自分を離れて登場人物Aの気持ちを代弁し、今度は人物Bの気持ちを代弁するわけですから。

これだって作者が「幽体離脱」をしていると言えなくもないわけです。

だとしたら、散文的思考であっても「主体の転換」は十分可能ということになるのではないでしょうか。

 

それなのに、長谷川は別の状態への移行の間に「ぼーっとする」という空白の状態、

つまりはイタコ的なトランス状態を差し挟もうとするのです。

前述しましたが、このようなトランス状態は舞踊であったり、もっといえば能の方が明確に確認できるものです。

言ってしまえば舞台芸術において成立する要素であるということです。

これを俳句を語るのに用いるのは、だいぶ力技が過ぎるという印象を受けます。

そのため、「現代思想」の編集長を経て「ダンスマガジン」を創刊した三浦の影響ではないのかと勘ぐってしまうのです。

(三浦が青森の出身であるのも興味深いところではありますが)

 

念のため、「ぼーっとする」ことがトランス状態を示していることを確認しておきましょう。

 

詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきることである。詩歌の代作をすることである。役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でなければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるということは言葉をかえれば、我を忘れてぼーっとすること、ほうとすることだ。

 

この文章は柿本人麻呂の歌を論じたところにあるのですが、

このような「空の器」になることは、詩人の能力に負うところが大きいはずです。

俳人であろうが、役者であろうが、ミュージシャンであろうが、この能力を発揮できる場面は数多くあるのですから、

俳句がトランス文芸であるという主張よりは、俳人はトランス状態に入って俳句を作らなければいけない、

という論の運びにならなければおかしいのです。

それなのに、長谷川はあくまで俳句がトランス文芸であるという主張を崩しません。

 

長谷川自身は論理を超えた俳句の魅力を訴えようとしているのかもしれませんが、

肝心の著書が論理に依存したパッチワークで形成されているのでは格好がつきません。

というのは、ただ「主体の転換」だけを根拠にするならば、

そんなものは頭で考えて行っているだけだと反論されたら終わってしまうからです。

むしろ長谷川は「ぼーっとする」トランス状態が起こっている俳句が「すぐれている」ことを論証する必要があったのではないでしょうか。

しかし長谷川は「切れ」があるから間が生まれ、間があるから「ぼーっとしている」のだ、という論理にしてしまうのです。

こうなると、俳句の形式から必然的にトランス状態が生まれることになってしまい、

作り手の状態や能力など考える必要もないことになってしまいます。

 

僕は俳人ではないため、俳人たちが俳句の「形式」に過剰なまでの役割を負わせることはある種の依存心だと感じています。

彼らはまるで「形式」が芸術を生み出すかのように語るのですが、

たしかに俳句が大衆に開かれた文芸であるにしても、

「形式」自体に価値があると考えるのは一種の倒錯です。

このあたりは俳人たちに真摯に反省してもらいたいところだと僕は思っています。

 

俳句にもいい俳句や悪い俳句がありますし、いい俳人もダメな俳人もいます。

俳句「形式」に則っていれば必ずいい俳句になるというなら、こんな簡単な創作はありません。

そうでないから俳人は苦労をするのですし、努力もするのです。

それなのに、俳人は自らの依り代の価値を高めたいという邪心が強いのか、

やたら俳句の「形式」自体に価値を負わせようとがんばります。

小説家や漫画家や劇作家など他の多くのジャンルでは絶対にそんなことは考えません。

こういう発想は「伝統」に守られたマイナージャンルの「甘え」であると、

長谷川をはじめとする俳人たちには理解してほしいものです。

 

長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退していることを嘆くのですが、

その原因を批評と選句という「俳句大衆の道標」の衰退に見ています。

長谷川は『俳句の宇宙』ではそれを共有できる「場」の衰退に見ていたはずです。

それがどうして批評と選句になってしまうのか、僕には理解に苦しむのですが、

僕のような俳句を作らない純粋読者から言わせていただけば、

俳人がこのように「作り手」ばかりに目を向けていることが衰退の原因ではないかと思っています。

 

僕は連句については前の文脈を意図的に脱臼させるため、

トランス状態によるのではなく、知的な作業によって成立していると考えます。

ただし、もし俳句に長谷川が言うようなトランス状態があるとするとするなら、

それは「読み手」の持つ能力を前提としないと成立しない気がします。

作り手が提出した句を、読み手の側が自分を離れて「ぼーっとする」ことにより、

作り手の生み出した句の「場」へとトランスして近づいていくからです。

読み手のトランス作業によって質の高い「主体の転換」が行われ、

短い断片の言葉からイマジネーションを感じ取ることが可能になるのではないでしょうか。

つまり、良い俳人とは例外なく良い読み手であり、だからこそ選句も批評もうまかったのではないでしょうか。

 

しかし読者のほとんどが俳人であることにあぐらをかいた俳句界は、

俳句を作る作業ばかりを重んじて、読者を育てることをサボってきました。

あげく僕のような純粋読者が俳句批評をすると、「俳句をやらないなら謙虚でいろ」とか言う偽俳人が出てくる始末です。

外山滋比古が和歌と俳句には「声」を基礎とした「二人称読者」が欠かせなかったと述べていますが、

現代俳句はマスコミや出版(もしくはネット)によって俳句を流通させることを当然と考えるあまり、

句が顔のある誰かに向けられたものとしてあることを忘れているのではないでしょうか。

俳人はつまらぬ自意識を反映した下手な句を作ってアーティストぶるより前に、

俳句の良い読み手であるように努めるべきだと思います。

(もちろん、俳句を読むより観念的な言葉を振り回すことに熱心な「批評もどき」は良い読みとは言えません)

 

結論を語ってしまったのですが、本書にはどうしても指摘しておきたい部分があります。

長谷川は「新古今和歌集」が禅の思想を享受したことによって誕生したと書いているのですが、

このような説を僕は初めて目にしました。

これは本当に信用に足る説なのでしょうか?

平安時代の仏教の影響は『源氏物語』を読んでもわかる通り、浄土思想に現れていたはずですし、

一般的には「新古今和歌集」は古典教養に根ざした技巧的な作り方や本歌取りが歌風とされていたはずです。

ちなみに沖本克己の『禅』にはこのような文があります。

 

禅文化とはそもそも背理を含んだ言葉である。禅は文化や芸術には本来無頓着である。(中略)もし禅が文化を領導したり時代社会の指導原理になるとしたら、それはどうも碌でもない事にちがいない。

 

禅の研究者がこのように書いている以上、僕は長谷川の説を信じることはできません。

長谷川は「俳句は禅にはじまる新古今的語法が行き着いた最終詩型、最終の一単位なのだ」などと書いていますが、

あまりに不確かな説だけに、主張するならそれだけの根拠を示してほしいと感じました。

このあたりにも、俳人が自分の依拠する俳句をやたら高尚なものに「捏造」しようとする、さもしい欲望を感じてしまいます。

 

 

 

評価:
長谷川 櫂
筑摩書房
¥ 3,597
(2018-03-02)

「俳句四季」2018年3月号 (東京四季出版)

  • 2018.02.25 Sunday
  • 14:45

「俳句四季」2018年3月号

  (東京四季出版)

 

   ⭐

   自社で出版した本の宣伝ばかり考えている思考停止した尻軽雑誌

 

 

東京四季出版は福田若之の『自生地』が自社の出版物であるため、

先月の座談会に続き、本誌の「人と作品」で取り上げています。

『自生地』が一定レベル以下の作品であることは、僕がこれまで批判してきた通りです。

本気で良いと思っている人が多いとは思えませんが、

出版社の応援によって世間の承認を受けられたような錯覚を蔓延させることになっています。

本気で俳句や文学を愛するなら、

文学的価値よりも売り上げを重視する出版社の功利に屈することなく、

こういう作品にきちんと批判の声を上げるべきでしょう。

 

俳句形式の文学的意図が理解できず、単にゲームのルールとしか理解していない福田の句?は、

知性をもって読めば俳句の自己否定でしかありません。

俳句雑誌が俳句を否定している作品を持ち上げるのは、道理に照らしてみれば矛盾です。

そういうこともわからない人間が編集をやっているのは容易に想像がつきますが、

文学的実質よりマーケティングを重視する出版社など信用できたものではありません。

3月10日にこの出版社から出る『俳誌要覧』でも、「豈」のメンバーとその周辺の人物を多く起用していて、

実作よりも口先に特化した連中ばかりをありがたがる俳句界が、どこを目指しているのか怪しまずにはいられません。

 

さて、本誌の話に戻りますが、

『自生地』をほめるべく原稿を依頼されたのは、青木亮人、池田澄子、加藤治郎、トオイダイスケの4人です。

僕は以前のレビューでも書きましたが、青木は肩書きは研究者ですが、

研究での目立った活躍はなく、ポップでサブカル的なポストモダン俳句のブームに乗って名を売った寄生虫的存在です。

今回の『自生地』についての文章もどうせ礼賛に終わるのはわかっていましたが、

とうに「時代遅れ」となったポストモダンを引っ張り出してきて語るのにはあきれました。

実は青木が書いていることは、すでに僕がレビューで指摘していることなのです。

すでに僕が言っていることを書いてしまうあたりも迂闊ですが、

批判材料として書かれていることを持ち出して、礼賛に用いるというセンスのなさはズバ抜けています。

その知性のレベルたるや、自ずと想像できるというものです。

 

具体的に言うと、青木は福田の句を受けて、

「太宰よりも、平成期の舞城王太郎が小説に描く野放図な「俺」の、

よるべなき幼児性を装った父なき孤影と似通うかもしれない」

と述べて、福田を舞城王太郎と重ねています。

僕は『自生地』のレビューで福田の散文が西尾維新や「ファウスト」という雑誌の影響下にあることを指摘しましたが、

その「ファウスト」の中心にいた作家が舞城なのです。

 

舞城王太郎は2003年に『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞をとって、業界内で大騒ぎした作家です。

〈俗流フランス現代思想〉の東浩紀が礼賛したため、多くの大御所が何もわかっていないのに「新しい」などと礼賛しました。

さて、僕は2014年5月にアップした御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』のレビューですでにこう書いています。

 

御中虫現象には既視感がある。

2003年ごろに文壇では、

サブカル的発想に富んだ舞城王太郎がやたら持ち上げられた。

高橋源一郎や加藤典洋らが「新しい」と絶賛し、芥川賞候補になった。

 

ところが今はどうだろう?

彼を今でも「新しい」と言っている人はいるのだろうか。

結局、年寄りがネット世代に媚びただけのことだった。

 

青木は僕のレビューを読んでいないのでしょうが、まあ見識が足りないですよね。

純文学で2003年に起こって消滅した現象を、俳句界は今さらになって繰り返す気なのでしょうか?

青木の書いていることは僕の批判を裏付けているだけなのですが、

そのくせ彼は批判をするのではなく福田を礼賛してしまうのです。

純文学から15年遅れの現象を持ち出している時点で、福田に新しさが全くないと言っているようなものなのに、

それでも礼賛トーンで終わるのは、先に礼賛という結論ありきだからにほかなりません。

 

それから舞城王太郎が「幼児性を装った」という青木の解釈も受け入れ難いところがあります。

(そもそもペンネームが「自分の城の王」なんですけど……)

たとえ幼児性を「装った」としても、それは幼児性を創作のコアに置く態度によるもので、

彼が幼児的な面を持つ作家であることの否定にはなりません。

舞城の『九十九十九』という作品では露骨に成長嫌悪が語られています。

 

テキストを無視した口先だけの「善意の解釈」を並べる青木の態度は、

適当に良いことを言って敵を作らずにうまく仕事をもらおう、という

凡庸な人間の世渡りテクニック以外の何物でもありません。

僕はすでに福田の幼児性が真性のものであることを、テキスト読解で示しています。

舞城王太郎に関しては、彼の幼児性について、かつて僕が2003年に書いた文章があったはずなので、発掘してブログにでも載せておこうと思います。

そろそろ俳句界の論理力の低さに依存した散文商売を問題にする必要があるのではないでしょうか。

 

青木は「大きな物語」の衰退も語っていますが、

フランスではJ・リオタール、日本では東浩紀によって言われたことです。

リオタールの『ポストモダンの条件』は1979年ですのでほぼ40年前の言説ですし、日本ですら15年以上前の言説になるわけです。

このような「周回遅れ」のポストモダン現象を俳句に持ち込む連中を、僕は凡庸の極致だと批判してきました。

小津夜景『フラワーズ・カンフー』のレビューから引用します。

 

たとえば『君の名は』ヒット以後に、新海誠やRADWIMPSをほめあげる人がいるとする。

このような「遅れてきた俗人」をアートな感性の持ち主だと評価できるだろうか?

当然あなた方はそんな評価はしないであろう。

それと同様に、バブル期に隆盛した消費資本主義を背景にした〈俗流フランス現代思想〉を、

30年たった後になってから振り回す人間が凡庸であることは言うまでもないことである。

 

ただ時間が経っているから、ということではない。

〈俗流フランス現代思想〉は消費資本主義やインターネットテクノロジーによって、

思想的意味なくして人々がすでに享受している「日常」だからである。

主体の抹消とか「私ではない愉悦」とか何かたいそうなものに言っているのが恥ずかしくならないのが不思議だが、

そんなものはネットによって地上から切り離された「メタ的」主体のことでしかない。

だから〈俗流フランス現代思想〉はメタという言葉を使わずにごまかしている。

とっくに「日常」化したものがアートであるはずがない。

そんなこともわからない連中が俳句界隈やふらんす堂界隈には多数生息している。

 

上記の〈俗流フランス現代思想〉というのが、日本のポストモダン現象のことです。

ネットによってとっくに日常化したポストモダンを、アートや文学だと詐称する人たちにはウンザリします。

商業的寄生虫に批判などできないのは当然ですが、もし礼賛がしたいなら、

とっくに時代遅れとなって、他のジャンルでは通用しないポストモダンの「模倣」ではなく、

『自生地』の別の良い要素を発見してもらわないことには話になりません。

 

それなのに俳句界はただの「時代遅れ」の現象を「若手」というくくりでさも新しいことのように取り上げています。

外部の僕からみれば、こんなものは無知な年寄りを騙すための詐欺みたいなものです。

角川「俳句」2015年5月号のレビューに書いた僕の文章を引用しましょう。

 

関悦史やそのエピゴーネンたちは、俳句批評をしているつもりで、

やたら〈フランス現代思想〉などの西洋思想を援用したがるのですが、

〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダンの特徴は、

消費資本主義と歩調を合わせた、その反人間主義や非歴史性にあります。

 

彼らは一方で俳句という伝統詩型の歴史性に依存しながら、

他方で非歴史性を強調する概念論に依存するという二枚舌で批評もどきを展開しています。

これは教養の不足というより、

親父の世話にはなるが親父の影響は受けたくないという、

子供じみたご都合主義と言うべきでしょう。

 

関一派がポストモダンやサブカル(BL!)を援用したがるのは、

自らの歴史性の欠如をごまかし続けるための戦略だと僕は思っています。

もし、非歴史的でありたいのならば、伝統詩型をやるのは端的に「ずるい」ことです。

そのため、関は伝統とも前衛ともどっちつかずの態度をとり続ける日和見な態度になるのです。

 

非歴史性に特徴があるポストモダンに幼児性がつきまとうのは必然です。

「子供じみた御都合主義」を謳歌している人が幼児性丸出しの作品を作るのは当然の帰結なのです。

無知な青木がポストモダンの本質も考えず、舞城が「幼児性を装った」などと穏当なデタラメを語れてしまうのは、

彼が単に流行に迎合する寄生虫でしかなく、自身の批評的な視座を全く持ち合わせていないからにほかなりません。

もし寄生虫でないのなら、ここのコメント欄に反論を書いて僕と論理を戦わせてみてほしいものです。

(仲間をバックにつけるツイッターではなく、僕と同じ立場で「単独で」挑んできてください)

 

僕が単独者としてレビューを書いているにもかかわらず、

フォロワーと連結するツイッターで感情的な文句を返してくる著者が後をたちません。

ツイッターは潜在的に他者と連結したメディアですので、真の意味で単独者にはなれません。

文学の言葉は単独者のものであることが前提ですので、

ツイッターやSNSに依存している人間は、それだけで反文学的存在と言って構わないと思います。

伝達事項を伝える手段としてのツイッターは問題ありませんが、

感情的なつぶやきを安易に表現したり、他人の意見を自分の意見のようにリツイートする人間が、

たいした作品を作れるわけがないのは火を見るより明らかです。

このことも作者の資質を問う指標にしてみたらいいと思います。

(もちろんツイッターをやらなければいい作品を書けるというわけでもありませんが)

 

他の人にも触れておきます。

池田澄子は「パスワード」という言葉にやたらこだわっていますが、

こうやって何か言っていれば作品批評のようになるから俳句は楽ですね。

池田が取り上げた福田の句?はこれです。

 

 春はすぐそこだけどパスワードが違う

 

パスワードが必要になるのは金銭の発生に関わる場面がほとんどです。

春にパスワードが必要だという発想は、自分が資本主義的主体であることに疑問も批評性も持てないことから生まれてくるものです。

すべてを金銭で考える発想が、福田には骨の髄まで染み込んでいます。

もちろん池田にそんなことを読み取る力はありません。

 

これは「あえて」なんだ、とか「装った」だけなんだ、とかいう青木レベルの反論はくだらないのでやめてくださいよ。

そもそも俳句にそういうアイロニーは適していませんし、表現しきれるものではありません。

そういうアイロニーを表現したいのなら、疑いなく俳句以外の形式をとるはずなのです。

「あえて」俳句を選んでいることが、福田の書いていることが「あえて」でも「装った」ものでもなく本気であることを示しています。

また、「あえて」とか「装った」とか言うのなら、どうして福田の散文パートに関してもそう言わないのでしょうか?

散文パートは「切実」とか「青年の思いが詰まってい」るとか評価しておきながら、

都合が悪いところだけ「あえて」とか言うのは、ダブルスタンダードですし、その人の見識を疑います。

 

加藤治郎は俳句がよくわかっていない短歌の人なので、

短歌的文脈で『自生地』を評価しています。

僕は福田の句?が俳句より短歌に近いと書きましたが、加藤が書いた次の文が決定的に僕の見方を裏付けています。

 

『自生地』には、七七五、五五七の形式もある。俳句形式の周辺に五音と七音の断片があるのだ。

 

加藤のこの読みが正しければ、福田の句?は俳句より短歌に近いことの証明となります。

俳句は短歌の五七五七七から五七五で切れた形式です。

俳句であるためには、当然五七五の周辺に五音も七音も気配があってはいけません。

加藤は短歌の人間なのでこれを評価しても構いませんが、

俳人はむしろこのことを批判的に捉えないといけないと思います。

(本誌の「忙中閑談」で降旗牛朗という方が俳句と短歌のちがいについて良いことを書いていますが、

当のこの雑誌がそのような区別ができていません)

概して若手とされる俳人は「切れ」の意識に欠けた人が多く、簡単に句が散文化してしまう傾向があります。

七七五や五七七の形式が、旋頭歌などの奈良時代の和歌形式を想起することも付け加えておきます。

 

トオイダイスケという方はよく存じ上げないのですが、

 

 キオスクが夏の記憶でいまもある

 

という句?を取り上げて、「いまもある」のは「率直に読めば」夏にキオスクを目にした時の「記憶」だと述べています。

格助詞を適切に理解できれば、「キオスクが」が述語「いまもある」の主語に当たるのは明確なので、

当然「いまもある」のはキオスクでしかないはずなのですが、

この方は「が」と「で」の用法が今ひとつ理解できていないようです。

(カタカナ名前の方なので、海外の方なのかもしれません)

現実のキオスクと記憶のキオスクが「二重映しになっている」とも読める、と言うのですが、

いや、そうとしか読めないと思います。

 

トオイダイスケの感想は個人のものなので特に言うこともないのですが、

この句?の問題は「夏の記憶」がどういうものなのか、その内容が読者に完全に秘匿されていて、これっぽっちも示されていないということです。

そのため、読者が勝手に自分の体験を重ねて、そういう瞬間あるよね、という「あるある」を味わうだけに終わっています。

僕はこういうものは創作表現ではなく、ただの「あるあるネタ」だとしか思いません。

 

もし短詩であるなら、これが「夏の記憶」でなければならない「思い」を感じさせてほしいのです。

擁護の心情を抜きにすれば、これが「春の記憶」であっても「冬の記憶」であっても構わないのは明らかです。

キオスクなど日常に位置するものですから、夏休みと結びつけるだけの理由もありません。

 

本気で提案したいのですが、

「青春」といえば未熟でもほめて良いというような甘やかしの風潮はやめにしませんか。

こういう感覚が俳句甲子園とかいう奇妙な競技的文化を生み出し、そこの出身者をいつまでも甘えた勘違いに縛りつけているのです。

俳句甲子園が俳句甲子園という文化として存在するのは構いませんが、

高校野球とプロ野球が別物であるように、俳句甲子園文化と俳句文化には線引きが必要だと思っています。

俳句界はこういうことをすべて曖昧にしたまま、「若手」に言うべき言葉を持たず、

彼らの低レベルな発想を追認することになっています。

 

最近の俳人は作品より人間関係を優先させているように感じます。

出版社は話題とコネで原稿依頼をするだけで、内容を検証する力を持っていません。

ディナーショーのようなイベントが俳句にはたして必要なものなのでしょうか。

商業主義と戦えない文学は形骸化していくだけに終わることでしょう。

 

 

 

「俳句四季」2018年2月号 (東京四季出版)

  • 2018.02.18 Sunday
  • 19:49

「俳句四季」2018年2月号

  (東京四季出版)

 

   ⭐

   自社で出版したら疑問ある作品でも「名句集候補」扱いする尻軽雑誌

 

 

今号の座談会「最近の名句集を探る54」で福田若之の『自生地』が取り上げられています。

僕はすでに『自生地』をレビューして、この本をほめる俳人が問題だと書いているので、

この座談会で軽薄に『自生地』をほめた俳人にものを申したいと思ってレビューを書きます。

 

まず、福田の書いたものを俳句として簡単に処理する人が、僕には理解できません。

あとで説明しますが、散文性が強く、贔屓目に評価しても短歌的(それもニューウェーブ)でしかありません。

したがって、このことに疑問を持たない俳人は、俳句と散文、または俳句と短歌の違いがわかっていないということなので、

俳句をやっても上達する見込みはないと思います。

また、『自生地』を出版するのはいいにしても、「名句集」扱いをして次号に特集まで組む「俳句四季」という雑誌は、

ただ商売のために俳句本を出しているだけで、俳句文化に対する尊敬もなければ勉強もしていない尻軽雑誌であるようです。

俳句界は批判が成立しない自己愛原理の文化なので、土壌がどんどん腐っています。

 

その座談会のメンバーですが、筑紫磐井が司会で、あとは齋藤愼爾、相子智恵、前北かおるの4人です。

実際にほめているのは相子智恵くらいで、筑紫は温情的、齋藤は批判的、前北は関心が薄いというスタンスに見えました。

その後の小野あらたの句集に関しては、みんなでうまい、うまい、と連発しているだけに、

『自生地』がどうにも名句集を探る企画にふさわしいとは思えないのですが、そのあたりは魂のない出版社が自己宣伝したくてやっているのでしょう。

それでも筑紫磐井と相子智恵の発言には看過できないものがありました。

 

まず僕が問題だと感じるのは筑紫磐井のいいかげんなスタンスです。

筑紫は句数の多い俳人を自分は批判しているとして、関悦史や北大路翼を福田とともに挙げてこう言っています。

 

関悦史さんの句集は全部テーマを変えて十数編の短編小説のような格好で並べているし、北大路さんの句集は風俗物の長編小説のようになっています。福田さんの場合は非常に演出に凝っているような気がしました。

 

「小説のよう」であったり「演出に凝って」いたりと、つまるところ彼らがいかに散文性に寄りかかっているかを言っているわけです。

筑紫は「句数の多い句集というのは、ある意味自選能力を否定しているようなものだと常日頃批判し」ているとしつつ、

引用文のように擁護を始めるわけですが、

このような批判に対処するためには、ただ句数を減らせばいいだけということになります。

しかし、ただ句数を減らすだけなら誰だってできるのではないでしょうか。

その意味で筑紫の批判にはほとんど中身がありません。

彼らの問題は「自選能力の否定」にあるわけではありません。

一句で勝負できないために、散文性に寄りかかり、小説のような構成や演出をする必要が出てしまうのです。

つまり、問題は散文性への依存にあるのであって、そこを「自選能力」などというものにすり替えて語ることは、

筑紫が問題を認識できていないか、ごまかしをしているかのどちらかだと思っています。

そもそも筑紫は散文脳の関悦史の庇護者のような役割を果たしてきたわけですから、

選句をしないことだけを批判する態度は、アリバイ批判というか官僚的二枚舌だと感じます。

 

あと、筑紫が福田の句?のいくつかを挙げて「残りうる句だと思います」とか言っていますが、

僕は話題性が尽きたらどこにも残っていないと思います。

 

 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

 図書館までの七月の急な雨

 おもしろくなりそうな街いわしぐも

 あんみつにこころのゆるむままの午後

 

などがそれですが、こんな作が三橋敏雄と並んで残るわけないでしょう。

本気で言っているとしたら筑紫の俳句眼を疑います。

ハッキリ言いますが、福田の作はただの「あるあるネタ」です。

そこには詩的感動などまったくなく、安っぽい共感があるだけです。

俳句や詩が追い求めるものが安っぽい共感であるとでも筑紫は思っているのでしょうか。

まあ、それならさっさと俳句をやめたほうがいいでしょう。

「しあわせがどうしても要る」そうだよね〜

「七月の急な雨」まいっちゃうよね〜

「おもしろくなりそう」いいね!

「あんみつにこころのゆるむ」画像upお願い!

こんな感じのSNS的な内的感情の駄々漏らしですよ。

俳句とツイッターの区別ができない若者が俳句界隈には多く存在しすぎているのではないでしょうか。

 

僕は福田が「かまきり」とか「小岱シオン」とかいう言葉を、彼の著作の中だけで成立する隠喩的な語として用いていることについて、

問題を感じていない俳人の意識の軽さに驚いているのですが、

一句ではなく一冊を作品単位と考えている福田が、自作の中で「かまきり」を特別な隠喩として用いている場合、

それは季語たり得るかといえば、そうではないというのが僕の立場です。

コノテーションと予防線を張れば許されるというレベルの行為ではないと思っています。

福田が「かまきり」という語を自分の作品内での個人的な意味に用いている場合、

そこに季感が存在しないのはもちろん、外部の対象への関心自体が失われていること、

ひいては他の俳人との共同性に背を向けていることを読み取らなくてはいけません。

福田は自分の内面にしか興味のない甘えた人間であり、季語というものを作品を俳句に見せるための形式的な道具としか理解できていません。

僕は俳人ともあろう者が、季語に別の役割を担わせる依存行為(千葉雅也的に言えばハッキング)を、

どうして平然と受け入れられるのかわかりません。

まあ、批判という回路を捨ててしまった「自己慰撫の集団」だからでしょうね。

(もちろん、福田を批判している齋藤は違いますよ)

それでも筑紫のような季語について本を書いている人が問題を感じないのは致命的です。

こういうことが気にならない人の書いた本など読むだけムダです。

僕は一冊だけ筑紫の本を持っているのですが、早々に紙ゴミにしたいと思っています。

 

また、筑紫は「我々は「俳句」という枠組みで作ってしまっているけれど、

福田さんはあえてそれを壊そうというところからスタートしている」とも述べていますが、

福田を革命家扱いするトンチンカンの大まちがい発言です。

何度も言いますが、福田は俳句以外のものをやる力がないために、

一生懸命自分の句 ?を俳句として受け取ってもらおうと努力しています。

だから東京四季出版から句集を出すのですし、自分の本のことを「句集」「句集」と書いてアリバイを作っているのです。

(そして「名句集候補」扱いですよ)

「あえて」と言うなら普通に俳句らしい俳句が作れるということですよね。

筑紫は福田のそういう句を見たことがあるのでしょうか?

(「七月の急な雨」とか言っちゃって、「夕立」「驟雨」という季語も使いこなせない人ですよ)

どこに「あえて」という根拠があるのか、「とりあえずアゲとこう」という官僚的二枚舌もいいかげんにしてほしいものです。

 

それから福田を恥ずかしいくらい擁護している相子智恵ですが、

福田のスタイルも批判できない程度の気持ちでやっているなら、

この人の俳句が上達しないのも仕方がないと思いました。

相子は福田に「俳句を愛しているゆえの切実さ」があるとか言っちゃってますが、

僕の『自生地』レビューを読めばわかる通り、福田は俳句など愛していません。

自分が愛されたいだけです。

自分を俳人として認めてもらい、愛してもらう切実さ、のために俳句が大切になっているだけです。

相子が能動と受動の違いも区別できないのは、それこそ作品に対する切実さが欠けているからだと言わざるをえません。

自分の勝手な思い入れで判断するのではなく、作品自体の解釈から作家の態度を評価するべきです。

俳人は相手に会った印象で勝手に作品を判断することが多すぎます。

藤原定家も作者による作品判断を嘆いているので、そのような態度は昔からよくあることなのでしょうが、

文学的には不誠実でまちがった態度です。

それとも相子は、自分以下の存在を擁護すれば、伸び悩んでいる自分自身を慰撫することになるとでも思ったのでしょうか。

どちらにしても不誠実な人物だとしか僕には思えませんでした。

 

たとえば相子は「九月は一気に青空だから(うつむく)」という句を取り上げて、

 

こういう風に()を入れたり、言葉や構造に触れないといられないという、切実さが感じられます。

 

などと言っているのですが、カッコを使うだけでずいぶんと大げさな評価です。

相子はわかっていないのかもしれませんが、俳句には「切れ」というものがあります。

「切れ」によって句の中に時間の断絶や主体の転換を表現することができる「構造」を俳句は持っているわけですが、

そんなに構造に触れる「切実さ」があるのなら、どうして福田は「切れ」を学ばないのでしょう?

「切れ」を学習せずに安直に()を用いる態度は、むしろ俳句形式への不信の現れだと考えるべきです。

このような表現を用いることが、彼の作品を俳句より短歌に近づけるのは必然です。

そういうことがわからない相子は、勉強不足というか俳句を無自覚にやっているだけの俳人だとわかります。

 

さて、座談会の不誠実な俳人についての罪状はこれくらいにして、

福田の句?が俳句より短歌に近いということを書いて終わりにしたいと思います。

そもそも自らの内面をそのまま吐露するスタイルが短歌の方に近いのは言うまでもないことです。

それ以上に、『自生地』の散文パートを長い長い前書きと捉えた時に、それが短歌から散文への流れにあることがハッキリします。

 

最近ちくま学芸文庫として復刊された大岡信の『紀貫之』には興味深い説が書いてあります。

大岡は紀貫之が『伊勢物語』の作者かもしれないと語った上で、

貫之の歌の多くが屏風歌であることを指摘します。

そこで貫之という歌人が、「虚構を日常茶飯とするジャンルの名匠であった」とします。

そのような虚構性の強い貫之の歌に添えられた前書きが重要な外部文脈であることを大岡が指摘しています。

 

けれども、一首妙に切実な実感がこもってきこえるのは、「宮仕へする女の逢ひがたかりけるに」という詞書によって、二人の置かれた具体的な状況が想像できるからであろう。この詞書がない場合、歌はかなり不安定なものになることは否定できない。

 

そう言って、貫之の歌には一人称より三人称の世界に置いた方がおもしろい歌が多いとします。

 

その結果どういうことになるかといえば、歌というものを物語化しうるものとして、また物語の観点から、眺めるという習性が必ずや生じたはずなのだ。(中略)歌というものを、それが実際にうたわれた具体的状況から引き離し、別の想像的世界の構成要素として生かすとき、そこにはやがて伊勢物語的な歌物語の世界が生れるだろう。

 

つまり、前書き(詞書)に依存した「別の想像的世界の構成要素」となった歌が物語へと変化したというのが大岡の見方なのです。

なかなかの慧眼だと思いませんか?

「別の想像的世界の構成要素」と化した作品は、すでに散文の一部となっているということです。

そして、それは歌から物語の変化をたどっているのであって、俳句のあるべき位置ではありません。

(いや、むしろ俳句はこの変化に逆行するものであったはずです)

そうなると、福田の作品は俳句の自己否定であるということです。

俳人が『自生地』をほめることを僕が激しく糾弾するのは、

もちろん私怨(笑)などではなく、俳人が俳句を否定することが見ていられない(つまり俳句への愛)からなのです。

 

まとめますが、福田は俳句をあえて破壊しているわけではありません。

俳句でないものを俳句だと偽ろうとしているだけなのです。

それは俳句よりニューウェーブの短歌に近いものですし、

だからこそ次号で加藤治郎が『自生地』の作品鑑賞を書くことになるのです。

福田の句?にはまだまだ言いたいことがありますが、この魂のない雑誌では次号も『自生地』の特集をするようなので、

その時にまた書こうと思います。

 

 

 

「俳句 30年2月号」 (角川書店)

  • 2018.02.01 Thursday
  • 15:21

「俳句 30年2月号」  (角川書店)

 

 

   ⭐⭐

   周回遅れの「ソーカル事件」を後押しする編集部の勉強不足

 

 

今号の大特集は「高野素十と写生」です。

特に「写生」が表紙に大きな文字で強調されています。

その特集には「5人の論客による評論」というものがあるのですが、

その人選が偏っているだけでなく、俳句そのものを軽視したような論があるため、雑誌の品格が失われることを僕は危惧します。

 

偏っているというのは、四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、

若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物であるということです。

サブカル俳句の彼らが俳句の伝統である「写生」を語るのにふさわしい人材でないことは、

読む前からわかることですが、角川の編集者はどのような意図で彼らを起用しているのでしょう。

 

たしかに写生を語らせることに岸本尚毅という人選は適格であることは疑いありませんが、

彼が四ツ谷龍とともに田中裕明賞の審査員としてサブカル的なファッション俳句を応援してきた人物であることも忘れてはいけません。

青木亮人にいたっては俳句の研究者としての実績はよくわかりませんし、

僕が彼の著書を読んだ限りでは月並俳諧の研究者だったはずなので、

ポップな句を語るのはわかるのですが、写生を語らせるのに適任だとは思えません。

僕にはサブカル俳句の隆盛に乗っかっただけの寄生虫的存在という印象の方が強い人物です。

5人中の少なくとも3人が写生と程遠い偏った色のついた人物であるこということが、

最近の流行りの傾向に乗りたいだけの浅いあっさ〜い編集者の学識のない発想を窺わせます。

 

僕が問題にするのは2点です。

特に四ツ谷龍と関悦史の二人に関してなのですが、彼らは「写生」に対して最初から偏見を持つ人間なので、

特集の執筆者としてふさわしくないということです。

それは本号の論考を検討すれば確認できます。

 

もう一つは四ツ谷龍と関悦史が周回遅れのポストモダン的発想を俳句に持ち込んでいることです。

これがただ時代遅れというだけなら冷笑するだけで良いのですが、

ポストモダン思想家たちが不適切に理系知識を濫用していたことを暴露したアラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』にあるような、

俳句に怪しげな理系的言説を持ち込む四ツ谷と関の欺瞞に満ちた論考を、

角川俳句の編集部が「論客」扱いで取り上げている破廉恥さが問題です。

伝統ある俳句界がすでに言い古された「ソーカル事件」を繰り返すのは、勉強不足すぎて見ていられません。

 

本論に入る前に、四ツ谷龍という人物を理解するために、彼の「品のない行為」について書いておかねばなりません。

前述したように四ツ谷はふらんす堂が主催する田中裕明賞という俳句賞の審査員の一人なのですが、

自分が受賞を後押しした句集(関悦史『六〇億本の回転する曲がった棒』や鴇田智也『凧と円柱』)に、

批判的なレビューが掲載されると、自ら匿名の「裏アカウント」を使って、カスタマーでもないのに反論(というか攻撃)のレビューを載せました。

賞の審査員自身が商品レビューの欄で、それも匿名を用いて批判者を攻撃するという行為は、

著しく「品のない行為」であることは間違いありません。

(Amazonはこういうステルスマーケティングに該当するレビューはガイドラインで禁止しています)

バレなければ「品のない行為」でも行っていいのだ、という価値観はいかがなものかと思います。

こういう人物を審査員として起用し続けているふらんす堂にも、品格を求める人々の声を届かせる必要があると思っています。

 

田中裕明賞の審査過程を読んだ人ならおわかりでしょうが、

四ツ谷は自分の考えを絶対視し、他の審査員の意見を聞かない専制的な態度をしています。

今回の高野素十の論でも同様の態度が目につくのですが、四ツ谷龍という人物を知らない人は読み流してしまうことでしょう。

そのため、先に彼がいかに「品のない行為」を行う自己中心的な人物であるかを示す必要がありました。

 

さて、四ツ谷龍の論ですが、「素十俳句は客観写生とは言えない」の題でもわかるとおり写生的な読みを「否定する」内容でした。

ポイントは「否定する」というところにあります。

客観写生と言えない面を持っている、という穏当な主張ではないのです。

そのラディカルさがはたした妥当なのか、それとも専制的態度の現れなのかが問題にされなくてはいけません。

 

文頭に素十は客観写生の手法で句を作っていたと「本人もそれを公言していた」と四ツ谷は述べています。

そして四ツ谷は「客観写生」を「事実そのまま述べたもの」だと定義し、

写生の例とする中村草田男の句と素十の句を並べて評していきます。

 

 そら豆の花の黒き目数知れず    草田男

 甘草の芽のとびとびのひとならび  素十

 

などの句を比較して、対象の特徴が的確に描かれている草田男の句を「事実を忠実になぞる作風」とします。

それに対し、芽のかたちが具体的に描かれていない素十の句はそうでないと言うのです。

しかし、これでは詳細に観察していなければ「客観写生」ではないということになってしまいます。

 

 秋風や脛で薪を折る嫗       草田男

 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴   素十

 

これらの句を取り上げた四ツ谷は、

草田男の句では「作者が実際に経験した一回限りの事実が、ありありと再現されている」のに対し、

素十は明日も明後日も去年も来年も起こりうる出来事だと述べます。

しかし、老女が脛で薪を割るのは本当に一回限りの出来事なのでしょうか?

去年も来年もそのようなことはしないのでしょうか?

 

それ以上に問題なのは、素十がいつでも繰り返される鈴の音を詠んでいるという解釈です。

たしかに鈴はいつでも鳴るわけですが、素十が俳句として詠んだ時の音は「一回限り」のものとして、

自分自身に迫ってくる「アウラ」として感じられたものではないでしょうか。

芭蕉も蛙が古池に飛び込む音を「一回限り」のものとして聞いていると思います。

こんなこともわからない四ツ谷には根本的に詩的センスが欠けているのではないかと疑念を持たざるをえません。

 

自分の論に都合のいい句を選んできて語っているにもかかわらず、

にわかに納得できない説明では強弁に聞こえても仕方ありません。

そのため、四ツ谷の「客観写生」に対する認識についても問われる必要があると僕は思っています。

「事実をそのまま述べたもの」がはたして「客観写生」なのでしょうか?

それなら雑誌でわざわざ特集する価値もない、誰にでもすぐにできるものになってしまうのではないでしょうか。

 

すでに論の信憑性がかなり欠けているにもかかわらず、四ツ谷はさらに奇妙なことを言いだします。

「素十の句には数字がひんぱんに表れる」ことを指摘し、

数字の扱いが様式的であるため「素十の感覚はいかにもデジタル的だ」という結論を導きます。

数字だけを取り出して考えれば様式的になるのは当たり前ですし、

それだけで素十がデジタル的感覚だとは、まあ、ずいぶんと粗い論だと思いますが、

こういう中身は怪しいだけなのに理系ぶったことを言うのが、前述したポストモダンの犯した誤りソックリなのです。

四ツ谷は俳句と数学を結びつけたがっているのですが、

そういう詐欺じみた「思考遊戯」が、実は文学的でも詩的でもなく、

詩の創作能力に欠けた理屈人間のルサンチマンであることは、ある程度詩に感動したことのある人間ならわかるはずです。

 

少なくとも私が今日素十から強い影響を受けているとすれば、それは対象を写生する手法を習得しているわけではなく、対象を様式的に処理する手続きを彼から学んでいると言ったほうが実際に近いところだ。

 

このような四ツ谷の言に示されているとおり、彼は写生にそもそも興味がないのです。

ハナから写生に興味のない人に写生特集の原稿を依頼した編集者の考えを聞いてみたくなる一文です。

おまけに、「影響を受けているとすれば」と仮定になっているので、実際には素十の影響を受けていないのかもしれないのです。

こうなると、単に自分の考えだけを語る内容になるのは必然ではないでしょうか。

 

結果、素十の句が「方法論としては写実とも客観主義とも、大きく離れたものと言わざるをえないであろう」と論をしめくくるのですが、

そう「言わざるをえない」のは四ツ谷自身がそういう考えに凝り固まっているからでしかありません。

四ツ谷は田中裕明賞の選考で「これまでの俳句と違うものを作る」ことを「倫理的」と表現したように、

花鳥諷詠、客観写生を重視するホトトギス的な俳句を敵視することが「詩的」であると短絡している人物です。

この論考は高野素十論ということになっていますが、四ツ谷は対象である素十俳句を「歪曲」し、

単に自説を開陳する場に変えてしまっています。

このように作品自体より自らのエスタブリッシュメントを優先する人間を、僕は反文学的態度として糾弾します。

もう賢明な読者の方々にはご理解いただけると思いますが、

四ツ谷が「素十俳句は客観写生とは言えない」と写生の否定にまで至る必要があったのは、

俳句鑑賞によって到達した結論がそうだからではなく、単に自らの欲望を表明することを抑制できないからなのです。

僕はこういうものを「素十論」と称することにも抵抗があるのですが、

「論客」扱いをして平気で掲載する角川俳句の編集者の読解能力にも疑問を感じずにはいられません。

 

関の論考も仲良しの四ツ谷と呼応するように、自分でも使いこなせていない理系的な意匠によって論を進めています。

関も「写生」が何であるかはよく理解していないようで、

 

 くもの糸一すぢよぎる百合の前

 桔梗の花の中よりくもの糸

 

などの句を取り上げ、素十の関心はピンと張った糸の「力学的緊張」だとか言い始めます。

「ナントカ的」と観念を振り回すのは関の得意技ですが、

写生というテーマで観念しか持ち出せない引き出しの少なさには哀れさを感じます。

まあ、糸なんてピンと張るでしょうから、「力学的緊張」なんて呼ぶ必要もないのですが、

そういう衒学的用語を使わずにはいられないのがソーカルの指摘する「知」の欺瞞なのです。

欺瞞にまみれた解釈は四ツ谷も挙げた素十の代表句にも及びます。

 

 甘草の芽のとびとびのひとならび

 

この句について関はこんなことを書いています。

 

〈とびとびのひとならび〉とは、直線状に配列されたグラフのなかの点にほかならず、素十の眼はその配列に、非実在の「糸」の存在を見て取っている。素十の句に特有の、奇妙に乾いた清潔な抽象性はここに由来するものである。

 

こうやって関は素十の句を写生から程遠い「抽象性」へと「歪曲」した上に、

「重く湿った人間的な感動といったものにはさほど関心を示さず」

「力学的な事件が発生する現場のみを拾っているのである」と結論します。

俳句に関して好き勝手なことを言っていい、というのでなければ、

関の解釈は詐術にまみれていて、説得力のカケラもないと言わなければなりません。

きちんと頭脳を働かせて読んでいただければ理解できると思いますが、

「とびとびの芽」がどうして「グラフのなかの点にほかならず」なのでしょうか?

何を根拠として「グラフ」が出てきたのでしょう?

ただ「点にほかならず」と言うのならわかりますが、「グラフのなかの」と書くところに詐術があるのです。

なぜなら、「グラフ」を先に持ち出さなければ、点を糸に転換することができないからです。

 

こういう自説のために俳句作品を奉仕させるような論考は、

俳句に対して不遜であるというより、本当は俳句なんて好きではないのではないか、という疑念すら浮かびます。

もしそうでないなら、関悦史はつまらない自我など抑制して、もっと作品に対して謙虚に向き合うべきでしょう。

もう一度言いますが、先に「グラフ」と書いて直線のイメージに読者を誘導しているから、

素十が「非実在の「糸」の存在を見て取っている」などという暴論が論理的であるように感じるのです。

関悦史は自作の俳句でも、先に外部文脈を自分で設定して、それを参照するかたちで散文脈の俳句を作るのを得意としていますが、

論考も俳句も同様の散文でしかない関は、どちらにも同様の手口を使うので注意が必要です。

 

また、「重く湿った人間的な感動」に関心を示さないのは、

素十俳句の特徴ではなく、すべて俳句自体の特徴です。

多くの句に当てはまることを素十の句の特徴のように語るのは、何も語ってないのと変わりません。

前から思っていることですが、関悦史は低レベルの人にしか通用しないつまらない(レ)トリックではなく、

自分の知性とつりあう誠実な内容の文章を書くべきです。

 

「力学的な事件が発生する現場のみを拾っている」などと言って、

俳句を「人間不在」の領域にしようという欲望には、現代思想(の一部)で流行と目されている思弁的実在論の影響を感じます。

非論理的な詐術であるため、自分が知的な存在であることをアピールしたい、という関の自己都合ばかりが前景化し、

素十の俳句そのものとは全く関係がない次元の文章になっています。

死に体のポストモダン概念でも免疫のない俳句界でなら通用するだろう、という生半可な精神は、

フランスの詐欺師が日本人なら簡単に騙せるだろう、と考えている態度とそう変わりはありません。

 

もうお里が知れたので、先を読むのはやめますが、

ちらっと見たら、「素十の句は、厳しく人間を排除する絶対的な」(そこからページをめくるのが面倒なので見ませんでした)という文字が目に入りました。

いわんこっちゃない、やはり「人間不在」だと言いたいだけだと思います。

 

こういうものを思想のバックボーンがあってやっていると思っているところに関の知性の程度が知れるのですが、

彼が依拠する現代思想的なものは、実際は思想とは言えない〈俗流フランス現代思想〉という現象でしかありません。

日本の〈俗流フランス現代思想〉は、裏に他者排除を隠し持った「人間嫌い」を肯定するだけの「知的言い訳」として流通しているので、

フランス本国から見れば、中国の「なんちゃってドラえもん」のような現象でしかありません。

 

外部の人間が見れば、関が俳句よりも他のものへの志向を優先しているのは明白です。

(関は俳句の伝統より、すぐ沈静化する思想ブームの方を尊重しているのですから)

俳句界がこういう生半可のくせにインテリぶりたいだけの人を「論客」扱いしているのは、僕には滑稽を通り越して不快です。

こういうことになる原因は、角川俳句の編集部、ひいては俳句界全体の他ジャンルに対する勉強不足にあります。

角川俳句の編集部は今すぐ「ソーカル事件」について勉強し、俳論にいかがわしい理系的言説を持ち込むことに厳しい目を持つ必要があります。

四ツ谷や関が目指しているのは俳句から人間を排除することです。

最終的にはAIを模倣するような俳句を作って、それを新しいとか言い出すのは目に見えています。

(すでに生駒大祐がそういう俳句をやっているように見えるので、今後彼らを中心に生駒を持ち上げるムーブメントが予想できます)

文学や詩が「人間不在」だと言うことに何の意味があるのでしょう?

編集者は四ツ谷や関に論考を書かせるにしても、

その内容が不適切な方向に行かないようにチェックできるだけの教養を持つ必要があると思いますし、

そんなこともできない雑誌が「写生」という伝統の特集を組むこと自体がお笑いだということを自覚するべきでしょう。

 

 

 

 

『自生地』 (東京四季出版) 福田 若之 著

  • 2018.01.23 Tuesday
  • 09:48

『自生地』 (東京四季出版)

  福田 若之 著

 

   ⭐

   もはや評価している人間の方に問題がある

 

 

俳句界では批評の成立しない「内輪褒め」が横行しています。

この『自生地』は通常の句集とは異なっているので、評価にためらいがあるのが普通だと思うのですが、

簡単に褒めてしまう俳人が少なくないことに驚きます。

こういうものを簡単に褒める俳人は、端的に俳句に対する意識が低いといえるので、

俳句などやめたらいいと思うのですが、他人の句集は褒めていれば安全だとでも思っているのでしょう。

俳句に一定のレベルが存在しないのなら、「先生」は必要ありませんので、

金輪際その言葉を使わないでいただきたいものです。

少なくとも『自生地』を褒めた俳人を、僕が「先生」と呼ぶことは一生ないでしょう。

 

まず第一に福田の「俳句らしきもの」を俳句と呼ぶべきかどうかを問題にする必要があります。

そこに触れずに褒めている人は、俳句とは何かという基準を自分で持っていないわけですから、

俳句に対して不誠実な人だと判断するべきでしょう。

仮に俳句であるなら、句中の散文的な要素をどう許容するのかを明らかにする必要があります。

そこに触れずに褒めている人も俳句に対して不誠実だと言えるでしょう。

第二に福田の「俳句らしきもの」が俳句ではないとするならば、

賢明な俳人は評価を避けるべきですし、俳句誌で他の句集と同列に取り上げるのは他の人に失礼です。

僕自身は福田の作品は俳句であろうがあるまいが一定レベルに達していない質の低いものだと考えています。

 

まず、ライトノベルをある程度読んだことのない人には『自生地』の真の評価はできないでしょう。

閉鎖的な俳句界は他のジャンルとの関係で作品を見ることができない人だらけで、

そのために関悦史程度のサブカル作品を褒めたりしてしまうわけですが、

「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界は、

そういう文化を知らない人には喪失感を抱えた若者の「書く」ことへの模索とでも受け取っているのでしょうが、

残念ながらほとんどはラノベでよく見るポーズであって、真剣に読むに耐えないナルシシズムの表出でしかありませんでした。

(小岱シオンというネーミングセンスも西尾維新的です。

もしかしたら福田は「ファウスト」という雑誌の熱心な読者だったのかもしれません)

 

『自生地』が俳句と散文で編まれた句集だという受け止め方もまちがっています。

俳句をやっている人は何でも俳句として受け入れる癖(俳句脳)ができているのでしょうが、

俳句をやらない僕から見れば、この本はすべてが散文だと感じましたし、

実は俳句らしきものの方はかなり読み飛ばしました。

実際、散文だけあればすむ内容ではないでしょうか。

 

それでも福田は散文パートの中でこの本を「句集」「句集」と執拗に呼んでいます。

自ら「句集」と喧伝することで、この本が句集であるかどうかの議論を封じようとする態度は、

自分自身が俳句の定型などの縛りを嫌っておきながら、

読者には自分の作品を「句集」という縛りで把握することを強要することにほかなりません。

このような態度がどこか「ワガママ」であることは、落ち着いて考えれば理解できるのではないでしょうか。

 

では、なぜ自ら「句集」「句集」と釘を刺す必要があるのでしょうか。

それは普通に読んだら句集に見えない可能性があるからです。

つまり、福田自身、自分の句が俳句たりえていないのではないか、という不安を抱いているのです。

それは、このような文からもよくわかります。

 

〈文〉の思考とは別の、〈句〉の思考ということについて考えている。だが、句は、一見すると、それ自体がひとつの文をなしているように見えることがある。

 

福田は散文に見えない俳句を作るための「修行」をサボっていながら、

自分が散文にしか見えない句しか書けないことを、あらかじめ散文で言い訳をすることによって免罪しようとしています。

僕は福田と個人的に知り合いではなく、身銭を切って本書を購入しているので、

このような甘えた態度を文学的だと感じるほどお人好しにはなれません。

こんなことを書くくらいなら、がんばって俳句を作ればいいのです。

ある程度俳句の修行をしたであろう俳人が、このような言い訳を「書くことへの誠実な悩み」と受け止めているのを見ると、

俳句のやりすぎで散文が読めなくなったのではないかと疑います。

 

散文抜きのいわゆる句集を作る勇気が福田にはなかったのでしょう。

思い悩むポーズで言い訳を垂れ流す散文パートの多くには無責任さが刻印されています。

(こういうのを真に受けてしまう、コノテーションの理解ができない人は本当に文学なんてやめた方がいいと思います)

 

句集をまとめたいという望みはかねてからのものだったけれど、それが具体的な計画として動き出したことは、必ずしも僕自身の意志によってではなかった。

 

このように本書を作ったのは自分の意志ではない、と福田は予防線を張っているのですが、

これが本心でないことがわからない人はどうかしています。

サブカルオタクが自分の欲望を隠したがるのは定番です。

(村上春樹の小説が性的誘惑を女にさせることで、主人公の性欲を不可視化するのと同様の原理です)

なにしろ、福田は後半のページでこう書いています。

 

僕は句集を編むことばかりを考えてきたつもりだった。句集を編んでいるつもりだった。けれど、いまやそれを撤回しなければならない。僕は句集を編みたいのではなかった。僕は句集を、結晶させたかったのだ。

 

この粘着質な文だけでも、福田がどれだけ「句集」を作ることに思い入れがあったか理解できそうなものです。

これが「句」ではなく「句集」であることにも注意が必要です。

彼は俳句がやりたいわけではないのです。

自分の本を作って他人に承認されたいだけなのです。

 

予防線と無責任さに関しては別の箇所にも気になるところがあります。

 

拾い集め、書き写す作業に終始しながら、句集というのは書くというよりはむしろ編むものであるという、考えてみればあたりまえの事実に、あらためて愕然とせずにはいられない。こんなふうにして一冊の本ができてしまって、よいものなのだろうか。こんなものを、本と呼んでしまって、よいのだろうか。

 

ここだけ読んでも福田には一句独立した俳句という感覚がないことが明確です。

明らかに福田にとっては「本」というのが一つの単位なのです。

「こんなものを、本と呼んでしまって、よいのだろうか」と言いつつ、出版はしているわけですから、

これはもちろん誠実さの表れなどではなく責任回避の予防線でしかありません。

もし本気で言っているとしたら、こちらは「金返せ」と言うしかなくなります。

 

福田の散文パートを読んでいると、自分の書いたものを自分で所有したいという思いの強さが読み取れます。

福田は現代思想に詳しい、とどこかで読みましたが、

エクリチュール(それ以前にポエジー)というものが全く理解できていない態度で、何が現代思想なのか意味がわかりません。

実際に例をあげましょう。

 

歩くという言葉を記すたび、僕は感情にわずかな痛みを覚える。僕の書く歩くことは、僕だけが感じることのできる、決して伝えることも残すこともできない何事かだ。

 

僕の書くことは僕だけのものだ、という宣言です。

このような所有への固執は、喪失への恐れの強さが原因になっています。

散文パートの多くは、それほどのものを失っていないであろう若い青年の妙な喪失への恐れが書き綴られています。

 

失くした消しゴムを探して、机の裏に潜りこんで埃まみれになったこともあった。それでも、もうその消しゴムをとりもどすことはできなかった。買ったばかりの消しゴムが前の消しゴムと違うことが許せなかった僕は、それを何も書かれていない机にこすって、どんどん丸くしてしまうのだった。

 

喪失感が消しゴムで表現されているあたり、彼の抱く喪失感の程度が想像できるはずです。

母親へとつながる「エックス山」のエピソードなどもサブカル的な子宮回帰願望丸出しですし、

誰もが彼の幼児性については気づいているはずなのですが、なぜそのことを語ろうとしないのでしょう?

何でも甘やかして、他人から「いい人」と思われたいという年輩俳人の弱さが、

承認願望の強い若者と共犯関係を結んでいるように僕には見えています。

 

たとえば上田信治が福田を評した文などはひどいものでした。

ホトトギス的な俳句を閉鎖的(自分こそが内輪主義なのに!)だとする不勉強な「ホトトギス虐史観」を展開し、

新しい世代にはサブカルが同時にハイカルチャーだという詭弁を弄しています。

言っておきますが、僕は関悦史より年少ですが、サブカルをハイカルチャーだと思ったことは一度もありませんし、

多くのクリエイターと知り合いましたが、そんな考えの人に会ったこともありません。

サブカル志向こそが高尚な垂直志向性だなどと論理もへったくれもないことを、

内輪弁護という動機で恥ずかしげもなく書く上田の態度には怒りすらおぼえます。

(しっかり俳句史を学びもせずに、ホトトギスを批判すれば新しいんだと思い込んでいるだけでは、

朝日新聞を貶していれば脱・戦後だと考えているネトウヨと同レベルの思考力です)

ポップであることが現代芸術に通じているというような論理は、もはや失笑するしかありません。

だいたい俳句は現代アートではありませんし、あってはいけません。

(現代アートのほとんどはメッセージ性に依存した芸術の単なる形骸にすぎません)

おそらく「芸術新潮」の編集者を崇拝しすぎて脳がフリーズしているのでしょうが、

文学の本質には「遅れ」があることをもう一度強調しておきます。

松尾芭蕉の『おくのほそ道』が同時代的な形式を採っていないことも、不勉強な上田はどうせ知らないのでしょう。

論理を軽視する人間を僕は信用しないので、もう高山れおなの腰巾着には「うえだンち」から外に出ないでほしいと思っています。

 

俳人が自分のやっていることにプライドもなく、福田のような俳句のなり損ないを甘やかすばかりなのは、

外の人間からするとガッカリします。

彼らは他の文化(もしくは現代)に媚びているつもりかもしれませんが、

あまりに「何でもアリ」になりすぎてしまうと、

外から見ればしっかりした価値基準を持たない人々の集団、と感じるだけのことです。

若い人であっても伝統の技術を持つ職人にこそ価値を感じるものです。

 

話を福田に戻します。

 

句を書くというのは、弔いに弔いを重ねることなのではないかと、ときに思うことがある。

 

弔いに弔いを重ねるときには、僕たちが手で触れることのできる表面において、奥行きがそのまま過去の痕跡となる。

 

このあたりの散文パートでデリダっぽい思索的な印象を出そうとしていますが、これもポーズです。

その後の句が実態を暴露します。

 

 書き出して夜風キャベツの畝をゆく

 誤字を塗りつぶすと森のひとが来る

 いなびかり指先が惜しむいとくず

 萩すすきスリーエフまぶしくやつれ

 

この句だけで「弔いに弔いを重ねる」なんて感じられたらあなたは天才でしょう。

そんなカッコいいことを言うほどに何を弔っているのか、読者に感じるものがあるとは思えません。

句で実態が伝わってしまうのに散文でカッコつければ何とかなると思っているあたり、

福田が信頼している形式が本当は散文であることがハッキリします。

ある程度散文を読む力があれば、

これらの文がどこまでも抽象的で、ただ「弔い」という言葉だけで雰囲気を出しているだけで、

書いた本人はたいしたものを抱えているわけではないと感じます。

 

散文も俳句も中途半端に書けるという本書の形式だと、その言葉が背負う真実味を検証されずにすむわけですが、

たとえ短文であろうと、弔いと過去という語に内容の違いがないことが読みとれます。

要するに「弔いに弔いを重ねる」というのは「過去を書くことで過去にする」というだけのことです。

この感覚は、前述した所有への強い固執を前提としなければ、

ただのレトリックでしかなく、福田を理解したことになりません。

福田は自分の過去にも自分の書いたものにも強い執着があり、

それをまるごと(母に抱かれるように)読者に受け止めてほしいのです。

 

そもそも福田とその周辺の俳人は、文学的「遅れ」などに価値を置かずに現代性を追い求めている存在です。

それを考えるだけでも、こんな低レベルのレトリックを真に受けるのはバカげています。

 

このような個人的な感覚に対して承認を求める幼稚な感情は、

クリエイターとしては「作品」を作り上げる以前の未熟段階と言って良いと思います。

「ママ、見て見て!」の延長なわけですから。

いや、「ママ、見て見て!」でもジョン・レノンくらいの喪失感を表現できるのなら、

読者に感動や共感も引き起こすことはできるかもしれません。

サブカルであり、ポップであるならなおさら、読者に訴える「強度」が必要です。

 

しかし、福田はひたすら「僕」「僕」「僕」の話を続けるだけで、

ナルシシズムから外に出て来ることがありません。

このような人物は最初は見世物にはなるかもしれませんが、すぐに飽きられてしまうことでしょう。

(いい歳こいてやっていると、どんどん村上春樹みたいにイタいことになってしまいます)

福田自身はまだ若いので、本人がこのような精神で創作をしているのは致し方ない気もしますが、

ある程度の年齢の人間がそれを甘やかすことについては、反文学的な行為として問題にしたいと思っています。

本書に関しては、著者よりも安直にそれを応援している人間(と出版社)に不信感を持つべきですし、

新傾向俳句の焼き直しのような現象を反ホトトギスだと思っている不勉強な「反動」精神には、

現在が保守反動の時代であるだけに、より厳しい目を向けておく必要があります。

 

念のためもう一度言っておきますが、

僕は俳句をやらないので、福田の作品が俳句としてどう受容されるかに興味はありません。

サブカル的であっても、それだけでは否定しません。

僕は彼の作品に文学的、詩的な一定水準以上の価値がないということを問題にしています。

そして俳句界が作品を詩的水準において評価しようとしないことにも失望しています。

たとえ本質が散文作品であっても、俳句だと言い張れば低レベルでも褒めてもらえるというのでは、

粗製乱造の憂き目をみて、すぐに頭打ちになるだけではないでしょうか。

 

 

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

『魔法の丘』 (思潮社) 暁方 ミセイ 著

  • 2017.11.22 Wednesday
  • 21:55

『魔法の丘』  (思潮社)

  暁方 ミセイ 著

 

   ⭐⭐

   思考を捨てて感覚を純化すれば詩になるという発想は文学的ではない

 

 

この詩集を読んで誰でも感じることは、とにかく色を語りすぎるということだ。
そのため、感覚といっても圧倒的に視覚がその場所を占めている。
暁方は世界を色にしてしまう遠い光源をメタな存在として提示しつつ、
自らは時間の隠喩である透明な風や雨として、流れ去っていくことを望んでいる。

これは一見、感覚による自然(世界)との一体化をうたっているかのように見える。
しかし、世界を無害な色彩として平板化し、時間へと一体化することは、音楽の世界でしかない。
要するに暁方の詩は文学の音楽に対する敗北である、と言って良い。
その意味では「巨眼」という詩においてエッセンスがすべて語られていることに気づく。

 生物の構成を覗き込むような
 雲の模様は
 わたしの認識できる
 ものの縮尺をずっと小さくしてしまって
 二相にわかたれた世界の間に
 光のたおやかな境界をはる
 すさまじい
 放射の音楽だ

このようなことが起こるのは、暁方が思考を嫌悪しているからである。
日本人に伝統的に見られるメンタリティと言っていいのかもしれないが、
このような傾向は最近では、ネットに精神的に依存して現実からメタ的に逃走する消費資本主義の精神として現れる。
その現れとして、暁方は何度も送電塔に想いを馳せる。

 黄色い電車
 その暗いゴムの匂いがする車中で
 高圧鉄塔の言葉を感じる
 それをありのまま書きとめようか
 (リーヒ、ビリラ、イリ、リイ、イイ、)
 それは自分のためでも誰かのためでもない
 ただの歌だからいい
                   「耳煩光波」

 白い鉄塔
 電気を送る
 空と空との間で鳴るもの、七本の
 送電線
              「ホームタウンの草の匂い」

ここでは電波が光との類似でとらえられている。
こうなるとイメージされるのはネットやスマホというメディアである。
暁方の詩(音楽)は彼女自身の感覚というよりも、電子メディア(死語)によってもたらされたものと受けとめざるをえない。

これは私たちの「日常」である。
日常を描いて詩となる場合もあろうが、それは人生の真実が見つけられるときではなかろうか。
そこには人生との苦闘のあとが感じられなくてはならない。
ただ逃げているだけなら、ドラッグをやればいいのである。

問題は暁方が思考を放棄していることである。
考えるのをやめて自然に任せるのは老荘思想のようではあるが、
そのような中国古典の世界と暁方が無縁なのは言うまでもない。

 頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
 かわりに感情の
 一番純粋に澄み切った音のようなものが
 血液の中から押し寄せ
                   「地点と肉体」

 なにもかもが人の経験とそれに対するけいべつ
 へ返されてしまう今日には
 吐き気のする怒りと悲しみの鮮やかな花も
 諦めなきゃ
                    「用水地」

直接には「経験」にまつわるネガティブな感情を嫌っているように見えるが、
それが思考の停滞を生む結果となるのは必然である。
「蒙味の緑」では「わたしは経験による推測を捨てて」
「見えない感覚領域」で「わけがわからないまま/幸福に思考は閉じる」とあり、
「わけがわからない」状態が思考の「幸福」と結びつけられている。

暁方が「肉体」と書いていても、思考が「不在」の中で語られた「肉体」は単なるメディアでしかない。
彼女の「肉体」を額面通りに受け取るほど、私は言葉を信じてはいない。

思索的=男性的、感覚的=女性的のようなステレオタイプで処理できてしまう詩はつまらない。
宮沢賢治ばかりでなく、エミリー・ディキンソンも参考にしてほしいものである。
女性の感性にビビって、この種の詩に甘い評価をするおじさん詩人も、
つまらぬステレオタイプを助長する原因のひとつである。

現実との格闘なき異世界願望は「おままごと」的なファンタジーにしかならない。
小説では村上春樹、思想では〈俗流フランス現代思想 〉がそのような方向に向かったが、
現代詩も同様の病弊から逃れられないのは、それが(私を含めた)「バブル以降世代の病気」だからであろう。

 

 

 

評価:
暁方 ミセイ
思潮社
¥ 2,160
(2017-11-16)

『小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』 (角川ソフィア文庫) 大谷 弘至 著

  • 2017.10.15 Sunday
  • 22:02

『小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』

  (角川ソフィア文庫)

  大谷 弘至 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   読みやすいだけでなく読み応えもある一冊

 

 

ビギナーズ・クラシックスの久々の新作は、今年没後190年の小林一茶です。
本書では一茶の俳句が一句ずつ紹介されるのですが、
有名な句を取り上げた後は、年代順に句を取り上げていくため、
俳句を味わいながら一茶の人生を追いかけていくことになります。
執筆するのは、俳句結社「古志」を長谷川櫂から若くして引き継いだ大谷弘至です。

小林一茶の句は親しみやすくわかりやすいものが有名です。

 我と来て遊べや親のない雀
 痩蛙まけるな一茶是に有
 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
 やれ打な蠅が手をする足をする

本書でもこれらの句は冒頭で紹介されるのですが、
大谷はそのために「一茶の句は子ども向けであり、深みがない」という偏見があると指摘します。
本書はその一茶像を描き変えるために、15歳で奉公に出された修養時代、父の死、江戸生活、信濃生活、晩年と
一茶の人生を背景にして俳句を味わう構成になっています。

また一茶は3歳で母を亡くし、継母との関係に長い間苦しみます。
長男でありながら江戸に奉公に出されたのも、おそらくそういう事情でしょうが、
父の遺産相続で争い、故郷で暮らすまで40年近くを要します。
その後に結婚しますが、不幸にも子供を次々と亡くし、若い妻にも先立たれます。
そのため、一茶をかわいそうな人と見る偏見もあるようです。
大谷は一茶がその苦難をどう乗り越え、作品へと昇華させたのかに一茶の思想を見るべきだ、と述べています。

初心者向けという制約の中で、自分の信じる一茶像を描き出そうという大谷の試みは、
程よい力加減で双方を両立させることに成功していると感じました。
時に俳句の解釈には異論もありそうですが、ビギナーズ向けとすれば許容できる範囲です。

《雀の子そこのけそこのけ御馬が通る》に権力への反発心を読み取るのも共感できますし、
一茶の句の特徴に「世界を大きく俯瞰する詠み方がある」とするのも、
長谷川櫂門下らしい指摘に思えて納得させられます。
《天広く地ひろく秋もゆく秋ぞ》などの大柄な句がもっと評価されるべきだと大谷は言います。

《我星はどこに旅寝や天の川》の句に「広大な宇宙のなかに自分の星を見出している」とし、
天文学や天体望遠鏡の発達によって進歩したこの当時の宇宙観を考察するあたりも秀逸でした。
《よりかかる度に冷つく柱かな》を無邪気な愉快な句とだけ捉えるのではなく、
柱の冷たさを一茶の生家の冷たさと捉え、遺産相続交渉の難航を象徴するとするのも無理を感じません。
一茶の人生に寄り添いすぎてセンチメンタルにも感じますが、僕は嫌ではありませんでした。

あまりそう思われていないかもしれませんが、実は一茶が推敲を多くしていることにも大谷は触れています。
この点は僕も重要だと感じているところなので、安心しました。

大谷は「一茶はあるがままにおのれのありようをさらけ出す強さを持っていた」と述べています。
その姿勢を、「自然法爾」という浄土真宗の「他力」へと結びつけるのですが、
あるがままを出すのが「強さ」であるという指摘は重要だと思いました。
自分をメタへと退隠させ、「主体の抹消」などと思想的意匠でごまかしながら、
アイロニカルにしか世界と触れ合えない「弱い」俳句を新しいかのように喧伝する「勘違い」が最近目につきます。
ピカソは写実の絵もうまいですし、相田みつをも書字の達人です。
源流を理解し基礎ができた上で新しいものをやるのでなければ、薄っぺらいものになるのは必然です。

一茶の集大成的作品『おらが春』は独立して取り上げられ、一茶の死生観や「自然法爾」についても踏み込みます。
冒頭の句《目出度さもちう位也おらが春》で、
大谷は最上でも最悪でもない「ちう位(中位)」というあり方に苦難の世をどう生きるべきかの答を見出します。
「わざわざ演出して工み拵えためでたさでなくていい」「ほどほどに生きていければいい。そのためには、あるがままでいるのがいい」
「ちう位」という言業には、余計な欲を出さずに「あるがまま」でいることの大切さが込められています。

一茶に限らず、日本の古典には行きすぎた人為を嫌う風流心が見られます。
虚構に魅入られた現代人は過剰演出に精を出していますが、
日本の古典的精神からすれば、そういうものは風流心に欠けた「よしなしごと」であるということに思い当たる必要があるでしょう。

『おらが春』の最後の句《ともかくもあなた任せの年の暮》では、
「自然法爾」のあるがままの態度が阿弥陀仏に身を任せる「他力」へと通じることが述べられます。
「他力」とは、話題性やセールスに依存することで利を得ようとする浅ましさのことではありません。
欲張らずにいる「つつましさ」にこそ「他力」の本分があるのではないでしょうか。

晩年の一茶は苦難の連続のように思えます。
家族を次々と失い、最後は大火事で家も失い、土蔵暮らしの中で死んでいきます。

 一茶の人生は一貫して悲惨なものであったが、それを悲惨なものと
 して詠むことは少なかった。人生の悲惨を乗り越えたところに一茶
 の俳句があった。

このように大谷は述べるのですが、本書を読み通すとこの言葉に納得ができます。
全体としてビギナーズ向けのスタンスを維持していながら、読み応えもある本でした。
良書ですが、長谷川櫂の解説が、弟子可愛さとはいえ、「あるがまま」を逸脱した過大な書きぶりだったのが残念です。

 

 

 

評価:
---
KADOKAWA
¥ 821
(2017-09-23)
コメント:『小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』 (角川ソフィア文庫) 大谷 弘至 著

『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社) 佐藤 文香 編著

  • 2017.09.18 Monday
  • 19:19

『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社)

  佐藤 文香 編著 

   ⭐⭐

   SNS的気分に貫かれた傍流集団の「村おこし」

 

 

本書は1968年以降に生まれた俳人たちの「現代俳句」のアンソロジー集ということですが、
それを額面通りに受け取るのにはためらいを感じます。
広く俳句界の若手の句を集めているわけではなく、
本書の編集をしている佐藤文香が自分のお友達を中心にして編んだ、
言うなれば傍流集団の「村おこし」の企画であるからです。

本書に関わる代表的な俳人は、佐藤文香自身が属していた元「クプラス」の同人に、
「オルガン」の同人と田中裕明賞の受賞者を加えたメンバーが中心です。
自分に近いお友達の句ばかりを集めて、「現代俳句」とは大きく出たな、と思いますが、
かつて『新撰21』というアンソロジー集で名を売った人たちが、
二匹目のドジョウを狙って、再度寄り集まっているようにも見えます。
中心にいるのは師を抱く伝統的な俳句結社を嫌って、近い世代でサークル感覚で俳句をやっている人たちです。
その意味ではこれまでの俳句文化の「傍流」であるはずの彼らが、
こういう本を出版して自分たちこそが「現代俳句」であるという既成事実を作ろうという態度には、
ある種の「あざとさ(もしくは野心)」を感じずにはいられません。

俳句界の実情に詳しくない人には若い俳人の句を集めたオシャレな感覚の本に思えるかもしれませんが、
それは表面上のことで内実は少しちがいます。
佐藤は俳人としてそれなりに活躍してはいるのですが、
そのバックには、俳人というより「編集者」という印象の上田信治、高山れおなという人物がいて、
現在の俳句界への反感と自らの野心を満たすために若手俳人を利用している側面があるのです。

本書が1968年を区切りにしているのは、1968年生まれの高山れおなに合わせただけの事情でしょうし、
上田信治が小川軽舟と並んで若手の句を語るご意見番になっているのも、
実力とは関係なく、佐藤との人脈によるものです。
(僕は上田の俳句なんてほとんど見た覚えがありません)
高山や上田は現在の俳句界では「傍流」に位置する存在なので、
彼らは「クプラス」という同人誌で、メインストリームにいる長谷川櫂や石田郷子に対してルサンチマン(少数派の嫉妬感情)をあらわにしています。
このような人たちが作った本が、醜悪なルサンチマンから自由になれるはずがないのです。
読者は本書のさわやかな表面だけを見るのではなく、裏にある醜悪な情念にも注意を払うべきでしょう。

ちなみに、こういう友達感覚の若手俳人たちには、孤高の俳人、安井浩司もインタビューで違和感を語っています。

 安井
  俳壇では、最近では若い頃から早々と徒党を組んでるんだよなぁ。
 私らの若い頃は、簡単に他の創作者に気を許さなかったです。トゲト
 ゲしくて、第三者を見ると論争しようよって感じだった。それを通過
 しないと仲良くなれなかったです。他の創作者を否定するのは、同時
 に自己否定することでもあったわけです。いろんな意味で先に進まな
 きゃならないから、そう簡単に他者も自己も受け入れられない。現状
 を肯定したらそこで止まっちゃうわけです。だから否定は先に進むた
 めには必要なことです。最近の俳壇では結社より同人誌の方が盛んな
 ようです。同人誌が悪いとは言いません。でも結果として、私らが作っ
 たような同人誌にはなってないような気がします。仲間を作って、仲
 間同士で評価し合うような感じになっていますね。
                   (金魚詩壇 2014年11月1日)

本書は佐藤を中心とした内輪の世界という点で、SNS的であるといえます。
一部の俳人について対談で語り合うぺージは、小川軽舟以外は、元「クプラス」の仲間同士のため、
まさに「仲間同士で評価し合うような感じ」で、軽いノリの「いいね!」という内輪評価が垂れ流されていて、
自分のペットを自慢し合う話を聞かされるようなシラけた気持ちに襲われます。
(「睫さんは一句でイケメンです」って、なんじゃそりゃ)
このページは本当にやめた方がよかったと思います。

特に、高山に対する上田と佐藤の礼賛は醜悪を極めています。
ボスに対する忠誠をあられもなく語る二人を見ていると、
この人たちの内輪主義の醜さがよくわかるので、引用してみます。

 上田 僕はやっぱりれおなさんが一番すごいと思います。圧倒的な才
 能だと思うね。この水準で書けてる作家が、この集中はもちろん、今
 の俳句界に何人いるだろうか。(中略)塚本邦雄とか加藤郁乎とかの
 才能のあり方を思わせるよ。
 佐藤 王様です。なのに、持っている教養とかお茶目さみたいなのと
 か、青春性までをも、ちゃんと手渡してくれる。

 上田 (前略)〈日の春をさすがいづこも野は厠〉は、安井浩司を思
 い起こさせるけど、野原だからどこでもしていいよね、っていうのを、
 なんでこんなきれいな言葉で言えるのか。
 佐藤 「を」「さすが」がすごいんです。野原一面に裸の人たちがた
 くさんいて、笑いながらシャーってしたりしている姿さえ見えるよう
 な、天国みたい。れおなさんは美術雑誌の編集者でもあるので、芸術
 の一番いい部分を知っている人の俳句と言えるのではないでしょうか。

なんて話しているのですが、読んでいるこちらが恥ずかしいほどの内輪褒めです。
その「王様」の「日の春を〜」の句は、「不勉強」な上田と佐藤にはよくわからなかったようなのですが、
其角の有名な句「日の春をさすがに鶴の歩みかな」をプレテクストにしているのは明らかです。
先頃出版された半藤一利『其角と楽しむ江戸俳句』の冒頭に置かれている句なので、
そんなにマニアックな句ではないと思うのですが、この人たちは俳句をやらない僕よりも俳句を知らないのでしょう。
俳句そのものがわかってないのに、作者との付き合いで俳句まで評価してしまう。
こんな人たちの礼賛をまともに信じていいはずがありません。

僕の名前で検索すれば読めるはずなのですが、高山れおなは週刊俳句というサイトに書き込みをした僕に対して、
俳句をやらないなら謙虚でいろ、という「さすがに王様な態度かな」で応じました。
彼らは本心では俳句を作らない人間を軽蔑しているくせに、都合のいいところだけ外部の読者を求めるのです。

他にも、下段の俳句の文字のポイントが小さすぎて読む気が起こらないとか、構成上の問題もあるのですが、
一番の問題は、本書の俳句の多く(特に「クプラス」「オルガン」の人たち)が「つまらない」ものでしかないことです。

彼らの俳句の何が問題なのか簡単に述べると、
貧しい消費文化を後ろ盾にして反伝統的な俳句を作ることを、
何かオシャレなことであるかのように「勘違い」しているということです。

実感に乏しい言葉をパズルのように組み合わせるだけの空疎な断片を、
俳句であるという言い訳を後ろ盾にして「軽やかに」垂れ流すのがオシャレだというのでしょうか。
彼らの「ファッション俳句」が、消費社会において商売に有効に見えるのは理解できるので、
オシャレであることは認めることにやぶさかではありませんが、
文学や思想とオシャレな「商品」はまったく別のものです。
僕はここで「ファッション俳句(ポストモダン俳句)」の文学的価値が低いことだけはハッキリさせておきたいと思います。

「ファッション俳句」は現実を反映しない、主体性や意味を薄めた言葉の「軽やかさ」に、
嗜好品を購入する時に抱く現実からの解放感を宿らせようとしています。
そのため、嗜好品の多くがそうであるように、彼らの俳句は余裕ある消費者の欲望を喚起する「イケてる」ものであることに執心します。
ファッションがモードとともに流れ去るものであるように、
彼らの「ファッション俳句」は流れ去る運命にあります。
現実的葛藤から「逃走」する作品は、現実的基盤がないためにすぐに流れ去ってしまうのです。
(関悦史や北大路翼がツイッターのように大量に句を垂れ流すのも、現代風俗とともにある「ファッション俳句」だからです)
しかし、文学や詩は本来時の流れに逆らうものであるはずです。

文学の特徴には「遅れ」があります。
J・デリダの「差延」に「遅れ」が含まれているのはそのためですが、
日本ではそのことを理解できていなかった東浩紀の『存在論的、郵便的』などという駄作を持ち上げ、
デリダが嫌った同時性のWebを東が礼讃しても疑問にも感じませんでした。
(だから日本は〈俗流フランス現代思想〉だというのです)
ハッキリ言いますが、〈俗流フランス現代思想〉の連中はニューアカの残滓を貪り、
消費文化に踊らされた、思想とファッションの区別もつかない田舎者です。

また、文学には現実との葛藤によるネガティヴなエネルギーが必要です。
メタに立って現実との葛藤を避けたがる〈俗流フランス現代思想〉は、
文学にとっても、アートにとっても百害あって一利なしと言えます。
その意味で、本書の帯文を〈俗流フランス現代思想〉のアイドル千葉雅也が書いているのは象徴的です。
「ファッション俳句」と「ファッション思想」のタッグとは、なんと醜悪なことでしょう。
(千葉が雑誌「現代思想」の編集に加わって、内輪の人を起用して大顰蹙を買った人物であることを忘れるべきではありません)
もちろん時代と同衾したい人は好きにすればいいのですが、
ファッションはファッションであって、文学や思想にはなれないことだけは明確にしておきたいと思います。

「クプラス」や「オルガン」の人たちは俳句をオシャレでアートぶった「商品」にしたがっているのですが、
逆に言えば、彼らは俳句が文学であるだけでは我慢ができない人たちと言えます。
だったら他のものをやればいいと思うのですが、彼らは「ヌルい」俳句界にいる方が居心地がいいらしいのです。
そのため、メジャーリーグに行く実力もないのに、日本野球は世界一だと強弁する野球選手のようなルサンチマンを抱えることになるのです。
このあたりの事情については、のちにもう一度触れます。

佐藤は「あとがき」で「新しい読者が必要」とか本書を他のジャンルの棚に置いてくれ、とか書いています。
これを俳句の外への志向などと勘違いしてはいけません。
(なにしろ彼ら自身はとんでもなく内輪主義なのですから)
ただ、彼らは古めかしい俳句などではなく、「現代俳句」という「イケてる」カルチャーをやっている人たちと思われたいだけなのです。
本当に「イケてる」のであれば、それも結構なのかもしれませんが、
残念ながら「イケてる」人は俳句などやらないのです。
その意味で、俳句の詩性を犠牲にしてでも「オシャレ」「アート」と思われたい、
というような自意識が表に出てしまうことは、ルサンチマンの垂れ流しと等しい結果になるわけです。

本書には一部こういった動きとは距離のある俳人も含まれていますが、
もし「私はファッション俳句に興味はない」と思うなら、安井浩司の言葉を心に刻み、
こんな浅はかな企画に参加したことを反省し、自分を戒めるべきだと忠告しておきます。
俳句の低迷を理由に総動員されることが何を意味するか、『辻詩集』でも読んで勉強してください。

本書についてまとめて言えば以上のようになりますが、
個々の俳人についても少しだけ触れておこうと思います。
本書の一番手には佐藤文香内閣の稲田朋美とでも言うべき、福田若之の俳句が載っています。
佐藤は福田に対して並々ならぬ思い入れがあるようなので、
一番手が福田なのは予想通りすぎたのですが、それだけに
福田はルサンチマン村の「村おこし」の象徴とも言える存在かもしれません。

 ながれぼしそれをながびかせることば
 焚き火からせせらぎがする微かにだ
 子供たちが幾何学をする初夏の路地
 キオスクが夏の記憶で今もある

まあ、どれを引用しても価値は変わらないので何でもいいのですが、
福田の「俳句らしきもの」は90年代の短歌で起こったニューウェーブの俳句版というところでしょう。
しかし俳句は短歌ほど主観の表現ではないため、真似をしてもその意義はさらに低いと言わざるをえません。
上田は才能とか寝ぼけたことを言っていますが、
福田の作品にとって最重要なのは作品自体ではありません。
これを「俳句として受容してもらう」という「文脈」にあるのです。

句の外部の「文脈」に依存した作品といえば関悦史などが代表ですが、
福田に関していえば、「これも俳句なんだぁ」という、俳句という「文脈」からズレる意外性しかありません。
たとえば、俳句だと考えることなく彼の作品を眺めたらどうでしょう?
そんなに魅力的なフレーズでしょうか?
喫茶店で横に座った人がノートに「キオスクが夏の記憶で今もある」などと書いていたら、
「おおっ!」と思うでしょうか?
僕には無理です。

福田は俳句という「文脈」に置かれずに、単に詩語というだけで勝負するものを書く力がありません。
もしそんな力があるなら、他のジャンルに進出したらいいのです。
しかし、福田はそんなことはしませんし、それどころか俳句として受け取られるように、
定型を守り、季語を入れてなんとか俳句に見えるように努力までします。
なんという苦労でしょう。
俳句と思われる一線をキープしながら、俳句から外れているものを書こうという苦行。
こんなことをしなければならないのは、俳句の外で勝負する力がないから、これに尽きます。

だから福田は絶対に「俳人」というアイデンティティにこだわっているはずです。
それこそが彼が「文脈」を維持するための生命線だからです。
このようなルサンチマンを持つ人間が、高山を中心とする変にアートぶったルサンチマン集団に引き込まれてしまうのです。

このような本が出版されるということは、同じような事情を持つ俳人が他に何人もいるようです。
彼らはみんなで寄り集まって、「僕らは現代俳句をやっている一味違う俳人なんだよ」と認めてもらうことに勤しむのです。
一見俳句に見えなくても俳句であるという前提によって、自らの実力不足を免罪しようというのが本書の試みです。

こういうポストモダン的な現象を「世界に一つだけの花」イデオロギーと僕は言っています。
ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワン、とかそんな歌詞だったと思いますが、
そのオンリーワンとは不戦勝のナンバーワンなのです。
競争相手のいないところでそれぞれがナンバーワンのナルシシズムに浸っている状態です。
花屋の店先の花が天の川銀河の星々になっただけのことで、
発想自体が既視感バッリバリで呆れ死ぬほど時代遅れです。
(そんなんだから「イケてる」他のジャンルで勝負できないのです)

生駒大祐のプログラム的なAI俳句についても批判したかったのですが、
長くなりすぎたのでまたにします。
最後にひとつだけ、俳句界の内部に彼らを批判する人が出てこないのは問題です。
ここに俳句の未来があると思っているのなら仕方ありませんが、
どういう未来になるかはおのずと知れることのように思います。

 

 

 

評価:
佐藤文香
左右社
¥ 2,376
(2017-08-31)
コメント:『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック 』 (左右社) 佐藤 文香 編著

『ただならぬぽ』 (ふらんす堂) 田島 健一 著

  • 2017.09.17 Sunday
  • 22:12

『ただならぬぽ』 (ふらんす堂)

  田島 健一 著

 

   ⭐⭐

   とにかく明るい田島

 

 

この句集を開くと「序」とされたページに、
「無意味之真実感合探求」「新感覚非日常派真骨頂」という文字が並んでいます。
石寒太の言葉とのことですが、田島自身の宣言とも受け止められます。
田島は「無意味」と「非日常」を前面に押し出して、
ホトトギス的な伝統俳句とは違う俳句を作ろうとしているからです。

僕は俳句をやらないので、俳句形式に思い入れはありません。
端的に詩的価値があるかどうか、おもしろいと思えるかどうかで考えています。
なので、伝統的でなくても作品がすぐれていればいいと思うのですが、
最近の俳句界は反伝統的で言語遊戯的な中身の薄い俳句をやたらと持ち上げています。
田島健一の俳句も話題になっていたので期待して読んでみましたが、
実感から遊離した言語遊戯的な言葉の組み合わせで、俳句的意味を脱臼させることを楽しむ句がほとんどでした。
素人目には軽妙で「オシャレ」に思えるかもしれませんが、
詩的価値が低く、消費されるだけの「ファッション俳句」と言うべきものでしかありませんでした。

詩人の杉本徹は「ふらんす堂通信」で田島の句を評して、
「多くの句は、句の世界以前にそもそも言葉自体がフラットすぎる。
それは言葉が、句の素材としての、部品としての、貌しか持ちえていないからであろう」
と述べていますが、僕も同じ印象を感じました。
季語の情趣を意外な方向に「ズラし」たり、
言葉の意外な組み合わせで不思議さを出して、客観写生から「ズラし」たりして、
伝統的な俳句から軽やかに「逃走」することが目的となっている句ばかりです。

「逃走」して何か新たな感動が生まれるなら、それも意義あることでしょうが、
しかし、「逃走」すること自体が目的となっている句を褒める気にはなれません。
そういう句は「これって俳句なの?」と最初は物珍しさで騒がれるかもしれませんが、
軽やかさ以外の価値がないために、すぐに消費されて終わってしまうものです。

古来からの季感や俳句としての格調が、
消費社会的実感からは遠く感じられたり、重く感じられたりするのはわかります。
しかし、現実から遊離した言葉の組み合わせだけで詩的イメージが生み出されると思っているとしたら、
文学はそんなに甘いものではない、と言うしかありません。
魂のない「素材としての」「フラット」な言葉は、詩的感動のない「ファッション俳句」となるだけです。
その実態を田島の句に即して見てみましょう。

田島の「ファッション俳句」は暇つぶしとしてはいいのですが、
「逃走」自体が目的だとわかってしまうと途端に退屈になります。
その退屈さの原因は、意味することを避けるあまり、
3分の1あまりの句が幼児的なイメージに回収される類型的な句となっていることにあります。
あまりにパターンが限られているので、パターンごとに本書の全句を分類してみました。
そのパターンとは、以下の4つです。

.リアー系  澄んだ、静か、晴れ、などのイメージ。
▲轡礇ぅ鷏蓮 ,劼り、かがやく、明るい、などのイメージ。
ビューティフル系  きれい、美しい、などのイメージ。
ぅ淵奪轡鵐扱蓮 〔機知らない、などのイメージ。

驚くべきことは、これらの句の多くはイメージを結ぶことさえなく、
「しずか」「ひかり」「あかるい」「きれい」「〜ない」などの言葉を用いた直接表現になっています。
そのため、良く言えば純粋でピュア、悪く言えば稚拙で幼児的という印象を抱かせます。
どちらにしても、類型的すぎて退屈という欠陥があります。
実際にどんな感じなのかパターンごとに句を紹介しましょう。

.リアー系  澄んだ、静か、晴れ、などのイメージ。(計30句 8.1%)

 猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝
 蓑虫は澄んだ眼の鉛筆となる
 無限に無垢につづく足し算秋澄む日
 風花の奥のしずかな披露宴
 傷ひとつ得ずふらここを残して去る
 蚕豆の神話しずかなそらもよう

▲轡礇ぅ鷏蓮 ,劼り、かがやく、明るい、などのイメージ。(計27句 7.2%)

 中空にひかる午睡の不思議な木
 月と鉄棒むかしからあるひかり
 島あかるく名前も顔もない茸
 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
 とくべつな光を食べて春の鶴
 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

ビューティフル系  きれい、美しい、などのイメージ。(計13句 3.5%)

 口笛のきれいな薔薇の国あるく
 草笛を吹くいちれんの手がきれい
 謹賀新年まなこきれいな蛸つかみ
 鵜飼いの鵜ビジネスマンの美のごとし
 枇杷かじりいる真面目さが美しさ
 兎の眼うつくし紙のような自我

ぅ淵奪轡鵐扱蓮 〔機知らないなどのイメージ。(計55句 14.8%)

 枇杷無言雨無言すべてが見える
 欠伸ころして何も無くなり冬の晴
 風のなき四章を読み終えし雪
 流氷動画わたしの言葉ではないの
 なにもない雪のみなみへつれてゆく
 何か言うまであるようでない冬日

,らい離ぅ瓠璽犬両立している句もありますが、
単純に合計すれば全体の約33%がこれらのパターンに合致します。
意味することを避け、「逃走」を目的とした結果、
ありふれたイメージへと回収されてしまうことになっています。

特に「逃走」そのものが主題となるようなパターンが多すぎます。
とにかく「無」や「無垢」を提示すればポジティヴだという発想です。
これこそが〈俗流フランス現代思想〉的な発想の成れの果てで、
消費資本主義における貨幣=メディア的主体もしくはメタ主体の在処でしかありません。
自身を積極的に示すことができず、交換の間を漂うだけの「無」、
それが消費資本主義的な主体像です。

これを「主体の抹消」と「勘違い」している人もいるようですが、
まったく似て非なるものです。
その証拠に、資本主義的主体にはある種の幼児性が宿ります。
なぜなら、生産をしないで純粋に消費だけに勤しむ存在とは、子供であるからです。

貨幣と等しい消費資本主義的主体は、現実に基盤を持たない抽象性を特徴とします。
それが詩的言語と近似するからといって、騙されてはいけません。
ソシュール言語学が言語と貨幣を同質のものとして把握したため、
構造主義以降、この両者の区別が曖昧になってしまいました。
(だから「オシャレ俳句」の連中は自己弁護のために〈俗流フランス現代思想〉を援用したがるのです)
貨幣は交換の中で使用価値を失い、フェティッシュの対象となります。
言葉が意味を失い、フェティッシュな対象となったものが、
田島の句の「ただならぬ海月ぽひかり追い抜くぽ」の「ぽ」という音だけの語であり、
この「ぽ」という「無意味」によって田島は自社商品への欲望をかき立てようとしているのです。
「それ以外のもの」の方が本当は余計であるという逆説に気づけば、
田島の俳句の虚無性を理解できたことになると思います。

 

 

 

評価:
田島 健一
ふらんす堂
¥ 2,592
(2017-01-17)

『フラワーズ・カンフー』 (ふらんす堂) 小津 夜景 著

  • 2017.09.08 Friday
  • 01:04

『フラワーズ・カンフー』 (ふらんす堂)

  小津 夜景 著

 

   ⭐

   空洞化した言葉の浪費

 

 

私は完読主義なので、どんな本も最後まで読むことにしているが、
不徳の致すところで年に数冊はそれを断念することがある。
正直に言えば、本書は私が今年はじめて完読に耐えられなかった本である。
そのため、レビューなど書かないつもりでいたが、
この程度の作品を評価しようというふらんす堂界隈の潮流に反発を感じるので、
例によって少数意見を承知で書かせていただくことにする。

まず第一にフランス在住らしい小津は、〈俗流フランス現代思想〉を旗印にして創作を行なっている。
意味から逃走し、主体を抹消すればアートだという発想や、
確定的なことを避けて曖昧化し、無を提示すればアートだという発想がそれである。
このような潮流は新しさを売りにしている俳人に目立つ愚かな「勘違い」である。

たとえば『君の名は』ヒット以後に、新海誠やRADWIMPSをほめあげる人がいるとする。
このような「遅れてきた俗人」をアートな感性の持ち主だと評価できるだろうか?
当然あなた方はそんな評価はしないであろう。
それと同様に、バブル期に隆盛した消費資本主義を背景にした〈俗流フランス現代思想〉を、
30年たった後になってから振り回す人間が凡庸であることは言うまでもないことである。

ただ時間が経っているから、ということではない。
〈俗流フランス現代思想〉は消費資本主義やインターネットテクノロジーによって、
思想的意味なくして人々がすでに享受している「日常」だからである。
主体の抹消とか「私ではない愉悦」とか何かたいそうなものに言っているのが恥ずかしくならないのが不思議だが、
そんなものはネットによって地上から切り離された「メタ的」主体のことでしかない。
だから〈俗流フランス現代思想〉はメタという言葉を使わずにごまかしている。
とっくに「日常」化したものがアートであるはずがない。
そんなこともわからない連中が俳句界隈やふらんす堂界隈には多数生息している。

ハッキリ言って小津の創作は別に俳句でなくても構わないのである。
本書の体裁がそれを示している。
それなのに本書は四ツ谷龍賞(通称「田中裕明賞」)という俳句の賞を受賞している。
そう、このような「アートぶった凡庸さ」を最も受け入れてくれるのが俳句界なのである。

その理由を分析するのは簡単だ。
まず俳句界は年寄りが多い。
バブル世代の人間が「若手」という呼び名で存在することができる。
小津の年齢を超越した少女趣味的な作風も、違和感を抱かずに受け入れてもらえる。
時代遅れのものを「新しい」と詐称してもバレる危険が少なくてすむ。
それから俳句界には内輪主義が横行している。
内輪の世界は外の世界から隔絶されているので、時代遅れでもその世界の文化として享受されて事なきを得る。

それだけではない。
近代以降の俳句が主体の不可視化を目指したため、
消費文化による安直なメタ化によって結果だけ一致させても、
それこそが俳句だという詭弁を弄することができるのである。
(どこぞの同人誌でメタ化に勤しんでいる自身を「俳句原理主義」に位置付ける赤面ものの「勘違い」もあった)
俳句界は創作主体の「不可視化のプロセス」と「安直なメタ化」のしっかりとした区別をしていないことを反省すべきである。
小津は言葉の手前にあるものを、意味づけを回避して、
「生成作用としてのジェノ・テクストそのままの様相で表出することができたら」と思うらしいが、
このような「主体のメディア化」こそが、商品を選択する手前にある「主体の貨幣化」であり、メタ的な主体でしかないのである。
消費資本主義と〈俗流フランス現代思想〉がバブル期とその余韻の時期に日本で隆盛したのは偶然ではない。
要するに小津はオシャレなお買い物を楽しむプチセレブ的感覚で「俳句らしきもの」を提出しているだけなのである。
(「安直なメタ化」だから2年ちょっと俳句に触れただけで、俳句が書けた気になれるのである)

小津がいかに凡庸な「模倣」の精神に貫かれているかは、最初の数句を読んだだけでもわかる。

 あたたかなたぶららさなり雨のふる
 ミモザちる千年人間(ミレネタリアン)のなきがらへ
 日々といふかーさびあんか風の羽化
 うららかを捧げもつ手の手ぶらかな
 さらばとて聞かで消えたるのどかさの

「たぶららさ」「なきがら」「かーさびあんか」など、なぜひらがなで書くのだろうか?
意味の形成を遅らせることで、音韻の視覚化を試みているのである。
(それは幼児性とも無縁ではない)
このような意味からの逃走は〈俗流フランス現代思想〉的発想であり、
お買い物的発想もしくはネットサーフィン的発想でしかない。
意味を脱臼することで言葉を「オシャレな景物」つまり商品へと転落させているのである。
ブルゾンちえみも言っている。「小津の俳句は読むんじゃないの、眺めるの」というわけである。

そのくせ「千年人間」のように意味を結びにくい語はご丁寧にフリガナまでつけて、
なにか思想的人間であるかのように振舞っている。
しかし、この句に中身などまったくないのである。
小津の言葉は徹底的に空洞である。
皮をむいて中身など出てくるはずもない、小津夜景という存在は皮そのものなのだから。

読んでいて嫌になるのは、とりあえず「無」を提示すれば格好がつくと思っているところである。
タブラ・ラサは白紙であるし、亡骸が無であるのは言うまでもないし、
カーサビアンカは白い家、手ぶらは何も持ってない、消えたるも無である。
なぜ一体、詩があるといえるのか、むしろ無があるだけではないのか、と言いたくなる。
このように無に回収して詩の顔をするやり方そのものが凡庸なのであるが、
田島健一の俳句にも同じ傾向が見られるのでうるさく言っておきたい。
消費者的自己が凡庸で空洞でしかないにしても、ただ「無」を提示するだけでは詩となるはずがない。
時代に媚びた凡庸さの常として、やることがワンパターンになるので、
この手の人々は処女作だけチヤホヤされて終わることになる。

俳句の技巧や語法を利用して、イメージ過多な誤読を誘うやり方は、
本書の帯文を書いている鴇田智哉の「模倣」ともいえる。
私はすでに鴇田の時にワンパターンだと指摘しているので、鴇田ほどの出来にない小津の句は読むに耐えなかった。

本書には散文や(私は読む気にもならなかったが)なんちゃって漢文アレンジも載っているが、
散文を読むのはより厳しいものがあった。
「出アバラヤ記」(このユダヤ的モチーフがいかにも〈フランス現代思想〉の模倣と感じさせる)と名づけられた部分から引用する。

 たちこめる霧。うちともる吾亦紅。水にせまる空木のえだぶり。やす
 らぐ鳥の葉隠れのむれ。眼に見えるものはいつだって優しげだ。

                 目ぐすりをくすぐる糸の遊びかな

庭の描写らしいのだが、よく読んでもこれは実景に結びつかない。
霧の中でさらに葉隠れなのに鳥のむれが「眼に見える」のも解せないが、
鮮やかさに欠ける吾亦紅が霧の中で灯るというのも、実景描写というより、
観念的な言葉だけを並べて景に見せている文でしかない。
こういう手前勝手な観念を描写のふりをして差し出す態度からは、
「世界(もしくは読者)をナメている」という印象を受けるだけである。

 うしろを振りかへると、ほのぐらい天とうすあかるい地とが、霞のな
 がれに掻き混ぜられたやうに広がり、その中にぼんやり浮き沈みする
 小屋があつた。

               しろながすくぢらのやうにゆきずりぬ

小屋の前の空間でしかないのに天と地とが混ざり合うというのは、
あまりに大げさすぎて実景の感覚からはほど遠い。
「ほのぐらい」と「うすあかるい」の対比も非常に観念的で、
とりあえず曖昧にしておけば幽玄な感じになるだろうという意図ばかりが目立つ。
散文になると、小津がこういう主体的な観念ばかりを並べていることがよくわかり、
彼女が主体を抹消しているのではなくメタ化しているだけでしかないことがハッキリする。
そのくせ、パリの描写になると急に事実の羅列をはじめて、フランス在住であることを伝えようとするのである。

 駅についた私たちは切符を買ひ、二十分おきの列車を待つ。パリまで
 の所要時間は約一時間。駅舎の向かひは教会の敷地で、ステンドグラ
 ス工事中の大聖堂がそびえてゐる。正面の広場は日曜市の賑はひだ。
 大聖堂の周りにぐるりとめぐらされた柏の枝をたくみに利用して、洋
 服屋が万国旗のやうに商品を陳列してゐる。

個人的には、こういう普通の文を書くのに旧かなづかいを使いたがる自意識にウンザリさせられるのだが、
視覚的要素だけでアートたりえると思っている浅はかさにはつき合いきれない。

俳句界が自分の文化に自信を失っているのかわからないが、
現代的でありたいと思うあまり、このようなポストモダン的な「勘違い」に擦り寄りすぎている。
とっくに日常化した発想をふり回す人材が有能であるはずもなく、
他のジャンルで通用しない難民がルサンチマンを垂れ流すことに終わることであろう。

 

 

 

評価:
小津 夜景
ふらんす堂
¥ 2,160
(2016-10-17)

『第七回 田中裕明賞』 (ふらんす堂)

  • 2017.05.05 Friday
  • 06:55

『第七回 田中裕明賞』 (ふらんす堂)

 

 

   ⭐⭐

   こんな田中裕明賞を田中裕明ははたして喜ぶのだろうか

 

第七回田中裕明賞については、
最高点を獲得できなかった北大路翼『天使の涎』の逆転受賞という過去に例のない事態によって、
実際にどんな審査が行われたのか興味のある人も多かったことだと思います。
もう一度審査員の点数を確認してみましょう。

村上鞆彦『遅日の岸』
石田1位(3点)小川1位(3点)岸本2位(2点)四ッ谷圏外(0点)
北大路翼『天使の涎』
石田3位(1点)小川2位(2点)岸本圏外(0点)四ッ谷1位(3点)

トータルでは村上8点、北大路6点で村上が最高点でしたが、それが逆転する事態となったわけです。
四ッ谷を除けば村上8点、北大路3点となることから、
その原因が四ッ谷であることは選考会の内容を見る前から想像がつきました。
そのため僕は第六回のレビューで四ッ谷龍が北大路を「ゴリ押し」したと推測しましたが、
実際に読んでみると、四ッ谷が最高点の村上鞆彦を「ゴリ落とし」していたことがわかりました。

まず、四ッ谷は村上の句集について語り始める時に、すでにこんなことを言っています。
「村上鞆彦さんについては、技術的に、基本的なところで問題があると思いました。
詩としての新鮮さもあまりないし、私としては高く評価できません。
ですから点数順は村上さんということですけれども、私としては今日は徹底的に頑張って議論したいと思っています」

この発言から四ッ谷が最初から村上には受賞させたくないという意図で選考会に臨んでいることがわかります。
もちろん本当に「技術的に、基本的なところで問題がある」のであれば、
それも納得のできることなのですが、
その後の議論で四ッ谷の主張は他の審査員をほとんど納得させることができていません。

 放課後のプールしばらく揺れ残る
 鴨撃つて揺るる日輪水にあり
 五月雨や掃けば飛びたつ畳の蛾
 ギョーザ焼く音雨に似て夏旺ん

これらの村上の句を取り上げて、四ッ谷は「ベタ付きの句」などと批判するのですが、
石田も小川もこれらの句を「取り合わせ」と解釈することに首をひねります。
「石田:これってただ単に実感という風に捉え、私の場合だとこれ、取り合わせとかって全然思わなくて」
「小川:まあでも情景としてはね、一体をなしてますよね。渾然一体をなしていて」
と、二人とも四ッ谷が「取り合わせ」と捉えていること自体に違和感を表明しています。
実際、僕もこれらの句を「取り合わせ」として批判するのはお門違いな読み方だと感じました。
どうにも四ッ谷は村上の句を冷静に読んではいないようなのです。

このような四ッ谷の意味不明な否定感情を、石田は「好き嫌い」だと理解しようとします。
それはそうですよね、批判が強引なんですから。
それに対して四ッ谷はこんな発言をしています。
「四ッ谷:いや、やっぱり僕は俳句は飛躍が必要だと思うから、飛躍がない句は嫌なんですよ。
好き嫌いの問題じゃないんですね」
自分で「僕は〜嫌なんですよ」と言っておきながら、
「好き嫌いの問題じゃない」とするのは支離滅裂です。
完全に論理破綻しているところから、
いかに四ッ谷の批判が感情的なものかよくわかります。

「何かこの人はね、同じことをベタベタ言うのがいいと思ってるんじゃないか。
これは俳句としてはダメだと思うんですよ。根本的なところで勘違いしてるんじゃないか」
四ッ谷はこう言って村上を批判するのですが、
「俳句としてはダメ」とか「根本的なところで勘違い」とか、全否定するような表現をすることに不快な気持ちが起こります。
言いたくはありませんが、実作者としての実績では四ッ谷龍は他の審査員と比べて劣っていると僕は思っています。
(四ツ谷の句集について僕は別のところでレビューしています)
自分の実作を棚に上げて、よくもここまで言えるものだと審査員という権力の恐ろしさを感じます。

村上鞆彦は結社「南風」の主宰であるはずです。
いくら若いとはいえ、結社の主宰をして会員をあずかっている人に対して、
説得力のない批判しかできないのに、
根本的に俳句がわかっていないみたいなことを発言するのはやりすぎではないでしょうか。
四ッ谷の態度は俳句界全体に対しての影響を考えない自己中心的すぎるものです。
僕はそこに権力者の横暴しか感じませんでした。

結果、四ッ谷はまったく他の審査員を納得させることができないまま、
村上には受賞させないという態度を最後まで貫きます。
「四ッ谷 :私から申し上げると、私は村上さんの受賞には反対です。良くない句集だと私は思いました。
今まで私が一位に推した作品が受賞しなくても、そこまで強硬に言ったことはないんですけども、それは受賞した句集もそれなりにいい句集だなと思ったからです。
今回は良くない句集だなと思うので、この句集が受賞することには反対です」
いくら審査員でも二人の審査員が最高点をつけた句集を、
説得力のない指摘に立って「良くない句集」とまで言うのは異常だと感じます。
四ッ谷がここまで頑なな態度を取ることが、石田や小川には不思議だったのではないでしょうか。

議論では「該当者なし」という選択肢も考慮されましたが、
出版社の要望で「該当者なし」を避けたいとのことで、石田が譲って北大路を支持することで決まったのですが、
直前の四ッ谷の発言は見逃せません。
「四ッ谷 :該当者なしとは思いません。私は北大路さんと矢野さんだったら文句ありません。
どちらが取っても。まあ藤井さんが取ってもいいかなと思います。『遅日の岸 』はちょっと反対です」
四ッ谷が点数を入れたのは、北大路と矢野と藤井の三人なので、
これは実質、自分が推した句集しか受賞を認めないと言っているのと同じことです。
こうなると合議の意味はほとんどないようなものではないでしょうか。
四ッ谷龍が審査員にふさわしい人格なのか、非常に疑問の残るところです。

ただ僕自身は四ッ谷が自分の意見だけを正当だと思う「俳句の神様」気取りで、
人の意見を聞かない専制的な人間であることは意外ではありませんでした。
実は四ッ谷は自分が最高点を入れて選んだ句集に批判的なレビューがあると、
「オルフェウス」という匿名で反論レビューを書くような人物なのです。

ちなみに岸本尚毅の態度にも信用できないものを感じました。
本書のいたるところで岸本は実は村上をそれほど評価していないし、
北大路をひそかに評価していたような発言をしているのですが、
岸本のつけた点数とはあまりにそぐわない発言であるだけに、
後から書き加えたものではないかと疑っています。
「岸本:『遅日の岸』は積極的に推すとまでは思いませんが、
今回の句集の中で相対的にいいというか、……ただ過去の『未踏』とか『六十億本の回転する曲がつた棒』とかありましたね。
今年この句集を採るとハードルを下げた印象は避けがたい」などと書いていますが、
それならどうして北大路翼はいいのか、という話になりますし、
そもそも岸本は第三回で『六十億本の回転する〜』を2位の評価に留めていました。
なんか信用に足る言い分とは感じられないのです。

村上の「ゴリ落とし」問題と関係すると思いますが、
四ッ谷の俳句観が非常にねじまがっていることにも問題を感じました。
北大路翼を評価しているところでも気になる発言があります。
「四ッ谷 :はい 。まずこの句集、徹底的にですね、反抗しようとする意志が貫かれていますね。
これまでの俳句とは違うものを作るんだ、という倫理的な意志が全体を貫いています。
そこがいいと思いました。だから強い風刺精神がありますね 」
これまでの俳句と違うことを「倫理的」と捉えるのは極端な思想の持ち主であることを示しています。
逆にいえば、これまでの俳句をやると、非倫理的だということになるのですから。
これまでと違う俳句をやるのは結構だと思いますが、
それを「倫理的」とまで言うのは、反動的な思想の持ち主であることを示すだけです。
わかりやすく言えば、四ッ谷は反動主義者だということです。
それなら、村上の作品の受賞に反対することも倫理的行為だと感じていても不思議はありません。
しかし、このような人に審査されるのはどうなのでしょう?
俳句らしい俳句をやっている人は田中裕明賞に応募するのはやめた方がいいのでしょう。

ちなみに北大路翼の作品がそれほど「これまでの俳句と違う」かと言えば、
僕はまったくそうは感じませんでした。
むしろ高浜虚子の『虚子五百句』の流れに置くことができる日常詠だと思いました。
このような指摘は他の審査員からも出ています。
小川は「旧仮名遣いで、無季の句もなかには混じってますけれど、
基本的には季語を使うというスタンスで詠まれていて。
そういう意味では歌舞伎町で詠まれているけれど、花鳥諷詠になっているところ、
歌舞伎町と花鳥諷詠がドッキングした面白さというところにまず全体的には惹かれました。
虚子の花鳥諷詠って別に花や鳥だけを詠うわけではなくて、
人間社会の何でも詠めるように生活の季語とかものすごく増やしたわけですけれど、
ある意味その恩恵を思い切り受けて、歌舞伎町で花鳥諷詠をしている、
そのちょっと奇妙な句の姿というものに惹かれるところがありました 」
石田は「それをね、一応有季定型を踏まえていて、調べは俳句であって、季語はなくても季感はあったりする。
俳句からそんな外れてないというところも、私は非常に好ましくって、
そこを小川さんは、新しさがない、「新しいっていうわけじゃないけど」っていう風にまとめられたので、はっとしたんですね。
意外とこの方は、何て言うか ……ちゃんと俳句に仁義を通してるかなって思って(笑 )」

個人的な感想ですが、今さら歌舞伎町の風俗を描いて「新しい」というのは、
相当に流行遅れな感覚だと感じました。
椎名林檎が「歌舞伎町の女王」をリリースしたのはいつだったのでしょう?
(答え:1998年です)
歌舞伎町ではないかもしれませんが、その影響下にあった金原ひとみ『蛇にピアス』だって2003年の作品です。
歌舞伎町が尖った存在だったのは石原都知事の政策以前です。

こうして発言を検証していくと、
四ッ谷の俳句鑑賞眼は審査員をやれるレベルではないと感じざるをえません。
自分の思い込みだけで他人を説得できていないのに、
やたらと我だけは通そうとする人間性にも問題があります。
正直に言いますが、
僕は本書を読んで何度も不快な気分になりました。
四ッ谷の発言は本当に審査が目的なのか疑わしいものが少なくありませんでした。
田中裕明賞の審査員という権威を利用して、
若手に自分の支配力を伸ばそうとでもしているのではないか、
実作での実力不足を政治的に補おうとしているのではないか、
そのような疑惑が浮かぶのを禁じえませんでした。
実際、四ッ谷は田中裕明賞を受賞した若手と懇意な付き合いをしているようです。

田中裕明賞がこのような人物を利するだけの賞に成り下がったのは残念です。
僕には田中裕明が村上鞆彦の句集を受賞させまいなどと考える人だったとは思えません。
本当に田中裕明の名を借りるにふさわしい賞にできるかどうかは、
審査員の実力と謙虚さ次第だと思います。

ただ、僕個人はもうこの賞には期待するものはありません。
「これまでの俳句とは違う」倫理に基づいて審査をすれば、
俳句の外のものを持ち込むだけの不勉強な人が受賞者になるのは目に見えています。
芸能人が初めて書いた俳句が賞をとる日も遠くないことでしょう。

 

 

  (注)このレビューはAmazonに不当に消去されたため、掲載日が変わっています。

       同内容で再度掲載ができているので、何が理由で消されたのか全く不明です。

       問題点について情報開示を要求すると、Amazonは「これ以上回答することはない」

       と返答を拒みました。

 

 

 

評価:
田中裕明賞事務局
ふらんす堂
¥ 3,340
(2017-04-17)

『花咲く機械状独身者たちの活造り』 (港の人) 関 悦史 著

  • 2017.04.12 Wednesday
  • 10:50

『花咲く機械状独身者たちの活造り』 (港の人)

  関 悦史 著

 

   ⭐

   自己目的化した逃走行為(SEKI NO OWARI)

 

 

2011年に出版された『六十億本の回転する曲がつた棒』に続く第2句集です。
相変わらず選句という作業の重要性が理解できていないらしく、
発表した句を「蛆湧きつぐ」ごとく、ほとんど載せています。
選句ができないというのは、一句一句に力がないことをごまかすため、
もしくは散文的な文脈で俳句を評価してもらうためではないかと疑います。
(オタク的な外部文脈に頼る句が多いだけに散文化が必要になるのです)
一句という単位を失い、散文性に依存したアリバイ化した俳句に何の意味があるのか、
現代的な問題としてそのことを真剣に考えたいと思います。

僕は俳句を読むばかりで自分では作ったりしませんが、
それでも関の俳句には奇をてらうばかりで中身がないと感じるものが少なくありません。

俳句の材料として異質な用語(学術的なカタカナ語など)を持ち込んで、
わざわざ字余りにして定型を崩し、散文的な表現にするのは常套手段ですが、
僕が感心しないのは、俳句の形式を利用することで、
主体が曖昧になるのをいいことに無責任な表現を垂れ流しているところです。
また、視覚と意味に過剰依存し韻律を軽視しすぎるのも問題です。

関の句の全体的な傾向を語っても理解しにくい方もいると思うので、
ここからは具体的に句を取り上げてどこに問題があるかを述べたいと思います。

まず、主体の曖昧さを利用してメタに立つ態度が招く安易な全般化は問題視すべきです。

 一億のアイヒマン顔初詣
 片陰や全紙全局政府に和す
 「報道」いま億の脳削ぐ鮨にまみれ
 白人女性つぎつぎ湧きぬ秋の草
 アジア人に不意に囲まる秋の暮

これらの句を見て感じるのは「あなただけが特別なの?」ということです。
一億全員が初詣に行くわけではないし(僕も行ってません)、
「全紙全局」を関がチェックしたとも信じられません。
まして全員がメディアを信じているわけでもないと思います。
それなのに、自分以外はみんなダメであるかのような物言いです。
関が白人女性でないのはわかりますが、アジア人でもないかのようなのが気になります。
とにかく発話主体が曖昧でメタ的なのです。

「アイヒマン顔」ということは一億人を「凡庸な悪」呼ばわりするわけですから、
「自分はどうなんだ?」という反論が当然起こるわけですが、
そのあたりを主体の曖昧化でごまかし切るのは無責任だと思うのです。

こういうものは自分の問題として引き受けるという倫理的態度があって、
はじめて批判をする主体への信頼が生まれるものなので、
こうしたやり方は倫理的主体化をスルーするために俳句の形式を利用していると思われても仕方ありません。
つまり、主体を曖昧にして責任を負うことなく批判をすることは簡単だし卑怯だということに尽きます。

これは「人類に空爆のある雑煮かな」の時から言えることです。
責任主体から逃走しているために安直なメタ化が可能になり、
無責任に「人類に」とか言えてしまうだけのことを、多くの人が過大評価しただけの句でしかありません。
責任主体からの逃走=オタク化に果たした〈フランス現代思想〉の影響について僕は他のレビューで書いていますが、
〈フランス現代思想〉やポストモダンの無責任性が見直され始めた今になって、
俳句でこんな周回遅れのことをやっていて恥ずかしくないのか、というのが僕の感想です。
こんなものを「新しい」と感じたとしたら、平野ノラのネタをマジで受け取るくらいの相当な流行音痴だと自覚するべきでしょう。

批評的視座や学術用語の使用に関しても同様のことが言えます。
批評をするならそれなりに鋭い視点や根拠がなくてはなりません。
学術用語を用いるなら理解の適切さが問われなければなりません。
関は俳句の形式をその義務を避けるために利用しているだけなのです。

 日本兵死因大方餓死ぞ秋
 奴隷船TPP号春眠き
 原発啓蟄「ノーモア」訛り「ノモンハン」
 無愛これソメイヨシノは皆クローン
 日本が食ひ尽くしたる鰻かな

こういうメタ俳句になると定型を崩さないのもアリバイ行為に思えますが、
季語を取ってつけて定型俳句のフリをしなければ内容は俗っぽいものでしかありません。
そりゃあ日本兵の多くは餓死だよ、だから?
ソメイヨシノはクローンだよね、だから?
日本人は鰻を食べまくってる、だから?
これらは夕方のニュースで語られるレベルの情報でしかありません。
実際に批評になる部分に関しては何も語らず、読者に投げるだけです。

またTPPが奴隷船だというのはどういうことなのか?
ノーモアが訛るとどうしてノモンハンになるのか?
根拠や説明が不足したまま投げ出して、俳句を言い訳にメタに立つ快楽だけを貪っています。

 議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇き
 エッシャーの滝を素麺流れけむ
 冷蔵庫からタナトスを出して飲む
 千の高原(プラトー)全てに映り夏の雲

これらの学術用語を用いた意味は誰か理解できるのでしょうか?
ホモ・サケルはアガンベンの著作で描かれた殺しても構わない存在のことですよね。
議事堂前のデモ聴衆は殺されてもいい剥き出しの生だとでもいうのでしょうか。
ホモ・サケルを「聖なる人」という訳語レベルでしか理解していないのではないかと疑います。
エッシャーのだまし絵で僕が思い浮かぶのは水路ですが、滝もあったのでしょうか。
タナトスは死の本能ですが、冷蔵庫から出したら本能ではありませんね。
「ミル・プラトー」はドゥルーズの著書ですが、実景になり得ないし、ただ言いたいだけでしょう。
こういう思いつきの学術用語利用は厳しく見たほうがいいと思います。
俳句を言い訳にすれば何をやっても許されるんだとしか感じないからです。

 少年(リトル・ボーイ)の魔羅立つ地平 散り建つ原発
 ゲルニカの馬福島の牛夜寒

前句はBLの文脈に置かれた句ですが、
「リトル・ボーイ」とフリガナをしたことで、広島に投下された原爆を喚起させています。
「地平」を引き合いに出すのですからBLでは意味がくみとれません。
曖昧に書いても、意図するところは原爆と原発を重ねて捉えることです。
次の句もゲルニカの空襲と原発事故を重ねたい意図が見られます。
しかし、災害における事故と戦争による殺戮を重ねるのは恣意的で乱暴ではないでしょうか。
散文で書けば知性に疑問符がつくところを、俳句にすれば読者を煙に巻けるわけです。
こういう句を並べられると、関にとって俳句は知性に欠けたエセ批評を無責任に行うための隠れ蓑なのではないかと感じます。

それからBLなど外部文脈に依存する句も、最初に言い訳が成立するため無責任な物言いに終わりがちです。
ラブドールの連作など外部文脈を無視して句だけを鑑賞したら凡庸でしかありません。
長谷川櫂の『震災句集』に当てつけた句は逆効果といえるくらいひどいものです。
試みに両者の句を並べてみましょうか。

櫂 風鈴や呻くがごとく鳴りはじむ
関 風鈴や妹呻き鳴りはじむ
櫂 人変はり天地変はりて行く秋ぞ
関 ヒト滅ぼす妹変はり行く秋ぞ
櫂 震災の今年はすごし大文字
関 吾妹らの今年は襲ふ大文字
櫂 人間に帰る家なし帰り花
関 人間に戻る妹なし帰り花
櫂 早蕨やここまで津波襲ひしと
関 早蕨やここまで妹ら襲ひしと
櫂 一望の瓦礫を照らす春の月
関 一望の死妹を照らす春の月
櫂 原発の煙たなびく五月来る
関 妹壊えて煙たなびく五月来る
櫂 幾万の声なき声や雲の峰
関 幾万の吾妹の声や雲の峰
櫂 東京を霧のごとくに襲ふもの
関 東京を霧のごとくに襲ふ妹
櫂 原発の蓋あきしまま去年今年
関 原発と妹融けあひて去年今年
櫂 塩焼の翁なるらん初笑
関 妹を焼く翁なるらん初笑

僕は『震災句集』に厳しいレビューを書きましたし、評価はしていませんが、
批判するにしてももっと責任のある他のやり方をすべきだったように思います。
サブカル(妹萌え)にズラして批判した気になれるという関の精神が僕には理解できません。
パロディとしても意味不明でつまらないのですが、
それ以上に長谷川に対して失礼なだけの行為にも思えます。

このように関の俳句は安直で問題山積だと感じますが、
理屈でしかものを考えられず、力のある俳句が作れないことをごまかすために、
意図的に定型を崩し散文化していくような言い訳(アリバイ)が常態化していることを示しておきたいと思います。

 屬董廖屬蓮廖屐舛箸覆蝓廖屐舛靴董廚覆匹寮睫澄⊇述後の多用で意味過剰の眩暈効果を狙いすぎている。

 風光るライトノベルの投げ売りは

最後の「は」の必然性がわかりません。
定型として「投げ売りのライトノベルや風光る」や「風光るライトノベルの叩き売り」とできるはずですが、
それだと凡庸になるのが嫌なのでしょう。
「は」のあとに何かあるように見せかけてごまかしているように思えます。

 解氷は石田彰の声したり

「解氷は」の部分は「浮氷」とか「薄氷」とか名詞で十分意図は伝わるはずですが、
作為的に「は」を用いて散文化し説明をすることで、俳句の詩的効果を弱めています。
関の狙いが詩的効果より俳句の散文化にあることが感じられてしまう助詞の使い方です。

 女装と知ってもウェイトレス美し文化祭

途中までは散文でしかないのに急に「美し」というのは、居心地が悪くなります。
「と知っても」のような逡巡は俳句としては捨象するべきもので、
「女装せる」と表現した方がいいと思いますが、
わざわざ散文的発想を持ち込んでサブカル臭を強めています。

 小学生といへどもマスク美人となる

「といへども」+「となる」は完全に説明になっています。
「マスクして美人となりぬ小学生」とか「小学生マスク美人となりにけり」とか、
詰めて言うことはできるはずですが、
これも散文化して定型俳句の文脈から逃げることが目的になっています。

描写が散文的なため字余りや破調を生む。言葉の無駄遣い。

 水着女の動画にアラビア語のコメント

助詞が無駄に使われすぎています。これではただの散文です。
「水着女の動画コメントアラビア語」と俳句にできるはずです。
これはファンも擁護ができないレベルのダメな句です。

 南風の品書き「親子丼」とは鮭イクラ

「品書き」は全くの無駄に思えるのですが、洗練させる気がないのでしょうか。

 烏賊墨パスタ巻き寄せ冬星的重さ

「冬星的重さ」がわかりませんが、重いことをオーバーに言いたいとして、
「烏賊墨のパスタ巻きたる重みかな」と無季にするか、
「烏賊墨のパスタ巻きたり冬の星」にするとスッキリします。
これは「イカ墨パスタを巻き寄せたら星の重さみたいだ」という散文発想に、
無理に季語を入れてアリバイで俳句に見せたような印象です。

L亀┐龍腓覆里傍┯譴鯡詰に入れて屈折感を出す。季語によるアリバイ俳句化。

 地に座す人々仮設「商店街」秋日

「地に座して秋日の仮設「商店街」」の方が韻律がよくなる気がしますが、
季語が韻律からはみ出して不必要な印象を抱かせてしまいます。
季語抜きで「人々は地に座す仮設「商店街」」でもいいのですが、
あまりに韻律を無視すると、アリバイで俳句にするために季語をつけたと疑いたくなります。

 サンタガールの素肌の腿や北風の吹く

「の」の乱発が説明的になりすぎて散文的になっています。
「素肌の腿」という表現も説明を意図していて歓迎する気になりません。
サンタガールの腿だけでも寒そうなのに、わざわざ北風というのも説明過剰ではないでしょうか。

だ擇貉を使うべきところで使わず、必要ないところで使う。

 天使の羽負ふドールや金具冷やかに

この「や」は「の」でいいところです。切る必然性がありません。
「や」を入れれば俳句に見えるというアリバイ俳句なのではないかと疑います。

 もう何も生らぬ大地に稲光
 目覚めゐる青年の身も春の水
 みんな気体の倭の山のあたたかし

「や」で切るべきところを「に」「も」「の」で繋いでいます。
「も」は理屈になるだけですし、「の」の乱発もいただけません。

 とめどなき汚染の海やサーファーゐる

最後を「波乗りす」と主体的な表現にするなら「や」の効果も出そうですし、
サーファーの主体性に思いが及び、彼の故郷愛を感じることもありそうですが、
「サーファーゐる」としたため、ただ傍観的な視点しか意識されません。
関が安全な視点に引きこもるアイロニカルな傍観者であることが無意識に現れている句と言えるでしょう。
俳句は詩である限り、こういう引きこもり体質を正当化する文学ではあってはいけないと思います。

ヌ蟻未北昌譴鯆垢して俳句にはめ込む。素材頼りのこけおどし。

 P・K・ディックのレプリカ話すディックの忌
 十二原色知る蝦蛄グレートバリアリーフの中
 ボナヴェントゥーラ『夜警』の目もて北風(きた)を歩く
 コンピュータウイルスから体毛の痕跡
 フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器

キリがないのですが、すべて縮めることが可能です。
長い固有名詞に寄りかかって定型から逃げようという発想に思えます。
俳句が省略の文学だということを彼はわかっているのでしょうか?

ζ虻遒亮臑里簑仂櫃曖昧。言語をしっかり使わず空気や外部文脈に依存する。

 元朝や瓦礫となりて瓦礫に棲む

何が瓦礫となったのか、主体が曖昧でよくわかりません。
震災句だから家だとわかってもらえるという外部文脈への依存でしょうか。
ただ、震災句と明示はされてないので、前後の句との関連で判断するしかありません。
おめでたい語である「元朝」も不適切な印象です。

 打水のいづこもメイド秋葉原

打水をしている人がメイドなのか、打水の先にいたのがメイドなのか、
言葉の使い方からすれば曖昧なのに、どこにもメイドがいるという意味で通じる気がするのは、
秋葉原といえばメイドだらけというステレオタイプの発想と、
メイドがあちこちで打水しないだろうという決めつけがあるからです。
その意味でこの句の本質は表現ではなくネタにあるといえます。

俳句を作らない僕に技術的な話は負担が大きすぎるのでこの辺りでやめておきますが、
全体として、逃走や曖昧化やメタ化という周回遅れのポストモダン的方法を俳句に持ち込みたいがために、
定型を散文にズラすこととなり、その結果、韻律への意識が希薄になるという弱点があります。
カタカナ語などの視覚要素に頼り、詩であるよりもネタであることを選んだのが関のアリバイ俳句の正体です。
アリバイ俳句で詩に興味のないサブカル人間に支持を広げたとしても、
そのあとに残るのは堕落によるHAIKU NO OWARIでしかありません。
(文学を読まない人にアピールした村上春樹をチヤホヤした後の純文学をごらんなさい)

関は「クプラス」という同人誌で僕にレビューされたことを「被害に遭った」と書いているのですが、
購入した人がつまらない句集を批判するのは普通のことではないでしょうか。
自分の著作に気に食わないレビューを書かれたからって、
「被害に遭った」としてレビュアーを責める(それも同人誌で)のはどうかと思います。
著作を世に問うつもりで出していながら、批判をされることを覚悟していないのでしょうか。

低評価レビューをすると、書いた人間が悪いとばかり非難する人が目につきますが、
批判の存在を否定して肯定ばかりが溢れる世界が本当に健全なのでしょうか。
僕はナルシシズムを原理とした今の日本社会の行く末が心配です。

 

 

 

   (注)このレビューはAmazonに4回以上不当に消去されたため、掲載日が変わっています。

 

 

 

『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田) 四ッ谷 龍 著

  • 2017.03.09 Thursday
  • 13:48

『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田)

  四ッ谷 龍 著 

 

   ⭐

   コマネチやコケまくってるこの句集

 

 

田中裕明賞で審査員として専制をふるっている四ッ谷龍の新句集です。
若手との交流と震災とバッハ研究が影響していると著者本人が記しています。
僕には震災の影響はあまりつかめなかったのですが、
若手交流とバッハ研究の影響は確実に悪い方に働いていると感じました。

全体を読んで印象に残ったことは二つあります。
ひとつは切れ字の使用をできるかぎり避けたり、
定型を崩す字余りを意識的に多用しているということ。
もうひとつはバッハ研究の成果を俳句に持ち込んで、
フーガ形式のような連作をつくっていること。

「ナルシシズムとか頭でひねったアイデアみたいなのが先にあって、
それを言葉にしちゃってるようなところもある」
とは第三回田中裕明賞で四ッ谷が山口優夢の句を評した言葉ですが、
同じ印象を僕は四ッ谷自身の句集に抱きました。

 台風がアンモナイトの上に来る
 「トースターで焼かれたような」詩が愛撫から生まれ
 プレート・テクトニクス男同士の腕からまる
 なんという朝!奴はあんこになっちゃった

台風の渦巻きが渦巻き模様のアンモナイトの上に来るという句に、
ユーモアを感じるには前提としてメタ的な視点が必要です。
つまりこの句に実景のユーモアはなく、
メタ的な戯れに優越感の喜びを感じるナルシシズムがあるかどうかが作用します。
僕はこういう無機的な言葉によるメタ的遊戯は詩ではなくサブカル的な堕落だと思っているので、
ユーモアがあるとはまったく思いません。

「トースターで焼かれたような」詩、とは何か出典でもあるのでしょうか?
僕にはまったくわかりませんでした。
詩が愛撫から生まれ、の部分も、
物質でないものを愛撫するというのは飛躍がありすぎて困惑します。
こういう句は意味がわからなくても、
読者に何かしらのイメージを立ち上げられれば、詩になると思うのですが、
それも難しいのではないかと思いました。
せいぜい「うまいこと言った」という作り手の自己満足があるだけです。

プレート・テクトニクスとからまった男の腕もイメージを取り結びません。
大地を男性の腕と重ねているのでしょうか?
でも、プレートテクトニクスはプレートの水平移動を意味しても「からまる」ことは直接には意味しませんよね。
もし、プレートのぶつかり合いで起こる地震を意味したいのならば、
プレート・テクトニクスでは意味合いが不正確(プレートの移動が必ず大地震になるわけではない)なので、
どうして「プレートの衝突」と言わないのかという疑問が起こります。
おそらく主観過多か知的な操作をしたかったのかのどちらかだと思いますが、
こういう関悦史に影響されたような主観過多なカタカナ語の濫用は、作り手のナルシシズムしか伝えません。

最後の「なんという朝!」はバイきんぐの小峠のネタ「なんて日だ!」の方が5文字ですぐれています。
キャッチーなお笑いはお笑い芸人に任せた方が良いでしょう。

四ッ谷は「素直に「かな」とか「けり」とか使っちゃだめなんですね」と第6回田中裕明賞の審査で発言しているので、
この句集でも「かな」と「けり」の使用は極力避けられています。
問題はその試みがどれだけ成功しているかですが、
あまりうまくいっているようには思えませんでした。

切れ字を避けたため、四ッ谷の句には一定のパターンが目立ちます。
1 AのB CがDする
2 AがBする CがDする
3 AがBするとCがDする
の形です。
特に最後を用言で終わる句が多いのが特徴的です。
四ッ谷は佐藤文香の句を「これは俳句ではない」と批判しましたが、
そのとき「一句は一句として、物として確立していなきゃいけない」と偉そうに言っていたのですが、
用言で終わる句の多くは一句屹立を弱める効果になるだけに終わっています。

 水蛸の口開け襞揺れ全脚巻く
 排気塔霧を突きおり二基見ゆる
 波音の砂町に来て鈴緒引く
 鵲の橋はほろびぬ星雲輝る
 檜の根のぼる亀虫ひっくり返る
 鶺鴒が剣道具店へ来て飛び去る

僕は俳句をやらないので作り手の事情はわかりませんが、
このような結句の用言は、そこが終わりであることを明示できないために、
一句を「物として確立」させるのは難しいのではないでしょうか。
中には「ただの散文じゃないの?」と思う句もありますよね。

ホトトギス的な有季定型に挑戦するのはいいと思うのですが、
かえって俳句を弱めたり崩したりしていることが目立ちます。
こういうのは前衛的試みを讃えるのではなく、やはり結果で評価することが大切です。
(もちろん有季定型の堕落した句も批判すべきです)

ちなみに四ッ谷は第7回田中裕明賞の審査で、
有季定型にこだわる村上鞆彦の句の評価で、
「かな」「けり」を安易に使うところを批判していたはずですが、
使わない結果がこんな句でしかない人には言われたくないと村上も思ったのではないでしょうか。
(その意味で四ッ谷に言われて意見を変えた岸本尚毅は信念のない人間だと失望しました)

長くなったので終わりたいのですが、
もうひとつ、四ッ谷がバッハ研究の影響と述べていたように、
フーガ形式に着想を得たと思われる連作についても言わなければなりません。

 枯野人測量の棒持ち上げる
 長靴に艶とて失せぬ枯野人
 行く我を眼で追っており枯野人
 立ち小便終えれば元の枯野人
 地に何か落として屈む枯野人
 両頬のてらてらとして枯野人
 枯野人かばんを掛ける肩換える
 ポケットから何かはみ出て枯野人
 枯野人携帯電話に「えっ、えっ」と

四ッ谷は一句で完結していないものは俳句ではないと言っていたので、
これは俳句ではないのかもしれないのですが、
日野草城「ミヤコホテル」以来、連作というのはどうしても散文的になりがちです。
上に引用した句もやはり散文的な場面描写の連続を逃れられていません。
一句としてはともかく、まとめて見ても特に面白くもありません。
仲間内の俳人は謹呈本でタダで読んでいるので、面白いですませられるでしょうが、
高い金を払って買ったのに、こんなものを読ませられてはたまりません。

もっとひどいのが、これに頭韻を組み合わせた連作です。

 なななんとなんばんぎせるなんせんす
 男色のなんばんぎせるなななんと
 生煮えななんばんぎせるナルシスト
 泣いちゃうぞなんばんぎせるなまけもの
 なにくそやなんばんぎせるなんぼやねん
 なりきったなんばんぎせる鍋つかみ
 殴りあうなんばんぎせるなまけもの
 嘆くなよなんばんぎせるなせばなる
 なちゅらるななんばんぎせる嘆くのな
 成増でなんばんぎせるなかなおり

実は上の句にはひとつだけ模倣をした僕の句が入っています。
区別できないとしたら、俳句をやらない人間でもできるということです。
こういうのは、座を囲んでみんなで言い合うのであれば楽しいかもしれませんが、
句集として金を払って読む気になるものではありません。

余計なことですが、この連作のどこにバッハ研究が活かされているのかもわかりません。
フーガ形式は主題を繰り返しますが、
対唱、応唱と主題自体がズレながら、ビブラート的な拡張効果をもたらし、
垂直性の展開をもたらす、つまりはクライマックスに向かうものだと思います。
しかし四ッ谷の連作は繰り返されるものが季語である時点で、
作り手の創作した主題でもなく、主題自体のズレもありません。
当然クライマックスはなく、水平的にダラダラ続くだけです。
これはむしろ日本的な「奥」の形態に近く、どこがバッハなのか首をひねりたくなります。

全体的にこういう知的操作の自己満足ばかりが目立つ句集でした。
結果、パズルのように用いられた言葉は無機的な道具に貶められ、
感動を導いたり、詩的なイメージを喚起したりする詩語にはほど遠いものになっています。
いろいろ工夫をすることも大事ですが、結果が「つまらない」句でしかないのは問題です。
頭で考えたことがどれだけ立派でも、
できあがった句がある程度の文学的水準に達しなければ意味がないということを、
四ッ谷はもっと胸に刻みつけるべきだと思います。

 

 

 

『俳句と暮らす』 (中公新書) 小川 軽舟 著

  • 2017.01.11 Wednesday
  • 09:44

『俳句と暮らす』  (中公新書)

  小川 軽舟 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   気負いのない日常詠の魅力への強い信頼が美しい

 

 

小川軽舟は俳句結社「鷹」の主宰で、さまざまな賞の審査員でも知られる俳人です。
「鷹」は俳句を作らない僕でも知っている有名なグループなので、
多くの人に「先生」と呼ばれる立場の人だと思います。

そのため、自然を愛でる花鳥諷詠の世界や
短く洗練された詩的な境地が描かれているのかと思いきや、
軽舟自らの単身赴任のサラリーマン生活を紹介しながら、
生活に裏付けられた俳句のあり方や読み方を気負いなく描いています。

軽舟は東京の銀行から大阪の鉄道会社に勤務するにあたり、単身赴任生活を選択しました。
それまで妻に任せていた台所に初めて自分で立つようになった実感から、
最初の「飯を作る」の章が書かれています。
調理に関わる俳句の数々を紹介しながら、
俳句の背後にある実感をわかりやすく説明しているので、
今まで俳句に馴染みの薄い人にも壁を感じさせない内容になっています。

とはいえ、軽舟の俳句観は狭い日常にとどまるというわけでもありません。
次章の「会社で働く」では、金子兜太の社会性俳句「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」などを取り上げ、
実感による実景がどのように象徴へと高められるかをさりげなく語ったりします。
注意深く読めば、俳句経験者の勉強になる部分も少なくないように感じました。

男にとって妻のことを語るというのは気恥ずかしい面もありますが、
(僕もレビューで自分の妻について触れたことはないのですが)
「妻と会う」の章では、妻や夫を詠んだ俳句が紹介されます。
愛妻俳句の権威(?)中村草田男はもちろん、森澄雄の句を取り上げ、
妻を詠むことが社会性を脱ぎ捨てたほんとうの自分を表すことになると軽舟は語ります。
軽舟自身の妻を詠んだ俳句も自然体で扱われています。

軽舟は日常の終わりである死を扱う俳句を取り上げたあと、
最後の章を松尾芭蕉の句に割いています。
漂泊の詩人という芭蕉のイメージを、生活に密着した視点で捉え直す試みがされていて、
軽舟の俳句観の芯の太さを印象づけています。
芭蕉が日本橋の都会生活を離れて深川に隠者の庵を構えたことは、
漢詩の世界のパロディを実践する「俳句とともに暮らす新しいスタイル」だったという解釈も新鮮でした。

本書で軽舟は日常と寄り添う俳句の力強さを伝えています。
気負いのない文章ですが、しっかりした信念を感じました。
とりわけ、自身の日常を隠さず語るオープンな姿勢が好ましく、
権威など必要としない他者への訴えかけのあり方は、
僕には「俳人」と呼ぶのにふさわしい態度に思えました。

一部の俳人にアイロニカルであることが詩的な姿勢だと勘違いしている疑いのある輩がいますが、
インターネットに親和的なそのような態度が、
本当に俳句にふさわしい態度なのか再考する必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

評価:
小川 軽舟
中央公論新社
¥ 842
(2016-12-19)

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