福田若之『自生地』 qqq氏のAmazonレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.05.20 Sunday
  • 21:17

 福田若之『自生地』

 qqq氏のAmazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

   匿名俳人によるステマレビューはいいかげんやめたらどうか

 

 

qqq氏による福田若之『自生地』のAmazonレビュー

 

みずみずしさ       qqq

2018年4月20日

Amazonで購入

たしかに青臭い表現もところどころあります。とくに散文部は読んでいてすこし恥ずかしくなるところも……。しかしそれもふくめ、全体としてほかにはない質感が出ているのは間違いありません。

 

芸術はつねにその表現形式に対する問いを含んでいます。俳句的な俳句などといったものは単に無価値です。そういう意味で、本書は少なくともなんらかの問いは発している。むろんそれに対して「こんなのは句集じゃない」と答えることもできるわけですが、問い自体を拒否し根拠薄弱な想定にもとづく人格攻撃を繰り広げるようなひとは俳句以前に芸術をわかっていない。

 

ぼく自身の答えを書くならば、まず俳句については、率直に言って、面白い句もあればそうでない句もあるという印象です。しかしここで詳しく語るのは控えます(「文学の本質には「遅れ」があります」が、Amazonのレビュー欄は原理的にそれを奪うメディアなので)。

 

つぎに形式面ですが、散文の配置がこの句集の重要なポイントなのは明らかでしょう。句と句のあいだのどこに散文をおくか。いくつか個人的に違和感のある箇所はあるけれど、基本的には考え抜かれたうえで配置されているという印象を受けました。また本書はその装丁が重要な意味を持ちます。内容とも分かちがたく結びついているし、単純にモノとしても美しく、丁寧に作られている。むろん装丁がよいからといって必ずしも俳句自体もよいというわけではありませんが、句集という表現形式に対して自覚的であればそうした部分に気を配るのは必然的な帰結です(よい編集者にも恵まれたのでしょう)。

 

(以下、上記レビューへのコメント)

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

qqqさんのレビューは巧妙に名指しを避けているとはいえ、

僕の文章をもじった引用もあることから、僕に対する文句だと読む人は解釈すると思います。

そのため、不本意ながらコメントをさせていただきます。

 

千葉雅也が不適切ツイートをして僕の福田若之『自生地』レビューを消去させたのが4月18日でした。

再び『自生地』レビューが掲載されたのが4月19日で、あなたの当レビューがその翌日の掲載です。

もともとの僕のレビューはずいぶん前から掲載されていたので、

千葉のツイート行為とあなたのレビューのタイミングが近いことに僕は因果関係を感じています。

 

プロフィールのレビュー表示を隠していることなどを考えると、

あなたは身元がバレることを相当に用心しなければならない事情がおありの方だと思いますので、

僕に対して返答をしていただけない可能性が高いと想像しています。

ご迷惑かと思いますが、僕があなたの文面から勝手に「推測」したことを一通り語らせてください。

もちろん僕の勝手な推測ですので、常識に照らして問題があればお詫びいたします。

 

まず、千葉雅也はこんなツイートをしています。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

俳句の人たちも佐野波布一氏のレビューには抗議した方がいいと思う。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

あなたのレビューはこの直後ですので、必然的にあなたが「俳句の人」であることを疑わざるをえません。

あなたが不幸にも自己欺瞞ヒーロー千葉雅也の正体を見極めることもできない人物であることは残念ですが、

彼も匿名でAmazonレビューを書いて抗議しろ、という意味で言ったわけではないと思いますよ。

なにしろ千葉は僕のレビューのコメント欄に実名で書き込んでくるくらいのプライドは持っていたわけですから。

(そういえば、この千葉のツイートをリツイートしていた某俳人がいましたね)

 

あなたが俳人であり、自ら句集を出した経験をお持ちであることは、文面から易々と想像できます。

「本書はその装丁が重要な意味を持ちます」なんて本作りをしていないとなかなか言えませんよ。

「句集という表現形式に対して自覚的であればそうした部分に気を配るのは必然的な帰結です」

一句という単位ではなく、「句集という表現形式」で考えている方だから「必然的な帰結」と断言できるのですよね。

そりゃあ、福田と価値観が近いのもよくわかります。

 

あと『自生地』を語るのに「芸術は〜」などと大上段の物言いをするのもただの読者としては不自然ですよ。

そもそも『自生地』を芸術だと考えるのは、ごく内輪の人だけだと思いますので、

あなたが福田の近くにいる俳人で、俳句を芸術だと言ってはばからない勘違いをしている方だというのはよくわかりました。

 

看過できないのは、「俳句的な俳句などといったものは単に無価値です」という文です。

あなたはこれをどういうつもりで書いたのでしょうか?

「俳句的な俳句などといったもの」がはじめから存在していたわけではありません。

なのに、俳句文化を支えてきた無名の作者たちや歴史に名を残した作者たちの何億という句を、

あなたの一存で無価値にできるとは、どれだけ非歴史性に寄りかかった偏狭な俳句観なのでしょう?

ご自分やお仲間の前衛を気取った俳句が、「芸術」のつもりで作られていたのか知りませんが、

あなたのくだらない自意識で多くの人が共有してきた俳句文化を無価値にできるものなのでしょうか。

そんな方の言う「芸術」など僕がわかっていなくてホッとしました。

 

肝心なことを言い忘れていましたが、

qqqさんの書かれていた人が、もし僕のことであれば、

僕が「根拠薄弱な想定にもとづく人格攻撃」をしているというのは、怒りで目が曇っているだけですよ。

著作の内容から作者について語ることは、人格攻撃には当たりません。

(そもそも作品を批判されたくらいで「攻撃」とか「被害」とか言いたがる人間のメンタルの弱さには付き合いたくないんですよね)

僕の文章にも触れずに文句だけを書くあなたの方がよっぽど「人格攻撃」をしているのは明らかです。

漱石の作品を読んで作者の漱石の批判をしたところで、それを「人格攻撃」などと言う人はいません。

福田が今生きているから、そんな勘違いが起こるのであって、それこそ「遅れ」の意味が何一つわかっていませんね。

 

そうそう、たとえあなたが何者であろうとも、僕が一番言っておきたいことは、

「文学の特徴には「遅れ」があります」と僕が書いたことの意味をあなたが全く理解できていないということです。

あなたは「Amazonレビュー欄は原理的にそれを奪うメディアなので」と書いて僕に当てつけたつもりでいますが、

この発言はあなた自身の教養の乏しさと理解度の低さを示しただけであると言っておきます。

 

文学は遅れて真価が問われるものです。

つまり、現在Amazonレビューでどんなに批判されようと、本当に文学的価値があれば、

あとで勝つのは作品の方であってAmazonレビューなどどこにも残っていないのです。

僕はすぐにも消えていくようなものを書いているのですから、

『自生地』に本当に芸術(笑)や文学としての価値があると思うなら、あなたはAmazonレビューなど恐れる必要もないのです。

それなのに同時性のウェブ上にあるAmazonレビューが文学の「遅れ」を奪うなどと、

まあ、ご自分の知性の程度と文学への信頼の無さを恥ずかしげもなく晒したものですね。

と同時に、あなた自身が『自生地』にAmazonレビューより長く生き残る価値を認めていないことを自ら示してしまったのですよ。

ああ、これだから匿名で書くしかないのですね。

俳人として名をさらしてこんなことを書いたら大恥ですから、匿名にしておいてよかったですね。

 

僕はコミュニカブルな人間なので、一応あなたの反論をお待ちしています。

 

 

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

他人の問題行為に乗っかって言論弾圧に加担するクサレ俳人への佐野波布一コメント

  • 2018.05.10 Thursday
  • 23:39

 

  他人の問題行為に乗っかって言論弾圧に加担する

  クサレ俳人への佐野波布一コメント

 

 

 

   集団で悪口をリツイートするのは「イジメ」の構造そのもの

 

 

去る4月16日に立命館大学の准教授でフランス現代思想の研究者である千葉雅也が、

彼の著書『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する僕が書いたAmazonレビューに対して、

ツイッターで「侮辱」だ「中傷」だと騒ぎ立て、自分のフォロワーを僕への批判投票に駆り立てただけでなく、

自らAmazonに毎日毎日違反通告をして、僕のレビューを6回も消去させました。

 

そのツイッターの文面とそれに対する僕の反論は4月25日のブログに載せてあります。

そこでも書いていますが、Amazonレビューにはガイドラインがあり、誹謗中傷や扇動と見られるレビューは非掲載となります。

繰り返し掲載できるということは、アマゾンの判断ではガイドラインには抵触していない、誹謗中傷ではないということです。

つまり、千葉は自分にとって不都合なレビューを、「侮辱」「中傷」と難癖をつけて消去しようとしたのです。

こういう態度は不都合な内容を書き換えてしまう財務官僚と同様のものと言えると思います。

 

さらに問題をはっきりさせておきたいのですが、

僕のような自分の文章から1円たりとて収入を得ていないアマチュアの書くものを、

プロであるはずの人物がAmazon上から排除しようと必死になるのはなぜなのか、ということです。

所詮はアマチュアの言っていることなのですから、放っておけばいいはずなのです。

それなのになぜ千葉はファンを動員するパワハラを行ってまで、執拗に僕を攻撃するのでしょうか?

 

それはおそらく、僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いるからです。

変な人が勝手なことを言っているだけなら、自然淘汰されるのがAmazonレビューです。

僕の書いた千葉の著書のレビューはいつも上位に位置していました。

このように批判者が可視化されることに、千葉は我慢がならないのだと思います。

賛同者が一定数いるのに、千葉は僕のことを「悪質」だのなんだのと文句を言い、

果ては「弁護士が中傷と判断している」などと僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、

まるで僕が違法行為でもしているかのように印象操作を行いました。

千葉が有名であることを利用して言論弾圧をしていると僕は感じました。

 

あまりに不愉快だったので、

僕は千葉雅也を雇っている立命館大学に、このような千葉の行為が教育者としてふさわしいと考えているのか、

メールで問い合わせました。

無責任な教育機関である立命館大学は返答をよこしませんが、

それ以後、千葉が僕を名指しで悪く言うツイートはなくなりました。

何があったかは、推して知るべし、というところです。

 

つまり、千葉の僕に対するツイートはあらゆる角度から考えても不適切なものだったわけです。

千葉自身が悪口ツイートと違反通報を控えたことに、彼のツイートの不適切さがハッキリと現れています。

 

さて、ここからが本論です。

このような千葉雅也の恥知らずな言論弾圧ツイートの尻馬に乗って、

それをリツイートして世間にばらまいた卑怯な俳人たちがいるのです。

これらの俳人は宣伝塔として積極的に僕の言論を弾圧する行為の片棒を担いだわけですが、

集団で同時多発的に事実に基づかない不適切ツイートを拡散させることが、

僕に対する「イジメ」(もしくはネットリンチ)に当たるのは明らかです。

 

この俳人たちが自分の著書への批判レビューを「根に持っていた」ことは想像できますが、

自分自身では僕に反論もしなかったのに、

あろうことか大学から戒められるような千葉の行為を利用して、

寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担するという汚いやり方で、自分の復讐心を満足させたのです。

なんて程度の低い人間たちなのでしょうか。

 

リツイート程度の行為に罪がないということはありません。

たとえばマット上の人間に上から大勢が覆いかぶさって圧死させたとして、

1人目には罪があり、7人目には罪がないなんてことがあるでしょうか。

「中傷」に乗っかって裏から言論を弾圧する人間が、いっぱしの表現者の顔をしていることが僕には許せません。

コイツらが僕に伝わるように謝罪しないならば、

(どうせそんな勇気があるわけはないでしょうが)

僕がコイツらを「クサレ言論弾圧俳人」と呼んでも誹謗にも中傷にも当たらないことを先にことわっておきます。

 

では、僕がつきとめた性根の腐った弾圧俳人どもを発表しましょう。

関悦史、鴇田智哉、田島健一、宮崎莉々香、大塚凱の面々です。

本当にクズですね。

あとで証拠のスクリーンショットを貼っておきますが、

コイツらは俳句素人の千葉による的外れの文句を、

お仲間の福田若之『自生地』を擁護したいから(もしくは僕への意趣返し)という理由でリツイートしています。

そのツイートの一つがこれです。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。

午後7:36 · 2018年4月16日

 

福田の『自生地』の散文が雑誌「ファウスト」経由のラノベと類似していることについては、

福田を褒めた青木亮人という学者も同様のことを書いています。

(青木は舞城王太郎を想起すると書いたのですが、舞城は「ファウスト」で執筆していた元ラノベ作家です)

それから「ナルシシズムの発露」であることは、福田の文章を丁寧に読解したプロセスがあるのですから、

同意できないからって「決めつけている」と言われる理由はありません。

またナルシシズムが「ラノベ的感性による」なんて、僕はどこにも書いていません。

福田の散文にラノベの影響があると書いただけです。

 

千葉という男は根拠を示しているのに「中傷」と言ったり、

著書を引用して書いているのに「罵詈雑言」と言ったり、

人の書いたものをまともに読む気がない不遜きわまりない虚言モンスターなのです。

こういう病人一歩手前の人間の書いたものを、内容を確かめもせずに垂れ流す行為がいかにクズであるか、

クサレ言論弾圧俳人どもは「相手憎し」となると考えもしないわけです。

(そもそも自分で考える力自体がないのかもしれませんが)

俳人ともあろう者がこんな的外れな内容のツイートを拡散することには「悪意」しか感じません。

 

彼らが僕をイジメたがっているのは、僕に批判的なレビューを書かれただけでなく、

千葉の時と同じように、そのレビューに賛同の投票が相当数集まっているからです。

つまり、一定数の人が同様に感じているのが明らかにもかかわらず、

自分の作品を反省するのではなく、発信した僕を貶めればいいと考えたわけです。

こういう人間は端的に「文学自体をナメている」と断言できます。

作品が良ければ僕が悪く書こうと多くの人が賛同するはずありません。

 

作品の良し悪しは作品と向き合った読者が決めるものなのに、

コイツらは作品そのものよりツイッターのようなメディアに依存して生きているため、

メディアで悪い評価を発信した奴がいなければ、作品への悪い評価自体がなくなると考えているのです。

こんな勘違いは俳句自体の力を信じていないことを表明しているだけですし、単なる責任転嫁でしかありません。

 

他人の行為に乗っかって気に入らない奴に仕返ししてやろう、という態度がいかにくだらないか、

そんなことも自覚できなくなるからツイッターというメディアはクソなのです。

手っ取り早い自己宣伝メディアであることはわかりますが、

自分で責任を負うことなく、怪しげな内容で風評被害を巻き起こす、悪性のプロパガンダ・メディアという危険な面も持っています。

千葉のような素人の誤った意見に乗っかって悪意を垂れ流し、

自分の名前では僕の批判をしようとしないこの日和見俳人たちが、

いかに三流の表現者でしかないか、自ら思い至る必要があると思います。

彼らが少しでも自分自身に責任を持てる人間であるならば、自分の行為を反省するはずです。

それもできないで、したり顔で麻生太郎や社会問題の批判をする資格などあるはずもありません。

 

そもそも、自分自身で責任を負わないリツイートによる批判は、

言葉を持たない弱者のとる手段であって、表現者ヅラした人がやるべきことではありません。

個人の自由なのでダメとは言いませんが、ザコな人間であることを自ら示していることくらい自覚しておいてください。

つまり、間違ってもコイツらには表現者やアーティストの資質もなければ、覚悟すらないということです。

結果として僕の批判はやっぱり正しかったわけです。

まあ、今の腐った日本ならザコの悪事ぐらいでは目立たないで終わるのかもしれませんが。

 

さらに言えば、集団で風評を垂れ流すのもみっともないし、感心しません。

自分の名前で意見も言えず、人を貶める行為すら一人でやれない人たちだから、

いつまでもみんなで寄り集まって低レベルの合同句集を出すしか脳がないのです。

まずはお友達から離れて一人で言論活動をしてみてくださいな。

いつまで幼稚園のお遊戯気分なのでしょうか。

いや、ホントに、キミたちいくつでちゅか〜。

 

本当にクソすぎてコイツらの卑怯さに僕は自然と腹が立ってしまうのですが、

おそらく俳句界では内輪主義が普通になっているため、

彼らの言論弾圧の後押しがいかに問題行動であるかが、外部の人より見えにくくなっていると想像します。

ですが相撲界と同じく、外の社会常識を尊重することは大切です。

俳句界の外の人間だから無責任な方法で「イジメ」てもいいだろう、などと考える連中を、

俳句界が自浄できないのであれば問題です。

こういう人間を内側からちゃんと批判しないから、外部を遮断すればすむという甘い考えを持たれるのですよ。

 

僕は四ツ谷龍という俳人にも、彼のステマ行為を批判したことで「頭がおかしい」などとツイートされたのですが、

俳句界には倫理というものがないらしく、いつまでも謝罪をしません。

自分を批判する人間は人間扱いしなくていいとでも思っているのでしょうか。

そういう専制的な態度が、いかに外部の人間を見下す姿勢からきているかがよくわかります。

関悦史も鴇田智哉も四ツ谷龍に最高得点を入れてもらって田中裕明賞を受賞した人物ですし、

プライベートでも親しくしている関係ですので、

年配の四ツ谷がこんな態度であれば「若手」もそれに倣うのは当然なのかもしれません。

外部の人間に対する態度こそが、その人の「真の」人間性を表しているのだということを、

(本気でフランス思想に興味があるのなら)彼らは肝に銘ずるべきだと思います。

 

 

   クサレ俳人たちのリツイート集

 

 

関悦史

 

 

鴇田智哉

 

 

田島健一

 

 

宮崎莉々香

 

 

大塚凱

 

 

 

 

 

評価:
鴇田智哉
ふらんす堂
¥ 4,882
(2014-09)

評価:
田島 健一
ふらんす堂
¥ 2,592
(2017-01-17)

千葉雅也の陰口ツイートへの佐野波布一反論コメント

  • 2018.04.25 Wednesday
  • 09:43

 千葉雅也の陰口ツイートへの

 佐野波布一反論コメント

 

 

   批判言論に対してパワハラで応じる人間をチヤホヤする堕落した日本言論界

 

 

本の評価を決めるのは、ページを開いた読者なのでしょうか?

それとも著者本人なのでしょうか?

みなさんの常識では当然読者が評価を決めるという答になるでしょうが、

立命館大学准教授の千葉雅也はそうは考えていません。

自分の書いた本の評価はあくまで自分自身で決めるべきものだと思っているのです。

 

千葉雅也というフランス現代思想の学者は、

自分の著作に対する僕の批判的なレビューが「参考になった」投票を集めると、

それに我慢ができなくなってツイッターで僕を含んだ批判的なAmazonレビュアーを「基本アホ」とツイッターで侮辱しました。

今回の『メイキング・オブ・勉強の哲学』のAmazonレビューに関しては、

自分が大勢のフォロワーを抱える著名人であるのを良いことに、

ツイッターに僕のレビューの悪口を連投し、フォロワーに僕のレビューの違反報告やアンチ投票をするように仕向けました。

僕のレビューはAmazonのガイドラインでは誹謗・中傷に当たるとは判断されていなかったにもかかわらず、

千葉自身とその先兵となった読解力のないファンの違反通告によって何度か消去されました。

 

いくら辛辣な揶揄であろうと、言論は言論なのですから、

反論などの対抗的な言論行為で応じるのが知識人の在り方だと思います。

しかし、千葉は言論による論争に勝つ自信がないためか、

書かれている内容が真実でしかないためか、

ファンを頼みにした数の暴力や、弁護士を持ち出した強迫によって、

僕の表現の自由を弾圧することを選びました。

 

著作の評価を読者が決めることを受け入れることができない人が大学准教授であることも問題ですが、

それが主体批判を信条とし、「作者の死」を当然のごとく主張してきた(フランス現代思想〉の研究者であるのですから、

自分の研究対象である学問に対する背信行為でもあるわけです。

 

日本の〈フランス現代思想〉研究者は、メタな位置に逃げ込んで無責任な立場から世の中を侮って見ることが哲学的だと勘違いをしています。

その集大成が千葉雅也という人物です。

著作上の記述を取り上げた批評的言論に対して論理的な反論をひとつもしないで、

書いた人間に対する感情的な文句だけをツイートすることが、大学に籍をおく者として正しい行為なのでしょうか?

そもそも言論に価値を認めずに、権威の力を行使したがる人間がどうして大学准教授をしているのでしょうか?

(まあ、千葉本人はアーチストのつもりらしいですけどね)

 

この程度の人物にツイッターで好き勝手言われるのは不愉快なので、不本意ながら反論をさせていただきます。

Amazonは誹謗中傷と判断されればレビューが非掲載になるので、いつも批判が不自由で苦労していますが、

ツイッターは自分本位で好き勝手言えていいですよね。

(僕は文章が自己基準にならないようにAmazonのガイドラインという枷を自らはめています)

今回は自分のブログなので少々乱暴な言葉遣いになるかもしれませんが、見苦しいところがないように気をつけます。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

それにしても、Amazonレビューで手前勝手な毒舌を振るっている佐野波布一という人は、いつまで僕の本や関係する本を、出るたびに粘着的に攻撃し続けるのだろうか。レビューなど放っておけばいいとよく言われるわけだが、個人へのヘイトですらあるあの書きぶりに対し、悪質である、と言っておく。

午後7:23 · 2018年4月16日

 

批判的な内容だからといって「攻撃」と言うのはおかしいです。

どうして無名な一レビュアーでしかない僕の文章が、「攻撃」なんて上等な効果を及ぼせるものでしょうか。

僕と千葉の言論界における立場は圧倒的に非対称的であるはずです。

なぜ立場が圧倒的に優位な千葉が被害者のような顔をするのでしょうか?

僕がたった一人で、それも言論を用いて挑んでいるのにもかかわらず、

千葉は論理不在のツイートでフォロワーを動員して僕へのアンチ投票を激増させました。

こういう数の暴力こそ「攻撃」(もしくは「イジメ」)と言うべきではないでしょうか。

 

そもそも、千葉はデビュー作『動きすぎてはいけない』に僕がちょっと批判的なレビューを載せたくらいで、

何万人のフォロワーに僕の悪口をツイートしたのです。

その後も僕が彼の著作をレビューするたびに同様のツイートを粘着質に繰り返しておきながら、

どうして自分ばかりが被害者のような面をするのでしょうか。

僕の方から見れば千葉の行為こそが「悪質」です。

こうやって自分の行為を免罪して、同様の他人の行為だけを責めるのがナルシストのやり方です。

 

「いつまで」と問うなら答えは簡単です。

千葉が自分のツイートについて謝罪し、批判されるような内容の本を書かなくなるまでです。

僕は著書の内容に基づいて虚心で読むように努めています。

僕のレビューをよく読めば、『勉強の哲学』は文章において評価をしているため星を一つ増やしていますし、

「現代思想」の記事に対しても「能力を感じる」と書いた部分はあったはずです。

それをただ「ヘイト」だとしか思えないのは、むしろ千葉が僕のことをただただ嫌っているからです。

こちらは論理で挑んでいるのですから、好き嫌いの感情的問題に還元する幼稚な態度はやめていただきたいものです。

 

また、「手前勝手な毒舌」であるならば本文引用など必要ありません。

こちらが本を一通り読んでいるのが明らかにもかかわらず、

まるで読んでないかのように書くのは、千葉が「他者」を不当に低く扱う非フランス思想的人間であることの証明でしかありません。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の長々しいレビューは、またいつものことかと思ったが、それにしても、侮辱したくてしょうがないという感じで、本当にひどい。

午後7:29 · 2018年4月16日

 

「侮辱したくて」の意味がわかりません。

誤解を恐れずに言えば、僕は千葉の教養やオタク的知性などたいしたことがないと思っています。

つまり、事実を書けば事足りるので、わざわざ「侮辱」をする必要のある相手とは見なしていません。

こちらの感覚ではせいぜい「揶揄」という認識です。

「侮辱」と言うなら、具体的な文章を示すようにコメント欄で千葉に問いかけたところ、

そのような文章を示してこなかったので、これが「言いがかり」であることはハッキリしています。

 

具体的な「侮辱」にあたる箇所がないにもかかわらず、

僕の批判を「侮辱」だと騒ぎ立てるのは、千葉が僕より上の地位にいると思っているからでしかありません。

「ボクのような上位の人間を、下位のネット民が批判するなんて侮辱だ!」という感情で、

文章の内容が問題ではないのです。

僕は地位ではなく知性のレベルで人間をはかっているので、

より論理を用いる僕が論理不在のお猿さんを批判したところで「侮辱」になるという感覚がまったく理解できません。

 

何度も言いますが、千葉は僕に文句があるなら反論すればいいのです。

論理に対して論理で応じることなく、地位や人気をかさに着て「見えない権力」で圧力をかける、

これはパワハラの図式と何も変わりません。

(実は千葉に限らず、アカデミックな地位にある人間にはこのタイプが少なくありません)

こういう封建的発想に基づいた非言論的態度をとる人間を、僕はポストモダンどころか前近代的ムラビトだとしか思いません。

 

こういう言論の内容より社会的地位を頼みにする人間が思想を語っているかのように誤解しているから、

日本の言論界はいつまでもほんとうの言論界として成熟できないのです。

僕のレビューに自分では反論ひとつしないくせに、

意趣返しとばかりに千葉のリツイートを垂れ流す関悦史や田島健一などの陰口俳人も、

このような千葉のパワハラ的言論弾圧を支持した人間として、

己に表現者の資格がないことを自ら証明したことをよく自覚しておいて下さい。

関も田島も千葉と一蓮托生の道を選ぶなんて、ずいぶんと勇気ある決断をしたものだと感心します。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。

午後7:36 · 2018年4月16日

 

僕は200以上もレビューを書いているのに、

自分以外のレビューを一つ挙げただけで「なんでもナルシシズムだと断罪」と書くのは図々しいにもほどがあります。

千葉のような「他者」不在の世界に生きているナルシストの好きな作品が、

同様にナルシシズムを発露した作品でしかないだけのことで、

僕は他の著者のレビューでは(福田の類友を除いて)ほとんどそんなことは言っていません。

こういう根拠のない悪口のことを「中傷」とか「言いがかり」とか言うのです。

 

それから福田の『自生地』の散文がラノベと類似しているいう指摘は、

福田を褒めた青木亮人という学者もしています。

他の人も指摘していることを僕が「決めつけている」と表現するのは不適切と言えるでしょう。

たいして俳句を勉強したとも思えないのに、恥をかきによく出てくるな、とあきれます。

僕から見て千葉の知性がオタクレベルとしか思えないのも仕方ないのではないでしょうか。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

Amazonレビューって、やろうと思えば、話題の本をレビューしてつなぐことで「俺の批評空間」を構築し、他者の話題性に乗っかって自分の書き物を多くの人の目に触れさせることができる。それは、出版機会の不平等に対するゲリラ的な抵抗運動でもあるから、複雑な気持ちになる。

午後7:40 · 2018年4月16日

 

僕は多くの人に自分の書いたものを読んでもらおうなどと思っていませんので、

これは千葉が一般論として書いているのかもしれませんが、

千葉の「出版している人間はエライ」的発想が田舎者丸出しすぎて赤面してしまいます。

父も祖父も曾祖父も本を出版していますので、僕は出版がそれほど特別な行為だと思ったことがありません。

そのため、たかが出版行為くらいで選民意識を持つ人というのはどこの野蛮人かと思います。

本だろうがAmazonレビューだろうが、良いものは良いし、悪いものは悪いのです。

 

「他者の話題性に乗っかって」というのはドゥルーズやメイヤスーに乗っかってるだけの千葉自身のことでもあります。

この人はすぐに自分をメタに置いて免罪してしまうのですが、オマエは「僕の批評空間」すら構築できてないじゃん、と言いたいところです。

先輩の引いたレールの上を走っているだけの自動運転列車のわりに、警笛だけは大きいので困ります。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

「ポストモダン嫌い」という姿勢をベースにしてネット上で罵詈雑言を言う人って、「ネトウヨ」みたいに何か名前をつけたほうがいいんじゃないかな。

午後7:56 · 2018年4月16日

 

人が何を嫌おうが好き嫌いなら自由なはずです。

ネトウヨはイデオロギーですが、人の好き嫌いを抑圧するなんてコイツは独裁者か何かなのでしょうか。

おまけに「罵詈雑言」とは何のことでしょうか。

僕が書いたのは著作に基づくレビューなのに、どこに罵詈雑言などあったと言うのでしょうか。

これはツイートの流れ上、まちがいなく僕のことでしかないので、この発言に関しては千葉に謝罪と訂正を要求します。

学者のはずなのに根拠のない中傷をよくもしてくれるものです。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

佐野波布一氏のレビューって、あれこれ読むと、基本線があるみたいね。ポストモダン嫌い。軽薄そうに見える作品が嫌いで、価値観が古典的なものに寄っている。売れてる感が嫌い。まあ、いますよねこういう人。ある種の典型性を表していると思う。

午後8:08 · 2018年4月16日

 

こういう何でも「好き嫌い」に還元する論理不在の幼稚な態度が、言論界の空洞化を象徴しています。

僕が「ある種の典型」なら、どうして僕個人の名前を挙げて執拗に悪口を言うのでしょうか。

すでに千葉のやっていることが矛盾しています。

 

僕のレビューのコメント欄で、僕に批判的に絡んできた人たちは、

論理で僕に勝てないために、ほぼ全員メタに立つことで優位な位置を確保しようとします。

「いますよねこういう人」とメタな視点から僕を相対化したような顔をする千葉のやり方こそが、

典型的な論理弱者のネット民のやり方でしかありません。

論理で批判ができず、猿用のボタンを押して相手を否定した気分になっている連中もそうですが、

メタに立つことで優越感を募らせ、相手を侮りバカにする態度こそが典型的なネット民もしくはネトウヨの在り方であり、

千葉はそういう連中の生き仏、等身大の存在として支持されているのでしょう。

ザコなメンタリティであることを売りにしているくせに、

自分が何様かであるかのような「臆病な自尊心」を振り回すところが、千葉の醜さであると指摘しておきます。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏のAmazonレビューがいったん削除された後、すぐに再掲載されました。本レビューには著者への中傷が含まれるという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

世間知らずの千葉は知らないのかもしれませんが、弁護士は裁判官ではありません。

依頼者に同調した判断をするのは特に不思議なことではありません。

それをさも正義の判断のように権威だと盲信し、僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、

僕が違法行為でもしているかのように印象操作をするやり方は、もはやクズとしか言いようがありません。

勝手に弁護士に相談すればいいですし、訴えたければ裁判でもなんでもすればいいのです。

それなのに、ただ弁護士に相談したことをレビューのコメント欄に繰り返し貼り付けるとは、

権威的パラノイアのやり口そのものではないでしょうか。

 

自分が権威的パラノイアでしかないくせに、何がフランス現代思想で、何がドゥルーズで、何がスキゾなのでしょう?

こんな人物のインチキもわからない人は、自分自身で思考する力がないのですから、

知性に欠けたただの思想的人間ぶりたい権威主義者でしかありません。

千葉は自身でわからないならば、浅田彰や國分功一郎に自分の行為がパラノイアのそれでないのか尋ねてみたらいいと思います。

(その答をぜひツイートしてくださいね)

 

また『勉強の哲学』ではユーモアとか言っていたはずですが、

弁護士を持ち出すようなやり口のどこにユーモアがあるのでしょう?

千葉の著書がいかに口だけの嘘で構成されたものか証明されたと言えるのではないでしょうか。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

俳句の人たちも佐野波布一氏のレビューには抗議した方がいいと思う。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

愚かな俳人はすでに文句を言ったりしていますよ。

僕が撃退しているだけです。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

自分の本はもちろんのこと、Amazonで本を調べていて中傷するレビューを見かけたら、積極的に違反報告しています。

午後10:50 · 2018年4月18日

 

僕は積極的に「批判言論狩り」をしていますという内容を、誇らしげにツイートする人にあなたは知性を感じますか?

僕は千葉のツイッターにこうして反論をしますが、違反報告や裁判など考えたこともありません。

言論を操れない知的弱者が弁護士や管理者に頼るものだと思っているからです。

弁護士に相談したり、Amazonにチクったり、コイツは自分では何もできないのでしょうか。

この特高やゲシュタポを連想する行為がアーレントの言う「凡庸な悪」にほかなりません。

大学准教授であるはずなのに、言論に言論で応じるでもなく、「違反だ!」とか言って通報する、

こんな幼稚な人間が思想など語る文系アカデミズムはもう終わりです。

 

何度も言いますが、Amazonレビューでは中傷はガイドラインに抵触するので掲載されないのです。

つまり千葉は自分の気に入らないレビューを「中傷」と言って通報しているわけです。

普段はフランス思想に依拠して理性や主体性を疑問視するようなツイートをしておきながら、

結局千葉は自分自身の理性や主体性に関しては無自覚に正義だと信じ込んでいます。

こういう奴の言うことがインチキでなかったら何なのでしょう?

周囲が甘やかしていても、僕は絶対にこのようなインチキを看過しません。

 

自分はツイッターで「基本アホ」などと人を侮辱する発言を平気で垂れ流している人に、

正義面してAmazonレビューを取り締まる資格などあるはずがありません。

自分の行為を免罪するにもほどがあります。

このように千葉という人間は自己の不適切な行為には知らん顔をして、

他人だけを責めてもかまわないと思っています。

どれだけ自分のことを「特別な人間」だと思っているのでしょうか?

 

いや、千葉は自分を「特別な人間」と思っているのではないのでしょう。

おそらく「自分しかいないデジタル・ナルシス(西垣通)の世界」を生きているのです。

消費資本主義的動物、つまり消費に飼いならされた「家畜」には、

人間が不在ですし、社会的な言論も必要ありません。

ネットなどの「オススメ」を享受し、自分の「好み」ばかりを断片・選択的に享受するのが当たり前になると、

自分の好みだけの世界(フィルターバブル)を形成するようになります。

こういう人間は「好み」以外のものを無意識に(非主体的に)排除しているので、

「好き嫌い」を理由に「他者」を排除することが当然としか感じなくなります。

このような心性の延長にマイノリティや移民の排除があることは容易に想像ができることです。

思想をやるなら本来はこのような現象を考察するべきですが、

千葉は無批判に自己のフィルターバブルの価値観を振り回し、

ポストモダンの批判者はポストモダンが嫌いなんだろ、とばかりに、

「他者」の批判を内容のない「好き嫌い」へと還元するのです。

(内容を考慮する気がないから何でも「中傷」と感じるのです)

こんな低レベルな人に言論など本質的に必要あるはずがありません。

(コイツの書くものは本質的にすべて自己弁護です。

「ギャル男論」とか笑わせないでほしいものです)

 

こんな無教養な人を教育者として雇用している立命館大学はもちろん、

さも知識人であるかのように扱っている河出書房新社や文藝春秋、青土社、朝日新聞などのマスコミ各社には、

千葉の傲慢な行為を後押しした間接的な責任があると僕は思っています。

著作の帯を書いた浅田彰やゲンロンでつるんでいる東浩紀、師にあたる小泉義之、親しくしている國分功一郎なども、

千葉という人物を知りながら、社会の先輩として何も教えてこなかった責任があると思っています。

(千葉は目上の人にはヘコヘコしているんですけどね)

 

権力者が好き勝手やっている政治状況と歩調を合わせるかのように、

地位や人気を利用して勝手放題やる人など、

僕のように表立って批判をしなくても、言論人として失格だと思っている人はかなりの数にのぼることでしょう。

いずれは歴史の審判が下ります。

 

 

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)レビューのコメント欄

  • 2018.04.20 Friday
  • 11:51

『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)

  レビューのコメント欄 

 

 

 

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』の僕のAmazonレビューのコメント欄は、

現在このようになっています。

 


 

千葉雅也1日前 (編集済み)

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 10時間前

 

どうも、佐野波布一と申します。

千葉雅也氏のコメントに感謝します。

 

当方に中傷の意図はありませんし、Amazonが審査を経て掲載したレビューなので、

Amazonのガイドライン上では誹謗中傷に当たるとは判断されていません。

(だから抗議を受けて消去されても再掲載が可能なのです)

あなたの個人的な感覚だけで、さもこちらが「侮辱」「中傷」をしたように大勢のフォロワーに喧伝する行為は、

著名人が数の暴力に訴えた行為として厳しく批判されるべきだと僕は考えています。

「揶揄」と言うならまだしも、「侮辱」に当たるというなら、

それがどの文章なのか具体的に示してください。

 

また、あなたの弁護士にあなた自身の「基本アホ」ツイートがAmazonレビュアーへの中傷や侮辱に当たらないのかどうかも相談したら良いと思いますよ。

 

 

千葉雅也10時間前返信先:以前の投稿

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 8時間前 (編集済み)

 

ちゅうしょう【中傷】

(名)スル

根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。「━によって失脚する」

 

根拠を示して書いているものは中傷とは言いません。

もっと言葉の勉強をしましょう。

あなたのやっていることが中傷です。

 

 

Philosophia7時間前 (編集済み)

 

千葉氏の肩を持つわけではありませんが、彼は本当に訴える気だと思います。彼はtwitter上で佐野波氏についてしつこく言及されているようですし…。

 

 

佐野波布一 1秒前

 

どうも、佐野波布一と申します。

Philosophiaさんのコメントに感謝します。

 

千葉雅也は世間知らずなので本気で訴えるかもしれないと僕も思っていますよ。

真実しか書いていないので、こちらは迎え撃つだけのことです。

たとえ破産しようと言論弾圧に対しては知識人として戦う義務があります。

 


 

こちらのコメントには応じず、ツイッターの内容を繰り返し貼り付ける千葉の態度は、

傲慢きわまりないものです。

僕は千葉がどのような考えでこのような態度を取っているか理解できています。

千葉はかつてこのようなツイートをしたことがあります。

 

Masaya CHIBA 千葉雅也

 ‏@masayachiba

 

他人の言葉で無駄に傷つかないためには、他人を人間扱いしないことがときに重要である。他人を理解しよう、他人に理解してもらおうという「殊勝にコミュニカティブな前提」のせいで無駄に傷つくのである。

0:04 - 2016年1月1日

 

自分が傷つかないためには、「他人を人間扱いしない」というのが彼の流儀なのです。

千葉の考えるコミュニケーションの「切断」が、

いかに自己愛の保存のためであるかを窺い知ることができるツイートです。

自己愛のために他人を人間扱いしないことを肯定する人間が「人間不在」の哲学を語ることの恐ろしさについて、

千葉の読者たちは思い至る必要があると思います。

 

しかしコメント欄に同じ文面を貼り付けていくのは控えめに言っても「荒し」行為だと思うんですけどね。

今朝、僕もある機関に千葉の行状について問い合わせるメールを送りました。

返事があり次第、ブログに掲載することを考えています。

 

 

 

「週刊俳句」の高山れおな「福田若之『自生地』を読む」への佐野波布一の幻のコメント

  • 2018.04.01 Sunday
  • 13:04

「週刊俳句」の高山れおな

 「福田若之『自生地』を読む」への

   佐野波布一の幻のコメント

 

   恥じらい無き内輪褒めはなぜ行われるのか?

 

 

夏石番矢のブログで「猿集団のマスターベーション」と揶揄された「週刊俳句」の3月25日版「句集を読む」に、

高山れおなが「福田若之『自生地』を読む」(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2018/03/blog-post_22.html)を書いています。

かつてクプラスという集団のボスだった高山が、手下だった福田の擁護に乗り出したわけですが、

このような内輪褒めの醜さを僕は何度も指摘してきたので、その進歩のない猿芸にあきれているのですが、

高山の文章というのがあまりにウッキー感丸出しの赤尻ものだったので、

アホくさいと思いながらコメントを寄せることにしました。

 

冒頭で高山は『自生地』に「別格の感じを持った」として、安井浩司と並べて評価します。

なるほど「別格」という言葉は便利なものです。

実力が別格であるという受け取り方が普通だと思いますが、

このあとで高山が福田と安井を比肩させる理由が、千句以上を収録しているという数字でしかないのです。

つまり、規模が別格だと言っているだけ、と言い訳ができるように書かれているのです。

続いて福田の読者を無視した自分勝手な創作のエネルギーが安井を思わせると言いながら、

福田の今後のことはわからない、と先々の責任からは逃避する予防線を張るのです。

 

無駄に長文を書いたわりに、冒頭で自己弁護の予防線を張りめぐらせる腰抜け感はさすが高山れおなです。

僕は彼の句集『荒東雑詩』のレビューでこう書いています。

 

高山は句を無防備に提出して、

読者と同等の位置に立つのが嫌なのだ。

それで、プレテクストを参照しないといけない句を作りたがる。

 

僕が指摘したのは高山の自己保存体質だったのですが、

ここでもそれが発揮されているわけです。

 

佐藤文香はこの高山の文章を受けて、勘違いツイートをしています。

 

かものはし(さとう)

@kamonnohashi

 

ちょっとそのジャンルかじってれば批判はいくらでもできるけど、絶賛はふつうの人にはできない。絶賛には、その作家と同等以上のセンスが要るし、そのジャンルふくめ広範な知識量が必要で、何より愛。最高の絶賛は官能的ですらある。

午後1:50 · 2018年3月26日

 

彼女の発言内容はまともに聞くに値するものではありません。

絶賛であろうと批判であろうと最低のもあれば最高のもあります。

絶賛だけに知識が必要で、批判には知識がいらないという発言は笑うしかありませんが、

(『自生地』を批判した杉本徹や齋藤愼爾に失礼ですよ)

こういう批判のない世界を必要とするメンタルの人間が、福田の周辺に集まっていることには注意をするべきでしょう。

 

しかし、自分が騙されていることにも気づかない佐藤については気の毒にすらなります。

本当に高山の文章が愛から発した言葉であるならば、自己弁護の予防線など張る必要があるのでしょうか?

本当に福田に対して愛があるなら、「先のことは知らない」などと無責任なことを書かず、

「先の責任はオレが負う!」くらいの気持ちで書くのではないでしょうか。

自分をメタ的に守りながら、読む人が都合良く誤読することを期待するようなレトリックは、

言葉の既成事実化に依存し平気で嘘を書く、高山の得意とするモンキーマジックでしかありません。

(簡単に言えば、たとえ嘘でも書いたものが共有されれば真実になる、という外部読者をナメた態度です)

こういうレトリックの裏まで読解する力がない人は騙されて終わりです。

 

高山は仲間内では「いい人」なのだろうと僕も思いますが、

普段の人間性と文章に現れる人格は分けて考える必要があります。

高山が他人について責任を負うことに逃げ腰な人間だという「本性」は文章に現れています。

書くという行為はかくも自己を露出させる恐ろしいものなのです。

(そしてそれを指摘すると「被害に遭った」などと言うガキがいるのです。

自分で書いたものの責任を自分で負えないなら文筆などやめてしまえ、甘ったれどもが)

佐藤にも一度自分の書いたものが檻の外の観衆にどう見えているのか、

冷静に考えてみることをオススメします。

 

高山は福田の「句集の主体を提示することへのひるみのなさ」が読者に切実という印象を与えたと書いていますが、

主体の提示を避けたいキャラの高山からそう見えるのはわかりますが、

僕の『自生地』レビューを読めば、福田の言葉を真に受けずにもっと深い読みをするべきであることがわかるはずです。

福田は自分の本を「句集」「句集」と自ら連呼し、自分の句が俳句とは言えないのではないかという疑問を封じるのに必死です。

自らの作を「句集」としたがっている人が、「句集の主体」を提示することに「ひるみ」などあるはずがありません。

むしろ、それこそが福田の欲望であることがわかります。

福田が「俳人」になりたがっていることを僕はレビューで指摘しています。

絶賛をするなら批判を打ち消せるレベルの内容でないと空疎でしかありません。

 

そもそも僕が問題としているのは、

俳人たちが福田の句?をどうして俳句として受容できるのか議論しないことにあります。

本人が俳句(句集)と言い張れば俳句となるのか、ということが、俳句をやらない人間にとっては疑問なのです。

しかし、高山は無駄に長文を書いていながら、このことについては少しも触れていません。

単に「別格」とか言うだけです。

まあ、俳句でなければ俳句とは「別格」なわけですから、むしろ俳句ではないと言っているのかもしれませんが、

そこを曖昧にするのも「汚い」と僕は感じるわけです。

 

高山は「別格」と感じさせる理由を、

「自己の人生の感情の劇を総体として書ききっていること」と表現しています。

この文章が『自生地』が句集ではないことを完全に裏付けているのですが、

浅はかな高山はどうやらそれに気づいていないようです。

まず、「総体として」とか曖昧なレトリックでごまかしていますが、

これは「一冊の本として」という意味しか考えられません。

つまり、僕がレビューですでに指摘したように、『自生地』は「句」が単位となっているのではなく、

「本」が単位となっているのです。

句集とは文字通り句が集まったものなので、句が単位でない限り「句集」という名称は不適当です。

 

「人生の感情の劇」も同様です。

俳句で「劇」など展開するはずがありません。

それが「劇」として受け取れるのは、それが散文的な文脈を形成しているからでしかありません。

散文的な文脈が必要になるものを、他から一句で「切れ」た俳句とは呼ぶに値しないことを、

高山のような偽物ではなく、本物の俳人なら誰でもわかることではないでしょうか。

 

それなのに愚かな高山は福田の作が文脈に依存していることをご丁寧に説明していきます。

たとえば高山は『自生地』を不遜にも松尾芭蕉の『おくの細道』の「文脈」と比較しています。

『おくの細道』を持ち出す時点で句集とは呼べない気もしますが、文脈の話をすることが必要になる時点で、

それは散文脈を必要とするものであり、いわゆる句集とは異質なものであるわけです。

 

福田の句?を連作として解釈を展開しなくてはいけないことに疑問がないことも問題です。

連作であるとことわっていないのに、連作としての解釈を要求するのは、それが散文的な文脈を要求しているからです。

 

高山は「かまきり」や「小岱シオン」の語の「省察」というものもしているのですが、

多くの詞書(というか散文注釈)を総合した「省察」が必要になるということは、

これらの語が一句の中で判断が不能な非俳句的な言葉であることを示しています。

 

決定的なのは、高山が後半の作品解釈で福田の立ち上げた主体を「詩作家」と呼びならわしていることです。

「俳人」ではないのです。

つまりは福田の作は俳句でもないし、『自生地』も句集ではないと高山自身もこっそりと認めているわけです。

この曖昧化による自己弁護的なやり方こそが、自らの実作にもつながる高山れおなの手口なのです。

 

僕が批判した内容をそのまま受け入れている内容なのに、あきれるくらいの礼賛を並べ立てる態度は、

居直り強盗のようなやり方で正直軽蔑します。

礼賛するならまずは読者の疑問に答えたらどうなのでしょうか?

疑問点に答えずに幕引きする態度は、内輪の人間を守りたいどこぞの政権党のようなやり方で不信感を高めるだけだと思います。

(そういう政治には批判的な顔をして、自分の内輪の同様の行為を黙認する関悦史の政治的態度など絶対に信用してはいけません)

 

福田に「メタ的な水位が一貫して意識されている」という表現も同様です。

僕は福田や関、鴇田智哉、田島健一、小津夜景などのポストモダン俳句が安直に主体をメタ化することを批判してきました。

ここでもやはり高山は僕の考察をそのままなぞっているわけです。

つまり、僕の解釈そのものは受け入れているのに、なぜかそれを礼賛に用いるのです。

 

この違いはポストモダンを「時代遅れ」と考えている僕と、そのノスタルジーから抜けられないおっさんおばさん「若手」俳人との違いです。

(ちなみに福田若之ってサブカルの趣味が年齢よりおっさん寄りですよね。ジミヘンとか、おまえ何歳だよ、と思いました)

現代がたとえどうであれ、時間は前に進むので、いずれは時代遅れになるわけですから、

そのうち僕の方が正しいと判明するのは必定です。

(だから高山は「先のことは知らない」とか言って逃げるわけです。ホント汚いヤツですよね)

まあ、よく勝算のない戦いをするものだとあきれますが、

俳句界(ひいては極東日本)というニッチ(田舎)がそういう夢を見せてしまうのもまた事実です。

彼らが正面から僕に反論をしてこないのは、真実が僕の側にあるため論争に勝てないからです。

ただ、僕が俳句の外の人間であるのをいいことに、現在を逃げ切ろうと考えているアベノミクスみたいな奴らなのです。

予言をしておきますが、安倍政権が倒れてしばらくする頃になって彼らは顧みられなくなるでしょう。

 

外の現実から逃避して、批判のない内輪のシェルターを作ったくせに、

それを外の人間にも認めてほしい、などと己の身の程もわからなくなった井の中の蛙が「猿集団」の正体です。

口にするのが僕一人だったときは、「被害に遭った」とか言って僕を敵視していればすむとでも思っていたのでしょうが、

外の人が目に入らない人間というものは気の毒なものです。

本来なら、一派の中で数少ないカタギの社会人のはずの高山れおながブレーキをかけるべき役割のはずですが、

彼が「ウチの若い者をかわいがってくれたな」という態度でしゃしゃり出てくるのでは、

どうやらそれも期待できないようです。

 

言い忘れましたが、高山は福田に一句を作る力量があると擁護したくてこう書いています。

 

全体の規模の大きさや過剰なまでの仕掛け、しばしば強く出る連作性のために見えにくくなっているかもしれないが、この作者の一句一句を作る地力の高さは改めて強調しておきたい。しかもそれを、従来的な上手さとは一線を画す形でやり遂げているのである。

ただ、途方もない句数のことを思えば、全くつまらない句がごく少ない理由を、地力の高さ(それは結局、技術の高さの謂いだろう)だけに帰するわけにはゆくまい。むしろ、作者の感情の豊富さの方が決定的なはずである。これは逆に、我々がそれなりの手練れの句集を読むに際して、しばしば退屈を嚙み殺しながら、僅かな佳句・秀句との出会いを待ち続けなくてはならない理由と、裏腹の関係にある事実であろう。感情が豊富な詩人は感情が希薄な詩人より偉いというのは、富士山は高尾山より標高が高いというのと同じくらい簡明な真理である。

 

このように高山は「つまらない句がごく少ない」ことを福田の力量に還元するのですが、

僕はレビューでも書いた通り、福田の句?はほとんど読み飛ばしました。

何度も書いているように、『自生地』は句集ではありませんし、高山自身も一句一句という単位で読んでいません。

俳人にとって『自生地』に「つまらない句がごく少ない」と思えるのは、

それが散文的な文脈を構成しているからです。

それが文脈の一部であれば、何かしらの流れを感じるようになるので、つまらない句はなくなるのです。

つまり、高山の書いていることが『自生地』が句集でないことを立証しているのです。

句集というものは、たとえ安井浩司のものでも、つまらなくて読み飛ばしたくなる句はある程度あるものです。

逆に言えば、僕のように散文を読む方が得意な人間からすると、

散文パートを読むだけで十分なので、まどろっこしい連作文脈など構成する必要を感じないわけです。

外の読者を意識するならば、俳人以外がどう読むかということにも注意を払う必要があると思います。

 

これでコメントしたいことはだいたい終わりなのですが、

高山の文章の後半は、福田の句?の鑑賞になっています。

長い上につまらなすぎて途中で読むのをやめてしまったのですが、

目についてしまった高山の解釈について正しておかなければならないところがあるので書いておきます。

 

 産業革命以来の冬の青空だ

 

この句?の評で高山は「わざわざ平泉まで旅をしなくても、「詩作家」の窓からは歴史が見えるんだぜ」などと書いていますが、

こういう文字上の言葉を真に受ける態度は批評的とは言えませんし、

作品鑑賞の態度としても甘すぎると思います。

 

自然のままでなく工業的に汚染された空を「産業革命以来」と表現したという解釈には異論はありません。

しかし、これを安易に「歴史」と言ってしまうのは問題です。

ここに見るべき「詩作家(笑)」の態度は歴史的な視線ではなく、単に「メタ化」した実感なき主体の姿であるべきです。

わかりやすく説明しましょう。

この「詩作家(笑)」が見上げた空がイギリスの空であると僕には思えません。

おそらくは日本の空でしょう。

ならば、「歴史」からすれば日本の空の汚染の原因は遠いイギリスの産業革命にあるわけではありません。

本当に「歴史」を考えるならば、「高度(経済)成長以来の」と言わなくてはいけません。

たとえば北京のスモッグの中でこんな作を書いたとします。

さて、北京の大気汚染の原因が歴史的に見て産業革命だと実感するものでしょうか?

こんなことが書けるのは、福田が大きく工業化とくくってメタ化した、非歴史的な視線で考えているからにほかなりません。

こういう読み替えを僕が問題だと考えるのは、

大気汚染の原因から自分自身を免罪し、遠い西洋のせいにしてしまうインチキポストモダンの近代批判をなぞった発想だからです。

これは「詩作家」の発想ではありません。

単に時代遅れのポストモダンをなぞっただけの、詩人としての実感のかけらもないリクツで作った句?だということです。

(こういう頭でっかちなところが関悦史と似ているんですよ)

 

高山に批評能力がないことは関を評価していることでもわかりますが、

能力がないことは仕方がないにしても、内輪褒めをしたいという欲望を丸出しにすることは問題です。

高山は「俳句をやらない人間は謙虚でいろ」などと「第二芸術論」のレベルから一歩も出られない発言をするくらいなら、

身内の評価に対して謙虚であってほしいものです。

福田を芭蕉や蕪村や一茶、もしくは安井浩司ひいてはプルーストにたとえていく大仰さは、

誰が見たってバカバカしいの一言です。

実を言うと、僕はこの文章を読んで何回か大笑いしてしまったのですが、

こういうことを恥ずかしげもなく書ける人というのも、いくら内輪評価にしても理解できないところがあります。

 

高山は予防線を張ったつもりかもしれませんが、こういうものを書いた過去は消し去れません。

ネットだから消えていくと思っているのかもしれませんが、僕は保存しておきましたよ、と伝えておきます。

10年後くらいに思い出させてあげますので、楽しみにしておいてください。

 

  

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル) Amazonレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.03.14 Wednesday
  • 22:50

 『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)

 Amazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

 

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』について、どこぞのフランス現代思想学者が解説している文章を目にしましたが、

僕が予想していた通り、自分の立場と対立しない内容だけに触れるという、

どこぞの省庁と似たような手口を使っています。

 

具体的に言えば、意味を中心とした人間主義であることを明確にすることは避けています。

科学一元論を批判する反ファシズム思想だとか、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているとか書いているのですが、

これもかなり欺瞞に満ちた内容と言えます。

 

科学一元論を批判しているのはその通りですが、同時に人間不在の思弁的実在論も批判しているのに、

そこをカメレオン学者はスルーして触れません。

思弁的実在論の代弁をしてきた自分に不利な事実は削除するわけです。

また、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているという解説は誤読でしかありません。

ガブリエルが拒否する特権的な包括的な場は「世界」としか書かれてはいません。

「世界」が存在しないことで「意味の場」が成立するとガブリエルは書いているわけですから、

ひとつの覇権的な場は「意味の場」になるはずがないのです。

(もちろんガブリエルもそんな表現はしていません)

これは誤読であるか、そうでなければ内容の身勝手な改ざんと言えるでしょう。

 

彼が書いているひとつの特権的な意味の場が存在しない、という反ファシズムの思想とは、

まったくもってガブリエルの著書の内容ではなく、

これまで〈フランス現代思想〉がさんざん垂れ流してきた言説でしかありません。

もし本当にガブリエルがこんなことを言っているのだとしたら、まったく新しくありません。

いや、本当に自分に都合がいいように「書き換え」をするものだと、呆れ果てました。

この人には学者としての良心など存在しないのでしょうか。

 

まるでガブリエルが意味を批判しているかのような「書き換え」は、

あまりにガブリエルとは逆方向の主張になるので、もし誤読でないのなら、彼の一般読者を騙そうとする不誠実な態度と考えるしかありません。

僕の好き嫌いなど関係なく、事実を捻じ曲げるような内容を流通させる学者を日本ではなぜ問題だと考えないのでしょうか。

いや、国の省庁が事実を書き換えて平気なのですから、学者だって平気で書き換えを行うのがこの国なのでしょう。

 

しかし、本書のレビューでも確認したように、

僕はずいぶん前から彼らがこのような「読み換え」をすることは予想していたので、

日本的な自己保身を優先する文化にどっぷりつかっている人たちが、

西洋思想を「宣伝」していることがいかにお笑いな事態であるかの良い証拠になると思います。

 

 

 

「動物化できないポストモダン」 佐野波布一2007年の評論

  • 2018.03.05 Monday
  • 11:52

「動物化できないポストモダン」

 佐野波布一2007年の評論

 

 

 

 

 

 

 70年代生まれインターネット世代 

 

僕は同年代ということで、1971年生まれの東浩紀や北田暁大の議論に注目してきた。言論界では彼らが世代の代表として受け止められているからだが、僕はそれに対して苦々しい思いを感じている。彼らはともに東京大学の大学院出身で、社会学の影響を色濃く受けている。宮台真司チルドレンとでもいうべき存在だ。たしかに彼らは世代の一部を代表しているかもしれない(実際、渋谷のブックファーストでは二人の対談本が売り上げ1位になった)。しかし、世代全体がそうだと思われてはたまらない。
この世代を考えるときに欠かせないのが堀江貴文だろう。堀江も東京大学出身で、僕たちと同世代だ。東と北田、そして堀江をつなぐもの、それは新世代のメディアであるインターネット以外ありえない。彼らの活躍はインターネットの拡大と歩調を合わせている。結局、僕たちの世代とはインターネットによって注目されているだけだというのが現状だ。
そのため、この世代はまずインターネット文化の擁護者として登場することになった。堀江や東や北田はその代表であって、僕のようにインターネット懐疑派は不可視な存在でしかない。まあ、そういうことだ。

 

 読破できなかった東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』


ここでは東浩紀の著作『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』について書いておこうと思う。本当はふれるのもバカバカしい本なのだが、この世代がみんなこんなことを肯定していると思われては困る。同世代からの反論もあった方がいい。しかし、僕は今すぐメディア上で反論のできる著名な立場にいない。仕方がないので、「今」反論していることを示すために、個人的に書き残すという手段をとることにする。「今」とは2007年3月現在だ。
さて、僕はまず読者に弁解をしなければならない。このような文章を書くくせに、僕は『ゲーム的リアリズムの誕生』を途中までしか読んでいない。『ゲーム的リアリズムの誕生』は二章構成になっていて、第1章は理論、第2章は作品論となっているが、僕は第1章のBまでしか読んでいないのだ(ちなみに第1章はCまである)。これはあまりほめられた態度ではない。評価する作品をきちんと読まないでものを言うなんて、津本陽にしか許されていないことだ。僕はここ10年くらい最後まで読まなかった本はほとんどない。しかし、この本は最後まで読めそうにない。
途中挫折の理由は、この本が商品として最低レベルのデキにもないということだ。要するに、売るに値する内容ではないのだ。どれだけひどいのかはあとで書くことになるが、それにしても、こんなものを出版する講談社は何を考えているのだろうか。東浩紀の本というだけでオタクが買うから、たしかに売り上げは期待できるかもしれない。それにしたって、もう少しマシなものを書かせることはできたはずだ。第1章は「理論」と銘打たれているが、かなり乱暴な内容になっているし、半分以上が大塚英志の説にのっかって話を進めている。ちゃんと数えたわけではないが、ページの半分くらいに「大塚」という名詞が登場しているように思える。この名詞にぶつかるたびに、大塚に見捨てられた東のメメシイ感情ばかりが伝わってきて、僕としては涙なしに読み進められなかった。本を途中で断念してしまったのは、武士の情みたいなものと理解してほしい。
それに、一応「理論」といっているのだから、著者の個人的愛憎が伝わってくるのはどうかと思う。そりゃあ、理論にも個人感情は影響を与えるだろうが、それが前面に出ているのはまずいだろう。こんな逸脱した内容で商品化にOKを出す講談社の良識を、僕としては疑わざるをえない。少なくても、もう少し時間をかけて書かせるべきだったろう。
では僕が読んだところまでの内容を検証しよう。正直に言って、この本を評価するうえでは、僕が読んだところまででも十分だと確信している。

 

 「市場原理」という言葉を言い換えただけの「データベース消費」

 

まず、ざっと『ゲーム的リアリズムの誕生』という本の狙いについてまとめておこう。この本は主に「ライトノベル」と呼ばれる小説を扱っている。ライトノベルは何百万部の売り上げを誇る作品もあって、消費市場では無視できないムーブメントであることはまちがいない。この本の目的は、「ポストモダン的」なライトノベルを「文学」として評価することにある。
ライトノベルの評価が東にとって重要なのは、それが「ポストモダン」を読み解くカギになると思っているからだ。ポストモダンとは1970年代以降の時代状況のこと(ポストモダニズムという思想のことではないと東は力説する)らしいから、要するに内容は現代社会学と言ってもいい。この時代状況を、東は「大きな物語」の衰退による「データベース消費」の誕生によって語る。これが五年前の東の著作『動物化するポストモダン』の主張だった。要するに、「データベース消費」とは何なのか、ということを説明するのが東の著作だと思えばいい。
こういうと何か高尚なことをやっているように思えるかもしれないが、「大きな物語」を「イデオロギー原理」、「データベース消費」を「市場原理」とわかりやすい言葉に置き換えてしまえば、なんてことはない、当たり前のことを言っていることになってしまう。「大きな物語」とは、簡単に言えば資本主義と共産主義のイデオロギー対決のことだが、それは全共闘運動の崩壊でほぼ幕を閉じていたのだ。ソ連や中国も社会主義でなくなった時代に何を今さら……、と思われても仕方がない。
この読み替えでほとんどこの本の価値は死んでしまうのだが、実際に東浩紀は脚光を浴びたし、「動物化」も話題になった。それだけに問題の根はもっと深いので、僕はもう少し丁寧に読んでいくことにする。
ただ、ここでひとつ注意しておきたいことは、現代の社会状況を語る本のわりに、東浩紀はオタク文化のみを取り上げるということだ。前作『動物化するポストモダン』は、アニメオタクの「キャラ萌え」(アニメのキャラクターに屈折した性的興奮を得ること)や「ギャルゲー」(アニメ画の女の子の性的画像を見ることがゲームの達成でもあるコンピュータ・ゲーム)のことしか語っていない。その傾向は5年経っても同じで、今回はライトノベルを取り扱っている。
まず、ライトノベルとはなんぞや? という人に説明が必要かもしれない。ライトノベルはマンガやアニメのイラストが表紙や挿絵になっている青少年向けのエンターテイメント小説だ。装丁だけならマンガと間違える人もいるかもしれない。少女マンガをベースにした「コバルト文庫」の男の子版といったら一番わかりやすいだろうか。
東がライトノベルを取り扱う理由は、前作を読んでいる人にはすぐにわかるだろう。ライトノベルは「キャラ萌え」が作品の中心におかれた「ゲームのような小説」であるからだ。オタク傾向を持つ人向けの小説と言ってもたいして誤解はないだろう。
東はこのライトノベルが「文学」として扱われていないことに危機感を感じている(と、本人は言っている)。ライトノベルは子供やオタクの読みものと白眼視されているというわけだ。そのため『ゲーム的リアリズムの誕生』はライトノベルがいかに「文学」であるかを力説した本になっている。
賢明な読者なら、どうして東浩紀が現代のグローバルな社会状況をオタク文化という限定的な現象のみで語ろうとするのか疑問を持つことだろう。その疑問はまったく正しい。しかし、僕はもう少しあとになってから答を述べるつもりだ。まずは新たに出版された東の著書の主張に耳を傾けよう。

 

 「文学」を私小説に限定する東


東はライトノベルが「文学」であると主張するために、「二つのリアリズム」という文学的手法を持ち出す。「二つのリアリズム」とは自然主義的リアリズムまんが・アニメ的リアリズム(両者の分類は大塚英志の議論による)だ。自然主義的リアリズムとは私小説などで使われる方法で、つまりは「私」を視点とした現実世界を「写生」する方法のことだ。
それに対して、まんが・アニメ的リアリズムとは、まんがやアニメの中に存在する虚構を「写生」することとされている(これも大塚の論による)。つまるところ、二つのリアリズムの違いは、「写生」する対象が現実世界であるか、虚構世界であるかという点にある。ここで僕などはアニメ的な虚構を描写することを「リアリズム」と言っていいものか気になってしまうのだが、どちらも「写生」そのものは疑っていないということで、「リアリズム」という言い方をしているのだと解釈することにする。
東の理論の展開を追うと、「文学」はこの両者にすっぱり分かれるようだ。東は大塚にならってライトノベルを「キャラクター小説」と言った上で、「純文学は私を描くので私小説、ライトノベルはキャラクターを描くのでキャラクター小説、というわけである」と分類する。この分類の仕方から、東がライトノベル(キャラクター小説)を純文学と対置させたいことが伝わってくる。
しかしこの二分割は少々強引な印象を禁じえない。「文学」=純文学=私小説という短絡的な図式は失笑ものだし、いまどき純文学というものがあるのかどうかさえ疑問がある。東は高橋源一郎や島田雅彦などの小説を「ポストモダン文学」であることを認めているが、ポストモダンとポストモダニズムが異なることをことわったうえで、こう述べる。

 

いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実的には保守的な文学作品として流通している。彼らの小説は文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取りあげられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。

 

この文章を見るかぎり、「ポストモダン文学」は文芸誌などで文学として評価され、大学で取り上げられていることが保守的でポストモダンらしくないと理解するほかない。その考え方が正しいかどうかはおいといて、僕が疑問に思うのは、それならどうして東はライトノベルを「文学」だと主張するのだろうということだ。ライトノベルが「文学」として評価され、文学賞を受賞したら、それはポストモダンらしくないことになるのではないか? おまけにライトノベルを取り上げている東自身の出どころは、東大というアカデミズムの頂点ではなかったか?(だからこそ、こんな本を書いてもチヤホヤされているのだ)
この文章を読んで僕がまず考えたのは、舞城王太郎という作家のことだ。舞城の小説『九十九十九』は『ゲーム的リアリズムの誕生』の第2章の作品論でも取り上げられている。デビュー当時の舞城はライトノベルと共通の背景を持つ作家で、「メフィスト」という雑誌を中心に活躍していた。しかし、そのうち文芸誌が舞城を引っ張り出して、『阿修羅ガール』で三島賞を与え、『好き好き大好き超愛してる』で芥川賞候補にまでするようになった。今の舞城はライトノベル的なものと文学との両者で活動を続けているわけだが、東の言い分だと、どうして彼に関してだけは文学賞を受賞しているのにポストモダンを語るのに利用していいのかがよくわからない。舞城の作品はまさに高橋源一郎や島田雅彦が「新しい」と絶賛したのだ。
これはつまらないことだが、ここだけ見ても、東浩紀が論理的でもなければ、筋も通っていない無責任な言説を振り回す人間であることがわかるはずだ。東の舞城に対する扱いは明らかにご都合主義的だと言わざるをえない。つまり、根拠になっているのは理論ではなく、東の個人的な趣味感覚なのだ。
さて、本論に戻ろう。東が文学を二つのリアリズムでぶった切っていることを見ていたのだった。この分け方を素直に受け取ると、文学とは私小説(的なもの)ということになってしまう。しかし、これはアカデミックな教育を受けた人間には受け入れがたい説だ。文学史を丁寧に勉強すれば、自然主義的な私小説というものが文学史の一部でしかないことくらいすぐにわかるはずだからだ。
たとえば横光利一は小説の主人公を虚構の「傀儡」として意識的に設定した作家だ。「傀儡」とは要するに虚構のキャラクターのことであるから、東の定義からすれば横光の小説はキャラクター小説ということになる。東浩紀は横光利一など学んだこともないのだろうが、この流れは川端康成、三島由紀夫、村上春樹へと引き継がれていく。彼らの作品を田山花袋や島崎藤村や志賀直哉と同じ私小説だと考える人がいるだろうか? だいたい、横光は志賀直哉的なもの(つまり私小説)からの脱却と格闘した作家なのだ。
このような文学に対する不勉強をベースにライトノベルを「文学」だと主張されるのは困ったものだ。文学がわからないのなら、別にライトノベルはライトノベルのまま評価すればいいと僕は思うのだが、東はそれをどうしても「文学」にしたいのだから仕方がない。僕としてはその誤りを指摘するほかない。

 

 大塚と東の屈折した関係


ちなみに、大塚がこのようなリアリズムの二分法を用いたのは東とはまったく違う意図からだということを言っておきたい。大塚はインターネットやサブカルチャーに群がる若者達の「自分探し」的な状況を、「私」を成立させられないで格闘している混沌状態と考えている。そこで、大塚は現代と言文一致や私小説以前の文学状況を重ねてみせるわけだ。大塚が「私」の成立を田山花袋に阻害された『蒲団』のヒロインにこだわっているのはその視点でこそ理解できる。だから、大塚は私小説成立後の文学史を扱ってはいないし、文学史を二つのリアリズムで読み替えようとは思ってもいないのだ。
しかし東はそんな大塚の二つのリアリズムを文学の全体状況に拡大適用する。論のほとんどを大塚からパクっていながら、とんでもなくデカいことをしているわけだ。こんなことがうまくいくはずがない。たしかに今や文学はくだらないものばかりだが、それにしたって過去の文学までナメてもらっては困る。文学はそんな二分法で語れるほど簡単なものではないのだ。
おまけに不思議なのは、東と大塚の目的がまったく逆だということだ。だから二人はケンカ別れに終わった。大塚は若者達が「私」を成立させられるようにサブカルチャー論を展開している。しかし、東の言う「ポストモダン」もしくは「動物化」とは、「私」の成立を拒否することで成立するはずだ。だって、「私」にこだわっている動物なんかいるはずないのだから。つまり、わかりやすくいえば大塚と東の対立とは、かたや「私」という「人間化」、かたや「私」から逃れる「動物化」を目指すものとしてあったはずなのだ。
なのに対立する両者が同じ議論をベースにしているのは不思議なことだ。どうして東は目的が真逆のはずの大塚の議論をこう執拗に下敷きにしようとするのだろうか? このあたりは僕でなくてもわかりにくいことだろう。もしかしたら、本人もわかっていないかもしれない。東の「無能」もしくは「甘え」に答を求めれば簡単だが、僕はそれが東のアンビバレンツな欲望にあると思えてならない。それはこの本を読んでいくことで、しだいにハッキリしてくることだろう。

 

 市場を「母」とする売り上げ至上主義の精神


このように、東は文学を強引に二つのリアリズムに切り分けた。こうすることで、現在の日本文学の状況がよくわかるらしいのだ。そのことを述べた文を引用しよう。

 

このように理解すると、いまの「日本文学」の状況が、よりはっきりと浮かびあがってくる。自然主義的リアリズムの市場で『東京タワー』が売れ、芥川賞や直木賞が話題になっているときに、まんが・アニメ的リアリズムの市場では、まったく異なった原理と価値観に基づいて「涼宮ハルヒ」シリーズが何百万部も売れている。それが、二〇〇〇年代半ばの日本文学の、おそらくはもっとも俯瞰した立場から見えてくる状況である。批評や文学研究は、純文学だけを追うのではなく、本来はその全体を見わたさなければならない。本書がキャラクター小説を集中的に取りあげるのは、そのような危機感に基づいてのことでもある。

 

これを読んで僕は頭を抱えたくなってしまった。なにひとつ納得して読めるところがないのだ。まず第一に、『東京タワー』って日本文学なの? 自然主義的リアリズムなの? という疑問。ただ売り上げのことだけを持ち出すことが「もっとも俯瞰した立場」なの? という疑問。批評が全体を見渡すべきなのはもっともだが、文学史全体を無視している君が偉そうに言えるの? という疑問。おかげで僕はまったく別の危機感を感じなければならなくなってしまった。
僕がこのようなどうしようもない一文をわざわざ引用したのは、東が本の「売り上げ」つまり市場の評価をもっとも俯瞰した(つまりメタな)価値観としていることを示したかったからだ。この価値観をいかにも当然なものとして説明なしに持ち出してくるのが、僕にはどうにも気になる。
文学の価値は「売り上げ」や芥川・直木賞で決まるものなのだろうか? もちろん、最近の文壇は村上春樹ファッショともいうべき状況で、「読まれている」=「売り上げ」だけで価値が成立しているのは事実だ。しかし、それこそがポストモダン的状況なのであって、本来はその価値観を分析して問題にするのがポストモダン批評のあるべき姿だろう。しかし、ハナからそれを自然なこととして受け入れてしまっては、批評が成立する余地はない。
東が「売り上げ」至上主義者であることを示す別の文も引用しよう。

 

(キャラクター小説はデータベースを共有しない人にはわからない)にもかかわらず、実際にそれは、現在の小説市場で実に多くの読者に受け入れられている。谷川は、現在のライトノベル・ブームを代表する作家であり、ここで引用した『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まる「涼宮ハルヒ」シリーズは、二〇〇六年のアニメ化を契機としてベストセラーに躍り出て、二〇〇七年春の時点で累計四〇〇万部を超えている。キャラクターのデータベースは、オタクたちの頭の中にしかないという点では仮想的な存在だが、一〇〇万部の小説の文体に影響を与えているという点では、紛れもなく現実的な存在だと言えるだろう。

 

ライトノベルの「涼宮ハルヒ」シリーズの売り上げが巨大なことはよくわかったが、仮想的なものでも多くの人が共有すれば「紛れもなく現実的」だというのはどうだろうか。現実的かどうかは多数決で決まるとでもいうのだろうか? このような考えは東のような「売り上げ」至上主義者には理解できても、それ以外の価値観を持っている僕にはついていけない話だ。これじゃあ、データベース論とは岸田秀の共同幻想論の亜流みたいなものではないか。
このように、東がデータベースといっている価値観は市場原理でしかない。ライトノベルはこんなに売れているんだから、『東京タワー』や芥川賞・直木賞作品と同じように扱ってくれというのが東の本音にも思える。こんなことを主張するのに、ポストモダン分析の理論が役に立つはずもないのだから、「理論」がメチャクチャでご都合主義的なのも当然の帰結なのかもしれない。
途中で読むのをやめてしまったので推測にしかならないが、本の題名にもなっている「ゲーム的リアリズム」とは、要するに仮想的な幻想(ゲーム)でも多数の人に共有されているんだから「紛れもなく現実的(リアリズム)」だということになるのだろう。東にとってはデータベースもしくは市場こそがリアルなものなのだ。貨幣の価値は幻想でしかないが、それを多数の人が認めているからこそリアルなものとして流通する。だから、貨幣価値のデータベースである市場こそがポストモダン時代の現実なのだ。

 

 データベースとは何か

 

『ゲーム的リアリズムの誕生』の読解はこんな感じで終わってもいいのだが、ここで僕は前に出した疑問をもう一度持ち出したいと思う。このような経済の問題を、東はなぜオタク文化によって語ろうとするのだろうか?
このことを考えたときに、僕はオタクがアニメやライトノベルなどで行っている「キャラ萌え」を「データベース消費」としている東の主張じたいに疑問を感じないわけにはいかない。僕には本当にオタクたちが「データベース消費」をしているとは思えないのだ。いや、まったく違うということではない。それに近いことをしているのはまちがいない。ただ、オタクたちのデータベースとは、真の意味でデータベースと言えるような市場とは異なった共同幻想で成立しているように思えるのだ。
オタクたちのデータベースを語る前に、まずデータベースとはどういうものなのかを確認しておこう。データベースといえば、一般的にはコンピュータ処理で保管する情報の集積のことになると思うが、コンピュータと言うだけで拒否反応を示す人もいるだろうから、僕はデータベースのモデルを図書館で説明してみたい。
データベースとはあらゆる本を所蔵した図書館のようなものだ。現実的にはそんな図書館はあるはずもないが、ひとつのたとえなので、仮にあるものとして考えてほしい。もしそのような図書館があれば、誰が何の本を探していたとしても、その図書館に行けばどんな本でも絶対に見つかるはずだ。政治の本であろうが、恐竜の本であろうが、エロ本であろうが、絵本であろうが、その図書館にはなんでもあるのだ。
このようにすべての情報(=本)を収納する場所(=図書館)をデータベースという。簡単に言うと、データベースとは情報の倉庫なのだ。
データベースの特徴は大きく二つある。ひとつは集められたデータ(所蔵された本にあたる)が、国家や組織のイデオロギーはもちろん、人間の特定の嗜好や欲望によって選別されたものではないということだ。出版された本であれば、内容にかかわらず機械的に図書館に所蔵されるのだ。つまり、データベースの情報収集には人間の意図がほとんど反映されないことになる。
東の言う「大きな物語」とは、資本主義対共産主義というようなイデオロギーによる意味づけのことを意味する。国家などの社会権力が「人はこうあるべきだ」という意味づけを行い、人々がそれにかなうように生きる。そのような「こうあるべき」という意味を、多くの人が共有することを「大きな物語」と呼んでいるのだ。データベースはそのような意味づけや、特定の意図から解放されている(ように見える)。そのため、「大きな物語」から「データベース消費」への移行とは、意味というものが社会の基準としての力を衰退させていく流れとして考えることもできる。
データベースのもうひとつの特徴は、無限の拡張性だ。当然のことだが、本が出版されるたびに図書館には本が増えていく。時間が経つごとに本はますます増えていって、いつまでたっても所蔵し終わることはない。こうして図書館は永遠に拡大し続けるのだ。刻一刻と変化する情報を網羅するには、データベースを絶えず拡張していくしかないのだ。それを別の角度から見ると、こういうことになる。データベースはすべての情報を網羅しているが、それは「今」という瞬間にだけ達成されてることで、次の瞬間には新しい情報によって更新を余儀なくされる。データベースの網羅とは「今」という瞬間にだけ暫定的に成立する。
ここまでくれば、データベースと自由市場が似たものであることが理解しやすくなる。自由市場にあふれる商品は特定の意味によって限定されたりはしない。買う人さえいれば、売る商品は「なんでもあり」だといってもいい(たとえそれが女子高生の排泄物や人間の内臓であってもだ)。そして、市場には日々新しい商品が登場する。その活動は永遠に終わることはない。どんなに大金持ちであっても、未来に発売される商品は手に入れることができない。金があれば市場でどんな商品でも買うことができるが、「今」発売されているものに限られる(また、法にふれるものは売ることはできないが、ここでは理念上の自由市場を想定しているので、それはおいておく)。

 

 「データベース消費」の例としてオタク文化は不適切


東はライトノベルに登場する人物(キャラクター)が、個々の本(物語)から自律して一種のデータベースに属した存在としてオタクたちの間で消費されていると主張する。これこそオタクが「大きな物語」から「データベース消費」の世界を生きている証だと主張するわけだ。東自身の説明も一応引用しておく。

 

実際に現在のオタクの市場では、物語に人気がなくてもキャラクターには人気があることがめずらしくないし、その逆もある。したがって、そこでは多くの作家たちが、物語内部での必然性や整合性からとりあえず離れ、作品の外に拡がる自律したキャラクターの集合を一種の市場と見なして、そこでの競争力を基準にキャラクターの設定や造形を個別に決定するように変わっていくことになる。

 

ここでは東本人がネタバレ的にキャラクターのデータベースが「一種の市場」であることを語ってしまっている。これを見ても、「データベース的消費」とは「市場原理」のことでしかないことが確認できるはずだが、東はその事実をできるだけ表に出さないようにする。あくまで「データベース消費」という言葉で色づけて、新しい概念でもあるかのような顔をするのだ。
しかし、僕はオタクたちのデータベースが市場に近い意味でのデータベースとは言えないのではないかと思っている。前にも提出した疑問だが、もし本当に「データベース消費」という消費経済概念の拡大を社会学的に示したいのならば、オタクのジャンル以上に適切な分野がほかにたくさんあるのだ。たとえば、ヒップホップなどのサンプリング音楽がそうだ。サンプリングとは過去の音源の二次利用にほかならない。だから、ヒップホップをエコロジー的な廃品利用として積極的に評価する人もいる(僕には強引に思えるが)。また、総合格闘技などの動きもそうだろう。K-1やPRIDEなどは、あらゆる格闘技の出身者が参入できるように心がけているし、今や格闘家だけでなくボビー・オロゴンや金子賢などの芸能人までリングに上がっている。今や総合格闘技に参加する選手のリストは、ジャンルの壁を越えた格闘データベースのようなものになっている。
もっとメジャーな現象もある。オリンピックなどがまさにそうだ。オリンピックは世界スポーツの博物館のような様相を呈していて、図書館のイメージと近いことは誰にでも理解できるだろう。オリンピックの放映権料は1990年以降のグローバル化に伴って爆発的に高騰している。オリンピックの拡大が市場の拡大にも等しいことは、このことからも確認できるはずだ。おまけにオリンピックはアマチュアだけが参加できるはずだったのに、今やプロ解禁は当たり前だ。これはオリンピックの理念が市場の原理に敗北したことを示している。
データベース化の動きとは、要するに「売れればなんでもあり」もしくは「ウケればなんでもあり」の状態に近づくことだと考えることができる。だからパクリは横行するし、内容のないショー化が進むようになる(今や政治も例外ではない)。自由市場概念によるグローバル化は、しだいに腐敗を全般化する(これはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが指摘していることだ)。この動きが行きすぎたときには、国家権力(もしくは〈帝国〉)が法の力(もしくは警察権)で介入する以外なくなってしまうのだ。
このように、いまやデータベース化の現象は広く一般化している。社会学の立場からするなら、よりメジャーな事象を取り扱うのが筋のはずだし、データベースが大きければ大きいほど説得力は増すはずだ。ライトノベルや「キャラ萌え」を取り上げるより、オリンピックを取り上げた方が多くの人にデータベースを理解させるにふさわしい。それなのに、東は執拗にオタク文化の範囲内に思考の対象をしぼっている。このことを考えたときに、僕は東が「データベース消費」なんかより、もっと別のことを語りたいのではないかと勘ぐってしまうのだ。

 

 オタクのデータベースの特殊性


前置きが長くなってしまったが、僕が東の主張するオタクのデータベースが、本当の意味でデータベースと呼べるものなのか疑問があるのは、先に挙げたデータベースの二つの特徴をオタクのデータベースが満たしていないことにある。
まず、データベースの一つめの特徴を思い出してほしい。それはデータの集積が機械的に行われることだった。しかし、オタクのデータベースはどうだろう?  僕はオタクのデータベースの集積がアニメの博物館と等しくなっているとは到底思えないのだ。だって、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』のキャラクターに「萌え」るオタクを僕は見たことがない。
こんな単純な疑問をどうして誰も持ち出さないのか僕には理解に苦しむところがある。まず、オタクがデータベース化するキャラクターは本質的には女性キャラとなっている。これには反論もあるとは思うが、よく考えてみれば明白なことだ。「キャラ萌え」が異性に対する屈折した性的欲望にあることは明らかなので、男性なら対象は主に女性キャラ、女性なら主に男性キャラになってくるのは当然だ。そうでなければ、東が「ギャルゲー」を「キャラ萌え」と並行的な現象として取り上げていることがおかしくなってしまう。「ラブひな」などの一連の「萌え」作品を見てもらえば、男性主人公が多様な女性ヒロインのデータベース上を生活するパターンばかりなのがすぐに確認できることだろう。
オタクは自分たちの性欲を認めることに大きな葛藤を抱えている種族だ。それは母との関係が密になっていることと関係が深い。母への欲望とは異性に対する非性的な思慕といえる。それをそのまま他の異性において実現させようとすれば、その欲望は非性的な思慕のかたちを取るべきだということになる。しかし、生身の女性に対して欲望を向けるかぎり、最終的には性的な欲望を抱えていることを隠しきれない。そこで、マザコン傾向の強い男性は、欲望の対象を性的に成熟していない女性(ロリコン)から、性的関係を持てない女性(アニメキャラ)へと差し向けることになる。だから、「萌え」の対象になるアニメキャラはたいていロリコン向けの絵柄になっているのだ。
たとえば、アニメキャラに欲情するオタクたちは、生身の女性から離れられないアイドルオタクを蔑視する傾向がある(東浩紀はアイドルオタクを一度たりとも取り上げたことはない)。これは二次元への欲情の方が、性的なものからより解放されているという意識から来る(それは誤解でしかないのだが)。それに「萌え」の漢字は若葉が芽を出すようなイメージだ。この字からしても、幼いものに対する欲望が確認できる。そもそも、オタクが「燃え」を「萌え」と言い換えるのは、性欲が自然発生的なものであることを強調しつつ、性にまつわる大人の責任から逃避するためなのだ。そこではマザコン(=ロリコン)と(社会的存在への)成長嫌悪が固く手を結んでいる。
つまり、僕が言いたいのは、オタクのデータベースなるのものがあるとしても、それは性的な欲望によって選別された対象によってしか満たされていないということだ。これは立派なイデオロギーだし、夢判断をすべて性欲で語るフロイトの精神分析的な「物語」とも言える。ちなみに東が脚光を浴びることになった哲学ジャンルでのデビュー作『存在論的、郵便的』は、人間という「郵便的存在」をフロイトの精神分析モデル(転移)によって位置づけている。
オタクたちの世界が精神分析と親しいのは、ラカン派心理学者の斎藤環がオタクを研究対象としていることでもうかがい知れる。斎藤は東と親しい立場にあり、『ゲーム的リアリズムの誕生』の新聞広告にも推薦文を寄せている(斎藤は「またアズマにやられた!」と書いていたが、談合入札でわざと負けた会社のセリフのように聞こえる)。
このように、フロイトや精神分析の「物語」によって選別されたデータベースを、市場に近い意味でのデータベースと呼ぶことには疑問を感じる。だから僕としては、オタクこそが「データベース消費」の時代に「物語」を生きている時代遅れの存在だと考えている。僕は東とまったく逆のことを主張したいのだ。僕の考えが正しければ、東がどうして「データベース消費」の説明によりグローバルな事象を取り上げないで、限定的なオタクの世界のみを語るのかが矛盾なく説明できるのだ。

 

 データ量がほとんど増えないトリック


説明を続けよう。さらに、オタクのデータベースは、データベースの二つめの特徴とも合致しないということを確認したい。その特徴とは無限の拡張性だった。データベースは常に新しい情報を取り入れて永遠に巨大化するのだ。
では、オタクのデータベースはどうだろうか。たしかにライトノベルやアニメのジャンルでも日々新しい作品やキャラクターが登場している。その意味ではデータベースは拡張しているのだが、実質的な情報量が増えているかどうかという点を考えたときに、大きな疑問に突き当たる。それというのも、オタクのデータベースに登録されるキャラクターは、ある一定のパターンのくり返しになっていて、量的に拡大しようとしないからだ。
これは少しややこしい議論かもしれない。ひとつ例を出そう。たとえば二つの名前を持つ人がいるとしよう。ビートたけしと北野武でもいい。データベース上では、コメディアンのビートたけしと映画監督の北野武と二つの情報が記録されている。つまり、情報量は2となるわけだ。しかし、現実世界の人物としては一人でしかない。だから現実のエネルギー量としては1となる。このようなとき、データベース上の名前が増えたからといって、単純にデータベースが拡張したと考えていいものだろうか?
もちろん東はそれを拡張と見なすのだろう。しかし、コンピュータに詳しい人間であればそうは考えないだろう。ファイル名が異なっていても、情報内容が同じであれば、ひとつの情報で二つのファイル名に対応するようにデータ処理することは難しくないからだ。そうなると、情報量は1のままで、名前をひとつ増やした分の情報量(それは量としては微々たるものだ)だけ増やせばすむことになる。
オタクのデータベースの拡張とはこのような手口で行われている。つまり、一つの情報に対してファイル名だけを二つ三つと増やしていき、実際の情報量はほとんど拡大しない。このような中身の変わらない名前だけの情報増加はデータベースの全体量をほとんど変えることがない。当然、データベースはおそるべきスローペースでしか拡大しないことになる。このような拡大スピードの遅さは、市場やオリンピックなどのデータベース拡大のスピードに比べると、恐ろしいほどに保守的だと言わざるをえない。
具体的な例を出そう。せっかくだから東が『ゲーム的リアリズムの誕生』でライトノベルの代表として扱っている「涼宮ハルヒ」シリーズを取り上げよう。僕が見たところ、この作品に出てくるキャラクターの描写には新しさがまったくない。もっとズバリ言ってしまえば、涼宮ハルヒというキャラクターはヒットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカ・ラングレーのほとんどパクリと言ってもいい。それから長門有希というキャラクターも同アニメの綾波レイを思い浮かべない人はいないだろう。もちろん、そっくりすべてが同じではないが、パッケージを変えただけで内容はほとんど同じものであることは、オタクの過半数以上が認める事実だと思う(お疑いの方はアンケートを採ってみればいい)。いや、当の「涼宮ハルヒ」シリーズの著者だって認めるのではないだろうか。

 

 バブル的な粉飾メンタリティ


アニメやライトノベルのキャラクターでこのようなパクリの系図を作ったらものすごいネットワークができることはまちがいない。黒髪の三つ編みでメガネをした女の子のキャラクターは、どんな作品でもほぼ例外なく自己主張の苦手な内閉的な女の子になったりするのは、このような情報量の非拡大が動機になっている。要するに、オタクの世界とは、名詞だけは増えていくが内容の変化も進歩もない超保守的な空間だということだ。そうなると、東がオタクの世界をデータベースだと主張することは、実質の内容つまり資産はほとんど増えていないのに、帳簿の上だけで量を二倍三倍にも増やすことと同じになる。これを会社経営で行ったとしたら、粉飾決算ということになろう。この点においても、東浩紀と堀江貴文のメンタリティが近いことが理解できるというものではないだろうか? われらインターネット世代とは、表面的なものに踊って実質を顧みない人々のことなのだ。

同世代の僕としては、これを世代の問題にされてしまうと非常に困る。だからというわけではないが、東や堀江の粉飾メンタリティは何も我々の世代にはじまったことではないと言っておきたい。いや、むしろ東たち東大組は世代のエリートであるがゆえに、旧世代に属している。というのは、粉飾メンタリティとは要するにバブル経済的な感覚にほかならないからだ。
表面的な数字に踊らされて、実質を顧みない。これはそのままバブル経済の敗因でもある。あの時代、実質のないところにムダな投資をしたことで、多くの不良債権が残されたことは今さら言うまでもない。しかし、日本は実質的にバブル経済の反省をしていない(それどころか過去の戦争の反省さえできていないのかもしれないのだが)。その理由は日本人が現実を直視したがらないことにあるのだが、そのような日本人の性質にアニメやインターネットがあっていたことは容易に想像できる。バブル崩壊後、日本は国家を主体として「IT革命」を推進したし、アニメ事業も今や国策として語られている。このような視点から見ると、インターネットやアニメ事業は戦後の社会主義的な計画経済のなごりに思えてならない。オタクたちは、戦後の経済成長の夢をひきずっている存在なのだ。

 

 現実と虚構の二項対立に貫かれた「セカイ系」


あまり詳しく説明していると長くなるので、ここからは少し荒っぽく整理していきたい。オタクたちはバブルの夢の中に生き続けている。ライトノベルの想像力の基盤になっているのは、『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』などに始まる70〜80年代のロボットアニメだ。最近ライトノベルの作品傾向をとらえて「セカイ系」などと語られることが多いが、その「セカイ系」が成立する基盤はまちがいなくロボットアニメにある。それは「セカイ系」の典型である新海誠のアニメ『ほしのこえ』を見るまでもなく明らかだ。
「セカイ系」とは要するに主人公とヒロインの関係が直接に人類の存亡にかかわってくるという舞台設定を持つ作品のことだ。まあ、つまるところ、自分たちを中心に世界が回る話にしかリアリティを感じられないということでもあるのだろう。「セカイ系」はまさに「世界の中心で愛を叫ぶ」ために書かれているのだが、ロボットアニメがその起源だというのは、主人公が人類の危機を救うために戦っていることからくる。ロボットアニメでは主人公がロボットに乗ることを拒否したら、人類が滅亡してしまうことだってあるのだ(『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』には実際にそんな葛藤が描かれた場面がある)。ロボットアニメの主人公にとって、ロボットに乗ることが人類や社会とつながる社会性の基盤になっているのだ。
このような社会性とは端的に軍隊(動員)の論理と言える。「おまえが戦わなければみんなが死ぬ」という論理は、軍隊以外ではありえないからだ。一般社会では自分が働かなくたって、原則として自分が死ぬだけでしかない(家族のために、という考えは動員論理の応用だと言っておく)。
「セカイ系」が中心のライトノベルの物語の背景には動員の論理がある。そこでは、世界を救うか恋をとるか、という二項対立が語られるのだが、それはモラトリアム気分に浸っているオタクたちの建前でしかない。この建前は彼らの本音にしたがってこう読み替えられるべきだろう。現実社会に出るか虚構や妄想に逃げ込むか、だ。オタクたちにとって、世界のために動員されることは社会参加に等しく、リアリティのないキャラクターとの恋愛は虚構や妄想への逃走に等しい。これが「セカイ系」という「小さな物語」の構造なのだ。当然この構造の根底を見つめると、現実か虚構(まんが・アニメ)かという二項対立が浮かび上がることになる。
さて、ここまで書けば東の持ち出した自然主義的リアリズムまんが・アニメ的リアリズムの二項対立の元ネタがわかるというものだ。東の言う二つのリアリズムとは、「セカイ系」ライトノベルの物語にある二項対立を強引に小説描写の方法に当てはめただけのことなのだ。これでは論理破綻が目立つのも仕方がない。東の「理論」とは結論ありきの粉飾理論なのだから。
東の『ゲーム的リアリズムの誕生』は現在の「日本文学」を二つのリアリズムで読み解いているわけだが、それこそが「セカイ系」という「小さな物語」から生まれた意味づけでしかないというのが僕の結論だ。だからオタクのデータベースと言われるものが、実際にデータベースの特徴を持ち合わせていないのも当然で、オタクは「データベース消費」をしているのではなくて、「小さな物語」の意味づけにそって消費をしているというのが本当のところなのだ。「小さな物語」の消費メッセージとはこうだ。「現実より虚構をベースにしているものを買え!」
そして、その「小さな物語」の元になっているのは、すでに滅びてしまった80年代のバブルを頂点とした戦後経済成長という物語なのだ。現実か虚構かという対立は、仕事か家庭(恋愛)か、もしくは、仕事か余暇か、というサラリーマンのアンビバレンツな感情をより極端にしたものだ。ただ、経済成長物語では仕事(現実)が優先するところを、オタクは逆に余暇(虚構)の方を優先させる。オタクたちの「小さな物語」とは、戦後経済成長という「物語」の裏返しにほかならない。この「小さな物語」にはアメリカに対するアンビバレンツな感情も含まれている(主人公がロボットで身体を巨大化しなければならないのは、彼らの武力が大国アメリカとの合一によってしか威力を持たないからだ)。日本は冷戦下において、アメリカに支配されつつ積極的に依存していた。そのおかげで軍ではなくもっぱら経済に動員され、経済成長という「物語」を生きられたのだ。(つまり、市場原理とは「物語」としても機能する。小泉・安倍政権が語る大企業の収益アップが日本全体の経済を好転させるという「物語」がまさにいい例だ)

 

 動員の現実と戦えないマザコン保守


動員の論理に反対するということは重要なことで、それには僕も共感するのだが、オタクは動員に抵抗するわけではなく、ただそこから無責任に逃れようとする。現実逃避という子供じみたやり方なのだ。そのあたりがまったくポジティブに評価できないところだ。だから経済成長的な「拡大物語」に対抗するのにも、その裏返しでしかない引きこもり的な「縮小物語」を持ち出すことになる。その意味では日本のポストモダンとは、「大きな物語」から「小さな物語」へと転換しているといえるだろう。しかし、そのアンチ経済成長的な「小さな物語」が「売り上げ」至上主義という経済原理によって語られることに、東やオタクたちのアンビバレンツな感情を見ないわけにはいかない。結局、彼らは現実と戦えない保守的な人間であって、現実的には何も変えられないのだ。だから気分だけ(もしくは名詞だけ)を変えることになってしまう。
東の大塚に対する態度にもそんなアンビバレンツな感情が見てとれる。東は大塚に大きく依存しながら、その権威をなんとか解体して自己のナルシシズムを満たそうとしている。これはまさに日本のナショナリズム(とも呼べないナルシシズム)の定番的図式というものだ。実質は大国の支配下にありながら、気分だけは自分が一番であるかのようにふるまうのが、日本のナショナリズム=ナルシシズムだ。要するに、親の庇護下にありながら、家で一番偉そうな顔をする引きこもりみたいなものと考えればいい。

こう見ていくとハッキリするのだが、東に代表されるマザコン系オタクの心情は、最近急速に増えている右傾化オヤジたち(安倍晋三?)の心情とほとんど同じものだ。インターネットが右傾化しているかいないかという議論をよく見かけるが、ナショナリズムという観点ではなく、ナルシシズムという観点から見ればそのことは理解しやすくなるはずだ。インターネットは巨大ナルシシズム空間だからだ。誰もが自分のブログや書き込みを注目してほしがり、注目されたいがために不必要な二次発信を大量に行っている。筑紫哲也にネットの掲示板がトイレの落書きレベルだと言われて、多くのネットユーザーは怒ったようだが、そう言われても仕方がない面は実際にある。それはナルシシズムを満たすことばかりを目的にネット参加している人が多いからなのだ。
ここで日本のインターネット論をやる余裕はないが、東と右傾化オヤジが似ていることをもうひとつ指摘しておく。東がどうしてライトノベルの敵として「文学」を選んでいるのかということだ。文芸誌の売り上げなどずいぶん前から赤字だし、芥川賞といってもたいして権威はなくなっている。それなのに、どうして東は死に瀕している文学を巨大な敵のように扱うのだろうか?
僕はこれこそが右傾化オヤジ的発想だと思ってしまうのだ。ライトノベルと純文学の戦いが現在の「日本文学」を二分する戦いだとする東の「物語」は、日本と北朝鮮の争いが世界を二分する冷戦の延長だと考えている右傾化オヤジたちの「物語」にそっくりだ。もちろん、文藝春秋の朝日新聞叩きだっていい。これが「小さな物語」でなくて、いったいなんだというのだろう?
こうなってくると、東の主張は何から何まで信用できなくなってくる。東はオタクたちが「大きな物語」から解放され、「データベース消費」を生きるポストモダン的な「動物化」をはたしていると主張した。しかし、実際は外の世界こそがデータベース化していて、そこになじめないオタクは精神分析的な「物語」やアンチ戦後経済成長的な「小さな物語」を生きているのだ。それならオタクは「動物化」に抵抗する存在として把握されるべきもののはずだ。その意味で、オタクの理解としては大塚のように「人間化」に向かうスタンスと考える方が正しいように思う。オタクはポストモダンの時代に動物化できない存在なのだ。いくら右傾化オヤジが増えているからといって、大塚以外に東に反論する人が出てこないようでは、日本の行く末が思いやられるというものだ。

『ゲーム的リアリズムの誕生』に関しての僕の疑問はだいたい書けたと思う。本当はオタクの「小さな物語」を戦後のアメリカと日本の関係から読み解きたかったのだが、それは別の機会に譲ろうと思う。ただ、ここまで書いてきて、どうしても僕には腑に落ちないことがある。だいたい、現実か虚構かという二項対立でものごとをぶった切るというやり方自体が、旧時代の「大きな物語」(資本主義か共産主義か)の方法なのだ。イデオロギー批判には必ず二項対立の批判がついて回る。これは思想的常識だ。そのためポストモダニズムは二項対立からの脱却として語られていた。なのに、どうしてデリダ論を書いた東浩紀が二項対立を好んで用いるのだろうか?

 

 『存在論的、郵便的』を書いたのはゴーストライター?


  ここで僕は大きな疑惑を発表せざるをえない。つまり、東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』は実際はゴーストライターが書いたのではないかという疑惑だ。だって、『存在論的、郵便的』に書いてあることから考えると、それを書いた人がインターネットを礼賛したり、市場原理オンリーの価値観を持っていたり、簡単に右傾化したりするとは思えないのだ。『存在論的、郵便的』を今一度読んでみれば、僕の疑問がもっともであることに気づいてもらえると思う。もしかしたら、あの本を実際に書いたのは浅田彰なのではないか? なにしろ、名前だけのすげ替えはオタクの専売特許だ。
一応哲学の話なのでややこしい議論になるが、そのあたりもざっと確認しておこう。『存在論的、郵便的』はハイデガーの存在論をベースに、デリダの謎めいた著作「葉書」の読解を通して、人間存在が「郵便的」であることを解読した本だ。ラストはデリダから得た「郵便的」存在モデルをフロイトの理論で意味づけている。
デリダという哲学者は基本的にはハイデガーの批判者と言っていい。ハイデガーは「存在と時間」という20世紀を代表する著作を記したドイツの哲学者なのだが、ナチスに協力したことで評判が悪い。しかし彼の思想のすべてを否定することは不可能だった。そこで次世代の哲学者は、ハイデガーの思想からファシズムの要素だけを批判し、そうでないところだけを受け継ぐというやり方をとらざるをえなくなった。その作業で大きな成功を収めたのがジャック・デリダなのだ。
だから『存在論的、郵便的』がまずハイデガー存在論の読解からはじめて、そのあとデリダの「葉書」の読解に移るのはしごくまっとうな手順と言える。デリダの主な仕事はハイデガー批判なので、当のハイデガーがわかっていなければあまり意味がない。日本のアカデミズムはフランス現代思想(ポストモダニズム)をやたら取り上げるわりに、そのベースになっているハイデガー思想をまるで勉強していない人たちが多い。だから教条的に「差異」だの「複数性」だのというだけで、ただ消費経済の価値観を広めるだけに終わっているのだ。

 

 デリダによるハイデガー的な現前性批判


『存在論的、郵便的』はハイデガーの「現存在」(人間のこと)を、デリダによって「郵便的」存在つまりメディアとして読み替えることを目的としている。少し専門的な言い方をすれば、ハイデガーの存在論は存在の地平を現在という時間に集約するため、「現前性」から逃れられない。デリダはハイデガーの「現前性」を、音声コミュニケーションによるものと見なし、それを文章コミュニケーション(エクリチュール)によって解体しようとした。現在という一つの時制に位置づけられるハイデガーの単数的超越性を、デリダは異なる複数の時制の複数性によって擾乱する。『存在論的、郵便的』ではそれを複数的超越性ととらえている。
こう書いただけでも門外漢の読者はすでにチンプンカンプンなのではないだろうか。困ったことに、これは哲学の話なので、なかなか簡単にはなりそうにない。とりあえず、わからない人はデリダという哲学者がハイデガーという哲学者を批判していることを理解してほしい。そして東(別の人?)もデリダにならってハイデガー存在論の「現前性」を批判している。
この「現前性」の批判というのがまた難しい。デリダが「現前性」を音声コミュニケーションと考えたことは前に述べたが、要するに「現前性」とはリアルタイム、つまりは同時性のことだと乱暴に整理してしまおう。音声による対面コミュニケーションにおいては、原則として、話す人の言葉を話し手と聞き手が同時に耳にしている。現在という時間で同時にコミュニケーションが行われるのが、音声コミュニケーションのスタイルなのだ。

 

 時間のズレ(差延)を重視するデリダ


デリダは「葉書」という著作の第一部「送付」で、「君」(恋人もしくは妻と思われる)に電話をかける。それは音声コミュニケーションを電話に代表させるためだ。その一方でデリダは同じ「君」に手紙や自分の著作を郵送する。そのため、先に書いた手紙より電話の話が先行してしまったりする。「送付」が提出している問題はこのような時間順序のズレなのだ。
東(別人?)は電話と手紙という異なるメディアによって生じた、デリダの話の順序のズレに注目する。デリダが思考した順番と、受け手が電話と手紙によってその情報を受け取った順番は異なっている。また、電話は国際電話なので話し手と受け手の属する時間にもズレが生じている。このような複数の時間が「現前性」を解体することを東(?)は「存在論的、郵便的」でこう説明している。

 

デリダの思考順序と「君」の理解順序、つまり複数の異なった時間的秩序が生じるのは、そこでは単に、電話と手紙のあいだに速度の差があるからである。速度が異なるメディアを複数、同時に用いることは、現前的な対面コミュニケーションが抑圧した時間的錯綜を暴露してしまう。さらに一般化すればつぎのようになる。目の前にある情報の集合、例えばいま電話から響く相手の声と今日届いた相手からの手紙とは、実際にはそれぞれ異なった速度の来歴を持っている。ひとつの声‐意識(フォネー)がひとつの世界を一気に把握するためには、その全体を「今ここ」に中心化されたもの(現前性)として、それら速度の差異を抑圧せねばならない。つまり現前化とは来歴の抹消なのだ。そしてその抹消が十分に行われないときにこそ、情報の来歴相互のあいだでの速度の差異が、時間的順序の複数化とその衝突を引き起こす(デリダと「君」、ヘーゲルと読者)。その結果「幽霊」が生まれ、メディア環境はそれをさらに顕在化する。

 

まあ、難しく書いてはいるが、電話や手紙による時間のズレは使うメディアに「速度のズレ」があることで生じる、ということだ。しかし、「ひとつの世界」の同時性にこだわる「現前性」はそのような「速度のズレ」を抑圧する。だから現前化とは、「速度のズレ」を記録している来歴を抹消することで成立するというのだ。
ここに書かれた主張に僕は異論がない。この部分だけなら、ほとんどその通りだと思う。教条的ポストモダニストはただ単にズレ(差異)を強調するばかりだが、デリダが本当にこだわっているのは「時間のズレ(差延)」なのだ。そのことをきっちり指摘している『存在論的、郵便的』という著作が注目され評価されたのは当然と言えるだろう。

 

 デリダの言説とインターネット支持は両立しない


しかし、僕がつまずくのは、このような「速度のズレ」を重要視する態度とインターネットや市場を礼賛する態度は相容れないということだ。前にもデータベースの特徴で少しふれたが、データベースが情報を網羅するのは「今」という時間においてだった。つまり、データベースが想定しているのは現在というひとつの時間だけなのだ。
だいたいEメールという代物が同時性をアピールしたメディアであることは誰にだってわかることだろう。手紙は差出人が投函してから受取人が受けるまでにかなりの時差が生まれる。しかし、メールはどうだろう? その時差はほとんどなくなってしまっている。瞬時に届くことがEメールの売りなのだ。手紙ならともかく、メールと電話に速度の差などほとんど生まれるはずもない。大阪から来ようと北海道から来ようと、アメリカ、ダカール、重慶からであろうと、ネット空間に至るまでの速度の差はないに等しい。インターネット空間とはまさに「現前性」の場であって、そこに速度の差は生まれないのだ。
そうなるとインターネットや市場とはある意味ハイデガー的な場所となりはしないか。なにしろどちらもグローバルな単一的世界だ。そんな「ひとつの世界」がズレによる複数性などを考慮するはずもない。だいたい「郵便的」というなら、「電話的」であってはならないのではないか?
また、インターネット空間は来歴を抹消する場でもある。インターネットの匿名性の高さがそれを表している。匿名性はその情報がどこから来たかをわからなくする。これが来歴の抹消でなくてなんだろう?
大塚英志はメディアに姿を現そうとしない舞城王太郎(覆面作家と呼ばれた)などを視野に入れながら、サブカルチャー文化の来歴否認について批判的な思考を展開している。東はその舞城を『ゲーム的リアリズムの誕生』で肯定的に評価しているわけだから、来歴否認を問題視しているようには思えない。
以上のことから、僕は『存在論的、郵便的』の著者が『ゲーム的リアリズムの誕生』を書いたとはどうしても納得できないのだ。東浩紀の複数性といえばそうなのかもしれないが、だったらせめて著者名を二つに分けてほしいものだ。いや、やっぱり別人が書いたものと考える方が納得ができる(一時は浅田彰かとも思ったが、よく考えたら浅田の『逃走論』もスキゾとパラノの二項対立を語った本だった)。悩んだ末に、僕は『存在論的、郵便的』がゴーストライターによって書かれたという結論を出すことにした。デリダ論が「幽霊」によって書かれたとしたら、それはそれで悪くないような気もしてくる。

 

 動物化ではなくオヤジ化した若者

 

ずいぶんと長くなったが、『ゲーム的リアリズムの誕生』と東浩紀についてはこれで終わりにしたい。おそらくインターネットに深く依存している東のメンタリティはこの先も進歩することはないだろうし、それなら僕もこれ以上何を言う必要もないはずだ。とにかく僕は東や堀江が世代の代表だと見なされなければいいのだ。彼らは見た目と同じように実年齢以上のバブル「オヤジ」であって、僕たち貧乏な若者とは価値観がかなり異なっている。年寄りは自分たちと近い「オヤジ」の言うことの方が理解しやすいのだろうが、彼らは東大卒というごく一部の保守勢力でしかないことを忘れてほしくないものだ。
しかし、若者たちもいつまでも「オヤジ」の価値観を反映したライトノベルなど読んでいないで、早く現実に目覚めてほしいものだ。オタクは親の金を搾り取るための媒介(メディア)としてのみ社会に許容されている。その意味ではメディア的存在と言えなくもないが、親に金がなくなったとたん、オタクは社会のゴミと見なされるだろう。そのとき媒介でしかない彼らは、独り立ちできずに、親の代わりの何かにしがみつくしかなくなる。その「新しい親」は彼らに無理難題を押しつけるかもしれない。そうなったとしても、オタクに抵抗する力などあるわけもない。そのときこそ、彼らが本当に「動物化」(家畜化?)するときではないだろうか。

 

 

 

「MOバブル」 佐野波布一2003年の評論

  • 2018.02.25 Sunday
  • 19:35

  MOバブル  

  佐野波布一2003年の評論
 

 

 

 純文学の不人気

 

いわゆる純文学というものが不人気になってずいぶんになる。サノバとしては、以前から「純文学」という言い方には抵抗があって、普段からあまり使わないようにしている。なにしろ、「純文学」というからには「純粋」な「文学」なわけで、ということは「純粋でない文学」というものが前提されていることになるからだ。おいおい、文学に純粋であるかないかなんてあるのかい? どこで判断すんの?
第一、日本では「文学」が理解されているのか疑問だ。文学さえあやふやなのに、それに「純」とはどういうことだ? 誰かにこの言葉の成立を研究していただきたいものだが、そのような暇つぶしは暇な学者に任せるとして、サノバは早々に結論を出すとしよう。「大衆文学(文芸)」に対する「純文学」なんでしょうな、きっと。
日本には市民革命など起きたためしはなく、支配階級のトップダウンの改革しか存在しなかった。近代文学の巨人の漱石、鷗外だって武士階級の出身だ。つまり日本には支配階級と支配される階級の間にくっきりとした溝があると思いがちである。疑似封建的感覚を強く残した人々なのね。そのためいつまでたっても市民の政治参加という近代の基本が身につかないし、支配階級も下克上を嫌うからそんな教育もしないわけだ。
さて、そんな日本だから「純文学」と「大衆文学」をくっきり分ける。メインとサブをくっきり分ける。この構造を押さえておかないと、この先のサノバの話はわかりませんよ。
バブル崩壊ののち、日本のメインストリームは急速に衰退した。このあたり、ものすごく大きな話なんだけど、一行で書いちゃった。つまりはそれまで日本の主たる文化や機能と思われていたものがどんどん不人気になっていったのである。例えば、プロ野球(巨人)や相撲の人気は急落したでしょ。政党離れも進んで、無党派候補者が流行る。「自民党を壊す」なんてメインの破壊を売りにした首相が80%の支持を得る。戦後日本のメインを支えたアメリカに対する反発が強まる。松田聖子型の正統アイドルが滅び、(松山千春曰く)風俗アイドルのモーニング娘。が人気になる。新聞よりネットが偉いような言説が流行る。北海道や沖縄、因島などの僻地のミュージシャンが台頭する。
そんな中、「純文学」も支配系のメインカルチャーだから、サブカルに押されるのが流れなわけ(まあ、すでに村上春樹や村上龍はサブカル文学なのかもしれないけど)。そこで「純文学」は滅びればいいのに、他ジャンルの三流人の人気にすがろうとしていった。ミュージシャンの辻仁成や町田康や中原昌也、演劇の柳美里、映画監督の青山真治などに次々に文学賞をばらまいたのがそれ(柳美里だけは舞台を見ていないので、二流くらいかもしれない。あとは三流でOK)。日本のODA外交みたいに節操がない。
しかし実は「純文学」の敵は他ジャンルではなく「大衆文芸」にあった。サブカルの隆盛が衰退の原因なのだから、そりゃそーなのだ。

 

 アキハバラ系の文芸

 

その敵となる「大衆文芸」は直木賞なんかではもちろんない。今や文芸系サブカルはマンガ・アニメ・TVゲーム類に決まってる。いわゆるアキハバラ組(秋葉原に親しんでいる電脳系オタク)の人々の御用達だ。
それらサブカルの要素を丸出しにした推理小説(?)ジャンルが、講談社のメフィストという雑誌から現れてきている。業界では講談社ノベルス系なんて言われてるらしいが。その代表が清涼院流水や舞城王太郎や西尾維新や佐藤友哉たちである。彼らのことはアキハバラ組のカリスマ東浩紀がよくお取り上げになっているが、東はあまりに彼らに近い生を生きすぎていて、彼らへの評価はすなわち自己評価となってしまい、自己弁護のために彼らを高く評価してしまうのだ。
まあ、彼らはアキハバラ組の中でも社会派と言えるんだろう。本質は同じなんだけどね。オタクの中にも差異はある。そのくらいはサノバだって尊重するよ。

さて、やっとこさ舞城王太郎にふれられそうだ。このアキハバラ系サブカル推理小説の作家である舞城王太郎が、最近純文学の生き残りを図る編集者に担ぎ出されているのだ。つまり、辻仁成や町田康の次は舞城というわけだ。狭い純文学の世界、一部の編集者の企てで簡単に世界が動く。舞城は純文学系の作品二作目にして三島由紀夫賞を受賞してしまった。選考委員の一人、宮本輝は激怒したみたいだけど。編集者にたかる男福田和也や世渡り詐欺師島田雅彦が選考委員なのだから仕方がない。
朝日新聞の書評で、高橋源一郎が舞城の『九十九(ツクモ)十九(ジュウク)』を「決定的に新しい」と評し、三島賞では福田和也が舞城の『阿修羅ガール』をやはり「新しい」と評していた。しかしどちらもどこがどういうふうに「新しい」のかについてはまるっきり語らないのである(高橋は「あえてここには書かない」らしいのだが)。こんな明らかに下手な宣伝文句に乗せられて、サノバはちょっと舞城を読んでみた。

 

 二次創作『九十九十九』の交換可能な時間

 

まずは『九十九十九』。これはまさに講談社ノベルスで出ている。一応推理小説の方の作品だ。なるほど、この小説を書評するのは厄介だ。表題のツクモジュウクはこの作品の主人公の名前なのだが、もともと九十九十九というのは清涼院流水の小説の中の登場人物らしいのだ。へぇ〜、と思って清涼院流水の小説を開いてみると、確かに九十九十九という登場人物がいる。なんでこんなことになっているのかというと、実は清涼院流水さえも『九十九十九』の登場人物になっているのだ。作中で主人公の九十九十九は自分が清涼院流水によって書かれた(生み出された)人物であることを知る、というのがネタなのである。
なるほど、高橋があえて書かないのも仕方がない。書評でネタバレは反則である。まあ、でもこれが最終的なオチではないので、サノバとしては別に書いてもいいような気もする。それにこんなネタはアキハバラ組には新しくもないんじゃないか? ギャルゲーなんかではよくある構造のような気がするんだが。
作品の説明をいちいちしていることもできないので、サノバの本質直観によって作品の核になる要素を取り出してしまおう。

『九十九十九』は七話構成であるが、一話一話が並列した妄想世界として設定されている。第一話の九十九十九と第二話の九十九十九はそれぞれ独立しうる(パラレルワールドとして成立する)。実際、物語中で第五話を生きた九十九十九が第四話にタイムスリップして殺されたりする。そしてオチとしては、タイムスリップによって存在のかぶった第二、第三の九十九十九がオリジナルの九十九十九を殺すのである。そのようなケッタイな話のため、『九十九十九』は第一話→第二話→第三話→第五話→第四話→第七話→第六話と進行する構成になっている。
通常、第一話→第二話→第三話→第四話……、というように物語は順序通り連続して進んでいく。これは時の流れが線条性として把握されている限り、何も驚くことのないものである。しかし、マンガやアニメなどでは、第三話で死んだ人物や壊れた建物が、第四話で生き返ったり、すっかり復元していたりすることによく出くわす。ある時期の少年ジャンプのマンガでは、死んだキャラクターがバンバン生き返ってきた。このようなことが起こる時、第三話と第四話が連続した時間にあると読者は把握できないだろう。物語上は連続した時間と思ってあげてはいても、なんやかんや言っても第三話は第三話、第四話は第四話として始められることを知ってしまう。極端なことを言えば、『サザエさん』など何話が何話と入れ替わろうと全く問題がないわけである。日常を描くマンガやアニメほど、このような入れ替えが起こりやすいことは注目に値する。その意味では、日常とは物語が欠落し、そのために時間の線条性が失われる場所なのである。
これをもう少し詳しく説明すると、マンガやアニメの身体とは記号表現である、という問題にぶつかる。記号化された身体は、トラックに轢かれてもぺしゃんこな平面になって、空気を入れれば元に戻る、なんて表現が成立するのである。記号化された身体は、実体としては、傷つかないし、死なないし、成長しない。『サザエさん』や『ルパン三世』は話を重ねても成長することはない。ルパンに至っては声を当てていた人間(山田康夫)を置き去りにして、今も若さを維持し続けている。つまり、記号的身体は、時間進行の停滞した「永遠の日常」を生きているのである。その意味で記号的身体が存在する世界は、全て無時間という同時刻であり、その時間(世界)は交換可能となるのである。
『九十九十九』の作品世界においても時間は交換可能である。それはタイムスリップという古典的な手法で表されている。各話は時間的に並列しているために、行き来が可能である。その意味では、タイムスリップというのはただの設定であり、実質はすぐ隣の世界への侵入(越境)と考えるべきである(各話の間にある時間的ズレは、時間的ズレを含んだ設定の違いでしかなく、実際には時間は並列されている)。オリジナルの九十九十九は時間の線条性を生きている。つまり物語を生きていると言い換えることができる。その彼が殺されてしまうこの作品は、明らかにその荒唐無稽な作品世界とは裏腹に、物語(オリジナル)を廃棄して日常(シミュラークル)に帰着することへの強い執着に支えられているかが浮き彫りになるはずである。もちろん、ここで言う日常(シミュラークル)とは「永遠の日常」のことで、後に確認することとなるが、舞城の成長嫌悪という感情が求めた居場所に過ぎない。

 

 軽いタッチのスプラッター


『九十九十九』だけでなく『阿修羅ガール』でもそうなのだが、舞城は二流スプラッター映画のような人間解剖やバラバラ殺人を好んで描く。それも軽いタッチで(軽いタッチでしか書けないという作者の能力限界もあるのだが)。この背景には、やはり強い日常への帰属感があると思われる。作者である舞城が安全な日常にどっぷり浸かっているので、非日常的な残虐な描写を軽々とすることが可能なのである。これは想像力の欠如にもつながっている。体感をするがごとく残虐さを前にするならば、それを書き表すことの難しさに捕らわれる。しかしそのような葛藤は舞城にはない。どっぷり日常に浸かっている彼は、非日常を体感する可能性をゼロと考えるからである。これが他者(自分の理解の外にあるもの)に対する想像力の欠如と結びつくのは必然である。舞城はものごとの外観しか目にしていない。メディアを通して伝わってくるものごと(外観)以上のものは存在しないと考えるスペクタクルの住人、アキハバラ組の御曹司なのである。
さて、少々はしょってしまうが、私がMOバブルと言うのは、舞城が文芸誌編集者からポスト村上春樹を期待されていると思うからである。ある部分では、舞城は三島から村上春樹への流れを引き継いでいる。それが春樹の次の時代は舞城だ、というITならぬMOバブルを引き起こしているのである。
ここであげたスプラッター要素は、古くは三島由紀夫の『憂国』あたりを読んでいただければ見て取れるはずである。谷崎にも微妙に要素はあるが、三島は確信犯である。ただし、三島の描写は舞城のお粗末な描写とは雲泥の差がある。三島のスプラッターは切腹へのこだわりでわかるように、日本という母なる共同体へのエロチックな接近を実現する手段である。切腹とはエロスである。ここまでなら、なんとか文学的なものとして把握できる。
村上春樹にそんなスプラッターはあったっけ? と思う人もいるかもしれないが、春樹作品になじみのない私でも出くわしたことがある。『ねじまき鳥クロニクル』の中でロシア兵に皮剥の拷問を受ける日本兵の描写がそれだ。ここの描写も舞城とは比べるのがかわいそうになるほどの差がある。春樹も三島と同じく読者に痛みを感じさせようと言う意図を持って描写をしている。ただし、春樹の動機は三島とは違うものであると思われる。それはエロスではなく恐怖であろう。共同体が行うスプラッターに対する恐怖が、仲間の皮剥を目撃した兵士を井戸の中に引きこもらせるのである。
死において母なる共同体への接近を夢想した三島。死から逃亡して引きこもって新たな共同体を夢想した春樹。では舞城は?
春樹の後継者たる舞城は、すでに充分に「引きこもり」の資質を持っている。今さら恐怖を持って春樹のように逃亡する必要はない。逆に、井戸の奥で自己の安全を確保しているので、おもしろ半分でスプラッターを扱えるのである。これは完全に子供じみた行為である。子供が無邪気に虫の頭をもいでみせるのと同じように、舞城は登場人物の手足をもいでみせる。そう、彼は子供なのである。舞城は母の子宮という井戸の中にいる。

 

 父が不在で母とベッタリの自分が神の幼児的世界


『阿修羅ガール』には「グルグル魔人」と名乗るバラバラ殺人者が出てくる。彼は三つ子の子供を殺してアシュラマン(マンガ『キン肉マン』に出てくるキャラ)を作ろうとする。これがプラモデル感覚なのは読めばすぐにわかる。この「グルグル魔人」こと大崎英雄は母親を召使いのように使っている、母親ベッタリ中学生である。『阿修羅ガール』の主人公の愛子は暴行を受けて意識不明の中で、英雄の意識に接合してしまう。しかし、愛子がどうこうと言うより、舞城本人が英雄と接合する性質を持った人間であることは作品が語ってしまっている。

『九十九十九』も『阿修羅ガール』も父は不在である(『阿修羅ガール』では愛子の夢の中で父が芸能人のグッチ裕三と置き換わっている)。そんな小説は珍しくないだろうが、父どころか大人がほとんど不在である。私の読んだ村上春樹の小説も大人と言えるような内面を持つ人物は出てこない。舞城はサリンジャーの影響を受けているとネット経由で耳にしたが、春樹と言えばサリンジャーを先頃翻訳した。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、主人公のホールデンが大人社会のインチキに窒息寸前になる話である。ホールデンは「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいと言う。それはつまり、子供が危険なところに落ち込まないように、手助けをしてあげる役割なのだが、重要なのは、子供の無邪気さを傷つけないようにすることへのこだわりである。子供が危険なところへ近づくと、大人はそれを注意する。注意された子供は挫折感を味わう。これが大人への道である。しかしホールデンは子供に挫折を味わわせることなく、危険回避をさせたいのである。たぶん、子供が危険なところへ近づいたら、もっと魅力的な物を提示したりしてそれと気づかぬうちに安全な方に引き戻すのであろう。身近な話で恐縮だが、私の弟は自分の娘が危険な物を握った時に、それを力ずくで奪って注意するのではなく、別の物をより魅力的に見せてそれを代わりに握らせていた。これなら子供は挫折感を感じない。
ホールデンのように無邪気さを守ろうとする態度は、たいてい無垢を美として考える思想として好意的に把握されがちである。しかし私は遠慮無く言わせてもらうが、それは子供の全能感を不必要に維持させる結果になるだけである。「無垢擁護」は行きすぎると、「誰でも全能=誰でも神」に行き着くのである。
この結論こそが、舞城を語るのに必要なのである。九十九十九は生みの親である清涼院流水が不在であることから、自分が神であると結論する。またグルグル魔人の大崎英雄は自分が神だと主張している。

 

 オンリーワンは不戦勝のナンバーワン


九十九十九は「人間の知識には限界がある」とか「僕にはわからない」とか言うので、まるで自己の全能性を否定しているかのように見えるかもしれないが、そんな小手先の技に引っかかってはいけない。これこそが自己の全能感を裏付ける仕掛けなのである。推理作家はこんなトリックが大得意だが、私には通用しない。SMAPの「世界で一つだけの花」という曲が「ナンバーワンよりオンリーワン」という趣旨の歌詞で、個性賛美をするかのように受け取られてヒットしたが、この曲が二〇〇三年のナンバーワンヒット曲であることを無視してはいけない。こいつらはなんやかんやいってナンバーワンなのである。これは偶然でも皮肉でもない。オンリーワンとは、不戦勝によるナンバーワンなのである。自分の限界を設定することは、防御の上では好都合である。自分の身が危ないところにおいては、「僕の限界を超えています」と言えば、人から責められて傷つくことはない。つまり全能感を維持し続けられるのである。ナンバーワンを目指して人と競争することを避け、自分は自分とオンリーワンに自足すれば、挫折を避けて全能でいられる。オンリーワンは自分だけの世界の神として自分をナンバーワンに君臨させるトリックなのである。当然このオンリーワン世界には父も母も存在していない。
父の排除が、母との同一感を生み(母と完全に同一することは、母=自分となり母は自分の視界に入らない。つまり、存在していないように見える)、不必要な全能感と安全性を与える根拠となり、子供を自分だけの世界の神と思い込ませる。舞城の描く世界はそんな世界である。ハッキリさせておきたいのだが、舞城はこの世界を批評的に客体化して書いているのではない。単に彼がこの世界を生きているだけである。純文学に転身するために、口先ではいろいろなごまかしを行うだろうが、挫折を避け全能感に浸りたい彼はしょせん自己批判などできるわけがない(東浩紀と同じく)。過大評価は禁物である。

さて、これが「新しい」のだろうか? 高橋さん福田さんよく聞いてくださいね。これってただ日本の現状なんじゃないんですかね? SMAPの歌聴けばわかるでしょ。
『九十九十九』が物語的時間とオリジナルを殺すあたりなんて、そのまま東浩紀の言説を使用できる。東が「大きな物語が崩壊して、データベース的自己が成立する」と言うのと全く同じでしょ。なにしろ『九十九十九』の中で東浩紀の著書『動物化するポストモダン』が紹介されているんだから(もちろん東も舞城を高評価している。このあたりの内輪褒めはいやーねー)。
だいたい並列時間を扱ったわかりやすい作品では、エリクソンあたりが有名だ。福永武彦の『死の島』だってそう把握できる部分があるし。時間の線条性を崩すなんてプルーストからそうなわけだし。複数自己とオンリーワン妄想世界に関しては横光利一が扱っている。
だいたい最近だって村上春樹の『海辺のカフカ』がすでに舞城的世界を持つ作品になっているのである。ここではダメ押しとして『海辺のカフカ』と舞城作品の共通要素を見ていく。

 

 近代的「中心」を手放さない『海辺のカフカ』

 

『海辺のカフカ』は二つの物語が一章ごとに交互に展開していく、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ構成の作品である。一つは世界一タフな十五歳を目指す田村カフカの話で、もう一つは猫と話すことができるナカタさんという爺さんの話である。このような作品構成は古くはフォークナーの『野生の棕櫚(しゅろ)』などに見られるわけで、春樹得意のアメリカ文学ではなじみの物だが、もともとの出所はグリフィスの映画『イントレランス』の手法ではないかと私は思っている。フォークナーはハリウッドでも仕事をしている。『イントレランス』は異なる四つの時代の物語を同時並行的に進行させる。この手法は『海辺のカフカ』にそっくりだ。しかし『イントレランス』の同時並行はモンタージュの手法として使われていたわけで、異なる時代の話が並行するのはそれぞれの話が(観客の)イメージの上で結び合わされるからにほかならない。『野生の棕櫚』の構成もやはりモンタージュが背景にあるが、『海辺のカフカ』に関しては全くそうではない。田村カフカとナカタさんの物語は、ほとんど同時刻で進められている。グリフィスの世界の同時並行性はイメージ(意味)において結びつけられるゆえに時空を超えるのだが、春樹の世界の同時並行性は、物語時間の同時性に支えられているので、空間を超えても時間は超えられない(実は田村カフカが少女時代の実の母親とイメージ上で邂逅を果たすシーンがあるのだが、ここでは時間は超えても空間は超えられない)。
時間の同時性を保持して空間を超えるというのは、近代的な感覚である。簡単に示してしまえば、新聞やニュースというものがそうであるからだ。ニュースは「今日」という同時間に、各地の空間で何が起こったかを示す。つまり空間の異なる出来事が、時間的同時性に結びつけられているのである。その時間的同時性(結びつける側)を司る権力が「中心」である。その「中心」が国家の中枢となることで近代国家が整備されていった。

 

 並行世界を結びつける時間的同時性


『海辺のカフカ』はこのような近代的「中心」に回収される下地を手放さない。これは作品の核にもつながってくる。二つの話が時間的同時性を保持しているのは、並行した二つの作品世界が直接的に接合しなければならないからである。『イントレランス』ではイメージ上で接合された並行世界が、『海辺のカフカ』では物語上で接合されている。物語上でナカタさんは「入口の石」を探す(これが春樹お得意のRPG的探求パターンを構成する)のだが、この石がどこへの入口になるかと言えば、隣の世界の持ち主田村カフカの内面への入口だったりする。このように、『海辺のカフカ』の並行世界は作品上でその接合自体が描かれている。そして、その接合の基盤として時間的同時性(リアルタイム)が必要とされるのである。
ちなみに「入口の石」は神社のご神体であった。要するに鏡である。鏡を媒介にして自己と他者の内面をつなぐというシステムは、戦中戦後天皇制の基本構造である。他者(=天皇)を外観的にのみ把握することで、空白となった他者の内面に、自己の内面を投影(注入)することで、他者を自己と同一化してしまうコミュニケーションなきコミュニケーション・システム。外観均質化ファシズム(みんなで髪の毛を染めてしまうような外観的ブーム心理の背景にあるシステムだ)。これについて詳細な説明をすると最低でも漱石・横光・川端を読解していかないといけないのでここでは省く。信用できない方は御自分で勉強してください。
さて、話が舞城からそれてしまって、どこが共通性だ、ということになってしまっているが、舞城の『九十九十九』の並列世界は『海辺のカフカ』のように同時性を基盤にしていない。なぜなら両者の作品は結論が全く逆なのである。だからたいていの論者は両者を似たものとして捉えることはないであろう。しかし、結論に至るまでの材料は全く共通しているのである。結論なんて作者がカッコつけたくて書いたものがほとんどで、そんなものはたいてい口先だけである。実践が伴わない作家の主張など、まともに取り合ってはいけない。作品上で実践している主張のみを評価すべきである。

 

 固有名を「中心」に置く『九十九十九』


『九十九十九』の並行世界も物語上で接合している。この点で舞城はグリフィスやフォークナーではなく明らかに春樹寄りである。「入口の石」ならぬタイムスリップ(これが隕石によって引き起こされているのは笑える偶然だ)によって九十九十九は他の九十九十九の世界に侵入(接合)するのである。春樹が時間的同時性を接合の基盤としていたのに対し、舞城は何を基盤とするのだろうか。それはもちろん九十九十九という「名前」だろう。オリジナルの九十九十九という線条性の時間が存在していることからもそれは明らかだ。ここでいうオリジナルとは「名前」が本来帰属するべき本体のことである。固有名というものは、(発する者の立場からすれば)世界においてそれを指し示すものが一つの個体と決定されることが前提となって成立している。九十九十九という名前が指すべき人物は、世界で一人である。その一人の人物こそがオリジナルなのである。その意味では、固有名は一つの個体に縛りつけられていると言ってもいい。
舞城が企てるのは固有名の解放である。固有名を縛りつける本体=オリジナルを殺害することで、固有名は帰属すべき本体のない幽霊(これを思想用語では「シニフィエなきシニフィアン」と言ったりする)となる。九十九十九はオリジナルから自由になって、複数存在することが可能になる。
思想に詳しい方ならもうおわかりだろうが、この舞城の企てのベースにはデリダ思想(私はあえてポストモダンとは言わない)がある。「幽霊」(ファントム)というのはデリダの有名な概念である(ただし、デリダの概念はさっきの解釈とは異なる)。オリジナルを殺すという発想も、ハイデガーの「死の本来性」というオリジナル思想を、デリダが「アポリア(矛盾)」によって「死を死でなくする」ことで解体したことを単純に把握することで得られるものである。そしてデリダの差延という概念は、ハイデガーが「最終的な固有な名前」というオリジナルに固執したことを批判し、それを超え出るものとして考えられている。

 

 日本では価値を持たないポストモダン思想


東浩紀もデリダ論で注目されたわけだが、私はこのようなデリダ思想の日本応用には思想的価値はないと思っている。なぜなら日本のメイン(本体)はとっくに死んでいる。現在、日本とはサブにこそ存在するのである。デリダ思想がポストモダン思想と言われるゆえんは、そのサブ的内容が強固なメインを成立させたモダンを破壊(脱‐構築)するからである。ハナからメインもモダンもない日本では、デリダ思想はその本源である批判思想にはならない。ただの自己弁護として利用されるだけである。その証拠に、アキハバラ組のデリダ利用者はデリダを誤読している(そして彼らはデリダ思想が誤読を責めないことを知って、確信犯で行っているのだ)。ユダヤ人であるデリダの基盤にはユダヤ思想があるわけだが、ユダヤは非到達の神を設定してもそれを追い求め続ける。非到達だからといって、神が空位であり、それゆえに自分が神だなんて考えたりはしない。ユダヤの神は非到達の神としてしか神でない、というだけの話なのである。そのためユダヤでは偶像崇拝(=到達の先取り)は禁止される。しかしアキハバラ組は偶像崇拝の権化ばかりである(ネット信者は先取りが生き甲斐だ)。東浩紀の掲げる「萌え要素」だって要するに偶像崇拝の論理である。彼のデリダ論に納得する日本の思想(というより宗教)レベルは悲しいほど低い。

 

 ユダヤ的「非到達」の自己中心的転回


『九十九十九』は創世記と黙示録をストーリー展開の基本プログラムに使っているので、ユダヤを意識しているのだろうが、東と同じく舞城もユダヤ思想を全く理解していない。やはり彼らはユダヤ思想のポーズをしていても日本思想でしかないのである。
その分かれ目は「非到達」をどう解釈するかということにある。ユダヤ的な神は「他者」として現れる。ユダヤ的「非到達」というのは、自分の思いのままにならない「他者」を示しているのである。神とは人間の思い通りにならないものであり、だから「非到達」として現れにならない現れ(抹消された痕跡)として存在する。
しかし日本人が「非到達」を解釈すると、それは存在しないものと考えられる。なぜなら世界を眼差す視点(つまり「中心」)が自分にあるからである。自分にとって「非到達」のものは自分の世界には現れることがない。日本人にとって「見えない」ものは存在しないのと同じなのである。日本人にとって神とは「中心」である自分自身なのであるが、自分自身を見ることはできないので、自分自身が映ったモノこそが神となる(人ではなくモノでなければ、自分と思うことはできない)。それで日本では古来から鏡(シャーマン=天皇)が神なのである。舞城の結論である「自分=神」が極めて日本的な思想の直接的露出であることには注意が必要である。大部分の日本人はまだ「自分=神」という結論に不愉快なものを感じるだろう。それはこの結論が彼らに当てはまらないからではない。彼らはこの結論を媒介を通じて得ていたからである。つまりこれまでの日本人にとっては、「自分=媒介(鏡・天皇)=神」というプロセスで自己を神格化していた。戦時中の日本人を思い出して欲しい。戦死するとなぜ靖国神社にまつられるのだろうか。自分と鏡に映る自分が独立して存在していたとして、鏡に映る自分を本当の自分にしたければ、自分の方を抹消するほかない。肉体としての自分を抹消することで鏡に映る自分(自己の痕跡=名前)を残すことができるのである。鏡に映る自分が神である自分であることは説明不要だろう。戦死した日本兵は、靖国神社の名前と化すことで神となったのである。
日本兵の生きた肉体つまり、自分自身の本体はオリジナルの自己である。これを殺して幽霊になることが「自分=神」の直接性を成立させる。「オリジナル自分(肉体)=鏡に映った自分=神」から「オリジナル自分=鏡に映ったコピー自分=神」となるのである。つまりは舞城が「自分=神」と言う時、その「自分」とはすでに「コピー自分」であるわけである。
さて、靖国が出たところで三島の切腹事件を思い出してくれた人がいたら、舞城が三島由紀夫賞にふさわしいと福田和也が考えそうなことも想像できるだろう。また『僕は模造人間』なんて「コピー自分」小説を書いた島田雅彦が選んでしまう理由まで説明できてしまいそうだ。彼らはみんなこの日本的図式から逃れられない幸せな人達なのである。
それは村上春樹も同じである。さきほど『海辺のカフカ』の二つの物語の接合に関して、天皇制システムがうかがえると書いたが、まさにそうなのである。春樹も舞城も、世界の「中心」は自分にあると考えていることに変わりはない。ただ、媒介が異なるだけである。
世界の「中心」が自分にある場合、世界は「自分の世界」となる。要するにオンリーワン世界(モナド)である。そこには他者は存在せず、自分しかいない。他人はどこに存在するかというと、「隣の世界」に同じように一人でいるのである。そして世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。この世界モデルはインターネットで再現される。アキハバラ組がやたらこういう世界を描くのは、単にネット世界という世界観に依存して日常を生きているからである。自分だけの個室にこもり、そこでパソコンという世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。パソコンの画面=鏡に映るのは自分の欲望であり、それこそが鏡に映った自分=神なのである。
まだそこまでは到達していないみたいだが、いずれ舞城は自分の欲望=神とか言い出すことであろう。ネタバレである。
だいたい自分の世界を妄想で作り上げたら、それは自分の欲望の投影世界でしかない。舞城には『世界は密室でできている』という著書もあるが、その密室は妄想世界である。そしてこの点が春樹との共通点なのである。

 

 アンチ・オイディプスこそが社会的欲望である日本


ずいぶん前に書いた部分に戻るが、このようなオンリーワン妄想世界を維持するために必要なことは、父の排除と母との同一化であった(母とはしばしば共同体でありうる)。この条件が『海辺のカフカ』と『九十九十九』でともに満たされている。それどころか、この条件を満たすことが物語の主軸になっているのである。
  『海辺のカフカ』が、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』を下敷きにして物語が作られていることは有名だが、その結末があまりに異なることについてはあまり言及されていない。主人公田村カフカは父を殺し母と性交する予言を受ける。これはオイディプスと同じである。父を殺したのは田村カフカ本人ではないようだが、母とは関係する。この予言の内容自体が、父の排除と母との同一化となるわけで、『海辺のカフカ』はまさにそれが実行された作品である。同じことを実行したオイディプスは、王位を追われ目をつぶして放浪者となる悲劇の結末を迎えるが、田村カフカはそうはならない。しっかりした大人に成長する未来が暗示される。
オイディプスが目をつぶすのは、自分には予言という真実が全く見えていなかったからである。オイディプス自身は父と知らずに父を殺し、母と知らずに母と関係した。つまりは無知が問題であったのである。しかし田村カフカは違う。予言を彼自身が知り、自ら家出をして父を排除し、自ら望んで母と関係する。だから目をつぶす必要もない。
春樹が何を意図して描いたのかはわからないが、結果的に予言を実行した田村カフカは立派な大人になるらしい。予言とは神託であるから、神の言葉である。日本では神=自分なので、予言とは自分の欲望の投影でしかない。つまりは予言を実行する自分とは、鏡に映った自分なのである。『海辺のカフカ』では鏡に映った自分になることが立派な大人になることだと示している。立派な大人か神かの違いはあるが、結果としては春樹も舞城も鏡に映ったコピー自分万歳である。
『九十九十九』についても書いておこう。『九十九十九』のラストでは、生みの親である神=清涼院流水が否定され、神は自分であると結論する。だから九十九十九の父は九十九十九なのだ、と述べる。父が九十九十九なら母と関係するのも九十九十九であるのは間違いない。父が自分であるというのは父が排除されているのと同じことで、母とも関係しているのだから、父の排除、母との同一化が九十九十九の妄想世界の基盤であることがわかる。
ラカンが主張する鏡像段階とは、子供が自己の鏡像として母親を見ることも含まれるのだが、この時期、母とは子供にとって鏡に映った自分なのである。つまり、鏡に映った自分こそ自己であるとするならば、そこでは母と同一化する必要があるわけである。
春樹も舞城も鏡像段階への退行が見られる。これが彼らの中にある「成長嫌悪」と結びつくわけである。前に二人をサリンジャーで結びつけたが、サリンジャーは大人を嫌悪していた。ただし、『ライ麦畑でつかまえて』は子供の目から大人の社会を批判することが主題になっているのに対し、春樹と舞城は大人を排除して自分の妄想世界に閉じこもってしまうのである。作者のサリンジャー自身は人を避けるように家に閉じこもった「引きこもり」であるが、作品『ライ麦畑でつかまえて』はそれに終わらない名作である。しかし春樹と舞城は作品ではなく、作者のサリンジャーに共感しているらしく、どちらも社会に対する批判的視座を作品に取り入れられていない(『海辺のカフカ』では行きすぎたフェミニズムを批判する部分があるが、内容は茶番である)。
それはそうなのである。春樹は心の奥底で(母系国家)共同体に依存しているし、舞城はアキハバラ組(IT系市場)共同体に依存している。森喜朗が「IT革命」とかのたまったので春樹と舞城の共同体はほとんど隣接しているのが日本の現状であるが、サリンジャーが発狂寸前になりながら単身で大人社会に挑んだことに比べて両者の貧弱さはえもいわれぬものがある。私としては彼らがサリンジャーなんておこがましいと怒りを感じる。西尾幹二がニーチェと言うのと同レベルのおこがましさである。
だいたい海外に住む日本の著名人ほどタチの悪い者はない。日本で商売しているくせに海外に住む奴は、日本を去勢しつつも日本にベッタリしている、いわば父なる日本を排除し、母なる日本と同一化した奴らである。これを日本の内部で行っているのが、ネット系引きこもりのみなさんである。彼らは日本にいながら日本の外にいる。言い換えれば、彼らはメイン日本を避けて責任のないサブ日本に居続けているのである。

 

 コミュニケーションなきインスタントセックス


このように、春樹と舞城は自己の欲望を自己に置き換えることに肯定的である。資本主義的消費社会を生きる人間の典型と言えるわけだが、私が彼らの作品を読んで特に抵抗があるのは、コミュニケーションなきインスタントセックスである。ホントに気持ち悪いからやめてください。
彼らは自己の欲望を映す妄想世界に住んでいるので、性的欲望に溢れている。しかし、まるで性欲がないかのような顔をしている。しかしそれはポーズである。なぜなら性欲を否定しないと母との同一化が不可能となるからである。母とは性を介在しない女との関係においてしか成立しえないものである。それでも春樹&舞城は性を断念しない。自分が求めなくても女が勝手にやってくれる、という形でそれを解決するのである。『海辺のカフカ』のさくらという女は、長距離バスで乗り合わせた田村カフカと少し話しただけで携帯番号を教える。それでいて「誰にでも簡単に自分の携帯の番号を教えるわけじゃないのよ」などと言う。これは普通に考えれば明らかに誘惑のためのセリフである。そしてのちにこの女は、彼氏がいるにもかかわらず田村カフカを部屋に泊めて自分からフェラチオをしてあげるのである(ある意味男にとっては性交よりフェラの方が、女を喜ばせる責任を負わなくてすむ分快適なのだ)。男なら泣いて喜ぶシチュエーションではないか。
いろいろな評者のコメントを見たが、ほとんどがさくらだけは魅力的だった、などと言っているから日本の文壇は終わってる。恋愛のプロセスをすっとばして女と関係したって、単に自己の性欲を満たすだけである。それだったら女だったら相手は誰でもいいじゃないか。お軽ければ。『ねじまき鳥クロニクル』でも主人公は妻とろくにコミュニケーションもせずに、隣家の少女とお話ししてばかり。夫婦のリアリティなど全く感じられなかった。
『九十九十九』も女とのコミュニケーションはほとんど描かない(単なる会話しかない)のに、やたらにセックスが描かれる。貧しい。徹底的に貧しい。情愛のこもった男女の会話の場面が一カ所だけあったが、その内容もそこいらのマンガやゲームで垂れ流されているようなレベルだった。
春樹も舞城もサリンジャー的成長嫌悪に共感しておきながら、性ばかりはオヤジ化している。私の読んだ範囲では、サリンジャー作品に性の欲望丸出しの場面はなかったように思える。
作品上の登場人物が性欲を丸出しにしていなければ素人読者にはわからないかもしれない。しかし作品の構造が風俗的サポートを積極的に押し進めていることで、作者の性的願望は描かれているのである。春樹は『少年カフカ』に収録された読者からのメールの返事に「風俗嬢に巫女的なものを感じる」と書いていたが、さもありなんという感じである。巫女とは神と人間をつなぐ媒体(=シャーマン)であり、それが天皇と同じ役割を果たしていることは偶然ではない。能動的性欲を神秘で隠蔽できるのは、それが風俗嬢によって去勢されているからにほかならない。春樹や舞城は体制に反抗するような能動的性欲(攻撃性)を自ら去勢することで、風俗嬢=巫女(その背後には共同体)に進んで奉仕してもらえる世界を描いている(自ら非武装化することによってアメリカに奉仕してもらえる国のようだ!)。このような社会システムでは、女性をコミュニケーションの対象として考えるより、性欲の対象として捉えた方がより社会的な男性と見なされるのが必然である。その上で彼らは自己去勢し、マスターベーションに浸らなくてはならないのである。なんとも苦しそうな社会である。

 

 インテリぶりたいオタクの自意識


このように春樹は自分のリビドーをトリックを用いてなんとか見えないようにしようとする作家であるが、舞城は別の所にトリックを用いている。春樹は他人に自分をきれいに見せたいようだが、舞城は自分を思想的人物に見せたいらしい。
作品を読みながらも舞城の自尊心の高さはちらほらと伝わってきたが、どうやら彼はインテリである自分こそが鏡に映った自分(=自己の欲望)であるようである。
『九十九十九』のラストの文を引用しよう。

 

だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない。

 

思想的素養がないと理解できない大衆小説としては不親切な文である。「アキレスは先を行く亀に追いつけない」というのはエレア学派のゼノンによる「アキレスと亀」のパラドックスのことで、アキレスが亀のいる地点まで進むと、亀もその分だけ進むので永遠にアキレスは亀に追いつかない、という逆説である。ベルクソンが解き明かしているように、このパラドックスは本来なら連続性であるものを分割可能とすることから起こる。そして「空間の時間化」や「時間の空間化」を引き起こす。「終わりまでの時間を微分する」と書かれているように、九十九十九は本来は連続性であるはずの時間を分割するのである。これは「時間の空間化」を背景にしているわけだが、その分割された時間を「微分する」ということは、分割された時間においても濃度は全体と等しくなる。つまり、永遠と一瞬が等しくなる。「一瞬の永遠の中で」と言うのはそのためである。これは先に書いた「時間の交換」を成立させる手法でもある。
死ぬまでの時間に生きる人生の濃度を、一瞬という最小単位に分割した時間においても再現する。そこでは一瞬が最大であるから、それ以上の成長はない。究極の全能感である。
そうなると、僕が亀に「非到達」であるのは、一瞬を最大に生きる永劫回帰的時間だからということになる。言葉の上では。
しかし問題はそんなに言うほど実践できているのか、ということである。小説というのは、実践が評価の基準である。言うだけなら誰だってできるのだ。小説だったらそんな小難しい論理を書くのではなく、一瞬が最大であるような生を描いてみろよ、ということなのである。九十九十九はぐだぐだ言ってはいるが、終わりまでの時間を微分するほどの濃厚な生をちっとも生きていない。明らかに幼稚な生しかそこにはない。こうなるとお偉い文を読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。まっとうな大人も出てこない。人との交流も形だけ。セックスもするだけ。要するに体験や実感のこもったリアリティがこれっぽっちもないのである。
ネットの住人は何を書き込んでも匿名なので、自分の実践がチェックされないことに慣れていて、無責任な言動が多い。『九十九十九』のラストの文などはそのようなネット住人と同じ精神で書かれている。
いや、このようなことを可能にするために、彼はオリジナルを殺したいのである。実体であるオリジナルを消せば、存在するのは書かれた自己つまりは鏡に映った自己だけである。そうなれば言葉の上だけのことに実践が伴っているかをチェックするのは不可能だ。
出たがりの村上龍に比べて、春樹は本人がメディアに露出することはない。しかしそれ以上に舞城は顔写真さえ出さない謎の作家である。その理由についてももう理解できることだろう。舞城は書かれたものを自己としたいために、自分の実体(オリジナル=肉体)を抹消せねばならないのである。舞城は本名を消去して舞城王太郎になりたいのである。
オウム真理教徒が本名と異なるホーリーネームを持っていたように、神戸首切り殺人の犯人である少年も酒鬼薔薇聖斗という虚構の名前を記した犯行声明をマスコミに送りつけた。彼らは本名を抹消し、虚構の名を獲得するための儀式としてテロや殺人を行ったかのように見える、と言ったら言いすぎであろうか。社会学者の大澤真幸によれば、オウム真理教のサリン事件を先取りする形で起こったテロが三島事件(三島由紀夫による平岡公威の殺害?)だという。
虚構の住人となることを欲したということにおいて、舞城王太郎が三島由紀夫賞に輝いたというのなら一応の筋は通るのかもしれない。しかし三島は遺作『豊饒の海』が示す月面の海(つまり実際は水がない海だ)のように、実際は空虚で何もないところを、豊饒に見せることにおいては天才的であった。つまらないトリックや実を伴わないロジックなどではなく、文章の力によって勝負できた作家であった。

冒頭に戻るけど、いわゆる純文学が不人気になったのは三島事件の後くらいからじゃないの? それとサブカルの隆盛が大きく関係しているような気がする。その理由を社会的に考察することもできるが、それはまた別の機会にしようと思う。今回は舞城王太郎という作家を葬ったということでサノバは満足するよ。
結局今の若い人は「鏡に映った自分」になりたいんだよね(サノバは東や舞城と同世代だけど)。それはブラウン管に映った自分ということもできる。やたら不細工なくせに歌手やモデルになりたがる奴らがいるじゃない? アートやってるとかいっても実際はただチヤホヤされたいだけの奴の多いこと。サノバの在籍していた大学にはたくさんそんな奴らがいたよ。メディア化した自己。流通する自己。そういうものになりたいんだね。
それはつまるところ金になりたいってだけのことだ。みなさんお金のような人間になりたいのである。お金はみんなにチヤホヤされるし、自由になりたいものに変身できる。風俗嬢も買い放題だよ春樹さん。ギャルゲーも買い放題だよ舞城さん。
しかしどれだけ舞城という名前を売ったとしても、本名宛で赤紙が来ることは避けられないと思うけどね。所詮金なんていずれは消えるもの。豊饒の海みたいなものだ。サノバ達の世代はバブル崩壊で充分それを体験したはずなんだけど、まだまだわかっていない人が多いみたいだ。そういう若者は金のために戦争したがる保守派の金持ちに巻き込まれて命を弄ばれる危険がある。彼らは安全圏にいるから、舞城が描いたみたいに、人がスプラッター映画みたいに死んでいってもおもしろ半分で眺めていられることだろう。
MOバブルはじける時にはご用心!

 

 

    

「俳句 30年2月号」(角川書店) のレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.02.03 Saturday
  • 11:56

「俳句 30年2月号」(角川書店)

  Amazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

 

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

僕のレビューに対して四ツ谷龍がこんなツイートをしました。

 

四ッ谷龍

@leplusvert

 

オイラのことを「花鳥諷詠、客観写生を重視するホトトギス的な俳句を敵視する」とか書いて悪口言ってる奴がいるけど、客観写生を敵視する人間が毎週ひとり吟行に行くわけがないだろ。頭がおかしいんじゃないのか。

午後7:41 · 2018年2月2日

 

四ッ谷龍

@leplusvert

 

賞の審査でも、よく見てもらえればわかるが、いつもホトトギス系の応募者にいちばん高い点をつけているのはオイラだ。

この点だけとっても、件の人物が事実に立脚せず、歪んだ先入観を書いているのは明らか。

午後7:45 · 2018年2月2日

 

僕に文句をツイートする人は、検索されないように、こうやって僕の名前を伏せてやるんですよね。

文句があるなら正々堂々と僕に言えばいいと思うのですが、なぜ陰口でしか言えないのでしょう?

 

まあ、でもこのツイートには大笑いさせていただきました。

僕の書いたことが「事実に立脚せず、歪んだ先入観」によるのだと言いたいようですが、

四ツ谷さん、こんなリアクションをした時点であなたの負けですよ。

ハッキリ言ってもう「チェックメイト」です。

 

「毎週吟行に行く」、とか、「ホトトギス系の人にいちばん高い点をつけている」ことを「歪んだ先入観」の根拠にしていますが、

僕は俳句をやらないので、誰がホトトギス系か知りませんし、

それ以上に四ツ谷が吟行に毎週行くことなど知るわけがないので、

そんなことを根拠にされても「頭がおかしい」とまで言われる理由が理解できません。

(僕は「ホトトギス俳句を敵視する」とは書いていますが、「客観写生を敵視する」などと書いていないのですけどね)

まあ、そこが間違いなら申し訳ありませんでした。

四ツ谷さんはホトトギス俳句を敵視まではしていないかもしれません。

でも、反発心をお持ちであることは明らかですよね。

四ツ谷がこんなツイートをしているのも見かけました。

 

四ッ谷龍

@leplusvert

 

そのへん、私は「季語や定型は俳句にとって有効な原理だが、有季定型は俳句の原則ではない」と言うんですけどね。つまり俳句を厳密に定義することはできないということでもありますが。 

saibara_tenki

@10_key

返信先: @10_keyさん

余談:定型は価値を生み出すに有効だが、定型そのものに価値があるわけではない。有季定型派は、有季定型そのものに価値を置くフェティシズム(手段の目的化)に陥ることが多いよ、見ていると。

午前10:51 · 2017年5月27日

 

「有季定型は俳句の原則ではない」と発言したら、ホトトギス俳句とぶつかると素人的には思うのですが、

自分でそう言われても仕方がない材料を与えているくせに、

「事実に立脚せず」に「頭がおかしい」とまで、なぜ僕が言われなければならないのでしょうか。

 

いやいや、むしろ四ツ谷のツイートが僕の書いたことが事実だと立証したのですよ。

まず、いくら批判されたからって、相手の「頭がおかしい」という発言はどうなのでしょうね?

これこそ四ツ谷が「品のない」人間であることの動かぬ証拠です。

 

さらに傑作なのは、反論できる部分がその点でしかない、ということです。

「ホトトギスを敵視している」が僕の「先入観」であるかどうかは別に僕の誤りとしても構いませんが、

そのかわり、僕の書いた他の批判に対しては全く反論がないので、

その点については四ツ谷はすべて妥当だと認めた、という判断をさせていただきます。

 

もし本当に事実でないならば、

審査員のくせにレビューでステマ行為を行っていた、と書かれたことに反論するのが普通でしょう。

「品のない行為」とまで言われているのですから、事実でなければ名誉毀損と言えます。

僕だったら、真っ先にそこについて怒ります。

しかし四ツ谷はそれについては触れもしないで、他のことを持ち出して、それを根拠に僕の人格を貶める手に出ました。

これは残念ながら誰が見てもクロです。

第三者が見てもハッキリと事実と確信できるだけの証拠をありがとうございました。

四ツ谷龍は「オルフェウス」という匿名を使って、自分が選んだ句集の批判意見に対する攻撃レビューを書きました。

もう今さら何を言っても遅いですよ。

 

それから「ソーカル事件」については触れないんですね。

僕の「頭がおかしい」とまで言うのなら、四ツ谷は僕の批判に堂々と反論すればいいと思うのです。

詐欺じみた論考に対する批判が僕のレビューの骨子なのは一目瞭然ですから、「論客」なら反論すべきところなのに、

それもできないくせに僕に対して「頭がおかしい」などと言える立場でしょうか。

論理に論理で応答できない論理的弱者は、決まってツイッターで感情的な罵倒を浴びせてくるので、

ツイッターとはなんて知性に欠けた「品のない」メディアだろう、と僕はかねがね思っています。

(論理に弱い日本人が最もツイッターを利用しているのも納得です)

最近のサブカル俳句の隆盛は、実はツイッターと密接な関係があるのですが、

それについてはまた別のところで書こうと思っています。

 

それから、「悪口言っている奴」とか言いますけど、

事実を見直せばハッキリするのですが、四ツ谷の方から先に僕の悪口を言ってきたのです。

僕は売られた喧嘩を買っただけなので、お互い様の行為については四ツ谷に責められるいわれはありません。

 

もう一つ、四ツ谷がいかに「品のない」陰口野郎なのかが理解できるツイートがあるので紹介しましょう。

 

四ッ谷龍

@leplusvert

 

今日、あの世に旅立った詩人には、10年ほど前に一度お目にかかったことがある。

「短歌ではすぐれた作者がたくさん登場しているが、俳句には一人もいない」とオイラに言った。「田中裕明を知っていますか」と聞いたら、「知らない」だってさ。何だこいつ、と思ったよ。

午後7:03 · 2017年4月5日

 

「何だこいつ」というのは四ツ谷に向けられるべき言葉です。

大岡信が亡くなった当日に、故人を悪く言うツイートをするなんて、究極の陰口ではないでしょうか?

それも自分自身で挑むのではなく、友人の田中裕明を持ち出して言うわけです。

田中裕明は死者の悪口に自分が使われていることを天国でどう感じたのでしょうか。

僕はこういう「品のない行為」を平気でやる人の友情を信用しませんし、詩を深く理解できるとも思いません。

 

さて、四ツ谷龍がいかに「品のない行為」を行う人物かが立証されたので、

こうなると、角川書店やふらんす堂という出版社がどれだけ堕落しているかも自ずと理解できます。

僕はいま出版社の堕落に対してものすごく腹を立てています。

だからネットで文章を書いているのですが、人々には出版しない人は三流だという思い込みがあるので苦労しています。

そういう出版を権威と捉える安直な態度が、活字になれば内容は問わない倫理不在の状況を生み出し、言論界の堕落を後押ししているのです。

商業主義に走って堕落した出版権力や著者の自負心と実費に依存する出版互助会を、

教養と論理の力で相対化することこそ、むしろ真の脱構築と言えるのではないかと僕は思っています。

 

それから、四ツ谷は陰口に依存せず、自分のレビュー行為や「頭がおかしい」などの暴言の責任を自覚して、早く僕に謝罪するべきでしょう。

自分の過ちも認められない人間は世間から黙殺されてしかるべきです。

 

 

 

『自生地』 (福田 若之 著) レビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.01.31 Wednesday
  • 22:25

『自生地』(福田 若之 著)

  Amazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

 

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

こんなツイートがありました。

 

ばしりを

@orishiba

 

ははーん自生地のアマゾンレビュー見て確信したんだけれど、佐野波布一氏は間違いなく結社人だね。たぶん中くらいの規模の。みつあみを賭けてもいいよ

午後6:38 · 2018年1月29日

 

ばしりを

@orishiba

1月30日

 

彼は昔から俳句関係の書籍にどことなく私怨のたっぷり入った文を書く匿名氏です。誰をくさすときも、自分は俳句やってない、と強調するんですが、どうも思考の飛び方と垣間見える俳句の知識、叩く本の傾向から典型的なくすぶってる結社人という感じが。まあ、あまり反応しないほうがいい種類のものです

 

僕はこの方を存じ上げないのですが、「オルガン」のファンの方みたいなので、

僕のレビュー活動に面白くない思いを抱くのはわかります。

個人的な感想に関してはどうこう言う気はありませんが、

せっかくなのでこの機会に事実関係の誤認を正しておきたいと思います。

 

貴重なみつあみをお賭けになられたのに申し訳ないのですが、

僕は結社人でないどころか、俳句も作りません。

何度もそう書いているのに、自分の読みたいように読む人には手がつけられませんね。

「自分たちを悪く言うのは結社人に決まってる!」という思い込みがあるのでしょうが、

俳句外部の人間からすると、そういうつまらぬ内輪発想が滑稽に見えます。

僕が結社に属していたなら、それこそ内輪の仲間が加勢してくれそうなものですし、

そもそも結社人が「自分は俳句をやらない」と言って俳句論を書くことに何のメリットがあるのでしょうか?

 

僕のことを結社人だとか俳人だとか言っている人は、

おそらく僕の俳句関係のレビューしかお読みになってないのでしょう。

僕のレビューの1割くらいをお読みになれば、僕にもっと詳しいジャンルがあることがおわかりになるはずです。

(僕は変なブログで「狂信的フランス現代思想嫌い」とも言われてますけど、

そういう「好き嫌い」しか価値基準がない人などに僕のレビューは無意味でしょうね)

正直に言えば、俳人程度の教養と一緒にされるのは不本意です。

御自分の関心範囲のことを拾い読みしているだけの自己本位の知識で、他人のことを判断するのは感心できません。

ダメな作品はダメだと言うのに結社も私怨も関係ないのですが、

この方は文学をそういう世俗的な理由でしか読んだことがないんでしょうか。

こういう方には「好き嫌い」しか存在しないので、「批評」など成立する余地がないのはよくわかります。

 

僕は批判はしますが、対象作品をきちんと精読しています。

『自生地』に関してもテクスト読解でレビューを構成していますので、

それを「私怨」などというなら、どこがテクストから逸脱した読みなのか示すべきだと思います。

そもそも僕は福田とも上田とも個人的に接触したことはありません。

「クプラス」などで括るにしても、ならば僕の佐藤文香の句集に対する肯定的な評価はどうなるのでしょうか?

僕のテクスト読解が妥当なのか「私怨」なのかは、テクストを書いた福田本人が一番わかっているはずだと思います。

 

 

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM