『危機の政治学 カール・シュミット入門』 (講談社メチエ) 牧野 雅彦 著

  • 2018.07.01 Sunday
  • 13:36

『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社メチエ)

  牧野 雅彦 著

 

   ⭐⭐

   やはりシュミットはよくわからない

 

 

ナチスへの協力が取りざたされて批判にさらされたドイツの法学者カール・シュミットを、

再評価する動きが最近目立っていますが、牧野もそのような流れの中で本書を書いています。

シュミットの思想はナチスに協力した危険思想だ、と切り捨ててしまえるものでないことは本書を読んでよくわかりましたが、

では、なぜシュミットがナチスと近い立場に身を置いたり、反ユダヤ主義とも思える言説をしていたのか、という点については、

牧野の記述は非常に後ろ向きでしかなく、これもまたフェアな立場だとは思えませんでした。

批判して終わりも良くありませんが、シュミットをただ擁護するだけの態度も、門外漢としては同様に偏ったものに感じました。

 

副題に「カール・シュミット入門」とあることに読み終わってから気づきましたが、

明らかに入門書のレベルではありませんし、入門書の体裁でもありません。

僕は途中でわからなくなって、もう一回最初から読み直したのですが、かなり難しくて苦労しました。

シュミットの著作自体について以上に彼の周辺人物の著作や当時の政治状況についての方が、

触れている量が多かったようにさえ感じました。

 

第一章は「政治神学とは何か」と題されていますが、シュミットの概念をわかりやすく説明してくれるのかと思いきや、

シュミットが影響を受けたカトリック系の反動思想家ジョゼフ・ド・メーストルやドノソ・コルテスの思想を長々と説明します。

いきなりシュミットではなく謎の反動思想家の説明が続くのは、マニアックとしか言えません。

そこを乗り越えてシュミットの思想に至ったと思っても、ほとんど記述らしい記述がなく、

気づいたらメーストルとコルテスの思想にだけ詳しくなっていました。

 

第二章ではシュミットの『政治的なものの概念』を取り上げ、シュミットが多元主義のハロルド・ラスキを批判したことが述べられます。

直後、牧野はハロルド・ラスキの著作の内容に踏み込んでカトリック反動について長々と説明したあと、

次にジョン・フィッギスという歴史家の、教会を中心とした団体自治論を説明し始めます。

ここまで30ページを要していますが、その間にシュミットはほとんど登場しません。

これで本当にシュミットの入門書と言えるのでしょうか?

 

そのあとやっと『政治的なものの概念』における「友と敵」の実存的決定の話が出てくるのですが、

これが数行のあっさりとした記述で終わってしまうのです。

続いて『憲法理論』を取り上げ教会の「権威」と国家の「権力」をシュミットがどう考えていたかが語られます。

ですが、この部分は9ページで終わってしまいます。

 

シュミットの著書『独裁』における「委任独裁」と「主権独裁」の区別については、説明にそれほど不満はありません。

秩序を制定する権力である国民を「憲法制定権力」としたとき、憲法制定を委任された代理人が「主権独裁」である、というのは、

安倍晋三の憲法改正に対する黒い情熱を想像する上で興味深いものがありました。

シュミットの国際連盟批判や、統一帝国であるライヒへの執着、内戦を終結させる「アムネスティ」という相互忘却の原則についてや、

パルチザンにおける敵の問題など、がんばって読めばおもしろい部分もあるのですが、

長々しい上に専門的で敷居の高い内容だったというのが正直な印象です。

 

しかし、肝心の友と敵の区別についての説明に分量をかけていないため、

基礎的な部分をぼんやりとしか理解していないまま、先々の理論に付き合わされている感じは否めません。

牧野は「友と敵」の区別が「政治的なもの」の核心だと結論だけは何度も述べるのですが、

それがどういうプロセスで成立しているのかは、なぜか詳しく説明してくれません。

もしかしたら、シュミットとナチスとの関係にとって不利な内容なので、あまり触れないようにしているのでしょうか。

危機状態を前提にした権力論は、議論が本質的になるため魅力があるのは理解できますが、

一方で例外状態はあくまで例外状態であるという認識も大切でしょう。

「敵」を設定し共有することで自己のあり方を決めるというのであれば、

それは反動保守のやり方とそう変わらないように思えるのですが、

本書には僕の疑問を解消するような説明は見つけられませんでした。

 

 

 

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎) ナイジェル・ウォーバートン 著

  • 2018.06.30 Saturday
  • 22:13

『若い読者のための哲学史』 (すばる舎)

 ナイジェル・ウォーバートン 著/月沢 李歌子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   イギリス視点の哲学史に〈フランス現代思想〉は存在しない

 

 

イェール大学出版局の「リトル・ヒストリー」シリーズの『経済学史』はなかなか良い内容でしたが、

この『哲学史』も著者は違うのですが、40の断章で哲学史上の思想家を紹介していきます。

これだけ多くの思想家をわかりやすく取り扱うウォーバートンの力量には感心させられますが、

彼が大学に籍を置かないフリーの哲学者であることにも驚きました。

大学の出版局からの著書なのに、大学の先生でない人に書かせられるほど、イギリスの人文知の裾野は広いのだと感じます。

 

ソクラテス、プラトンから始まっていき、アウグスティヌス、トマス・アクィナスを経て、

デカルト、パスカル、スピノザと続き、ルソー、カントへと至る流れは王道と言えます。

聞いたことがある哲学者の名前が次々と出てくるのは、ビギナー向けとしては欠かせない要素です。

また、ウォーバートンはビギナーが困らないように、わかりやすい説明を心がけています。

エピクロスは僕にはそれほど馴染みのある思想家ではなかったのですが、

「エピクロスの教えは、ある種のセラピーでもあった」と説明されると、興味が掻き立てられます。

 

ヴォルテールについて書かれている章もためになりました。

彼は言論の自由の擁護者で、「あなたの主張には反対だが、そう発言する権利は命を懸けて守ろう」と発言したそうです。

僕はR大学の准教授に言論弾圧を受けたことがあるのですが、そういうインチキ野郎に比べてヴォルテールは偉い人だと思いました。

ヴォルテール自身は権力者である貴族を侮辱したとして、バスティーユ監獄に入れられてしまったのですが、

それでも周囲の偏見や疑わしい主張に疑問を呈し続けるのをやめない、勇敢な人だったとウォーバートンは述べています。

ヴォルテールの『カンディード』がライプニッツの楽観主義を風刺しているというところも、

非常におもしろく読みました。

 

誤解されやすいルソーの「一般意志」についても鮮やかに説明しています。

共同体全体の利益になるものが一般意志であるため、自己本位であれば誰もが税金を払いたくないと思うものだが、

一般意志に基づくと、共同体が適切なサービスができるのに十分な高さの税金を支払うべきだということになる、

という例を出されると、理解が平易になります。

 

ただ、本書はイギリス人による哲学史のためか、ウォーバートンの個人的趣味のためなのかわかりませんが、

全体にドイツ思想に対して評価が厳しいように思いました。

カントの道徳哲学をアリストテレスと比較して、ウォーバートンは次のように書いています。

 

アリストテレスは、真に徳のある人はつねに適切な感情をもち、その結果として正しい行動をすると考えた。カントにとって、感情とは、見せかけではなく本当に正しいことをしているのかどうかをわからなくして、問題をあいまいにするものである。

 

カントは理性さえあれば道徳的でいられると考えたというのがウォーバートンの説明なのですが、

あまりにカント思想の理解が表層的に思えます。

 

20章に登場したイマヌエル・カントは、「嘘をつくな」というような、どんな場合でも適応される義務があると主張した。だが、ベンサムは、行為の善悪は結果によって判断されるとし、状況次第だと考えた。嘘をつくのはつねに誤りだとは限らない。

 

この「嘘をつくな」の例はカントの定言命法を説明するのにふさわしいとは僕は思いません。

その意味で、ウォーバートンの記述にはカントに対する悪意が感じられなくもありません。

ヘーゲルやニーチェの扱いもあまり良いとは言えませんでした。

バートランド・ラッセルの紹介などは非常に良く書けていたので、やはりイギリス偏重という傾向は否めないと思います。

 

特に日本人にとって違和感があると思われるのは、フッサールとハイデガーの現象学と解釈学に対する記述がほとんどないことでしょう。

ハイデガーの名前を出したかと思うと、すぐにアーレントへと話を進めてしまうあたりは不自然に思えます。

また、サルトルとボーヴォワールには触れるのですが、

日本では現代思想の代名詞であるフランスの構造主義とポスト構造主義の思想家については一言も触れていません。

アーレントからカール・ポパーへと進み、トーマス・クーン、フィリッパ・フット、ジョン・ロールズときて、

オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーで締めくくられます。

 

イェール大学による哲学史ではいわゆるポストモダン思想は哲学ではないというのは非常に興味深く思えました。

その意味では日本的な現代思想バイアスを修正するのに本書は適しているかもしれません。

個人的には、ポパーがフロイトなどの精神医学に反証可能性がないため、非科学だと批判したというところが勉強になりました。

思想家の変わったエピソードなども差し挟まれていたりして、読み物としてもなかなか面白かったです。

 

 

 

「nyx(ニュクス) 第4号」 (堀之内出版)

  • 2018.06.17 Sunday
  • 21:00

「nyx(ニュクス) 第4号」 (堀之内出版) 

 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   中世スコラ哲学を広い視座から捉え直す試み

 

 

日本人の西洋哲学史の一般的イメージだと、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシア哲学からR・デカルトへと飛んでしまいがちです。

その間に位置するスコラ哲学に陽が当たらないのは、日本人のキリスト教受容への抵抗心が関係していると思いますが、

陰になりがちなスコラ哲学を開かれたものにしようというのが今号の特集です。

 

スコラ哲学には僕もまったく明るくないのですが、

「スコラschola」は「学校」を意味する言葉で、多様なテキストを引用し組み合わせて自説を展開する総合的な哲学のことを意味しています。

当然のことながらキリスト教と密接な関係を持つ神学色の濃い思想で、

ドミニコ会のトマス・アクィナスやフランシスコ会のドゥンス・スコトゥスが思想家として有名です。

 

冒頭はトマス・アクィナス『神学大全』の翻訳をした稲垣良典と本特集の主幹である山本芳久の対談です。

山本はスコラ哲学がキリスト教思想とギリシャ哲学の統合を目指したことを述べ、

その魅力について、自然界、人間、神を全体的に考える視点と、概念や言葉を精緻に区分する視点が統合されていることを挙げています。

細分化しすぎている現代の学問を考える上で、スコラ哲学の体系的な発想が意味を持つとも考えています。

稲垣は学問や思想が我々の生と遊離していることを指摘し、

スコラ哲学が「人間として生きているというリアリティ」に結びついていることを強調します。

 

文化や学問が細分化によって生や生活に空虚なものでしかなくなっている現状を問題視して、

稲垣と山本がスコラ哲学の持つ全体的な視点を見直すことを提案していることに僕も共感しました。

デカルトにしてもマキァヴェッリにしても中世の思想家は多様な分野の知に通じていました。

最近は専門バカによるオタク的な発想を正当化したいがために、

それが選ばれし者の「芸術的」発想であるかのように仮構したがる輩も目立ちます。

狭い分野の生半可な発想をいたずらにメタ化することは、知性でもなんでもないという認識が、もっと共有されてほしいと思います。

 

松村良祐は擬ディオニュシオスがトマス・アクィナスの思想に与えた影響について書いています。

このディオニュシオス・アレオパギタについて僕はまったく無知だったのですが、

5、6世紀のシリアの神学者で当時はかなり影響力のあった思想家だったようです。

トマスも、アウグスティヌスと同様の扱いで擬ディオニュシオスを多く引用しています。

パウロの直弟子で『使徒行伝』を書いたディオニュシオスと混同されていたために、

実は別人ということを示すため「擬」とか「偽」とかつけられているようなのですが、

ちょっと気の毒な命名ですよね。

 

松村は『神名論』にある擬ディオニュシオスの「神の愛は脱我を作り出す」という言葉をトマスがどう理解したかを明らかにして、

トマス自身の「脱我」の思想を深く理解しようと試みています。

脱我は自己を離れて他者へと至る他者志向的な在り方です。

しかし、脱我は自己愛の優位性のもとにあるため、自己愛をモデルとして他者愛が派生するというかたちで把握されています。

では、トマスは愛の対象である他者を「もう一人の自分」として自己投影することで、

自己と他者の境界を取り去るような「合一」を考えているかというと、

そうではないというのが松村の主張です。

脱我は神の愛を通じて、自分ではなく愛の対象へと向かっていくために、

他者というものが自分と異なった存在であることを強調することになる、と述べるのです。

 

土橋茂樹の論考は東方神秘主義的な「神との合一」概念がトマスによって再生されるまでの流れを追っています。

プロティノスの「一者との合一」には「自己投企と受容」という対概念が欠かせないことを示し、

偽ディオニュシオス『神名論』において「自己投企と受容」がどのように語られているかを見ていきます。

 

ディオニュシオスは神との合一にあらゆる知性の働きを停止することを求めたのですが、

その後の彼の注釈者(スキュトポリスのヨハンネス?)によって、細分化された部分を総合する知性主義的解釈へと発展しました。

しかし、サン・ヴィクトル修道院のフーゴーからトマス・ガルスに至る学派では、

ディオニュシオスの論にラテン・キリスト教による「愛による合一」の要素が入り込み、

知性を超越した神秘主義的な解釈がなされていて、知性主義的解釈と対照を見せていました。

 

その後、トマス・アクィナスの『神名論註解』でディオニュシオス注解の集大成が成し遂げられるわけですが、

トマスは神から分有された完全性をもとに、その原因へと遡るかたちで否定的に神へと超越していく途を描きます。

除去による途、卓越による途、因果性による途の三段階を経て、第一の根源である神へと上昇する道を、

トマスはあくまで知性によって遂行されるものとして考えています。

そのため、トマスも知性主義的解釈の延長にあるといえるわけですが、

土橋は「自己投企と受容」の力動性を強調する神秘主義的解釈がトマスにも見られるとしています。

 

著書『トマス・アクィナス』で理性と神秘の関係について考察した主幹の山本芳久の論考「三大一神教と中世哲学」は、

前教皇ベネディクト16世の2006年の講演を取り上げ、中世哲学を媒介にイスラム教とキリスト教の現代的問題を考えるというものです。

 

ここで山本は理性と神秘の統合について考察しています。

山本は教皇の講演から中世哲学の理性観である「理性の自己超越性」を読み取ります。

神は人間の理性による把握を超えているのではなく、人間の理性で汲み尽くせない豊かさを備えるため、

理性によって「無限に認識されうるもの」だとして、超越が理性に開かれたものであることを示します。

その後、超越と理性の統合について、イブン・ルシュド、マイモニデスからトマス・アクィナスに至る変遷を追いかけています。

 

他にも勉強になる論考がたくさんあるのですが、書ききれないので割愛します。

個人的に感心したのは、三重野清顕の「トマスとヘーゲル」というヘーゲル論です。

F・ヘーゲルは『哲学史講義』の中でスコラ哲学を「煩瑣哲学」としてあまり評価していないので、

両者の関係を考える論は意外に思えたりもしますが、

三重野はトマスとヘーゲルを同一性と差異の問題において比較していきます。

超越と内在、同一性と差異とが最終的に同一に帰するという点で、ヘーゲルはトマスと異なるとしつつも、

ヘーゲルが対立者を統一的に把握する同一性の思想家という評価は一面的すぎると三重野は言います。

ヘーゲル思想には有限者と無限者を「切り離しつつ結びつける」否定性の概念があるからです。

 

三重野は『大論理学』「本質論」にある本質の自己同一性を取り上げ、

ヘーゲルによれば本質と存在は互いに排斥し合う関係であり、本質と存在は否定的関係にあります。

そのような否定的な在り方は共に存在の領域に属しているため、

本質はそれ自身が自己否定的に存在へとなることで、相互排斥関係を解消していきます。

つまり、本質の自己同一性は自己を無化する自己差異化を経由した上での同一性となるのです。

「本質は、自分でないことによって自分自身である、という否定性である」と三重野は述べています。

 

ここから絶対者を構成する「反省」論へとつながるようなのですが、紙幅の都合で詳細には触れていません。

統一と差異を統合するような反省の自己否定的な活動が、主観と客観を統一する絶対的同一性を導くことが軽く示されています。

対立者を統合するヘーゲル思想の同一性が自己の否定性(他者)を原動力としているという指摘は、非常に重要だと思いました。

 

アラスデア・マッキンタイアのトマス的実在論にも良いことが書いてありました。

マッキンタイアは哲学的な探求が、職業的な哲学者が一般の人々の問いを受けて進めているとしています。

つまり哲学は専門家の知的パズルなどではなく、人生の根本問題に関わるものだと言うのです。

哲学が学問としての自己保存のために、学問領域の興味にしか応えない「批判のための批判」になってしまえば、

それだけ一般の人々には関係のないものとなっていきます。

人間不在の思想などがまさにそれで、こういう思想は学問を言い訳にした「責任逃れ」だと僕も感じています。

 

本誌の第二特集は分析系政治哲学と大陸系政治哲学についてのものです。

政治哲学において大陸系も重要であるというような話でしたが、

正直僕にはそれほど興味深い論考はありませんでした。

 

内容についていくのが大変な特集ではありましたが、新しい思想の世界に触れることができて有意義でした。

 

 

 

評価:
山本 芳久,松村 良祐,土橋 茂樹,坂本 邦暢,松森 奈津子,飯田 賢穂,三重野 清顕,村井 則夫,山内 志朗,アラスデア マッキンタイア,松元 雅和,井上 彰,山岡 龍一,山本 圭,森川 輝一
堀之内出版
¥ 2,160
(2017-08-20)

『対人距離がわからない』 (ちくま新書) 岡田 尊司 著

  • 2018.06.14 Thursday
  • 23:25

『対人距離がわからない』 (ちくま新書)

  岡田 尊司 著

 

   ⭐

   この本との距離がわからない

 

 

人間関係において、人との適切な距離感がイマイチつかめないという悩みは多くの人にあるものだと思います。

その結果、距離感に悩まない内輪の相手とばかり付き合うことも起こるわけですが、

「ほどよい対人距離」を保つだけではリスクは避けられるが何も生まれない、と岡田は言います。

本書では対人距離を縮めて相手を味方にするタイプがどのようなパーソナリティなのかを、

岡田の臨床データをもとにして示していきます。

 

岡田はアメリカの精神医学会の診断基準DSM–犬亡陲鼎い謄僉璽愁淵螢謄・タイプを分類しています。

つまり、もともと精神障害の分類でしかないものを、個人のパーソナリティとして当てはめています。

回避性パーソナリティ、妄想性パーソナリティ、シゾイドパーソナリティは社会適応度が低く、

演技性パーソナリティ、自己愛性パーソナリティ、強迫性パーソナリティは適応度が高い、などと統計データを出して、

このタイプがどうだ、あのタイプがどうだ、という話を延々と続けます。

 

それぞれのパーソナリティについては岡田の別の著書に詳しいらしいのですが、

所詮は精神障害の分類ですので、人間のパーソナリティを表すには一面的で薄っぺらく、

自分自身でどのタイプかと判断するには、当てはまらない部分が多く出てきます。

したがって、医者が患者の病状をどこかに当てはめていくように、

他人のことを表面的にどこかのタイプに分類して済ますことにしか役立ちません。

岡田も石川啄木やハイジ、赤毛のアンや野口英世、ルソーやオノ・ヨーコたちの都合のいい部分を取り上げて分類に役立てます。

正直に言って、自分自身のことを知りたければ、占いの方がまだ役に立つような気がします。

 

取り立てて社会適応が高い演技性パーソナリティの幸福度が高いというデータがあるため、

第6章の「対人距離を操る技術」で演技性パーソナリティの人のあり方を「技術」として紹介するのですが、

そもそもパーソナリティとして成立しているものを「技術」として扱うのは無理があります。

当然ながらその特性を「技術」として身につける方法については岡田は全く語っていません。

 

もともとが精神障害をパーソナリティ化したものなので、それを模倣することが本当に良いことなのかも疑わしいと思います。

たとえば岡田は演技性を正当化するために、社会的知性の本質は演技であるとか言い出して、

 

ふりをして、相手にそう信じ込ませること、つまり演技することが、社会的知性の本質であり、本当の頭の良さということになるのである。それは、あまり暴かれたくないことかもしれないが、現実を動かしている真実なのである。

 

とか書いているのですが、社会をナメているとしか僕には思えませんでした。

なるほど、「本当の頭の良さ」を持つ岡田は、こんな役に立たないパーソナリティをいかにも役に立つように演技して書いているのでしょう。

 

優れた社会的知性は、人間関係において大事なのは、正しいかどうかではなく、相手も喜び、こちらも得することだと考える。つまり、相手の自己愛をくすぐることが、自分も愛されるだけでなく、恩恵を手に入れる方法だということを体得しているのである。

 

こういう調子のいいことを言ってお互いいい気持ちになるのが円滑な社会関係だという低レベルの話を、

「優れた社会的知性」などという言葉で語ることには不愉快さしか感じませんでした。

僕は精神科医をあまり信用していないのですが、こういう本を読むとなおさらそういう気持ちが強くなります。

岡田自身の自己満足データの与太話に付き合いたい人だけに本書はオススメです。

 

 

 

『神道入門』 (ちくま新書) 新谷 尚紀 著

  • 2018.05.20 Sunday
  • 10:27

『神道入門』 (ちくま新書)

  新谷 尚紀 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   「神道とは何か」を通史で解き明かす試み

 

 

本書は「神道とは何か」を柳田国男の系列にある民族伝承学の立場から探求したものです。

最初こそ折口信夫の「かむながら」という語についての考察が取り上げられていますが、

本書全体の内容は通史的なアプローチが中心なだけに、

歴史的な手続きや文献の紹介は相当にしっかりしているという印象がありました。

読者は著者の専門を特に意識しなくても読んでいけると思います。

 

「神道は、その本質は、素材materialsにではなく、形式formeにある」

新谷はそう述べて、神道は「容器」であるという結論を冒頭で示しています。

一般的に宗教には教祖・教義・教団の3つの要素があると言われますが、

神道はそれらが曖昧であるため、一般的な定義としては宗教と呼びにくいことは確かです。

乱暴に言ってしまえば、これという内容がないために、「容器」だと言うしかないということでもあります。

 

新谷は指摘していないことですが、一般的な宗教は特定の国家と密着していないものです。

しかし、神道は日本という「場」にひどく密着しています。

「容器」にしても、その容れ物が日本という「国」とあまりに密着しているのはなぜなのでしょう?

(ユダヤ教はユダヤ人と密着しても、「国」とはさほど密着していません)

新谷の考察がこのことに及ばなかったことが僕には不満ですし、

そのために本書の結論が不明瞭で曖昧なまま終わってしまったように思います。

 

記録の中で「神道」という語が初めて登場したのは『日本書紀』ですが、

神祇信仰と神祇祭祀を意味で宗教的な体系性はなかったと新谷は述べています。

桓武王権の時に使われた「神道」の語には、古来の神器祭祀という意味に加えて、

世に益を与える目的を備えた儒教的な徳治思想の考え方が混じります。

任命天皇の勅では、神道は仏法に従属するものとされていたりします。

このように、神道は儒教や仏教の混合物のようになっていて、

実際は儒教や仏教に対して独立した同一性を持つものと考えるのは難しいことがわかります。

これを新谷は「神道」という語の「包括力の強さ」としています。

 

中世の神道、近世の神道、近代の神道、それらに一貫して見出すことのできる特徴とは、まさにこの、どんな意味でも吸い込んでしまう「神道」という語の包括力の強さなのである。

 

こうして新谷はそれぞれの時代の「神道」の意味するところを描き出していくわけですが、

「どんな意味でも吸い込んでしまう」ということを裏から考えれば、

これといった歴史的同一性を持っていないということになるわけです。

そのつどそのつど自分を満足させる「言い訳」さえあればいい、

そのような場当たり的な肯定感(スキゾフレニー!)こそが日本という「容器」の正体ではないかと僕は疑っています。

 

それが最もよく現れたのが、室町時代後期に創唱された新しい神道である吉田兼倶の吉田神道・唯一神道ではないでしょうか。

吉田神道は密教や道教や陰陽道を模倣しつつ、神道が仏教伝来以前から日本に存在した正統な教えであることを主張しました。

外来文化を取り入れて成立したものが日本文化であるのに、それに先立って日本独自の本質があったと主張したがる、

このような心理は明治以後の国家神道にもつながっています。

 

兼倶の独自性は、積極的にみずから経典を偽作し(「神明三元五大伝神妙経」等々)、神話を捏造して(国常立尊を大元尊神として主神として、天照大神が天児屋根命に授けてその子孫である卜部氏が代々相承してきた神道だと主張するなど)、仏教中心ではなく神祇信仰を中心とする新たな神道説を強引なまでに主張しそれを実際に広めていった点にあった。

 

吉田兼倶は偽造と捏造によって、神道が万法の根本であって、仏教や儒教はその枝葉にすぎないと主張したのですが、

その考えも兼倶のオリジナルではなく、『鼻帰書』をもととした両部神道の流用だと新谷は述べています。

新谷は中世神道の姿として語っていますが、僕は典型的な後進国のやり方だと感じます。

 

近世神道になると、江戸幕府の支配イデオロギーである儒教を背景にした神道論が見られるようになります。

林羅山の理当心地神道では、儒学は神道を含むものとされ、神道の実践が儒教的な人徳の政治の実践だとされました。

山崎闇斎が唱えた垂加神道は、朱子学の理と神道の神を結びつけ、

人の心には天の理である神が内在し、神が心の本質をなしているとして、

それを「天人唯一之道」と表現しました。

これを唯一具現したのが天照大神であるとしたことで、

「君(天皇)の地位は絶対不変であり、君が不徳の場合でも君臣合体の境地に至るまで相互に努力すべきである」としたと新谷は述べます。

天皇への絶対的な信仰を説いたこの垂加神道は、のちに尊王論へとつながっていきます。

 

平田篤胤の復古神道は戦前の国家神道との関係でイメージが良くないのですが、

新谷はその後のことはともかく、当時の平田篤胤の実像を描くことに精を尽くしています。

しかし、僕にはやはり平田の思想自体に戦時国体の精神につながるものを感じないわけにはいきませんでした。

 

平田篤胤は、あらゆる事物の背後、究極に神が実在する、という考えをもとにして、人間の本性を、産霊神の御霊によって授けられた情・性・真の心であり、それに対して偽らずに生きる道を、真の道だ、と解説したのである。

 

このような思想は戦時の浄土真宗から登場した暁烏敏の思想と酷似しています。

つまり、現世の欲望を偽らずに解放する享楽的生活こそが神の道であるという考えです。

儒教も仏教も人の真の情に逆らった実行不可能な掟を立てている、として、

平田はそれらを退けて皇神の道を語るのですが、

新谷は平田の教説にも儒教や仏教の類似が見られると指摘しています。

 

本書はこのあと明治政府による神道政策や国家神道について見ていくのですが、

新谷は明治政府の神道政策は長州派の維新官僚が作り上げたもので、平田などの近世神道とは直接の関係を持たないと考えています。

しかし、僕はこのような神道の歴史を見てみると、現在まで続いている日本人の「らしさ」というものを感じないではいられません。

外来文化を勤勉に摂取し、それを自己流に工夫し利用して、最終的に集団的ナルシシズムの充溢をめざすというルートです。

 

これを段階的なものとしてまとめましょう。

佐野波布一の日本精神の歴史的段階論とでも言っておきましょうか。

 

 ヽ依菠顕修龍佇戮弊歇

◆ヽ依菠顕修鮗己流に工夫して利用

 それを自らのアイデンティティとして捏造

ぁ^きこもり的内輪享楽にふけって自滅、混沌、衰退

 

日本人のメンタリティはだいたいこれの繰り返しではないでしょうか。

戦後日本の歩みもこの流れに合致すると思います。

もちろん現在は第い涼奮にあたります。

共同体のあり方を個人がどうにかできるはずもなく、僕はこの流れを冷静に見つめていくだけですが、

歴史の必然には逆らえないのではないかと思っています。

 

 

 

『高学歴モンスター : 一流大学卒の迷惑な人たち』(小学館新書) 片田 珠美 著

  • 2018.05.09 Wednesday
  • 10:48

『高学歴モンスター : 一流大学卒の迷惑な人たち』

(小学館新書)

  片田 珠美 著

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   自己愛過剰社会が高学歴モンスターを生む

 

 

学歴偏重社会である日本では、高学歴というだけで価値がある人間だという評価が得られたりします。

本来立派であるはずの一流大卒の高学歴な人が周囲に迷惑を巻き起こす事例が最近目立っています。

そんな「高学歴モンスター」の精神構造を、精神科医である片田が豊富な実例とともに分析し、対処法をレクチャーするのが本書です。

 

冒頭は「この、ハゲーッ!」発言で知られる豊田真由子元衆議院議員の事例で始まります。

高学歴エリートがモンスター化する例としてはこれ以上のものはないため、つかみは完璧です。

他にも務台俊介、今村雅弘、山尾志桜里、大王製紙の井川意高などを取り上げて、

片田はこれらの人物の特徴を以下のようにまとめています。

 

 ゞい特権意識

◆〜杼力と共感の欠如

 現実否認

ぁ‐況判断の甘さ

ァー覚の欠如

 

学歴によって「自分は特別だ」という特権意識を持つため、

他人への想像力のない自己中心的な振る舞いを平気でしてしまう、

その自己中心的発想を正当化するために現実を認めないので、

状況判断もできなければ、自分を客観視もできないのです。

精神医学の学問的背景があるだけに、この分析に関しては非常に妥当だと感じました。

おそらく、誰もが周囲にいる肩書きだけで中身のない人物について思い当たるのではないでしょうか。

 

片田は高学歴の人がこのような「モンスター」となる要因に、自己愛の強さがあることを指摘します。

アメリカの精神科医のグレン・ギャバードがナルシストを「無自覚型」「過剰警戒型」の2種類に分けたことを紹介し、

本書に取り上げた人物には「無自覚型」のナルシストの特徴が当てはまるとしています。

片田はその無自覚の奥には「鈍感さ」があるとして、その原因を以下の3つに整理します。

 

 ,發箸發抜脅性が低い

◆‖梢佑糧娠を遮断

 周囲の容認

 

片田は「無自覚型」になりやすい人物として、「先生」と呼ばれる人や、

「高学歴のうえ、社長の御曹司」という条件を挙げています。

この辺りの指摘も「身につまされる」ほどに納得しました。

 

僕が「身につまされる」というのは、実は僕自身が「高学歴モンスター」に嫌な目にあわされているからなのです。

僕が立命館大学の准教授である千葉雅也の著書に、Amazonで批判的なレビューを書いたところ、

千葉が自身のツイッターで「侮辱」だ「中傷」だなどと騒ぎ立て、

果ては僕のレビューのコメント欄に「弁護士に相談している」などと貼り付け、

なにか僕が違法行為でもしているかのような印象操作を行いました。

 

僕のレビューは千葉自身の文章への応答となっているので、よく読めば批判される原因はすべて千葉自身の文章にあるのですが、

千葉は自身の発言についてを省みることなく、一方的に僕の悪口をツイートしたのです。

本書を読んで、僕は千葉雅也が「無自覚型」ナルシストに加えて「過剰警戒型」の特徴もかなり持っているように感じました。

 

「無自覚型」が「他人の反応を遮断する」ことの理由は、

ナルシストが自己愛が傷つくことを恐れて、自己評価を守ろうとするからだと片田は述べています。

その傾向がさらに強まったのが、「過剰警戒型」ナルシストなのだそうです。

 

このタイプは、他人の反応に過敏で、他人の言葉に少しでも批判や侮辱が含まれていると感じると過剰に気にする。これは、羞恥や屈辱に人一倍敏感で、ちょっとしたことで傷つけられたと思いやすいためである。要するに、自己愛が傷つきやすいからこそ、過剰に警戒して守ろうとするわけだが、こうした傾向は「無自覚型」にも認められる。

 

この片田の記述を読んで、僕はまさにその通り、と思いました。

片田は本書の最後でエーリッヒ・フロム『悪について』に書かれた「悪性のナルシシズム」に触れています。

ナルシシズムにも良性と悪性があり、その分かれ目は努力の結果で得られたものか否かにあります。

努力や経験に裏打ちされたナルシシズムは良性ですし、基盤があるものなので他人の批判など恐れる必要はありません。

しかし、与えられたものによって成立した悪性のナルシシズムの場合、自分自身に基盤がないため、

高い自己評価は表面上のメッキでしかなく、小さな傷でペロッと剥がれてしまうということです。

 

これを反転させて考えると、

揶揄程度の批判でしかないものを「侮辱」だ「中傷」だと騒ぐ人は、

自分の評価がメッキで成立していると「無自覚」に認めていることになるのではないでしょうか。

千葉はたいした研究実績もなく、マスコミの引いたレールの上でチヤホヤされているだけの人なので、

与えられたメッキでしかない自己評価を守ることに必死になっているわけです。

 

准教授でもあるような人が、無名のネットレビュアーなどに執拗に文句を言っても得られるものはないはずなのですが、

高学歴エリートの中には幼児期のナルシシズムを引きずっている人がいて、

そういう人に「拒絶過敏性」が現れるそうです。

 

自尊心の傷つきを恐れるあまり、他人のささいな言動を批判や非難、ときには無視や拒否のように受け止めて否定的に解釈することもある。これは、精神医学では「拒絶過敏性」と呼ばれている。

 

「過剰警戒型」ナルシストと類似していますが、

うすっぺらい自尊心を持つ人間ほど、ほんの少しの批判にも過剰に反応するということでしょう。

俗に言う「弱い犬ほどよく吠える」ということですね。

千葉のような勉強が自慢の人が専門領域で反論をすることもできないなんて、自分の中身がないことを自ら証明しているだけなのですが、

それが「無自覚型」ナルシストというやつなのでしょう。

 

話を本書に戻します。

本書に感心したのは、単に困った人の症例を紹介するだけにとどまらず、

その原因が社会にあることにまで踏み込んだ点です。

片田によると「アメリカは世界一の自己愛過剰社会なのだ」そうですが、

その原因として心理学者たちの自尊心ブームがあると見ています。

アブラハム・H・マズローが自尊心の欲求を上位の階層に位置づけて、

ナサニエル・ブランデンが自負心を「人生の鍵」とまで評価したため、

自尊心とナルシシズムが混同されて、自己愛過剰の状態に陥ってしまいました。

その影響が遅れて外来思想をありがたがる日本にも到来し、子供を褒めて育てればいいという、

いたずらにナルシシズムを高めるやり方が広まりました。

 

フロイトは「経験によって強化された全能感」こそが健全な自己愛としているのですが、

「叱らず、ほめる子育て」が横行し、「経験にもとづかない全能感を抱く子供が増えた」と片田は述べます。

問題はそんな幼児的全能感を大人になっても抱え続けている大人が多いことです。

片田はハッキリとは書いていませんが、まともに叱れない親に問題があると言えます。

 

片田は高学歴モンスターを変えるのは無理だと言います。

その前提で対処法を述べているのですが、なるべく関わらないほうがいいという方向性でした。

関わったあとの有効な対策が書かれていないことが少し不満でしたが、

片田が「無自覚型」ナルシストの「鈍感さ」の原因として、「周囲の容認」を挙げていることを思い出す必要があります。

もともと高学歴を誇る人は、権力の源泉である世俗のヒエラルキーに従順です。

周囲が何も言わないから彼らはつけあがるのであって、

世俗権力から問題を指摘されれば態度を改めざるをえないわけです。

僕は千葉の所属する立命館大学に彼の行状を問い合わせるメールを送ったのですが、

それ以後、僕を名指しした悪意のツイートはパッタリなくなりました。

敗北した千葉の自分を納得させる勘違いツイートが傑作なのでちょっと載せます。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

自分で自分を肯定するというのは簡単ではない。一時的ではあれ、それに成功した状態は、気持ち悪がられる。それが成功していない方が普通だからだろう。

午後11:14 · 2018年5月4日

 

千葉の自己肯定はナルシシズムの強化でしかないため、

ナルシストであることは簡単ではない、と言っているのと同じです。

なかなか成功しないことを成し遂げている僕はすごいから、キモがられるのだ、という難易度の高い(?)自己肯定発言です。

一生やってろ、と言いたいですね。

 

御神体が鏡であることでもわかるように、日本はもともと自己認識のメカニズムにナルシシズムを置いている国です。

それを暴走させないために「世間の目」を意識させる村社会構造が必要とされていました。

近代的個人の自覚を育てずに「世間の目」だけを解体したために、こういう勘違いした人間を多く生み出しているのです。

ある意味、「高学歴モンスター」はそれを容認する周囲の人間が生み出しているということ、

もっといえば学歴だけで人間を評価しすぎる「肩書き社会」に問題があることを、

片田にはもう少し強調してほしかったところです。

 

 

 

『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ) 沖本 克己 著

  • 2018.04.09 Monday
  • 10:21

『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ)

  沖本 克己 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   言語で語ることのできない禅というものを語る

 

 

禅には「不立文字」という言葉がありますが、それは禅には文字が必要ないということを意味します。

学問的な知識、理論ばかりに傾くことを戒めた言葉で、実践の重要性を訴えたものです。

禅宗の開祖と言われる中国の馬祖道一も、言葉は真理への「道しるべ」だと語っています。

言葉が「道しるべ」とされるのは、それはただの標識であって、大事なのは悟りへと実際に到達する実践だという意味です。

このように、自分自身の内的な体得を到達点とし、言語化や理論化を避けるのが禅のあり方です。

そういう非言語的な世界を、言語によって語るという矛盾を無視できない沖本は、

禅とはこういうものである、というようなわかりやすい定義をしてくれません。

葛藤したり、逸れていったり、個人のつぶやきになったり、と非常に収まりの悪い本になっています。

ただ最後まで読むと、この収まりの悪い書き方こそが沖本の誠実さの現れであることがわかってきます。

 

本書は禅の本であるはずなのに半分以上は仏教史を追っています。

ブッダの教えから教団の成立、仏教の学問化(アビダルマ)、大乗仏教の登場という仏教変遷の歴史を解説した上で、

大乗の名だたる学者として、龍樹、弥勒、無著、世親、鳩摩羅什、玄奘などを取り上げています。

あまりに禅が出てこないため、途中でこれは何の本だっけ? という気持ちになってしまうかもしれません。

 

「シナ禅宗とはブッダ仏教の時空を隔てた再現であり、原点回帰運動の一つ」だと沖本は言います。

つまり禅は、ブッダの教えを学問化したことで失われた原点を取り戻すことを目的としているのです。

そこで禅が否定している仏教の学問化の歴史を理解する必要が出てくるのです。

 

沖本は仏教史をフィクショナルなものとして相対化するのですが、それがしっかりした仏教史の理解に裏打ちされていることが重要です。

本書の半分以上を占める仏教史の解説は、簡明でおもしろいのです。

たとえば沖本はブッダの教えを「縁起」に還元し、それまでのインド哲学であるウパニシャッドの実在論を否定したとします。

「縁起」の意味については次のように説明しています。

 

この「縁起」とは、すべては相対的な関係によって、今現成しており、そして絶えず変化し続ける。それ故、どこにも、如何なる固有の実体も存しない、ということである。

 

沖本はブッダの教えの根幹を縁起説に見ています。

すべて存在するものは一時的な現象であって、相対的な関係によって成り立っているため、

永続する絶対的な存在はなく、すべては変化していくという考えです。

ブッダ本人は何も書き遺さなかったので、教えは教団の弟子たちが口伝し、それがのちに経典となったのですが、

やがて仏法を自らのものとしないで研究の対象とする立場が生まれます。

それが学問としての仏教、アビダルマ仏教です。

 

自らと法が一体となるように努力せよ、というのがブッダの遺言であった。仏教はあくまで自らの主体に関わる問題であり、それを解決するための具体的方法であった。ところがアビダルマとは教法を客体化して自らの外に置いて学習と考察の対象とすることである。つまりアビダルマとは主体と客体を分離することに他ならない。

 

こうして仏教は精密な学問体系となりましたが、その弊害として次々に異説を生むことになったと沖本は述べます。

『臨済録』にその言葉が残る臨済義玄は、「青二才の愚かな坊主たち」が「まやかしの邪説」を信じているとオカンムリです。

修行や実践を忘れて、もっともらしい真理を語るだけになった仏教への批判が禅の根底にあるのです。

 

学問エリートによるアビダルマに反発した一派が大乗仏教を生み出していくのですが、

本書は大乗の思想についても三章に渡ってかなり念入りに扱っています。

ここにも興味深い沖本の指摘がいくつも見つけられます。

大乗が架空仏と同等となるほどに菩薩の地位を高めたわりに、

菩薩が「悟っていない存在」であることに変わりがないことに注目し、

大乗では信者に悟りはありえず、ただ架空のブッダを信奉するだけに終わる、と辛辣です。

 

仏教の「空」とはゼロであり、実体が無いことを表すという説明もかなり簡明です。

否定する対象を持たない「空」は「有無」とは別の次元にあるのです。

『華厳経』に関してもおもしろいことを言っています。

「『華厳経』とは多弁を弄しつつ多弁を否定するという奇妙な言語空間なのだ、というより他は無い」というまとめには思わずニヤリとします。

そして沖本は『華厳経』はどこまでも理論の世界で、具体的な実践を全く語らないと批判します。

 

「空」と「唯識」の思想、密教などをたどると、ようやく禅の登場です。

禅は言葉による伝達を遮断して直接的な心の了解をめざすため、

経典の言葉ではなく、師と弟子が心と心で伝達することを重視します。

心の伝達が仏教の原点回帰へと至るメカニズムを沖本はこう説明します。

 

この仏心の伝達の強調は、単にブッダから現在に至るだけではなく、却って自らの立脚点を確認する証拠として、過去にさかのぼってブッダに及ぶという意味をもつのである。

 

このようにブッダの教えから禅宗に至るまでの仏教の歴史的外観が、丁寧にまとめられています。

体系的でないはずの仏教を体系的に理解する試みは矛盾にも思えますが、

その葛藤を引き受けつつ理解するほかありません。

 

後半は禅の実践者たちの紹介になっています。

禅が言葉に頼らないことを考えれば当然ですが、

沖本は「禅宗には歴史に名をとどめぬままその波の中に消え去っていった有為の人物のはるかに多いこと」を指摘しています。

禅僧は悟りを得ても多くを語らないため、無名の人物が多いのです。

このような語らぬ禅僧を沖本は「沈黙の人」としています。

禅宗は沈黙の重みの上に成立しているのです。

 

それに対し、当人が語ったり当人の語録を弟子が残したりして「饒舌の人」となった禅僧もいます。

その功罪併せ持つ存在のなかで沖本が取り上げるのは、道元、白隠慧鶴、鈴木大拙の3人です。

本書の副題が「沈黙と饒舌の仏教史」となっているのは、

言語を用いなければ後世に残らないが、言語を用いると本質から外れるという禅の抱える難点のためだと思います。

 

道元は『正法眼蔵』という難解な書で知られています。

沖本は「通常の概念や論理構造を超脱し破壊して直接感性に訴える」ところが、

『正法眼蔵』を読む鍵ではないか、と実感を語っています。

道元は臨済宗や臨済義玄を強く批判しました。

それは臨済宗という小さな立場に仏教を限定することを危惧したからなのですが、

結局は道元も曹洞宗という立場で同じことをしてしまった、と沖本は述べています。

 

白隠慧鶴は江戸時代に日本独自の臨済禅という全く新しい禅宗を創始した人物です。

白隠には膨大な著述がありますが、晩年には大衆向けの平易な読み物や絵本まで書いています。

また、白隠は公案を分類、段階化して禅僧の教育をシステム化したと言われています。

(沖本は弟子の東嶺の仕業ではないかと考えています)

沖本からみると白隠という人物は、

「私の結論を言えば、白隠は禅傑であり同時に俗物である」と述べているように、

禅の修行を厳しく進める面と、俗な手段で大衆を導く面との二面性を備えた稀有な存在であるようです。

 

沖本が「胡散臭い」と最も反発しているのが鈴木大拙とその影響下にあった西田幾多郎です。

禅は個人的体験に根ざすのに、初学者に教えの道を示せるかのように振る舞うところや、

師と弟子のその場において成立する状況的な言葉を、禅とは不合理で非論理的なのだ、と一般化して平気でいるところや、

そもそも読解力が足りていないというところが大拙の問題点として糾弾されています。

 

禅匠は理屈づけのためなら儒教や道教、神道や西洋哲学の信徒となってもいい、という大拙の言葉を、

沖本は「何でもござれ」の野合の勧めとして解釈し、

大拙の論が暗黙理に禅と国家主義を結びつけて、普遍妥当性を捨ててしまうことを解き明かします。

こうして大拙は「宗教は普遍性を振り捨てて国家に奉仕することを第一義とする、と断言する」のです。

これを沖本は絶対矛盾的自己同一だと憤慨して述べています。

 

この延長に西田幾多郎『日本文化の問題』が置かれます。

西田論は数多くあるのですが、その中に『日本文化の問題』を取り上げたものはなかなか見当たらないのですが、

その中で「矛盾的自己同一としての皇室中心」と書いたことで、西田の時流への迎合が明らかになる著作です。

僕が気になるのは『日本文化の問題』のこの一文です。

 

私は日本文化の特色と言ふのは、主体から環境へと言ふ方向に於て、何処までも自分自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと言ふにあるのではないかと思ふ。

 

この一文には主体を否定する態度と人間である自己の否定によって「物」となる態度が現れているのですが、

主体を否定する反人間主義や人間不在の「物」へと至ろうとするあり方が、

〈フランス現代思想〉や思弁的実在論と重なるのは、何も僕の牽強付会ではありません。

檜垣達也や清水高志はすでに〈フランス現代思想〉と西田を結びつけています。

歴史と向き合わない彼らは、西田思想に含まれる戦時体制への迎合については取り上げもしません。

沖本がこの問題を正面から扱ったことは、西田と同じように時代に迎合するだけの〈フランス現代思想〉学者たちと比べて、

彼の学問的誠実さと知性を示すものだと僕は受け取りました。

真の「近代」が実現しなかったため、「近代」を西洋的な他人事ととらえた日本人が、

それを超えるものとしての東洋に突然居直りをしたのがポストモダンだったのではないか、

と沖本は述べたあとで、

「西田と大拙の時流迎合的な取り組み方も、この合理主義を唾棄する「ポストモダン」論議と状況を一にするものであった」

と「近代の超克」とポストモダン状況との類似へと思い至ったのはさすがと言えるでしょう。

 

大拙の禅文化論の問題点は、禅体験に寄りかかって禅の本質を見誤ったことに加え、

迎合的ファシズムとでもいうべき戦時体制へのへつらいにある、と沖本は結論づけます。

このあたりは歴史に詳しくないと沖本が何を言っているのか、理解するのが難しいところかもしれません。

それでも禅の汚点とも言うべき、扱いにくく難しい問題を避けずに向き合う態度は立派だと思いました。

仏教学者は今でもわりと戦時体制への迎合の歴史を語ることが多いように思います。

文化の中に過去のあやまちを刻み込んでいることが感じられますが、

それと同時に、西洋哲学の学者が西田などを扱う態度の方には蹉跌の影が感じられません。

つまり、西洋哲学の学者は自国の過去のあやまちを「他人事」と考えがちであるため、

かえって過去の愚を繰り返す危険があるということです。

西田幾多郎はポストモダンだと安易に持ち上げている人にこそ読んでもらいたい本だと思いました。

 

 

 

『京都学派』 (講談社現代新書) 菅原 潤 著

  • 2018.03.02 Friday
  • 14:57

『京都学派』  (講談社現代新書)

  菅原 潤 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   京都学派を包括的にとらえた名著

 

 

本書カバーの経歴には、菅原の専門が日本哲学史と書いてあるのですが、

「あとがき」を読むとどうやら専門はF・シェリング研究であるようです。

専門の仕事でない本の出版に葛藤があった菅原が、

「胸を張って堂々と本書を世に問いたい」と言うほどに、充実した内容になっています。

正直に言って、久々におもしろいと感じながら思想関係の本を読んだ気がします。

 

ただ、本書に登場する学者の本をある程度読んだことがある僕には興味深くても、

そうでない方にはマニアックな専門書と感じられるかもしれません。

たとえば菅原は東北大の出身ですが、東北大の雄である高橋里美に対する記述はかなり厚めです。

西田幾多郎や田辺元を批判した高橋の存在を僕が知ったのは、実は数年前でしかなく、

まだ存命だった父に高橋のことを尋ねた記憶があるのですが、

父の書庫にも高橋関連の著作はひとつもありませんでした。

そんな高橋の包弁証法についての解説がされていたことは、通り一遍の京都学派の本よりも魅力的に思えました。

 

菅原は戦後の京都学派の流れまで追いかけているので、

戦中の京都学派の戦争協力が、戦後にどのような問題意識で受け継がれたかも理解できるのですが、

そこで菅原は人間魚雷「回天」(一種の特攻隊)の搭乗員だった上山春平に高い評価を与えています。

菅原は仏教に興味があり、上山の『仏教の思想』シリーズによって京都学派を意識したらしいのですが、

僕もこのシリーズは文庫版ですが四五冊持っています。

ただ、上山がプラグマティズムの創始者C・パースの研究者だったことや、 彼の「アブダクションの理論」についてはよく知りませんでした。

 

京都学派がヘーゲル弁証法と深い関係があるのはもちろんですが、

菅原は京都学派とプラグマティズムの関係にも注意を促しています。

西田とW・ジェームズの関係は「純粋経験」においてよく知られていますが、

高山岩男のJ・デューイに対する評価や、前述の上山とパースの関係など、

最近のフランスからアメリカへの哲学の流れを先取りしている、と菅原は評価します。

 

日本の西洋哲学研究の草創期についての概説も興味深いものでした。

東大哲学科発足時にいた井上哲次郎がキリスト教を嫌悪していたことが、

西田幾多郎の東洋への志向を後押ししたのではないかとする説や、

「種の論理」を書いた田辺が実は弁証法を嫌っていたなど、

思わず「へえ〜」とつぶやきたくなる情報も多くありました。

 

興味深い論点が多すぎて語りきれないのですが、

京都学派の巨人である西田や田辺だけに興味がある人にとっては、

本書は扱っている範囲が広すぎるので、焦点が拡散する印象になるかもしれません。

しかし、哲学史というアプローチからすれば、包括的かつバランス良く書かれていると思います。

紹介される思想の解説は簡潔なのにわかりやすく、菅原の見識の深さにも感心しました。

 

菅原は京都学派の戦争協力について、やはりナショナリズムから逃れられなかったことを問題視しています。

「わが国の知識人のなかには、方法論的に違いはあるものの、

どうにかして日本文化を中国文化から際立たせようとする傾向が根強く存在するようである」

こう述べる菅原が取り上げたのは1957年の梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」です。

そこでは日本をイギリスと同列に扱う史観が展開され、それに便乗した竹山道雄などがナショナリスティックな反応をしたのです。

 

「自文化礼賛」に陥っていく学者は、現在でも多く存在しています。

僕は〈俗流フランス現代思想〉がそのような役割を果たしたと書き続けています。

そのため、G・ドゥルーズ学者やM・セール学者が京都学派(というか西田幾多郎)を持ち出すことに内心愉快でない思いを抱いていました。

京都学派的な「西洋派の日本回帰」には戦争協力という反省すべき点があることを考慮せず、

ポストモダン的な非歴史性を頼りにして、観念論だからと西田を再評価する態度は軽薄でしかありません。

 

西田の弟子である西谷啓治はルネサンス以後の人間中心主義と民主主義を批判し、

理性を否定するところに生の根源性である「主体的無」が見出されるとしました。

この「主体的無」が社会制度という媒介を欠いた国家への「滅私奉公」へと結び付けられます。

菅原は西谷がヒトラーを賛美した文章を引用していますが、

このような理性を否定する反人間主義は、最近の思弁的実在論の方向性に近いと感じます。

(思弁的実在論の人間不在を批判するマルクス・ガブリエルは菅原と同じシェリングの研究者です)

 

西洋近代を批判することで、日本の後進性を押し隠そうという欲望は、

このように古くからあるものです。

菅原はこの延長にネトウヨがいることを指摘していますが、まさにその通りだと思います。

バブル以後の日本の思想界は、自覚的か無自覚的かにかかわらず、いまだにその欲望に囚われています。

僕も属するバブル以後の消費享楽世代は、日本が西洋と同様の近代を達成した存在だと疑問もなく捉えて、

日本の後発近代性をめぐる戦中・戦後思想の格闘と挫折を忘却しようとしています。

(柄谷行人まで語った菅原が、ニューアカ以後に触れないのは、そこに思想史の断絶があるからでしょう)

歴史と断絶した「現代思想」を盲目的に賛美している人こそ、本書を読んで日本の思想史を学んでほしいと思いました。

 

 

 

『マルクス 資本論の哲学』 (岩波新書) 熊野 純彦 著

  • 2018.02.22 Thursday
  • 17:22

『マルクス 資本論の哲学』  (岩波新書)

  熊野 純彦 著

 

   ⭐⭐⭐

   すでに自分で『資本論』を読んだ人向けの本

 

 

熊野純彦の本は一般書の体裁であっても、学術論文のスタイルからそれほど離れていません。

テキストに対して忠実な姿勢で読んでいくのが基本です。

わりと面白みの少ない学者らしい説明が続きます。

それでいて概説書というわけでもないのが難しいところです。

熊野の興味自体は案外共有しにくいところにあったりするので、よく読まないと彼の意図についていけなくなります。

(たとえば本書なら「フクシマ以後」という熊野の問題意識を共有できるか、という点ですね)

なので、自身が読んでいないテキストを熊野の本で理解しようとすると、

たいていはその試みが打ち破られることになってしまうと思います。

 

本書も一度は『資本論』を読んだことがある人でないとあまり楽しめないのではないかと思います。

熊野は『資本論』の内容を忠実になぞった書き方をしているので、

入門書としても通用してもいいような気がするのですが、案外そうならないのは、

熊野がテキストに忠実すぎて、その外になかなか出てこないからだと思います。

たとえば価値形態論の話をするときに、僕なら「メルカリ」などを例に出して説明するでしょう。

商品が商品に「なる(生成する)」のは、それ自身の価値のためではなく他の商品との関係においてである、という話をしたいなら、

自分にとって不必要な(つまり使用価値がない)ものであっても、「メルカリ」では商品と「なる」ことで説明すればわかりやすいと思うのです。

当然、このようなあり方は価値と価値の等価交換ではありませんし、

価値とはその商品自体ではなく、外部のものによって現れることがわかります。

こういうのはテキストに固着しすぎないで、ある程度「現実」を導入した方が、

わかりやすく、その論の有効性も確認しやすくなるように思います。

しかし、熊野は徹底的にテキスト固着型の人なんですよね。

 

もちろんテキストにこだわることは大切です。

だから僕自身は熊野の書くものは結構好きです。

ただ、多くの読者が面白いと思うかといえば、そうではないだろうと想像できてしまいます。

さらに問題なのは、そのようなスタイルで『資本論』の読解を進めてきたのに、

最後になって急に「フクシマ以後」という「現実」を持ち出してくることです。

唐突な進路変更に読者が戸惑うのも仕方がないように思います。

 

第江呂廼箙埒用と恐慌について解説したあと、

手形によって商品の代価を得るより先に資金を入手する信用操作が莫大な架空資本を製造するという話から、

デリバティブによるバブルとグローバリズムの話へと接続するあたりや、

株式投資ではいつか暴落が起こる、という話から、

「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例として原子力発電所の問題へと接続するあたりは唐突と感じます。

「わが亡きあとに洪水は来たれ!」の例ならば、アベノミクスと呼ばれる異次元の量的緩和のことを挙げた方が妥当なのではないでしょうか。

物質代謝の話ならば原発を持ち出すのは構わないのですが、

原発は(この期に及んでも)、いつか落ちる雷だとは思われていないのではないでしょうか。

このあたりも、熊野がテキストと「現実」を結びつけるのがあまり得意でないと感じます。

 

最後に熊野は交換そのものに否定的な見解を示します。

熊野はK・マルクス最晩年の文献『ゴータ綱領批判』を引用し、

コミューン主義の第二段階を「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」の文で示します。

この段階に至っては、分配の原則が「各人の必要」となるため、

平等な分配でもなければ、交換でもなく、原理として前提されるものは「贈与」だとし、

「他者との関係と他者の存在そのものを無条件的に肯定する贈与です」としめくくります。

こうして熊野は贈与の原理を考える必要を述べて本書を終わるのですが、

ここで僕は熊野がE・レヴィナスの思想を所有の観点から読んでいたことを思い出しました。

 

まさに「資本論の哲学」にふさわしい抽象概念で本書は閉じられます。

ここで直接に本書とは関係ありませんが、僕自身が本書の価値形態論を読み直して考えたことを少し書きます。

(興味のない方はこの先は読まないでください)

 

商品は使用された時にはもう商品でない、と熊野は述べています。

確かに返品できるのは使用以前の段階で、十分に使用している時の道具は商品ではありません。

そして、その商品を買った人がどう使うかは自由です。

ハンマーをつっかえ棒として使ってもいいですし、スマホを文鎮として使っても構わないわけです。

つまり、使用価値はモノ自体にあるものではなく、購入者の「意味づけ」だということです。

 

そうなると、意味というのは商品購入以後の使用価値において存在するのであって、

貨幣による価値づけ(交換価値)において意味は必要がないわけです。

交換価値は抽象的な人間にとっての価値であり、あなたにとっての価値ではないのですから。

 

さて、僕が話したいのは文学や思想のことです。

意味というものは各人にとっての使用価値なので、ローカルな領域にしか存在できません。

しかし、貨幣的価値は抽象化されているため、グローバルな流通が可能です。

何が言いたいかわかりますか?

グローバル化が各人にとっての意味、つまり文学や思想を殺すということです。

〈俗流フランス現代思想〉が反人間中心主義を標榜し、意味を排除していったのは、

アングロサクソン主義、つまるところグローバリズムに依拠した「ヘゲモニーと同衾する思想」であったのです。

 

結果、彼らはローカルな「意味」の代わりにグローバルな数式や理系的価値づけに擦り寄るわけですが、

こういう連中が文学者ヅラや思想家ヅラをすることを許してはいけません。

彼らは文学や思想の敵でありスパイであり裏切り者であるからです。

(もちろんそれが現代的で新しい文学や思想でないことも今やハッキリしています)

 

意味がない文学作品が現代的だと考えているお目出度い人が日本には大勢います。

彼らは堂々と文学を裏切っているくせに、自分では文学をやっている気分になっている失笑を禁じえない人物です。

そして、資本の飼い犬に成り下がった出版社が彼らを後押ししています。

そんな〈俗流フランス現代思想〉に感化された「ヘゲモニーと同衾した太鼓持ち」に文学を語らせてはいけません。

文学や思想は資本による非人間的な抽象化に抵抗し、ローカルな局面に立って各人にとっての意味の回復に努めるべきなのです。

グローバル資本のプードルちゃんを一刻も早く文学から追放するべきですし、そのために僕は彼らを糾弾し続けます。

 

 

 

『悪について』 (ちくま学芸文庫) エーリッヒ・フロム 著

  • 2018.01.22 Monday
  • 07:51

『悪について』  (ちくま学芸文庫)

  エーリッヒ・フロム 著/渡会 圭子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   衰退のシンドロームから現代を考える

 

 

ユダヤ人のエーリッヒ・フロムは、ナチスから逃れるためアメリカに亡命した社会心理学者です。

フロムの考える「悪」にナチスが関係していることは、

本書でたびたびヒトラーに言及されることからも明らかですが、

それにとどまらず人間や悪に対する本質的な考察へと高められた内容になっています。

 

フロムは本書で「衰退のシンドローム」の批判的考察をしています。

衰退のシンドロームは、死への愛、悪性のナルシシズム、近親相姦的共生に大別されます。

これに対して、良性の形態である「成長のシンドローム」は、生への愛、ナルシシズムの克服、独立心となるのですが、

こちらについては提示されるだけでほとんど考察の対象になっていません。

 

衰退のシンドロームの考察の前に、フロムはさまざまな形態の暴力について語ります。

そのなかで現代を考える上でも僕が重要だと感じたのは、「補償的暴力」とされるものです。

補償的暴力は自分が無力であるという苦悩を、自分や他人の生を破壊することで埋め合わせる暴力です。

「誰でもよかった」と見ず知らずの女性を殺してしまう事件などは、

社会的かつ性的な無力さを反映した補償的暴力の行使である可能性があります。

 

第3章は死への愛、ネクロフィリア的性向について書かれています。

死んでいるものすべてや、汚物などに心を惹かれる傾向のことで、破壊に魅了されたヒトラーが典型例だとします。

ネクロフィリア的な人は過去に目を向け、破壊を成し遂げる力に魅了されています。

フロムは人々が核戦争への抗議に立ち上がらないことの原因の一つが、生を愛さずに死に惹かれているからと考えられる、と述べています。

近代産業社会的な合理化、抽象化、官僚化、物象化が機械的なアプローチを推し進め、

それが生をないがしろにするとして、フロムはヒューマニズムを対抗原理として掲げます。

このあたりの考察はわりと常識的で特に面白味はないかもしれません。

 

次の第4章はナルシシズムの危険性について書かれています。

最近はインターネットを自分好みのものとだけ付き合うナルシシズム充溢の道具として利用し、

他者を不可視化したり、異質な意見を排撃する傾向が先鋭化しています。

立命館大准教授の千葉雅也は自分の著書に低評価なレビューを書いた人を「基本アホ」とツイッターで発信しましたが、

自らのナルシシズムもコントロールできない人間が教育者であることに疑問も持たれない堕落した時代となっています。

ネット空間とナルシシズムの関係を研究する人はまだ見かけませんが、僕は非常に由々しき問題だと思っています。

 

フロムはナルシシズムが合理的判断をゆがめることを指摘しています。

「自分と自分のものは過大評価する。他のものはすべて過小評価する」と書かれている通り、

行き過ぎたナルシシズムは「自分の内輪の世界」を特別扱いする傾向を強めます。

そう書いた後にフロムはこう続けます。

 

ナルシシズムのさらに危険な病理的要素は、どんなナルシシスティックに備給された状況への批判にも、感情的に反応することである。ふつう人は自分がしたことや言ったことを批判されても、その批判が公平で悪意のないものであれば怒ることはない。しかしナルシシスティックな人は、批判されると激しく腹を立てる。そういう人は批判を悪意ある攻撃と感じやすい。まさにそのナルシシズムのせいで、批判を公正なものだとは想像できないのだ。

 

批判の内容にかかわらず批判そのものがアホの仕業とでもいうような感情的な反応を示す人間が、

ナルシシズムの病理に侵されていることはフロムの考察からも想像できると思います。

フロムはこのようなナルシシスティックな人間が、実世界と関わらないために孤独でおびえている、と指摘します。

この恐怖を避けるために、批判者か自分自身かを破壊することになるのです。

 

その後、フロムは集団的なナルシシズムへと話題を移します。

集団的なナルシシズムにも良性と悪性があるのですが、

問題の悪性の方は、集団的ナルシシズムの対象がこれから成し遂げる未来でなく、

現在の集団そのものや過去の栄光などに向けられているものです。

現代ではネトウヨ的な国家権力への同一化を悪性の集団的ナルシシズムと解釈することができそうです。

 

フロムは集団的ナルシシズムの社会学的機能として、

成員の多くに満足できる何物かを与えられない時に、

単にその集団に属しているというナルシシスティックなプライドを与えるしかなくなる、とするのですが、

このあたりの指摘は非常に興味深いものと言えるでしょう。

経済成長が思うように進まず、経済的満足感が得られない時に、

為政者はその国に属していることの素晴らしさを喧伝し、集団的ナルシシズムを高めるようになるわけです。

安倍晋三やドナルド・トランプがこのような手法を採っていないと言えるでしょうか。

 

フロムは「人間の目的は自己のナルシシズムを克服することだ」と述べています。

仏教やユダヤ教、キリスト教の教えにも同様の考えが見られるそうです。

フロムはナルシシズムとの戦いにヒューマニズムの重要性を強調します。

自分と他人が同じ人間存在として理解し合える、というヒューマニズムの経験がナルシシズムの克服を導くのです。

 

第5章では母親への固着による近親相姦性共生が問題にされています。

共生とは母親と胎児のように結びついた状態をいうので、

簡単に言えば子宮回帰願望となるわけですが、これが退行欲求として生から遠ざかる結果となるのです。

以上の三つの性向は悪質になるほど一つに収束していきます。

 

フロムの分析はサブカル文化に依存した日本人にとっては受け入れがたいものだと僕は想像します。

ネクロフィリア的性向そのものは日本人と縁が深いとまでは思いませんが、

二次元のキャラへの偏愛傾向をネクロフィリア的だと解釈するならば、類縁性が高まります。

すでに書いたようにナルシシズムの克服は日本人の苦手なところだと思いますし、

村上春樹の『海辺のカフカ』や『新世紀エヴァンゲリオン』など、日本のサブカル文化には母との一体化願望がよく描かれます。

 

これらをすぐに悪だと決めつけるのが正しいのかわかりませんが、

悪へとつながる問題を含んだものであることは認識しておく必要があると感じます。

とりあえず、自分にその傾向があるかもしれないと感じる人は、

本書を一読しておくことで何か得るものがあるのではないでしょうか。 

 

ただ、最後で自由を求める思想家としてフロムが評価した三人(スピノザ、マルクス、フロイト)が、

すべてユダヤ人であることには注意しておきたいところです。

 

 

 

評価:
エーリッヒ フロム
筑摩書房
¥ 1,080
(2018-01-11)

『トマス・アクィナス──理性と神秘』 (岩波新書) 山本 芳久 著

  • 2018.01.14 Sunday
  • 21:19

『トマス・アクィナス──理性と神秘』  (岩波新書)

   山本 芳久 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   神学と哲学の総合という全体への視線

 

 

西洋中世の代表的神学者かつ哲学者であり、大著『神学大全』を残したトマス・アクィナスの思想に触れる本です。

神学者かつ哲学者なのは、トマスが説教活動を重視するドミニコ会の一員であるとともに、

当時イスラム世界を経由してもたらされたアリストテレスの哲学を受容し、両者の総合を目指したことによります。

 

「本書は、可能な限りのわかりやすさを心がけて執筆されている」と山本は序文で述べています。

その意味では入門書と言えなくもないですが、トマスの思想を一通り概説するよりも、

山本の関心を優先しているため、文章は平易でも内容に学術的な敷居の高さはあると思います。

僕自身はスコラ哲学については無知な素人のため、読み終わるのに時間を要しました。

 

最近、理性の限界を認めるのが「保守」であるなどと浅薄な定義をする反知性主義者を多く見かけますが、

そんな「保守思想」などが生まれる以前から、理性を超えるものを「神秘」としていたのが神学です。

その「神秘」がトマスにとって「理性」とどのような関係にあったのか、

山本は膨大なトマス思想の中で「徳」を中心に据えつつ考えています。

 

山本はトマス哲学の根本精神に理性的な態度があるとします。

「理性的」とは自らの限界を認めつつ、総合的な理解によって自己超越へと至る開かれた態度だと言います。

トマスは「神秘」に触れることで「理性」が開花するという、両者の相互的な調和を徹底的に追及しました。

そして神の愛による人間存在の全面的肯定を積極的に描き出したのです。

 

このようなトマス神学の全体像に至るため、山本は「徳」の考察から始めます。

トマスは徳を、神との関係から成立する「神学的徳」と、

自己や他者との関係から成立する「枢要徳」に分けています。

枢要徳は「賢慮」「正義」「勇気」「節制」というアリストテレスが重視した徳に基づきます。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間のその都度の行為の究極目的を「幸福」とし、

その実現は能力を100%発揮できる充実した行為によってなされると考えました。

徳とはその能力全開に至った状態を意味しますが、それは善い習慣によって形成されます。

 

トマスは『神学大全』で、キリスト教固有の信仰・希望・愛という神学的徳から枢要徳へと話を進めているのですが、

アリストテレスの徳理論をキリスト教神学の文脈に置き直して、独自の徳理論を構築したのだ、と山本は述べています。

 

僕が興味を惹かれたのは、節制と抑制との違いについてです。

嫌々ながら欲望を我慢するのが抑制です。

悪しき欲望を理性的な意志で抑え込むのがこれにあたります。

それに対し節制は、欲望をあるべき方向に向かわせる徳なので、

深刻な葛藤を生じることなく理性的なあり方へと適切にコントロールされるのです。

理性が調整機関であるという考えはおもしろいと思いました。

総合を目的とするかぎり、調整機関が重要になるのは必然でしょう。

 

ついでトマスの神学的徳の説明がなされます。

トマスの信仰の捉え方がいかに知と密接にあるか、信仰と理性が不可分であるかが示されています。

全知である神の「知恵」によって理性を完成させるのが神学の営みだとされます。

 

また、キリスト教神学の基本概念である「徴(シグナム)」についての説明も勉強になりました。

目に見える感覚的世界を通じて、目に見えない認識困難な超自然的なことを人間に明示する「徴」という概念が、

現代思想にも姿を変えて生き続けていることに思い当たりました。

 

恩寵と自由意志の問題から神と人間との友愛も語られます。

人間は自由意志によって神と固く結びつき、「神に分け与ること」で理性だけで獲得できない超自然的認識へと心が開かれます。

信仰が理性を完成させるというのは、このような神の助けによるのです。

 

第4章では神と人間との友愛を取り上げ、愛徳(カリタス)という神学的徳としての持続的な愛の重要性を説いています。

神が自らの至福を人間に分かち与えることが友愛の成立の基本的な条件だとし、

それが神からの一方的なものではなく、双方向的なものであることを示すために、

カリタスという語も二義性があるのです。

トマスが自己愛を基本として優先し、その延長に隣人愛を置いたことも重要だと感じました。

 

山本は最後の章で理性と神秘の関係についてまとめています。

理性がその限界を超えた神秘を理解すべく格闘することで、人間であることを超えていくことが確認されます。

 

こうして本書を見直してみると、平易でありながら濃密にトマス思想のエッセンスの詰まった内容に驚かされます。

読み捨ての新書として扱わずに、じっくりと時間をかけて読んでいただきたい本でした。

 

 

 

『ブッダたちの仏教』 (ちくま新書) 並川 考儀 著

  • 2018.01.01 Monday
  • 15:16

『ブッダたちの仏教』 (ちくま新書)

  並川 考儀 著

 

   ⭐⭐⭐

   仏教の展開からその全体像を描く

 

 

本書は仏教の教えを解説するものではありません。

題名に「ブッダたちの」とあるように、開祖のゴータマ・ブッダ(釈迦)について考察して、

その後の仏教の展開を追いながら、仏教の本質を描き出すことを試みています。

 

並川は「ブッダ」という言葉は「真理を悟った人」という意味で、

インドでは釈迦以前にも使われていたと述べます。

つまり、ブッダはゴータマ・ブッダだけではないのです。

題名が「ブッダたち」と複数になっているのはそのためです。

 

「仏教」には二つの解釈があるとも言います。

悟りを得たブッダたちの教えを守り実践するという面と、

人格を完成させ真理を体得することで悟りを得て、「ブッダになる教え」という面です。

このような二つの解釈が普遍性と個別性の二つの構造へとつながっている、というのが並川の考えです。

 

キリスト教が『聖書』、イスラム教が『クルアーン』などの限られた聖典を持つだけなのに対し、

仏教の経典は時代とともに多様な展開を見せています。

初期経典ですらゴータマ・ブッダの教えそのものではなく、仏弟子によるものと考えられます。

 

仏教はその時代やその地域に対応して宗派を発展させ、

その宗派の開祖がゴータマ・ブッダと同様もしくはそれ以上の信仰対象となっています。

並川は仏教がこのように多様な展開をしていく宗教であることを重視しています。

たしかに仏教はインド仏教、チベット仏教、中国仏教、日本仏教と、

それぞれの地域に入り込んで独自の発展を果たしてきました。

その理由については「何よりも仏教が人間を軸にした宗教であることによる」とします。

神ではなく人間を中心にした宗教であるということが、多様性を生み出すという並川の主張は非常に興味深く感じました。

西洋思想には人間中心主義を排斥することが多様性への道だと考える発想がありますが、

仏教を参考にすれば、むしろ反人間中心主義は他者を自己に同化させるものであるのかもしれないのです。

 

人間のあるべき道を解き明かす宗教である仏教は、

信仰対象の違いによって宗教上の対立や摩擦を引き起こすことがありませんでした。

他国から宗教が入り込むと自国の宗教が排他的行動をとるのが普通です。

しかし仏教にはそれが起こりません。

それは仏教が絶対神に対する信仰を持たないからだ、と並川は述べています。

 

結果、仏教は普遍性たる「真理」を伝達するという目的を達するためには、

その「教え」が正しくても執着せずに捨てていく態度を取ることになります。

「真理」は変わらなくても「教え」は変わってしまうのです。

並川はそこまで踏み込みませんが、

僕はこのような仏教の二面性は「伝達」という目的を重視する態度によって

導かれていると考えます。

人間中心主義と伝達性の重視こそが仏教の普遍かつ特殊なあり方を支えているのです。

(ちなみにこの両者は「フランス現代思想」によって価値を貶められているものです)

 

終章で並川は現在の日本の仏教界に痛烈な批判を浴びせます。

仏教は時代に即して変化するものであるので、現代には現代に即した仏教が必要なのに、

現在の仏教界は自らが主体的に実施したわけでもない檀家制度に寄りかかり、

危機的状況にありながら無策のままでいます。

まずは既存の体制への身を削る自己批判と、現状を直視する真剣な対応が必要だとします。

現代の要請に応えられない仏教でいいのか、という並川の問いかけは重いものだと感じました。

 

 

 

「現代思想 2017年6月臨時増刊号 総特集=マルクスの思想 ―『資本論』150年―」 (青土社)

  • 2017.12.25 Monday
  • 00:26

「現代思想 2017年6月臨時増刊号 総特集=マルクスの思想 ―『資本論』150年―」 (青土社)

 

   ⭐⭐⭐⭐

   マルクス思想の衰退の中で

 

 

90年代に青年期を過ごした僕にとっては、すでにマルクスは教養人の必読書ではなくなっていました。

大学教師からもマルクスの話を耳にする機会もなく、

柄谷行人や今村仁司を読んでぼんやりとその影を知るくらいのものでした。

 

柄谷がNAMの活動に行きづまったあと、その後釜と目された浅田彰、ひいては東浩紀が、

「フランス現代思想」を消費資本主義的精神として受容する〈俗流フランス現代思想〉を何か「とがった」もののように語ったために、

思想はメタに立つだけの去勢された「ネット民メンタル」の肯定に勤しむ道具となりました。

東日本大震災後の東浩紀が急にネット批判を始めたりしましたが、

「おまえがどの口で言っているんだ」というメタに立ったものでした。

その系列にいる千葉雅也が「接続過剰」を批判しつつ、自分は中毒者のように1日20回以上のツイートを垂れ流すことに矛盾を感じないのも、

〈俗流フランス現代思想〉による単なるメタ的ナルシシズムの現れだと考えると理解しやすいと思います。

 

そもそも日本では、マルクス主義が政治的社会的観点ではなく、単なる「青年の主張」として受容されたきらいがあります。

マルクス思想の世界的な影響力が低下してしまうと、

その残滓がネット的な「ボクちゃんのナルシシズム保存装置」の末路を迎えることになったのは必然と言えるかもしれません。

商売に勤しむだけでこれっぽっちも社会と戦わないのに、思想家ヅラだけはするのですから。

今や「思想」は過大な自意識を抱えた大人になれない人の「慰み」以上のものではないと思います。

 

マルクス特集の本が出るのは個人的にうれしいのですが、

國分功一郎が伊勢丹メンズでマルクスの刺繍入りシャツを買うように、

単なるマルクス「趣味」の人のための読み物という印象を越えませんでした。

本書をキッカケにマルクス思想に興味を持つ人がいるかといえば疑問です。

 

その中でもさすがと思わせたのは柄谷行人の論考でした。

柄谷は最近めっきりマルクスへの直接の言及がなくなった印象なので、

本誌の論考をノスタルジックな感慨を抱きつつ読みました。

 

交換には交換を要求し保証する力が不可欠です。 

柄谷はマルクスの物神とは、交換をもたらす霊的存在(アニマ)を想定していたとし、

「信用」は物神からもたらされる、と述べています。

 

通常の社会的関係では、人間が意識的主体である。しかし、商品交換では、商品に付着した物神が主であり、人間はそれに従うほかないのだ。このような転倒は、資本の蓄積運動においてもっと顕著となる、と同時に、その倒錯性が見えなくなってしまう。それを明らかにするのがマルクスの仕事であった。

 

マルクスを交換様式という視点から考えてきた柄谷らしい論考です。

交換価値はいつでも使用価値を得ることができる力です。

その蓄積は貨幣を使わないことにあるのですが、資本家は何かを買いそれを売ることで多くの貨幣を得ようとします。

 

貨幣を蓄積する欲動が資本の運動の根源にある。一般に資本主義社会はひとが物欲にかられる社会だと見られているが、資本家を駆りたてるのは、物への欲望ではなく、物を獲得する権利ないし力を獲得することへの欲動である。

 

資本の蓄積運動は個人の欲望や意志から起こるのではなく、物神によって駆りたてられたものだ、と柄谷は述べます。

 

産業資本について解説したあと、柄谷は株式資本が資本の最初期の形態への回帰だとするのですが、

このあたりも非常に面白く読みました。

株式資本の譲渡は資本が商品として扱われたものと考えられます。

そのため株式資本によって、物神が全生産を支配するようになるのです。

柄谷の論考はこのあと金融資本と恐慌とグローバリゼーションへと話を進めます。

ここでまとめきれる内容ではないので、興味のある方は一読されることをオススメします。

 

熊野純彦のインタビューもあります。

熊野は『資本論』第1巻の価値形態論だけを読むのは不毛で、全3巻を見る必要があると言っています。

僕は第1巻は熟読したのですが、それ以降は適当にしか読んでいないので、

申し訳ない気分になりました。

 

MEGA(マルクス・エンゲルス全集)の編集に関わる佐々木隆治は、

マルクス経済学批判の独自性が何であるかについて考察しています。

佐々木はマルクスの抜粋ノート研究から、素材代謝という視点でマルクスの再評価を行なっていますが、

ここでも物証的な経済的形態規定と素材的な世界の対立が問題だと述べています。

 

アントニオ・ネグリとアラン・バディウの論考もとりあえず載っています。

ネグリの論考を読むと、バディウに対してかなり批判的であることがわかります。

バディウの言う「出来事」は、それが生産される内的論理がないため、信仰と区別できない、とか、

バディウ的な「過激主義」は階級闘争の否定だとか述べています。

バディウの論考はそれに対する応答という印象です。

 

斎藤幸平はマルクスの「物質代謝」概念に注目したエコロジー的言説の展開について、

ジェイソン・W・ムーアの価値論を中心に据えて書いています。

直後に斎藤が訳したムーアの論考が掲載されているので、その入口としての役割を果たしています。

 

佐々木、斎藤、隅田の論考は「ニュクス」3号や『マルクスとエコロジー』でも読んでいますが、

どうしても学術的な専門性が強い書き方で、一般読者の関心を得るような内容ではないと感じます。

「利潤率の傾向的低下」の話など、なされる説明が専門的で一通りなため、僕には把握しづらいものがありました。

 

他にも論考はいくつもあり、内容は盛りだくさんではあるのですが、

すべて読み終えてから、現在におけるマルクスの思想の有効性がどこにあるのか、ということを考えてみると、

焦点が拡散していてどれも決め手がなく、むしろマルクスの姿が薄らいでいくような印象でした。

いっそのこと、今でも階級闘争を語った方がいいような気がしてしまいました。

 

 

    

評価:
柄谷行人,熊野純彦,植村邦彦,酒井隆史,佐々木隆治,山本圭,アントニオ・ネグリ,アラン・バディウ,カール・マルクス
青土社
¥ 2,052
(2017-05-22)

『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書) 出村 和彦 著

  • 2017.11.23 Thursday
  • 10:28

『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書)

  出村 和彦 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   アウグスティヌスの生涯を丁寧に描く

 

 

ローマ帝国末期にキリスト教と寄り添いつつ思想を探求したアウグスティヌスは、
76歳で生涯を閉じるまで、『告白』『神の国』をはじめ膨大な著作を書き残しました。
本書はアウグスティヌスの著作に分け入るよりも、生涯の様々な局面で彼がどのように思索を深めていったのかを重視し、
自己の内面に向き合う「心」の哲学者としての側面を取り上げています。

僕はアウグスティヌス関連の書物を初めて手に取ったのですが、
伝記的な面の強い本書を読み通すのに苦労はしませんでした。
キリスト教についての特別な知識も必要としないので、初学者も気軽に読める本だと感じました。

313年のミラノ勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認されて間もない354年、
北アフリカのタガステでアウグスティヌスは誕生しました。
キリスト教の原罪論や予定説、三位一体について考察したアウグスティヌスがアフリカ出身というのも意外でしたが、
もともとは当時北アフリカに広まっていたマニ教の信徒であったというのはもっと意外でした。

マニ教徒だったアウグスティヌスがいかにしてキリスト教徒となったか、というのが前半期のドラマになります。
出世の階段を登り、ローマに変わり帝都となったミラノへと出たアウグスティヌスは、
カトリック司教のアンブロシウスと出会います。
アンブロシウスは創造主の被造物は善であるため、悪は「善の欠如」と教えます。
マニ教は善悪二元論を基本とするので、
悪をなす原因が自由意志にあるというアンブロシウスの教えを、アウグスティヌスはすぐには理解できませんでした。

出村はアウグスティヌスがマニ教から脱して自由意志について考察する「心」の哲学に赴くきっかけとして、
出世のため良家の息女と結婚することで、15年連れ添った女性との離別の体験を紹介します。
この女性のエピソードは『告白』にも記されているようです。

それから新プラトン派とされるプロティノスの書物を読むことで、
自身の内奥すなわち「心」へと向かい、根源の光と出会う「光の体験」を果たします。
そんなある日、中庭での体験を経てパウロの書を読んだアウグスティヌスは、神のことばが心に刺さるように感じられ、
キリスト教へと回心していくのです。

その後、修辞学教授を辞したアウグスティヌスはカッシキアクムの別荘で学問生活に入り、
母の死を経ていったんタガステへと帰った後、ヒッポ教会の司教となり、修道院生活をはじめます。

本書の後半はアウグスティヌスの執筆生活に焦点が移ります。
『告白』についてもわかりやすく触れていきます。
出村によると、アウグスティヌスは私を「考える」(コギト)働きとして捉えていて、
のちのデカルトにも通じていくとします。
しかし、デカルトのように自己を確固とした実体としてよりも、
「考える」(コギト)を原義である「集める」として解釈し、
「思考を集中と分散との対の動きのなかにあるものと位置づけ」、
いつでも自身の乱れる思いとして現れる、と説明します。
なかなか簡潔で明快な解説だと感じました。

『三位一体』という書に対する出村の説明もわかりやすいです。
「愛する」という体験は、愛す人、愛される相手、両者を結ぶ愛、の三つの要素で一つの経験が構成されます。
それは人間の精神に「三一性」が現れていることを示していて、
「神の似像」である人間と神との関係を示すものとアウグスティヌスは考えている、と述べます。

著作『神の国』の説明にも興味深いところがありました。
アウグスティヌスによると、人間の愛のあり方が「神の国」と「地の国」という二種類の集団を作るそうです。
自分を軽蔑し神への愛へと至る「神の国」と自己愛によって神を軽蔑する「地の国」。
出村はこの対立をキリスト教界とローマ帝国と一致させるべきではなく、謙虚と高慢の対立だとします。
アウグスティヌスはローマ帝国がヴァンダル族の攻撃を受ける中で亡くなりました。
戦後日本の黄昏である現代がナルシシズムの暴走する社会になっていることを考えると、
謙虚ということがどれだけ重要であるかに思いが及びます。

終章にはアウグスティヌスの思想の後世への影響がまとめられています。
新書としてもそれほどボリュームのある本ではありませんが、内容は濃いと感じました。

 

 

 

評価:
出村 和彦
岩波書店
¥ 821
(2017-10-21)
コメント:『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書) 出村 和彦 著

『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』 (講談社学術文庫) フランソワ・ジュリアン 著

  • 2017.11.12 Sunday
  • 21:58

『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』

  (講談社学術文庫)

  フランソワ・ジュリアン 著/中島 隆博・志野 好伸 訳

   ⭐⭐⭐⭐

   西洋思想と孟子との対話から道徳を考える

 

 

著者のフランソワ・ジュリアンは古典学に通じ、ギリシア哲学を学んだ後、
中国に滞在して中国思想を学んだパリ第7大学の教授です。
こちらが西洋哲学を学ぶように、西洋でも東洋哲学を学ぶ人がいるのは当然ですが、
実際に彼らの著作に出会う機会は多いとはいえない気がするので、
本書は少し新鮮でした。

まず、ジュリアンは孟子が語った「憐れみ」の感情を取り上げます。
苦しんでいる人を見ると無関心でいられない「憐れみ」の情。
西洋の個人主義では、たとえばルソーが「憐れみ」を利己主義の論理で解釈したように、
「憐れみ」をうまく位置づけることができません。

しかし、忍びざる「憐れみ」の概念は中国的な見方には合致しています。
彼はその理由を、中国人が唯一で絶対的な審級を導入することなく、
対照的な両極(天と地、陰と陽、外と内など)の相互作用によって世界を把握していることに見ています。
「憐れみ」は孤立した自我から発生するのではなく、わたしと他者の相互作用における感応であって、
個人主義的でも個人性を否定するものでもない、個人横断的な中国的な概念の現れだ、とジュリアンは述べます。

このように、ジュリアンはカントやルソーなどの西洋思想に孟子の思想を引き合わせることで、
両者の総合ではなく、双方の違いを考えることで両者をより理解する道を目指しています。

ジュリアンは中国ではじめて孟子がカント的なア・プリオリなものを定義したとし、
西洋が自我−主体という観点から神学的な基準を立てて、普遍的な道徳心を一挙に立てたのに対し、
孟子はアナロジーを用いて、人間に備わる共通した道徳性について語ったと述べます。
このような両者の比較によって、僕はこれまでと違う角度で孟子の思想を考える機会を得ました。
自己と他者との相互作用という観点は、和辻哲郎の倫理学の基盤でもありますし、
西洋から見れば、日本と中国の発想には相当似通ったところが見られるのではないかとも感じました。

孔子とソクラテス、荀子とホッブスなどの興味深い対比も本書の魅力です。
人間の本性を欲望と考えたホッブスが、自らを制限する法から契約を構想したのに対し、
人間の本性を「悪」とした荀子は、道徳的地平に囚われていたために孟子を反駁しきれなかった、
という分析も面白かったのですが、
そこから中国が政治的秩序を道徳の延長に構想するのか、
それとも道徳に変わる別のもの(法など)なのかが常に問題となるという指摘にもハッとさせられました。

ジュリアンはルソーが人間とは「人間的である」ことだと語ったのに対し、
中国思想では他人との関係において「人間である」と考えているとします。
「万物はわたしの中に備わっている」という孟子の発言の意図を、
万物とわたしとの根底的な連なりのことを語っていると解釈し、
他者との生き生きとしたつながりこそが「仁」だと説明します。

 孟子は、自己の感情からではなく、他者を自己に有しているという
 感情から始めている。つまり、孟子は個人を否定しているのではな
 く、個人をあらかじめ他者との関係から分離していないのである。

仁であることで存在に備わる個人横断的な次元を開き、他者へとつながっていくわけです。
こうした自他の連帯は個人の存在より先行しているといえます。

このようなジュリアンの考察からすれば、
東洋的思想においては自他の連帯は西洋ほどの課題ではないことになります。
たとえば日本の〈フランス現代思想〉が連帯よりも逃走、切断に偏ったものになっているのも、
東洋が他者との連帯を当然視していることが前提となっているように思えます。
そうなると、東洋において当たり前のことを西洋にぶつければ、
西洋を相対化することは簡単だと言えます。
前述した和辻哲郎もそうですが、「近代の超克」とはそのような動きと言えますし、
最近のポストモダン思想の流れにもこのような面が散見できます。
(逆に言えば、西洋のポストモダン的な「主体の解体」を日本に持ち込んでも、
実態はただ東洋の伝統を語っているだけになったりします)
そのようなことに思い当たるためにも、本書を読むことが役に立つと思われます。

僕がなるほど、と感心したのは、
中国人が仁の徳による連帯さえあれば十分と考えたため、
政治体制を真剣に考えなかったという指摘です。
そのような社会では「法」は賞罰を定めるものとなり、
支配者が手にする抑圧の道具でしかない、とジュリアンは言うのです。
どこぞの憲法草案が、憲法が権力を縛るものだという常識を理解せず、
道徳を名目とした国民抑圧の欲望を語っていたことにも、
儒教的(江戸的)な発想がいまだ抜けきっていないことが影響しているような気がします。

そのほか、孟子の語る「天」が人間の世界に内在する根元であるという分析や、
徳の世俗的な成功という命題から後退した孟子が、
ギリシア・ローマのストア派と同様のストイシズムへと至るという考察もおもしろく、
なかなか読み応えがあります。
西洋と東洋の両方に目配りするのは楽ではないかもしれませんが、
日本の中国思想研究の本からは得られない知見は刺激的と言えるでしょう。

 

 

 

評価:
フランソワ・ジュリアン
講談社
¥ 1,242
(2017-10-11)
コメント:『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』 (講談社学術文庫) フランソワ・ジュリアン 著

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM