『AI言論 神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ) 西垣 通 著
- 2018.06.19 Tuesday
- 07:56
『AI言論 神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ)
西垣 通 著
⭐⭐
屈折した自己都合の論理が読者にはチンプンカンプン
現在、AI(人工知能)の発達と実用化のビジネスが投資対象になるなど、AIが経済発展の鍵として注目を集めています。
情報学の専門家である西垣は、AIの基本思想がユダヤ教、キリスト教と深い関係にあるとして、
AIが人間の知性を超越すると主張するシンギュラリティ仮説を支持する人々を批判します。
人間を超えたAIによる支配が一神教的な神による支配と共通する、という西垣の言い分は僕にも納得できました。
しかし、本書の構成と主張には大いなる「屈折」が見られます。
シンギュラリティ支持者にユダヤ・キリスト的一神教の欲望を感じ取り、それを批判したいわりに、
なぜか西垣はカンタン・メイヤスーの思弁的実在論(というより思弁的唯物論?)を執拗に持ち出すのです。
思弁的実在論にアニミズム的な反一神教要素を見出す人もいるとは思いますが、それならメイヤスーよりグレアム・ハーマンを持ち出すべきでしょう。
どうして数学や科学へと接合するメイヤスーだけを取り上げるのか、まったくわからないのです。
細かいことを言えば、僕としてはメイヤスーの思想だけを取り上げて思弁的実在論と言い続けることにも違和感を感じました。
メイヤスー自身は自分の思想を「思弁的唯物論」と呼んで思弁的実在論と距離を置いたりもしています。
西垣にとってはメイヤスーの思想=思弁的実在論となっているようですが、本来なら正しい認識ではないと思います。
そのため、西垣は本当の思弁的実在論に興味があるのではなく、
日本の商業学者御用達の〈フランス現代思想〉の系譜に乗りたかっただけではないかという疑いを抱いてしまいました。
日本人にとっての〈俗流フランス現代思想〉でしかないからメイヤスーだけしか扱わないのでしょうし、
それなら本書の刊行時にその翻訳者である千葉雅也とイベントをしたのも理解できます。
疑念を深めるのは、西垣がメイヤスーを持ち出したことの意義がよくわからないことです。
西垣は第三章をまるまる「思弁的実在論」と名づけて、メイヤスーの概説書でもあるかのように説明するのですが、
たとえそれを読んでメイヤスーの思想を理解できたとしても、
それが西垣の主張であるシンギュラリティ批判とどう関わるのかがハッキリしないのです。
なにしろ、一章を割いてメイヤスーの思想をなぞるように説明したのに、その後の章でこんなことを述べてしまうのです。
現代科学技術の哲学的基礎を明確にしようという思弁的実在論の意図は十分理解できる。また、相関主義哲学の開祖であるカントの超越論的議論にたいし、祖先以前的言明を持ち出して有効性の限界を明らかにするというメイヤスーの論法は、専門的哲学者からは異論が出るかもしれないが、論理的には分からないわけでもない。しかし、基礎情報学的には、率直にいって首をかしげたくなる点も多いのである。とりわけ、数学的に表される自然科学的な仮説の形成が、即時的存在を直接指示対象としてあたかも人間の介在なしのごとくにおこなわれ、それを「事実」と見なすというのなら、その議論は、実際に科学技術研究の現場にいた人間からすると、承服しがたいものだ。
したがって、AIだけでなく現代の科学技術の哲学的根拠を明確にするためには、思弁的実在論よりむしろ、相関主義思想と類縁関係にあるネオ・サイバネティクスに依拠するべきだという気がしてこないだろうか。
こんなふうに結局否定的に評価するなら、なぜわざわざメイヤスーの思想をまるまる一章使って説明をする必要があったのでしょうか。
そのうえ西垣は直後で、「前節で、思弁的実在論の企図に関して疑義を呈したが、
本書は決してその価値を全面的に否定するものではない」などと再び態度を翻すのです。
(キミの批判はしたけど、決してダメだと言ったわけじゃないんだ、というセコいやり口!)
こんな態度では読者は「結局どっちなんだよ」としか思いません。
本書がわかりにくいのは、内容が難解であるためではなく、本書の論の構成に難がありすぎるからなのです。
本書の冒頭で西垣は、知とは生存する実践目的なのか真理を探求する形而上学的な目的のどちらなのか、
という問いを立てるのですが、この共感しがたい二者択一がどこから出てきたのかと訝しく思っていると、
後々西垣がこの曖昧さはキリスト教の三位一体の教義が原因なのだ、と主張するに至って、
自説の都合による問題設定であったことが判明します。
自ら形而上学的な問いかけをしたり、西洋哲学を持ち出したりして、西垣自身が西洋的な価値の中で思考していることを示しておきながら、
AI関係者の西洋的・一神教的な視点を、それも西洋思想を用いて批判するのは、僕には茶番としか思えませんでした。
そもそも本書の題名にある「原論」という言い方こそが、神の支配に通じる、すべてを基礎づける絶対知への欲望を示しているのではないでしょうか。
最も致命的な勘違いを挙げるならば、西垣が一神教的な西洋思考を批判するものとして〈フランス現代思想〉を持ち出していることです。
二〇世紀後半以降の現代思想は、そういう西洋思想のもつ唯我独尊的で侵略的でもある側面を克服しようとしてきたのである。構造主義/ポスト構造主義に代表される文化的多元(相対)主義は、この危険を西洋世界がみずから反省し自覚することから生まれてきた。
いまだポスト構造主義の影響にあるバブル脳の西垣は、ポスト構造主義の見かけの相対主義に騙されて問題の本質がわかっていません。
ポストモダン的な文化多元主義は新興国への投資を背景にした、資本の世界的還流運動への転換を学問的に裏付けたものでしかありません。
そんなものを「反省」などと解釈しているお人好しが西洋主義者でなくて何なのでしょう。
いまだポスト構造主義などを正しい考えだと思い込んでいる視野の狭さでは、物事の本質がわかるはずもありません。
西垣はポスト構造主義の本質についてまったく理解が足りていません。
〈フランス現代思想〉に代表されるポスト構造主義思想の根源にはユダヤ的な思想があります。
これについてはG・ドゥルーズ学者の檜垣立哉もヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』の解説で同様のことを言っています。
近年のフランス思想の軸は、ギリシア思想対ユダヤ思想にあり、異質なものとしてのユダヤをギリシアに対抗させることでとりだされる「他」にあったようにおもわれる。
シンギュラリティ仮説の背後にあるユダヤ一神教を批判するのに、ユダヤ色の強い〈フランス現代思想〉を持ち出すのは、
専門が哲学でないにしても、思想の表層しか理解できていない人間の致命的な間違いだと言えるでしょう。
それがわかっている者からすると、この人は何がしたくてこんな本を書いたのか、首をひねるしかありません。
つまり、シンギュラリティ批判に〈フランス現代思想〉の系譜にあるメイヤスーの思想を持ってくるという、
西垣の論の立て方自体に大いなる矛盾があるわけです。
むしろ、ユダヤ一神教の思想を批判するのにユダヤ一神教の思想を持ってきてしまうことの愚かさに気づかない、
日本の知識人のポストモダン一元主義こそが問題にされるべきだと僕は思います。
真に相対的な文化多元主義を信奉するなら、〈フランス現代思想〉以外の現代思想も対等に扱ったらどうなのでしょうか。
分析哲学を排除し、J・ハーバーマスなどの後期近代主義を無視して、ポスト構造主義ばかりが現代思想だと思っている人たちに、
本当の文化多元主義も相対主義もあったものではないと思います。
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