『AI言論 神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ) 西垣 通 著

  • 2018.06.19 Tuesday
  • 07:56

AI言論  神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ)

 西垣 通 著

 

   ⭐⭐

   屈折した自己都合の論理が読者にはチンプンカンプン

 

 

現在、AI(人工知能)の発達と実用化のビジネスが投資対象になるなど、AIが経済発展の鍵として注目を集めています。

情報学の専門家である西垣は、AIの基本思想がユダヤ教、キリスト教と深い関係にあるとして、

AIが人間の知性を超越すると主張するシンギュラリティ仮説を支持する人々を批判します。

人間を超えたAIによる支配が一神教的な神による支配と共通する、という西垣の言い分は僕にも納得できました。

 

しかし、本書の構成と主張には大いなる「屈折」が見られます。

シンギュラリティ支持者にユダヤ・キリスト的一神教の欲望を感じ取り、それを批判したいわりに、

なぜか西垣はカンタン・メイヤスーの思弁的実在論(というより思弁的唯物論?)を執拗に持ち出すのです。

思弁的実在論にアニミズム的な反一神教要素を見出す人もいるとは思いますが、それならメイヤスーよりグレアム・ハーマンを持ち出すべきでしょう。

どうして数学や科学へと接合するメイヤスーだけを取り上げるのか、まったくわからないのです。

 

細かいことを言えば、僕としてはメイヤスーの思想だけを取り上げて思弁的実在論と言い続けることにも違和感を感じました。

メイヤスー自身は自分の思想を「思弁的唯物論」と呼んで思弁的実在論と距離を置いたりもしています。

西垣にとってはメイヤスーの思想=思弁的実在論となっているようですが、本来なら正しい認識ではないと思います。

そのため、西垣は本当の思弁的実在論に興味があるのではなく、

日本の商業学者御用達の〈フランス現代思想〉の系譜に乗りたかっただけではないかという疑いを抱いてしまいました。

日本人にとっての〈俗流フランス現代思想〉でしかないからメイヤスーだけしか扱わないのでしょうし、

それなら本書の刊行時にその翻訳者である千葉雅也とイベントをしたのも理解できます。

 

疑念を深めるのは、西垣がメイヤスーを持ち出したことの意義がよくわからないことです。

西垣は第三章をまるまる「思弁的実在論」と名づけて、メイヤスーの概説書でもあるかのように説明するのですが、

たとえそれを読んでメイヤスーの思想を理解できたとしても、

それが西垣の主張であるシンギュラリティ批判とどう関わるのかがハッキリしないのです。

なにしろ、一章を割いてメイヤスーの思想をなぞるように説明したのに、その後の章でこんなことを述べてしまうのです。

 

現代科学技術の哲学的基礎を明確にしようという思弁的実在論の意図は十分理解できる。また、相関主義哲学の開祖であるカントの超越論的議論にたいし、祖先以前的言明を持ち出して有効性の限界を明らかにするというメイヤスーの論法は、専門的哲学者からは異論が出るかもしれないが、論理的には分からないわけでもない。しかし、基礎情報学的には、率直にいって首をかしげたくなる点も多いのである。とりわけ、数学的に表される自然科学的な仮説の形成が、即時的存在を直接指示対象としてあたかも人間の介在なしのごとくにおこなわれ、それを「事実」と見なすというのなら、その議論は、実際に科学技術研究の現場にいた人間からすると、承服しがたいものだ。

 

したがって、AIだけでなく現代の科学技術の哲学的根拠を明確にするためには、思弁的実在論よりむしろ、相関主義思想と類縁関係にあるネオ・サイバネティクスに依拠するべきだという気がしてこないだろうか。

 

こんなふうに結局否定的に評価するなら、なぜわざわざメイヤスーの思想をまるまる一章使って説明をする必要があったのでしょうか。

そのうえ西垣は直後で、「前節で、思弁的実在論の企図に関して疑義を呈したが、

本書は決してその価値を全面的に否定するものではない」などと再び態度を翻すのです。

(キミの批判はしたけど、決してダメだと言ったわけじゃないんだ、というセコいやり口!)

こんな態度では読者は「結局どっちなんだよ」としか思いません。

本書がわかりにくいのは、内容が難解であるためではなく、本書の論の構成に難がありすぎるからなのです。

 

本書の冒頭で西垣は、知とは生存する実践目的なのか真理を探求する形而上学的な目的のどちらなのか、

という問いを立てるのですが、この共感しがたい二者択一がどこから出てきたのかと訝しく思っていると、

後々西垣がこの曖昧さはキリスト教の三位一体の教義が原因なのだ、と主張するに至って、

自説の都合による問題設定であったことが判明します。

自ら形而上学的な問いかけをしたり、西洋哲学を持ち出したりして、西垣自身が西洋的な価値の中で思考していることを示しておきながら、

AI関係者の西洋的・一神教的な視点を、それも西洋思想を用いて批判するのは、僕には茶番としか思えませんでした。

そもそも本書の題名にある「原論」という言い方こそが、神の支配に通じる、すべてを基礎づける絶対知への欲望を示しているのではないでしょうか。

 

最も致命的な勘違いを挙げるならば、西垣が一神教的な西洋思考を批判するものとして〈フランス現代思想〉を持ち出していることです。

 

二〇世紀後半以降の現代思想は、そういう西洋思想のもつ唯我独尊的で侵略的でもある側面を克服しようとしてきたのである。構造主義/ポスト構造主義に代表される文化的多元(相対)主義は、この危険を西洋世界がみずから反省し自覚することから生まれてきた。

 

いまだポスト構造主義の影響にあるバブル脳の西垣は、ポスト構造主義の見かけの相対主義に騙されて問題の本質がわかっていません。

ポストモダン的な文化多元主義は新興国への投資を背景にした、資本の世界的還流運動への転換を学問的に裏付けたものでしかありません。

そんなものを「反省」などと解釈しているお人好しが西洋主義者でなくて何なのでしょう。

 

いまだポスト構造主義などを正しい考えだと思い込んでいる視野の狭さでは、物事の本質がわかるはずもありません。

西垣はポスト構造主義の本質についてまったく理解が足りていません。

〈フランス現代思想〉に代表されるポスト構造主義思想の根源にはユダヤ的な思想があります。

これについてはG・ドゥルーズ学者の檜垣立哉もヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』の解説で同様のことを言っています。

 

近年のフランス思想の軸は、ギリシア思想対ユダヤ思想にあり、異質なものとしてのユダヤをギリシアに対抗させることでとりだされる「他」にあったようにおもわれる。

 

シンギュラリティ仮説の背後にあるユダヤ一神教を批判するのに、ユダヤ色の強い〈フランス現代思想〉を持ち出すのは、

専問が哲学でないにしても、思想の表層しか理解できていない人間の致命的な間違いだと言えるでしょう。

それがわかっている者からすると、この人は何がしたくてこんな本を書いたのか、首をひねるしかありません。

 

つまり、シンギュラリティ批判に〈フランス現代思想〉の系譜にあるメイヤスーの思想を持ってくるという、

西垣の論の立て方自体に大いなる矛盾があるわけです。

むしろ、ユダヤ一神教の思想を批判するのにユダヤ一神教の思想を持ってきてしまうことの愚かさに気づかない、

日本の知識人のポストモダン一元主義こそが問題にされるべきだと僕は思います。

真に相対的な文化多元主義を信奉するなら、〈フランス現代思想〉以外の現代思想も対等に扱ったらどうなのでしょうか。

分析哲学を排除し、J・ハーバーマスなどの後期近代主義を無視して、ポスト構造主義ばかりが現代思想だと思っている人たちに、

本当の文化多元主義も相対主義もあったものではないと思います。

 

 

 

『「戦後」という意味空間』 (インパクト出版) 伊藤 公雄 著

  • 2018.05.27 Sunday
  • 21:40

『「戦後」という意味空間』 (インパクト出版)

  伊藤 公雄 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   全体主義の危機を見据えて「戦後」を見つめ直す

 

 

著者の伊藤は京大、阪大の名誉教授という肩書きを持つ社会学者で、

これまでの著作を見る限り、男性性に関するジェンダー論で知られているようですが、

伊藤自身は「政治と文化」のかかわりを社会学的視座で幅広く研究していると述べています。

 

本書の第1部は戦中派世代について調査した80年代の論考が収録されています。

戦時中の軍関係者によって構成された戦友会を、

兵学校の同期生などの「学校戦友会」と所属部隊による「部隊戦友会」を大小に分けて、

それぞれの特色を描き出しています。

たとえば靖国神社国家護持についての態度を見ると、

学校戦友会と小部隊戦友会に比べて、大部隊戦友会が積極的であることがわかります。

伊藤は大部隊の「所属縁」が小部隊より弱いために、集団維持のために制度を必要としているからではないかと考察しています。

 

次の論考では戦中派が「戦争」や「天皇」に対する思いを、60年安保を境にどう変化させていったかを考えます。

大きく見れば、日本社会の成熟を背景に、批判的な態度から肯定的な態度へのスライドが起こったと伊藤は捉えています。

戦中派世代は経済成長によって「戦中・戦後を貫通したアイデンティティの探求を開始した」のですが、

過去の敗戦経験から「ナショナルなもの」への全面回帰には至らず、「相対化」による現状肯定へと至ったとします。

伊藤のこの分析を逆転させれば、敗戦経験のない戦後世代は「ナショナルなもの」へと無邪気に一体化できることにもなります。

 

第2部は昭和天皇の逝去と憲法体制を扱った90年代の論考です。

「憲法と世論」は96年の論考なのですが、現在にも通用する内容には正直驚きました。

 

考えてみれば不思議なことだ。日米安保条約を「錦の御旗」とする「対米従属派」以外の何者でもないような戦後の保守派、あるいは「右翼」勢力は、なぜ「アメリカの押し付け憲法廃止」などと矛盾したことを語るようになったのだろうか(先日、散歩をしていたら右翼の宣伝車が駐車していた。中を覗いたら、星条旗グッズであふれていたのでちょっとビックリしたものだ)。

 

右翼の街宣車に星条旗という話は、最近出版された白井聡『国体論』でも取り上げられていましたが、

伊藤は白井より明確に「右翼」の姿勢を「矛盾」と表現しています。

対米従属派でしかないのに、アメリカの「押し付け」に反対するようなことを口にする矛盾、

伊藤は自衛隊の誕生もアメリカの「押し付け」で為されたことを指摘し、

そのご都合主義的な主張のおかしさを冷ややかに語っています。

一方、左翼が憲法改正に触れなくなったことにも疑問を呈します。

 

この論考では憲法記念日の読売新聞と朝日新聞の社説の比較など、面白い試みをしているのですが、

伊藤のすぐれた見識だと僕が感じた文を引用します。

 

ぼくたちは、日本国憲法を語るとき、ややもすれば、その背景にある歴史的な文脈を見失いがちだ。しかし、日本国憲法は、よくもあしくも、アジア太平洋一五年戦争の生み出した歴史的産物なのだ。憲法を語ることは、その点で、あの戦争の総括を迫ることと密接に重なりあっているはずだ。しかし、戦後の憲法論議は、多くの場合、こうした歴史への視線を見失ってきた。

 

伊藤は日本の憲法論議は改憲派も護憲派も日本の内側だけの事情で考えられていて、

アジアを視野に含めていないことを問題視しています。

なかなか重要な指摘だと感じました。

 

第3部にはポピュラー・カルチャーから「戦後」を考える論考がまとめられています。

91年から2015年までの比較的最近のものになりますが、

いきなりサブカルを含めた文化論になるあたり、伊藤の関心の広さが窺えます。

「戦後・社会意識の変容」という論考では、60年代から70年代への変化を文化を題材にして描き出そうとしています。

70年代に社会がとりあえずの「成熟」を果たすと、「批判性」よりも「保身性」に傾いていったことを指摘した伊藤は、

若者の「社会」志向から「私」志向への変化を文学作品を取り上げて対照してみせます。

石原慎太郎の『太陽の季節』は「社会」志向、

村上龍『限りなく透明に近いブルー』や村上春樹『風の歌を聴け』は「私」志向とされるのですが、

その中間が庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』だとするのは多少違和感がありますが、

大まかな捉え方としてはそれほど異論はありません。

 

この論考で非常に共感できる部分は、伊藤が70年代以降の消費資本主義社会を、

イデオロギーの終焉と捉えるのではなく、非人間的で抽象的な「資本」の支配が強まった社会として考えていることです。

 

この「イデオロギー終焉」の時代、一見、バラバラな小さな「物語」が無政府的に氾濫している時代こそ、イデオロギー的支配の深化の時代と考えた方がいいのではないか。ある社会学者の言葉を借りれば「ポストモダン的な断片性や脱中心性こそ、イデオロギーが、葛藤し競合しあう自己正当化するさまざまなディスコースの多元性の上に存在していることを明らかにしている」そして「さまざまなディスコースは、権力と支配の問題に密接に結び付いている」のである。

 

伊藤はポストモダン社会をイデオロギーの終焉と把握するのではなく、

イデオロギー的な文化支配を、表面的な断片性、脱中心性を超えて分析するべきだと述べます。

これは非常に重要な指摘だと思います。

 

消費資本主義イデオロギーが、断片性、脱中心性を特徴として文化支配を強めているのに、

日本のインチキポストモダン学者たちは、表面上の意匠でしかない断片性と脱中心性を深遠な思想の現れであるかのように語り、

資本のイデオロギーと戦うどころか、資本の犬となって中身のない著書を売ることに奔走しています。

僕がレビューで同様の内容の批判をすると、「ポストモダン嫌い」とレッテルを貼って文句を言う学者もいたのですが、

社会学の分野では僕の書くような批判はすでに語られていることだとわかりました。

内輪の意見しか知らない無教養な学者ほど、他人の批判を聞くことができないのです。

 

「戦後男の子文化のなかの「戦争」」も興味深い論考でした。

70年代以降のマンガでは「兵器」を持たない肉弾戦による暴力シーンが増えるのですが、

伊藤は逆に「身体性の喪失を強く感じさせられる」と述べています。

主人公の強さは努力で身に付けるものから天性のものとして描かれるようになり、

読者はヒーローに憧れるのではなく、ただ「傍観」するだけとなる、という見方はすぐれています。

 

また伊藤は、70年代を境にして、男の子のヒーローが一匹狼から友情に支えられた集団戦へと変わっていくとして、

社会や経済の「個人化」が進行したために、幻想において「共同性」が求められると述べています。

そのため、この「共同性」に中身はなく、個人のアイデンティティ保証のための幻想が求められているだけで、

内的な凝集性は不在だと喝破します。

(ここを読んで、僕はやたらと集団化したがる一部の傍流若手俳人たちを思い浮かべてしまいました)

ポップカルチャーの分析として、本書はもっと注目されてもいい内容だと思います。

 

本書の視座が多岐にわたるために、なかなか適当な読者のもとに届かないのではないかと危惧します。

(書名からポップカルチャーを扱う本だとは想像がつかないのではないでしょうか)

内容はすぐれていると思いますので、多くの人に読んでもらえることを願っています。

 

 

 

評価:
伊藤 公雄
インパクト出版会
¥ 2,916
(2017-04-01)

『ひとり空間の都市論』 (ちくま新書) 南後 由和 著

  • 2018.01.25 Thursday
  • 12:57

『ひとり空間の都市論』  (ちくま新書)

  南後 由和 著

 

   ⭐⭐

   目のつけ所はいいが考察不足

 

 

都市には一人で利用する空間がたくさんあります。

ワンルームの住居、カプセルホテル、インターネットカフェ、ひとりカラオケなど敷居のあるものから、

牛丼屋のカウンター、シェアハウス、ファミレスのボックス席など敷居の曖昧なものといろいろです。

著者の南後はこのような空間を「ひとり空間」として都市との関係の中で考えようとしています。

 

南後は「ひとり空間」をこう定義しています。

 

個室であるか否かにかかわらず、何らかの仕切りによって、「ひとり」である状態が確保された空間を、総じて「ひとり空間」と呼ぶことにする。

 

物理的な仕切りがあるものはもちろん、

ケータイなどのモバイル・メディアによって生じた「見えない仕切り」によるものまで、

「ひとり空間」に含めたのが現代的といえるかもしれません。

 

南後が言う「ひとり空間」は「空間的に」他者から切り離されることで「個」を成立させる捉え方なので、

その「ひとり」は内面が欠落した匿名的で均質的な存在であることが前提となります。

「ひとり」は西洋的に言えば「個人」のことになるはずですが、西洋の「個」には自立的な内面が意図されているはずです。

そのため「ひとり空間」は、おそらく西洋では「パーソナルな空間」と考えられ、そこには「私的」という意味が含まれると僕は考えます。

つまり、南後が提出している「ひとり空間」は非西洋的な発想、もっといえば日本的な発想なので、

「ひとり空間」という別の概念をわざわざ作り出すからには、それだけの日本的な理由で説明がなされなくてはいけません。

しかし残念ながら、南後は日本の歴史的な空間概念を明らかにする方向に進まず、

(中途半端に鴨長明の方丈庵を持ち出しはしましたが)

近代的な都市との関係にその理由を求めたため、「ひとり空間」の考察に成功せずに終わったように感じました。

 

南後は社会学専攻なので、「ひとり空間」と都市の関係を考えていく上で社会学を利用します。

G・ジンメルやシカゴ学派の都市社会学、H・ルフェーブルなどの古典をたどったりしますが、

あまり「ひとり空間」の考察には役立っている感じはしません。

南後もそれはある程度承知しているようで、この部分は早々に終了します。

 

南後は「ひとり空間」が日本の都市に多いと述べているので、ある程度日本特有の現象だとは理解しているようです。

その意味では西洋の社会学を持ち出しても、納得できる答に到達しないのは明らかです。

「ひとり空間」が日本的なものなのか普遍的なものなのか、そこを曖昧にしつつ論を進めているのも共感できませんでした。

前述したように、空間性から「個」を考えるという発想自体が西洋には縁遠い発想だと僕は思っています。

 

他のレビューにも書いたのですが、

僕は日本の近代的個人が共同体の同調圧力から自由な「私的空間」の確保によって成立したと思っています。

つまり、日本で個人であるには「ひとり空間」の確保が必要だったのです。

むしろ「ひとり空間」という空間性が前提にあって、個人が成立していると言ってもいいと思います。

これは西洋とは違う社会条件の上で後発的に近代化をした国(日本)における事情なので、

西洋人が「ひとり空間」について答を出せるはずがないのです。

 

しかし南後は歴史的認識に乏しいため、いつまでも考察を深めることができず、具体例を書き連ねて終わっています。

あげくシェアリング・エコノミーなどによるネットを介した「半匿名の個人」が、

そのサービスを利用した履歴が残ることで、「ひとり」の関係が継続的なものになり、

都市の貨幣による一回性を原則とする都市の人間関係より匿名性が低くなると述べるのですが、

この論理はまったく信憑性がないとしか思えませんでした。

ポイントカードなどで購買の記録が残る店で買い物をし、店員と会話をして顔バレしている客よりも、

ネットサービスの継続利用の方が匿名的でなくなるというのはどうなのでしょう?

(どちらの関係でもサービスで知り合った相手と恋愛に発展する可能性は同じくらいではないでしょうか)

僕には最新のメディアテクノロジーに対して安易に希望的観測を述べているだけにしか感じませんでした。

 

そんなつまらない「現代性」よりも、学者がすべきなのは、歴史的認識を踏まえた現代の分析ではないでしょうか。

社会学とか情報学とかいうジャンルの縛りの中で研究をしているせいでこのような結果になるのなら、

大学の「専攻」というのはひどく不自由なものだと感じます。

もう少し研究を深めてから書物にすべき内容だったと思います。

 

 

 

 

『メディア不信――何が問われているのか』 (岩波新書) 林 香里 著

  • 2017.12.02 Saturday
  • 16:08

『メディア不信  何が問われているのか』 (岩波新書)

  林 香里 著

 

   ⭐⭐

   旧メディアへの不信は世界的な現象

 

 

本書の題名は「メディア」となっていますが、実際は新聞やテレビなどの旧メディアに対する不信を扱っています。
林はドイツ、イギリス、アメリカ、日本の各国事情を見ながら、旧メディアの凋落を考察していきます。
結論を言ってしまえば、林は行き過ぎた商業主義とポピュリズムにメディア不信の原因を求めています。

ただ、林が考える「メディア」はほとんど政治報道に限定されていると言えます。
その視野狭窄がこの問題を考えるには、いささか力不足の感があるのも事実です。
たとえば、林は日本のメディア不信の原因にそもそもの政治不信というか政治忌避を挙げます。
市民の権利主張の少ない日本人は「メディアに対して無関心、無関与な態度」だと言います。
この分析は正しいとは思うのですが、だとするとこれは日本人の精神構造の問題であって、
最近のポピュリズム(保守論壇の台頭)については考察を放棄しているのに等しくなります。
(ネット上の右派言説は実際には少数だとしてあまり考察しませんし、
左派の衰退が目に余る、と左派批判をして終わります。
産経新聞の読者は政治関心が高いから「欧米的」だという笑える考察もありました)
僕としては、問題の本質から逃げていると感じずにはいられませんでした。

海外のメディア事情についても、それほど新たな知見を得た気がしません。
戦争の反省によりドイツのメディアはリベラル寄りで、右派を中心に不信が高まっているそうです。

イギリスについては記憶に残るような内容はありませんでした。
そもそも、イギリスは世界調査でもメディアの信頼度が最も低い国だったと思います。
アメリカのトランプ現象についてもすでに多くが語られています。
林はアメリカは徹底的な市場原理によって、自分が満足するニュースを選択するようになっている、とします。
自分の選ぶニュースだけを信頼する態度が、それ以外を「フェイク・ニュース」と弾劾することにつながります。
これには「ファクト・チェック」では対処できない、と林は述べます。

海外のことはわかりませんが、日本のネット上のリベラル系とされるメディアへの不信に関しては、
自己自身のナルシシズムを保つために「事実」そのものを嫌悪していることの現れだと僕は感じています。
彼らは本当はリベラルを嫌っているのではなく、「不都合な事実」が嫌いなのです。
それを、リベラル批判にすり替えてごまかしている部分があるように思います。
(僕はリベラル批判本が論理破綻している事実を指摘したら「リベラル病」とか書かれました)

あと、僕は出版社に対して強い不信を抱いているのですが、
商業主義と言うなら、出版社についても触れてほしい気はしました。
(そうすれば「ありがちな本」にならずにすんだ気がします)

また、新聞やテレビ、出版社(それにアカデミズム)も含めて、旧メディアの質そのものが低下していることも事実だと思います。
林は受け手の問題しか考慮していませんが、メディアそのものの質の低下も絶対に影響しているはずです。
(僕が新聞購読をやめたのはそれが理由です)
「メディア」とくくるならば、もっと視野の広い多角的な考察をしてほしいと思います。

 

 

 

『ブルジョワ 近代経済人の精神史』 (講談社学術文庫) ヴェルナー・ゾンバルト 著

  • 2017.04.11 Tuesday
  • 10:43

『ブルジョワ 近代経済人の精神史』 (講談社学術文庫)

  ヴェルナー・ゾンバルト 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   資本主義への精神的アプローチ

 

 

ヴェルナ−・ゾンバルトは経済学を歴史的に捉えようとした点で、
マックス・ヴェーバーとよく比較される存在です。
資本主義の精神についてはヴェーバーがプロテスタンティズムをその源流とみなしたのは有名ですが、
ゾンバルトはカトリシズムとユダヤ教を重視し、プロテスタンティズムは資本主義の敵と考えています。

本書は第1巻と第2巻の二部に分かれています。
第1巻では資本主義精神をいろいろな角度から描いています。
金銭を求める営利衝動の分析にはじまり、
企業精神のあり方、資本主義企業の起源や基本タイプを考察し、
加えて市民の美徳が資本主義精神に関係していることも明らかにします。

ゾンバルトの研究範囲の広さや長大な分析には圧倒されますが、
さらに興味深いのは第2巻の方でした。
後半は資本主義精神の源泉を多様な観点から描き出しています。
これも観点の多様さと分量において十分に読み応えがあります。

第十六章では生物学的な部分に踏み込み、
資本主義の原素質を持つ民族としてエトルリア人、フリースランド人、ユダヤ人を挙げています。
ユダヤ人と資本主義については、ゾンバルトにはユダヤ人と経済生活 (講談社学術文庫)という別の著作がありますが、
環境論はともかく血統論を持ち出すあたりは恐れ入ります。

十九章では前述のカトリシズムについて語られます。
ゾンバルトはカトリックの倫理に「生の合理化」を見出し、
これが経済的合理主義を促進したと述べます。
特に性生活の制限が浪費を抑制し、家計に秩序を与えること、
怠惰を罪とすることで勤勉と節約をもたらすことを強調します。

それに対し二十章ではプロテスタンティズムに触れて、
それが資本主義の利益追求をいかに排撃したかが語られます。
続く二十一章でゾンバルトはユダヤ教がカトリック以上の合理主義であることを示し、
さらに同胞には利息を禁じ、外国人には利息を許可するユダヤの法が、
外国人から法外な利益を得ることを不道徳と感じさせないため、
営業の自由を発展させたとしています。

それから国家や移住、技術について触れたあと、
資本主義自身が資本主義精神を発展させる点にまで考察が及びます。
個人的には異端者という地位が経済能力を発展させるという考察が、
〈フランス現代思想〉と資本主義の接点を示していて面白かったのですが、
そんな興味深い考察がどこかに潜んでいるような本です。

ゾンバルトは最後に資本主義精神が人口過剰の減少には勝てないと書いています。
百年前の本ですが、今読んでも得るものが少なくない本だと思います。

 

 

 

『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房) 大黒 岳彦 著

  • 2016.11.22 Tuesday
  • 20:14

『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房)

  大黒 岳彦 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   情報社会の存立構造に迫る渾身のクリティーク

 

 

NHKを退職して東大大学院に入り、明大教授になった経歴を持つ
大黒岳彦がメディアに対する体系的批判(クリティーク)を試みた本です。
いまだ旧世紀の発想でメディア論を上梓している学者もいる中で、
大黒は2010年以降の最新メディア環境を扱っています。
GoogleはもちろんビッグデータやAI、SNSなども扱われています。

まず、導入となる序章が興味深いのです。
大黒はインターネットというネットワークメディアとテレビ的なマスメディアを区別し、
その地殻変動をマーシャル・マクルーハンを題材に考えていきます。

マクルーハンは著書『グーテンベルクの銀河系』で活字の黙読による個人主義文化の成立を語りましたが、
彼個人は〈活字〉の文化より共同体的な〈声〉の文化を理想視していました。
マクルーハンはテレビという〈電気〉メディアによって〈声〉の文化の復活を目論んでいたのです。
大黒はそこにカトリック的な一体感を持つ共同体としての「地球村」への憧憬があったと語ります。

しかし実際にはインターネットによって「地球村」は実現していません。
「なぜならメディアは一般的に言って、「融合」と同時に「分断」と「差別化」をも果たすからである」
と大黒はいうのですが、これは重要な指摘です。

 電話というメディアは、単に人と人とを〈つなぐ〉技術ではな
 い。それは、「いつでも電話で話せるから」という理由で人と
 人とを〈切り離す〉技術でもある。また、ある人と〈つながる〉
 とは、その人を選別したことであり、したがってそれ以外の人
 を〈排除〉したことを意味する。

いつでも自己都合でつながることは、それ以外の時間はつながりたくない、という欲望を生みます。
また、つながりたい相手を自己都合で選ぶことは、望まない相手からのアプローチを嫌悪することになります。
問題なのは、圧倒的に〈切り離す〉時間や相手が増えるということです。
現代の排外主義はこのようなメディア環境によって引き起こされているのではないでしょうか。

大黒は排外主義の話ではなくマクルーハンが依拠したメディアが、
テレビ的なマスメディアであったことを問題にしていきます。
マスメディアとは「権威としてのプロフェッショナルが制作した情報コンテンツが大量に複製され、
それが大衆という不特定多数の受容者に対して情報「商品」として一斉同時送信される「環境」」ですが、
ネットワークメディアでは発信者と受信者の区別がハッキリしなくなるので、
マクルーハンが描いたような事態にはならなかったのです。

個人的なことですが、僕はAmazonでレビューを書いたことで、
著者から何度か人格を貶めるツイートを流されました。
彼らはいまだ「プロフェッショナル」としての「権威」だけを貪り、
「プロフェッショナル」な仕事をしない人たちなのですが、
ツイッターを扱いながら彼らがメディア環境の変化にいかに対応できていないかがわかります。

この変化から、大黒は学者の知識に依拠した仲介業である「知識人」がお払い箱になると指摘します。
ネットワークメディアにおいては、マスメディアから大衆へというヒエラルキーは成立しなくなるのです。
それに代わり、情報社会の「知識」をめぐる権力を主導するのはGoogleだとします。

第一章はあらゆる情報を収集する「汎知」のあり方を、
文字メディアの様態である博物誌、百科事典、教科書を順々にさらいつつ、
電子メディアの様態(代表はGoogle)への変化をたどります。
大黒が強調するのは電子メディアのユーザーインターフェイスには「主体性」が実装されているということです。
どういうことかというと、断片化された情報をつなぐ「リンク」という知的作業は、
利用者の側ではなく検索システムの側にあるということです。

大黒はこのような事態をマルティン・ハイデガーが予言していたと述べます。
ハイデガーはテクノロジーの自己目的化運動を「配備=集立」(Ge-stell)として批判しています。
このような事態は現在も進行中であるわけですが、
昨今の思弁的実在論は情報社会の現状を追認し適応を促すばかりで、
ハイデガーの予言を覆すに至っていない、と大黒の口吻は不満げです。

第二章はビッグデータを扱っています。
問題となるのはデータ収集の運動が〈自律=自立〉することです。
人間の意志決定はビッグデータの自己目的運動に組み込まれ、知らず知らず「搾取」されることになります。
そこではデータのオートポイエーシスの方が「主体」となるのです。

第三章はSNSによるコミュニケーションの情動化をふまえて、
「実在的」社会把握に代わる「抽象的」な社会理論としてニコラス・ルーマンの社会理論が紹介されます。
ルーマンは社会をコミュニケーションの連鎖的接続によって産出されるオートポイエーシス・システムと考えています。

人工知能とロボットに触れるのが第四章です。
ここでは身体がネットワークに組み込まれることで、人間から引きはがされ、
「配備=集立」(Ge-stell)の運動に巻き込まれる事態が語られます。
大黒はAIが従来のように所与のデータを扱うのではなく、
人間のアウトプットしたデータから認識困難な課題を見つけ出すようになり、
人間を素子として利用している点で、すでに人間を超えていると述べています。

大黒はロボット工学者のロドニー・ブルックスの「包摂アーキテクチャ」を取り上げ、
それが人間ではなく昆虫に範をとるものであり、
主体性が局所化、分散化されることを指摘します。
もはや主体性に内面は必要がない、自律して「見える」ことが主体性だと判断されるというのです。

 では、AIとロボットがそこへと組み込まれつつある新しい社
 会とは如何なるものなのか? (中略)端的に言えばそれは、
 〈コミュニケーション〉が非人称的“演算”(Operation)として
 持続的に連鎖する中で、社会構造が〈再帰的(reflexiv)=自己言及
 的(selbstreferenziell)〉に、すなわち社会過程の反復によって力動的
 に再生産される一つの〈システム〉である。

大黒は情報社会の中で人間は
「AIやロボットと機能的に等価なネットワークのノード」となり、
主体性の特権的所有を誇ることはなくなると語ります。

最終章で大黒は情報社会において倫理が可能かを問います。
倫理には権威の承認が必要だが、インターネットはそれを無化する構造を持つため、
〈ネットワーク〉メディアにおいては倫理の不可能性が前景化せざるをえないからです。
こうした状況に対し、大黒は倫理的多元主義の可能性を考察します。
ルーマンとジャック・デリダの思想をヒントにして、
現行の社会システムを別でもあり得た可能性の一つとして相対化し、新たな多元性の領野を偶発的に捉えるというやり方です。

このあたりの議論はとりわけ抽象的なので、詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、
非倫理的な外部の参照によって絶えず倫理のアップグレードをはかり、
システムそのものが不断に変化することだと僕は理解しています。
こうして「〈倫理〉こそが情報社会の「可能性の条件」なのである」という一文で本書は閉じられます。

この長いレビューにつきあっていただいた方にはおわかりだと思いますが、
本書は情報社会の現在を捉えるための広い視野と深い考察に満ちていて刺激的でした。
「哲学」ということを強く意識しなくても多くの示唆が得られる本だと思いますのでぜひ一読をおすすめします。

 

 

 

『大人のためのメディア論講義』 (ちくま新書) 石田 英敬 著

  • 2016.01.28 Thursday
  • 19:40

『大人のためのメディア論講義』 (ちくま新書)

 石田 英敬 著

 

   ⭐

   著者本人のためのメディア論講義

 

 

著者の石田は東大の大学院総合文化研究科の教授です。
帯には「テクノロジーと情報産業から人間の意識を取り戻せ!」とありますが、
内容はほとんどそのような本ではありません。
「理系専制からマイナーな記号学の学問的価値を取り戻せ」が本音でした。

この本によると、
「記号論」は「世界でたった三人ほどの理論家がそれを進めて」きたらしく、
その三人は、フリードリヒ・キットラーとベルナール・スティグレールと石田なのだそうです。
キットラーとスティグレールの著書と比肩しうる石田の著書がまったく思いつかないので、
彼の自己評価を素直に受け入れる気になれないですが、
そんなマイナーな「記号論」をメディアのコンピュータ化(デジタル転回)によって
見直すべきだというのが本書の主張です。

動機は何であれ、理論に妥当性があれば尊重すべき意見だと思います。
しかし、石田の展開する理論にはたいして中身が感じられないのです。
本当にヒドい本なので、僕の批判に疑問を感じる方はぜひ本書を通読してください。

まず冒頭で、フロイトが人間の心を表現した「不思議のメモ帳」と
iPadのようなメディア端末が対応すると述べます。
表層上で消えた記憶が深層の無意識領域に残るという心の構造が、
端末上で消えた情報がデータベースに残ることと同様に扱われるのですが、
かなり粗雑な理論だと思いました。

無意識領域の記憶は混乱し混濁し多方向的ですが、
データベースの情報はデジタルに分化し同一性を維持し続けるので、
東大得意のフランス思想的論法で言えば天と地の差があるはずです。

また、石田はコンピュータが記号論から生まれたと主張します。 
コンピュータを「哲学的に」発明したのはライプニッツだとも言います。
このような強弁を不思議に思いつつ読み進めると、
石田の目論みが、廃れてしまった自らの学問領域(記号論)を、
デジタル社会に関連づけて復権しようというものだとわかってきます。

デジタル化した社会の問題を考えるには、
デジタル発想の基盤にある記号論を見直す必要がある、
石田の言う「メディア論のデジタル転回」には、
自分の影響力を高めたいという欲望ばかりが目につきます。

特に不満に感じたのは、
社会のデジタル化を背景に記号論の重要性を訴えるという、
デジタル社会に依存した理論を展開しながら、
デジタル社会から人間性を取り戻すために、
実践的リテラシーよりもデジタル社会の基盤にある記号論の共有が大事だと言うあたりです。

デジタル社会によって価値を与えられる記号論が、
どうしてデジタル社会を見直すことに役立つのでしょうか?
自らの価値を裏付けるものを、誰が批判できるのでしょうか?
それは東大が国に逆らうようなことではないでしょうか?
だとしたら、それが可能かどうかはすでに証明されたも同然だと思います。

自己弁護のためとはいえ、
ここまで都合のいい非論理的な言説を展開することには怒りすら覚えます。

僕は石田が依拠する〈フランス現代思想〉ベースのメディア論は、
大きく間違っていると思っています。
本書でも石田は「原‐メディア」とか言っていますが、
多少でも思想の心得があれば、
これがデリダの「原‐エクリチュール」から来ていることがすぐにピンときます。

ソシュールやデリダの影響ばかり受けすぎると、
メディアの伝達的側面を見失うことになります。
メディアとはそもそも「媒介」であり、送り手と受け手を繋ぐものです。
しかしデリダはエクリチュールを根源としたいがために、
送り手の意図をできる限り排除しようとします。

そのため、石田は「メディアの再帰性」などと言って、
メディアを自立的存在として把握することになります。
しかし、人々はネットを何に使っているのでしょう?
SNSやLINE、ツイッターなどが多いのではないでしょうか。
これら双方向の通信手段が伝達に重点を置いているのは明らかです。

〈フランス現代思想〉の権威に依存するだけの東大的発想は、
片手落ちのメディア論を永遠に続けるだけに思えます。
「原‐メディア」とかつまらないことを言っていないで、
伝達道具が同時に自立的にも機能するという、
その二面性からメディアの秘密に迫るべきだと思います。

あまり厳しいことは言いたくはないのですが、
理論的な正しさより外国思想の権威に従うだけの東大的発想では、
学問の社会的な無用性が高まり、
文系学問の危機は今よりも深まることになるのではないでしょうか。

 

 

 

『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』(東京大学出版会) 石田 英敬/蓮實重彦/その他 著

  • 2015.09.06 Sunday
  • 18:31

『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』

  (東京大学出版会)

  石田 英敬 /蓮實重彦/その他 著 

   ⭐

   表紙を変えても中身は古いまま

 

 

本書は2007年に東大大学院情報学環で行われた
シンポジウムを単行本の形にしたものです。

出席者にはフリードリヒ・キットラーやベルナール・スティグレールがいて、
メンバーは豪華といえなくもないのですが、
近年めざましいメディアの技術革新からすると、
8年も経ってから本にするのは遅すぎるように思います。

現在「メディア哲学」と銘打って本を出すなら、
当然インターネットやスマホの全般化という環境は無視できません。
そのあたりを期待して本書を購入したのですが、
8年前がベースでは現在の状況に間に合うはずもありません。

インターネットに触れているのはスティグレールの論考ぐらいです。
「WiMax」を名指ししている論考でしたが、
今となっては彼がWiMaxだけを問題にした理由がよくわかりません。
内容も将来への曖昧な展望であって、
不明瞭なイメージしか得られませんでした。

RFID(ID情報を埋め込まれたタグ)やメディアアートの話も、
物足りなさが残りました。
このシリーズを買うなら、2巻以降を買った方がいいかもしれません。

最初の蓮實重彦の論考は旧世紀のメディア論の焼き直しでした。
まだこんなことを言っていればいいのか、と正直あきれました。
蓮實お得意の映画についての論考なのですが、
映画の起源はサイレントであって、音声は映像とズレているというのです。

彼の発想のもとにはジャック・デリダの『声と現象』があるのでしょう。
音声は純粋な自己触発であって、同一性の強化につながるが、
エクリチュールは多様な意味をもたらし、差異によってズレが生じる、
という図式の応用です。

もしくはジル・ドゥルーズの『シネマ』を踏まえているのかもしれません。
映像イマージュと音声イマージュの切断、断絶という発想です。

このThat'sポストモダンという発想自体がダメだとは言いませんが、
何十年も同じ事を言い続けることは同一性の強化ではないのか、
という疑問が僕にはぬぐえません。
(また、このズレが映画においてどう重要なのかもわかりません)

このような弊害は、
日本では思想が「語られる」だけで良いものであり、
「実効性」を問われないことから起こっています。

これはそもそも、西洋思想が日本で実効性を持たないことを利用した腐敗の構造といえるものです。
西洋思想だから日本で実効性がなくても当たり前。
だから、口だけで言っていても別に責任を問われない。
このメカニズムはメディア上の匿名の発言と構造上の類似があります。
つまり西洋思想をメディアとした無責任性が存在するわけです。

メディアや差異の問題を考えるなら、
西洋と日本の差異とそれを媒介するメディアの働きの批判的考察が欠かせません。
(ただ、この問題は西洋の思想家が考えてくれないので、
自分たち自身で「考える」ことをしなくてはいけませんね)

総じて〈フランス現代思想〉に依存した連中は、
思想の実効性には関心がなく、
権威のある思想を振り回すことに執心しています。

彼らは口では差異とか他者とか言いながら、
自らの行動がパラノイア的であることを反省しません。
どんなに思想の内容がすばらしくても、
それを使う人間が低俗な精神しか持たなければ真逆の効果を導きます。

「メディアのデジタル転回」などと新しげなことを言うならば、
デジタル以前のメディア論では到達しえない新たな理論を出してほしいものです。

 

 

 

「文学界」2015年7月号 (文藝春秋)

  • 2015.06.10 Wednesday
  • 11:39

「文学界」2015年7月号

  (文藝春秋)

 

   ⭐

   そもそも出版社に知性が見られない

 

 

僕は「反知性主義」関連本の批判レビューをいくつか書きましたが、
こう次々と現れてくると、
モグラたたきでもしている気分になります。
(もう最後にしようと思っています)

「反知性主義」という言葉が出版界で流行していますが、
この言葉に明確な内実はありません。
漠然と自らが「悪」と感じるものを「反知性」と名指しして、
それを攻撃したり排除することで、
自らの心の平安を求めるための非知性的な言葉です。

問題をしっかりと認識せずにレッテル貼りをするという点で、
この言葉は問題解決を意図してはいません。
ただの「鬱憤晴らし」の要求に応えているだけです。

この言葉が動員のための言葉として使われるのではないか、と
僕は内田樹『日本の反知性主義』のレビューで書いたのですが、
今号の特集「「反知性主義」に陥らないための必読書50冊」で、
とうとう「反知性主義」が動員のための言葉として利用されました。

その意味では、動員された50人の知性には疑問を感じますが、
全員の書いたものを読んでみると、
中には単なるエクスキューズではなく、
批判的知性を持って書いている人もいます。

たとえば池内恵はこんなことを書いています。

 「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなって
 こんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」
 の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、
 といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高
 に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本
 は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。
  今手にとっておられるこの雑誌を出している出版社だって、私
 から見れば数多くの反知性主義本を出し続けている。

池内は「反知性主義」という非知性的な言葉を垂れ流す出版社が、
むしろ知性的といえない存在であることを示唆していますが、
原稿を依頼された出版社を批判するのは簡単ではないと思います。
こういうことを書いてくれる人が一人でもいることに救われます。

他では、石井洋二郎の発言も妥当だと感じました。

 ある種の人々に「反知性主義者」というレッテルを貼って事を済
 ませてしまうのはたやすい。けれどもそのこと自体が典型的な判
 断停止であり、まさに反知性主義的な身振りであることを心得て
 おく程度の感性は、最低限持ち合わせておくべきだろう。

また、松浦寿輝が反知性主義への処方箋として、
外国語と親身につきあうことを挙げていたのは、なるほどと思いました。
(個人的には東大で働く連中などほめたくはないのですが)

そういえば、「反知性主義」で本まで出した内田樹は、
今回一度も「反知性主義」という言葉を使っていませんでした。
なにか心境に変化でもあったのでしょうか。

こうして「反知性主義」現象を追いかけていると、
出版社の安直な発想が問題だと感じます。
知性や倫理より自己保身を優先する日本のマスコミこそが、
反知性主義と呼ばれるのにふさわしいと僕は思っています。

さて、僕は仕方なくひさしぶりに文芸誌というものを買いましたが、
内容は以前よりさらにひどくなっていますね。

芸人でウケたからかわかりませんが、
演劇人や俳人などの下手な小説を載せて何が面白いのでしょうか?
小説の修行をしてきた人より素人を好むのは、
AKB文化にでも影響を受けた結果でしょうか?

それから小山鉄郎の「村上春樹の「歴史認識」」は不愉快でした。
ナルシスト村上春樹に配慮して、
出版社が批判をしないようにしていることはわかります。
(以前、爆笑問題の太田光がラジオで村上の本を揶揄したら、
出版社の人間が抗議に来たと話していました)
僕もどうせ提灯記事だとはわかっていましたが、
内容が「歴史認識」となると看過できない面があります。

小山は村上の作品に東アジア関連の記述があるというだけで、
村上が「歴史認識」を持った作家だとしていますが、
「歴史認識」とは単に歴史をネタにしていることとは違うはずです。

小山は『1973年のピンボール』に登場する双子の女の子が、
「208」「209」というトレーナーを着ていることについて、
それが昭和20年8月と9月を示していると書いています。
百歩譲ってそれが正解だったとしても、
これが村上の歴史認識の何を示しているのでしょうか?
それこそ敗戦を正面から描いた小説などいくらでもあります。
こんなのは「遊び」であって「歴史認識」であるはずがありません。

村上春樹の歴史認識を語るならば、
彼が日米戦争という事実から逃げていることを言うべきでしょう。
満州やソ連のことは書いても、
アメリカを敵として戦ったことは明確に描こうとしません。

これは白井聡流に言えば、(アメリカとの)敵対性の否認といえるでしょう。
もちろん、村上が大好きなアメリカのマーケットを配慮し、
戦略的に描かないようにしている可能性もありえますが、
どちらにしても否認をしていることは同じです。

小山の経歴を見ると、共同通信論説委員とありますので、
ジャーナリズムの世界で生きてきた人だと思われます。
それが「歴史認識」という語をいいかげんな意味で使い、
ほとんどジャーナリスティックな態度が見られないのは、
いったいどうしたことでしょう?

『1973年のピンボール』に出てくる「配電盤の葬式」エピソードが、
「日本近代の統一性、効率性の追求に対抗するアニミズム」だとは、
よくぞ書いたものです。
そんなことにアニミズムを読み取れるのであれば、
別に西洋の小説にだっていくらでもあると思いますよ。

小山は「動物と話せる言葉の力、アニミズム的な力を持つ日本人」の代表として、
村上春樹を位置づけていくのですが、
これが村上の魅力だと思っているファンがどれだけいるのでしょう?
(というか、象に話しかける=動物と話せる、ってどういうこっちゃ)

こういう中身のない持ち上げ記事で点数稼ぎを続けて、
文藝春秋は村上の本を出すに至ったのでしょう。
「「反知性主義」に陥らないための」とか言っている雑誌が、
とっくに知性を失っていると感じないわけにはいきませんでした。

 

 

 

『社会喪失の時代――プレカリテの社会学』 ( 明石書店) ロベール・カステル 著

  • 2015.06.09 Tuesday
  • 07:45

『社会喪失の時代   プレカリテの社会学』 ( 明石書店)

  ロベール・カステル 著/北垣 徹 訳 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   ナルシシズムは社会喪失したハイパーモダン時代の個人像

 

 

2013年に亡くなったフランスの社会学者カステルの、
1995年から2008年までの論文をまとめた本です。

カステルは主に賃労働をめぐる環境の「大転換」によって導かれた
「プレカリテ」の社会について多面的に考察しています。

「プレカリテ」とは「不安定」という意味ですが、
雇用環境の悪化により、賃労働が不安定化している状況は、
フランスであっても日本であってもさほど変わらないようです。

この問題をカステルは「個人からなる社会」として捉えます。
簡単に言えば、行き過ぎた個人化が進められている、ということです。
賃労働者は近代前期では国家や労働法に保護されていましたが、
後期近代になるとそれらの保護を失い、集団的連帯も形成できず、
無防備に個人化が進められていきます。

近代的個人が他に頼ることなく存在するには、
自立できるだけの所有が必要になります。
最初は私的所有が可能なブルジョアが個人となったのですが、
労働に保護が結びつく「社会的所有」が確立すると、
1970年代には多くの個人が生み出されました。
カステルはこの「社会的所有」を非常に重視しています。

この「社会的所有」が退潮していく現代になって、
2つの超近代的個人が現れるとカステルは主張します。
「超過する個人」と「欠乏する個人」と北垣徹は訳語を当てていますが、
原語はindividu par exces とindividu par defaut であるとのことなので、
「過大な個人」「過小な個人」という感じかもしれません。

この「超過する個人」についての分析が僕には興味深いものでした。

「超過する個人」は社会の中で生活していることを無視し、
自分の主観性に浸りきっている存在です。
社会からあらゆる客観的な決定要因を除外し、
個人の観点のみを考慮し個人性の中に閉じこもっている。
個人的なものが肥大化するあまり、社会的なものを排除する彼らは、
ある意味社会から離脱した「社会喪失」を生きる存在であり、
究極的にはナルシシズムへと至る、とカステルは述べます。

カステルは「超過する個人」が裕福で教養ある中産階級の若者で、
「68年精神」を持っている者としていますが、
僕には日本のポストモダンの精神を言い得ているように思えました。
ポストモダン論者が社会からの逃走や切断ばかりを語り、
主観的な領域に引きこもっているナルシストなのは、
彼らが「超過する個人」だからだと考えれば腑に落ちます。
社会から離脱した自己都合の政治を行う安倍晋三も合致するかもしれません。

 現在の社会情勢の重要な特徴とは、脱集団化や脱

 制度化の動きであり、集合的な帰属や価値からの

 離脱と結びついた個人主義の高まりである。

こう語るカステルは「超過する個人」の裏に
「欠乏する個人」という存在があることに注意を促しています。
彼らは制度による集合的束縛から切り離されたために、
個人としての自己実現が不可能になった存在です。
不安定労働がこのような人々を多く生み出しているわけですが、
カステルは彼らを救う役割を国家に期待しています。

左翼といえば国家権力を批判するものと相場が決まっていましたが、
もはやそのような時代でもないようです。
カステルが懸念しているように、
日本のポストモダン思想も安倍政権も
「欠乏する個人」など存在しないかのように振る舞っていますが、
不安定な賃労働に脅かされた人々の不安と鬱憤を、
右だろうが左だろうがイデオロギーで解決できるはずがありません。

カステルは国家が労働者を保護することが本来のあり方だと語ります。
非現実的な革命を語るよりは、たしかに現実的なのでしょうが、
日々不安定労働に勤しむ僕にはそれすら期待できないように思えます。
このままでは最終的に暴力が露出する社会になりかねません。
それが「社会喪失」を真に決定づける事態だけは避けたいものです。

 

 

 

『反知性主義とファシズム』 (金曜日) 佐藤 優/斎藤 環 著

  • 2015.05.29 Friday
  • 07:34

『反知性主義とファシズム』 (金曜日)

  佐藤 優/斎藤 環 著

 

   ⭐⭐

   対談文化って知性的なのだろうか

 

 

最近「反知性主義」と題名をつけられた本は怪しいものだらけですが、
本書も内容のクオリティ以前に、出版姿勢に疑問が感じられます。

まず、題名が政治的なわりに、内容はAKBと村上春樹と宮崎駿です。
ファシズムについてはけっこう語られていますが、
「反知性主義」という言葉は10数回くらい出てきた程度です。
最後まで「反知性主義」が何かという定義もありません。
なぜ題名が「反知性主義とファシズム」なのか理解に苦しみます。

気になったのは、この2人が「週刊金曜日」で行った対談が、
いつのものか明記されていないことです。
とりあげたメインの作品が
濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』
宮崎駿「風立ちぬ」
ですから、ベースの対談部分は2013年に行われたのでしょう。

手直しはしているのでしょうが、
「反知性主義」という流行語で本を売るには、内容が古すぎます。
佐藤優が当時に早くも「反知性主義」という言葉を使っていたため、
言葉が流行している今になって書籍化を考えたのかもしれません。
こういうことは隠されるとかえって不信感を抱きます。

「ファシズム」の定義は「反知性主義」と同じく曖昧ですが、
佐藤は生命主義を中心としたイデオロギーとして理解しています。
斎藤の方はよくわからないのですが、
ロリコン性やヤンキー的なものにファシズムの解毒作用があると考えているようです。

結果、2人は日本がファシズムに満たない国だとするのですが、
それはファシズムをどう考えるかによると思います。

当然のことながら、ファシズムにはいろいろな形態がありえます。
ナチスをもとにするのか、スターリニズムを考えるのか、
北朝鮮なのか、はたまた日本の戦時国体なのかで、
だいぶファシズムに対する捉え方が違ってきます。

しかし、2人はそれをあまり明確にせず、
ファシズムという言葉だけで「なんとなく」話を通じさせてしまいます。
「反知性主義」という言葉もそうですが、
認識を明確にしないで話を通じさせてしまうのは、
対談という文化にも問題があるように感じます。

海外ではどの程度メジャーなのかわかりませんが、
日本のインテリはやたらに対談をします。
しかし、この対談という文化はそもそも知的な形態なのでしょうか?

論文を理解するのが難しいにしても、
その人の主張をわかりやすく知るには、インタビューがむいています。
それに対し、対談はある共通の場で話を進めていくことが約束されている、
いってみれば予定調和が望まれている場です。

そのため、立場の近い人同士で対談をするのが普通です。
どうしたって内輪の話になりがちですし、
話が通じてしまえば、厳密な定義など気にしなくなります。
場合によっては、個々の主張は不明瞭になることも少なくありません。

本書では「風立ちぬ」に関して佐藤と斎藤は意見が食い違っていますが、
激論という感じにはやっぱりなりません。
斎藤が譲って佐藤の話を聞くかたちになっています。

対談は個の主張より場の調和を優先する性質があるのです。

個よりも集団の調和を優先する「同質性」が優越した場を生み出し、
読者の所属意識や党派性を強める作用が対談にはあります。
このような同質の場が世間さらに国家にまで拡大されれば
部分と全体が一致する「世間型ファシズム」が形成されることだって、
ありえないとは言い切れないと思います。

もちろん、僕は対談という世論形成メカニズムを否定しているわけではありません。
ただ、自らもさほど知性的でないシステムを利用していながら、
「反知性主義」などと他人をよく攻撃できるな、とあきれます。

本当はただ「頭が悪い」と言いたいだけなのに、
「反知性主義」という迂遠で空虚な言葉を用いて、
自分はさも知的な顔をしながら相手を罵倒するやり方は、
僕には品性を失ったエリートの反動的行為に思えます。

だいたいサブカルでファシズムを語るのだって、
反知性主義的なポピュリズムだと言えなくもないですよ。

内容の薄い本を流行語だけで売ろうという、
「バスに乗り遅れるな」の精神が何を導いたのか、
そういう反省もない方々に「反知性主義」とか言われても、
悪い冗談としか思えません。

やはり戦争の最大の要因は経済だと思います。
金儲けのために手段を選ばないことが、
イデオロギー以上に危険だと知識人なら気づくべきです。
かつての左翼が金儲けに走る姿には本当に幻滅します。

ちなみに斎藤のロリコン性がファシズムの解毒作用になるという考えは、
まったく僕には正しいとは思えません。
そんな珍説を開示するなら、そのメカニズムをしっかり説明してください。

 

 

 

評価:
佐藤 優,斎藤 環
金曜日
¥ 1,512
(2015-05-21)

『24/7 :眠らない社会』 (NTT出版) ジョナサン・クレーリー 著

  • 2015.04.05 Sunday
  • 06:14

『24/7 :眠らない社会』 (NTT出版)

  ジョナサン・クレーリー 著/岡田 温司 他訳

 

   ⭐

   わかりきった話では得るものがない

 

 

クレーリーの言う「24/7」とは、24時間週7日いつでもアクセス可能な世界のことです。

資本主義にとっては、営業時間外の時間は儲けが生まれないムダな時間です。
そのため、資本はすべての時間を活動時間へと近づけようとします。
人間の生命体としての限界さえなければ、
資本主義が最終的に24/7の労働もしくは消費を要求するのは必然といえるでしょう。

その意味で、「24/7」という発想には特に驚くこともありませんでした。
たいした本ではないのではないか、とも思ったのですが、
帯の「資本主義は睡眠を奪う」の文句が自分の労働環境を思い起こさせて、
何かを得られるような期待を持ってしまったのです。

資本主義に睡眠が奪われる、ではどうしたらいいか?
本書にはその答もなければ、それを求めていくヒントもありませんでした。

活動時間が24時間になると、必然的に睡眠時間がなくなります。
睡眠が新たに疎外論的文脈において取り上げられているわけですが、
クレーリーの話はそこから全く発展していきません。
夢を考察したりして、睡眠は大事だというわかりきった話で終わってしまいます。

「24/7の世界」と漠然とした輪郭を描いて、
資本主義や消費文化、インターネットとの関係を掘り下げることもなく、
それらにフルタイムへの欲望があるとか、
管理社会化しているとかいうわかりきった話ばかりでは、
こちらが退屈になってしまいます。

そのような内容はポール・ヴィリリオが「瞬間の君臨=リアルタイム」の覇権として、
何倍も深い考察をすでに行っています。

皮肉なことに、僕はこの本によって何度も睡眠を獲得しましたが、
たいして得るものもなく、少なくないお金を奪われました。

 

 

 

評価:
ジョナサン・クレーリー
エヌティティ出版
¥ 2,700
(2015-03-12)

『日本の反知性主義』 (晶文社) 内田樹/白井聡/高橋源一郎/小田嶋隆/その他 著

  • 2015.03.23 Monday
  • 22:49

『日本の反知性主義』 (晶文社)  

  内田樹/白井聡/高橋源一郎/小田嶋隆/その他 著

 

   ⭐⭐

「反知性主義」という語を旗印にするのはやめた方がいい

 

 

最近「反知性主義」という言葉を使った本が増えています。
白井聡が言い始めてできあがった流れだと思いますが、
「反知性主義」関連の本をいくつか読んだ結果、
この言葉を使い続けるのは非常に悪い風潮だと感じています。

まず、「反知性主義」という言葉が示す内容が不明瞭なのが問題です。
僕は「現代思想」2月号の反知性主義特集のレビューでも指摘しましたが、
「反知性主義」が何なのかは本書の執筆陣にも共有されていません。
赤坂真理は「実は「反知性」という言葉が私にはわかりません」と本書で告白しています。

他にも、反知性主義について語ると自分が知性主義だと言っているようで居心地が悪い、と
高橋源一郎はこの言葉に及び腰になっていますし、
実は自分にも反知性主義的態度があるのではないのか、と
小田嶋隆や想田和弘は誠実であるために葛藤しています。
利口な平川克美と鷲田清一は、「反知性主義」という言葉を一度も使っていません。

このように執筆者を悩ませる「反知性主義」という言葉を使う意味は何なのか、
誰でも疑問を感じそうなものです。

しかし、その中で前のめりにこの言葉を使っているのが、
言い出しっぺ(?)の白井聡と本書のボスである内田樹です。
この二人はちょっと前に対談本を出していますので、
本書の中心にいる存在だと考えてよいでしょう。

そこで、さらに問題なのが、
この二人が「反知性主義」について語っていることにも、
矛盾が見られるということなのです。

内田は知性とは集団的だとか、反知性主義は無時間だとか、
独特のロジックを断言的に用いていますが、
名越康友との対談ではもう少しわかりやすく、
「死者との共感」や「身体を通した直感知」が必要だと述べています。

白井は「反知性主義」を「啓蒙主義の物語の放棄」として捉え、
「否定的なものの否認」として整理しています。
そこでは近代啓蒙主義による主体から
幼児的全能感を旨とする「ネオ主体」(立木康介からの引用)への変化という、
主体性の破壊が問題とされています。

両者の主張のどこに矛盾があるかというと、
内田は〈フランス現代思想〉に影響を受け、近代的主体を解体する
反近代主義であるのに対し、
白井はヘーゲル的な主体を再評価する近代主義であるということにあります。

白井は「敵対性の否認」を問題としていますが、
彼の主張の内容からすれば、
〈フランス現代思想〉に享楽した左翼による主体破壊を批判する必要があるはずです。
それなのに、〈フランス現代思想〉の罪に関しては「否認」をしています。

外部には偉そうに言っていても、
自分は仲間内の左翼に対しては「敵対性の否認」をしてしまっているのです。
白井聡の知性もこの程度か、と僕は少々幻滅しました。

内田の「オレサマ節」には、それほど何か言う気にはなりませんが、
ひとつだけ疑問を提示するとすれば、
彼の主張する「身体を通した直感知」は、ヘイトスピーチ体験と一致する可能性があるということです。
共感する人々と共に歩き、共に大きな声を出す。
その身体的共感体験が、自らの主張の正しさを直感知として強化しているのではないでしょうか。

また、「死者との共感」というなら、
靖国参拝をする人たちや特攻隊を美化する人たちとの差がよくわかりません。

もちろん内田はそういうつもりで主張しているわけではないでしょうが、
自らの主張が裏返るとどうなるか、ということを考えることも知性だと思います。
ミイラ取りがミイラにならないように、細心の注意を払うべきでしょう。

最後に、「反知性主義」という言葉を使うことを問題にする理由を書きます。
多くの人々がそれぞれ勝手な意味解釈をする言葉というのは危険です。
(専門的に言うと「シニフィエなきシニフィアン」というものに近づきます)

この前「聖域なき構造改革」という言葉がありました。
「聖域」の意味を曖昧にすることで、
自分に都合の良いように勝手な想像をした人々を広く動員することができます。
これこそ「想像の共同体」を形成するメカニズムだと思います。
(ちなみに最近の政党名はシニフィエなき普遍的シニフィアンばかりです)

遠くでは「八紘一宇」「五族協和」なども同様です。
「反知性主義」という旗印を用いることは、
敵の武器を用いて戦うことになりかねないと、僕は真剣に危惧しています。

 

 

 

評価:
内田樹,赤坂真理,小田嶋隆,白井聡,想田和弘,高橋源一郎,仲野徹,名越康文,平川克美,鷲田清一
晶文社
¥ 1,728
(2015-03-20)

『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』 (NTT出版) ジョセフ・ヒース/アンドルー・ポター 著

  • 2014.12.30 Tuesday
  • 21:52

『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』 (NTT出版)

 ジョセフ・ヒース/アンドルー・ポター 著/栗原 百代 訳

   ⭐⭐

   400ページに及ぶ徒労作

 

 

カウンターカルチャーというものが日本に存在したのかわかりませんが、
アンチ資本主義的な文化によって、資本主義に対抗するという左翼的活動は、
効果がないどころか有害だというのが本書の主張です。

このような結論には僕もおおむね賛成ではあったのですが、
本書を読んでみると、膝を打つようなところがないんですよね。
むしろ、この人は何がしたいのか、と疑問になりました。

たしかに5000円近いトマ・ピケティの本を買える人は、
格差に苦しむ人ではないだろうし、
資本主義の包容力の中で反対を表明するむなしさをごまかすのは感心しません。

念のため強調しますが、僕は彼らの結論に賛成なのです。
だから共感して読み進められるものとばかり思っていました。

しかし、最初の方で結論を出してから、
長々とどうでもいい話が続くばかりで、それ以上議論が深まっていかないことに、
正直苛立ちしか感じませんでした。

邦題に「いかにして〜になったか」とあるわりに、
カウンターカルチャーは消費文化に包摂されるという結論があるだけで、
対抗文化の歴史的変化を学問的に探求する姿勢は皆無です。
結論だけなら読む前からわかってるわ、って言いたいです。

ボードリヤール批判もちっとも丁寧ではなく、解釈が一面的すぎると感じます。
文化左翼を揶揄するだけで、どうあるべきかということに対して真剣に悩む様子もないので、
この人たちはオルタナティブを否定したい修正資本主義の立場なんでしょう。

文化左翼は間違っていると思いますが、
間違った相手を叩くのにいたずらにページを浪費するのも間違っています。
ヒースには別の著作もありますが、正直読む気も起こりません。

本書の最後には、この本に対する反論や拒否反応が載せられていて、
それに対してヒースとポターは再反論をしているのですが、
まあ、そういう反論が出るのも仕方ないという気持ちになりました。

よほど暇な人でないと、
無駄な部分が多すぎて徒労感が残るので、あまりおすすめできません。

 

 

 

評価:
ジョセフ・ヒース,アンドルー・ポター
エヌティティ出版
¥ 2,700
(2014-09-24)

『<世界史>の哲学 東洋篇』 (講談社) 大澤 真幸著

  • 2014.03.08 Saturday
  • 12:18

『<世界史>の哲学 東洋篇』 (講談社)

  大澤 真幸著

 

   ⭐

〈セカイ系〉の哲学

 

 

西洋中心主義者の大澤がインドと中国を考察するということで、
嫌な予感はしていましたが、学問をやっていた人とは思えない乱暴な内容です。

最初に読者に謎を提示して、それに対する仮説を導き、
恣意的なテキストの読解を通して、いつの間にか仮説が証明されたことになっている、
そんないつもの手口です。

まず違和感があるのは、
大澤にとって東洋は西洋のネガでしかないということです。
ユダヤキリスト教と違うという点でしか問題になっていないのです。

総じて大澤の議論は資本主義決定論に思えるのですが、
インドと中国にはそれが通じないので、
柄谷行人に乗っかって、「贈与の原理」を持ち出します。

贈与は西洋にもあるはずですが、
前の二巻では考察される気配もなかったので、
途中で贈与論に多くページが割かれます。(ほぼ1/4は贈与論)
なんとも場当たり的な印象です。

贈与の関係の中で生じる余剰の第三者が、
大澤得意の「第三者の審級」を形成し、それが中国の皇帝だとするのですが、
贈与の第三者は水平的な円環構造を形成する原因になっても、
それだけで階級的な王と臣下の関係が成立する必然性になりません。
その転換を大澤は「ひねりが加わる」と言ってすませてしまうのです。

また、贈与の関係の中からすべて皇帝が生まれるかというと、
むしろ少数派もいいところで、多数は円環構造にとどまっているはずです。
大澤の説明では、その分かれ目は「偶然」だといいます。
都合が悪いところはホントに適当ですね(笑)

ちなみに贈与の関係から皇帝が誕生するメカニズムを、
大澤は「資本論」の価値形態論と同質のものとして提示するのですが、
皇帝=貨幣という結論が結局は資本主義決定論で大澤らしいと思いました。

大澤の中国観は、中国が古代から一つの帝国をあるべき姿としていて、
始皇帝時代の秦から共産党政権までを同じ視座で捉えたものです。
この「ひとつの中国」という前提は現在の共産党政権から逆照射したもので、
中国の通史において成立するとは思えません。
(このあたりは葛兆光『中国再考』が参考になります)

大澤の「第三者の審級」は超越論なので、
それで中国を説明するためには、中国が「天」の概念による統一帝国でないと困るということでしょう。
おかげで、「天」を皇帝の上位にある超越的概念にせざるをえなくなりました。
じゃあ、中国も一神教じゃん!、という感じです。

その「天」と連動する形で「歴史」があり、
中国人にとって「歴史」は「聖書」であるとか言っちゃいます(苦笑)
僕の記憶では中国の歴史は正史ひとつではなく、
注釈主義も発達していたはずですが、それでも超越的なものになるのでしょうか。

結局、「世界史なんてボクの「第三者の審級」理論で全部説明できるよ」ってことなのでしょう。

僕は大澤の「第三者の審級」は現人神というシステムを説明するのにはいいと思っています。
だからオウム真理教の考察には有効でしたし、近代天皇制の考察にも向いていると思うのです。

でも、大澤はそれをずっと避け続けています。
「東洋篇」と言いながら、日本が入っていないのも関係があると思います。

大澤は超越論的自己となり、メタな位置に立ってゲーム的に世界を解読したいだけなのです。
だから自分の現実に関わる日本近代なんてやりたくないのでしょう。
そんなことをしたら、メタという安全な立ち位置が脅かされてしまうのですから。
西洋中心主義者というより、メタに立ちたい人なんでしょうね。

次回からは題名を「世界史の哲学」ではなく「セカイ系の哲学」に変えた方がいいと思います。

 

 

 

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