『俳句の宇宙』 (中公文庫) 長谷川 櫂 著

  • 2018.04.03 Tuesday
  • 01:16

『俳句の宇宙』 (中公文庫)

  長谷川 櫂 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   「場」の文学としての俳句に迫る

 

 

本書は1989年に刊行された単行本の文庫化ですから、長谷川が35歳の時に書かれたものとなるはずです。

最近、「若手」と騒がれている連中より年少にもかかわらず、これだけのものを書いていたことを思うと驚きます。

読みやすく書かれてはいますが、その射程は深く、現在でも色褪せず通用するものです。

サントリー学芸賞を受賞したのも頷けます。

 

序章では松尾芭蕉の「古池や蛙飛こむ水のおと」を取り上げ、

弟子の宝井其角が「山吹や」を提案したのに対し、芭蕉が「古池や」を選んだことについて、

なかなか面白い解釈をしています。

山吹には蛙の声を取合せるのが定番なので、声ではなく飛び込む音を取合わせたら因習の批判になる、

というのが其角の発想だったのですが、芭蕉がそれを拒絶したことを長谷川は、

「因習へのあらわな批判もひとつの因習と映っていた」と考えます。

単に発想をズラすことを拒否したところから、芭蕉の全く新しい俳諧が始まったという考えは興味深く感じました。

 

長谷川は俳句が成立する基盤となるものを「場」と呼んでいます。

 

俳句は「場」の文芸である。

そして、俳句の言葉は「共通の場」がある限り、いきいきと動くが、それがなくなると通じなくなる。

 

句が背景としていた「場」がなくなると、その句は誰にも理解できなくなる、と長谷川は言います。

そして近代俳句はどこにでもある自然だけを「場」にしてきました。

俳句が自然という「場」に依存しているため、読み手の方から「場」に参加していく必要があるのです。

 

長谷川は反ホトトギスへと舵を切った水原秋桜子の文を引用し、俳句を西洋的な芸術として理解することの害を考察します。

俳句を芸術とみる考え方を推し進めていくと、

「場」を無視して、言葉だけで完結する一行詩としての俳句を目指すことになります。

その形には2つのタイプしかないと長谷川は言います。

 

「場」によって言葉なくして伝わったものが、「場」を認めないことによって、

叙述し説明する文脈に依存した俳句を作るしかなくなるのが第一のタイプです。

これによって「切れ」という「間」を生み出せなくなるというのです。

この指摘はある種の若手俳人にとって、非常に耳が痛いのではないでしょうか。

 

「場」を認めない上に、文脈にも依存しないとなると俳句の言葉は曖昧なままとなって、

意味ありげな言葉の羅列と化してしまうのが第二のタイプです。

長谷川はどちらのタイプもすでに昭和の俳句の歴史で起こったことだと述べて、

言語以前のものである「場」を嫌った近代的な価値観が俳句を矮小化することを問題視しています。

 

しかし作者と読者に共通の「場」が必要だと、その「場」をどう共有するかが問題になります。

「場」を広くしようとすると俳句が浅くなるし、内容を濃くしようとすると「場」が狭くなってしまいます。

正岡子規が近代的普遍性を求めて自然という広い「場」を確立したものの、

自然が失われていったことで、「場」が特殊化していきました。

長谷川はこの問題を指摘したあと、

俳句には「広く浅い「場」よりも、濃く深い場を求める傾向がもともとあるのではないか」と、

「場」が特殊化して俳句がわかりにくくなることは必然だと言います。

俳句はわかりにくいのだ、という開き直りはなかなかうまいやり方だと感心しました。

 

長谷川が指摘する「場」の特殊化と細分化は、今でも非常に重要な問題として残っています。

自然を身近に感じられない「若手」とされる人には、

2ちゃんねるのスレッドのような趣味領域を「場」としたサブカル俳句を作ったり、

消費文化を「場」とした意味から逃走するオシャレ俳句を作ったりして、

それが外部読者を獲得する道だと考えているのですが、

それが細分化された特殊な「場」でしかないため、寄り集まってパック売りをすることで広さを偽装しています。

自然を「場」とすることを乗り越えようとしても、その結果はさらなる細分化となって、

個人で勝負できないグループ俳人を生み出しているのが実態です。

しかし、僕には俳人たちが「場」の細分化の問題を真剣に考えているようには思えません。

 

重要な問題提起ではありますが、本書の議論はおかしな方向へと進んでいきます。

長谷川は俳句を西洋的な近代詩と同じように考えることを批判し、

むしろ西洋的な近代詩との差異である「季語」と「切れ」こそが俳句のオリジナリティだと主張します。

こういう長谷川の近代普遍性への批判には、当時全盛だったポストモダン思想の影響を感じます。

そのことは本書の解説を典型的なポストモダンかぶれで、彼の友人である三浦雅士が書いていることからも窺えます。

 

長谷川は俳句のオリジナリティを「季語」と「切れ」に見出して、

「俳句が日本という「場」と一体になった特殊な詩である」と言い出すのです。

俳句の「場」は細分化されていたはずなのに、いつのまにか日本という「場」と一体になってしまうのです。

僕は長谷川の『震災俳句』のレビューでも指摘しましたが、

彼の俳句観の最大の問題は、俳句と国家を簡単に同一化させてしまうことにあります。

このような欲望が前景化すると、これまで俳句の「場」はもともと狭いものとか言っていたのは誰だったのか、と腹が立ちます。

書き方が巧妙なので一見わかりにくいのですが、はっきり言って詐術です。

このような長谷川のあり方はポストモダン思想がナショナリズムへと変換されるモデルケースと言えるでしょう。

 

こうして長谷川は共有される「場」が狭いはずの俳句を異常なほど巨大化していき、

最終的に宇宙を語るようになってしまいます。

「俳句は、時代の制約を超えて宇宙の鼓動に触れることのできる十七字の火掻き棒である」とか、

「五・七・五は大昔から日本人が宇宙と呼吸を合わせるときに使ってきた原初のリズム」とか、

まともに聞く気にならない大げさなことを言い出すのです。

 

結局、長谷川は近代の普遍性をあれだけ批判していたくせに、

さらなる普遍的な宇宙という「場」へと俳句を飛翔させてしまうのです。

僕はなんだか騙されたような気分になってしまいました。

他人から見たら長谷川自身と彼が批判しているものは大差ないのではないでしょうか。

長谷川には、狭い井戸にいるくせにデカいものに接続したがる心性こそが、

まさに日本という「場」が生み出す害悪だと自覚してほしいものです。

 

 

 

評価:
長谷川 櫂
中央公論新社
¥ 782
(2013-07-23)

『サミュエル・ベケット』 (白水Uブックス) 高橋 康也 著

  • 2018.03.18 Sunday
  • 08:25

『サミュエル・ベケット』 (白水Uブックス)

  高橋 康也 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   「道化」というキーワードでベケットを読む

 

 

『ゴドーを待ちながら』などサミュエル・ベケットの作品を多く翻訳している高橋康也が、

ベケットの半生と主な作品を時系列に沿って網羅的に解説した本です。

作品読解から文学的テーマに踏み込む凝縮された内容のわりに、平易で読みやすく書かれています。

1971年出版の本を底本としていますので、本文は約半世紀前に書かれていたものです。

加えて高橋によるベケット追悼文、詩人の吉岡実のエッセイ、G・ドゥルーズ翻訳者の宇野邦一の解説が収録されています。

 

代表作『ゴドーを待ちながら』は「不条理演劇」などと言われたりしますが、

高橋はベケットを「道化」と位置付けて、不条理の表現としてのおかしさと笑いに注目しています。

「道化芝居とはいえぬ道化芝居、道化とはいえぬ道化」というベケット的な名辞矛盾を用いて、

通常言われる道化とはかけ離れたところで、かえって道化性があらわになるベケットの主人公たちを理解しようと努めています。

(道化といっても太宰治のようなコンプレックスの反映とは全く違う次元の話なのでご注意を)

 

本書では若きベケットとその師であるJ・ジョイスとの関係について詳しく語られています。

2人ともアイルランド出身でありながら、祖国に背を向けた亡命者です。

ジョイスの饒舌、ベケットの寡黙と表現の方向性としては真逆にあたる両者ですが、

高橋は両者がともに自らの世界を「終わりなき煉獄」と捉えていたことを指摘します。

ベケットはジョイスの描く「煉獄」を「絶対者の絶対的不在」による善悪などの対立関係の混濁と見ているのですが、

このような相対化の極北であるポストモダン的状況を、多くの日本人が苦悩することもなくスノッブに享楽できてしまうことを、

僕は無視することができないのです。

 

「煉獄」を「煉獄」であると自覚するには、「絶対者」の存在の痕跡を感じることができなくてはなりません。

しかし「絶対者の不在」が歴史的に常態化している国では、それのどこが問題なのか、ということにしかなりません。

実際に生きている場所が「煉獄」であったとしても、外の世界を知らなければそこを天国と錯覚することは可能です。

つまり、ドゥルーズがしたようにベケットをポストモダン的な文学として扱ったとしても、

ポストモダニズムを消費資本主義的享楽としてしか受容しなかった日本人にとって、大した文学的意義はないということです。

 

日本人を相手にベケットを「道化」として語ることは、

「煉獄」が「煉獄」であることもわからない享楽主義者たちの誤解を深める結果になるのではないかと危惧します。

高橋が本稿を執筆した時代はおそらくそうではなかったのでしょうが、現代では「道化」という表現が適切なのか難しいところだと感じました。

(そのため「道化とはいえぬ道化」という表現を引用したのです)

 

僕がベケットを「道化」と表現することに抵抗を感じる理由はもうひとつあります。

高橋はベケットをデカルト的二元論において把握し、肉体の唾棄と精神の解放を目指していることを説明しています。

その説明に異論はありませんが、「道化」とはなにより身体的な存在でなければいけない気がするのです。

身体を捨てた純粋精神とは、観念的存在であって、地上に居場所はありません。

いったい地上を離れたところに存在する「道化」など想像できるものでしょうか?

高橋が選んだ「道化」という言葉はまだまだ地上的です。

しかし、ベケットは地上から離れた「聖なるもの」への野望を抱いていたのではないでしょうか。

「ベケットの最も深い意味における宗教性、彼の道化の逆説的な聖性をぼくは疑うことができない」

と高橋も本書で述べています。

その「聖なるもの」への志向が、ドゥルーズ的な観念論によって安直なメタ化へと変換され、

あの〈フランス現代思想〉という、資本主義と共謀した単なるメタゲームへと堕落していったのです。

当然そこにあるのは聖なる神の残滓ではなく、運動そのものを自己目的化した資本の運動(メタに立つためだけにメタに立つ運動)だけです。

 

本書の解説を宇野邦一が書いていることでもわかるように、

高橋の読解はドゥルーズ的なポストモダニズムと呼応した内容になっています。

高橋は『ワット』を解説した部分で、ノット氏の邸宅でのワットの体験を、

「何も起きない」いや、「無であることが起きる」と書き、

それが「意味論的」崩壊の状況、認識の不可能性と解釈しています。

このようなnotつまり否定性を無意味や不可知性として前景化するのがポストモダニズムだと言えるでしょう。

「無」を持ち出せば人間的意味の外に立てる、つまり〈フランス現代思想〉とは人間のメタに立つことを目的とした「脱自」の思想なのです。

 

ドゥルーズの失敗を繰り返さないために、

そろそろベケットの偉大さを認めつつも、あえて批判的に読む必要もあるのではないでしょうか。

ベケットの主人公たちは身体を失い、自己を剥奪され、脱自的な「無」へと突き進んでいきます。

ベケット自身も母語ではない言語を用いた単純な文章によって、言語の豊かさを剥奪していきます。

高橋はノット氏やゴドーに象徴される「無」を、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に似ているとしていますが、

ウィトゲンシュタインが自殺する運命となったのは、彼の家系だけが原因ではないと思います。

「無」へと至る自己剥奪が「聖なるもの」を実現すると考えてしまうと、

人間とは無縁な観念論へと道を開き、果ては文学の自殺へと陥ります。

ドゥルーズに代表される〈フランス現代思想〉の反人間主義の延長にある思弁的実在論が、

人間不在の世界を観念化しようと躍起になるのも、「無」へと至るまでの自己剥奪の徹底(パラノイア!)によるものです。

 

僕がベケットの人物たちに心惹かれるのは、

人間誰しも自己を生きられるわけではない、ということからきています。

自己を剥奪されて、自分が自分で無いような「よそよそしい存在」に思えたとしても、

それでも生き続けなければならないときもあるのです。

ベケットはそんな悲しくも普遍的な人間の「原型」(もしくは原罪)を、僕たちの前に提示している、と僕には思えるのです。

 

ベケットは自ら望んで自己を剥奪し、自己の外に出ようとしているのではありません。

自己を奪われた人間こそが現代の人間であることを示しているのです。

(このあたりをユダヤ的に解釈することは可能ですが、広く「現代」と考えてみるべきでしょう)

『ゴドーを待ちながら』を解説する高橋は、それを演劇的「無」を体現したものと捉え、

その「無」が人間の運命であり生の原型であるために、

作中で「何の葛藤も解決もない」必然的な結果として描かれていることを指摘してこう述べます。

 

しかしぼくたちは、このような否定的ないないづくしがその極点において肯定的な豊饒に逆転することを見失ってはならない。そこに『ゴドーを待ちながら』の奇蹟的としか言いようのない勝利があるのだから。

 

この解釈は間違っていませんが、現代においてはこの解釈自体が逆転させられる必要があります。

つまり、肯定的な逆転を考えすぎて否定的な苦しみを見失ってはならない、ということです。

ベケット自身は亡命(ディアスポラ)の苦悩においてこのような作品を書いていたわけですが、

消費資本主義的享楽を生きて母国に依存するような連中が、このような逆転をやすやすと果たしていることに目を光らせる必要があります。

(天皇陛下即位20年の愛国イベントにエグザイルという名前のグループが呼ばれたことが、日本のポストモダンを象徴しています)

ベケットを逆回転させたものが〈俗流フランス現代思想〉であり、現状のナルシス日本です。

あらゆる理想的な営みを否定的に捉え、現状を必然や運命と捉えて、「何の葛藤も解決もない」ぬるい生を望む人がいかに多いことか。

(安倍さん以外に首相をやらせる人がいない、とか日本人以外には意味不明の発言でしょう)

彼らはゴドーなど存在しないかもね、とすでに割り切っていて、

苦しんで待つだけの意味も感じられないため、ただスマホで「気散じ」をするだけの人生です。

それをこれっぽっちも「煉獄」だと感じることができません。

 

ゴドーを待つ苦悩を知らない人間にベケット作品も〈フランス現代思想〉もまったく意味がありません。

彼らは「何の葛藤も解決もない」自分の生を知的ぶって肯定するために、それを自己弁護として利用するだけなのです。

(そのために自らが迫害を受けているかのように被害者ぶるのが、日本的ポストモダニズムの成れの果てです)

 

いつまでもゴドーは現れない、

それでも僕たちはゴドーを待って苦悩するべきなのです。

一神教から遠く離れた国では、

詩的な自己剥奪など今やスマホによる暇つぶしと大差がなくなりました。

今や文学に詩は必要ありません、真の亡命者となるほどの苦悩や葛藤こそが必要なのです。

 

 

 

『紀貫之』 (ちくま学芸文庫) 大岡 信 著

  • 2018.03.09 Friday
  • 12:39

紀貫之』  (ちくま学芸文庫)

 大岡 信 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   刺激的な考察に富む日本文化論

 

 

本書は亡き大岡信が1971年に書いた論の再文庫化です。

題名通り紀貫之の和歌について書かれているのですが、

僕がおもしろいと思ったのは、紀貫之の歌についての考察よりも、

和歌のルーツやそれを生み出した日本文化に対する考察の方でした。

 

正岡子規が貫之を「下手な歌よみ」と言ったのは、『歌よみに与ふる書』でした。

大岡はこの偶像破壊とも言える子規の革新運動を広く取り上げます。

そのため、冒頭は紀貫之というより正岡子規のことが多く書かれています。

子規が生真面目に俳句の「滑稽と諧謔」を拒絶して、松尾芭蕉の雄壮さをとりわけ評価したのに対し、

「花鳥諷詠」という天地の造化への挨拶を俳句の本質とした高浜虚子は、「滑稽と諧謔」を許容している、

などと述べ、「滑稽と諧謔」が個人のモチーフとして現れるようになったのは古今和歌集だとしています。

 

そこで大岡はあるものと別のものとを「合わす」ことに、詩的感情の成熟を見ています。

二つのものを「合わす」ところに滑稽や諧謔も挨拶もあり、そんな歌の力を古代人が重んじていた、という指摘は、

和歌と俳句という伝統詩型ついて考えるうえで欠かせない要素のように思えます。

 

大岡は第四章で、「合わす」行為、二つのものの融合を日本語の特徴から考えていきます。

そのモデルとなる貫之の歌がこれです。

 

 影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき

 

この海底を空として捉える「逆倒的な視野構成」において、水と空は互いが互いを映す鏡となっています。

「詩的言語」を詩人が自覚的に用いるようになったのは、互いに映発し合うものの発見にあり、

映像と映像とを一つに融け合わせ、暗示に富んだ小世界を作りあげる手法が、

テニヲハを駆使する膠着語という日本語の特質に由来する、と大岡は考えています。

 

さらに大岡はテニヲハなどの助詞が、漢文の訳読に用いる記号「ヲコト点」から発達したことにまで遡ります。

助詞が言語になりきっていない記号から発達したという事実はなかなか興味深いものがあります。

使われる助詞の数は万葉集に比べて、古今和歌集で著しく増大します。

 

しだいに大岡の興味は貫之一個人を超えて、日本人の自然観や文化へと逸脱していきますが、

そこが非常におもしろいのです。

 

大岡は津田左右吉や石田英一郎の言を引いて、

日本人が外来思想の影響を受けなかったことや合理主義的な世界観を拒絶したことなどを示したあと、

その原因を「距離」の尺度として説明します。

草原や砂漠を生活環境とする人は、あらゆる関係の尺度を「遠さ」に置いているが、

日本では逆に「近さ」を前提とした情緒的で省略の多い伝達様式が発達したというのです。

 

いずれにしても、人や物の空間的「近さ」という感覚に距離の尺度をもつ精神は、隔絶した絶対者にむかって絶望的な飛躍・挑戦を試みるよりは、神や人間の観念に先立つ与件としての「あめつち」、すなわち自然界ないし宇宙との、親和・融合を、ほとんど本能的に試みようとするだろう。それは自然現象のあらゆる発現、言いかえれば、「季節」そのものを、自己の生命の直接の象徴とさえ見なすに至るであろう。

 

自然への「近さ」が季節を自分の命の象徴と見なすことにつながるとするのですが、

中国も人間と隔絶した存在を絶対化する傾向が薄いと言えますし、季感を重視する詩のスタイルの元祖なので、

そのまま大岡の説を鵜呑みにすることには抵抗があるのですが、それでも傾聴に値する意見だと思います。

ただ、このあと大岡が触れる季節感の類型的な成立に関しては、たしかに日本的なものと言えると思います。

大岡は日本的な季節感が、現実の実感に密着したものではなく、

「象徴の体系を通して感じとられる 共通の文化体験」だとし、それが類型化と結びついていることを指摘しています。

季節の類型化と象徴性との関係を考えることは、非常に重要な視点だと思います。

 

僕の関心に即したため、貫之の和歌についての考察をあまり紹介できていませんが、

本書が貫之の和歌を詠むことに重きを置いていることは間違いありません。

読みどころが多くありますので、読者の多様な興味に応えられる本だと思います。

 

 

 

『日本の詩歌──その骨組みと素肌』 (岩波文庫) 大岡 信 著

  • 2018.01.03 Wednesday
  • 21:36

『日本の詩歌──その骨組みと素肌』  (岩波文庫)

  大岡 信 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   国外向けの古典詩講義は日本人にとっても意義深い

 

 

本書は昨年亡くなった大岡信のフランスでの講義録です。

予備知識の少ない海外の人を相手にした講義のため、

古典への興味がさほど強くない日本人にとっても格好の入門書となっています。

 

第1回は菅原道真の漢詩を取り上げます。

大岡がこの講義を和歌ではなく、菅原道真の漢詩から始めたのはさすがだと思いました。

道真の漢詩では詩人の主体的な立場が明確なため、客体との区別が厳然と存在し、

社会に対して自己主張することを当然としているのに対し、

日本の和歌はその短さのため、具体的な描写を最小限として作者の感動の簡潔な表現をめざします。

その結果、和歌で主体が自己主張し、社会に具体的に関与していく姿が歌われることは少ない、として大岡は、

 

総じて言えば、漢詩が作者の「自己主張」を当然の条件とするのに対し、和歌はむしろ、作者の「自己消去」をごく自然に招き寄せる詩だとさえ言えるのです。

 

と整理します。非常に簡潔かつ正確な対比です。

大岡は和歌が自己主張の代わりに、自我を超越した自然との一体化をめざしているとし、

この「自己消去」が主流になった背景には、

自己主張のしにくい強固な秩序に支配された「同質社会」の存在があったと見ています。

 

道真の漢詩に重税にあえぐ貧しい人々が描かれたものや、為政者の不正を弾劾するものがあることを取り上げ、

近代以前の日本の詩史に、このような題材を扱った詩が他にないという指摘にも感心しました。

 

最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』成立の背景についても大岡の見解はおもしろいものでした。

藤原氏の摂関政治では後宮の女性の地位が高まり、女性の使う仮名文字で書かれた和歌が表舞台に現れたと言うのです。

僕は必ずしもこの大岡の見方に全面的に賛成ではありませんが、

中国文化の影響を脱した日本独自の文化が、女性的なものであったことは強調しておきたいところです。

 

大岡の和歌についての解釈も非常に勉強になりました。

和歌は「人の声に合わせ応じる」という意味があり、

「相手と調子を合わせて唱和し、調和し合うことが、和歌という語の根本的な意味でした」と述べています。

和歌には「調和」を引き出す感応力があり、超自然的な恐るべき存在までやわらげ、人間化する力があると信じられていたのです。

 

それ以上におもしろいのは、和歌が実用的なものとして発展したということです。

貴族の男性が出世を求めて有力者の娘と結婚をするためには、恋の和歌が重要になります。

和歌は相手の心を捉え、説得するための実用的な手段であって、必ずしも詩的才能の見せ場ではなかったのです。

和歌の感覚的洗練も実用的な意味において成立している、とも述べます。

大岡はこの見解は一般的ではないとことわっていますが、非常に重要な指摘だと思います。

特に日本の短詩系と西洋近代詩を短絡的に接続する教養不足の人が増えている昨今では、

このような見解はもっと紹介されるべきでしょう。

 

また次のような指摘も重く受け止めておきたいものです。

 

詩というものが、手とり足とりで指導されうるものだということは、西欧の人々の常識にはないことですが、和歌、そしてその派生形態であり、全く別種の詩的表現として自立した俳諧という、日本を代表する二種類の伝統的詩形式においては、むしろこのやり方が正統的であり、実際、千年にわたってその有効性が確かめられ続けてきたのです。

 

近頃は結社の指導を嫌った若手俳人の一部が、端的に未熟でしかない俳句を平気で書籍化し、

僕がその未熟さをレビューで指摘すると「逆恨み」をして嫌がらせをしてくるのですが、

いくら教養がないからといって自らの非常識を反省しない態度は目に余りますし、

俳句界がそういう連中を甘やかしているのも何百年の歴史に対して失礼というものです。

 

他にも日本の詩を考える上で興味深いことが多く書かれています。

和歌にしても俳句にしても、日本の抒情詩は外界の描写と内面の表現を一体化させようとしますが、

そのような迂遠な方法は、母や乳母などに強力にガードされた女性に男が恋の歌を送る時に、

自らの恋情を明らかにしにくいため、季節その他の要素で偽装する必要があった、

と大岡は言うのですが、これもなかなか独創的な説に思えます。

吉川幸次郎も書いていますが、自然と内面を一致させる詩のあり方は、

実際は漢詩の方法でもあるため、日本の政治事情によって成立したものとは考えにくいと僕は思いますが、

大岡が指摘するような事情が関係した可能性もないとは言えません。

 

平安時代は叙景と叙情との一体化が栄えたのですが、風景を純然たる風景と捉えるように変化したのが、

鎌倉時代の13世紀末から14世紀にかけて、『玉葉和歌集』『風雅和歌集』のあたりなのだそうです。

京極為兼、伏見天皇、永福門院などの歌は、自らがカメラとなって客観的に自然を写しとる態度がある、と大岡は述べます。

このあたりも勉強になりました。

 

第5回は日本の中世歌謡を取り上げています。

『梁塵秘抄』や『閑吟集』など世俗的で時にはエロい歌です。

僕は一応『閑吟集』は読んだことがあるのですが、

大岡が「肉欲肯定と現世的欲望の賛美」と書いた通りの内容でした。

今で言えばネット的とでも言うのでしょうか。

 

薄い本ですし、講演なのでわかりやすい語り口なのですが、

内容は非常に重要かつ豊かで、コストパフォーマンスを考えればものすごくお買い得な本です。

ただ、池澤夏樹の解説はまったく必要がないと断言できるほど内容が薄く、

最後は本書に名が出た自分の本の翻訳者のことを大岡と話したかった、などと自分の話で終わったのは、

本書のレベルにそぐわない人選なのが明らかで、不快でした。

天下の岩波書店が河出書房新社程度の人選をするのは如何なものかと思います。

 

 

 

『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』 (国書刊行会) ミシェル・ウエルベック 著

  • 2017.12.18 Monday
  • 21:35

『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』 (国書刊行会)

  ミシェル・ウエルベック 著

 

   ⭐⭐⭐

   ウエルベック最初の著書

 

 

ミシェル・ウエルベックは僕が新作を楽しみにしている数少ない作家の一人ですが、

彼が1994年の最初の小説『闘争領域の拡大』以前の1991年に、H・P・ラヴクラフトの本を出していたのは知りませんでした。

大学時代の友人がラヴクラフトをこよなく愛していたため、その影響でラヴクラフトは読んでいたのですが、

ウエルベックとの接点は想像もしていませんでした。

 

ウエルベックは文明に対する嫌悪をエネルギーとしてディストピアを描いてきました。

マイルドな作風の『地図と領土』でゴンクール賞を受賞してから、一躍日本でもメジャーな作家になりましたが、

もともとはラヴクラフトと同じくカルト的な作家です。

たしかに現実を題材にしながら、その世界を別の世界へと接続していく手法は、

ラヴクラフトと似ていないこともありません。

 

ウエルベックは「わたしはこの本をある種の処女小説として書いたように思える」と序文に書いていますが、

本書で描かれるラヴクラフトは、ウエルベックが描きたいラヴクラフトという印象で、

アカデミックな手つきの作家研究とは隔たりがあります。

 

あらゆる人間の渇望すべての絶対的な無意味さにここまで侵蝕され、骨まで刺し貫かれた人間は、きわめて稀だろう。宇宙は素粒子の束の間の配置に過ぎない。混沌に至る過渡的な形象。やがて混沌が勝利を収めるだろう。人類は消滅するだろう。

 

唯物論と無神論を信条とし、マゾヒズム的な悦楽に身を投じ、世界と人生に抗うラヴクラフト像は、

僕にはウエルベックの自画像に見えて仕方がありません。

その意味で本書はラヴクラフト論というより、ウエルベックのラヴクラフトに宛てたラブレターのように感じます。

(序文を書いたスティーブン・キングがウエルベックの結論や推断に不満があると書くのも当然だと思います)

 

とはいえ、ラヴクラフトの書き残したものを引用してウエルベックも自説を論証しているので、

彼の描くラヴクラフト像に説得力がないというわけではありません。

ウエルベックは、ラヴクラフトが清教徒的で慎しみ深い人間だとしながら、

人種主義者で世界全般への憎悪を抱いた特殊な人物だとします。

 

彼は生涯、人類全般への蔑視という、貴族特有の態度を貫き通し、それが個々人にたいする極度の親切さと結びついているのだ。

 

人物への興味という点では、ラヴクラフトが金銭と性欲を描くことに冷淡だったことが挙げられます。

これが世界への抵抗のわかりやすい例だとウエルベックは思っているようです。

ラヴクラフトは名声とは縁がなく死んでいったのですが、彼が「自分を売る」ことを頑固に拒んでいたことも興味深かったです。

本書に引用されたラヴクラフトの手紙を見る限り、彼の反商業主義を貫く態度は本物です。

こういう同時代的でない人物の作品を掘り起こして評価する力のある文化もまたすばらしいと思いました。

 

ラヴクラフトは結婚してニューヨークに住むのですが、

ニューヨークがラヴクラフトの作品に決定的な影響を与えたという観点は鋭いと感じました。

ニューヨーク滞在によってラヴクラフトは人種主義へと傾斜します。

人種主義が「クトゥルフ神話に登場する悪夢的存在の描写の直接的な起源である」と、

述べるウエルベックは、人種的憎悪がラヴクラフトの詩的トランス状態を引き起こした、としています。

このあたりはウエルベックらしい露悪的な発想だと感じます。

 

しかし、人種主義は単なるヘイトとしては現れません。

ラヴクラフトの小説の犠牲者になるのは、アングロサクソンの教養ある控えめな人物、つまりラヴクラフト自身の分身である、

ウエルベックはそう指摘して、そこにマゾヒズムを読み取るのです。

考えてみれば、ウエルベックも『地図と領土』の登場人物として自分自身を登場させ、殺人事件の被害者にしています。

このように、本書はラヴクラフトを知るだけでなく、ウエルベック本人をも知ることができる興味深い書物といえます。

いや、それ以上に、ウエルベックに興味がなければ特に面白くもない本かもしれません。

 

 

 

評価:
ミシェル・ウエルベック,スティーヴン・キング
国書刊行会
¥ 2,052
(2017-11-24)

『夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷) 山下 洪文 著

  • 2017.09.03 Sunday
  • 23:20

夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷)

 山下 洪文 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   時流に負けない超攻撃的精神

 

 

日本の現代詩といわれるものの多くは、思潮社と結びついて文化を形成しています。
その現代詩シーンに21世紀以後に登場した詩人たちの「ゼロ年代詩」を、
山下は若さと攻撃性を武器に徹底的に批判しています。
少々語り口が感情的なところもあって反発を感じる人もいそうですが、
その指摘は適切かつ的確で、正面からの反論は難しいのではないかと推測します。

冒頭の論考「夢と戦争」で、山下は詩のあるべき場所としての〈夢〉を考察します。
〈夢〉は主体性や能動性、倫理や道徳もない、根源的に現実と背反する〈異界〉です。
時代によって変化していく〈夢〉は、
現代では消費社会の〈夢〉として、浅田彰が賛美したスキゾフレニックなありかたをしています。
山下は「夢文学の復権」を訴え、そのために〈夢〉と戦争の回路を奪還する必要があると言います。
(僕は山下がラカン的な想像界と現実界をつなぐ象徴界を復活させたい、
ということを意図しているのだと解釈しているのですが)

山下が問題にしているのは「主体」についてです。
深層世界である〈夢〉を表層の言葉に移し変える「主体」の存在があって、
はじめて想像物が想像物となりえるからです。
「〈夢〉をそのまま言語化する試みは、必然的に失敗する」と彼は述べます。
〈夢〉の断片をつなぎ合わせて〈世界〉として現前させるに至るには、
詩人の主体と想像力がどうしても必要だからです。

 私たちは主体こそが、〈夢〉と〈言葉〉の境界に位する、創造の核心
 であると考える。
 主体は、〈夢〉の・原始の・死の領域と、〈言葉〉の・現在の・生の
 領域のあいだに漂っている。〈夢〉の世界から〈言葉〉を作り出し、
 〈言葉〉の世界から〈夢〉を作り出す。主体なくしては、〈夢〉はた
 だの幻像にすぎない。〈言葉〉はただの記号にすぎない。

このように山下は詩において主体が重要であることを強調するのですが、
残念ながら最近の詩や思想の潮流は主体を抹消することが何かアートなことでもあるような「勘違い」が横行しています。
その根底にはバブル期に代表される消費資本主義があり、
東大発の〈俗流フランス現代思想〉がそれに正当性を与えているのです。

主体の衰退はスキゾフレニックな(分裂病的)状態を招き寄せます。
山下はそのような状態に陥ったものとして、外山功雄や小笠原鳥類、岸田将幸の詩を取り上げます。
批判がなかなか痛烈なので、現代詩のファンには受け入れ難いでしょうが、
僕には山下の分析がまったくの的外れだとは感じられませんでした。

これらの詩人への考察は「言葉の近親相姦」と題された論考でさらに深められています。
外山らの詩は主体の衰退によって世界の中に溶けてしまう、と山下は言います。
世界と主体の境界が溶解した状態を「分裂病的」とするのはその通りで、
山下は「病理学的解釈にすっぽり収まるものを書いて「詩人」たりえてしまう、
この時代を告発している」と述べるのですが、「この時代」を告発したあたりは、よくぞ言ったと喝采したい文句です。

現代の病理を描けば文学であるような「勘違い」は、村上龍あたりからハッキリしてきました。
1997年に村上龍の『イン ザ・ミソスープ』が神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)と重なったことを価値として騒いだことです。
2005年に芥川賞を受賞した阿部和重『グランド・フィナーレ』には、
現実の女児殺傷事件を予見したという宣伝文句が使われていたと記憶しています。
平野啓一郎が文学的に行き詰まったあとに、2008年に『決壊』というネット時代の殺人者を扱った作品を書きましたが、
現代の病理を描くのが「ゼロ年代」文学の生き残り戦術となっていたという点で、現代詩だけの問題ではなかったと思います。

周回遅れの俳句の世界では、いま主体の抹消が「新しい」かのように喧伝されています。
その意味で、この現象は「文学」そのものの終わりを示しています。

個人的な意見を言わせてもらえるなら、この現象は商業主義を背景にしているものなので、
一般人相手の商売を軽蔑する態度にしか「文学」の生き残る道はないと思っています。
つまり現代では詩人は「売れたい」と思った時に終わるということです。
出版社と懇意な人間など信用できたものではありません。
(もちろん、大学という安全地帯に居続ける人間もダメだということです。
文学と異なる手段で食い扶持をなんとかするのが重要です)

さて、山下が批判するもうひとつの流れには、稲川方人門下の中尾太一、白鳥央堂の詩があります。
山下は彼らの詩を「模倣」として批判します。
「煉獄とドラえもん」という論考に詳しいのですが、
「彼らの詩的精神は、一九七〇年代詩の影響と、アニメ、マンガ、流行歌の模倣によって成り立っている。
それらを総合する主体が欠落しているため、彼らの詩はついに、風俗の記録以上のものになりえない」
その風俗も「ただ「空」の上で享受するだけ」だと山下が言うのは、
彼らが消費者というメタな立ち位置から商品(山下の言う「風俗的断片」)を眺める感覚で「抒情」を垂れ流すからでしょうか。

 軽く、やわらかく、優しいファシズム。彼らの「詩」は、そのイデオロ
 ギー的反映である。意味も思想も結ばないゼロ年代詩は、〈権力〉が拡
 散し、〈世界〉が均質化し、一切が分散された現代状況のうつしである。

なかなかに辛辣です。
批判をやるならこのくらいやった方がいいですし、
批判された方も山下が無名だからとスルーするのではなく、正面からの反論をしてほしいものです。
山下はさらに蜂飼耳や和合亮一の批判を書いています。
正直に言えば、僕は蜂飼への批判は一読してあまりよく理解できませんでした。
和合亮一への批判に関しては、これもよくぞ言ったという気持ちで読みました。
前述した主体の抹消に正当性を与えている〈俗流フランス現代思想〉は、
根底にユダヤ的要素が強く、その意味で「大戦の被害者」という立場を利用している面があります。
(フランス自体もナチスの被害者という立場にありました)
和合の発言の根底にあるのも同じ被害者的立場の絶対化で、僕は当時から本当に不快でした。
(和合の詩を『苦海浄土』と比較してみればよくわかることです)
山下はふれていないので、これは僕自身の意見ですが、
和合が感情的に「フクシマ」を連発することで、原発事故が福島県民だけの問題に矮小化され、
責任ある各団体にとって、これ以上ない手助けとなったことを誰か指摘すべきではないでしょうか。
(風向きさえ悪ければ、東京の人々だって避難せざるをえなかったかもしれないのです)
結果いまだ原発は日本国民全体にとって深刻なイシューになっていません。

僕は本書を遠出した大きな書店でたまたま見つけるまで全く知りませんでした。
若書きのため言葉遣いに乱暴さはありますが、
現代の大問題と言うべき「主体の抹消」に異議を唱えた人は本当に貴重なので、
日本が山下の言う「優しいファシズム」でないのなら、もう少し読まれてもいい本だと思います。

 

 

 

評価:
山下 洪文
未知谷
¥ 5,348
(2016-10-01)
コメント:『夢と戦争―「ゼロ年代詩」批判序説』 (未知谷) 山下 洪文 著

『頼山陽とその時代(上)』 (ちくま学芸文庫) 中村 真一郎 著

  • 2017.07.16 Sunday
  • 21:56

『頼山陽とその時代(上)』  (ちくま学芸文庫)

  中村 真一郎 著 

 

   ⭐⭐⭐

   頼山陽を忘れるくらい周辺人物の研究が濃密

 

 

頼山陽は師匠の菅茶山とともに江戸時代を代表する漢詩人として有名です。
漢詩にお堅いイメージを抱いていたので、山陽は学者然とした真面目な人物だろうと想像していました。
岩波文庫の『頼山陽詩選』では彼の代表作には親しめるのですが、
その為人を知るには巻末の年表しかなく、淡々と記された波乱の生涯とのギャップが埋められずに困りました。
そこで僕は頼山陽の生涯やその周辺人物について詳しく書かれている本書に手を伸ばしたのです。

著者の中村真一郎は福永武彦、加藤周一らと「マチネ・ポエティック」を結成した作家ですが、
彼自身が神経症に悩まされていた経験から、
頼山陽の破天荒な生涯が彼の精神的「病気」によるものと考えるようになったようです。

山陽は精神的にどこか異常であって、そのため急に行方をくらましたり、
遊蕩にふけったりして、事件を引き起こしたりします。
中村は山陽の放蕩を「精神の自由」の現れだと解釈しています。

 放蕩はたしかに、京都の自由な生活の現れのひとつであった。
 それは内面的な自由を獲得するための生き方から、必然的に
 導き出されて来たものだった。放蕩は、彼を縛る古い因習と
 厄介な病気からの解放のための手段だった。

江馬細香をはじめとする女弟子との交際に関しても、
中村は男女の対等な関係という「精神の自由」の現れだと述べています。
僕は江戸時代の性関係は相当に自由だったと思っているので、
山陽の女癖の悪さに「精神の自由」という高尚な解釈を持ち出すのはがんばりすぎに思えましたが、
素行の悪さを含めて山陽の魅力であるというのはわかる気がします。

実は山陽の生涯を扱った第一部は上巻全体の3分の1以下でしかありません。
それから山陽の父である頼春水とその知友について、漢詩作品を紹介しつつ述べられます。
菅茶山についても触れますが、わりとあっさりしています。
そのあとは叔父である頼杏坪について、それから山陽の子供達について述べられます。
山陽の三男鴨涯は三樹三郎ともいい、安政の大獄で死罪になっています。
この辺りの記述もボリューム感があるのですが、まだ頼山陽の一族なのでなんとかなります。

次に山陽の友人について長々と書かれます。
ここで森鴎外の晩年の作品にも描かれた北条霞亭が登場するのですが、
この霞亭と山陽の関係については非常に面白く感じました。
特に霞亭が優柔不断だという中村の分析が非常に的確な感じで楽しめました。
(それでも『渋江抽斎』が苦しかった僕には鴎外の『北条霞亭』を読む勇気はありませんが)
しかし、それ以外の友人は聞いたことのない人物ばかりで、
興味を持つのも苦しく読み進むのが遅くなっていきました。

そのあとは京坂の儒学者たちについて書かれています。
関西人の山陽は江戸っ子気質だったためか彼らと敵対するようになります。
勤勉なことに中村は彼らに対しても筆を惜しむことなく長々記述します。

僕はようやく上巻を終えたところですが、
もはや頼山陽がどこか遠くにいってしまった感じがします。
本書自体が神経症的な緻密さを持っていると感じました。
周辺人物へのこれだけ執拗な記述というのは、ちょっと類書が思いつきません。
すごい仕事だとは思いますが、完読主義の人間にとってはかなり厳しい本です。
下巻は江戸の学者や弟子たち、そのあとに山陽の作品に触れるようです。
最後に山陽に戻るまでがんばって読みきろうと思います。

 

 

 

評価:
中村 真一郎
筑摩書房
¥ 1,620
(2017-03-08)
コメント:『頼山陽とその時代(上)』 (ちくま学芸文庫) 中村 真一郎 著

『日本語全史』 (ちくま新書) 沖森 卓也 著

  • 2017.05.11 Thursday
  • 23:09

『日本語全史』  (ちくま新書)

  沖森 卓也 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   古代から近代までの日本語の変遷を網羅

 

 

言葉は生き物だ、と言われたりしますが、
時を経るにつけ言葉は変化していきます。
僕たちが使っている日本語も時代によって変化を遂げているのですが、
その変遷の過程を一冊にまとめた労作です。

古代の前後期、中世の前後期、近世、近代と時代を分けて、
それぞれの時期に見られた言葉の変化を綴っていくのですが、
日本語の歴史研究になるため内容が専門的になるのは避けられません。
できればある程度古語に対する知識があった方が読みやすいでしょう。

たとえば古代では音韻の問題が重要になってきますが、
橋本進吉によると万葉仮名には甲類と乙類の使い分けがあって、
イ段乙類などという発音のあり方が示されたりします。
こういう専門的な話を数ページに圧縮するので、
この一冊ですべてを理解するのは難しいと思います。

それでも専門的な内容をここまでコンパクトにまとめきったことには驚嘆しました。
これだけの内容を新書にしてしまうことも贅沢に感じますが、
時系列に沿って必要な部分を適切に整理できるのは、
沖森の確かな学識あってのことだと思います。

〈たり→たる→た〉
〈まゐらする→まらする→まっする・まいする→まする→ます〉
などの変化を追いかけて楽しむのもいいと思います。

僕が面白く思ったのは、
格助詞「に」に動詞「あり」がついて成立した断定の助動詞「なり」が、
〈にてある→である→であ→ぢゃ〉
と変化したというところでした。
漫画などで老人キャラが「〜じゃ」と話すパターンはよくありますが、
断定の「ぢゃ」というのは歴史的な日本語だったんですね。

普段なにげなく使っている日本語ですが、
本書によって思わぬ発見や再認識があるかもしれません。

 

 

 

『感情化する社会』 (太田出版) 大塚 英志 著

  • 2016.12.18 Sunday
  • 09:17

『感情化する社会』 (太田出版)

  大塚 英志 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   再帰のループに落ち込んだ現代に挑む書評

 

 

本書の題名にある「感情化」とは、「感情」しか通じない関係性のことです。
大塚は現代は「感情」以外のコミュニケーションを忌避していると言います。

第一章では天皇の生前退位の「お気持ち」への「共感」を取り上げ、
象徴天皇制が「感情労働」として成立していることに言及しています。
大塚は天皇の感情の露出に国民の多くが「共感」する事態を「感情化」の進行と捉え、
「感情化」の外に立つ批評の重要性を諭すように語ります。

大塚は天皇の発言が象徴天皇制を「共感」や「感情」の問題として提起していることを問題視していますが、
僕は天皇制の本質はむしろ身体性を伴う「共感」にあると思っています。
(大塚は認識できていませんが、「身体性」というのがポイントです。
天皇の退位が身体的衰えを問題にしているから高い「共感」を得たのです)
大塚も僕と同じく天皇制を卒業した方がいいと思っているようなので、
彼の批評の方向性を批判する気はありませんが、
大塚には自分の依拠する時代(戦後的近代?)を肯定する思いが強く、
根本的な日本批判を回避している面で批評に甘さが感じられます。
単に昔より悪くなったという話では、世代間対立に終わるだけです。

大塚は戦後日本には理性が生きていたと思っているようですが、
そうではなく、戦時体制への嫌悪が「共感」として国民に刻み込まれていただけで、
いつだって日本は「共感」で動いている国なのです。

第二章はweb上に無償でアップされるコンテンツが、
プラットフォームを提供する側に「搾取」されていると指摘します。
たとえば、本レビューによる収益がAmazonに持って行かれるということです。
面白い指摘ではあるのですが、僕にはオタク的な視点としか思えませんでした。

人間は金銭のためにだけ仕事をするわけではありません。
社会的承認や権力を求めて仕事をする面も大きいわけです。
(大金持ちはみんな働かないかといえばそうでもありません)
後者だけを求めて仕事をする人がいるならば、金銭の支払いは不要です。
それが搾取されたとして、それほど文句はないはずです。
それより重要なのは対価を求めて行った労働の支払いが不足していることや、
対価以上の労働を強要されているケースの方ではないでしょうか。

大塚の社会的な議論はナイーブすぎる印象があって、
それほど感心するところはないのですが、
第二部の文学に関する批評は非常に面白くすぐれた内容だと感じました。

第三章は「スクールカースト文学論」と名づけられ、
朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』と大江健三郎の『セヴンティーン』を読み比べます。
スクールカーストという言葉には馴染みがなかったのですが、
学校(クラス)の中での階層を意味するようです。
ここで大塚はライトノベルを含む最近の文学が、
現実の容認、制度や体制を疑うことなく受容している態度を指摘します。
松村涼哉『ただ、それだけでよかったんです』で描かれる敗者が勝者に承認されるというラストを、
オバマ大統領の広島訪問を重ねることで、
「敗者の文学」の死を語る批評的な手つきは見事です。

第四章ではLINEなどのweb上の書式が文学に与える影響を考察します。
大塚は近代小説的な文体や描写が姿を消して、「語り」だけが前景化する流れを指摘し、
そこからAIが語る文学というものを考えます。

第五章は前章の流れを受けて「文学の口承化」を取り上げます。
前々から大塚は「近代文学のやり直し」について語ってきましたが、
「口承化」もそのような文脈で考えられています。

 いま「文学」では、口承化、集合化という前近代への回帰と「言
 文一致」という近代への再帰が同時に表裏の現象として起きてい
 る。「文学」を考えるうえでも「web」を考えるうえでも重要なの
 は、このような歴史のやり直しへの認識である。

こう指摘した後、大塚は柳田国男の「ハナシ」と「語り」の区別に触れ、
「ハナシ」の技術を脱社会的な「私」の自動生成ツールに用いたことが、
近代文学の錯誤だったと主張します。

第六章では小説にサプリメントのような実用的な情報が求められる現状を見据えて、
そんな「情報化」した文学を「機能性文学」と呼んでいます。
その変化は「社会」をラノベ的な「セカイ」へと変えると大塚は言います。

おもしろいのは、「情報化」において不要な「自我の発露」であるような文学的描写が、
神戸児童殺傷事件の元少年Aの『絶歌』に見られるという指摘です。

 「文学」における「文体」の消滅傾向がかりにあるならば、そう
 いう素養を持った人間といわゆる「文学」が出会いにくくなって
 しまったからではないか。具体的には犯罪を犯すかわりに文学を
 書く、という種類の人間が文学に入ってきにくい状況が生まれた。

大塚はその結果が文学の健全化に現れていると言います。
「ゲーム的リアリズム」や「セカイ」系と安倍的「愛国」の親和性についても触れています。

第七章では村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を批判します。
以前の大塚は村上に対してはかなり親近感を持っていて、
個人的には見る目がないと思っていたのですが、
最近はすっかり「目が覚めた」ようです。
大塚はこの作品の深奥に歴史修正主義があることを見事に読み解いています。
村上は百田尚樹と同類だと述べているのは痛快でした。

第八章はふたたびAIが書く小説について考えています。
そして「「近代文学」を支えた作者も読者も批評も編集も、もう本質的には死んでいる」
と書く大塚は「感情」がAIに代行される社会を夢想し、「心地良い」と結びます。

あとがきで「この国の「現在」にすっかり関心を失くしていたぼく」と書かれているように、
大塚は「現在」に絶望しているようです。
そのためか本書にはどこかニヒリスティックな雰囲気が漂っています。

もともと大塚はオタク的な文化の側に立っている人で、
「ゲーム的リアリズム」を評価した東浩紀と一緒に仕事をしていましたし、
前述したように村上春樹にも親近感を持っていました。
しかし本書を読むと大塚は以前支持していたものに対して批判的になっています。
かつての大塚の認識がどこか甘かったことになると思うのですが、
そのあたりのことに大塚はきちんと向き合っていません。
大塚が日本の「現在」に関心を失っているのは、
かつての自分と向き合うことを避けるためではないかと僕は疑っています。
できることなら、オタク文化に対する自身のスタンスの変化について説明し、
責任をきちんと果たすことが「感情化」に抗する態度ではないでしょうか。
「現在」に関心を失ったなら、「批評」を語るのもやめるべきだと思います。

 

 

 

評価:
大塚英志
太田出版
¥ 1,620
(2016-09-30)

『日本文法体系』 (ちくま新書) 藤井 貞和 著

  • 2016.12.06 Tuesday
  • 21:59

『日本文法体系』 (ちくま新書)

  藤井 貞和 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   古典文法の新たな視野

 

 

僕は長らく藤井貞和の詩人としての顔しか知りませんでしたが、
数年前から古典文学の研究者としても注目するようになりました。
本書は藤井流の古典文法が文法書のような体裁でまとめられていて、
学校で習う古典文法との比較がしやすいようになっています。

メインは助動辞(助動詞)の解釈に置かれています。
藤井はkrsmの4音を軸に据えて立体的に助動辞を捉えます。(帯の図を参照のこと)
krsmは「き」「り」「し」「む」に対応し、そこから音韻的に助動辞の構成を考えるのが藤井の特徴です。
たとえば「き」と「り」の融合で「けり」が、「き」と「む」の融合で「けむ」が生まれるという具合です。
音韻変化の可能性から考えるのか詩人らしい着眼点だと感じました。

藤井の説はたいへん刺激的で、首肯できるところが多いのはもちろん、
これまでの文法で腑に落ちなかったところを説明できることもありました。
個人的に感心したのは、
反実仮想といわれる助動辞「まし」が過去の「き」の類縁にあるという指摘です。
たしかに両者の活用を並べてみると似ているんですが、まったく考えもしませんでした。

他にも助動辞「き」と動詞「来」、助動辞「けり(動詞「来り」から発展)の元は同一語だったとか、
「ななり」「あなり」の伝聞推定「なり」は「なりなり」「ありなり」と終止形接続するとか、
過去の助動辞「き」と「けり」、完了の助動辞「ぬ」と「つ」の違いなど、
徹底して考え抜かれていて非常に参考になります。

藤井の説が学校文法として採用されることは難しいと思いますが、
文法というものは後付けで作られたものであり、
固定化するべきものではなく、日々別の道も模索されるべきものだということを、
本書を読んで思い起こすことは重要なことだと思います。

 

 

 

『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』 (みすず書房) フランコ・モレッティ 著

  • 2016.11.23 Wednesday
  • 21:51

『遠読  〈世界文学システム〉への挑戦』 (みすず書房)

 フランコ・モレッティ 著 

 

   ⭐⭐

   システムとして世界文学を捉えることに新たな可能性はあるか?

 

 

モレッティは資本主義と同様に、世界中の文学をただ一つのシステムとして考えようとしています。
そこで、正典(カノン)という少数の重要な作品の精読に代わり、
イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論をモデルにした
「遠読(distant reading)」という形式パターンと統計による分析を提唱します。
そこにはダーウィンの進化論の発想も影響しています。

 文学システムにおいて周辺に属する文化(つまり、ヨーロッパ
 内外のほぼすべての文化)では、近代小説は当初、自発的に発
 展したのではなく、西欧(通例フランスかイギリス)の形式の
 影響と地域独特の材料との妥協から生まれたのだ。

このように述べるモレッティは、世界文学は西欧の形式が周辺に伝播し、
その地域の要素との「妥協」により多様なヴァージョンを生み出したが、
その元々はルーシーよろしく唯一の起源をフランスかイギリスに持つと考えているようです。

このような考え方に西洋中心主義を感じ取って批判する方もいるようですが、
こと近代文学(それも小説)だけを考えるならば、暴論ともいえない気がします。
重要なのは世界文学システムと「遠読」という方法から、どのような興味深い研究ができるかという点だと思います。

本書にはその具体的な実践例も収録されています。
コナン・ドイルの時代の探偵小説を系図にして分析したものや、
ハリウッド映画が世界でどう受容されているかをジャンル別に考察したものや、
1740年から1850年までの英国小説の七千タイトルを省察したものや、
『ハムレット』や『紅楼夢』の登場人物関係(ネットワーク)を分析したものなど、
なるほど多岐にわたって新奇な研究がなされています。

実際に読んだ感想はひとそれぞれあるのかもしれませんが、
僕にとってはひとつとして刺激的な論はありませんでした。

コンピュータを使ったデータ処理となれば、安直に統計に走るわけですが、
モレッティの研究はそれ以上のものを引き出せていません。
統計によって新たな視点や問題が浮かび上がるならまだしも、
単に統計分析をするとこうなりました、ということにしかなっていないのです。

タイトルの統計分析といっても長さなどの形式面が対象なので、
浮かび上がってくる問題は他愛のないものですし、
『ハムレット』の人物ネットワークの図など、Googleのページランクを応用したような感じですし、
要するに他の分野で用いる方法を文学に持ち込んだだけという弱点をモロに露呈したままなのです。

本書で僕が一番感心したのは、
最初に納められた「近代ヨーロッパ文学」という論考でした。
ヨーロッパ文学が統一と分裂の両面を持ちながら、
亡命文学や帝国主義を通して進化論的に発展するさまを描いているのですが、

  大衆文学とモダニズムは、ある種の協定を結んでいたのでは
  ないか? 分業の黙契のようなものを? 後者が抽象の領域
  へと参入し、キャラクターを分解してついには消失させてし
  まうのに対し(ムージルの「男のない特性」)、前者は擬人化
  された信仰を強化し、亡霊やら火星人やら吸血鬼やら世紀の
  犯罪者やらで世界中をいっぱいにする。

という記述にはひざを打ちました。
(ムージルの「男のない特性」は「特性のない男」の誤植ですかね?)

世界文学の研究に統計学的アプローチが有効でないとは言いきれませんが、
現状のモレッティの研究からは有効性はあまり感じられませんでした。

 

 

 

『ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』 (中公新書) 寺尾 隆吉 著

  • 2016.11.23 Wednesday
  • 15:50

『ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』  (中公新書)

 寺尾 隆吉 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   南米文学の入門書にはとどまらない

 

 

本書はラテンアメリカ文学史と呼ぶにふさわしい内容です。
専門的な視野で19世紀後半から現在までのラテンアメリカ文学の歴史をさらっています。
僕が今年読んだ新書の中では情報量と密度と誠意において最高評価を与えられます。

専門書にも負けないしっかりした内容なので、
僕が読んだことのある作家(ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ガルシア・マルケス、
カルロス・フエンテス、バルガス・ジョサ、ホセ・ドノソなど)が登場するまでは、
新たな事実や聞き慣れない作家が次々に現れるので、
なかなか読み進むのに苦労しました。
彼らに馴染みがある人は第3章から読むと楽かもしれません。

我が国と同じく、ラテンアメリカでも文学は近代化もしくは近代国家の形成と関係して発展し、
70年代をピークに近代化完成期の80年代以降は行き詰まりを見せるのですが、
その流れが新書サイズで見事に描き出されていました。
メキシコ革命やキューバ革命が文学に与えた影響についても、
政治的視点が強くなりすぎない筆致で本書のボリュームに合っているように思えます。

第1章の流れを紹介します。
ラテンアメリカでは「アルカディア」と呼ばれる首都在住の特権文化階層が出版を独占していました。
彼らは体制的な詩人を重視し、小説は低い地位に置かれ、検閲も行っていました。
閉鎖的で排他的なサロンであるアルカディアに反発したのが、アヴァンギャルドと地方主義小説です。
地方主義小説の成功作であるホセ・エウスタシオ・リベラの『渦』は、
辺境地帯の実態と不正の告発という政治色の強い内容で、
国家主導の知識人を読者としたため、アルカディアの支配に終止符を打ちました。

その後、ラテンアメリカ全体で小説が国益にかなうものと見られ、
政治と小説が結びつきを深めていきます。
その最たる例がメキシコ革命小説です。
メキシコ革命を題材にした小説を、その内容が批判的であれ、政府は庇護の対象としました。
それが小説の発展に大きく寄与したのです。

このように初期のラテンアメリカ文学はリアリズムを基盤としていたと寺尾は述べます。
社会告発というメッセージの伝達を重視した小説は、しだいに画一化するようになり、
いよいよ次のステージへと移行するわけです。

第2章では1940年以降の魔術的リアリズム、アルゼンチン幻想文学、メキシコのアイデンティティ探求文学が語られます。
ヨーロッパで認められたアレホ・カルペンティエールや、
雑誌「スール」で活躍したボルヘスやビオイ・カサーレスが登場します。

第3、4章は前述したガルシア・マルケスやバルガス・ジョサのノーベル賞コンビなど、
ラテンアメリカ文学のブームが描かれます。
ブームの誕生にフエンテスのヨーロッパへの売り込みがどのような役割を果たしたか、
スペイン語圏の文学として彼らがバルセロナに進出するのにエージェントの力があったことなど、
各作家のキャラクターを含めて興味深い話が目白押しです。
中でもキューバ革命との関係は僕はこれまでよく知りませんでした。

第5、6章はブーム以後のラテンアメリカ文学についてです。
ベストセラーが生まれる一方、内容は停滞したものとなっていくことが、
寺尾の短く的確な説明で理解しやすくなっています。
ラストはロベルト・ボラーニョの登場で締めくくられています。

僕は現在フエンテスの『テラ・ノストラ』を読んでいる途中なのですが、
本書のおかげで他に読みたい小説がわんさか出てしまいました。
寺尾は僕と同世代ですが、メキシコ、コロンビア、ベネズエラなどで6年も研究してきただけあって、
しっかりした研究に裏打ちされた良書でした。
新書にしてしまったのがもったいないような気さえします。

 

 

 

『日記で読む日本文化史』 (平凡社新書) 鈴木 貞美 著

  • 2016.11.06 Sunday
  • 22:19

『日記で読む日本文化史』 (平凡社新書)

  鈴木 貞美 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   「日記」ジャンルの包括的見直しへ

 

 

古代から現代に及ぶ「日記」の文化史を整理するというだけで気が遠くなる作業ですが、
それを新書一冊で成し遂げようという驚嘆すべき本です。
鈴木が「随筆」ジャンルを研究した鴨長明: 自由のこころ (ちくま新書)と併読するのも面白いと思います。

平安時代の日記と言われる作品(『蜻蛉日記』や『更級日記』など)が、
どう考えても他人が読むことを前提とした読み物でしかないのに、
「日記」と呼ばれているのはどうしてなのか、
僕自身はその答を求めて本書を手に取りました。

鈴木の著作は尋常でない情報量がある上に、羅列的な記述になっているため、
彼自身の見解や問題意識にまで注意を向けるのには苦労がありますが、
平安時代の女房による「日記」というものについて、
「そもそも、当時、それらを一括りにする意識は生じていなかった。
「日記文学」として書かれたものではなく、言い換えれば、ノン・ジャンルだった」
と整理しています。

『紫式部日記』は断片的な記録という色彩が強かったり、
『蜻蛉日記』や『更級日記』は作者が自分の半生を物語形式で示したものだったり、
『和泉式部日記』が自分の恋情の純粋さを客観的視点から訴えたものだったり、
我々が「日記」と把握してすませてきたものの内実を考えるのに役立つ見解にあふれています。

そこから中世の紀行文、さらには江戸時代の旅日記と暮らしの日記をたどります。
マイナーと思われる作品であろうと手抜きなしで紹介していくので、
僕の教養レベルでは一読で内容を頭に入れるのは無理だとあきらめました。

明治以後も数々の日記が紹介されるのですが、
興味深かったのは正岡子規の俳句雑誌『ホトトギス』の「週間日記」や「一日記事」の部分です。

「週間日記」と「一日記事」は『ホトトギス』の読者投稿コーナーなのですが、
鈴木はそれを知識層や庶民層などに分け、その文体や語尾について分析しています。
アカデミックな文学研究では雑誌投稿欄の研究がされることはあるのですが、
このような新書の数ページの記述に使われるには労力と釣り合っていないと感じたのです。
(実際、鈴木はあとがきでこの研究に3年以上かかかったと書いています)
なんというか、気前が良いとしか言いようがありません。

本書の最後では古典ジャンルとして「日記文学」が成立した経緯について述べられています。
池田亀鑑らが同時代の「心境小説」の感覚で古典をまとめた結果、
「日記文学」というジャンルが成立したようなのです。
そのような不確かなジャンルの固定化に勤しむのではなく、
ジャンルの見直しに至るような研究が待たれます。

 

 

 

『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』 (光文社新書) 川村 湊 著

  • 2016.10.13 Thursday
  • 22:07

『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』 (光文社新書)

  川村 湊 著 

 

     ⭐⭐⭐⭐

   「現状では難しい」が川村の評価

 

 

村上春樹がノーベル文学賞を受賞するかどうか、
最近は毎年のようにマスコミが大騒ぎしています。
川村はあとがきで「日頃、文学のことなど何の関心も持たないようなマスコミが、
この時だけ隊列を組んで、報道合戦を繰り広げる」ことを、
「ノーベル賞狂騒曲」と表現し、「目に余る」としています。

「ノーベル賞のことを知らずして騒ぎ立てるマスコミ人があまりにも多い」
というのは、川村だけでなく「世界文学」を愛する人々の実感だと思います。
大江健三郎が候補だと言われていた時はこれほど騒いでいませんでした。
村上春樹だけ大騒ぎするのは、春樹ファン=文学ファンではないことを証明しています。
実際、僕の周囲の春樹ファンは重厚なノーベル文学賞作品など読んでいません。

本書でも触れていますが、
柄谷行人は最近亡くなった津島佑子がノーベル文学賞候補だったと言っています。
(もちろん、それが事実かどうか保証はありませんが、それは村上春樹も同じです)
川村は石牟礼道子の可能性にも触れています。(個人的には翻訳の問題で難しいと思いますが)
しかしマスコミは「文学」を読まない人でも読む作家でしか騒がないのです。
(これがノーベル文学賞への冒涜にあたることにも無自覚なのでしょう)

その意味で川村が本書を執筆した動機は理解できます。
ノーベル文学賞で騒ぐなら「世界文学」をもっと知ってほしいという気持ちがあるのでしょう。

書名を見たときに「また村上春樹に乗っかって商売してる奴がいる」と感じましたが、
内容のほとんどは過去のノーベル文学賞作家や作品の紹介と選考の裏事情です。
実際は「ノーベル文学賞」という書名で出すべき内容だと思いますが、
どうせ出版社が村上春樹の名前を使いたがったのでしょうね。
(文芸評論家という仕事はもはや村上春樹におんぶしないと仕事がないこともわかりました)

川村はさすがに世界文学をひろく読んでいます。
過去のノーベル文学賞はもちろん、
これから受賞する可能性がある各地域の著名作家への目配りもしっかりしています。
高行健(ガオ・シンジェン)を『霊山』でなく『ある男の聖書』で評価するあたりも納得でした。
僕の知らない作家も多く紹介されていて、「世界文学」の良質なブックガイドにもなります。
巻末のノーベル文学賞歴代受賞者年表も役立ちます。

ただ、川端康成がノーベル文学賞の重圧で自殺したという推測だけは見識を疑いました。
ノーベル賞や金メダルの重圧で自殺した学者やスポーツ選手がいたでしょうか?
川端文学において生死の境の曖昧さは疑いようのない特徴ですし、
ノーベル文学賞受賞後の映像を見ても、冷淡な川端に対し三島の方が喜んでいます。
「弔辞の名人」と言われた川端が、親しい人々のいる死の世界に惹かれていたのは自然です。
本気ではないとしても、文芸評論家ならばそのような卑俗な発言は慎むべきでしょう。

さて、書名でもある村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性についてですが、
川村は現状では難しいと思っているようです。
詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、端的に言えば社会性に乏しい内容では難しいということです。
福島原発の問題でも描けば可能性があるという感じでした。
しかし『1Q84』がロマンスに収束し、社会問題を描く力がないことを証明してしまっただけに、
その期待が現実的かといえば怪しいという気がします。
また、川村が言うように過去の受賞者の発言力が影響するなら、
大江健三郎が村上春樹を認めていないのも大きな減点になるかもしれません。

それでも川村が村上春樹に好意的な批評家であることは伝わってきます。
村上春樹に対する評価の端々に「甘さ」が感じられるからです。
同世代であるがゆえの共感があるのかもしれません。

僕は村上春樹のようなアメリカべったりの大衆的な作家が、
ヨーロッパ知識人色の強いノーベル文学賞の傾向に合うとは思えないのですが、
川村がその部分に触れないことも意図的な「甘さ」に思えました。

それにしても、内容以上に賞で評価を云々する人というのはどうにかならないのでしょうか。
自分にとって作品が素晴らしければ、それだけで価値があると思うのですが。

 

 

 

『『文藝春秋』の戦争: 戦前期リベラリズムの帰趨』 (筑摩選書) 鈴木 貞美 著

  • 2016.08.23 Tuesday
  • 07:57

『『文藝春秋』の戦争: 戦前期リベラリズムの帰趨』

  (筑摩選書)

  鈴木 貞美 著

   ⭐⭐⭐⭐

   菊池寛や『文学界』グループは戦争加担者なのか

 

 

文学者の戦争関与の問題は戦後文学史の大きな課題でした。
この問題を考える中で戦犯扱いされた作家もいます。
その評価と検証が十分であるかというと、心許ない気がするのも事実です。
本書は菊池寛と彼が創刊した『文藝春秋』が日中戦争にどのような態度をとったか、
それに加えてその周辺で影響力を持った
小林秀雄、河上徹太郎などの『文学界』グループの動向を検証します。

鈴木はすでに近代の超克について大著をものしていますので、
このあたりの文献に対する知識は膨大なものがあり、信頼できます。
はじめに菊池寛の生涯をたどりながら、
小説家としてはもちろん編集者としての目配りや人脈を描き出しています。

『文藝春秋』が戦争をどう扱ったかについても一章を割き、
時代の変化に応じていくさまが理解しやすくなっています。
南京大虐殺についての記述も色をつけずに書こうとしています。
近年の歴史修正の機運から敬遠したくなる内容ではありますが、
逃げずに資料を示して語るあたりに歴史を扱う者のプライドを感じました。

鈴木は菊池寛が軍部に引きずられるかたちで戦争関与していったことを、
菊池個人の思想に還元せず、
この時代の自由主義者の在り方全体の中で考えようとしています。
そのため、どうしても菊池の周囲や時代全体の包括的考察へと及ぶことになります。
鈴木はおそるべき情報量でそれを行っているのですが、
読者の側にも相当な負担となるので、それがわかりにくさとして感じられるかもしれません。

しかし、こういう問題はわかりやすいわけがないのです。
本書で戦中の文学者たちのどこが問題だったのかは明確に整理されていませんが、
鈴木の目的は価値判断よりも「歴史をどう見つめるか」にあるように思います。
自己都合のロマン的な歴史観ではなく、
まずは歴史をどのように見つめていくのがあるべき態度なのか、
それを自ら実践して示そうとしているように僕には感じられました。

 

 

 

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