『戦う操縦士』 (光文社古典新訳文庫)
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著/鈴木 雅生 訳
⭐⭐⭐⭐⭐
不毛な任務に死を賭して挑んだ作家が信じたもの
『星の王子さま』で多くの人に夢を与え続ける作家A・サン=テグジュペリのもう一つの顔は現役飛行士でした。
はじめは民間の郵便飛行士でしたが、ナチスドイツとの開戦後、自ら戦闘部隊への転属を志願し、偵察機のパイロットになりました。
その偵察部隊での体験をもとに書いた小説が本書です。
冒頭は聖ヨハネ学院時代ののどかな回想から始まるのですが、
サン=テグジュペリは圧倒的なドイツ軍の前に敗色濃厚のフランスの悲愴な現実へとすぐに引き戻されます。
ドイツ軍の占領地を越えてアラスへと飛行する決死の偵察任務が言い渡されるのです。
この小説はサン=テグジュペリが実際に敢行して戦功十字勲章を受けたアラスへの偵察飛行の一部始終を描いています。
臨場感のある戦場を描いた小説であることに違いないのですが、
注意深く読めば、戦記物のスリルとは縁遠い思索的な内容であることが理解できると思います。
僕が本作を読んで気になったところは、
サン=テグジュペリの戦場経験による思索が、いわゆる〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想と地続きにあることです。
たとえば全体性を奪われた細部や断片性こそが真実であるという認識。
ただ、いまの私には、きちんと考えるために必要な概念も、明晰な言語も欠けている。矛盾を通してしか考えられない。真実は千々に砕けてしまい、私にはそのばらばらになった破片をひとつ、またひとつと考察することしかできない。
もちろん、この断片性は肯定的に捉えられているわけではありません。
「断片はひとの心を動かしはしない」とサン=テグジュペリは書いています。
静けさの中で死者が全体を取り戻し、そこでようやく真の悲しみが訪れる、とも言っています。
だから出撃をひかえた私にしても、西欧とナチズムの闘争、などといった大それたことに思いを馳せているわけではない。すぐ目の前にあるもろもろの細部について考えているだけだ。アラス上空を七〇〇メートルという低空で偵察飛行する愚劣さ。われわれに期待されている情報の無意味さ。身支度の面倒さ。まるで死刑執行人を迎えるために身づくろいをしている気持ちだ。
こう書かれているように、断片性や細部だけの無意味さを生きることは、死を待つ深い絶望と深く結びついています。
日本の無知なポストモダン学者は、その思想のルーツがこのような戦争経験によってもたらされていることを全く理解せず、
それが近代批判の賜物であるかのように誤解しています。
ツイッターごときを断片性として語ったり、無意味であることがオシャレであるかのような発想は、
本書を読めばどれだけ能天気なお子ちゃまの勘違いなのかが実感できるのではないでしょうか。
つまり、ポストモダンとは近代の末路である戦時中と地続きにある思想だと考えるべきなのです。
本作ではポストモダン的な「スーパーフラット」について語る場面も見られます。
それに一〇〇〇万の人間が訴えても、結局はただの一文に要約されてしまう。どんなことも一文ですむのだ。
「誰それのところに四時に行くように」であっても、
「一〇〇〇万人が死んだとのことだ」であっても、
「ブロワが炎上中だ」であっても、
「運転手が見つかりました」であっても。
どれもこれも、みな同一平面上に置かれているのだ。それも最初から。
すべてが同一平面に並べられてしまうスーパーフラットな価値観も、
ポストモダン以前の戦時中にそのルーツが確認できるわけです。
世界大戦の負の記憶を忘却したポストモダン思想にいかに価値がないか、よくわかると思います。
ポストモダンをバブル経済の只中で「新しい」現象として肯定的に受け入れた80年代の日本人と違って、
サン=テグジュペリは戦争というポストモダン的な現実を否定すべきものとして捉えています。
当然ながら、日本のポストモダン精神とサン=テグジュペリの精神とは立ち位置が全く逆になります。
だからサン=テグジュペリは日本のポストモダンが陥った偏狭なナショナリズムとも無縁です。
私は信じる、個別的なものへの崇敬は死しかもたらさないことを。──それが築くのは類似に基づいた秩序でしかないからだ。《存在》の統一性を、部分の同一性と混同しているのだ。大聖堂をばらばらに壊して、石材を一列に並べてしまう。したがって私が戦うのは、それが誰であれ、他の習慣に対してある個別の習慣だけを押しつける者、他の国民に対してある個別の国民だけを押しつける者、他の民族に対してある個別の民族だけを押しつける者、他の思想に対してある個別の思想だけを押しつける者だ。
戦闘のただ中で彼は普遍的な存在である《人間》の尊厳について力説していきます。
「私の文明が立脚しているのは、個人を通じての《人間》の崇敬だ」と述べて、
石材の総和では説明がつかない大聖堂の存在が、個々の石材に豊かな意味を与えるように、
個人を超越した《人間》こそが文化の本質であり、その再興が必要だとするのです。
サン=テグジュペリはアメリカの参戦を促すために本書を携えて渡米しました。
そのため、普遍的な人間の連帯を訴える必要があったと考えることもできますが、
そのような功利的な計算がサン=テグジュペリに似合わないことは、彼の熱心な読者には理解できるところだと思います。
彼は飛行機に「子供が母親に対して抱くような愛情を感じる」と書いていますが、
コクピットという子宮において、神秘体験に近似した恍惚状態となり、
ある種の啓示を得るというのがサン=テグジュペリの文学の核だと僕は思っています。
彼の憑かれたような熱弁は神秘主義者のそれであって、
全身で、それも命懸けで体感された啓示は、頭で考えただけの言葉を簡単に凌駕してしまいます。
彼が言葉だけの《人間主義》を批判し、行動の優位を語るのはそのためです。
自らの《存在》を築きあげるのは言葉ではなく、ただ行動だけなのだ。《存在》というのは言葉の支配下にあるのではなく、行動の支配下にある。
このあたりまでは共感を持って読み進められるのですが、
ここからサン=テグジュペリが行動のうちで最も重要なものが「犠牲」だと言い出すに至って、
現代の読者は非常に用心して読み進める必要が出てきます。
共同体のために命を捧げることが尊厳ある人間だと読むことができるからです。
友愛は犠牲のなかにおいてのみ結ばれる。自分より広大なものへと共に身を捧げることによってのみ結ばれる。
戦争のさなかに書かれた本作は、こうして動員の論理に吸収される面を持つことになります。
「私は昔から傍観者というやつが大嫌いだった」と語るサン=テグジュペリは、
ナチスと戦わずにアメリカに亡命し傍観者となったアンドレ・ブルトンを手紙で批判しているのですが、
彼がマルセイユ沖で散っていき、傍観者の方が生き残るのが歴史というものの裏側なのかもしれません。
その結果、〈フランス現代思想〉がサン=テグジュペリの啓示を動員の論理として退け、
普遍性を放棄した反人間主義による個のメタ化を称揚することで、
平和で貧しい現実を傍観的に肯定することが正しいことであるかのように主張してきました。
かくして文学や思想は貧しい現実を後追いするだけとなり、実質的には死に絶えました。
いまや文学や思想は自分を売り込みたいだけの商売人たちや、実社会に適応できない人のルサンチマンを解消する道具に成り下がっています。
出版社は利益を上げるために、そのような人間を利用するだけで、文化を保存する気概すらありません。
人間の普遍性を放棄したからといって、戦争がなくなることはありませんでした。
動員の論理には僕も反対ですが、それに繋がる危険性を理由として、
普遍的な《人間》の価値は放棄されるべきものではないと思います。
そのためには本作をいかに「正しく」読むかが重要になってきます。
サン=テグジュペリは共同体のために死ぬことを価値としたわけではありません。
個人を超越した普遍的な《人間》の尊厳を見直すことを訴えているのです。
私は戦う。《人間》のために。《人間》の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。
サン=テグジュペリが最後に「自分自身にも抗して」と書いたことの意味を、われわれは考える必要があります。
安直な個人の自己満足を超えるものが存在しなくなった人類を、彼は「白蟻の群れ」と書きました。
われわれが「白蟻」にならないためには、まず何よりも自分自身に抵抗する必要があるのではないでしょうか。
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評価:
アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ
光文社
¥ 950
(2018-03-07)
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