『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス) 楠木 ひかる 著

  • 2018.06.08 Friday
  • 20:38

『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス)

  楠木 ひかる 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   松尾芭蕉のソフトBLは変身モノ

 

 

破廉恥イケメンの松尾芭蕉と素朴な美少年の河合曾良の同居生活をやんわりBL風に描いたマンガです。

 

歴史人物がイケメン化するのはスマホゲームなどでもお馴染みというところですが、

色気ある侍系男子に比べて芭蕉と曾良という「爺むさい文化人」セレクションに無理がないか心配になるところです。

 

そこは文化人ならでは、の設定のおかしさで乗り切ります。

「実は芭蕉には口外無用の秘密がある」と曾良はいうのですが、

その秘密とは、芭蕉は俳句を作るときだけ破廉恥イケメンに変身し、

それ以外の時はエネルギーを使い果たして5歳児同然になるというものです。

普段の芭蕉は美少年曾良に世話を焼かれる天真爛漫なガキンチョでしかないのに、

俳句モードに入るとエロ俳諧イケメンへと「変身」して、純朴な曾良を恥じらわせるのです。

 

押し倒したり、壁ドンだったりとハードな描写はありませんが、

キメ画に俳句が挿入されるのが妙に不条理で笑ってしまいます。

「蕉門十哲」と呼ばれる芭蕉の高名な弟子たちもイケメンぞろい。

(杉風のグローブとか其角のジャケットとか、江戸時代を逸脱していくファッションも見どころです)

日常系ソフトBLというテイストですが、イケメンが織りなす不条理ギャグとしても楽しめます。

 

俳句に対する興味が必要ということはありませんが、

作中の俳句についての解説コーナーがあったり、

芭蕉のこの句をこんなシチュエーションに使うのか、など俳句に興味がある人はより楽しめると思います。

 

BLの様式は「攻め」と「受け」がわりあい固定化しているので、シチュエーションへの興味が自然と強まります。

形式的でシチュエーション重視という性質が俳句と案外似ているんですよね。

イケメンと同じくらい自然風物の見せ方も美しくなっていけば、さらに味わいが出るような気がします。

 

(付記)

 

このマンガのBL的な要素はあくまでソフトなものなので、ここでBLの考察をする必要もないのかもしれませんが、

いい機会なのでちょっと整理しておきたいと思います。

 

BLはボーイズラブの略ですが、多くは男性同士の性描写が描かれます。

そこには「萌え」と同じく性的な欲望が介在します。

特筆すべきはその構図の様式化で、

「攻め」の側は長身で大人びた美形風男子、「受け」の側は短身の少年風男子というパターンが王道です。

 

能動と受動が様式として固定化されることには、男性と女性の歴史的な位置付けの影響が感じられます。

男性と女性の関係を男性と男性の関係に置き換えているわけです。

ポイントは「女性の身体が不可視化されている」という点にあります。

BLの受容者は女性が前提とされているため、女性の視点で見ると、

BLは自分自身の身体的な女性性に反省的に向き合うことなく感情移入できるようになっていることに気づきます。

 

その意味では女性読者は「受け」の男性に対してより感情移入することになると予測します。

「受け」の方も男性として描かれることで、

女性は性的に受動の立場にあったときも自らが女性として振舞うことの重圧から解放されます。

重要なのは、自らが女性であるという事実をカッコに入れることで、性欲を軽やかに消費することが可能になるということです。

 

男性の「萌え」もそうなのですが、

性欲を自分から切り離して軽やかに消費することは、

自らの性欲を社会的に交換可能なものとする「物象化」の現象だと言えるのかもしれません。

 

BLを読んで感じるのは、愛し合う二人の男性がソウルメイトというか、魂の同質性において結びついているように思えることです。

構図は対照的でも内面的には同質的であって、その内輪的世界観がオタク気質と相性が良いのだと思います。

そのような同質性の内輪空間は、自らの身体を不可視化することで成立する、「私」の不在によって支えられています。

 

このような他者不在のオタク的世界のあり方と最近の俳句のあり方に共通性があることを、

はからずも本書が示していたのは興味深いところでした。

最近の「若手」俳人の中には、「私」の不在を何か高尚なものであるかのように語る人がいて、

それをアートであるかのように「勘違い」したがっているのですが、

そのようなメタ化による「私」の不在は、前述したようなBL的なオタク文化の発想と共通しています。

本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。

 

どこぞの俳人が男のくせにBL俳句などというものを作っていることについては、もはや語るのも忌まわしいのですが、

男性がBL作品と銘打って作品を作るということは、

自身の延長である身体を描きながらも「私」の不在が実感できるということでしょうから、

自らに実感できる身体性そのものが不在であることを明らかにした作品でしかないという結論になります。

この人は自分の身体的基盤をとっくに失っていて、ただメディア空間を漂う「流通する自意識」としての自己を生きているのでしょう。

僕にも長年の持病が刻まれた自分の身体を憎む気持ちはありますが、身体不在の生が成り立つというのは妄想です。

自己や現実からの逃避はサブカル作品にはなりえても、文学や芸術には絶対になりえないことを強調しておきたいと思います。

 

 

 

『バロックの光と闇』 (講談社学術文庫) 高階 秀爾 著

  • 2017.12.12 Tuesday
  • 16:50

『バロックの光と闇』  (講談社学術文庫)

  高階 秀爾 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   バロック絵画と建築ひとまとめ

 

 

本書は『バッハ全集』(小学館)全15巻に掲載された文章をまとめたものです。
最初から一冊の本にする予定で15章を構成したため、章ごとに明確なテーマがあって読みやすくなっています。
バロック絵画や建築がどういうものなのか、豊富な図版とともに俯瞰することができます。

絵画史といえば高階秀爾という感もあるので、情報量の多さと視野の広さはさすがです。
登場する画家や建築家は巻末の索引を見ても膨大ですが、
本書はバロックの特徴を語ることが中心なので、固有名詞にはそれほどこだわらずに読めてしまいます。

書籍化にあたり書き加えられた序章では、パリのポンピドゥー・センターにふれて、
現代とバロックの時代に共通点があると高階は語ります。
これは導入の小話程度のものなので、現代との関係に関してはあまり真に受けない方がいいでしょう。

16世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで隆盛したバロックは、
もとは「不規則」「歪んだ」という劣等性を表す語であったようです。
規則的で歪んでない表現様式として想定された古典主義に対して、
その枠におさまりきらない多彩なものをバロックと呼んだのです。

左右均衡、ピラミッド型の幾何学的構図を重視する古典主義、
それを美化、洗練化して現実から離れた人工性の極致に至ったマニエリスムを通って、
バロックは写実的でドラマティックな表現へと踏み出します。

高階はバロックの多彩な面を章ごとに分けて提示しています。
現実への関心を強め、真実を追求する写実主義。
光源をうまく活用した光と闇による演出。
装飾性やスピード感に満ちたダイナミズム。
眼に見える現実の対象と眼に見えない抽象的世界を重ねる二重性。
苦悩や法悦など演劇的とも言える極度の感情表現。
一口にバロックといっても切り口は本当に多様です。

写実的傾向の強まりによって「風景画」「静物画」「風俗画」が成立していったのはバロックの時代でした。
本書の表紙の絵はベラスケス《皇太子バルタサール・カルロスの騎馬像》ですが、
斜めに疾駆する騎馬像によってスピード感のある運動表現を成立させました。
「法悦」の主題の流行は当時の神秘主義的傾向を示しています。
開放的でダイナミックなバロック都市は、祝祭的な空間を生み出しました。

このように、バロックの特徴は実に多様で書ききれないほどあります。
しかし本書ではそれが歴史的視座において見事に整理されているため、
散漫にならず、軸を持った包括的なバロックの姿を感じることができるはずです。

 

 

 

『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』 (講談社現代新書) イリーナ・メジューエワ 著

  • 2017.11.21 Tuesday
  • 08:35

『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』 (講談社現代新書)

  イリーナ・メジューエワ 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   ロシア出身のピアニストによる名曲語り下ろし

 

 

イリーナ・メジューエワはロシアでピアノを学び、国際音楽コンクールで優勝したあと、
日本人と結婚をして、京都を活動の拠点としているピアニストです。
彼女がご主人(明比幸生)と編集者とを交えて日本語で語った「セッション」を、
独り語りの形にまとめたのが本書です。

10人の有名作曲家と、そのピアノ曲を1、2曲取り上げて語るのですが、
取り立ててクラシック通でもない僕は、曲名だけでどんな曲だったかわかるものは数曲でした。
(10年以上ピアノを習っていたのにお恥ずかしいかぎりです)
楽譜はたくさん載っているのですが、
CDかネットかで音源が聴けるようなサービスがあればありがたかったように思います。
僕はYouTubeで検索して全曲聴いたのですが、演奏家を選ばなければ結構あるものですね。

最初はバッハです。
『平均律クラヴィーア曲集』を取り上げるのですが、この曲のあまりの長さに驚きました。
最後にメジューエワのおすすめ録音として紹介されているスヴァトスラフ・リヒテルの音源がネットにあったので、ラッキーでした。
全体にメジューエワのオススメはやっぱりロシア人が多い気がしました。
『ゴルトベルグ変奏曲』では30ある変奏について、一つ一つ語っています。
第25変奏が一番泣けるとか、第26変奏が左右の手が交差する最も難しいところだとか、
聞きどころがわかりやすくなっています。

モーツァルトについては人間性に立ち入ったかたちで解釈をしています。
メジューエワは「シンプル」という言い方を好んでいます。
ニュートラルでシンプルなために弾きにくい、とも述べています。
展開部をドラマチックにして新しい形式を求めるベートーヴェンに対して、
モーツァルトは伝統の形式を超えようとしないで提示部の中にドラマを生み出すので、
形式性に対する闘いとは別次元にいる特殊な作曲家だという評価も興味深いものでした。

ベートーヴェンとショパンの対比もおもしろく感じました。
ショパンの作品はどれだけ難しくても手に無理がないので気持ちよく弾けるけれど、
ベートーヴェンは四つの声部の論理を優先する形式の名人なので弾く人のことは考えていない、
こういうわかりやすい対比をしてくれるので、専門的な知識がなくても楽しめます。
ベートーヴェンの作品としては『ピアノ・ソナタ第14番「月光」』が取り上げられています。
個人的なことですが、音源を聴いて、亡き母がよく演奏していた曲だということに気づきました。

続くシューベルトはロシア人に人気があるとのことです。
『ピアノ・ソナタ第21番』についての説明では、弾き手が深い解釈をもとにどう演奏するかを考えていることがよくわかります。
プロのピアニストが手の内を明かしてくれるのですから、なかなか贅沢な内容なのではないでしょうか。

シューマンの『クライスレリアーナ』は僕の好きなピアノ曲なので、
取り上げられていたことがうれしかったです。
シューマンに二面性があるという指摘は珍しくありませんが、
文学的でアイデア過剰な資質から楽譜上の指示も大げさだ、というのは面白かったです。
『クライスレリアーナ』の第2曲から第7曲まで「ゼア(Sehr)=とても」の指示が頻発します。
「ゼア」の入っていない指示を探すほうが大変、とメジューエワもシューマンのテンションの高さに呆れています。
第4曲では最後に休符の上にフェルマータがついているのですが、
「もう「え、えっ」ですね(笑)。どうすればいいの?」と語るところも楽しくなります。

ショパンのところで再びベートーヴェンとの対比がなされます。
二人ともポリフォニックな作曲家という点ではバッハの後継者ですが、
メジューエワはメロディストであるという点でショパンをよりバッハに近いと評価しています。
また、ベートーヴェンは多くの聴衆に語りかける音楽ですが、
ショパンには個人に聴かせるような親密さがある、と述べます。
バッハは誰が弾いてもバッハの音楽になるけれども、
ショパンは誰がどう弾いてもなかなかショパンにならないという怖さがあるとも述べます。

ショパンは言葉を削ることで詩を生み出す詩人のように、
本質は職人的で、複雑であると同時にシンプルだという指摘には、なるほどと思いました。
メジューエワはモーツァルトもシンプルと表現していたので、ここでショパンと重なるのですが、
最初のアイデアを大事にしていくショパンのやり方は、モーツァルトを意識しているとしています。

このあとリスト、ムソルグスキー、ドビュッシーとラヴェルに続くのですが、
長くなりすぎるのでここまでにします。
読みどころがたくさんあるので紹介しきれませんが、
僕よりもっとクラシックに詳しい人には何倍も楽しめる箇所があるのではないかと思います。
本書を読んだことで、CDでしか聴いたことのないメジューエワの演奏をやっぱり生で聴きたくなりました。

 

 

 

評価:
イリーナ・メジューエワ
講談社
¥ 972
(2017-09-20)
コメント:『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』 (講談社現代新書) イリーナ・メジューエワ 著

『『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』 (講談社学術文庫) 神原 正明 著

  • 2017.09.29 Friday
  • 09:19

『『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』

  (講談社学術文庫)

  神原 正明 著

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   一枚の絵画を深読みする贅沢

 

 

本書は一枚の絵画作品を徹底的に「読む」ことにこだわった本です。
一枚の絵を扱うだけで、これだけのボリュームの本が書けるのも驚きです。
その絵とはヒエロニムス・ボスの『快楽の園』です。

ボスは現在のオランダにあるス・ヘルトへンボスで1450年頃に生まれた画家で、
ボスという名はホームタウンからとったもので本名ではありません。
『快楽の園』が1568年にスペインのアルバ公の手に移ったのち、
現在プラド美術館に所蔵されているため、ボスは現地ではスペイン名で知られているそうですが、
一般的には、ボスはネーデルラント系の画家として、その後のブリューゲルとともに語られる存在です。

僕の妻は実物を見たそうなのですが、『快楽の園』はトリプティーク(三幅対)祭壇画の構造をしています。
三面鏡や仏壇のような感じで、左右のパネルを開くと内面パネルが見えてきます。
そのため、『快楽の園』は閉じられている時の外翼パネル、左翼パネル、中央パネル、右翼パネルという4つの部分から構成されています。
本書の最初にはカラーの折込図があり、小さいですが、そのすベてが目で確認できるようになっています。

『快楽の園』は宗教的祭壇画の形式をとっていて、
メインとなる中央パネルには、裸の人々が肉体的快楽に溺れる姿が描かれているのですが、それが右翼パネルでは地獄絵図へと変わるため、
この作品が肉欲を戒める目的で描かれたとするのが伝統的な見方のようです。
しかし、全く反対に快楽を肯定する作品だとする人もいます。
神原はボスが意識的にその両極を同時に許容しうる「ダブルイメージ」を導入したと見ています。
たしかにこの作品は教訓的と言ってすませられない遊戯的な要素がありすぎます。
特に右翼パネルの地獄絵には、木と化した人間である「木男」や、鳥の頭をしたサタンなどが描かれていて、
漫画表現に慣れた僕たちにとっては親しみやすい「キャラ」に興味はわいたとしても、
肉欲の罰の恐ろしさなど到底感じられる雰囲気ではありません。

本書はボスの図像を部分ごとに取り上げ、影響を与えたと思われる他の作品と比較検討し、
それが表す意味を研究者たちが様々に読み解いている努力を、わりと客観的に書き留めています。
本書を読めば、この作品が様々なイメージのコラージュで構成されていること、
それを単一の「読み」に回収することが難しいことがよく理解できます。
ボスの『快楽の園』はまさにポストモダン時代に評価が高まる作品だと言えるでしょう。

それぞれのパネルについての「読み」を少しだけ書いてみます。
ガラス玉の中で形作られる世界を描いた外翼パネルは、天地創造の第3日目を描いている、と言われるようです。
天井のトンネルやガラス玉の世界を描いた作品がいくつか紹介され、
ボスの図像と他の作品との関連が示されていきます。
また、天地創造ではなくて、ノアの大洪水のあとの世界を描いているという説も出てきます。
左上に射す弓形の光が、地上から水が引いていく場面だとするのです。
絵の中にノアの船が描かれているわけではないので、かなり強引な解釈に思えるのですが、
この絵がいろいろな解釈を生み出し、許容することがよくわかります。

左翼パネルには主なる神とその左右にアダムとイヴが描かれています。
そのため天地創造の6日目だと言われるようですが、
その周辺には動物がたくさん描かれていて、それぞれのアトリビュートが示されます。
アトリビュートとは、画家が特定の人物の周辺に決まって描くもので、人物の特定にも用いるものなのですが、
ウサギがイヴのアトリビュートであったり、カササギがアダムのアトリビュートであったり、
魚がキリストのアトリビュートであったりといろいろです。

ここでも通説をひっくり返すような見方を主張する人が出てきます。
V・タトルはここに描かれているのはイヴではなく、肉欲の悪魔リリスだとするのです。
(なんかアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を思い出してしまいますが)
リリス伝説はユダヤの民話で親しまれていることもあり、
ボスはカトリックの団体に属していたのですが、ユダヤ伝説や習慣に親しんでいたとの指摘もあり、
ボスがヘブライ語が読めたのではないか、と研究者たちの想像が広がっています。

左翼パネルには生命の泉や中心にいるフクロウなど、触れるべき材料がまだまだありますが、
中央パネルに目を移せば、そこでは偽りの楽園が展開されています。
ここでは多数の裸の人物が描かれていて、中には黒い肌の人物も見られます。
この中にアダムがいるのではないか、この人がボスの自画像ではないか、
などの推測がなされているのですが、妊娠した女性は見られても、
子供は一人も描かれていないという神原の指摘は興味深く感じました。
中央部の円になった動物は占星術を踏まえているという説もあるようですが、
描かれた動物との対応が完全でないだけに、深読み感はぬぐえません。

この作品の構図上のおおよその中心には「卵」があります。
この「卵」の解釈もいろいろとあるようです(錬金術の象徴、睾丸と同意、割れると悪運など)が、
絵の中心に「卵」が位置していること自体はボスの意図と見てまちがいないようです。
たしかに不思議な絵だと思います。

右翼パネルでは地獄が描かれています。
木に変化した人間「木男」や鳥頭のサタンや耳から飛び出したナイフなど、その虚構性に魅了される人も少なくないと思います。
構図的に木男は左翼パネルの生命の泉と対応しているため、
神原は生命の木の枯渇が木男を生み出したと考えています。

また、木男の下には楽器に責められる者たちの姿が描かれています。
ここでは音楽と官能とが重ね合わされ、「肉欲」に対する罰という解釈が成り立ちます。
楽器が拷問具に変わるという発想はおもしろいようなおそろしいような、なんとも複雑な気分になります。

本書ではもっともっと詳細な図像の読みが展開されているのですが、
そのすべてを「深読み」として一笑に付すことも難しい気はしました。
『快楽の園』全体にわたってトリオの組み合わせが目立つこと、
ところどころに「Y」のイメージが現れることなど、
ボスがなんらかのメッセージを喚起する象徴を組み込んでいるように思えるのは妥当な気がします。
ただ、それが遊戯的な範囲を超えて全体としての宇宙をつくりあげるまでに昇華されているかといえば、
やはりコラージュの域は出ないように感じました。

 

 

 

「Light Upon the Lake」 (Secretly Canadian) Whitney

  • 2016.08.22 Monday
  • 07:47

「Light Upon the Lake」 (Secretly Canadian)

  Whitney

 

   ⭐⭐⭐⭐

   朝の湖畔を歩くようなカントリー・サウンドの心地良さ

 

 

試聴して数秒で迷わず購入を決めました。
アコースティックで気取りのないサウンドをベースにして、
高音で透明感のあるヴォーカルがプライベートな雰囲気を醸し出し、
時折混じるトランペットなどのホーンがかすかに高揚感を味付けします。

バンドに対する予備知識は何もなかったのですが、
調べてみると、元Smith Westernsのメンバー、Max KakacekとJulien Ehrlichの2人が
中心となって結成したバンドの最初のアルバムでした。
(Smith Westernsというバンドも僕には初耳ですが)

今時3分を切るような曲ばかりというのは珍しいですね。
60〜70年代の音楽がルーツなので必然とは言えますが、
不思議と音楽自体はそれほどレトロには感じませんでした。
カントリー的な大自然感覚とホームメイドなスタジオ録音感覚が、
変なバランスで混ざり合っているからかもしれません。

低音の録音は輪郭がくっきりしすぎて多少気になりますが、
(僕の再生環境がショボいからかもしれませんが)
実はソウル・ミュージックだという紹介文もあるので、
それが味なのでしょう。
これを聴くだけで散歩気分が味わえること請け合いです。

 

 

 

評価:
Whitney
Secretly Canadian
¥ 1,030
(2016-06-03)

『セミオトポス10 音楽が終わる時: 産業/テクノロジー/言説』 (新曜社) 日本記号学会 著

  • 2015.07.20 Monday
  • 15:42

『セミオトポス10 音楽が終わる時: 産業/テクノロジー/言説』 (新曜社)

  日本記号学会 著

   ⭐⭐

   現状追認なら危機を煽るべきではない

 

 

「音楽が終わる時」という書名で購入を決めましたが、
そのときから内容は危機を訴えるものではないと想像していました。
書名では危機を煽りながら、
内容は穏当でしかない、というマッチポンプ本は最近多いですね。

音源のモノとしての価値が大幅に下落して、
ポップミュージックを取り巻く状況は変化にさらされています。

これまでの音源作品に価値を置けばこの状況は悲観すべきもので、
本書では亡き佐久間正英がこの立場を代表しています。
しかし変化によって新たな状況が芽生えるため、
その可能性を大きく見積もれば楽観的な見解も簡単に主張できます。

社会学者らの論考では、そういう楽観論が目立ちました。
ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)を持ち出して、
モノとヒトを同等のアクターと捉えた異種混淆のネットワークとして捉えたり、
スモールの「ミュージッキング」を持ち出して、
音楽をそれを生み出す行為の総体として捉えたりして、
新しい可能性を見出そうとしています。

こういう発想は個人による音楽「作品」という近代的価値を解体する、
という点で学問的には正しいことをやっているように見えがちです。
しかし、こういうポストモダンしてますよ、的な発想がワンパターンでしかありません。
特定の枠組みの中で考えることは、知性ではなく権力や権威への従属です。

たとえば音楽をネットワーク内で生成するものと考えると、
どうしたってリアルタイムの自己充足を目指すようになり、
時代を超える作品は出にくくなります。
「個人」を近代的個人というと批判対象でしかなくなってしまいますが、
時代を超える感性はネットワークが回収できない個人を基礎にしていると思います。
なんでもリアルタイムに動員することが資本主義の欲望であることに、
思い当たらない人たちが楽観的でいられるのは当然の帰結かもしれません。
(音源の価値と反比例してライブチケットが高騰していることは誰も触れていませんでした)
そこで終わるのが音楽だけではないことを想像する力が問われます。

作り手と受け手の垣根がなくなり、
誰でも自分が作成した音楽を発信しやすくなったというのはその通りですが、
それをポジティブにだけ評価するのは簡単すぎると思います。
一部の作り手が多額のコストをかけて高レベルの音楽を作成するより、
低レベルの音楽を多くの人が安いコストで流通させる方が、
通信量の増大という観点からは、合理的だという発想が彼らにはありません。
(つまり、通信会社の金儲けには後者の方が社会的コストが安く済むということです)

学者が現状を追認するだけだというのは寂しいかぎりです。
もっともらしいことを言って、学問的な色づけをすれば仕事が終わりだと思っているのでしょうか。
音楽より先に学問の方が終わるのではないかと感じる本でした。

 

 

 

「美術手帖」2015年 02月号 (美術出版社)

  • 2015.02.09 Monday
  • 07:27

「美術手帖」2015年 02月号

  (美術出版社)

 

   ⭐

   美術の価値を信じられない美術手帖

 

 

美術手帖もユリイカ化するということですか?

12月号のBL特集もどうかと思ったのですが、
今号のロボット特集で黙ってはいられなくなりました。

ロボットデザインとか言っていますが、
美術に興味のないアニメ好きに売りたいのがミエミエです。

BL特集号のレビューでも通常美術のページが邪魔扱いされてますよ。

このようなサブカル特集で雑誌を売りたいのであれば、
美術手帖を一度廃刊にし、
その手の雑誌を出すのが筋だと思います。

売れなければ困るという事情はわかります。
だからと言って羊頭狗肉が常態化するのは問題です。
たとえ生活が苦しくても、プライドを捨てるのはいただけません。

こんな特集ばかりだと、
美術手帖が率先して「美術には価値がない」と言っているようなものです。

サブカルで売りたければ看板を変えてください。
美術手帖はたまにしか買いませんが、それでもガッカリします。

 

 

 

キルラキル 9 (完全生産限定版) [Blu-ray] 今石 洋之 監督作品

  • 2014.04.12 Saturday
  • 14:48

 キルラキル 9 (完全生産限定版)  [Blu-ray]  

 (アニプレックス)

 今石 洋之 監督作品

   ⭐⭐⭐⭐

   わけのわからないエネルギー

 

 

似たり寄ったりのアニメが多い中、
古いのか新しいのかよくわからない独特なアニメでした。

特筆すべきは「キャラ萌え」とは異なるキャラの魅力で勝負している点でしょうか。

女の子の露出シーンはあっても、
男性の性欲を刺激する描き方ではなく、
「萌え」に結びつきにくかった気がします。

独特な作品世界に入り込むには見る側もエネルギーが必要なので、
一気に続けて視聴するスタイルがおすすめです。

「KILL」と「着る」や「征服」と「制服」、「戦意」と「繊維」などの掛詞(ダジャレ)が頻発し、
ナンセンス感が漂いまくっていますが、
案外よく考えられたテーマを持っているのもこの作品の魅力です。

この作品で敵として描かれている「生命繊維」は、
グローバル資本主義やそれと結びついたポストモダン思想を表したものです。
(萌えも含めて、東浩紀的なものと言っても良いかもしれません)

ヒロインたちの母親は全人類に自社製品の服を売りつけ、
世界を一枚の布に変えて、地球を生命繊維の餌にしようと計画します。
これが世界市場の独占によるグローバル化(資本主義のどんづまり)の隠喩であることは明白です。

物語後半になって、
人間が進化して服を着るようになったのではなく、
「生命繊維」である服が人間を選び進化させたという真実が語られますが、
このような逆転の発想は、
物があって広告が作られるのではなく、広告が物を売らしめるという消費社会的転倒、
話し言葉の利用から書き言葉が生まれたのではなく、
書き言葉こそが原初的なものだとするデリダのポストモダン的な転倒と類似しています。

さて、このようなポストモダン思想の一番の問題は、
人間の主体性をとことん破壊するということです。

人間は多方向の欲望により場当たり的な生成を果たすべきもので、
主体的な意志は固定的で閉鎖的な腐敗を生むものとして排除されます。

しかし、その発想が市場の奴隷を大量生産するということについては、
ポストモダン思想はまったく無力だと言うしかありません。
「売れている」と聞けば、欲望に任せてそれに飛びつき、
非意味的に生成された人気こそが価値であるかのように信じられていく、
そんな世界をポストモダン思想は批判できません。

しかし、この作品はそんな価値観に人間の主体性が闘いを挑む物語を描ききってくれました。

「わけがわからない」エネルギーにあふれたキャラたちは、
場当たり的な欲望によって動く人間像ではありません。

「人間は服に着られる存在ではない」と、
幼少から強い意志で生命繊維と戦う集団を創り上げ、
実の母に対してクーデターを決行する鬼龍院皐月や、
「自分の死に様は自分で決める」と主体性をあくまで放棄しない纏流子の姿は、
もう一度「人間である」ことを取り戻そうとする我々の悲壮な姿として見る者の胸を打ちます。

生命繊維のエネルギー源として服に着られることを拒否する
ヌーディストたちの姿を見ていると、ルソーの「自然に帰れ」という言葉が思い浮かびます。
(ポストモダンの思想家デリダがその著作『根源を彼方に』で敵視したのは
他でもないルソーでした)

登場人物たちがみんな裸になるラストは、人間とその主体性の勝利を描いた快いものでした。
(制作者は主体性ではなく本能と考えているのかもしれませんが)

じゃあ、なんで★5つではないのかというと、
エピローグが蛇足だったと思うからです。
いや、作品を台無しにしかねない残念なものだったからです。

闘いの勝利の後、
廃墟になった本能字学園で
裸の登場人物たちが一からやり直す姿でなぜ終われなかったのでしょう?

エピローグでは、消費社会の街でデートに興じる流子たちの姿が描かれます。
復興が早すぎやしませんか?
震災の復興も遅々として進まない現実があるというのに・・・
あれでは物語本編が流子の夢だったのかと疑ってしまいます。

結局は人間の主体性は夢(アニメ)の中で発揮するしかなく、
現実には無力だということなのでしょうか。
平和な生活を描きたかったのはわかりますが、そこだけが残念でなりません。

 

 

 

伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇 【劇場版】 [DVD] 富野由悠季 監督作品

  • 2014.03.27 Thursday
  • 13:48

 伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇 【劇場版】 [DVD]

 (JVCエンタテインメント)

 富野由悠季 監督作品

   ⭐⭐⭐⭐⭐

  戦争の回避に何が必要か

 

 

小学生の時に映画館で作品を見たときは、
ガンダムを見る感覚ではついていけませんでした。

大学生になって再度見たときは、
日本最高の映画だと思いました。

今更のレビューですが、今更と言えない作品だということを書かせてください。

入植した辺境のソロ星で、地球人が異星人バッフクランと遭遇して物語は始まります。
そこで戦争に巻き込まれた子供たちが、
遺跡から発掘された兵器イデオンを駆使してバッフクランと戦います。
戦況はしだいに泥沼化し、両者は母星を失いながらも、
最終戦争を戦い抜き、そして死んでいきます。

そこで展開する人間の愛憎や業もさることながら、
イデオンを駆動させる無限エネルギーの「イデの力」、
その謎も物語の焦点になっています。

結局「イデの力」の発動によってイデオンは人類を滅ぼすわけですが、
その「イデの力」の正体はあまり理解されていないようです。
(「イデの力」とは富野監督の力だと解釈したスタッフもいたようですが)

「イデの力」の最大の特徴は、
子供の自己保存の本能に触発されるということです。
最終的には生まれる前の赤ん坊の自己保存本能で最大の力を発揮します。

つまり、「イデの力」とは人間の自己保存本能だということです。

人類は自己保存の力によって自らを滅ぼす。
これが富野がこの作品に託したテーマだと僕は考えます。

富野にとっては、戦争はすべて自衛のための戦争だということです。

このテーマは「逆襲のシャア」でも、
ケーラを人質に取られたアムロが電撃攻撃を受け、
無意識に自分を守ろうとファンネルを発動させて、
ケーラを殺してしまうシーンにも見られます。

戦争は侵略でなく自衛であっても滅びへの道だということが、
憲法9条の「戦力放棄」の理念に通じるのは偶然ではないでしょう。

冷戦下にあって富野は、
リアリティに欠けると言われる「戦力放棄」の理念を真剣に考えていたのだと思います。
それは、「イデオン」や「ダンバイン」への回答である「ターンエーガンダム」を
見てみれば確認できることでしょう。

平和を求めるなら、まずは自己保存を断念しなくてはならない。
ガンダムなどで富野がインドを持ち出したがるのは、
仏教的な執着の断念を考えているからではないでしょうか。

僕は政治的には「戦力放棄」を求める者ではありませんが、
「戦後」という時代を考える上で、
富野作品というのはもっと語られるべき「文学」であると信じています。

 

 

 

評価:
矢立肇,富野由悠季
タキコーポレーション
¥ 22,000
(2006-05-05)

『日本文化の論点』 (ちくま新書) 宇野 常寛著

  • 2013.03.12 Tuesday
  • 09:24

『日本文化の論点』 (ちくま新書)

  宇野 常寛著 

 

   ⭐

 「ネット=新しい」がもう古い

 

 

古くは村上春樹の「趣味語り」にはじまり、
人文・社会学系の東浩紀や北田暁大などが、論考による「アイロニカルな自分語り」を垂れ流し、
次世代の宇野常寛に至って「単なる自分語りのナルシスト」に結実したというところでしょうか。

アニメや漫画を輸出するなら、コミュニケーションツールのニコニコ動画やコミケも一緒に輸出すべきだ、
と気の利いたコメントをして枝野大臣も感心したとか、不必要な自分語りには力が抜けます。
(そんなコメントで得意になれることにも驚きますが)

本書の題名は「日本文化の論点」ということでお堅い印象を与えますが、
宇野によると現代日本文化の最大の論点はAKB48だということなので、
要するに、彼の大好きな「国民的アイドル」を持ち上げたいだけのことでした。

宇野は安倍自民党圧勝に対して「末法の世だ」とか語っているのですが、
やたらに濱野智史を引用する「お友達批評」や、
彼が価値を置く〈夜の世界〉が「戦後からの脱却」を基準にして語られているあたり、
両者には類似点が多く、僕には宇野が周回遅れのランナーに思えて仕方ありません。

ネットの二次創作文化についても、どこかで聞いたような話です。

戦後的な〈昼の世界〉とそこから離脱した〈夜の世界〉の区別もよく説明されていませんし、
AKBがマスメディアに頼らず人気を生み出したというのは、事実をねじ曲げた「オレサマ史観」に思えます。
(そんな主張をするなら、「国民的」というマスメディアを頼みにした表現を好むのはおかしいですよ)

しかし、ネット革命論みたいなものは、いつでも誰かが言うんですね。
(そのわりに携帯電話が社会を変えたという話が出ないのが不思議です)
冒頭の系譜のように、ネットを消費社会の延長にある現象として考えないと、
「国民的アイドル」のように、実態以上に持ち上げる結果に陥ります。

 

 

 

『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』 (ちくま新書) 濱野 智史 著

  • 2012.12.29 Saturday
  • 01:00

『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』

  (ちくま新書)

  濱野 智史 著

   ⭐

  信じるものは救われない

 

 

本屋で立ち読みしたときに背筋がゾッとしました。
新書デフレとも言うべき状況の昨今、内容の劣化はどこも同じですが、ちくま新書にはまだ多少の信頼を置いていただけに、その思いが裏切られました。

本書の内容に関しては、まともに読む価値はないでしょう。
AKB信者を自認する人が「前田敦子がキリストを超えた」と言うことは、幸福を実現しようとする宗教が「教祖はキリストの生まれ変わりだ」と言うようなものですから。
思想的価値はなおさら皆無で、自分より自分の所属集団の利を優先することが「利他性」なら、秘書が政治家の罪をかぶることも「利他性」ということになりますから。

僕が問題だと思うのは、書いている濱野本人も「前田敦子はキリストを超えた」とは本気で思っていないということです。
(そもそも前田敦子が卒業した後に出されていることに疑問を感じませんか? 多くの人が納得しないとわかって「あえて」言っているのです)
実際には、これは一種の「ネタ」であって、おもしろいから言っているというだけのことなのです。

大澤真幸はオウム信者のメンタリティを「アイロニカルな没入」という用語で説明しました。
本気で信じていないことを、さも信じているかのように「あえて」行動する現象を言うのですが、僕はオウム信者よりも「ネタ的コミュニケーション」にこのような面が見られると思います。
濱野の言う「本気でハマる」とは、「アイロニカルな没入」に精を出すことに思えてなりません。

そんな大澤の『虚構の時代の果て』を出したちくま新書が、こんな新書の劣化の果てを出版してしまうということに悲しさを覚えました。

 

 

 

アクエリオンEVOL vol.9 [Blu-ray] (メディアファクトリー)

  • 2012.07.08 Sunday
  • 00:49

アクエリオンEVOL  vol.9 [Blu-ray]

  (メディアファクトリー)

   ⭐⭐⭐

  こんなラストでごめんなさいよーっ

 

 

草食系男子がヘタレ女子との純愛によって神話を創世する……はずが、2万4千年かけた忠犬ハチ公物語になってしまいました。途中まで面白かっただけに、より恨みに思うファンが続出していそうです。

主人公カップルがドーナツの虚空となり、周囲のサブキャラを引き立てる手法は「朝の連ドラ」ならばうまくいきますが、壮大なSF作品となるとやっぱ尻つぼみになってしまうでしょうね。
特に、主人公アマタと魂を二分しているカグラとの葛藤に関しては、描き損ねたというより、描く気がさらさらなかったという感じでした。内的葛藤なんて古くさいテーマが嫌なら、そういう設定を作らない方がいいでしょう。

大仕掛けに大団円で最終回になると思っているとしたら、作品作りをナメすぎです。

そもそも、不動とミカゲというメタキャラの存在がこの作品を異色にしていたのですが、メタキャラがラスボスになってしまうと作品構造が歪んでしまうんですよね。その結果さらなるメタな存在(スタッフ)が作品を貶めた印象を生んでしまうのではないでしょうか。
キャラ萌えは受け手をメタ位置へと飛翔させてしまうので、本作はそもそも脱神話の方向にしか行きようがなかったような気もします。その意味では前作へのアンチとなるわけですが、スタッフが狙ってそうしたのかは疑問です。

 

 

 

『リトル・ピープルの時代』 (幻冬舎) 宇野 常寛著

  • 2012.02.24 Friday
  • 21:54

『リトル・ピープルの時代』 (幻冬舎)

  宇野 常寛著

 

   ⭐

  サブカル論で時代は切り開けない

 

 

前作は良かったのですが、「一発屋」だったのかもしれません。

筆者は村上春樹と仮面ライダーを取り上げて、現実をハッキングする「拡張現実の時代」と現代を読み解くのですが、言葉先行で概念の説明は不足している印象です。
そもそも、社会学にリンクするには筆者の教養が圧倒的に不足しています。
2001年の同時多発テロについて書いてある部分などは、大澤真幸の「文明の内なる衝突」が元ネタだろうと推測できるような内容で、大学生のレポート程度のレベルと言わざるを得ません。

では、たかがサブカル論と甘く受け止めたとして、評価できるかと言えば前作に遠く及ばないでしょう。
むしろ前作より後退しているように思います。
村上春樹は80年代の価値観から出ていない作家です。彼の「父殺し」は、スターリン批判の文脈に乗ったもので、コミュニズムに対するアメリカ消費文化の勝利に依拠しています。世界で読まれているとか言われていますが、中国やロシアなどコミュニズム崩壊後にバブル景気となった国でウケているのが実情です。
「9」が「Q」となろうが、80年代に固執しているのは題名からも明らかです。
そのアメリカ消費文化もいまや冬の時代です。
ビックブラザーどころかリトルピープルだって、サブプライムローン問題で壊死したと僕は思います。

仮面ライダーだって昔の名前で続いているものでしょう? 筆者が論じたがっている富野由悠季の「機動戦士ガンダム」にしてもブームは80年代です。
結局、日本のサブカル文化のピークは80年代であって、現在はその名残を抱きしめているだけに思えます。筆者が持ち上げるAKB48にしても、プロデューサー秋本康(のシロウト主義)は80年代の亡霊みたいなものです。

結局、日本のサブカル論は、80年代を価値とするオッサン的保守的発想を隠蔽しながら、インターネットというテクノロジーの進歩で先端性をアピールするという結果に陥ります。
「拡張現実」もつまりはメディアの技術革新でしかないのではないでしょうか。

 

 

 

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