『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス) 楠木 ひかる 著
- 2018.06.08 Friday
- 20:38
『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス)
楠木 ひかる 著
⭐⭐⭐⭐
松尾芭蕉のソフトBLは変身モノ
破廉恥イケメンの松尾芭蕉と素朴な美少年の河合曾良の同居生活をやんわりBL風に描いたマンガです。
歴史人物がイケメン化するのはスマホゲームなどでもお馴染みというところですが、
色気ある侍系男子に比べて芭蕉と曾良という「爺むさい文化人」セレクションに無理がないか心配になるところです。
そこは文化人ならでは、の設定のおかしさで乗り切ります。
「実は芭蕉には口外無用の秘密がある」と曾良はいうのですが、
その秘密とは、芭蕉は俳句を作るときだけ破廉恥イケメンに変身し、
それ以外の時はエネルギーを使い果たして5歳児同然になるというものです。
普段の芭蕉は美少年曾良に世話を焼かれる天真爛漫なガキンチョでしかないのに、
俳句モードに入るとエロ俳諧イケメンへと「変身」して、純朴な曾良を恥じらわせるのです。
押し倒したり、壁ドンだったりとハードな描写はありませんが、
キメ画に俳句が挿入されるのが妙に不条理で笑ってしまいます。
「蕉門十哲」と呼ばれる芭蕉の高名な弟子たちもイケメンぞろい。
(杉風のグローブとか其角のジャケットとか、江戸時代を逸脱していくファッションも見どころです)
日常系ソフトBLというテイストですが、イケメンが織りなす不条理ギャグとしても楽しめます。
俳句に対する興味が必要ということはありませんが、
作中の俳句についての解説コーナーがあったり、
芭蕉のこの句をこんなシチュエーションに使うのか、など俳句に興味がある人はより楽しめると思います。
BLの様式は「攻め」と「受け」がわりあい固定化しているので、シチュエーションへの興味が自然と強まります。
形式的でシチュエーション重視という性質が俳句と案外似ているんですよね。
イケメンと同じくらい自然風物の見せ方も美しくなっていけば、さらに味わいが出るような気がします。
(付記)
このマンガのBL的な要素はあくまでソフトなものなので、ここでBLの考察をする必要もないのかもしれませんが、
いい機会なのでちょっと整理しておきたいと思います。
BLはボーイズラブの略ですが、多くは男性同士の性描写が描かれます。
そこには「萌え」と同じく性的な欲望が介在します。
特筆すべきはその構図の様式化で、
「攻め」の側は長身で大人びた美形風男子、「受け」の側は短身の少年風男子というパターンが王道です。
能動と受動が様式として固定化されることには、男性と女性の歴史的な位置付けの影響が感じられます。
男性と女性の関係を男性と男性の関係に置き換えているわけです。
ポイントは「女性の身体が不可視化されている」という点にあります。
BLの受容者は女性が前提とされているため、女性の視点で見ると、
BLは自分自身の身体的な女性性に反省的に向き合うことなく感情移入できるようになっていることに気づきます。
その意味では女性読者は「受け」の男性に対してより感情移入することになると予測します。
「受け」の方も男性として描かれることで、
女性は性的に受動の立場にあったときも自らが女性として振舞うことの重圧から解放されます。
重要なのは、自らが女性であるという事実をカッコに入れることで、性欲を軽やかに消費することが可能になるということです。
男性の「萌え」もそうなのですが、
性欲を自分から切り離して軽やかに消費することは、
自らの性欲を社会的に交換可能なものとする「物象化」の現象だと言えるのかもしれません。
BLを読んで感じるのは、愛し合う二人の男性がソウルメイトというか、魂の同質性において結びついているように思えることです。
構図は対照的でも内面的には同質的であって、その内輪的世界観がオタク気質と相性が良いのだと思います。
そのような同質性の内輪空間は、自らの身体を不可視化することで成立する、「私」の不在によって支えられています。
このような他者不在のオタク的世界のあり方と最近の俳句のあり方に共通性があることを、
はからずも本書が示していたのは興味深いところでした。
最近の「若手」俳人の中には、「私」の不在を何か高尚なものであるかのように語る人がいて、
それをアートであるかのように「勘違い」したがっているのですが、
そのようなメタ化による「私」の不在は、前述したようなBL的なオタク文化の発想と共通しています。
本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。
どこぞの俳人が男のくせにBL俳句などというものを作っていることについては、もはや語るのも忌まわしいのですが、
男性がBL作品と銘打って作品を作るということは、
自身の延長である身体を描きながらも「私」の不在が実感できるということでしょうから、
自らに実感できる身体性そのものが不在であることを明らかにした作品でしかないという結論になります。
この人は自分の身体的基盤をとっくに失っていて、ただメディア空間を漂う「流通する自意識」としての自己を生きているのでしょう。
僕にも長年の持病が刻まれた自分の身体を憎む気持ちはありますが、身体不在の生が成り立つというのは妄想です。
自己や現実からの逃避はサブカル作品にはなりえても、文学や芸術には絶対になりえないことを強調しておきたいと思います。
- サブカル・アニメ・音楽・美術
- -
- -