『アブサロム、アブサロム!』 (岩波文庫) ウィリアム・フォークナー 著

  • 2018.06.23 Saturday
  • 01:20

『アブサロム、アブサロム!』 (岩波文庫)

  ウィリアム・フォークナー 著/藤平 育子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   死者たちが奏でる滅びゆく家族の歴史

 

 

本作は南北戦争後のアメリカ南部を描き続けたW・フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」のひとつです。

フォークナーはアメリカ南部にヨクナパトーファ郡という架空の地を生み出して、

自分の小説の神話的な舞台としました。

彼の作品群が「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれるのはそのためです。

 

19世紀にヨクナパトーファ群で農場主にのし上がったトマス・サトペン一家の悲劇を描く本作は、

ストーリーを展開させる「語り」の構造が複雑化しています。

 

フォークナーは『八月の光』では複数の登場人物に次々と視点を移し替え、

その人物の語りによって事件の外観に迫りますが、

肝心の中心人物の来歴については、よくある文学的な手法でしか描けませんでした。

その意味で『八月の光』は文学と映画の折衷のようなスタイルで、ある程度の読みやすさを保っているように思います。

 

しかし、『アブサロム、アブサロム!』は事件がすべてが登場人物の語りによって描かれています。

メインの語り手として登場するのは『響きと怒り』にも登場するクエンティン・コンプソンです。

クエンティンがサトペン夫人の妹のローザ・コールフィールドに呼ばれてサトペンの話を聞くところから物語は始まります。

その後、クエンティンは父親との会話、ハーバード大学の学友シュリーヴとの会話の中で、

トマス・サトペンとその子供たちの悲劇的物語を生み出していくのです。

 

つまり、本作はサトペン一家の物語でありながら、物語にサトペン一家が直接登場しない構成になっています。

物語の当事者は一人を除いてすべて死者となっていて、それを語るローザもすでに死者である上に、

クエンティン自身も先行作品である『響きと怒り』で自殺を果たしているため死者同然といえます。

(シュリーヴはもう一人のクエンティンと受け取れるように注意深く描写されています)

このように、本作は死者が死者を語った小説だと言えるのです。

おそらくフォークナーは神話的想像力に必要なのは、20世紀的な映画のカメラではなく、死者による「語り」であると考えたのだと思います。

 

こうして語られる物語はダビデ王の息子アブサロムを題名に用いていることでもわかるように、

神話的モチーフを匂わせた父と息子たちの悲劇となっています。

サトペンにはヘンリーという息子とジュディスという娘がいました。

ヘンリーが尊敬の念を抱く学友チャールズ・ボンとジュディスが恋仲になったところで、南北戦争が起こります。

南北戦争に参加した二人はなんとか死地をくぐり抜け、花嫁ジュディスのもとに戻るところで、

ヘンリーがボンを射殺してしまうのです。

そこにはサトペンの血にまつわる「呪い」とも言うべき因縁があったのですが、

それはクエンティン(とシュリーヴ)に語り出されることで、死者が生き直すかのごとく、次第にあらわになっていきます。

 

物語の内容だけをストーリーとして語れば、これほどの巨大な作品になる必要はないようにも思えます。

しかし、他でもありうる可能性をひとつひとつ潰すようにして長々と続けられていく、

卓越した比喩を駆使したフォークナーのトランス感にあふれた語りが、

この物語に訪れる運命的な破滅へと向かって、読者を誘い込むために費やされているのは間違いありません。

読者もクエンティンやシュリーヴと一体になって、そしてサトペン一家の人々と一体になって、

アメリカ南部の呪いの中にからめとられていく息苦しさと重々しさを感じていくのが本作の醍醐味です。

紛れもなく天才の仕事だと言えるでしょう。

 

 

 

『小屋を燃す』 (文藝春秋) 南木 佳士 著

  • 2018.05.25 Friday
  • 11:27

『小屋を燃す』  (文藝春秋)

  南木 佳士 著

 

   ⭐⭐⭐

   とりとめのないゆったりとした老境

 

 

芥川賞作家で医師でもある南木佳士の連作短編集です。

帯には「南木物語の終章」と書かれているのですが、

南木自身と重ねられる語り手の老境がこれということもない日常から浮かび上がります。

 

本書には4編の短編が収録されていますが、

前半の「畔を歩く」「小屋を造る」は書き下ろしで、残りは「文学界」に掲載された作品です。

南木の小説を読んだのが初めてなので、単に読みが浅かったのかもしれませんが、

全編を通して、味わいの「淡さ」が逆に印象的でした。

随筆と小説の区別が曖昧なスタイルは、古井由吉などを代表として、日本では珍しくもないものですが、

物語性を捨てて作者の感慨を前面に出すスタイルのはずが、南木自身の感慨が非常に「淡い」のです。

 

「畔を歩く」は語り手である医師が、長野の総合病院を退職するにあたり、去来する思いを綴ったものです。

語り手の記憶がとりとめもなく展開していくため、この話はいつのことなのか把握が難しく、

そのうえ、語り手自身の私生活は影をひそめるわりに、患者の人生が唐突に入り込んでくるので、

これが誰の話であったかも見失いそうになる瞬間があります。

小説があまりうまくないといえば、そうなのかもしれませんが、

他人など存在しないかのように「自分語り」に勤しむ若い世代の文章にウンザリさせられているだけに、

僕としてはこういう老境の「淡さ」が興味深く、そして貴重に思えました。

 

適当に目についた文を引用します。

 

 丁さんは小屋の構造のあまりの脆弱さに、腰に手をあてて甲高く笑った。

 

 だれだよなあ、こんなちゅっくれえなもん建てた連中は。

 

 笑いの果ての腹の底に力のこもらぬ発語は、これも廃材で制作されたすのこを何枚か敷き詰めて床とし、丙さんの手によって解体現場から直接持ち込まれた粗末な椅子とテーブルと食器棚を備えたこの小屋の常連だった丁さんの、なんだ、おれはこんなところに何年も通って焼酎を呑んでいたのかよお、との自嘲を含むらしい。

 

カギカッコを使わないで行空けをしてセリフを書いたり、

むやみに文節をつなげて長々しく文章を書いて茫漠としていたり、

あまりうまい文という印象は持てないのですが、

それでも印象を刻むような流行りの短文とは正反対の、屈折のこもった「淡さ」に、南木の年輪を感じないわけにはいきませんでした。

 

登場する患者には人名で呼ばれる人も登場するのですが、

語り手の仲間の人物たちは、甲さん乙さん丙さん丁さんとだけ記述され、

読者が彼らをキャラクターとして把握することを拒むように描かれています。

キャラの薄い人々が小屋を造り、小屋を壊すだけの話など、

あまりにとりとめがなさすぎて多くの人にウケるとは考えにくいのですが、

ときにこのような日本らしい小説が読みたくなるので、

できれば芥川賞経由の純文学というジャンルは生き残ってほしいものです。

 

 

 

評価:
南木 佳士
文藝春秋
¥ 1,620
(2018-03-29)

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版) A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 23:22

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版)

  A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   大人が自然に読める訳文

 

 

A・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は多くの人の手で訳されていて、

現在Amazonで調べても10冊以上の版が並んでいます。

さらなる新訳が必要なのか疑問になるところですが、

有名な内藤濯訳を持っていたのですが、気になって購入してみました。

 

内藤訳の『星の王子さま』はこんな感じで訳しています。

 

王子さま,あなたは,はればれしない日々を送ってこられたようだが,ぼくには,そのわけが,だんだんとわかってきました。ながいこと,あなたの気が晴れるのは,しずかな入り日のころだけだったのですね。

 

同じ箇所の芹生訳はこんなふうになっています。

 

小さな王子よ。

わたしはこんなふうにして、きみの幼い人生の悲しみを、少しずつ知るようになった。きみの心が本当に休まるのは、もうずっと前から、日が沈むのを眺めているときだけだったのだね。

 

並べてみるとかなり違うものですね。

僕は原書を持っていないので、どちらが原文に近いのかはわかりませんが、

おそらく訳の正確さの問題ではなく、描きたい世界の違いが反映しているのだと思います。

 

目につく違いを挙げると、語り手の一人称を内藤訳では「ぼく」、芹生訳では「わたし」と訳しています。

芹生は「訳者あとがき」で、これまでの訳が語り手と王子を対等の関係として描いてこなかったのが不満だった、と打ち明けています。

たしかに内藤訳では「送ってこられた」という王子に対する尊敬語が用いられています。

王子とはいえ相手は子供です。

語り手が子供を対等に扱うのは、相手が「王子」という地位にあるからではなく、

語り手が子供を侮らずに大人と対等な存在として考えているためであるからです。

それを表現するために敬語を使わずに対等の友情関係として描こうという姿勢は理解できます。

同様の理由で、芹生は内藤訳にあるような「王子さま」の「さま」という敬称を省いています。

 

芹生訳は内藤訳のように子供向け童話というスタンスをあまり意識していないため、

ひらがなの多用や子供向けの表現のわずらわしさがありません。

そのため、大人が自分の感覚で読むのに適しているという印象です。

内藤訳のような横書きではなく、縦書きになっているのも読みやすさにつながっているかもしれません。

 

作品内容に関しては、説明すると味気ない感じになってしまいます。

大人はいろいろな夾雑物に邪魔されて、物事の真実がわかっていません。

真実は純粋な心が感じ取るところにあるのです。

「目で見たって、なんにも見えないんだ。心で探さなくちゃ」と小さな王子は言います。

 

最近、東大卒のエリートによる不祥事が後を絶ちません。

経歴が立派でも中身が立派な人とは限らないのですが、

われわれはつい見えている部分に依存して判断しがちです。

『星の王子さま』に照らして言えば、ボアが飲み込んだゾウを見ることができずにいるのです。

話題性などの他人の評価に左右されているだけでは大事なものを見失うばかりです。

 

今や『星の王子さま』は大人こそが読んだ方がいい本となっているのかもしれません。

 

 

 

評価:
サン=テグジュペリ
阿部出版
¥ 1,512
(2018-04-02)

『HHhH(プラハ、1942年)』 (東京創元社) ローラン・ビネ 著

  • 2018.04.11 Wednesday
  • 22:31

『HHhH(プラハ、1942年)』  (東京創元社)

 ローラン・ビネ 著/高橋 啓 訳

 

   ⭐⭐

   完読まで4年かかってしまった

 

 

僕が本書を読み始めたのは2014年なので、今日読み終えるまで4年の時間がかかっています。

大作でもない作品にこれだけ時間を要したのは、シンプルにつまらなかったからとも言えますが、

2014年当時はけっこう評判の作品で、帯にも賛辞が並んでいます。

 

本書は変な書名をしています。

「HHhH」とは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味するドイツ語の頭文字です。

ラインハルト・ハイドリヒはナチスの高官で、チェコの総督代理を務めた人物です。

ユダヤ人問題の最終解決を発案したのも彼だと言われています。

ハイドリヒはロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだ暗殺部隊によって殺されました。

本書はこの暗殺事件をクライマックスとした歴史小説なのですが、

著者自身が本書を書くプロセスをまじえて小説化しているところが、評価を受けた要因なのはまちがいありません。

 

M・バルガス・リョサが「傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と賞賛しようが、

僕はこの作品が偉大だとも傑作とも思いませんでした。

その理由は、フランス人らしいポストモダン的手法で知的な演出をしているため、

知的な興味以外を引き起こさない傍観的小説でしかないからです。

結果、反ナチズムという「正義」によって助けられた小説というのが僕の印象で、

別の題材で同じことをやっても、これほどの評価は得られなかったのではないかと感じています。

(フランス人はもちろん、ユダヤ人やチェコ人の喝采を得られるよう計算されていた気がします)

 

まず、大きな問題はこの小説が断片の集まりで構成されていることです。

通し番号で257の章段で構成されているのですが、そこに作者の創作談話と歴史記述がごちゃまぜになっています。

いわゆる歴史小説は時系列に物語が進んでいくため、読者が自身を歴史世界へと「投企」することになるのですが、

それが断片化して書き手の自意識に吸収されるため、歴史のスリリングさは体験できません。

この自意識を書き手が歴史と誠実に向き合う葛藤だと感じられれば、賛辞も寄せられるでしょうが、

残念ながら僕にはそのような「誠実さ」はそれほど感じませんでした。

むしろ、前述したようにポストモダン的な手法を用いたために、非歴史性が表面化した内容になっています。

 

具体的に言えば、ハイドリヒという人物は「金髪の野獣」と恐れられた人物のはずなのですが、

書き手の興味は、生きた人間ハイドリヒではなく、断片化したハイドリヒというキャラへのオタク的関心であるため、

読者はハイドリヒや彼の引き起こした歴史的事実の恐ろしさをあまり感じることがありません。

つまり、著者であるビネは恐ろしい歴史と安全な距離を確保したまま、

傍観者の立場を明確にした人間不在の小説を書いているようにも見えてくるのです。

この小説に登場する歴史人物はみんな自分とは無関係な遠い人に思えます。

だから、彼らが死んでも特に胸が疼いたりはしませんでした。

 

本書のような傍観的な立ち位置だと、クライマックスの暗殺場面は臨場感を失ってしまいます。

どうするのかと思ったら、その場面になったら断片化を捨てて普通に歴史小説的な記述を始めるのです。

そんな「おいしいとこだけ歴史小説」みたいなつまみ食いで騙されるかよ、と思いました。

暗殺者たちの最期も語り手が読者を置いてきぼりにして自ら感傷的な語りを始めるので、

こちらはシラけてしまいます。

 

利口ぶった「歴史小説を書くとはどういうことか」などという自己言及的な問題は、

本来、歴史小説そのものの中に居場所を持つべきではありません。

すぐれた歴史小説は作者はもちろん読者をも当事者にしてしまうものです。

自己言及がメインになって歴史のただ中に踏み込めない小説など、力量のない筆者の陳腐な小手先の芸でしかないと思うのですが、

この程度のものが評価されてしまうのは、逆説的ですがナチスの悪の力あってのことだと感じます。

 

断片的であるために、細切れに読み進めて4年かけて読むことができたわけですが、

他人の知的な興味にいたずらに付き合わされたような読後感でした。

歴史を題材とした知的な小説であることは認めても構いませんが、

歴史小説としては駄作と言えると思います。

 

 

 

『戦う操縦士』 (光文社古典新訳文庫) A・サン=テグジュペリ 著

  • 2018.03.29 Thursday
  • 12:56

『戦う操縦士』 (光文社古典新訳文庫)

  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著/鈴木 雅生 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   不毛な任務に死を賭して挑んだ作家が信じたもの

 

 

『星の王子さま』で多くの人に夢を与え続ける作家A・サン=テグジュペリのもう一つの顔は現役飛行士でした。

はじめは民間の郵便飛行士でしたが、ナチスドイツとの開戦後、自ら戦闘部隊への転属を志願し、偵察機のパイロットになりました。

その偵察部隊での体験をもとに書いた小説が本書です。

 

冒頭は聖ヨハネ学院時代ののどかな回想から始まるのですが、

サン=テグジュペリは圧倒的なドイツ軍の前に敗色濃厚のフランスの悲愴な現実へとすぐに引き戻されます。

ドイツ軍の占領地を越えてアラスへと飛行する決死の偵察任務が言い渡されるのです。

この小説はサン=テグジュペリが実際に敢行して戦功十字勲章を受けたアラスへの偵察飛行の一部始終を描いています。

臨場感のある戦場を描いた小説であることに違いないのですが、

注意深く読めば、戦記物のスリルとは縁遠い思索的な内容であることが理解できると思います。

 

僕が本作を読んで気になったところは、

サン=テグジュペリの戦場経験による思索が、いわゆる〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想と地続きにあることです。

たとえば全体性を奪われた細部や断片性こそが真実であるという認識。

 

ただ、いまの私には、きちんと考えるために必要な概念も、明晰な言語も欠けている。矛盾を通してしか考えられない。真実は千々に砕けてしまい、私にはそのばらばらになった破片をひとつ、またひとつと考察することしかできない。

 

もちろん、この断片性は肯定的に捉えられているわけではありません。

「断片はひとの心を動かしはしない」とサン=テグジュペリは書いています。

静けさの中で死者が全体を取り戻し、そこでようやく真の悲しみが訪れる、とも言っています。

 

だから出撃をひかえた私にしても、西欧とナチズムの闘争、などといった大それたことに思いを馳せているわけではない。すぐ目の前にあるもろもろの細部について考えているだけだ。アラス上空を七〇〇メートルという低空で偵察飛行する愚劣さ。われわれに期待されている情報の無意味さ。身支度の面倒さ。まるで死刑執行人を迎えるために身づくろいをしている気持ちだ。

 

こう書かれているように、断片性や細部だけの無意味さを生きることは、死を待つ深い絶望と深く結びついています。

日本の無知なポストモダン学者は、その思想のルーツがこのような戦争経験によってもたらされていることを全く理解せず、

それが近代批判の賜物であるかのように誤解しています。

ツイッターごときを断片性として語ったり、無意味であることがオシャレであるかのような発想は、

本書を読めばどれだけ能天気なお子ちゃまの勘違いなのかが実感できるのではないでしょうか。

つまり、ポストモダンとは近代の末路である戦時中と地続きにある思想だと考えるべきなのです。

 

本作ではポストモダン的な「スーパーフラット」について語る場面も見られます。

 

それに一〇〇〇万の人間が訴えても、結局はただの一文に要約されてしまう。どんなことも一文ですむのだ。

「誰それのところに四時に行くように」であっても、

「一〇〇〇万人が死んだとのことだ」であっても、

「ブロワが炎上中だ」であっても、

「運転手が見つかりました」であっても。

どれもこれも、みな同一平面上に置かれているのだ。それも最初から。

 

すべてが同一平面に並べられてしまうスーパーフラットな価値観も、

ポストモダン以前の戦時中にそのルーツが確認できるわけです。

世界大戦の負の記憶を忘却したポストモダン思想にいかに価値がないか、よくわかると思います。

 

ポストモダンをバブル経済の只中で「新しい」現象として肯定的に受け入れた80年代の日本人と違って、

サン=テグジュペリは戦争というポストモダン的な現実を否定すべきものとして捉えています。

当然ながら、日本のポストモダン精神とサン=テグジュペリの精神とは立ち位置が全く逆になります。

だからサン=テグジュペリは日本のポストモダンが陥った偏狭なナショナリズムとも無縁です。

 

私は信じる、個別的なものへの崇敬は死しかもたらさないことを。──それが築くのは類似に基づいた秩序でしかないからだ。《存在》の統一性を、部分の同一性と混同しているのだ。大聖堂をばらばらに壊して、石材を一列に並べてしまう。したがって私が戦うのは、それが誰であれ、他の習慣に対してある個別の習慣だけを押しつける者、他の国民に対してある個別の国民だけを押しつける者、他の民族に対してある個別の民族だけを押しつける者、他の思想に対してある個別の思想だけを押しつける者だ。

 

戦闘のただ中で彼は普遍的な存在である《人間》の尊厳について力説していきます。

「私の文明が立脚しているのは、個人を通じての《人間》の崇敬だ」と述べて、

石材の総和では説明がつかない大聖堂の存在が、個々の石材に豊かな意味を与えるように、

個人を超越した《人間》こそが文化の本質であり、その再興が必要だとするのです。

 

サン=テグジュペリはアメリカの参戦を促すために本書を携えて渡米しました。

そのため、普遍的な人間の連帯を訴える必要があったと考えることもできますが、

そのような功利的な計算がサン=テグジュペリに似合わないことは、彼の熱心な読者には理解できるところだと思います。

彼は飛行機に「子供が母親に対して抱くような愛情を感じる」と書いていますが、

コクピットという子宮において、神秘体験に近似した恍惚状態となり、

ある種の啓示を得るというのがサン=テグジュペリの文学の核だと僕は思っています。

彼の憑かれたような熱弁は神秘主義者のそれであって、

全身で、それも命懸けで体感された啓示は、頭で考えただけの言葉を簡単に凌駕してしまいます。

彼が言葉だけの《人間主義》を批判し、行動の優位を語るのはそのためです。

 

自らの《存在》を築きあげるのは言葉ではなく、ただ行動だけなのだ。《存在》というのは言葉の支配下にあるのではなく、行動の支配下にある。

 

このあたりまでは共感を持って読み進められるのですが、

ここからサン=テグジュペリが行動のうちで最も重要なものが「犠牲」だと言い出すに至って、

現代の読者は非常に用心して読み進める必要が出てきます。

共同体のために命を捧げることが尊厳ある人間だと読むことができるからです。

 

友愛は犠牲のなかにおいてのみ結ばれる。自分より広大なものへと共に身を捧げることによってのみ結ばれる。

 

戦争のさなかに書かれた本作は、こうして動員の論理に吸収される面を持つことになります。

「私は昔から傍観者というやつが大嫌いだった」と語るサン=テグジュペリは、

ナチスと戦わずにアメリカに亡命し傍観者となったアンドレ・ブルトンを手紙で批判しているのですが、

彼がマルセイユ沖で散っていき、傍観者の方が生き残るのが歴史というものの裏側なのかもしれません。

その結果、〈フランス現代思想〉がサン=テグジュペリの啓示を動員の論理として退け、

普遍性を放棄した反人間主義による個のメタ化を称揚することで、

平和で貧しい現実を傍観的に肯定することが正しいことであるかのように主張してきました。

 

かくして文学や思想は貧しい現実を後追いするだけとなり、実質的には死に絶えました。

いまや文学や思想は自分を売り込みたいだけの商売人たちや、実社会に適応できない人のルサンチマンを解消する道具に成り下がっています。

出版社は利益を上げるために、そのような人間を利用するだけで、文化を保存する気概すらありません。

 

人間の普遍性を放棄したからといって、戦争がなくなることはありませんでした。

動員の論理には僕も反対ですが、それに繋がる危険性を理由として、

普遍的な《人間》の価値は放棄されるべきものではないと思います。

そのためには本作をいかに「正しく」読むかが重要になってきます。

サン=テグジュペリは共同体のために死ぬことを価値としたわけではありません。

個人を超越した普遍的な《人間》の尊厳を見直すことを訴えているのです。

 

私は戦う。《人間》のために。《人間》の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。

 

サン=テグジュペリが最後に「自分自身にも抗して」と書いたことの意味を、われわれは考える必要があります。

安直な個人の自己満足を超えるものが存在しなくなった人類を、彼は「白蟻の群れ」と書きました。

われわれが「白蟻」にならないためには、まず何よりも自分自身に抵抗する必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

評価:
アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ
光文社
¥ 950
(2018-03-07)

『文選 詩篇 (一)』 (岩波文庫) 川合 康三 他訳注

  • 2018.03.24 Saturday
  • 22:18

『文選 詩篇 (一)』 (岩波文庫)

  川合 康三・富永 一登・釜谷 武志 他訳注

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   中国古典文学の規範となった『文選』が文庫で読める

 

 

『文選』は中国南北朝時代に興った梁の蕭統(昭明太子)が526年から531年にかけて編纂した総集(文学アンソロジー)です。

戦国時代から秦・漢・魏・晋・南朝宋・南斉・梁にわたって、規範となるべき詩が集められています。

もとは全30巻であったものが、唐の李善によって60巻に分けられました。

そのうち詩篇にあたる19巻から30巻までを、岩波文庫版では全6冊で刊行していくようです。

 

本書には収録されていませんが、当時の文学ジャンルは広範で、

公的な言辞や実用的な文書である命令書や意見書も『文選』には収録されています。

実用的な文章にも文学的修辞がほどこされたりする中国では、

文学が政治的実用性と深く結びついていたのですが、『文選』の編纂からもその姿勢がうかがえます。

そのような文学的伝統を考えれば、漢詩をただ美的に享受する読み方は、

近代的な詩概念に毒された表面的な理解でしかないかが明らかになります。

(詩が物質的で人間不在だとか得意気に言う人は、ツラばかりデカい不勉強なオタクだということです)

 

『文選』はそれ以後の総集を編纂する基準として利用され、唐では科挙の試験勉強に必須のテキストとなります。

そうして盛唐期には確固とした地位を確立します。

杜甫が自分の詩の中で『文選』を褒めたたえていたことも、僕の印象に残っています。

北宋になって蘇軾が『文選』の批判を展開しますが、これも『文選』を権威化しすぎた人々への反発があったように思います。

蘇軾は昭明太子の編纂が無秩序で取捨選択も適切ではない、と手厳しいのですが、

音楽CDのベスト盤の収録曲に不満を持つ人は当然いるものです。

 

『文選』には屈原、宋玉などのビックネームに加えて、

刺客として秦の始皇帝暗殺を計った荊軻や、漢の高祖劉邦の詩と言われるものもあるのですが、

これらは本書には収録されていませんので、続刊に期待します。

本書の読みどころは唐以前の最高の詩人と名高い曹植の詩が6篇収録されていることです。

兄である魏の文帝(曹丕)との葛藤に苦しんだ曹植の姿が、切実さを湛えた詩句から浮かび上がってきます。

 

『文選』に詩が40篇も収録された南朝宋の謝霊運は「山水詩」と言われる叙景詩の元祖ですが、

謀反の嫌疑をかけられて最後には処刑される悲劇の運命を辿ります。

解説にも書かれていますが、彼は風景を純粋に美的な対象として描いてはいません。

汚濁にまみれた世の中から離れて、自然の中にあるべき真実を見出そうとしています。

 

西晋の左思も容姿にも恵まれない不遇な人物でしたが、

本書に収録されている彼の「詠史八首」は、自身の憤懣を美しい対句で表現しています。

(中国人の美意識を考えるときに、対という要素は欠かせません)

このように政治的に不遇な人物の思いを、漢詩によって社会に再回収する中国文化のあり方が、

可視化された現体制の評価を絶対化しがちな日本人と違い、

体制外の潜勢力を貪欲に掘り起こすことにつながっていると僕は思います。

 

中国は王朝の交代が頻繁であり、社会基盤に一神教の宗教もないため、

政治権力の相対性が文化の中にも刻み込まれています。

たとえ現体制において政治的に評価されなくても、政治体制より広範な「文化」によって回収され、

他の体制において花開く可能性をもつ潜勢力として記録に残されていくのです。

つまり、古代中国では文化が政治以上に包括的なものとして理解されていたのです。

(たとえ異民族が王朝を建てても、漢民族の文化システムが異民族体制までも吸収したことを考えればその威力は歴然です)

残念ながら日本には既存体制のイデオロギーを超える「文化」があったとは思えません。

だから、レベルが低かろうが世に流通すれば優れている(売れてる=正義)という短絡的発想が信じられてしまうのです。

 

古代日本人も学んだ中国古典を読むことは、日本のルーツを訪ねることでもあります。

そこには古代日本人が吸収しなかった要素があるはずなので、

それを再回収して現代に活かすこともできるのではないでしょうか。

 

 

 

『ハウスキーピング』 (河出書房新社) マリリン・ロビンソン 著

  • 2018.02.14 Wednesday
  • 08:37

『ハウスキーピング』  (河出書房新社)

  マリリン・ロビンソン 著/篠森 ゆりこ 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   孤独が発見する恐ろしくも豊かな世界

 

 

ロビンソンが37歳の1980年に発表され、PEN/ヘミングウェイ賞作品となった本作が、

今になって新刊として翻訳が出るのは不思議な気もしましたが、

2作目が2004年、3作目が2008年、4作目が2014年の刊行と最近の活躍が目立つ上に、

オバマ元大統領の愛読書として知られるようになったからなのでしょう。

 

2作目まで20年以上も要したのは、何を書いても処女作と似たものに思えたからだそうなので、

いかに本作『ハウスキーピング』が処女作にして達成された作品であったかがわかります。

(二番煎じと感じたら出版しないのも立派です)

 

本作の主人公はルースという女の子です。

舞台はアイダホ州のフィンガーボーンという自然豊かな架空の田舎町です。

駅員だったルースの祖父は機関車事故で湖の底に沈んでしまい、

そうして未亡人となった祖母に育てられたルースの母も、自動車で崖から湖に飛び込みます。

ルースとその妹ルシールはしばらく祖母とフィンガーボーンで暮らしますが、

祖母の死後、行方不明だった叔母のシルヴィがハウスキーピングにやってきます。

 

こう書いただけでもこの家族が女性ばかりなのがわかると思います。

叔母のシルヴィがジプシーのような変わり者であるため、

この奇妙な同居生活が様々な亀裂をもたらしていきます。

 

ただ、この小説は純粋にストーリーを楽しむだけではもったいないと思います。

ルース一家は周囲から孤立し、ルース自身も友達のいない孤独な存在です。

「孤独というのは究極の発見なのだ」とルースが言うように、

彼女はひとりきりで広大な自然や世界とじかに触れ合いながら、詩情豊かなイマジネーションの世界を生きています。

たとえば祖父と母の沈んだ湖は、ルースにとっては先祖を含めた死者たちの居場所です。

フィンガーボーンを襲った洪水がノアの箱船の洪水に比せられるのは、彼女が多くの死者たちの上に立つ孤独な生者だからです。

このような生活世界との境界をイメージ豊かな描写で綴っているのも、この作品の大きな魅力だと思います。

 

小説なので詳しくは書きませんが、ラストも秀逸でした。

「訳者あとがき」は本作の多くの文学作品からの影響などが書かれていて、

ロビンソンの文学的ルーツを理解するいい手助けになります。

 

 

 

評価:
マリリン・ロビンソン
河出書房新社
¥ 2,592
(2018-02-12)

『闘争領域の拡大』 (河出文庫) ミシェル・ウエルベック 著

  • 2018.02.12 Monday
  • 14:32

『闘争領域の拡大』 (河出文庫)

  ミシェル・ウエルベック 著/中村 桂子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   処女作にはその作家のテーマが素直に出る

 

 

ミシェル・ウエルベックの処女小説の文庫化です。

単行本が出たとき買おうかどうか逡巡している間に絶版になってしまったため、

正直、河出書房新社には文庫化を期待していました。

非常にありがたいことです。

 

処女作にはその作家のテーマが如実に現れることがありますが、

本書を読むとやはりウエルベックにも一貫したテーマがあると感じます。

 

『性的行動はひとつの社会階級システムである』

 

この文句は作中においてゴシックで強調された唯一の文ですので、

誰でもウエルベックが主張したいのがこれなのだと理解できます。

もう少し詳しく語っているところを引用しましょう。

 

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。(中略)経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。

 

本書のテーマは明らかに「モテない」ことです。

経済的格差と同様に、セックスの機会にも格差が存在することを取り上げているのです。

ただ、ウエルベックが描く主人公自身はモテないことで悩んでいる気配はありません。

たしかに主人公は前の彼女と別れて2年以上性交渉がないのですが、

彼はそのような「性をめぐる現実」に明らかに嫌気がさしているという様子なのです。

そのため、彼の視線は性的格差の「負け組」、つまりセックスから隔てられた人たちに注がれます。

翻訳者の中村桂子は「訳者あとがき」で、そのような主人公の視線を「同情」と表現しているのですが、

「同情」では自身の問題ではないように思えてしまうので、表現としては不適切ですし、

ウエルベックの露悪的とも言える描き方を無視することになってしまいます。

 

僕はウエルベックの特徴はニヒリズムにあると思います。

ウエルベックは性的な関心が強い作家ですが、同時に性に対する拭いがたいニヒリズムを持っています。

それが現実に対するニヒリズム、西洋文明に対するニヒリズム、生に対するニヒリズムへと拡大しているのです。

セックスなどくだらない、そう感じつつあくせくとセックスの相手を物色する、

そんな「男」という存在(おそらくウエルベックは女の実存には関心がない)に対するニヒリズムが、

貨幣経済との関係で成立していることをウエルベックは直感的に感じ取っているのです。

(貨幣と女性の交換が相同的であることにも注意する必要があります)

 

その現実に対する嫌悪が露悪的な人物描写へとつながっています。

ブリジット・バルドーという名前のデブの女の子のエピソードなどはその典型と言えるでしょう。

彼は性的「負け組」に対して、死んでいく虫を見るような「憐れみ」を抱いているのですが、

これはいわゆる「同情」とは別のものです。

ウエルベックは人間が人間であろうとする努力を尊重する気がないように見えます。

 

しばしば人は、細かい、うんざりするような差異、欠陥、性格の特徴、その他諸々で、ことさら自分を目立たせようとする(おそらく相手に自分をひとりの人間としてきちんと処遇させるために)。

 

「自分をひとりの人間としてきちんと処遇させる」努力を突き放す書き方はなかなかのものだと感じました。

僕もネットで顔が見えないかたちで書いていると、とんでもない暴言を浴びせられることがあるのですが、

人間は自分のことは「きちんと処遇させ」たがるくせに、他人に関しては平気でそれを踏みにじるものだと感じます。

いや、自分のことを目立たせようとする人ほど、他人を踏みつけにする気がします。

考えてみれば、他人を踏みつけることと自分を目立たせることは切り離せないわけですから、それも当然かもしれません。

ウエルベックもそのように感じているのでしょうか。

 

本作の主人公は顔の見える範囲の生活で、信頼する人間はほとんど一人もいないような描かれ方をしています。

人間嫌いなのに、性的欲望を満たすために人間とのコンタクトを必要とするという矛盾、

つまり、人間は嫌いでも性的対象となる「異性」は徹底的に嫌うことができない、

それがウエルベック的な問題の核心だと僕は思います。

こうして、性的パートナーに出会うことのない主人公は静かに精神を病んでいくのです。

 

直接に本作とは関係ありませんが、

ウエルベックの仮説を信じれば、日本のワイドショー的欲望についても別の側面が見えてきます。

 

何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。

 

芸能人の不倫スキャンダルを厳しく糾弾する態度は、金持ちの資産独占を許さない態度と変わりがないのです。

不貞を禁止すればモテない人にもチャンスが訪れる確率が高まります。

これを単にモテない人のひがみと言うべきでしょうか?

本来、結婚制度は最大公約数の幸福のためにあるのかもしれない、と本書を読んで考えさせられました。

 

 

 

評価:
ミシェル ウエルベック
河出書房新社
¥ 950
(2018-02-06)

『小指が燃える』 (文藝春秋) 青来 有一 著

  • 2018.02.06 Tuesday
  • 23:07

『小指が燃える』 (文藝春秋)

  青来 有一 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   戦場を描くことの難しさ

 

 

本書には出身地である長崎のキリシタン弾圧と原爆の記憶を書き綴る芥川賞作家、青来有一の作品が二編おさめられています。

最初の「沈黙のなかの沈黙」は短編で、表題作である「小指が燃える」は中編くらいの長さです。

 

「沈黙のなかの沈黙」は、語り手が隠れキリシタンの葬儀に出席したエピソードから始まります。

そこで捨てられた週刊誌のグラビアを見かけるのですが、

その裸エプロンの「彼女」と語り手の暗い欲望のような「彼」が、エロチックな想念をまとった幻として、

語り手の前に時折出現するようになります。

といっても、幻想的な物語ではなく、きわめて私小説的な体裁で書かれています。

 

語り手はその抽象化された男女を小説に描こうと考えているうちに、

「潜伏キリシタン」と「カクレキリシタン」の区別を提唱する大学教授の説へと思索を深めます。

幕府の弾圧を逃れてキリスト教の信仰を守った人々が「潜伏キリシタン」、

信仰が自由になった後も、古来の信仰の形を続けている人々を「カクレキリシタン」とするようですが、

語り手は最初の葬儀は「カクレキリシタン」による潜伏時代の儀式だったことに思い当たります。

この説自体もなかなか興味深い話でした。

 

しかし、この説によって青来は自分の小説に問題がなかったか問うことになります。

 

私が探し求めた信仰と迫害をめぐるドラマが、私の内に溜まった隠れキリシタンという虚像にもとづくものであったとしたら、私はずぶずぶと物語の深みに沈んでいくだけだろう。

 

疑念にとらわれた語り手に「信仰など根づくことのないこの国へのあきらめと絶望」が浮かび上がり、

遠藤周作の小説で宣教師がつぶやいた「沼地」という言葉が、重くのしかかります。

 

僕はこういう青来の倫理的葛藤を読むのが好きなのかもしれません。

青来の小説には取り立てて文学的センスがあるとは思いません。

言ってしまえば凡庸ではあるのですが、おそらく当人がそれをよく自覚していることが、

文学の世界が彼を受け入れている要因だと感じます。

凡庸さが詩的、文学的に奉仕することがあるとしたら、それは倫理においてではないでしょうか。

文学が立たされている危機と向き合っているのも、誠実に感じます。

 

私はこれまでのことをふりかえって考えてみたが、やはり、なにかを恐れている「私」を見いだすのだった。今も書くことで金を儲けたりしてはいけないという不安というか、なにかぼんやりとした禁忌の意識、タタリとはちがうが、それを神聖だと考えてもいる……、

 

物語も大量に流通することで世界を変貌させてしまう。小説は売れすぎてはいけない。何百万、何千万部のベストセラーなんてそれだけで罪ではないか。作家は売れないことを悩むよりも売れることを警戒しなければならない。

 

無数の物語のかたすみにひっそりと眠り、たまに見つけられて読まれるくらいが本にはちょうどいい、と語り手は述べるのです。

もちろん、青来は自分の本が売れないことを正当化しているわけではありません。

出版社と関われば、売れないと申し訳ない気持ちにならないはずはありません。

つまり、彼は倫理的な真実として言っているのです。

 

文学をやってます、という顔で、エンタメ作品へと移行して読者に媚びたり、やらなくてもいい翻訳を出したり、

セールス主義と戦うこともなく敗北する欺瞞作家が多い中、

青来は文学的な態度とは何であるのかをいつも考えています。

そこには才能やセンスよりもっと重要なものがあると僕は思います。

 

しかし、表題作の「小指が燃える」の方は中途半端な印象を受けた作品でした。

冒頭で、しがらみ書房の戸陰という人物が青来自身を思わせる語り手のもとを訪れ、無償での出版を打診するのですが、

この村上春樹の小説に出てきそうな概念的人物によって、エンタメ的な期待を含んだ展開になっていきます。

語り手は過去の作品をリメイクすることにし、南島の戦場で戦死した仲間の小指を持ち帰る兵士を描くのですが、

語り手は戦場に美を感じるネクロフィリア的性向を持っているため、そこに葛藤します。

敬愛する作家の林京子を思わせるHさんにも、戦争の被害にあった人ではなく遠い戦場の美を描くことを詰問されます。

 

小説の内容は、これまでの青来作品とつながった内容なので、彼の作品になじんだ読者には違和感はないと思うのですが、

途中に戦場を描くリメイク作品が挿入されたり、戸陰との書くことをめぐるやりとりがあったり、犬がHさんの顔となって話しかけたりと、

この小説を単体で読んだ人には焦点が拡散して落ち着きどころがない作品になったのではないかと思います。

 

虚無的な戦場に美しさを見てしまう、という個人的性向の非倫理性と、

戦争を直接体験していない人間が戦場を描くことの申し訳なさと、

売れる小説を書くことができないもどかしさとが、ひとつながりになって、

もはや「書く」ことが苦痛であるような領域で語り手は作品のリメイクを続けます。

ですが、虚構性が強いキャラクターで始まった物語だけに、それほど重い気分に読者を誘い込むでもなく、

作者一人が苦しんでいくような展開になります。

 

語り手はHさんに「あなたそのものにまちがいがあるのよ」と責められて苦しみます。

戦争で破壊された都市や、おびただしい数の腐乱した死骸に美を感じてしまうため、

戦争を甘いおとぎ話として書いている、と批判されるのです。

 

過去を忘れるというのはただ忘れることではないわ。真実をつごうのよい物語に変えてしまうことなのよ。わたしはそれをずっと拒んできたの。

 

このHさんの言葉は確かに重いのですが、語り手は思い悩むことしかできません。

その葛藤は倫理的ではあるのですが、対抗すべき信念を模索することもなく、受身にとどまっています。

 

戦場に美を感じるなら、思い切ってそんな描写を徹底的にやってほしかったですし、

葛藤するなら肉体的苦痛として伝わるくらいに、強く葛藤してほしい気がしました。

戦場の描写もそうなのですが、青来の筆致には唯物論的な身体性がぽっかり抜け落ちたところがあり、

切り落とした小指に、宝石のようなフェティッシュな魅力をまとわせるには至らなかったように思います。

 

『爆心』のような物語のスタイルが俗だと青来は感じているのかもしれませんが、

随想的なスタイルでただ「頭で考えていること」を書くだけでは、

観念に飲み込まれて小説に力がなくなるように感じました。

 

 

 

評価:
青来 有一
文藝春秋
¥ 1,944
(2017-08-07)

『ユートロニカのこちら側』 (ハヤカワ文庫SA) 小川 哲 著

  • 2018.01.22 Monday
  • 12:21

『ユートロニカのこちら側』  (ハヤカワ文庫SA)

  小川 哲 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   安楽な社会への抵抗

 

 

1986年生まれで東大大学院在籍の小川が、ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞したデビュー作です。

情報企業のマイン社が管理するサンフランシスコの特別区、アガスティアリゾートを舞台に

展開する6つの連作短編を収めています。

「ユートロニカ」という語は「ユートピア」と「エレクトロニカ」を組み合わせた造語だそうです。

 

アガスティアリゾートが一種のディストピアとして描かれるのは、

そこに居住する人々が、視覚、聴覚などの感覚情報や位置情報などをマイン社の情報銀行に売り渡して、

企業(というか自治体管理者)にほぼ無制限の監視を認める、管理社会となっているからです。

 

もちろん、このSF的設定は架空のものですが、きわめて現実社会と近いところにあるというのが重要です。

というのも、僕が読んだところ小川の関心は、

G・オーウェルの『1984年』のようにディストピアの息苦しさを描くことにではなく、

まちがった社会に対して「個人」がどのように抵抗していくかを描くことにあるように見えるからです。

つまり、小川はアガスティアリゾートを現代社会のつもりで描いているということです。

 

連作短編の核は提供された情報から犯罪の可能性を予見し、その予防を司るABMという組織にあります。

そこでは実際にはまだ犯していない犯罪を、可能性段階で取り締まるべきかどうかが焦点となっています。

我々の社会でも共謀罪など可能性段階での逮捕を可能にする法律が作られたりしているので、

やはりアガスティアリゾートは現実世界に近似しているわけですが、

そのことが文学的雰囲気を強めるという利点はありながらも、ストーリーの面白さを弱めることになっている気がします。

SFコンテストの審査員の東浩紀は、抵抗者の人物造形が薄いと不満を述べたようですが、

その原因は小川自身の力量よりも現実に近い舞台設定に求められる気がします。

現実社会への抵抗をリアルに考えると、そう面白い解決策が出てくるはずはないのです。

 

興味深かったのは、小川の描く抵抗者がみんな個人(もしくは二人)を単位としていることでした。

彼の描く抵抗行為には「連帯」という視点はほとんどありません。

それから自治体管理者が営利企業である、という点へのこだわりが少ない気がしました。

私企業が管理しているならば、そこは抵抗者にとって大きな攻め所になるはずですが、

そのような視点も不足しているように思えました。

 

少々不満を述べましたが、小川の小説家としての力量は確かだと感じました。文章も明確で無駄がなく、アメリカンな雰囲気を出す比喩も巧みで、

登場人物の描き方も若さを気にしないでいられるものがあります。

 

小川は作中で「ユートロニカ」という造語に「永遠の静寂」という字を当てています。

これは人間が自分のすべてを何かに委ねて、完全に無意識になった状態を指しています。

簡単に言えば子宮回帰状態といえるわけですが、

そんな子宮回帰状態に抵抗する小川が、三世代の父子の話でこの作品を閉じたのは象徴的に思えました。

 

 

 

 

『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF) ケイティ・カーン 著

  • 2017.11.22 Wednesday
  • 21:49

『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF)

  ケイティ・カーン 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   思いのほかに深い味わいのある作品

 

 

事故で宇宙空間に恋人と二人きりで落ちていく。
宇宙服の酸素はそれぞれ90分しか残っていない。
そんな絶望的な状況でこの作品ははじまります。

その後は宇宙空間での二人の生存を模索する場面と、
二人が出会って宇宙に出るまでの過去の経緯とが、
交互に描かれていくことになります。

表紙のイラストがきれいな感じだし、
IT系に勤務していた女性のデビュー長編だというので、
情緒的なラブストーリーが展開するのかと思いましたが、
さすがに早川書房がSFに分類しただけあって、そんな生ぬるいものではありませんでした。

SF的な設定を紹介しておきますと、
アメリカと中東の核戦争後のヨーロッパが舞台となっています。
人類破滅の戦争に懲りたヨーロッパはユーロピアと名を変えて、
各地域(ヴォイヴォダと呼ばれる)を個人が一定期間で移動して回る「ローテーション」という制度を実行しています。
行き過ぎた個人主義とも言えるユーロピアでは、結婚は30代後半まで禁止されているのですが、
20代後半の主人公カップルはこの婚姻規定と衝突することになります。
(恋愛ドラマをヒットさせるには、わかりやすい障害の設定は欠かせませんね)

シャトルから放り出されて宇宙を漂うカリスとマックスの二人にどんな結末が訪れるのか、
その興味で読者はラストまで一気に読まされてしまうのですが、
この作品のドラマは若い二人の過去で展開されます。

個人が「移民」として土地を転々とする生活においては、
人と人との関係も表面的で一時的なものとなります。
ローテーションや婚姻規定などの制約によって、
若者は「愛する人といっしょにいてはいけないと考え、他者との関係はむなしい、実のないものばかり」
と感じ「魂を失いかけている」、とマックスがヴォイヴォダ代表団に訴える場面があるのですが、
このあたりがこの作品のテーマと深く関わっているように感じました。

ここを読んで、僕は著者がIT系勤務だったことから、
インターネット登場以降の社会をイメージしているのではないか、と感じたのですが、
直後に代表団の一人から、
「いまに始まったことじゃない! インターネットの登場以来そうなんだよ!」
というセリフがあったので、僕の勘もそう外れていない気がしました。
SFといっても現代の状況に重なる何かがあるから面白いのですよね。

ラストがどうなっているのかは、読んでいただきたいので書きません。
ただ、僕個人としてはリセット的な「選択」の問題に落とし込んでしまうのはあまり感心しませんでした。
こういう発想はむしろ消費文化的でネット的な表層にとどまるものでしかないと思います。
みなさんがどう読むのかも僕には興味深いところです。

 

 

 

評価:
ケイティ カーン
早川書房
¥ 994
(2017-11-07)
コメント:『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF) ケイティ・カーン 著

『忘れられた巨人』 (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ 著

  • 2017.11.20 Monday
  • 22:08

『忘れられた巨人』 (ハヤカワepi文庫)

  カズオ・イシグロ 著/土屋 政雄 訳

 

   ⭐⭐

   わたしはおもろないで

 

 

カズオ・イシグロがノーベル賞作家というのは正直意外でした。
ノーベル賞らしい政治色もなければ、文学的テーマというほどのものもない、ライトな作家だからです。

僕はわりとブッカー賞の審査は信頼できると感じているのですが、
やはり『日の名残り』は良作だと感じました。
『わたしを離さないで』は僕が原書で読み通せるほどリーダブルで、小説としても面白いものでした。
しかし、本書『忘れられた巨人』は著者のネームバリューなしでは評価されるはずがない駄作だと思います。

舞台は六、七世紀のブリテン島で、いきなり語り手が鬼の話をはじめるファンタジックな世界になっています。
アクセルとベアトリスの老夫婦が主人公で、彼らが息子のいる村を訪ねて旅に出る話なのですが、
そのうちに戦士と出会い、竜退治へと向かう展開になっていきます。

まず冒険ファンタジーとして本書が面白いと本気で思った人は少ないと思います。
そもそも、冒険ファンタジーなら老夫婦が主人公の時点でアウトです。
肝心の竜退治もクライマックスとはならず、瀕死の状態であっけなく殺せました。
アーサー王の円卓の騎士の一人、ガウェインも登場しますが、すでにヨボヨボです。
エンタメとして読んだとして、『わたしを離さないで』以上に面白いという人がいるとは思えません。

老夫婦のラブストーリーとしては満足できるでしょうか。
読みどころがあるなら、ここだと思うのですが、
冒険譚や少年の存在のせいで、ラブストーリーとしても散漫だと言えます。
読者がラストの解釈に困るあたり、老夫婦の愛についても描き切れているようには感じませんでした。

では、文学的意匠にすぐれたものがあるかと考えると、
これも非常に怪しいと言わざるを得ません。
内容に触れていくので、読了した方だけに読んでいただきたいのですが、
本書のテーマが忘却(埋却)なのは題名からもわかると思います。
物語では村人たちに奇妙な物忘れが頻発し、その原因がクエリグという竜による「霧」にあるとなっています。
竜退治によって「霧」が晴れることは本当に良いことなのか、というのが、
イシグロの問いかけだという読み方です。

これにはブリトン人とサクソン人との対立という背景が絡んでいます。
アーサー王がサクソン人を虐殺してブリテン島を統一したため、
サクソン人にはブリトン人への遺恨があったのですが、
「霧」のおかげでそれが忘却されていたのです。
(「霧」が体制側の装置であることは、ガウェインの記憶が健在であることから推察できます)
「霧」が晴れることでサクソン人とブリトン人の争いが再燃することは、本書の中でも触れられています。

しかし、「忘れられた」と邦訳された本書の原題にBuriedが用いられていることから考えると、
bury(埋葬する)をどうしても思い浮かべずにはいられません。
ここで忘却されているのは、死者の怨念だと考えるべきでしょう。

島へ渡るラストが謎であるとか、余韻だとか言われているようですが、
ベアトリスの死への旅立ちを意図したシーンだと僕は解釈しています。
アクセルは死んだ息子の墓参をベアトリスに禁じた(つまりは死者を忘れさせた)ことで、ベアトリスと別れることになったのでしょう。
ベアトリスはベアトリーチェの英語名ですので、ダンテ『神曲』のヒロインに接続します。
アクセルは死者を追いかけて地獄へ行くのか、それとも死者を忘却していくのか……
アクセルという名からは前へと進むイメージしか持てませんが。

まあ、こういった読みができるとは思うのですが、
こういう文学的な読みをしたところで、本作が駄作だという印象は変わりません。
致命的なのは、やはり作品がつまらないということです。
テーマのわりには作品も長すぎます。
エドウィン少年にしても、キャラとしても魅力的でもありませんし、あまり登場の意義がわかりませんでした。

政治的な言説が禁止されているわけでもないのに、
ファンタジックな寓話の形式をとるのであれば、それだけの必然性を感じさせてもらえないと困ります。
そうでないと、単に著者が政治的責任のない形で政治的見解を示そうとしているように感じてしまいます。
個人的にはこの作品をクエリグの霧によって覆い隠してもらいたい気持ちになりました。

 

 

 

評価:
カズオ イシグロ,Kazuo Ishiguro
早川書房
¥ 1,058
(2017-10-14)
コメント:『忘れられた巨人』 (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ 著

『オープン・シティ』 (新潮クレスト・ブックス) テジュ・コール 著

  • 2017.08.23 Wednesday
  • 13:52

『オープン・シティ』 (新潮クレスト・ブックス)

  テジュ・コール 著/ 小磯 洋光 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   多民族都市の切り取られた日常

 

 

ナイジェリアで幼少期を過ごし、アメリカに渡ったナイジェリア系作家のデビュー長編です。
コールはコロンビア大学の大学院で美術史を学び、現在は大学で美術や文学を教えるかたわら、
写真家としても活躍しているようです。

主人公ジュリアスはマンハッタンで精神科医をしています。
父はナイジェリア人、祖母はドイツ人で、幼少期にナイジェリアで過ごしていることから、
読者はジュリアスを作者の分身のように感じることになります。

翻訳者の小磯は本書を「遊歩者」の小説と紹介しています。
ジュリアスはニューヨークやブリュッセルという多民族都市を歩き、
そこで目にしたもの、出会った人の声、浮かび上がる記憶が描かれます。
目立った物語の展開はなく、日々雑感といえばそう言えるかもしれませんが、
ジュリアスが相当なインテリであるため、
思索の深さや詩的な着想に富んでいて、(そこに興味さえ持てれば)それほど退屈することはありません。

コール自身がナイジェリアにルーツを持つからか、
ジュリアスの視線は自ずと人種の多様性へと注がれます。
ジュリアスの恩師サイトウ教授は明らかに日系ですし、
ブリュッセルではファルークというアラブ人と友人になります。
街で見かけた人の人種にもこだわります。
マラソンランナーがケニア人だとか、カップルが遠くからフィリピン人に見えたとか、
あまりに人種にこだわるので、だんだん演出ではないかと疑うようになりました。

ジュリアス(とコール自身)が西洋系のインテリであるため、
彼のルーツがナイジェリアにあることを知らされなければ、西洋人が書いた小説と言われてもわからない気がします。
マーラーを愛し、アラブ人に『ゴッドファーザー』のコルレオーネを重ね、
ゲッペルスの写真に怒りを感じる。
アラブ人のファルークはユダヤについての不満を語りますが、
アメリカに対しては驚くほど不満をあらわにしないのも気になりました。
ジュリアスが「必ず驚いてしまうのは、街の人種の混ざり合いから外れて白人だけの空間に、
つまり私の知る限りそこにいる白人たちは不快に思わない同質性に、
自分が簡単に紛れ込んでしまうということだ」と感じるのは、
僕には驚きもなく当然なこととしか思えませんでした。

全体としてよくできている小説だと思いますが、
西洋インテリの価値観をまったく揺るがすことのない「去勢された」小説だと感じました。
(詩的着想にしても章末の着地も技術ばかりが目につく印象でした)
ブリュッセルで親しくなったファルークも飛行機で出会ったメイヨット博士もインテリです。
散歩小説であるなら、もうちょっと下層の人々とも交流があってもよさそうなものですが、
コールの描く都市はある種のインテリ的価値観に守られた閉鎖空間であるため、
ノットオープン・シティでしかないように感じられてしまうのです。

本書の中でファルークはこう語ります。
「オリエンタル化しない作家の本なんて、誰も出版しない。
西洋の出版社がモロッコやインドの作家に求めるのはオリエンタルな幻想に夢中になっていること、
つまり幻想への憧れを満たしてくれることだよ」
残念ながら本書も逆ベクトルながら幻想への憧れを満たすための小説に思えました。

表紙の絵柄がとにかく素晴らしいので、インテリアには適しています。

 

 

 

評価:
テジュ コール
新潮社
¥ 2,052
(2017-07-31)
コメント:『オープン・シティ』 (新潮クレスト・ブックス) テジュ・コール 著

『私の名前はルーシー・バートン』 (早川書房) エリザベス・ストラウト 著

  • 2017.05.28 Sunday
  • 15:05

『私の名前はルーシー・バートン』 (早川書房)

  エリザベス・ストラウト 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   これが私だ、と言えるような小説

 

 

著者のエリザベス・ストラウトは40代を過ぎてから小説を発表した遅咲きの作家です。
生活感のある地に足のついた作風で、家庭や田舎町などの身近な人間関係を描き出すことが多いのですが、
遅咲きのせいか、時の流れの中で人生が移ろいゆくさまを捉えることが非常に上手です。

本作は主人公ルーシーがニューヨークで暮らす田舎育ちの作家であり、
一人称でプライベートな思いを描いているため、
まるで著者本人が語りかけてくるように感じます。

物語はルーシーが長期の入院生活を余儀なくされ、
田舎から来た母親が5日間滞在したときを中心に展開します。
ルーシーと母親は病室で近所の人々の思い出話と近況を話すのですが、
その多くは結婚に失敗した話になっています。
実はルーシー自身の結婚生活も順調とはいえないのですが、
それらは現在の視点から回想されるかたちとなっています。

ルーシーが抱く母や夫や娘や先輩作家などに対する一口に表現しにくい個人的で複雑な思いを、
断章のような短いシーンで描き出すことによって、
淡い情緒をまとわせることに成功しています。
ただ、淡いままに通り過ぎていくことも多々あって、
僕には縁遠い感じがして心が震えるには至りませんでした。
しかし、作中で作家は情を捨てなくてはならないという話も出てくるので、
そのように読まれることをめざしたのかもしれない、とも感じます。

ラストでルーシーが自分自身のストーリーを書くことを意図していたことがわかりますが、
それは自分自身が抱いた何かを伝えるのではなく、
情緒を含んだストーリーに自分を定着させることだったのかもしれません。

『オリーヴ・キタリッジの生活』も名作でしたが、これもまた違った味わいのある良い作品でした。

 

 

 

評価:
エリザベス ストラウト,Elizabeth Strout
早川書房
¥ 1,944
(2017-05-09)

『黴 爛』 (講談社文芸文庫) 徳田 秋声 著

  • 2017.05.21 Sunday
  • 07:35

『黴 爛』  (講談社文芸文庫)

  徳田 秋声 著 

 

   ⭐⭐⭐

   私小説という認識方法

 

 

泉鏡花とともに尾崎紅葉門下に属した徳田秋声は自然主義の作家です。
日本における自然主義は、作者が自身の生活を題材として経験したことを描く私小説と深く関係しています。
本書に収録された「黴」も徳田が自らの結婚生活を題材にして書いた作品です。

徳田は友人の貸家に住んだ時、手伝いに雇った女性の娘と子供をもうけて結婚します。
「黴」の主人公笹村とその妻お銀も同じ経緯で結婚に至るため、
徳田が自らの経験を書いた私小説と受け取られています。
この作品で徳田は文壇的地位を築くことに成功しました。

もう1編の「爛」は元は遊女であったお増が、別に正妻をもつ浅井という男に囲われているという環境で、
特に盛り上がるでもない生活をたくましく生きる姿が描かれています。
「爛」のお増は2年後に書かれた「あらくれ」のお島へとつながる徳田の庶民的な女性像の系譜にあります。

ここで描かれる夫婦生活や男女の関係は、
現代の感覚とはかけ離れています。
特に「黴」では作者の分身である笹村の妻に対する冷淡極まりない態度は、
同性の僕から見ても愉快とは言えないものがあります。
現代以上に男尊女卑の価値観が当たり前だった社会だということに加えて、
私小説がナルシシズムの克服をめざして、自分を突き放した客観認識を成立させるという課題を担っていたことが、
一種の露悪的な内容に至った原因だと僕は考えています。
黴や爛という露悪的な題名にもその性質が現れています。

このように他人の目から自分自身を見つめる客観化の試みは、
日本近代文学の大きな課題であったはずなのですが、
さほど成果を上げる前に投げ出されてしまったように思えます。
現代人は自身の客観的認識を放棄したまま、
環境やテクノロジーに管理された中で主観の飼い慣らしをするほかないのでしょうか。

 

 

 

評価:
徳田 秋声
講談社
¥ 1,836
(2017-04-11)
コメント:『黴 爛』 (講談社文芸文庫) 徳田 秋声 著

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